2003.1.22〜2003.06.01更新
情緒纏綿『春色梅児誉美』
−もてた軟弱な男・“凄艶なる音楽”・“人気作家の末路”−
もてた軟弱な男
“丹次郎”といえば、為永春水(ためながしゅんすい)の創作した人物で、女にちやほやされる色男の代名詞となっていたが、いまはすたれた。柔弱な色男は流行(はや)らないからである。
だが、あえて光源氏をひきあいに出すまでもないが、かつての女たちがこのような優男のタイプに、文句なく惚(ほ)れこんでいた事実は否定しがたい。なぜかはいうまでもない。女達は身分的におとしめられ、生きる条件は苛酷(かこく)であった。やさしい男は稀少(きしょう)価値があり、惹(ひ)かれるのは当然であった。たとえそれが柔弱でも、暴力をふるう男よりは無難であった。 ――丹次郎は江戸吉原の遊女屋の養子だったが、養父母の死後、番頭鬼兵衛(きへえ)の悪計で家を追われ、本所中(なか)の郷(ごう)の侘住居(わびずまい)で貧と病にせめられている。
「野に捨た笠に用あり水仙花それならなくに水仙の(水仙のような風流なものではなく)、霜除ほどなる侘住居、柾木(まさき)の垣も間原(まばら)(疎ら)なる、外は田畑の薄氷、心解(とけ)けあふ裏借家も、住(すめ)めば都にまさるらん。実(じつ)と寔(まこと)の中の郷、家数(やかず)もわづか五六軒、中に此(この)ごろ家移(やうつり)(引越し)か、万(よろづ)たらはぬ新世帯(あらぜたい)、主(あるじ)は年齢(としごろ)十八九、人品(ひとがら)賤(いや)しからねども、薄命(ふしあはせ)なる人なりけん、貧苦にせまる其(その)うへに、此ほど病の床にふし、不自由いわん方(かた)もなき…」
この主が色男丹次郎のなれの果てだが、そこへ「すこし御免なさいまし/\」と一人の女が訪ねてくる。見ると、もといた遊女屋で深い馴染みになった芸者米八(よねはち)。朝参りにかこつけて、恋しい男の消息を知ろうとやってきたのである。「素顔自慢か寝起(ねおき)の儘(まま)か、つくろはねども美しき、花の笑顔に愁(うれゐ)の目元」――色男に配するは常に絶世の美女と相場が決まっている。
女は丹次郎の身を気づかい、薬を煎(せん)じたり、火をおこしたり、かいがいしく働いたうえ、持ち合わの小金まで与える。しまいには、「おまはんの首髪(つむり)はひどくうツとしそふだねへそつと束ねてあげよふかへ」と、涙ながらに櫛(くし)をいれてやる。「よね『かうしていつ迄(まで)も居たひねヘトいへば男もつくづくと見れば思へばうつくしきすがたにうつかり主『ア、じれツてへのふトひつたり寄添(よりそふ) よね『アアレくすぐツたいヨ 主『ホイ堪忍しなト横に倒れる此ときはるかに観世音の巳の鐘ボヲン/\」
“凄艶(せいえん)なる音楽”
いかに尾羽うち枯らしたとはいえ、そこは色男の冥利(みょうり)。つきまとう女が一人ですむはずもない。養家にいたころ許嫁(いいなずけ)の仲だったお長(ちょう)という「今年十五の形容艶(きりようよし)」が、やはり丹次郎を慕っていたが、悪番頭に言い寄られて家をとび出し、義太女夫として身を立てようとする。そして、深川の高橋(今の江東区高橋周辺)あたりで、夢にも忘れられない恋しい男に出会う。
二人は川添いのうなぎ屋の二階へあがり、蒲焼(かばやき)をあつらえる。
「丹『サア/\あついうちマアたべなト、飯(めし)を盛(よそつ)てやれば 長『アレわちきがよそいませうト茶わんをとる 丹『寔に久しぶりでお飯(まんま)をいつしよにたべるのうトかばやきのしつぽの所ばかりぬいてお長にやる」
お長はさも嬉しそうに食べながら、丹次郎の家がどこかを知りたがる。そして中の郷だとわかると「ヲヤ/\それじやア私(わちき)の居る所から寔に近いねへ。寔にモウ/\何より嬉しいねへ。これから毎日行(いつ)て見よふヤ」
このかばやき代だって、女から貢いでもらっている丹次郎は大あわて。「どふして/\来て見られるものか」と遮(さえぎ)る。「長『わちきが行て用をたしてあげたひねへ 丹『ナニおめへだつても仕つけねへ業(こと)が出来るものか。そして独者(ひとりもの)の宅(うち)へ娘が来るとわるくいはれるからわりい 長『夫(それ)じやア私(わちき)がいつちやアわりいかあねへ 丹『ナニわりいといふわけもねへが 長『わけもねへならば、翌(あした)は直(ぢき)にまゐるヨ」
他愛もないやりとりで、現代の読者には間のびしてやりきれまいが、作者いわく、「其身にならねばなか/\に他目に見てはいとゞしく、阿房(あほう)らしくも馬鹿らしく、笑ふは実に恋知らず哀れも知らぬ人といふべし」
春水を愛読した永井荷風は、このうなぎ屋の場面お次のように評した。
「人も車も通らず、春の日かげのただ限りもなく静かにうらゝかに照り渡つてゐたらしい海岸通りの情景がをりに触れてわたくしの記憶の底に呼び返される時、わたくしはいはれなく凄艶なる音楽を聞くやうな陶酔を禁じ得ない」
人も車もた通らず、というのは荷風の思い入れで、実は原文には「表のかたは多寡橋(高橋)の、徃来(ゆきき)賑(にぎ)わふ春げしき」とある。しかし、陶酔というのはか“反近代主義”たる彼の本音で、こうした江戸情調を愛する気持から、『すみだ川』その他の名篇が生まれたのである。
それはともかく、お長はやがてライバルである米八の存在に気づき、おぼこ娘らしいやきもちをやくが、けっきょく丹次郎とある屋敷の茶会のおりに結ばれる。
「長『……啌(うそ)ばつかり。兄(に)イさんが忘れるひまのないといふは、米八つあんのことサトいひながら丹次郎が脇の下をこそぐる 丹『アレサ何をするくすぐつたいはナ。よしなヨ。ドレおめへをもくすぐるヨト横抱(よこだき)にせしお長が袖から手を入れて、乳をこそぐれば 長『アアレくすぐツたひヨ」―といった描写は、春水の読者の大多数を占めていた若い女性に、ソフト・ポルノを覗(のぞ)き見るような興奮を与えたのではあるまいか。
“人気作家の末路”
それを百も承知の春水は、「作者伏(ふし)て申(まうす)、かゝる行状(ありさま)を述て草紙となすこと、婦女子をもつて乱行(みだりがはしき)をしゆるに等し。もつともにくむべしといふ人有(あり)。……されど淫行(いんこう)の女子(によし)に似て、貞操節義の深情のみ。一婦にして数夫(すふ)に交り、いやしくも金(こがね)の為に欲情(よくしん)を発(おこ)し、横道のふるまひをなし、婦道(ふどう)に欠(かけ)たるものをしるさず」と煙幕をはっている。
だが、幕府当局はそんな言いわけには耳をかさず、天保十二年(一八四一)『江戸繁昌記』の作者寺門静軒についで、“卑猥(ひわい)な作家"”として告発し、坂木を製本ずみの本とともに五車分、北町奉行所へ没収し、翌十三年六月絶版処分した。坂元の過料五貫文、外に売上金七両を追徴、春水は手鎖の刑に処された。
絶板とはいえ、すでに大部数が普及したあとでもあり、原本はいまも国会図書館その他に多数残っている。全体は大きく初編、後編、三編、四編に分かれ、その中がさらに各三冊になているので、計十二巻。本文は各巻十七〜二十一丁で、全二百二十五丁。原稿用紙に換算して二百数十枚。判型は一八・一×一二センチのいわゆる中本型。各編巻頭には柳川重信の色彩口絵が三丁ずつあり、本文には計三十三葉の単色挿絵がある。
“人情本の元祖”と、に作者みずから誇っただけあって、洒落本(しやれ)の系統を発展させながら新しいジャンルの小説をつくろうとした意気ごみが、表紙の意匠にもあらわれている。各巻とも共通の扇面散らしの構図に花鳥風月が描かれ、題簽にも胡蝶(こちょう)や花菱(はなびし)模様を入れ、各編書体を変えるという凝りよう。表紙の地色は初編が緑灰色、後編が橙色(とうしょく)、三編が紺色、四編が鶸茶色(ひわちゃいろ)となっている。なお題簽『梅児(古)誉(与)美』『春色梅暦』などと一定しない。ちなみに、以上は初摺本の特徴で、後摺になると装本が合う本形式となったり、内容の一部にも改訂のあとが見られる。
この作品は天保三〜四年に刊行されたが、人気に乗じて作者はただちに『春色辰巳園(たつみのその)』という続篇を出し、これも大当りとなった。前作でめでたく丹次郎とお長は夫婦となり、米八は妾となるが、後篇では米八とその恋仇(こいがたき)で名も仇吉という芸者の、意気地の張り合いがテーマとなっている。
このほか多くの人情本を出し、波にのりまくった春水も、末路は哀れだった。天保十四年牢死(ろうし)したというが、定かではない。前半生の経歴がはっきりしないのも、同時代の識者に軽んじらんでいたためだ。メロドラマ作家の宿命といえよう。
《補遺》
街中の柾木の垣に生きのびしへくそ葛ぞ吾はやさしむ〔平 井 住太郎「へくそかづら」〕
812081 宇田川 加栄さん入力