カーネギー・メロン大学にて井尻先生と語る
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1989年12月23日−
補遺1 University Professor 就任講演
補遺2 Accounting Hall of Fame 就任式 (於AAAハワイ総会1989)
カーネギー・メロン大学での約1年余りのビジッティング・スカラーも残すことあとわずかになった1989年12月23日、1年間の研究生活の最後に、井尻先生にいろいろ語っていただく機会を得た。10年も昔のことになったが、今日でも貴重なお話が多く含まれている。ここに井尻先生のご了解を得て公表することにした。なお、井尻先生のお話のうち一部要約しているところもある。
(1999年4月)

1.1
最近物理学におきまして、自然界を支配する左右対称性が重力の世界で破れていることを証明する実験が、日本の研究者によってなされ、もしもそれが本当なら「学者が気絶する」ほどの発見である、ということが話題になっております(1)。研究者の人生におきまして、それこそ学者を気絶させる程の発見とその論証といったものが、ひとつの憧れであり夢であるとしますと、会計理論におきましては、そういった発見とか論証といったものをどこに見出すか、非常に見とおしを持ちにくい側面があり、さらにはそもそも会計学において発見とか論証問題はあるのか(2)、あるいは少し皮肉って申しますと会計学者は気絶する機会をほとんど持ち得ないのではないか、といったことを考えることがあります。
私は、先生のお仕事の魅カのひとつを、そうした会計学固有のきわめて困難な問題に挑戦されてこられたところに見出します。先生は、こうした会計学のもつ学問的性格についてどのようにお考えでしようか。
井尻先生@:会計学にも「あっと驚く」ものもあるでしょうね。ただ、物理とか自然科学の分野のような「証明」が難しい。1972年のアカウンティング・レビューのサプルメントに書いたんですが
(3)、会計にはそうしたあっと驚くようなことがなかなかできないか、考えたことがある。そこでは、結局、会計にもないことはないんだ、あるいはそれが漠然としているので、いわば今未解決の問題であるということでリストしてみてはどうかということを書いてみた。
物理学者がこのようないままでの常識を破るようなことを実験で証明したりして、学者が気絶してしまうほどの発見だと言われているわけですね。一方、会計学の学問的性格についていうと、例えばある理論をだしたときに会計学者が気絶してしまう、そんな学問的性格を会計学にそもそも期待することは、それは研究者としては1つのあこがれでしょうが、その学問的性格からして難しいようにも思われますが、それとも可能性はあるんでしょうか。
それは大いにあるでしょうね。あるんだけれども、あっても実際そういうことがおこっても、なかなか一度にぱっとはっきり分かるということはないでしょう。えてしてあっと驚くものは全然思いもかけなかったものとのアイソモフィズム(同型性)ですね…。例えば現在われわれがやっている会計を微分した会計というものを考えると、それが現在やっている会計とまったくアイソモフィズムになっている
(4)。このまえアカウンティングホール・オブ・フェイム(会計殿堂)で言ったのですが、インターディシプリナリー(学際)ということをつきつめると何でもが会計に関係してくる
(5)。会計学だからこう、物理学だからこうということはないと思う。ただ、地盤の深さ柔らかさというのはある。対象は違うんだけれど、人間が考えるという、そこで学問というものに共通性がある。われわれの考え方自体、あるいはどういうものに驚くかということに全部共通性がある。そういうふうに考えてみると、会計学から一番遠くにありそうなものは何かといえば「愛」ということだと思う。愛と会計とをくっつけられると非常に面白いものができると思う。いままでの考えのエクステンションでない面白いものができる。どうしても会計の分野では自分のためにという、所有権が絶対的で排他的でそこから出発している。逆に、ひとにあげようとする、人のためにということから測定基準がでてくるとか。あるいは集合論の考え方からして変えなければいけない。
愛と会計とが結びつけば、非常に楽しいあたたかい会計が生まれてきますね…。
ただ、これが会計であるといっても誰も信用しなくて、勝手に会計と名前をつけているだけではないかというのですが、そこにもきっと現在とのアイソモフィズムがあると思う。なんらかのかたち、フレームワークとして。そういうのがあるかっこうでできたら本当に面白い。そこでの「利益」というのはどういうふうな考え方ができるか。考え方からして根本的に変えていかなくては。取り合いをしようとする世界のなかで生まれた会計とまったく反対、対照にあたる会計…。
1.2
会計学は、一方ではサイエンスとしての会計の魅力をどこにどのようにして見出すかという問題とともに、他方では会計はサイエンスというよりも、先生が日本会計研究学会で記念講演された「会計の政治化」という言葉に代表されますように、ポリティカルな側面を持っているのも事実であります(6)。例えば、Watts & Zimmerman は “The Market for Excuse”といった幾分風変わりなサブタイトルのついた論文の中で、会計理論を 「excuse for political action」 と規定し、会計理論は世界をdescribeするというよりはprescribeすると述べております。イギリス滞在中思いましたことは、イギリスをはじめヨーロッパ会計のひとつの特徴は、会計をpolitical economics のなかであるいはその一部として捉えている、ということであります。
会計学は一方ではサイエンスとしての知的魅力をもち、また他方ではいわば社会科学としてのユートピア熱をもってほしい、といった欲の深いことを考えますと、こうした双方志向(アンビバレンス)について先生はどのようにお考えでしようか。
井尻先生A:両方の面があっていいと思う。物理でもサイエンスとしての物理と、それをもとに利用しようとする、利用しようとなると政治的になる。原爆の問題にしても。会計理論は世界をデスクライブする、デスクライブしたければもう少し高いレベルにあがって考えることができる。今いわれているセオリーとよばれているのも、えてしてプリンシプル程度のもので、サイエンスとしてのセオリーといえないものもたくさんある。プリンシプルをどんどんつくっていって、そのなかで実はポリシー・メーカーに都合がいいからというのでどんどん使われる。そうした使われるかっこうをみていこうとする、これはサイエンスの理論ですね
(7)。その過程全体を政治までふくめたものを一貫して会計理論をつくろうとする、それはサイエンス。
世界をデスクライブというのは、世界がまず前提としてあってそれを記述する、あるいは描写するということで、それに対してプレスクライブというのはむしろ世界を規定していくという捉え方であろうと思う。要するに政治的なビヘイビアーの抗弁として会計理論が使われる…。
その抗弁として使われている過程、そのすべてを全体として会計領域とする会計理論。その過程がどういうかっこうでできるか、各国の比較など、これはまったくサイエンス。それを区別するためにメタ・アカウンティングという用語を使ったことがある
(8)。メタ・アカウンティングとしてより高いレベルから、科学者の目から客観的に見ていくのがサイエンス。なかに入ってポリシー・メーカーのために役に立つというのもけっして悪くない。エンジニアリング的に現在に役に立つというのも悪くはない。会計にそれがないというのは間違い。
2.1
最近のアメリカ会計理論の特徴といったものを捕まえようとするとき、どうしてもペイトン/リトルトン理論に代表される会計評価論が中心だった時代と対比したくなります。私は、それを資本・利益の計算を中心とする会計測定「構造」論に対し、市場(特に資本市場)を中心とする会計情報「機能」論として対比しているのですが、先生は現代のアメリカ会計理論の特徴といったものについてどのようにお考えでしようか。
井尻先生B:これはアメリカだけでなく世界的な兆候ですね。「第2の波」と「第3の波」の違い、第2の波の方は大量生産で既製品で皆満足していた。それが裕福になってきたために、各自が個性のある製品を入手したくなる。会計もまったくそのとおり…。基準とかスタンダードの意味がだんだんなくなってきた。
会計の求心、中心にあるのはやはり依然として評価論、測定論で、それが重要な会計の固有性と思うのですが、最近のアメリカ会計は測定論よりも市場を中心とした会計情報機能論にどんどんシフトしてきていると思う。そういう背景のもので、会計測定論というのはもはや振り返られないのでしょうか。
全体の波がそうだからしようがないと思う。鉄道の線路は昔は非常に重要なものだったが、自動車や飛行機の発達でその意味がなくなっているわけではないが少なくなってきた。将来の会計フレームワークとしては、今まであったものは壊れて、非常に自由な測定方法がどんどんでてきて、こんどはそれを統合する第4の波というか、その次元でまた新しいものがでてくるだろう。評価論というかっこうではなくて、いろいろな測定に共通するようなものの基準といったものになっていくのでは。それはだいぶ先のことだろうが
(9)。
2.2 アメリカ会計理論を時代的に1960年代前半までのASOBAT以前とそれ以後とに大きく区分できるとすれば、以前と以後との間に理論の「継承性」といいますか「連続性」といったことについて、どのように考えればよいでしようか。もし不連続ではなく何らかの継承性といったものがあるとすれば、それはどのように理解すればよいでしようか。
井尻先生C:理論の継承性とか連続性というか、そういうことは絶対ではないですね。ある大きな衝撃があって、まったく新しい理論がでてくる。どこの分野でもありうる。今、ケイオス・セオリーというのが物理でもそれにあたる。ある目的が達成できなくなってくると、考え方が変わってくる。その意味でASOBATは非常に支持があったと思う。同じことがキャップランの考え方についてもいえる。今までリジッドに作ってきた鉄道とか道路とかが、意味がなくなる。ASOBATにしてもそう。今までつくってききた、継承的にできてきた会計の意味が次第になくなってくる。特にテクノロジーとの関係で。おおきな実務上の飛躍、それが反映して理論上の飛躍となってくる。それが今現れているのではないか。
2.3 私が院生だった1970年代後半は、少なくとも日本におきましては、エイジェンシー理論はほとんど誰も聞いたことのない理論でありました。それがアメリカ会計理論の輸入赤字国であります日本におきましては、ここ5年ほどで今やエイジェンシー理論は会計研究者にとって、「それを知らなけれぱ何となく恥ずかしい」といったような感を呈しているといっても過言ではないほどの影響力をもつようになってきております。
私がアメリカに来まして、驚いたことのひとつは、GSIAの会計専攻の何とすべてのPh.Dの学生が何らかの形でエイジェンシー理論を用いたペーパーを書こうとしている、ということであります
(10)。今やアメリカだけでなく日本におきましても、エイジェンシー理論に基づく会計研究はひとつの主要な分野を確立しております。エイジェンシー理論の内容の吟味はもちろん重要ではありますが、私にとって関心のあリますことは、その内容そのもの以上にそれまでの会計理論といったいどのような連続性をもって出現してきたのか、ということであります。もしそれまでの会計理論の中にエイジェンシー理論の適用を生み出した”契機”のようなものを見いだし得ないなら、エイジェンシー理論は会計理論の生成史におけるいわば突然の出現ということになってしまい、それ自体また興味あることであります。
前置きが長くなりましたが、この点につきまして先生のお考えをいただければ有り難く思います。
井尻先生D:経済学のなかからきている。会計のなかから不満が爆発して新しく生まれてきたというものではない。そういうことはよくあること。60年代の終わり頃からコントラクト・セオリーと会計のある面とが合併したようなもの。それで生まれてきたわけで、会計の本来のエレメントは非常に少ないように思う。背景としては、ある程度インターディシプリナリーな要求がいいとされているアメリカの土壌もある。究極的にはどちらがいいかは問題であるが。
2.4 冒頭の物理学会における話題に戻りますと、物理学会の常識を超えるようなことを見つけたり、あるいはそれまでの科学的成果が実はより包括的理論の一部として包摂されるといった、科学理論の連続あるいは不連続な生成発展(科学史)に私は興味があります
(11)。会計理論におきましては、先に述べました「発見」とか「論証」問題を見出だすのが困難といった学問的性格にも起因してか、ときに“統一なき拡大”といったアカデミズム状況が見られがちですが、会計学における理論の継承性あるいは不連続性といった観点から、先生はアメリカ会計理論の過去・現在をふまえた未来をどのように展望されておられるでしようか。あらたな理論の出現可能性についてもお聞かせいただければ幸いです。
井尻先生E:先にも少し言ったように、やっぱり全体としてファンダメンタルな考え方が変わってきているように思う。どこの分野でも。スパイラルな進歩と同じように、全体としてはどんどん進歩している。それを平面で見ると同じサイクルを繰り返しているようだが、全体としては進歩している。ここしばらくは、個々のものに妥当したということに焦点が集中するように思う。そこで、会計理論も1つ次元の高いメタ・アカウンティングから捉えると面白い…。
3.1 最初に、アメリカと日本の会計研究のスタイルの違いといったことについて、象徴的なことを経験しましたので、その話から始めさせていただきたいと思います。
この前、隣のピッツバーグ大学のビジネス・スクールの会計専攻のPh.D学生3人と話しておりまして、大変驚きました。それは、私が「ドイツ会計理論の大家であるシュマーレンバッハを知っているか」と聞きましたところ、なんと全員が知らないと言うのであります。このようなことは、少なくとも日本では考えられないことなので、本当に鷲きました。彼らの多くは、アナリティカルな研究をやっているようで、日本の会計研究のひとつのスタイルであります歴史的・方法論的あるいは学説的研究といったものは非常に少ないように感じました。
先生もご承知のとおり、日本の会計理論のオリジンをさぐっていこうとすれば、どうしてもドイツの会計理論をぬきには語れないと思います。アメリカにおきましては、シュマーレンバッハの理論を知らなくても、特別問題ではないアカデミズムの背景については、私なりに理解しているのでありますが、こうしたアメリカと日本の研究スタイルの基本的な違いといったことについて、まずおうかがいさせていただきたいと思います。
井尻先生F:われわれが生活しているうちに一生のうちで何十パーセント過去のものを習って、何十パーセント新しいものつくっているか、そのオーバーラップの度合いをいうと、日本の場合いまある過去のものをまずしっかり習ってその基盤のうえに新しいものを作る。そのいちばんオーバーラップの強いところが、例えばお茶やお花、能などで、伝統的な能などは95パーセントそのままリプロジュース、5パーセントのところだけで個性をあらわす。個性を殺してやらなければならない。
しかし、アメリカはそうではない。アメリカは過去に対する尊敬がない。それはアメリカという国のおいたちが、もともと過去を否定することから出発しているから。ですから若い人がきて、教授を参詣しない。ともかく自分からいちから好きなものをやっていく。ですからオーバーラップの度合いが非常に少ない。Ph.Dの学生でも、アンダーグラデュエイトでエンジニアリングやサイエンスを習ったものが会計に入ってくる。そこで出てくる理論は底が浅いといえるかもしれない、伝統がないから。ただ、社会の変動に敏感に応じることができる。
3.2 アメリカおよびヨーロッパの会計理論は日本にどんどん輸入されましても、逆に日本の会計理論が欧米に紹介されるケースはこれまでほとんどなく、日本経済の“現実”とは裏腹に日本の会計アカデミズムは大幅な輸入超過といった状況が今なお続いております。
しかし、いわば“言語に関する非対等性”故に紹介されていないだけで、日本の会計理論にその独創性や国際貢献可能性がないというわけではないと思います。そして、最近日本のマニュファクチュアリング関連の英訳本がどんどん出版されているのをみますと、単に会計制度の紹介だけでなく、もっと日本の会計理論が欧米に紹介されてもいいと思っていますし、実際ごく少数ながらも日本の会計理論のオリジナリティに関心を寄せている研究者もいます。
先生は、日本の会計理論の固有性あるいはオリジナリティについてどのようにお考えでしようか。
井尻先生G:これは会計理論のどのレベルをいっているかによる。例えば、いい名前がないからメタ会計理論といいますが、日本のメタ会計理論は非常に面白い。特に公認会計士制度が導入されて以来、証券取引法が設定され会計が発展してきた、それはユニークだ。日本独自の会計のやり方、財務諸表があってもいい…。
3.3 日本の会計理論にあって欧米の会計理論にないものが何であるかについて申しますと、ひとつには例えば中西、馬場、木村先生の理論に代表されます「個別資本学説」、他の論者も含めましてより広くはいわゆる「計算構造論」があげられると思います。もし、これと直接的に対立・比較できるものをアメリカ会計理論の中に見出だそうとすれば、ASOBAT以前のぺイトン・リトルトンに代表されます資本・利益計算を中心とする会計測定論の時代があげられると思いますが、ASOBAT以後の日本の会計理論はアメリカ会計理論に依拠するところが非常に大でありますので、その分固有性を見出だすのが難しいように思われます。
現代のアメリカ会計理論が資本・利益計算を中心とする会計側定構造論から、市場を中心とした会計情報機能論に移っているとすれば、そうした「計算構造論」としての日本固有の会計理論の中に、今なお国際貢献の可能性を見出だすことができるかどうか、この点どのようにお考えでしようか。
井尻先生H:理論というものに対する価値観がぜんぜん違う。日本で価値があることが、アメリカでは「どうしてそういうことを問題にしているの」と言われる。同じことが、逆に、アメリカで非常に値打ちがあることが日本の学問的価値観では全然ないということがある。そこでグローバリゼーションということが非常に大事になる。というのはやっている理論というのは本当に表面的にすぎない。もっと面白いのはどういう論文が非常にいいと思われているかということ。そのことがその国での学会の価値観を代表している。日本の場合とアメリカの場合でどうしてこれほどに違うか、そこをグローバルなメタ・アカウンティングをやると非常に面白い。そういう意味で、単に違うということだけでも国際貢献の可能性が大いにあるといえる。ただそれが互いにまだアイソレイトされているだけではお互いに影響がないわけです。今後おおいにインタラクティブな影響が期待される。そのへんから会計の本質もでてくるのでは。
3.4 日本のいわゆる批判会計学とよばれる会計理論のひとつの特徴は、故木村和三朗先生の著作のタイトルについております「社会科学としての会計」という用語に代表されると思いますが、それをさらにミクロとマクロとに区分できるとしますと、いわばミクロ会計として「計算構造論」だけでなく、マクロの側面も重視しなければならないと思います。例えば、「イギリス批判会計学」のひとつの特徴は、社会科学としてのミクロ会計よりも、いわば社会科学としてのマクロ会計、それも資本市場を中心にした投資家のための会計といった枠にとどまらずより広いマクロ的研究が中心になっているようにも思われます。
今後もし会計理論が「会計の政治化」といった現象を理論的に扱っていく方向に向かうとすれば、そうしたポリティカルな側面を含む理論がこれからのひとつの焦点になるような気もいたします。これまでのいわば“効率性オリエンテッド”な会計理論だけでなく、いわば“公平性オリエンテッド”な会計理論といったものを考えたりしますと、そうした展望のなかで、日本の会計理論の貢献可能性を見出だすことができるかどうか、この点どのようにお考えでしょうか。
井尻先生I:日本の批判会計学というのはマルクス経済学を基礎にして、ひとつのフレームワークとしてそこから会計の事象をみる。その意味で非常にユニーク。同時に、政策としてすべての事象を肯定的にみていこうとするのではなく、たえず批判的にみていこうとする。それがアメリカの考え方と大いに違うユニークな点。アメリカの場合にも批判はあるが、経済学にもとづく批判はあっても社会思想的な面からの批判していこうというのはない。ただ、その経済学者がみた会計は非常に批判的で、会計のオペレイトする制約についてあまり知らない人が多いから、「どうしてこういうことができないか」という批判がたくさんある。
何主義であってもいい。地球(現在の会計)を1つの対象物としてみるのに月に行っても、火星に行ってもいい。火星でなければ絶対いけないということはない。アメリカのようにフレキシブルにどんどん、オポチュニスティックにどんどん変わっていく理論、それはそれでフレキシビリティはあっても今度はまた別の意味で批判がある…。
日本自体にユニークさがある。日本的労働闘争・組合といったように、日本にはアメリカに見られないユニークな「公正性」の問題がある。何々主義というのではなくて。主義・思想も現象の1つとして、もう少し大きく言えば、月から地球をみている自分自身も事象の1つとして全体と考える。いくらでも土俵が広がるわけ。そう言う意味で、理論の一般的妥当性、アピカビリティが広がるんじゃないか。
4.1 最近の管理会計は、これまでの伝統的管理会計が最近の特に生産システム環境の変化に対応できなくなってそのレリヴァンスを喪失してしまっている、というジョンソン/カップランの“レリヴァンス・ロスト”の影響をもろに受けまして、新たな原価会計や管理会計を構築しようとする動きが活発であります。来年秋に東京経済大学で開かれます日本会計研究学会の統一論題のひとつが「環境変化と管理会計の革新」でありますし、また私も出席いたしますが、来年1月4日と5日にイギリスのバーミンガムで開かれますManagement Accounting Research Conference のテーマも、“Management Accounting in New Production Environment”となっております。
思い起せば、先生がAAAの会長であられた1983年の夏、ニューオーリンズでのAAA総会でカップランは、今やパラダイム的影響を与えております”レリヴァンス・ロスト”の主旨を講演されました。総会の1週間ほど前でしたか、私が陣内さん(東京経済大学)とともにピッツバーグに先生を訪ねましたとき、先生はカップランはこれまでの管理会計はほとんど何の発展もしてきていないという主旨の話をするらしい、ということを我々に事前にお話していただいたことを今でもよく憶えております。
あれから6年が経ちましたが、いかにアメリカの影響を受けやすいとはいえ、今や日本の管理会計研究が、“レリヴァンス・ロスト”フイーバーとでもいった状況になることをその時全く予想することはできませんでした。先生は最近のこうした管理会計におきます動向をどのように見られておられますでしようか。
井尻先生J:総会の統一講演者を選ぶときに、彼に頼んだきっかけが、彼はすでにそう言うことを言っていたのだが、これは非常に重要なコメントであると思ってスピーチを頼んだ。今の段階ではまだ今あるものの批判にとどまっている。では、現在あるものを壊してしまって、次にどういうものをどういうふうに構築すべきか、まだはっきりした答えがでていない。そこで、カップランと話し合っているのだが、次に「レリヴァンス・レゲインド」という本を書いて欲しいと。
第3の波から脱皮した社会がどういうものになるか、その結論が出て…。多様性がゆきわたったあとが…。多様性というのはだいたい非効率なもの。したがって経済状態が非常に悪いときは多様性がまずサクリファイされる。同質性でもってどんどん効率をよくしてのばしていく。それが十分に経済的なものができてくると、こんどは安全性のためにちょとした環境変化でつぶれてしまわないようにバラエティをどんどんひろめていく。こんどは逆に多様性が十分に多様化されてくると、いわば“リセントライゼーション”みたいな動きがあるかもしれない。個別的妥当性だけではいつかはいきづまる
(12)。
4.2 管理会計におきます最近のFocus Shift の動向は、方法論的にはアカデミズムと現実とのギャップという形でのこれまでの方法を反省しようとする動きでもあると思われます。もし、“relevance”(外的有用性・適合成)という用語に対するものとして“rigor”(内的論理性・整合性)という用語があげられるならば、これまでの管理会計研究とりわけ分析的研究におきましては、現実から離れたいわばアカデミズム市場が要求するアカデミズムのひとり歩き、といった状況があるようにも思われます。カップラン先生自身が“レリヴァンス・ロスト”以前は、いわば“rigor”の世界の第一人者であったことを思いますと、何かかつての経済学におきます数理経済学を内在的に批判された宇沢弘文先生のイメージとだぶってきます。そして、内在的批判であるがゆえに、その批判のインパクトば非常に大きいものがあるように思われます。
しかしながら、われわれ研究者は、“relevance”の世界だけでなく、“rigor”の世界にも首を突っ込んでおきたいという、ここにも双方志向とその相対立するところのジレンマがあるように思われますが、この点先生はどのようにお考えでしようか。
井尻先生K:これはジレンマでしょうね。“rigor”というより、“consistency”の方がいい。“rigor”が個別的・具体的妥当性、“consistency”が一般的画一性。僕は両方いると思う。レリヴァンスのない学問をやっても意味がないし、コンシステンシーのない学問をやっても意味がない。コンシステンシーのない学問とはどういうものかといえば、Whyのない学問。Whyがいらなければ、学問はまず単なる断片的な知識の集合にすぎない。お互いくっつけなくていいから。
4.3 方法論的間題ということで、もうひとつ取り上げてみたいと思いますのは、先程のエイジェンシー理論の方法論的前提であります。といいますのは、特にアナリティカルなエイジェンシー理論は“rigor”のひとつの代表のように思われるからであります。
最近、GE,HP,3M,GMといったアメリカを代表する企業が、JITに代表されます日本の生産システムを積極的に取り入れていますことをみますと、皮肉なことにアカデミズムにおきますエイジェンシー理論の方法論的基礎が、実はJlTフィロソフィーとは相対立するのではないか思うことがあります。
JlTフィロソフィーとは何かについては、いろいろ意見があろうかと思いますが、要するに、それはいってみれば日本に昔からある“異体同心”とか“共存共栄”(集団主義)といったオペレーショナルには扱いにくい人的資産にたいする考え方であろうと思います。ところが、エイジェンシー理論の基礎にあるのは、スペシャリスト志向の個人(個人主義)であり、またエイジェンシー関係は契約をとおしていつでもエイジェントを解雇できるという意味で短期的であり(前者については、multi‐person、後者についてはmulti‐periodという拡張モデルの試みはありますが)、JlTフィロソフィーにある人的資産に対する考え方とは対照的であるように思われます。
エイジェンシー理論におけるひとつの中心問題は、プリンシパルの“犠牲のもとで”エイジェントの利己追求(最大化行動)にまつわる「モラルハザード問題」でありますが、この問題に対する対処は、倫理とかあるいは宗教まで入れますといろいろな方法が考えられます
(13)。エイジェンシー理論はそれを個人と個人との「効率的」契約といった形で対処しようとするモデルであり、その基礎には、例えば「機会主義」行動といったJITフィロソフィーとは対照的に異なる人的資産に対する基礎的視点が見られます。異種な人種が混合されたアメリカ社会におきましては、そうした最適契約による取引のコントロールはよく理解できるのですが、モノならずもヒトにも条件付最大化モデルを適用するといったアカデミズムにおけるエイジエンシー理論の基礎モデルと、アメリカ企業がその国際的競争力を取り戻そうとしていわゆる日本的経営を導入している現実とは、どうもあわないような気もいたします。この点、先生はどのようにお考えでしようか。
井尻先生L:これも最近サイモン先生と話し合っていて、非常に感銘を受けたのだが、今の経済理論はあまりにもエゴイズムを強調しすぎている。組織論のなかでダシリティ(docility、従順性)を強調する。その値打ちは非常に大事で、それを理論のなかに取り入れなければならいと強調している。それがなくて、その背景がなくてJITだけを取り入れようとしても…。そうした理論をつくると、こんどは理論が実務をかえていくこともある。
エイジェンシー理論はだいたいオペレーショナルなものではない。現在の事象がある程度どういうふうに、パラブルというのですが、たとえをとっていうとこういうことになる。そこに価値がある。社会科学の理論の数式モデルはアナロジーをとっている。計算して実際に当てはまるというものではない。
4.4 先生は、トフラーの「第三の波」におきます6原則からの脱皮ということに関連づけられまして、こうした管理会計の新しい動きを、「彼らの批判のもとになるものは何かと考えてみると、管理会計自体が第二の波−産業革命の遺物であることに帰着するのではないかと思う」、そして「彼らが不満に感じていることも、実は第二の波と第三の波との軋轢が反映しているのではないかと思われる」、という社会学的背景をふまえられた大へん興味深い見解を示されておられます
(14)。先生が強調されておられます、脱6原則の根本にあるものが多様性への志向でありますと、そうした多様性志向社会をふまえたこれからの管理会計および管理会計研究のあり方といったことにつきまして、先生のお考えをお聞かせ戴ければ幸いであります。
井尻先生M:日本の場合とアメリカの場合と、制服に対するあこがれの度合いが違う。アメリカはない。バラバラ。日本ではまだ随分ある。ドイツもそう、国民性として。だからいわゆる第3の波での経験が日本の場合はその期間が短いかもしれない。そうすると、次の管理会計に進むのには日本の場合が早い可能性が多いかも…。
日本の管理会計の国際貢献ということでは、日本の管理会計がよかったからというわけではないと思う。日本の製造機構がさらには先のダシリティの値打ちがマニュファクチャリングにもあらわれた。本当に賞賛される根本になるものは共同生活におけるダシリティで、JITだからとか日本の管理会計だったからというのではないと思う。…
5.1 1990年代の新しいコンピューターは、知識を使って新しい情報を生み出す「考えるコンピューター」であり、1990年代は知識と推論能力をもった「知識情報処理」の時代であるといわれております。この分野で日本の10年計画の「第五世代コンピューター計画」が国際的にたいへん注目されております。その計画は、今年度(1989年)から3年間の後期計画に入っており、1992年の最終的な成果が注目されます。
昨年11月に私も主席しましたが東京で「第五世代コンピューター国際会議1988」が開かれ、サイモン先生も「認知科学の今後の展望」と題された講演をされ、人間の知能と機械の知能の結合といった大へん興味深いお話をされております。
現在コンピューターを使った生産の自動化・無人化が進んでおり、その会計への影響が先程の伝統的管理会計の“レリヴァンス・ロスト”につながるのですが、さらにこうした「考えるコンピューター」が登場してきますと、生産のみならず「知識情報処理」としての会計行為のいくつかはコンピューターがやるといった時代がくることが予想されます。こうした「知識情報処理」時代の経営・会計におよぼす影響につきまして、お話いただければ有り難く思います。
井尻先生N:これは会計をどう定義するかによって、今言われたような将来を望ましいものであるという人もいれば非常に悲しいものであるいう人もいる。生産がロボット化されるようになると、工場のの生産に必要な情報がどんどんふえる。ロボットというのはだいたい頭が悪いから、それに教え込むには相当のナレッジが必要でそれを組み込まなければならない。同時にたえずフィードバックを与えていかねばならない。全体の情報は人間がやっている工場よりもロボットがやっている工場の方がはるかに大きな情報の流れがある。それを今は管理会計が大部分もっていた。ロボットがやる工場では同じようなデータが別の意味でどんどん流れる。それが管理会計といえるかどうか。相当エンジニアリング的なものであり、しかも与えられて読むのは人間ではなくてロボットが読む。どういう情報が提供されてロボットがどういう意思決定をやってどういうふうに動いたか、過程自体の記録すらもう必要ない。
そこでは問題になるのは情報が問題ではなく、情報とアクションとがインテグレイトされたシステムをつくることになる。そう言う意味で、ロボットに与えるデータはもう管理会計の面から離して考える。データひとつひとつよりもシステムに大きく重点が移ってしまう。しかもデータの内容は金銭的なものではなく、もっとエンジニアリング的なもの。すると、だれが一番やるのにエキスパティがあるかというと、それはアカウンタントではなくエンジニアリングの教育を受けてきた人がやった方がはるかにいい。アカウンタントが入ってくる領域がもっと少なくなると言う一般的な見方がある。そうなった場合、管理会計はなくなってしまうかというと、そうではないんじゃないか。いわば管理会計の手足のような分野はどんどんオートメイトされていくと思うが…。
5.2 先程の多様性志向社会といったことを考えますと、それを支えるのが情報科学の技術革新だと思われます。先生は、雑誌「Systems」の中で、「多様性志向というものは生物の自然本来の要請なのではないかと考えられる」という大へん興味深い見解を示されており、また「ただ法律や政治においては、…まだまだ「第二の原則」に固執して動かないところが多い。したがって、「第二の波」の集団と、「第三の波」の集団との避けえない大闘争を、彼は予告しているのである」と指摘されておられます。こうしたお話は、最近の東欧情勢を想起させ、たいへん興味深く思われます
(15)。イデオロギーというものが、特定の価値観に基づくway of thinkingであるとしますと、それは多様性とはむしろ対立するものであるということができるかもしれません。社会変革の力が何であるかについてはいろいろな考えがあるでしょうが、科学技術の革新はまちがいなくそのひとつの力であると思われます。しかし、技術だけで充分かといいますと、やはりその技術をコントロールする人間側の英知とか価値観といったものが重要であることもまた事実であると思われます。
これからの情報科学の進展による新しい社会を展望するとき、「人と物との関係」を扱うという意味での会計行為の技術性と、「人と人との関係」を扱うという意味での会計行為の“イデオロギー性”といったことについて、どのように考えていけばよいでしようか。
井尻先生O:僕の考え方では会計はあくまで「人と人との関係」をあつかうのであって、「人と物との関係」を取り扱うことはあってもそれは1つの手段である。そういった面から見ると、人間がいる以上会計はなくならない。法律や政治とおなじように社会のなかで必要不可欠な分野であると思う。そこから考えると、情報科学の進展によって「人と物」との関係の分野が、「人と物」ではなくて「ロボットと物」との関係に置き換えられる。そういった場合に、それを会計行為の技術としてみるか、それはもうエンジニアリング的なものになってしまうのか…。
本当にグローバルな社会というものになるとどうなるかを考えると、価値の相対性、非絶対性、どんな価値よりも絶対でない、ということが分かってくるようになる。…(ここからイエローストーンの火事現場で実際に生じた松かさ論の話、さらにカオス理論、ノン・リニアシステムなど多様性論に話は延々とおよぶ)
6.1 最後に、井尻先生のお仕事、理論のコアになっているものをお聞かせ下さい。先生のユニバーシティ・プロフェッサー就任の記念講演のなかでもパワー・オブ・アナロジーとか、あるいは影響のポートフォリオ、コンフィデンスとか、興味深いお話をされておられますが
(16)…。あるいはこれから「愛と会計」とか(17)…。
井尻先生P:僕の理論という形容詞があまりよくなくて、僕っていうのはないですね。例えばカーネギーメロン大学を代表しているのはサイアート学長ですが、彼自身がカーネギーメロン大学であるとけっしていえないですね。それと僕の理論と結局同じと思う。ただ便宜上、自分の名前が付いているだけで、その蓋を開けてみるとなかに僕がいままで歩いてきた過去のパスのいろんな人の影響がそのまま残っている。なかにはいろんな人の顔をちらちら見えるわけです。理論というのは、ある意味からいうと投資信託みたいなもの。いろいろなものが混じっている。そのポートフォリオの割合がいろいろ違う。ということから名前をつけて何々理論という。しかし、僕というのはその器にすぎない…。
将来の「愛と会計」ですが、突拍子もないけれど、本当は一番難しい問題ではない。現在の会計とまったく反対という言葉が非常に難しくて、反対の会計というものに一番近そうなのは何かといえば「愛と会計」と思う。欲の会計と愛の会計、両方とも相当人間くさい。そういう意味で会計で本当に一番難しい問題は「無と会計」だと思う。数学者のスマリアンの本のなかに「無」ということについて書いている
(18)。愛の会計も欲の会計にしても「ある」ということがまず前提で、そこから計算が始まる…。そういう意味でカントールという数学者は偉いと思う。空集合ばっかりで理論ができている。無の集合でそれだけできるんだから、そこからできる会計というのも意味があるところへもっていきたい。「無の会計」は本当に難しい。愛は単位をかえればよいだけだから、かならずあると思う。無になると、少なくともマイナスとの間にゼロ…。
6.2 先生の影響のポートフォリオには哲学とか、論理学とか、数学という知的資産の組入比率がずいぶん高いように思うのですが、先生のポートフォリオのなかで高い比率で入っている資産はどのようなもので、また組入比率は時間とともに変化していくと思うのですが、将来入ってくるものとしてどのようなものを考えておられるでしょうか。
井尻先生Q:それは知識ではなく、テイスト。おやじの非常にプラグマティックなテイストと西村の非常に学問的な発想に対するあこがれ
(19)。ポートフォリオに2つあこがれがある。これでたいていカバーできる。ファウストのなかで非常に好きな言葉があっていつもよく思い出すが、「かれは天上のいちばん美しい星を取ろうとしているかと思うと、大地のもっとも深いたのしみをも極めたいと考えています」という一節がある(20)。実践的なことにも興味があるし、また非常に抽象的なことにも興味がある。あるキュオリオスティ(curiosity)をわりあい早い時期にポートフォリオのなかに入れてくれた環境は非常にありがたかった。僕のポートフォリオはほんのちょとしたことで学問的な方面だけ、あるいは実践的な方面だけということになったかもしれない。…
6.3 GSIAでの30年間をふりかえって一番想われますことはどのようなことでしょうか。
井尻先生R:やっぱり論文がとおったときが一番うれしかったですね。あのときはクーパー先生にずいぶんやられて、このまえも言ったけれど、もう論文の締め切りの前日に、あれがひとつの転機だった。あれがだめだったらちょっとガタガタとね。人生変わっていたかも。
6.4 最後になりましたが、先生にとってGSIAとはなんだったとお思いでしょうか。
井尻先生S:もう母体ですね。まだ母体のなかで羊水を吸いながら生きているような感じがする。そういう意味で「空気」というのが大切ですね。どういうものが価値があるか、ということがインプリシットに皆考えている、ということがどんどん流れるわけです。それが非常に大事ですね。…
−あとがき−
忘れもしないその日のピッツバーグは大雪であった。井尻先生が運転する車がご自宅を直前に凍結した路上でくるっと一回転。井尻先生ともども肝を冷やした。それから約一週間、これから1年間ほど住む家をさがすまで井尻先生のお宅に居候することになった。その居候のあいまにダウンタウンに一人ででかけたとき、偶然、路上で天皇の写真が大きく掲載されている新聞(ピッツバーグ・プレスという地元紙)が目に入った。新聞を買ったらそこに“achieving peace”と書いてあった。新年号がどんな漢字なのか推測できなかったが、それが「平成」であることをあとで知った。
それから早いもので平成も10年が経過した。もともと公表するつもりのない私的なインタビューであったが、10年たったら井尻先生のご了解を得て何らかのかたちで公表してみたいとも思っていた。 そして、その10年の年になった。私にとって貴重な財産ともいえるインタビュー・テープを10年ぶりに聴き、インタビューしたGSIAの教室の空気、雰囲気がまるで昨日のことのように蘇ってくる思いがするとともに、井尻先生のお話ぶりにあらてめて真摯なお人柄を感じる思いがした。
最後に、3時間近くにわたる長時間のインタビューにつき合っていただいた先生にあらためて感謝申し上げたい。また何らかの機会が得られれば、その後の10年間を振り返って、あらたなトピックなどまじえた“続編”をお聞かせいただければと思ったりする。それにしても最後の質問(6.4)へのお答えなど、私などにとってはそうした経験がないだけに、なんとも羨ましいかぎりのご心境である。
University Professor 就任講演:The Power of Analogy
以下は「GSIA MAGAZINE」(Vol.6, No.2 Spring/Summer 1988)に掲載されたUniversity Professor就任のスピーチである。
補遺2 Accounting Hall of Fame 1989(於AAAハワイ総会)
以下は、このインタビューが終わったあと先生の研究室でいただいたパンフレット「ACCOUNTING HALL OF FAME INDUCTION August 14, 1989, Honolulu, Hawaii」から「INTRODUCTION by William W. Cooper」と「RESPONSE by Yuji Ijiri」の箇所を抜粋したものである。

(注)
(1)読売新聞1989年12月17日の記事「重力対称性崩す実験」によれば、この実験が事実とすればニュートンの万有引力の発見に匹敵すると言われている。
(2)
拙稿「構造としての会計科学」(『福岡大学商学論叢』第27巻第4号、1983年3月)674−77頁では会計学の学問的性格とのかかわりで会計学においても論証問題が存在するかについて議論している。(3)
Ijiri, “The Nature of Accounting Research”, Accounting Review, Supplement 1972.(4)
井尻雄士『「利速会計」入門』(日本経済新聞社、1990年)参照。(5)ハワイでの1989年アメリカ会計学会総会での会計殿堂就任式での講演は補遺2参照。
(6)井尻雄士「アメリカ会計の発展事情−政治の中で育つ会計の道−」(『三式簿記の研究』中央経済社、
1984年、所収)参照。(7)ここでの議論に関して、井尻雄士『会計測定の理論』(東洋経済新報社、1976年)第2章「会計における論理の機能」を読まれたい。
(8)メタ・アカウンティングの意義については、井尻雄士『会計測定の基礎』(東洋経済新報社、1976年)の序文にも書かれておられるので読まれたい。また、これに関連してシャム・サンダー/山地編著『企業会計の経済学的分析』(中央経済社,1995年)第7章(井尻教授担当)の「V 会計理論の役割と深さ」を読まれることをお勧めする。ちなみに、ここでのdescribeを「説明」,prescribeを「作動」と捉えれば、通常の理論とは区別される「超理論」での「理解」の大切さに留意したい。まさに,「『理解なき説明・予測・作動』には大いに危険性がともなう」(156頁)からである。
(9)ここでの議論に関して、井尻雄士「アメリカ会計の変遷と展望」(『会計』,1998年1月)での8つの動向(とりわけ会計の「顧客化」、「多様化」、「未来化」)を読まれることをお勧めする。ちなみに、そこでの「おこぜ論」(133頁)をどう受け止めるか…。
(10)
この点については拙稿「書評:Robert W. Scapans, Management Accounting: A review of Recent Developments」(『経営研究』第42巻第2号、1991年7月)131頁注(9)を参照されたい。なお、GSIAとはカーネギーメロン大学のビジネス・スクールの名称(Graduate School of Industrial Administration)である。(11)
例えば比較的読み易くしかも興味深かったものを紹介すれば、村上陽一郎『科学のダイナミックス』(サイエンス社、1980年)とA.F.チェルマール著/高田・佐野訳『科学論の展開』(恒星社厚生閣、1983年)、である。(12)井尻先生の多様性論は、よく知る人にとっては「松かさ論」で有名。多様性論についてはいろいろなところでお話されておられるが、最近では先の井尻雄士「アメリカ会計の変遷と展望」(『会計』,1998年1月)のほかにも、「21世紀のビジネス学習のあり方」(『三田評論』1997年10月号、慶応義塾大学商学部創立40周年記念特別公開講演)も読まれたい。
(13)この点については前掲拙稿「書評:
Robert W. Scapans, Management Accounting: A Review of Recent Developments」131頁注(11)を参照されたい。(14)井尻雄士「経営管理の新しい視点−アメリカにおける最近の経営管理の実態−」
(雑誌『Systems』1987年12月号)。(15)このインタビューのちょうど1ヶ月前にベルリンの壁が取り壊された。1989年11月10日各紙新聞。
(16)
この記念講演については補遺1参照。(17)
ちなみに法律の世界では、イエール大学の刊行するロー・レビューに「愛のリステイトメント」なるものが公表されていることが、能見喜久「『愛の法律』か『法律の愛』か」(『法学教室』1999年4月号)で紹介されている。なお、リステイメントとは判例を条文のかたちで書き表したものである。(18)
R. Smullyan, 5000 B.C. and Other Philosophical Fantasies, St. Martin's Press, 1988.(19)
井尻先生には“2+1”の親父がおられるようである。ここでの西村とは義理の父親であられる故西村民之助(元同志社大学教授)であり、さらにいわば“第3の親父”といえるのがW.W.クーパー先生(テキサス大学教授)であられる。なお、クーパー先生については補遺2参照。(20)
これはファウスト第一部のプロローグ「天上の序曲」にでてくる一節である。『ゲーテ全集 第2巻』(人文書院、1960年)の大山定一翻訳より。あとで述べられておられる学問的な方面がここでの「天上の美しい星」であり、実践的な方面が「地上の深いたのしみ」ということであろう。