2003.02.24入力
『葉隠』 死に物狂いの人生
近世 ⇒「喧嘩と武道」 「大地震もこわくない」 「生の実感を求めて」
「喧嘩と武道」
佐賀藩主三代の鍋島綱茂が、まだ若年で江戸住まいをしていたころ、千葉善左衛門という者を側近として、国許から呼び寄せた。しかし、このとき江戸の邸には、西二右衛門、深江六左衛門、納富九郎左衛門ほか一命の側近がいて、諸事万端を切りまわしていた。いずれも部屋住みの身分なので、数人の従者をあてがわれているだけ。馬に乗る事は許されない。
そこへ国許から善左衛門が、馬上の身分で天下ったものだから、古顔の二右衛門はおもしろくない。よくあることで、陰険ないやがらせに出た。仕事を教えないどころか、誤った手順を教えて嘲い者にする。
無念やるかたない善左衛門は、ついに復讐の腹をきめ、延宝元年(一六七三)二月一日、四人の者に「今夜咄し申す可候間、私小屋に御出候様に」と誘った。そして家に帰るや、そそくさと遺書をしたため、さて二階で待機していると、二右衛門、六左衛門、九郎左衛門ら三人がやってきた。あとの一人は所用で来られないという。客は夜通し酒盛りをして、さて夜明け方、やっとおみこしをあげた。待ちに待った機会である。善左衛門は一刀抜打ちに「覚えたか」と二右衛門の首を討ち落し、つづいて九郎左衛門を斬り伏せた。残った六左衛門はいまだに合点がいかず、「是はどうか」とためらうところを、「その方も逃がさぬ」と斬り立てられる。
このとき倒れていた九郎左衛門、「口惜い」と瀕死の力をふりしぼり、刀を横ざまに払ったので、高股を斬られた善左衛門は、どうと倒れる。得たりと六左衛門、とどめを差そうとして、ふと考えた。「我に意趣(うらみ)の覚なし。とどめを差せば意趣打に成。是は是非なく切りかかられて切捨候ものなるべし」と、深手によろめく足をふみしめて階段を降り、近所の武士の家にたどりつき、証人になってくれと頼むが断られる。やむなくもう一軒、老人の侍の家に転げ込むと、「扨々若い衆は其様にあでならず」と、検分に来てくれた。このときのうれしさは忘れられなかったと、のちに六左衛門は語っている。
けっきょく、かれと九郎左衛門には咎めがなくてすんだ。「六左衛門始終のはたらき、偏に運(武運)に叶ひたることどもにて候」と、『葉隠』の筆者は賞賛している。
「大地震もこわくない」
「葉隠」には、じつによく喧嘩の話が出てくる。徳川幕府成立いらい百年、まるで天下泰平の世に、武運をあらわす機会は私闘よりほかにはなかった。しかし、『葉隠』の語り手山本常朝は、そういう無分別(狂気、非合理性)を、武士にふさわしい精神として高く評価する。
「何其(ある者)、喧嘩打返をせぬゆへはじ(恥)に成たり。打返の仕様は踏懸て切殺さるゝ事也。是迄恥に成らざる也」。赤穂浪士の場合、仇を討つのに時間がかかりすぎた。もし仇が病死でもしたら、どうするのか。結果は問題ではない。とにかく、直に打返せ。「手延に成て(時を失って)心にたるみ出来ゆへ、大かた仕届ず。武道は卒忽なれども無二無三然る可也」
ここから「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」という、有名なテーゼが出てくる。「二つ二つの場(いずれかという場合)にて、早く死方に片付ばかり也」
死に物狂いということばがあって、日常私たちは気安く用いているが、常朝にとっては死物=死ぬ者を意味し、武士の存在証明をあらわす一語であった。「武士道は死狂ひ也・・・・本気(正気)にては大業はならず。気違に成て死狂ひする迄也。・・・・忠も孝もはいらず、士道においては死狂ひ也。此内に忠孝は自こもるべし」
切れば血の出るような、説得力のある文章ではないか。正気とは、すなわち凡俗の常識論や観念論である。そんなものをこねくりまわして、世界を動かすことはできぬ。歴史を動かしたものは、常に反理性=狂気であった。だが、いくら死狂の教祖としても、いきなり死狂いの境地に達しえないことは先刻承知である。その大前提として、彼は日常の中に死の意識をとりいれよと説く。「必死の観念、一日仕限に成べし。毎朝、身心を静め、弓・鉄砲・鑓・太刀にてずたずたに成、・・・・大地震にてゆり込れ・・・・病死・頓死の死期の心を観念し、毎朝懈怠なく死て置くべし」
なるほど、軒を出れば死人の中という覚悟があれば、大地震などこわくない。しかし、泰平に馴れた私たちに、このような“常住死”の感覚は保ちにくい。常朝とても元禄武士であるから、ここへたどりつくには、仏教的無常観の助けが必要だった。「貴となく賎となく、老となく、少となく、悟りても死、迷うても死。・・・・何もかも益にたたず、夢の中のたはぶれ也」
しかし、人は目標がなければ生きられない。常朝にとって、それは主君への奉公であった。「平口(まむし)は七度焼ても本体に返るといふ事有。我大願有り。七生迄も御家の士に生出て、本望を遂ぐ可し」
だが、その主家への思いは片思いだった。御書物役、留守居役、知行百二十五石。主君の欲しがる歌道具を公家から借り出すために奔走するなど、まさに泰平な仕事ばかり。死ぬだの生きるだのに関係はない。逆にいえば、そうした生ぬるい“飼い殺しの生”への不満が、彼をして常住死の緊張感を求めさせたといえる。
「生の実感を求めて」
「恋の至極は忍恋と見立申候。逢てからは恋のたけが低し」――『葉隠』のもう一つの名言である。至高の恋愛とは、忍ぶ恋である。逢ってしまえば、恋心の丈が低くなる。常朝の場合、対象は衆道だったようだが、肉欲中心の恋愛などおよそ彼の眼中にはない。反俗一徹の彼は、時代の品下りそのものにも限りない嫌悪を覚えていた。「諸人心懸ぬけてばかり見ゆる也。活きた面は正念なり」――当節の人間の顔はふやけている。活気のある表情は緊張した精神から生れるものだ。
これは私にも実感がある。たとえば戦争映画にしても、昨今のものは俳優も正念顔を出すことができず、みなふやけた、しまりのない顔になっている。とくに子役はごまかせない。戦時中少年期を送った私などは、思わず「ああ、ウソだ、ウソだ」と叫んでしまう。
泰平の時代には男女差のなくなることも、常朝は鋭く見抜いていた。男女の眼も脈搏も同じように成った。「扨は世が末に成、男の気おとろへ、女同前に成し事と存候」
武士がサラリーマン化し、その存在が形骸化した社会において、死の意識を媒介にして生の実感を求めた男、山本常朝。このような人物は、ふつう自己を語ろうとはしない。たまたまその心酔者田代陣基が、常朝の隠棲の血を訪れ、七年かけてその言税を記録したのが本書である。約千三百五十項目の教訓」や逸話を収めて全十一巻。題名の由来は各節あるが、忍ぶ恋に通ずる“隠し奉公”の意であろう。
写本は二十点近く残っているが、そのうち国会図書館にあるものは、もと餅木鍋島家に伝わったもの。全七冊仕立てで、各冊平均七十丁、薄茶表紙で大きさは二十五・五×十八・三センチである。
常朝は本書を火中にすべしと言い残したが、その意に反して佐賀藩のバイブルとされ、「狂死」と「奉公」ばかりが強調されてしまった。反理性が常識と受けとられたところに、本書の悲劇がある。同藩出身の大隈重信は、この本を「奇異な書」として否定した。幕末動乱の時代に育った彼にとって、一つの小さな藩への滅私奉公を説いた本などは、ナンセンスそのものであったにちがいない。
だが、人間の本質は、身近に手ごたえのあるものを求める。抽象的な観念、たとえば人類愛などというものに死狂いになることはむずかしい。とくに日本人はそうである。かつての日本人にとって、それは国家であった。いまは企業であり、マイホームであるというまでだが、それさえ虚構となったいま、『葉隠』の説く“生の証し”をどこに求めたらよいのか。
《補足》
812175 1年 松本紗苗さん入力