2005.10.03〜2014/09/26更新
書くための基礎技術指南
 
1、これから、実際に「書くこと」を学習していきます。
  手書きの原稿がパソコン原稿に(自分の文字がフォントになる)…というソフト「まるで手書き」がお目見えしています。ですが、手書き派の主張はいかがなものでしょう。黒田杏子(くろだももこ)さんの「本を手にするよろこび筆写して朗読する愉しみ」という随筆のなかで、黒田さんは「眼で読んだだけでは分からない作品の味わいが手で一句ずつ写して原句と照らし合わせて読み上げて確認してゆくうちに、自分のこころに棲みついてくる。筆写すること、手書きの意味を知ったのはその頃であった」と述懐しています。実際に、松尾芭蕉の『おくのほそ道』の旅行記を写し取っていらっしゃる。「俳句を一行どりして、何と四百字原稿用紙三十三枚である。それぞれの土地でその土地のくだりを私は書き写し、筆写したものを朗読してきた。これまでに何十回となく筆写しているので、暗記しているところも多い。ともかく、出羽三山に行けば出羽三山の句と文をその地で写し、声に出して読み上げる。三百年の時空を超えて、芭蕉と名告ったひとりの旅人のたましいがその土地の地霊とひびき合って、私の身と心に沁みこんでくる。あらためて私は眼が見え、文字を書き写す右手が働くことに感謝を覚える。書物というものを筆写してまるごと堪能できることのよろこびを?みしめる」(雑誌「學鐙」2005秋号Vol.102,No.3)という。ここに書くことの素晴らしき世界を垣間見るのは私だけではないと思うのです。
 
 ※因みに、日本の能書家である三筆と三跡とは、だれのこと?
 三筆 空海   寳龜五年−承和二年(七七四−八三五)
    嵯峨天皇 延暦五年−承和九年(七八六−八四二)
    橘逸勢  ?   −承和九年( ? −八四二)
 三跡 小野道風 寛平八年−康保三年(八九六−九六六) →『古今著聞集』能書第八287
    藤原佐理 天慶七年−長徳四年(九四四−九九八)
    藤原行成 天禄三年−萬壽四年(九七二−一〇二七)→世尊寺流(室町時代末迄)
     時代の流れを知ろう…
 ※文章を書くことは、絵を描くことに似てませんか?
 
 輪郭を直感し、あとは何度も何度も修正を繰り返す。全体像が見えてくるまで加筆し、色を重ね続けていく。規定枚数は、キャンバスの大きさ、ことばの線上性を壊しては、書込み、とことん変容させていく。この全体像が見えてくるまで、いくらでも手を入れましょう!
 
2、「書かない」という書き方―『和泉式部日記』の終わり方―
 現代風に仕立ててみますと、
  男とその妻。
  男は或る女と恋に落ちる。
  ついには女は男の邸に移り住む。
  出て行こうとする妻。
  それを見て、
  男「送って行こうか?」
  妻「ひとりで行くわ」
 人の心持ちは今も昔も同じであり、物語の流れも昔も今も変わっていないのです。
 
 ※数字の語呂合わせ知っていますか?
  電話番号を非通知にする  「184」(いはじ)…(いやよ)
  電話番号を非通知を解除する「186」(いはむ)
 
3、二〇世紀初頭日本にやってきたイギリス人小説家・評論家オールダス・ハックスレイ。
  エンサイクロペディア・ブリタニカ全二十八巻を持参したという人物です。
  彼の中編小説『グレイス姿態二三』の冒頭でbore「退屈させる」という単語の語源を論じています。まず、同じ発音から「穴をあける」(いくら聞くまいとしている相手にも、耳の奥まで入り込み、嫌々聞く者の神経を引き裂き、その心の内に入り込んでくるように喋り捲る意から)、二つめにフランス語のbourrer「詰め込む」(聞く者が、うんざりする話を続け、やめて、いやだと抗議しても、大きな塊を喉奥までねじ込むようにするという意から)、最後に、自説としてburr「栗などのイガ」(退屈にさせる人はいつも周囲の人には逃げられているので、偶々人を見つけようものなら、とことんくいついて離れないという意味から)とし、結論としてこの三つの要素が退屈の根源だと主張しています。
 
 ※一本の雨傘を電車に置き忘れたせいで人の運命が変わってしまうという物語に出くわした経験はお持ちでしょうか?。
 
4、年頭の挨拶文言を頻度順位にて示すと、
 1、謹賀新年。
 2、あけましておめでとうございます。
 3、謹んで新春のお慶びを申しあげます。
 4、謹んで新年の御祝詞を申しあげます。
 5、賀正。
 6、新年あけましておめでとうございます。
 7、頌春。
 8、謹んで新年のお慶びを申しあげます。
 9、賀春。
 10、新春のお慶びを申しあげます。
 11、迎春。
 12、新春のお慶びを申し上げます。
 13、新春を寿ぎ謹んでお慶び申しあげます。
 14、あけましておめでとう。
 15、新年おめでとう。
 欲張って年賀はがきを買いすぎて出す相手を探す失敗はなさりませぬように……。マンガ植田まさし『コボちゃん』より。また、こんなはがきは困ります。 “年賀欠礼 ”の挨拶添え書きに、「なお皆様の息災なき迎春をお祈り申し上げます」、これも手紙「前略 風薫る季節になりました。その後お元気でお暮らしのことと思います。さて、……《略》  敬具」この表現の不具合がわかりますか?
 そして、「胸さわぎ」ということばをどういうときに貴女なら用いますか? 
 かって、永六輔作詞・中村八大作曲の歌謡曲「おさななじみ」の七番めに「あくる日 あなたに電話して 食事をしたいと 言った時 急に感じた 胸さわぎ 心の霧が 晴れったけ」の「胸さわぎ」はどうでしょうか?「恋の予感、恋心の昂まり」。
 
5、たとえば、「ガッツポーズ」ですが、これは英語でない和製英語ですが、「ガッツ」の意味といえば、「根性」、 「ガッツポーズ」は、ボクシングの元チャンピオンであるガッツ石松がやったのが最初で、四月十一日のその日を「ガッツポーズの日」と定めています。といった、雑学智識が人の興味を湧かせて受けるのです。これなどは、「ガッツだぜ」というセリフが必要な参会者に受ける内容であれば、大受けでしょう!そして、この場にご本人が登場したら、もっと盛り上がるのでしょう。
 
6、たとえば、明治の文豪夏目漱石が若い頃ですが、中世の鴨長明の随筆『方丈記』を英訳しています。この冒頭部分は、「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀み浮かぶ泡沫は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」で、これを「Incessant is the change of woter where the stream glides on calmly:the spray appears over a cataract,yet vanishes without a moments delay.」と訳しています。これを日本語に直訳すると、「不断に交替する水の流れは清静と滑り行く。飛沫が瀑布の上に現れても忽ちにして消え失せる」となります。この「よどみ」をどう訳すか、次にドナルド・キーンの訳はといえば、「The flowof the river is ceaseless and its water is never the same. The bubbles that float in the pools,now vanishing now forming and not of long duration.」として「 pools 」すなわち、「溜まり水」になってくるのです。こうして見た時、『方丈記』はイタリア語訳もあって、これがどう表現されいるのか知りたいなんてなると、参会者にも俄然、参加する意欲が湧いてきたりします。そこで一筆執りたくなるのです。これが共感・同意でしょう。
 
7、たとえば、二千円札。思えば沖縄の守礼門と『源氏物語』の鈴虫の巻きとが表裏をなしていますが、この鈴虫の文章が判然としない下切れ状態の変体仮名文章であることに気づくことでしょう。
 そこで、大東急記念文庫(五島美術館)所蔵の原本を見ますと、はっきりするわけです。欠落して誰も読めないということが……。
 これに対し、アイルランドの10ポンド札の『フィネガンズ・ウエイク』の冒頭書き文字はちゃんと読めるのです。いかにちゃらんぽらんな作成であるか暴露してしまいましたゾなもし。ここに参会の方々はいかがな面持ちですか?
 そして、作者「紫式部」はかくも、『紫式部日記』からの写しとなっています」なんて、小渕元内閣総理大臣が聞いたらどうでしょうか?はたまた、現在の安倍内閣総理大臣は、どう答弁するのかな?
 
8、たとえば、道元禅師の『正法眼藏』に「而今」とあり、これを江戸期の版本に「ニコン」と音読みし、左訓に「いま」と表記する。英語で「from now(これから)」「immediate Present」の両用の意味合いがあること、すなわち、「今よりして(過去は去ておき)(起点として)」と「今にして」のニュアンスをどう表現するか?
 聞き手の感得により異なりが生じてくるのではないでしょうか?そして、この「而今」は孔子の『論語』にも記載されていますが、仏典と漢籍とでは同じ文字でもその意味合いが異なることがあるのです。
以上