1997.03.10〜2005.12.15更新
「しほ」といふ文字「何篇ソ」
萩原 義雄
『徒然草』第百三十六段の解釈
くすしあつしげ。故法皇の御前にさぶらひて。供御のまいりけるに。今まいり侍る供御の色々を。文字も功能も尋下されて。そらに申侍らば。本草に御覧じあはせられ侍れかし。ひとつも申あやまり侍らじと申ける時しも。六条故内府参り給て。有房つゐでに物ならひ侍らんとて。まづしほといふ文字はいづれの偏にか侍らんとゝはれたりけるに。土偏に候と申たりければ。才のほど既にあらはれにたり。いまはさばかりにて候へ床しきところなし。と申されけるに。どよみに成てまかり出にけり。
《先行の研究論文》
山田俊雄「しほといふ文字は何れの偏にか侍るらむ」(『国語と国文学』一九六六年9月)
こまつひでお「しほといふ文字はいつれのへんにか侍るらむ」(『中田祝夫博士功績記念国語学 論集』 勉誠社)
伊東玉実「『徒然草』百三十六段とその周辺」(石黒吉次郎ほか編『徒然草発掘』叢文社、一 九九一年)
池田証寿「徒然草第百三十六段の一解釈―漢字使用の実態と漢字字体規範とのずれ―」 (『国語と国文学』一九九九年七六卷五号)
山田健三「しほといふ文字は何れのへんにか侍らん―辞書生活史から―」(『国語国文』一九 九九年12月)
室町時代の『鮮嚢鈔』[三七頁]巻第一40に、
・冷然草(ツレ/\クサ)ニシホト云字ハ何篇ソト問テ。土篇ト答タルヲサハカリナル才覚トクタサレヌ。知ヌ土篇ニハ非スト。正字如何。
○是イカヽ侍ルラム。常ニハ塩ノ字ヲ用。是土篇也。乍レ去正字ヲハ鹽ト書也。注云弋占切。宿沙ヲ煮テ漁テ為也。又蝴ト書ク同字ナリ。尓雅ニハ鹹ト。シハヽユシトヨメハ不レ焼潮ノ事ニヤ。
《中国字書》にみる「しほ」文字
『大廣益會玉篇』鹽「宿沙、煮海爲也」
『太平御覽』卷第八百六十五、飲食部二十三・氷に、「書曰青州厥貢氷諞」に始まって、引用する『周禮』『記』『左傳』『説文』『廣雅』『史記』『漢書』『後漢書』『東觀漢記』『王符論』『魏志』『魏略』『呉志』『蜀志』『晉書』『宋書』『齊書』『梁書』『北齊書』『唐書』『管子』『尸子』『魯連子』『抱朴子』『金樓子』『國語』『山海經』『呂氏春秋』『春秋後語』『淮南萬畢術』『氷鐵論』『世説』『風俗通』『呉時外國傳』『晉令』『蜀王本紀』『世本』『晉太康地記』『凉州記』『益州記』『荊州記』『本草經』『崔余博徒論』『嶺表異録』といった書籍は、通字「氷」を以って引用し、『廣志』『玄晏春秋』『博物志』『梁四公子記』『凉州異物志』『笑林』といった書籍は、正字「鹽」を以って収録している。本邦でいう通字(現代の常用字)「塩」の文字は全く用いられていないことを指摘しておきたい。この文字に見るならば、篇目は「土」部ではなくして「皿」部ということになる。このなかで、『漢書』引用文に、「又曰呉東海水爲氷國用没足呉録地里志曰呉王鎚海水為氷今海氷縣是也」とあって、後に掲げた本邦古辞書『色葉字類抄』の注文引用句に合致するものである。
A「唐劉夫人(妙美)墓誌銘」
B「唐恒州行唐縣主薄崔沖墓誌銘」
C「唐湖州刺史封泰墓誌」
D「唐上柱国王玄墓誌銘」
E「大唐處士賈(文行)君之墓誌銘」に、
から、次に示す本邦古辞書の『新撰字鏡』と観智院本『類聚名義抄』に見える「〓(向+田)」の文字が検出できる。ただ、この文字が日本の文献資料として、『正倉院文書拾遺』〔国立歴史博物館刊〕の「大膳職解」に、
〓(向+田)参斗捌舛肆合
〔天平十七年十月十七日從七位下行少属贄土師連佐美万里〕
とあることを唯一確認している。
《日本古辞書》にみる「しほ」文字
奈良時代の正倉院寳物・聖武天皇『雜集』天平三(七三一)年に、
性重非無重。譏嫌尚有嫌。花中濕夲毒。刀上蜜非甜。熱来飜近火。渇急反求塩。寄語弥猴輩。莫被黐膠粘。〔王居士涅槃詩廿五首・輔賢〕
とあって、本邦文献資料において「塩」の文字が見えているのである。中国文献資料では「土」を篇の形體とした表記が見えないことは先述したことであるが、このように「土」を篇の形體にする資料は下記に引用する全てに及んでいる。その字例として、『大同類聚方』(八〇八年)巻之七に、
之保以之 味鹹久少苦久無毒塩海乃邊地中爾生流採爾無時播磨國(爾多)
とあって、「塩海の邊(の)地中に生(ず)る、採(る)に時無(し)」と注記する。また、正倉院御物「種々藥帳」一卷に、「戎塩八斤十一両并壷」藥袋類に「石塩九斤三両併鹹」「戎塩壷一口」などと見えている。近年、奈良文化財研究所が公開した「木簡字典木簡画像データベース」により「塩」文字を検索するに、二十三件が表示され、この全てが「塩」または「漂」の「土」を篇の形體にする文字表記であることが判明している。この字形を最初に用い始めたのは本邦からであろうか…。古代朝鮮半島でのこの文字の古い表記法を当に知りたいところである。
平安時代の『醫心方』(九八四年・丹波康頼撰)巻第三十・五穀部に、
塩本草云痊温无毒王毓鬼粨耶注毒氣下部撃瘡(虫食病也)傷寒々熱吐削中淡寰止心腹卒痛堅肌-骨多_食傷肺喜(コ乃ム)審(シハフキ爪)陶景注云五味之中唯此(○)不可(正夲有之)闕然以涙(浸ヒタ也)魚肉則能經及(久)不敗(ヤフレ)以沾(ウルホシ)布-帛則易致シ朽-爛所施之處各有所宜耳。
甜拾遺云五味之中以塩爲主四海之内何處无之崔禹云主毓鬼毒氣其爲(タル)用无三所三不二入一和名之保 〔日本古典全集2785A〜F〕
と記載する。字書である『新撰字鏡』は、皿部だけに
〓(向+田)鹽塩〓(叔+田)譜椙 六形皆同/又作鑠羅/又云霓摩羅也鑠者之保与膽反〔卷十一684DE〕
と、通字「〓(向+田)」を筆頭に六種の文字を収載する。
平安時代の図書寮本『類聚名義抄』(原撰本系)土部に、
漂 康頼云以浸莫肉則経久(ヤヽヒサシ)フ敗。以沽布帛。則易致於爛。五味之中以ー為王。死海之内何處無之。 シホ切 〓(向+田)鹽 于云上通下正。〔二三三CD〕
と記載している。そして、皿部は残存していないのでその内容は未審である。これを院政時代の観智院本『類聚名義抄』土部には、
〓(向+田) 鹽上通下正 漂 谷黙 シホ[平・平]和エム 〔法中68@〕
とあり、さらに鹵部(実際は、卜部中に収める)には、
譜椙 二或 〓(向+田)谷 通余占メ 鹽 〔法上100BC〕
とあり、土部では示さなかった「二の或字」そして、俗字「〓(向+田)」、通じて「余占反」で「鹽」文字を最後に記載する。次に皿部には、
鹽 亠炎通 椙今 〓(向+田)正 〓(臣人田+皿)谷〔僧中15CD〕
と記載していて、通字「鹽」。今字「椙」。正字「〓(向+田)」。俗字「〓(臣人田+皿)」と四種の文字を示している。ここで「しほ」の和訓は無いものの土部と皿部とでは、文字種、すなわち正字の取り扱いを異にしている。土部で通字扱いとした「〓(向

+田)」の文字を皿部では正字としている。これは、土部の注記「鹽上通」をそのまま書冩編纂者が誤認し、これを以て正字と認定してしまった文字意識の可能性を推定することができよう。とりわけ『名義抄』では鹵部を設けず卜部に包括していることなどからも鹵部という応答は除外されよう。この辞書編纂意識を踏まえて此処を拠り所として回答するのであれば、「しほといふ文字はいつれのへん
にか侍らむ」は皿(さら)部ともいえよう。この場合、当代の知識人には、現代人が旁(つくり)と呼称する皿部をも包括して「へん」と呼称していたのかが論点ともなることはいうまでもないが、この点は今後さらに言及していくところでもある。
鎌倉時代の前田家本及び黒川本『色葉字類抄』(三卷本)に、
漂(ヱム)[平] 同白―黒―堅―等也/余廉反者火海爲―/俗用之又乍鹽エム〔飲食門下73ウA〕
漂(ヱン) 同白―黒―堅―等也/余廉反者大海爲―/俗用之又乍鹽ヱン〔飲食門下72オF〕
と記載する。語注記の「者火」は、一字「煮」の異体字「鎚」で、「海を煮て塩を為(つく)る」と訓むところである。『伊呂波字類抄』(十卷本)には、
漂 シホ 亦乍椙 本朝事始云昔者筑前国/建賀郡有熊鰐斯人始焼漂〔卷九・飲食門152@〕
と記載し、「しほ」の文字は、『名義抄』土部が注記する「通字」を以て記載している。次に『字鏡鈔』(天文本)を見るに、土部〔132D〕に「塩」の文字、皿部〔925F〕に「鹽」の文字を標記字として収載する。鹵部には未収載である。そして、通字「〓(向+田)」の文字も何故か未収載にある。この文字の行方を考えるうえで、この途絶えは重要な観点なのである。
室町時代の『倭玉篇』(慶長十五年版)は、
鹽(ヱン)シホ 譜同上 氷同上俗 椙(コ)シホ/モロシ 〔259DE〕
と四種の文字を以て記載し、第一標記が正字、第二標記はこれは上記字書(『新撰字鏡』)にのみ収載の略字、第三標記に『宋元以來俗字譜』に用いられた「氷」の俗字、第四標記は、『名義抄』皿部でいう今字が収載されているのである。また、『落葉集』小玉篇(せばき玉篇)には、
塩(ゑん/しほ)〔地理門、十八「土・どへん」4ウD〕
塩(ゑん/しほ)〔器財門、九十五「皿・さら」15ウ@〕
とあって、標記字「塩」で「土」と「皿」の両部に同じく収載をしている。
江戸時代の『書言字考節用集』は、
鹽(シホ) 時珍カ云。黄帝ノ臣鹹沙氏初テ煮テ二海水ヲ一爲ルレ―ヲ 洗和(同)玉露 〔第七册服食六下48B〕
とあって、ただ正字「鹽」の文字と「洗和」といった義字を収載しているに留まる。
明治時代の『大言海』(大槻文彦編)には、
しほ【鹽・(塩)】和語名詞〔白穂ノ略カト云フ〕(一){潮水(ウシホ)ニテ製スル、鹹(シホハユ)キモノ、潮水ヲ沙上ニ澆(ソソ)ギテ、日ニ晒シ、凝ラセテ、漉シテ、煮テ成ル、固マリテ、白クシテ、沙ノ如シ、其他、製法、種々アリ。又山鹽(ヤマジホ)モアリ。〔其条ヲ見ヨ〕食ニ、鹹味(シホケ)ヲ与ヘ、又、肉菜ナド、貯フルニ用ヰ、又、汚穢(ケガレ)ヲ除ク効アリトス。食鹽(シヨクエン)。鹽にするトハ、鹽漬ニナス。 畩蔵。鹽を出すトハ、水ニ浸シテ、鹽氣ヲ去ル。鹽出シヲス。鹽を振撒(マ)くトハ、嫌ふ。鹽が浸(シ)むトハ、世ノ経験ヲ積ム。又ハ、所帯ジム。(二)鹽ニ漬ケタルコト。シホヅケ。 畩「しほ魚(ザカナ)しほ鱈」しほ鯖」しほ鮭」(三)鹽氣(シホケ)。鹹味。「しほアマシ」しほカラシ」しほガ利ク」*倭名抄十六18鹽梅類「白鹽、阿知之保、人常所レ食也、又有二黒鹽一、之保」*本草和名、下44米穀「鹽、之保」*古事記下(仁徳)13「號二其船一謂二枯野一、云云、茲船破壊、以燒レ鹽、取二其燒遺木一作レ琴、其音響七里、爾歌曰(長歌)「枯野(カラヌ)ヲ、志本(シホ)ニ燒キ、其(シ)ガ餘リ、琴ニ造リ、云云」。*浮世風呂(文化、三馬)二編、上「アレモ、オメヘ、前方ハ、チツト道楽ダッケガ、今デハ、鹽がしみタカ、ソレハソレハ、大人シクナッテ、ヨク稼ギマス」《2-697-4》
と収載する。
今回、改めて「しほ」の文字について補筆してみたが、通字「〓(向+田)」の文字が字書に収載されているのは、本邦史料では、『正倉院文書拾遺』〔国立歴史博物館刊〕の「大膳職解」に見え、字書にあっては平安時代の『新撰字鏡』と院政時代の『名義抄』までのようである。今後、通字「〓(向+田)」を広く、数多の文献資料に求めることになろう。そして、上記に示した字書類が、「しほ」文字を土部と皿部(卜(鹵)部は『名義抄』にのみ)とに収載することも留意したい。とりわけ、平安時代の『新撰字鏡』については、皿部にだけにこの「しほ」文字「〓(向+田)鹽塩〓(叔+田)譜椙」六形を収載していることは、中国字書の篇目に適った此の字の配置方法であって尤も注意すべきことではなかろうか。
こうしたなか、中国文字資料では、「〓(向+田)」の表記文字は見出せるが、現代日本の常用漢字「塩」の文字は、『宋元以來俗字譜』二四畫に、「正楷」の「鹽」に続き、『列女傳』〔宋刋〕『古今雜劇』〔元刋〕『太平樂府』〔元刋〕『白袍記』〔明刋〕『目蓮記』〔清刋〕『金瓶梅』〔清刋〕に「皿」が文字全体の下に位置する「氷」の文字を見出すに過ぎないこと、且つ『名義抄』土部が通字と認定する文字が「〓(向+田)」であり、俗字と認定している文字が「漂」であること、「田」から「口」への文字省画表記が、如何様に誕生していったのかを今後明らかにすることになろう。
《補遺》
中国最古の塩の産地山川省(さんせんしょう)の塩池(エンチ)の塩は、人の手を加えなくても製塩できる特徴を持っている。この貴重な財産であるが故に幾多の戦いの原因ともなった。殷=商。塩を運ぶ殷の人たちはいつしか商人と云われるようになる。諸国の高級役人として(交易の経路を抑える意味からも)召し抱えられるようになる。そして周も殷に変ってこの地を支配するようになる。
※2005.09.05 香港中文大学日本研究学科、兒島慶治さんからお問い合わせがございました『名義抄』の「しほ」文字表記の箇所を写真添付し、現時点での拠り所を説明しておきました。