2003.01.15〜2006.12.05更新
義理一遍仮名手本忠臣蔵
古武士の面目」「男でござる」「内ゲバで上演中止」―
 
古武士の面目
西に『ハムレット』あれば、東に『忠臣蔵』あり。どんなに不入りでも、これを上演すれば必ずあたるという、芝居の独参湯(どくじんとう)である。いずれも復讐劇(ふくしゅうげき)で、哀切な恋物語を副主亜題としているのは、偶然の一致か。
ただし、『ハムレット』が個我の問題を扱っているのに対し、『忠臣蔵』は集団をテーマにしている。いかにも日本的だが、このことはしばらく措(お)くとして、現実に浪士たちの結束にあたり、集団の力学がいかに大きく作用したかを指摘したのが、江戸研究の大家・三田村鳶魚(えんぎょ)だった。彼は赤穂浪士の中でも老人組が急進派であったことに着目し、その理由を、元禄のころ古武士の精神気魄(せいしんきはく)を継承した者がすでに老人に属していたからだとする。この老人パワーが、当世風にいえばシラケ世代若者組みを鼓舞激励し、一つの集団の力として、仇討(あだう)ちという大目標に導いていったとするのである。
元禄の時代でも、すでにこのような世代の断絶があった。それでは、仇討後半世紀近く、正確には四十七年目に上演された芝居浄瑠璃(じょうるり)『仮名手本忠臣蔵』が、なぜ爆発的ともいえる大当たりをとったのだろうか。現代の感覚でいえば、昭和初年の事件を昨今になって劇化し、人気を博したようなもので、なにか特殊の原因があると見なくてはなるまい。
江戸時代の前半と後半を分けるエッポクとなったのが、元禄という時代である。貨幣経済が優位を占め、その荷ない手としての町人の思想が社会に浸透し、武士的な価値観念が崩れ去っていく―、そういう兆しの見えはじめたのが元禄である。だからこそ、古武士の面目を発揮した仇討事件が社会の耳目を聳動(しょうどう)したのだ。
その後五十年、商業資本の発達によって町人の実力が不動のものになってくると、今度は彼らの側から自分たちに相応したモラルを求めるようになる。心学の流行はその一つの表れだが、一方では理想化された形での武士道が憧憬(どうけい)の対象となった。
仮名手本忠臣蔵』は、まさにこのようなときに出現した。登場人物はみな“算用”のためでなく、“義理と人情”のために命を捨てる。武士も及ばぬ町人が出てくるかと思うと、町人の延長線上で理解しうる武士像も描かれている。すべては町人ないしは庶民のセンスによって形象化され、彼らの共感に基づいて甦(よみがえ)った新しい武士の姿なのであった。
 
男でござる
西鶴は「俗姓筋目にもかまはず、只(ただ)金銀が町人の氏系図になるぞかし」(『日本永代蔵』)と喝破した。だが、町人とて算用のためにのみ生きるものにあらずという意気ごみを示したのが、十段目の天河屋義平の挿話(そうわ)である。
三国一の大湊(おおみなと)、堺の町に天河屋義平という商人がいたが、ある日捕手に踏みこまれ、「儕(おのれ)塩冶判官(ゑんやはんぐはん)が家来大星由良ノ助に頼(たの)まれ。武具馬具を買調(かひとゝの)へ大廻し(船荷)にて鎌倉へ遣はす条。急(いそぎ)召捕(めしとり)拷問せよとの御上意。遁(のが)れぬ所じゃ腕廻せ」と詰め寄られた。
義平は「左様の覚へ聊(いさゝか)なし」といい、捕手が長持をあけようとするより早く、その上にどっかと坐りこみ、テコでも動かぬという気迫を示す。捕手は義平の一子由松(よしまつ)を人質にして、刃をその咽喉(のど)に突きつけ、「有(あり)やうに言へばよし。言はぬと忽(たちまち)世忰(せがれ)が身の上。コリャ 是(これ)を見よ」と脅す。
義平、ハッと思えば顔色一つ変えず、「ハ、、、、女童(わらべ)を責(せめ)める様に。人質(ひとじち)取(とつ)ての御詮義(せんぎ)。天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を。存(ぞん)じたとは得申さぬ」。捕手「白状せぬと一寸試し」。義平「ヲヽ面白い刻(きざま)れう。武具は勿論(もちろん)。公家武家の冠烏帽子(かんむりゑぼし)。下女小者が藁沓(わらくつ)?(まで)。買調へて売(うる)が商人(あきんど)。それ不思議迚(とて)御詮義あらば。日本に人種(ひとだね)は有(ある)まい」と言い放つや由松を奪い取り、「子にほだされぬ性根(しやうね)を見よ」と自ら絞め殺そうとする。
そのとき早く、長持の蓋(ふた)をあけて出て来たのが、意外や大星由良之助。「やれ聊尓(れうじ)せまい義平殿。暫(しば)し/\」と制し、威儀を正して義平の前に手をつき、以上のやりとりが義平の忠誠度を測る芝居であったことを告白し、非礼を詫(わ)びる。
花は桜木人は武士と申せども。いっかな/\武士も及ばぬ御所存。百万騎(ぎ)の強敵(がうてき)は防ぐとも。左程に性根は据(すは)らぬもの。……人有(ある)中にも人無(なし)と申せども。町家の中にもあれば有もの」
 捕手に扮(ふん)していた浪士の面々も、後へすさって畳に頭をすりつけ、三拝する。この場合、当時の町人がいかばかりの感動をもって見たか、想像に絶するものがあろう。
 五〜六段目の山崎街道および勘平住居の場は、彼が亡君の石碑建立名義の金を調達すべく四苦八苦し、運命のいたずらと義理人情にはさまれて切腹するという話。いささかつくりすぎてるとはいえ、死を選ばざるをえなくされる勘平の姿が、武士道の“義理一遍”を象徴し、同時にその原因が金のためであるがゆえに、町人の義理一遍と重なり合う。まことに心にくい技巧といえよう。
 
内ゲバで上演中止
「仮名」はいろは四十七文字と、四十七士をかけた言葉。「手本」は忠臣の鑑(かがみ)という意味をきかせている。「蔵」は富豪のいろは順の蔵と、大石内蔵助をかけている。義士狂言はこれが初めてではなく、討入りから十二日目に早くもキワモノが出現しており、近松も『碁盤太平記』(一七〇六)を上演した。その後、浄瑠璃や歌舞伎の分野で多数の作品が生まれているが、全体として登場人物の名を変え、時代を近世以前に仮託するというパターンが生まれている。幕府当局の干渉を避けるためだが、これがかえって自由な脚色を可能にしたという面も見逃せない。
仮名手本忠臣蔵』は、寛延元年(一七四八)八月、竹本座の初演である。作者は竹田出雲、三好松洛および並木千柳。分担執筆による十一段構成である。大序鶴が岡の段は、八幡宮造営という史実を背景に、高師直(吉良上野介)(こうのもろなお)が塩治判官高定(浅野内匠頭)の妻顔世(かおよ)を口説くという趣向を設けて、事件の発端としている。
ほかにお軽と勘平、力弥と小浪という二組の男女関係が脇筋(わきすじ)として描かれるが、とくにお軽の場合は実質的な主役級となっていることに注目せねばならない。
夫が金のために死んだのも知らず、苦界へ身を沈めたお軽が、父親とともに夫も死んだと聞かされ、「勿体(もったい)ないが父様(とゝさま)は非業(ひごう)の死でもお年(とし)の上。勘平殿は三十に成(なる)やならずに死(しぬ)るのは嘸(さぞ)悲しかろ口惜(くちおし)かろ。逢(あひ)たかったで有(あら)ふのに。なぜ逢せては下さんせぬ」と嘆く、このセリフは、極限状況におかれた女性が封建倫理をも否定しさった、ぎりぎりの人間的な
叫びであって、刃傷も仇討も低次元な事柄に堕してしまう。『忠臣蔵』全編のハイライトというにやぶさかではない。
正本は寛延元年八月刊の七行九十八丁本で、大きさ二十一・八×一五・五センチ、表紙紺色、中央に顕簽(だいせん)がある。ほかに十行七十丁本など、各種の版があり、国会図書館等で容易に見ることができる。いずれにせよ、『仮名手本忠臣蔵』は近世の庶民といわず、日本人の心情の一面を総括した名脚本である。初演当時も大当りをとったが、その後太夫と人形遣いの間に争いが起り、十一月に中止となった。すなわち、九段目山科(やましな)閑居の場で、師直邸の用心堅固な戸締りを予想した由良之助が、自邸の雪にたわんだ竹を鴨居(かもい)にはめ、その撥(は)ね返る力で戸を外すというアイデアを示す場面がある。ここで人形遣いの吉田丈三郎が「節付が合わぬ」と大夫に抗議したため紛糾を生ずることとなった。集団の和を説く『忠臣蔵』にはふさわしくない事件といえよう。
ちなみに大正初年ごろの名手吉田丈五郎(三世)は、「浄瑠璃は太夫だけの物であり、太夫が主であるよう」だが、「人形があったればこそ、浄瑠璃の檜舞台(ひのきぶたい)が保ち続けられて来」て、そこに登る太夫の格式も生れたのだと主張している。
「世の中は両方から相持ちのもたれ合い、どちらが主の従のといわないところに妙味がある」(『丈五郎芸談』一九四三)
 
《補遺》
 描かれた忠臣蔵 一力茶屋 超要約『仮名手本忠臣蔵』 
『假名手本忠臣蔵』大序 兜改め 文字で読む『仮名手本忠臣蔵』山科閑居
赤穂浪士とはいったい何者か赤穂義士
 
いろは歌の謎 いろは歌 忠臣蔵の数合わせミステリー
 
 
 
花は桜木人は武士:花のなかでも桜がもっともすぐれており、人は武士がもっともすぐれている。「花は桜木人は武士と申せども、いっかないっかな武士も及ばぬ御所存」〔浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵―一〇〕《『故事俗信ことわざ大辞典』929頁・小学館刊より》
義理一遍:「自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭(ううや)しくお礼を云っている。それも義理一遍(いっぺん)の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心(しん)から感謝しているらしい。こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴(きんちょう)しているばかりだ。」《夏目漱石『坊つちやん』八より》
 
短大国文科 812055 早川紫野さん入力(改編:萩原)