2003.01.15〔国語史
江戸の笑劇『花暦八笑人』
−茶番の流行 「なんとでも鰯ツし」 ギャグとドタバタ−
 
茶番の流行
あほらしい、底の見えすいた行動を“茶番”というが、そのほんらいの意味は茶番狂言から出ている。
花暦八笑人』は、茶番をテーマにした小説である。不忍池のほとりに楽隠居をきめこんでいる酒狂亭主人の左次郎が、退屈しのぎに茶番を催そうと、能楽仲間(遊び好きのノラクラ者)に廻状を出せば、待ちあぐねたる阿波太郎、卒八、頭武六、呑七、出目助、野呂松、それに左次郎方の居候眼七がズラリ雁首を並べて、まずは口上茶番のはじまり、はじまり……
野呂「扨今朝は御使、御廻状の趣、委細、承知、仕、今晩わざ〜参上のしるし、交魚、少々お目に掛けます。先是は鯵でござります。」ト、おゐらんの人形を出し、「殊のほかあじはよいト、申事でござりますが、又中には蛸だとも申ます。」左次「ハヽア成程、これは一トしほ賞翫いたします。」野呂「そこで鱸(すずき)を一本さし上ませうとぞんじて、今朝(こんてう)とり寄まして、生洲(いけす)へ活(いけ)ておきました所が、あまり池洲を掃除致して、水をかへましたら、濁りがなくなりまして。」ト、花かんざしのすゝきを出して、「すゝきに成(なつ)て仕舞(しまひ)ました。」左次「ハヽヽヽヽ是は是は、いろ〜御叮寧に。」野呂「さてあわびを一ツぱい差上ます。」ト、手あそびのつりがねト、同じく小田原提燈を天秤にかけて出し、「此提燈に鐘を蚫と申しまする訳は、片重イと申事でござります。」(岩波文庫124p)……
 茶番は寛永から享保のころ、歌舞伎役者の楽屋における慰労会からはじまった。大部屋の俳優が交替で飲食の世話をやき、これを餅番、酒番、茶番などと称したが、ただの飲み食いでは面白くないと、いろいろな趣向をこらすようになった。宝暦ごろからは、吉原などからは、吉原などで有閑町人の遊びとして流行したが、文化・文政以降は上方の「俄」の影響をうけ、街頭に進出しての素人芝居となった。日常的環境の中にイヴェントをつくり出すという発想は、当節のアングラ芝居に似ている。
』はまさにこの段階の茶番を扱ったもので、座頭役の左次郎、居候眼七、アバタ面の阿波太郎、出っ歯の卒八、動きのにぶい野呂松、目のとび出た出目助、酒好きの呑七、水洟をたらした頭武六の計八人が、世間を茶にしようとして、人を呪わば穴二つ、案に相違の大失敗に、「石部金吉頤をはづして、にこはこと笑ふ門には福来る。」まずは一編の白眉、両国は川涼みの場を―。
 
「なんとでも鰯ツし」
 本舞台は三間のあいだ、両国橋の景色、下の方よき所に屋根舟一艘が能楽連中を乗せ、橋の上には女形に扮した卒八が、しおしおと物案じ顔でうろついているという筋書き。頃合を見はからって裸になり、緋褌一つで川へとびこむ。見物がさわぐ中を、能楽連中が張子でこしらえた魚の面をかぶって飛びこみ、追いかけるという、すべてこれ竜宮玉取りの狂言―。もっとも、卒八以外は泳げないとわかり、屋根舟には柳橋の若い衆も乗せることになった。
 さて当日、卒八は結び髪のかつらに女装。白粉はアバタかくしにこってり塗りこんだが、歯が反っているから、仲間は乗ったりそったりの大笑い。
 両国は今を盛りの涼みどき。卒八は押し強くも、姿にあらぬ柳橋を左褄のちょこちょこ歩き。付添役、すなわち卒八が飛びこんだら着物をかかえて逃げる手筈の呑七、眼七も、見るに忍びずおのずから後へ後へと引きさがれば、悪乗りの卒八は立戻って呑七の手をとり、「呑七さん、お前様寔におそい足だヨ。さア一ツ所においでと申に。」
 呑七らはいよいよ尻ごみするばかり。そのとき袖を引く者があるので、見ると卒八の母親。「かゝさんおめへどこへ行くのだ。」母親はにこにこして、茶番を見に来たという。卒八は追い返そうとするが、相手は「うんにや帰るめへ。」としがみつく。野次馬が集まってくる。呑七らが駈けつけて母親をなだめ、手を離したすきに卒八が欄干へのぼる。「ヤアコレ、卒八よ、気がちがつたか、あんまり短気だ。これさあぶねハヨウ。」と狂気のように息子の足へかじりつくのを、眼七が引離す。しめたと川へ飛びこむのを、母親は身も世もあらず眼七にしがみつき、「ナ、なぜおれがてゝ、手を、ウ、うぬが敵だ〜。」
 そうとは知らぬ舟の連中は、橋を見上げながら、出目「左次さんおめへまた、手足やからだも塗てやればよかつた。アレ見ねへ、首ばかり真ツ白で、惣身は栗色だぜ。へン爰から見ると松の木へ冬瓜がなつてるよふだ。」アバ「はぎの白きを見ると、仙人が落るから、はぎの黒きを見たら、川童が天昇でもしねへけれバいゝが。」などと悪態をついているうち、ヒラリと手すりを乗りこえ、ポンと飛びこむ橋杭の、間数も多きその中に、いつもかわらぬ間の悪さ。西瓜船が通りかかり、卒八はみごとその上にドスン。商人みなみな仰天し、「ヲ、イ女ち、ヤア〜此女アきんた、ヲ、〜毛だらけなからだ。コリヤア何だろう。」
 屋根舟の仲間はさすがに弱って、若い衆へかわりに引取りに行ってくれと頼むが、「此一ツ件は、どふもナア八、あんまり人は集ていやすし、アレ見や七、銭の出ねへもんだとおもつて、すてきに見ていやアがるぜ。あれだかねモシ、わつちらアどふもナア七、外聞不宜よふでナア六。」―と尻ごみされてしまう。
 けっきょく左次郎は、知り合いの顔ききに頼んで卒八を引取る。一同から散々悪口をいわれた卒八の負けおしみ。「いゝさ此節の事だから、こはだ好しな事を、なんとでも鰯ツし〜。」
 
 ギャグとドタバタ
 このほか八笑人の茶番は、春が飛鳥山での仇討狂言。左次郎と出目助が敵を尋ねる順礼姿で花の飛鳥山へ行き、敵に扮した阿波太郎との大立廻りのすえ、頭武六の仲裁で酒盛りという段取りだったが、肝心の頭武六が途中で店請のおやじにつかまって遅れてしまい、一方、左次郎らが斬合いをはじめたとたん、西国武士が「ヤレじゆんりあア(順礼)たち、助太刀申す。」と、だんびらかざして飛びこんでくる。三人、命かながら逃げ帰って幕。
 つぎは狂人に扮した野呂松が、向島で武士に追われ、屋形舟に跳びうつったとたん保名物狂いの姿となり、唄三昧線入りで踊り出すという趣向だったが、これも野呂松が色狂いとまちがえられて縛られ、失敗に終る。そのほか、武家屋敷での賀の祝いに招かれ、忠臣蔵五段目の茶番。あるいは花屋敷における呑七の狸の腹つづみなど、合わせて五つの笑劇が盛りこまれている。登場人物には、ほとんどモデルがいるというから、当時の茶番流行は推して知るべし。
 初編、文政三年(一八二〇)刊。二編、同四年刊、三編および追加は七年刊、四編十一年刊、その追加天保五年(一八三四)刊。ここまでが滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)の作で、五編上巻は一筆庵主人、中・下巻は与鳳亭枝成の作であり、刊行は嘉永二年(一八四九)となっている。計三百七十九丁、大きさは中本で一七・八×一一・六センチ、表紙は空色の横縞模様、左上に意匠をこらした題簽がある。本文には、直接関係のある挿絵が五十九葉あり、ほかに装飾的なカットが多数含まれている。
 全編これギャグとドタバタという内容で、それも洗練性とは程遠い。庶民的な笑いに徹しているという点では、近世の滑稽文学の中でも群を抜いている。「或人予に問て曰、彼小冊何の為に著述する哉。予ヱへンとせきばらひをしながら答へんとして行つまる。鳴呼いかにせん、勧善懲悪の趣なく、益の有無を弁ず、サアそれはヱ、ト口塞を見て、彼人高わらひしてそしりて曰、……広く愚智短才を引札(宣伝)するにひとしからずや。」と作者自身の序文にもあるように、これは諷刺その他を目的としない、純粋な笑いの文学である。しかし、見方によれば近世末期の町人階級の鬱屈したエネルギーが―茶番のようなものに生きがいを見出さざるを得ない状況が、無意識のうちに表現されているともいえる。
 今日はけふあすハ飛鳥の山越へてその日ぐらしの花に遊ばん  英潮斎筆持
 
補遺小田原提燈 図絵「連日集戯之図
    ビオン【美音】」「石部金吉
文字表記
※1、「さかなづくし【魚盡】」
卒「そこでしばらくして、ずいとうき出て、およぎはじめるとたんに、船のうちからは、連中かねて用意の、いろいろの魚盡(うをづく)を張子でこせへたやつをかぶつて、ポンポンポン飛込み飛込みおつかける。都て龍宮、玉取のまねびとなる、トいふはどうだ。」(岩波文庫144p)
眼七「ヲツトそれは承知の濱だが、魚盡(うをづく)の冠ものはどふしやう。」(岩波文庫149p)→魚辞典
※2、春過ぎて夏來にけらしきのふまで、笑ひし山の時鳥、四季節々の季違ひは、彼本丁庵の戯に、
春人(はるうはき)夏人(なつはげんきで)秋人(あきふさぎ)冬人(ふゆはいんきで)暮人(くれ はまごつき)
と、嘘字盡のうそならずとは知つゝも、呑明し遊続けし八笑人(岩波文庫120p)
江戸町人「啖呵ことば」
べらぼう(82p)じじむせへ(139p)しやらツくさい(139p)
《ことわざ》の補遺
地震雷火事爺 『太平新曲』(文政2年(1819))に、「貴様今年実に怖い事、地震神鳴火事爺・・・」『花暦八笑人』(嘉永2年(1849))に、「地神(ちじん)雷り、トいひながら酒のさかなのしほやきを見て、鰺(あじ)、親父か・・・」
《表記漢字について》
1,宛字
「わきが【狐臭】」(122p)
2,四字熟語
「不埒千萬」(112p)「迷惑至極」(112p)
《所蔵場所》
《ことば遊び》
 
東北大学付属図書館蔵・漱石文庫目録『花暦八笑人』瀧亭鯉丈作(江戸,西村屋與八、大嶋屋傳右衛門 文政7−11年 天保5年12巻12冊,和小 刊)   
 
812136 飯田 麻由美さん入力