2003.01.15〜2006.12.11更新
男の解放区 『東海道中膝栗毛』 
―明治版の弥次喜田・二百文の女を求めて・続篇ふくめて二十一年―
 
 明治版の弥次喜田 
 
 二・六事件で暗殺された蔵相高橋是清は、十代のころ米国に渡って苦労したので、英語のは堪能だった。帰国後まだ二十歳になるまえ、当時の洋学校(開成学校)の科学教師グリフィスの求めに応じて、『東海道中膝栗毛』を口述翻訳した。「私が翻訳する時、グリフィスのそばにはいつも妹さん(後に一橋学校の先生になった人)がおって、話を聞いていられたが、なにしろ弥次郎衛、喜多八の五十三次であるから、随分卑猥な言葉もあるし妹さんの前で話しにくいこともある。そのたびごとに妹さん別室に出てもらって、翻訳したような次第であった」(『高橋是清自伝』) 
 この翻訳科、月に十円。今の物価にして十万円にもなろうか。むろん、日本研究家として後年『ミカドの帝国』帰国後の1876年に出版した『ミカドの帝国(The Mikado's Empire)』などの本を書いたグリフィス(William Elliot Griffis, (1843~1928)アメリカの牧師・東洋学者で1870~74(明治三〜七)年に日本に滞在)としては、十分ひきあう投資だったのだろう。
 是清の翻訳が完成したかどうかは、明らかでない。というのは、彼が開成学校を一年足らずで退学してしまったからで、その後官界に入るまでの数年間、英語教師などをしていた。当時明治十年のこと、ある人から牛乳事業が有望だと教えられ、長野県へ視察に赴いたが、ここに一つ弥次喜多的珍談がある。
 諏訪(すわ)のあたりで旅費の乏しくなった彼は、同行の青年と小さな宿屋へ泊まった。夕飯時になると、遊女屋で出すような朱塗の食卓が運ばれ、変な恰好をした芸者が出てきた。「こんなことではどんな目に会うかもしれぬ。金はない。早速寝よう」と、すぐ蚊帳をつるように命じたが、「客がないので倉のなかへしまって、ありません」という。
 やむなく床だけとらせると、二つ敷いたのはいいが、各々の上に枕が二つずつ並べてある。「これはけしからん。よし、そういうことをするなら考えがある」と、百目ろうそくを明るくともし、寝床の一つを暗いほうに敷かせ、余った酒をぶっかけ、それへ女を寝かし、自分たちは明るいほうへ寝た。
 案のじょう、計画は図にあたり、夜中になると、無数の蚊軍が酒の香を慕って女どもを襲撃した。哀れにも女どもは終夜輾転(てんてん)反側して眠れず、おかげで是清らは蚊にも食われず、ぐっすり眠ることができたという。
                         
 二百文の女を求めて
 
 弥次郎兵衛と喜多八(弥二、北略称)は、膝栗毛の最初一夜、戸塚で泊まろうとするが、こときの宿屋にボラれないように、一つの手を思いつく。
 弥二「コレきたや、またつせへ。はなしがあらア。なんでも道中は飯盛をすゝめてうるせへから、こゝにひとつはかりごとがある。おいらは親仁(おやぢ)なりぬしやア廿代(はたちだい)といふもんだから、親子といつても、いゝくらいだによつて、是(これ)から泊(とまり)/\では、なんと、おや子のぶんに、しよふじやアねへか〉
 飯盛撃退の妙手であるが、さて宿へおちついて酒を飲みかわしてるうちに、正体をあらわした喜多八は女中にしなだれかかる。女中は親子だと思うから相手にしない。
 北「はてさコレ、そふいはずと、そしてこんやおめへと、ちょつとナ、是がための盃(さかづき)だ。ノウとつさん」 
 弥二「せがれめは、もふよつたそふな」
 北「ナニよつたもきがつゑゝ(気のつよいことをいう)。アノ親父のつらはよ。ハヽヽヽヽヽ」
 女中は肝をつぶして逃げてしまう。なまじ親子を装ったばかりに一夜のアヴァンチュールをフイにし、ほろ酔いの酒もさめてよく考えれば、ともかく花代が浮いたのは儲(もう)けものと、  
  一筋に親子とおもふおんなより只(たゞ)二(ふた)すじの銭まうけせり
 二すじというのは二百文で、飯盛の相場だった。むろん、彼の本音としては女にありつくことができれば、二百文くらい惜しむところではない。男二人の、あてどのない遊山旅といえば、性的開放しか念頭にないのは知れている。見方によれば、東海道の宿駅全体が、こうした男の生理につけこんで繁栄した享楽ベルト地帯であったのである。
 弥次喜多という万歳コンビは、粗忽(そこつ)で、ひようきんで、好色な人物の代名詞となっているが、旅という〃脱日常的空間〃における平均的男性像が、みごとに活写されてるともいえる。そこにこの作品の生命があるわけだし、多くの読者を得た秘策があるのだ。
 小田原の宿でも、二人はさっそく女中に目をつける。
 弥二「見さつし、まんざらでもねへの」
 北「あいつ今宵ぶつてしめよふ」
弥二「ふてへことをぬかせ。おれがしめるハ」
ここで有名な、五右衛門風呂の底を抜いてしまうエピソードがあるが、省略する。弥次郎兵衛は、喜多八が風呂に入ってるすきに、女をくどいてしまう。
弥二「さつき手めへが湯へはいつてる時、げんなまでさきへおつとめ(花代)を渡しておいたから、もふ手つけの口印(こうじるし)(接吻)までやらかしておいた。なんときついもんか(えらいもんだろう)、へヽヽヽヽヽ」
くやしがった喜多八は、女中にそっと「コリヤアないしやうのことだが、あの男はおへねへ(始末にわるい)瘡かき(黴毒(ばいどく))だから、うつらぬようにしなせへ」とでまかせを言う。女はおどろいて、弥次郎兵衛との約束をすっぽかしてしまう。二百恋しや恨めしや、弥次郎兵衛が仏頂面をしているところへ、喜多八が一首。
 ごま塩のそのからき目を見よとてやおこわにかけし女うらめし
 
続篇ふくめて二十一年
 
「おこわ」とは、欺(だま)して金をとることで、ごま塩の縁語である。ヘタな狂歌だし、話も卑俗きわまりないが、あけすけで嫌味(いやみ)がない。こうした話を、生き生きした会話のテンポで読ませようとしたところに、作者の才能がある。
 十返舎一九が、その書くものに似合わず、まじめ人間だったことは式亭三馬と同じである。一人娘をある大名の側室にと乞われたとき、きっぱり拒絶しているのも固い人柄が窺(うかが)える。『膝栗毛』が当ったので、各地に取材旅行も試みたが、同行の者は「年じゅう書いてばかりいて、おもしろい話をするでもなく、あんなつまらん人はない」といっている。
 一九は千人同心の子である。下級武士に生れてうだつがあがらず、戯作(げさく)を志し、本屋の食客になり、のちに町人の家に婿入りしたという点などは、馬琴の経歴にそっくりだ。しかも、生涯の大半を費やす大作で人気を博しながら、晩年は恵まれなかった。馬琴とちがうのは、「立派なる男ぶり」で、女にもてたいということだろう。こういう男は、忠孝だの仁義だのということは口にしないものだ。
 彼はまた人生経験が豊富で、その表裏、機微に通じていた。さる大名に仕えたが、まもなく見切りをつけ、大坂に移って香道を学んだり、浄瑠璃(じょうるり)の台本を書いたりしている。その間、放蕩(ほうとう)も経験したらしい。『東海道中膝栗毛』は享和二年(一八〇二)初篇を出版、好評だったので三年かけて八篇まで書きついだ。最初は軽い珍道中もののつもりだったが、弥次喜多が作者の思惑をこえて独り歩きしてしまったため、のちにその素性と旅行の動機を描いた発端篇一巻を追補している。各巻茶表紙、一二・五×一八センチ、本文三十一〜四十三丁で、各巻に自筆の挿絵(さしえ)がある。
膝栗毛』は東海道篇が終わってもまだ人気が失せないので、金毘羅参詣(こんぴらさんけい)宮嶋参詣(みやじまさんけい)木曾街道、従木曾路善光寺道、善光寺道中上州草津温泉道中中仙道中など十二篇を出し、じつに二十一年ぶりに完結した。さすがにホットしたのか、「趣向もすでに尽きたれば、いらざる長物の譏(そし)りをおそれて」擱筆(かくひつ)するといっている。
 作者は年をとったが、登場人物はいっこう年もとらず、進歩もしてない。これはむしろ長篇漫画の主人公に似て、旅を人生観照と見る知識層の立場に対立している。そういえば、「この世をばどりやおいとません香とともにつひには灰左様なら」という彼の辞世も漫画的だ。
 
《参考資料》
作者十返舎一九(図版:十返舎一九、三代豊国、東京大学文学部国文学研究室蔵)
東海道中膝栗毛』(早稲田大学図書館藏)
 
 
 
 
 
 
 
812148 佐々木綾子さん記(補筆訂正版)