Nのことを、「お邸の人々も姫として認めず、軽んじた批評をし、世間でも馬鹿げたことと非難申している」と、お聞きに なると、少将が、何かの機会に、太政大臣が「本当のことか」とお尋ねになったことを、お話し申し上げると、  「いかにも。あちらでこそ、長年、噂にも立たなかった賤しい娘を迎え取って、大切にしているのだ。めったに人の悪口をおっしゃらない大臣が、わ たしの家のことは、聞き耳を立てて悪口をおっしゃるよ。それで、面目を施して晴れがましい気がする」  とおっしゃる。少将が、  「あの西の対にお置きになっていらっしゃる姫君は、たいそう申し分ない方だそうでございます。兵部卿宮などが、たいそうご熱心に苦心して求婚 なさっていらっしゃるとか。けっして並大抵の姫君ではあるまいと、世間の人々が推量しているようでございます」  と、お申し上げになると、  「さあ、それは、あの大臣の御姫君と思う程度の評判の高さだ。人の心は、皆そういうもののようだ。必ずしもそんなに優れてはいないだろう。人 並みの身分であったら、今までに評判になっていよう。  惜しいことに、大臣が、何一つ欠点もなく、この世では過ぎた方でいらっしゃるご信望やご様子でありながら、れっきとした奥方の腹に、姫君を大 切にお世話して、なるほど申し分あるまいと察せられる素晴らしい方がいらっしゃらないとは。  だいたい子供の数が少なくて、きっと心細いことだろうよ。妾腹であるが、明石の御許が生んだ娘は、あの通りまたとない運命に恵まれて、将来 にきっと頼もしかろうと思われる。  あの新しい姫君は、ひょっとしたら、実の姫君ではあるまいよ。何といっても一癖も二癖もある方だから、大事にしていらっしゃるのだろう」  と、悪口をおっしゃる。  「ところで、どのようにお決めになったのか。親王がうまく靡かせて自分のものになさるだろう。もともと格別にお仲がよいし、人物もご立派で婿君 に相応しい間柄であろうよ」  などとおっしゃっては、やはり、姫君のことが、残念でたまらない。「あのように、勿体らしく扱って、どういうふうになさる気かなどと、やきもきさせ てやりたかったものを」と癪なので、位が相当になったと見えない限りは、結婚を許せないようにお思いになるのであった。  大臣などが、丁重に口添えして覆しなさるなら、それに負けたようにして承認しようと思うが、男君の方は、一向に焦りもなさらないので、おもしろ からぬことであった。  [第八段 内大臣、雲井雁を訪う]  あれこれとご思案なさりながら、前ぶれもなく気軽にお渡りになった。少将もお供しておいでになる。  姫君は、お昼寝をなさっているところである。羅の一重をお召しになって臥せっていらっしゃる様子、暑苦しくは見えず、とてもかわいらしく小柄な 身体つきである。透けて見える肌つきなどは、とてもかわいらしい手つきして、扇をお持ちになったまま、腕を枕にして、投げ出されたお髪の具合、 そう大して長く多いというのではないが、たいそう美しい裾の様子である。  女房たちは物蔭で横になって休んでいたので、すぐにはお目覚めにならない。扇をお鳴らしになると、何気なく見上げなさった目つき、かわいらし げで、顔が赤くなっているのも、親の目にはかわいく見えるばかりである。  「うたた寝はいけないと注意申していたのに。どうして、ひどく無用心な恰好で寝ていらっしゃったのか。女房たちも近く伺候させないで、どうしたこ とか。  女性は、身を常に注意して守っているのがよいのです。気を許して無造作なふうにしているのは、品のないことです。  そうかといって、ひどく利口そうに身を堅くして、不動尊の陀羅尼を読んで、印を結んでいるようなのも憎らしい。日頃接する人にあまりよそよそし く、遠慮がすぎるのなども、上品なようなこととはいっても、小憎らしくて、かわいらしげのないことです。  太政大臣が、お后候補の姫君にしつけていらっしゃる教育は、何事でも一通りは心得ていて偏らず、特別目立つ特技もつけず、また不案内でうろ うろすることもないようにと、余裕あるふうにとお考え置いていらっしゃるという。  なるほど、もっともなことですが、人というものは、考えにも行動にも、特に好き好む方面はどうしてもあるものだから、ご成長なさった後に特徴も 現れるでしょう。あの姫君が一人前になって、入内させなさる時の様子が、とても見たいものだ」  などとおっしゃって、  「思い通りにお世話申そうと思っていた方面は、難しくなってしまったお身の上だが、何とか世間の物笑いにならないようにして差し上げようと、他 人の身の上をあれこれと聞くたびに、心配しております。  試しにとばかり熱心なふりをする男の言葉を、ここしばらくはお聞き入れになってはいけません。考えていることがございます」  などと、たいそうかわいく思いながら申し上げなさる。  「昔は、どのようなことも深くも考えないで、かえって、あの当座のつらい思いをした騒動にも、平気な顔をして父君にお会い申していたことよ」と、 今になって思い出すと、胸が塞がってひどく、恥ずかしい。  大宮からも、いつも会えないことをお恨み申されるが、このようにおっしゃるのに遠慮されて、お出かけになってお目に掛かることがおできになれ ない。   第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語  [第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮]  大臣は、この北の対の今姫君を、  「どうしたものか。よけいなことをして迎え取って。世間の人がこのように悪口を言うからといって、送り返したりするのも、まことに軽率で、気違い じみたことのようだ。こうして置いているので、本当に大切にお世話する気があるのかと、他人が噂するのも癪だ。女御の御方などに宮仕えさせ て、そうした笑い者にしてしまおう。女房たちがたいそう不細工だとけなしているらしい容貌も、そんなに言われるほどのものではない」  などとお思いになって、女御の君に、  「あの人を出仕させましょう。見ていられないようなことなどは、老いぼれた女房などをして、遠慮なく教えさせなさってお使いなさい。若い女房た ちの噂の種になるような、笑い者にはなさらないでください。それではあまりに軽率のようだ」  と、笑いながら申し上げなさる。  「どうして、そんなひどいことがございましょう。中将などが、たいそうまたとなく素晴らしいと吹聴したらしい前触れに及ばないというだけございまし ょう。このようにお騒ぎになるので、きまり悪くお思いになるにつけ、一つには気後れしているのでございましょう」  と、たいそうこちらが気恥ずかしくなるような面持ちで申し上げなさる。この女御のご様子は、何もかも整っていて美しいというのではなくて、たい そう上品で澄ましていらっしゃるが、やさしさがあって、美しい梅の花が咲き初めた朝のような感じがして、おっしゃりたいことも差し控えて微笑んで いらっしゃるのが、人とは違う、と拝見なさる。  「中将が、何といっても、思慮が足りなく調査が不十分だったので」  などと申し上げなさるが、お気の毒なお扱いであることよ。  [第二段 内大臣、近江君を訪う]  そのまま、この女御の御方を訪ねたついでに、ぶらぶらお歩きになって、お覗きになると、簾を高く押し出して、五節の君といって、気の利いた若 い女房がいるのと、双六を打っていらっしゃる。手をしきりに揉んで、  「小賽、小賽」  と祈る声は、とても早口であるよ。「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり、妻戸の細い隙間 から、襖の開いているところをお覗き込みなさる。  この従姉妹も、同じく、興奮していて、  「お返しよ、お返しよ」  と、筒をひねり回して、なかなか振り出さない。心中に思っていることはあるのかも知れないが、たいそう軽薄な振舞をしている。  器量は親しみやすく、かわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なし になっているようである。取り立てて良いというのではないが、他人だと抗弁することもできず、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が 恨めしく思われる。  「こうしていらっしゃるのは、落ち着かず馴染めないのではありませんか。大変に忙しいばかりで、お訪ねできませんが」  とおっしゃると、例によって、とても早口で、 「こうして伺候しておりますのは、何の心配がございましょうか。長年、どんなお方かとお会いしたいとお思い申し上げておりましたお顔を、常に拝見 できないのだけが、よい手を打たぬ時のようなじれったい気が致します」  とお申し上げになさる。  「なるほど、身近に使う人もあまりいないので、側に置いていつも拝見していようと、以前は思っていましたが、そうもできかねることでした。普通 の宮仕人であれば、どうあろうとも、自然と立ち混じって、誰の目にも耳にも、必ずしもつかないものですから、安心していられましょう。それであっ てさえ、誰それの娘、何がしの子と知られる身分となると、親兄弟の面目を潰す例が多いようだ。ましてや」  と言いかけてお止めになった、そのご立派さも分からず、  「いえいえ、それは、大層に思いなさって宮仕え致しましたら、窮屈でしょう。大御大壷の係なりともお仕え致しましょう」  とお答え申し上げるので、お堪えになることができず、ついお笑いになって、  「似つかわしくない役のようだ。このようにたまに会える親に孝行する気持ちがあるならば、その物をおっしゃる声を、少しゆっくりにしてお聞かせ 下さい。そうすれば、寿命もきっと延びましょう」  と、おどけたところのある大臣なので、苦笑しながらおっしゃる。  [第三段 近江君の性情]  「舌の生まれつきなのでございましょう。子供でした時でさえ、亡くなった母君がいつも嫌がって注意しておりました。妙法寺の別当の大徳が、産 屋に詰めておりましたので、それにあやかってしまったと嘆いていらっしゃいました。何とかしてこの早口は直しましょう」  と大変だと思っているのも、たいそう孝行心が深く、けなげだとお思いになる。  「その、側近くまで入り込んだ大徳こそ、困ったものです。ただその人の前世で犯した罪の報いなのでしょう。唖とどもりは、法華経を悪く言った罪 の中にも、数えているよ」  とおっしゃって、「わが子ながらも気の引けるほどの御方に、お目に掛けるのは気が引ける。どのよう考えて、こんな変な人を調べもせずに迎え取 ったのだろう」とお思いになって、「女房たちが次々と見ては言い触らすだろう」と、考え直しなさるが、  「女御が里下りしていらっしゃる時々には、お伺いして、女房たちの行儀作法を見習いなさい。特に優れたところのない人でも、自然と大勢の中に 混じって、その立場に立つと、いつか恰好もつくものです。そのような心積もりをして、お目通りなさってはいかがですか」  とおっしゃると、  「とても嬉しいことでございますわ。ただただ、何としてでも、皆様方にお認めいただくことばかりを、寝ても覚めても、長年この願い以外のことは思 ってもいませんでした。お許しさえあれば、水を汲んで頭上に乗せて運びましても、お仕え致しましょう」  と、たいそういい気になって、一段と早口にしゃべるので、どうしようもないとお思いになって、  「そんなにまで、自分自身で薪をお拾いにならなくても、参上なさればよいでしょう。ただあのあやかったという法師さえ離れたならばね」  と、冗談事に紛らわしておしまいになるのも気づかずに、同じ大臣と申し上げる中でも、たいそう美しく堂々として、きらびやかな感じがして、並々 の人では顔を合わせにくい程立派な方とも分からずに、  「それでは、いつ女御殿の許に参上するといたしましょう」  とお尋ね申すので、  「吉日などと言うのが良いでしょう。いや何、大げさにすることはない。そのようにお思いならば、今日にでも」  と、お言い捨てになって、お渡りになった。  [第四段 近江君、血筋を誇りに思う]  立派な四位五位たちが、うやうやしくお供申し上げて、ちょっとどこかへお出ましになるにも、たいそう堂々とした御威勢なのを、お見送り申し上げ て、  「何と、まあ、ご立派なお父様ですわ。このような方の子供でありながら、賤しい小さい家で育ったこととは」  とおっしゃる。五節は、  「あまり立派過ぎて、こちらが恥ずかしくなる方でいらっしゃいますわ。相応な親で、大切にしてくれる方に、捜し出しされなさったならよかったの に」  と言うのも、無理な話である。  「いつもの、あなたが、わたしの言うことをぶちこわしなさって、心外だわ。今は、友達みたいな口をきかないでよ。将来のある身の上なのようです から」  と、腹をお立てになる顔つきが、親しみがあり、かわいらしくて、ふざけたところは、それなりに美しく大目に見られた。  ただひどい田舎で、賤しい下人の中でお育ちになっていたので、物の言い方も知らない。大したことのない話でも、声をゆっくりと静かな調子で言 い出したのは、ふと聞く耳でも、格別に思われ、おもしろくない歌語りをするのも、声の調子がしっくりしていて、先が聞きたくなり、歌の初めと終わ りとをはっきり聞こえないように口ずさむのは、深い内容までは理解しないまでもの、ちょっと聞いたところでは、おもしろそうだと、聞き耳を立てるも のである。  たとえまことに深い内容の趣向ある話をしたとしても、相当な嗜みがあるとも聞こえるはずもない、うわずった声づかいをしておっしゃる言葉はごつ ごつして、訛があって、気ままに威張りちらした乳母に今も馴れきっているふうに、態度がたいそう不作法なので、悪く聞こえるのであった。  まったくお話にならないというのではないが、三十一文字の、上句と下句との意味が通じない歌を、早口で続けざまに作ったりなさる。  [第五段 近江君の手紙]  「ところで、女御様に参上せよとおっしゃったのを、しぶるように見えたら、不快にお思いになるでしょう。夜になったら参上しましょう。大臣の君が、 世界一大切に思ってくださっても、ご姉妹の方々が冷たくなさったら、お邸の中には居られましょうか」  とおっしゃる。ご声望のほどは、たいそう軽いことであるよ。  さっそくお手紙を差し上げなさる。  「お側近くにおりながら、今までお伺いする幸せを得ませんのは、来るなと関所をお設けになったのでしょうか。お目にかかってはいませんのに、 お血続きの者ですと申し上げるのは、恐れ多いことですが。まことに失礼ながら、失礼ながら」  と、点ばかり多い書き方で、その裏には、  「実は、今晩にも参上しようと存じますのは、お厭いになるとかえって思いが募るのでしょうか。いいえ、いいえ、見苦しい字は大目に見ていただ きたく」  とあって、また端の方に、このように、  「未熟者ですが、いかがでしょうかと   何とかしてお目にかかりとうございます  並一通りの思いではございません」  と、青い色紙一重ねに、たいそう草仮名がちの、角張った筆跡で、誰の書風を継ぐとも分からない、ふらふらした書き方も下長で、むやみに気取っ ているようである。行の具合は、端に行くほど曲がって来て、倒れそうに見えるのを、にっこりしながら見て、それでもたいそう細く小さく巻き結ん で、撫子の花に付けてあった。  [第六段 女御の返事]  樋洗童は、たいそうもの馴れた態度できれいな子で、新参者なのであった。女御の御方の台盤所に寄って、  「これを差し上げてください」  と言う。下仕えが顔を知っていて、  「北の対に仕えている童だわ」  と言って、お手紙を受け取る。大輔の君というのが、持参して、開いて御覧に入れる。  女御が、苦笑してお置きあそばしたのを、中納言の君という者が、お近くにいて、横目でちらちらと見た。  「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」  と、見たそうにしているので、  「草仮名の文字は、読めないからかしら、歌の意味が続かないように見えます」  とおっしゃって、お下しになった。  「お返事は、このように由緒ありげに書かなかったら、なっていないと軽蔑されましょう。そのままお書きなさい」  と、お任せになる。そう露骨に現しはしないが、若い女房たちは、何ともおかしくて、皆笑ってしまった。お返事を催促するので、  「風流な引歌ばかり使ってございますので、お返事が難しゅうございます。代筆めいては、お気の毒でしょう」  と言って、まるで、女御のご筆跡のように書く。  「お近くにいらっしゃるのにその甲斐なく、お目にかかれないのは、恨めしく存じられまして、   常陸にある駿河の海の須磨の浦に   お出かけくだい、箱崎の松が待っています」  と書いて、読んでお聞かせす申すと、  「まあ、困りますわ。ほんとうにわたしが書いたのだと言ったらどうしましょう」  と、迷惑そうに思っていらっしゃったが、  「それは聞く人がお分かりでございましょう」  と言って、紙に包んで使いにやった。  御方が見て、  「しゃれたお歌ですこと。待っているとおっしゃっているわ」  と言って、たいそう甘ったるい薫物の香を、何度も何度も着物にた焚きしめていらっしゃった。紅というものを、たいそう赤く付けて、髪を梳いて化粧 なさったのは、それなりに派手で愛嬌があった。ご対面の時、さぞ出過ぎたこともあったであろう。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 1/14/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    篝火 光る源氏の太政大臣時代三十六歳の初秋の物語 第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語 1.近江君の世間の噂---近頃、世間の人の噂に 2.初秋の夜、源氏、玉鬘と語らう---秋になった。初風が涼しく吹き出して 3.柏木、玉鬘の前で和琴を演奏---お便りに、「こちらに、たいそう涼しい火影の篝火に   第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語  [第一段 近江君の世間の噂]  近頃、世間の人の噂に、「内の大殿の今姫君は」と、何かにつけては言い触らすのを、源氏の大臣がお聞きあそばして、  「何はともあれ、人目につくはずもなく家に籠もっていたような女の子を、少々の口実はあったにせよ、あれほど仰々しく引き取った上で、このよう に、女房として人前に出して、噂されたりするのは納得できないことだ。たいそう物事にけじめをつけすぎなさるあまりに、深い事情も調べずに、お 気に入らないとなると、このような体裁の悪い扱いになるのだろう。何事も、やり方一つで、穏やかにすむものなのだ」  とお気の毒がりなさる。  このような噂につけても、「ほんとうによくこちらに引き取られてものだ、親と申し上げながらも、長年のお気持ちを存じ上げずに、お側に参っていた ら、恥ずかしい思いをしただろうに」と、対の姫君はお分りになるが、右近もとてもよくお申し聞かせていた。  困ったお気持ちがおありであったが、そうかといって、お気持ちの赴くままに無理押しなさらず、ますます深い愛情ばかりがお増しになる一方なの で、だんだんとやさしく打ち解け申し上げなさる。  [第二段 初秋の夜、源氏、玉鬘と語らう]  秋になった。初風が涼しく吹き出して、ものさびしい気持ちがなさるので、堪えかねては、たいそうしきりにお渡りになって、一日中おいでになっ て、お琴などをお教え申し上げなさる。  五、六日の夕月夜はすぐに沈んで、少し雲に隠れた様子、荻の葉音もだんだんしみじみと感じられるころになった。お琴を枕にして、一緒に横に なっていらっしゃる。このような例があろうかと、溜息をもらしながら夜更かしなさるのも、女房が変だと思い申すだろうことをお思いになって、お渡り になろうとして、御前の篝火が少し消えかかっているのを、お供の右近の大夫を召して、点灯させなさる。  たいそう涼しそうな遣水のほとりに、格別風情ありげに枝を広げている檀の木の下に、松の割木を目立たない程度に積んで、少し下がって篝火を 焚いているので、御前の方は、たいそう涼しくちょうどよい程度の明るさで、女のお姿は見れば見るほど美しい。お髪の手あたり具合など、とてもひ んやりと気品のある感じがして、身を固くして恥ずかしがっていらっしゃる様子、たいそうかわいらしい。帰りづらくぐずぐずしていらっしゃる。  「しじゅう誰かいて、篝火を焚いていよ。夏の月のないころは、庭に光がないと、何か気味が悪く、心もとないから」  とおっしゃる。  「篝火とともに立ち上る恋の煙は   永遠に消えることのないわたしの思いなのです  いつまで待てとおっしゃるのですか。くすぶる火ではないが、苦しい思いでいるのです」  と申し上げなさる。女君は、「奇妙な仲だわ」とお思いになると、  「果てしない空に消して下さいませ   篝火とともに立ち上る煙とおっしゃるならば  人が変だと思うことでございますわ」  とお困りになるので、「さあて」と言って、お出になると、東の対の方に美しい笛の音が、箏と合奏してい た。  「中将が、いつものように一緒にいる仲間たちと合奏しているようだ。頭中将であろう。たいそう見事に吹く笛の音色だなあ」  と言って、お立ち止まりなさる。  [第三段 柏木、玉鬘の前で和琴を演奏]  お便りに、「こちらに、たいそう涼しい火影の篝火に、引き止められています」  とおっしゃったので、連れだって三人参上なさった。  「風の音は秋になったと、聞こえる笛の音色に、我慢ができなくてね」  と言って、お琴を取り出して、やさしい感じにお弾きになる。源中将は、「盤渉調」にたいそう美しく吹いた。頭中将は、気をつかって歌いにくそうに している。「遅い」というので、弁少将が、拍子を打って、静かに歌う声は、鈴虫かと思うほどである。二度ほど歌わせなさって、お琴は中将にお譲り あそばした。まことに、あの父大臣のお弾きになる音色に、少しも劣らず、派手で素晴らしい。  「御簾の中に、音楽の分かる人がいらっしゃるようだ。今晩は、杯なども気をつかわれよ。盛りを過ぎた者は、酔泣きする折に、言わなくともよいこ とまで言ってしまうかもしれない」  とおっしゃると、姫君もまことにしみじみとお聞きになる。  切っても切れないご姉弟の関係は、並々ならぬものだからであろうか、この君たちを人に分からないように目にも耳にも止めていらっしゃるが、よ もやそんなことは思いも寄らず、この中将は、心のありったけを尽くして、思慕のことで、このような機会にも、抑えきれない気がするが、見苦しくな いように振る舞って、少しも気を許して琴を弾き続けることができない。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 1/19/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    野分 光る源氏の太政大臣時代三十六歳の秋野分の物語 第一章 夕霧の物語 継母垣間見の物語 1.八月野分の襲来---中宮のお庭先に、秋の花をお植えあそばしていらっしゃることは 2.夕霧、紫の上を垣間見る---南の御殿でも、お庭先の植え込みを手入れさせていらっしゃったちょうどそのころ 3.夕霧、三条宮邸へ赴く---家司たちが参上して、「たいそうひどい勢いになりそうでございます 4.夕霧、暁方に六条院へ戻る---明け方に風が少し湿りを含んで、雨が村雨のように降り出す 5.源氏、夕霧と語る---御格子をご自身でお上げになるので 6.夕霧、中宮を見舞う---中将は御前を辞して、中の廊の戸を通って、参上なさる 第二章 光源氏の物語 六条院の女方を見舞う物語 1.源氏、中宮を見舞う---南の御殿では、御格子をすっかり上げて、昨夜 2.源氏、明石御方を見舞う---こちらから、そのまま北の町に抜けて、明石の御方を 3.源氏、玉鬘を見舞う---西の対では、恐ろしく思って夜をお明かしになった 4.夕霧、源氏と玉鬘を垣間見る---中将は、たいそう親しげにお話し申し上げていらっしゃるのを 5.源氏、花散里を見舞う---東の御方へ、ここからお渡りになる 第三章 夕霧の物語 幼恋の物語 1.夕霧、雲井雁に手紙を書く---気疲れのする方々をお回りになるお供をして歩いて 2.夕霧、明石姫君を垣間見る---お戻りあそばすというので、女房たちがざわめき 3.内大臣、大宮を訪う---祖母宮のお側に参上なさると   第一章 夕霧の物語 継母垣間見の物語  [第一段 八月野分の襲来]  中宮のお庭先に、秋の花をお植えあそばしていらっしゃることは、例年よりも見る価値が多くあって、ありとあらゆる種類の花を植えて、風情のあ る皮のある木と皮をはいだ木との籬垣を結い混ぜて、同じ花の枝ぶりや、姿は、朝夕の露の光も世間のと違って、玉かと輝いて、お造りになった野 辺の色彩を見ると、一方では、春の山もつい忘れられて、さわやかで気分が晴々するようで、心も浮き立つほどである。  春秋の優劣に、昔から秋に心を寄せる人は数多くいたが、名高い春のお庭先の花園に心を寄せた人々が、再び掌を返すように秋に心変わりする 様子は、時勢におもねる世情と似ていた。  この庭をお気に召して、里住みなさっていらっしゃる間に、管弦のお遊びなども催したいところであるが、八月は故前坊の御忌月にあたるので、気 になさりながら毎日過ごしていらっしゃったが、この花の色がいよいよ美しくなっていく様子を御覧になっていると、野分が、いつもの年よりも激しく、 空も変わって風が吹き出す。  いろいろの花が萎れるのを、それほどにも思わない人でさえも、まあ、困ったことと心を痛めるのに、まして、草むらの露の玉が乱れるにつれて、 お気もどうにかなってしまいそうにご心配あそばしていらっしゃった。大空を覆うほどの袖は、秋の空にこそ欲しい感じがした。日が暮れて行くにつ れて、何も見えないほど吹き荒れて、たいそう気味が悪いなので、御格子などをお下ろしになったが、不安でたまらないと花の身をご心配あそば す。  [第二段 夕霧、紫の上を垣間見る]  南の御殿でも、お庭先の植え込みを手入れさせていらっしゃったちょうどそのころ、このように野分が吹き出して、株もまばらな小萩が、待ってい た風にしては激し過ぎる吹き具合である。枝も折れ曲がって、露も結ばないほど吹き散らすのを、少し端近くに出て御覧になる。  大臣は、姫君のお側にいらっしゃった時に、中将の君が参上なさって、東の渡殿の小障子の上から、妻戸の開いている隙間を、何気なく覗き込 みなさると、女房たちが大勢見えるので、立ち止まって、音を立てないで見る。  御屏風も、風がひどく吹いたので、押したたんで隅に寄せてあるので、すっかり見通せる廂の御座所に座っていらっしゃる方、他の人と間違えよう もない、気高く清らかで、ぱっと輝く感じがして、春の曙の霞の間から、美しい樺桜が咲き乱れているのを見る感じがする。どうにもならぬほど、拝 見している自分の顔にもふりかかってくるように、魅力的な美しさが一面に広がって、二人といないご立派な方のお姿である。  御簾の吹き上げられるのを、女房たちが押さえて、どうしたのであろうか、にっこりとなさっているのが、何とも美しく見える。いろいろな花を心配な さって、見捨てて中にお入りになることができない。お側に仕える女房たちも、それぞれにこざっぱりとした姿に見えるが、目が止まるはずもない。  「大臣がたいそう遠ざけていらっしゃるのは、このように見る人が心を動かさずにはいられないお美しさなので、用心深いご性質から、万一、この ようなことがあってはいけないと、ご懸念になっていたのだ」  と思うと、何となく恐ろしい気がして、立ち去ろうとする、その時、西のお部屋から、内の御障子を引き開けてお越しになる。  「とてもひどい、気ぜわしい風ですね。御格子を下ろしなさいよ。男たちがいるだろうに、丸見えになっては大変だ」  と申し上げなさるのを、再び近寄って見ると、何か申し上げて、大臣もにっこりしてお顔を拝していらっしゃる。親とも思われず、若々しく美しく優雅 で、素晴らしい盛りのお姿である。  女もすっかり成人なさって、何一つ不足のないお二方のご様子であるのを、身にしみて美しく感じられるが、この渡殿の格子も風が吹き放って、 立っている所が丸見えになったので、恐ろしくなって立ち退いた。 今ちょうど参上したように咳払いして、簀子の方に歩き出しなさると、  「そらごらん。見えたかもしれない」  とおっしゃって、「あの妻戸が開いていたことよ」と、今見てお気づきになる。  「長年このようなことはちっともなかったものを。風は、ほんとうに巌も吹き上げてしまうものなのだなあ。あれほどご用心の深い方々のお心を騒が せて。珍しく嬉しい目を見たものだ」と思わずにはいられない。  [第三段 夕霧、三条宮邸へ赴く]  家司たちが参上して、  「たいそうひどい勢いになりそうでございます。丑寅の方角から吹いて来ますので、こちらのお庭先は静かなのです。馬場殿や南の釣殿などは危 なそうです」  と申して、あれこれと作業に大わらわとなる。  「中将は、どこから参ったのか」  「三条宮におりましたが、『風が激しくなるだろう』と、人々が申しましたので、気がかりで参上いたしました。あちらでは、ここ以上に心細く、風の 音も、今ではかえって幼い子供のように恐がっていらっしゃるようなので。おいたわしいので、失礼いたします」  とご挨拶申し上げなさると、  「なるほど、早く、行って上げなさい。年をとるにつれて、再び子供のようになることは、まったく考えられないことだが、なるほど、老人はそうしたも のだ」  などと、ご同情申し上げなさって、  「このように風が騒がしそうでございますが、この朝臣がお側におりましたらばと、存じまして代わらせました」  と、お手紙をお託しになる。  道中、激しく吹き荒れる風だが、几帳面でいらっしゃる君なので、三条宮と六条院とに参上して、お目通りなさらない日はない。内裏の御物忌み などで、どうしてもやむを得ず宿直しなければならない日以外は、忙しい公事や、節会などの、時間がかかり、用事が多い時に重なっても、真っ先 にこの院に参上して、三条宮からご出仕なさったので、まして今日は、このような空模様によって、風より先に立ってあちこち動き回るのは、孝心深 そうに見える。  大宮は、たいそう嬉しく頼もしくお待ち受けになって、  「この年になるまで、いまだこのように激しい野分には遭わなかった」  と、ただ震えに震えてばかりいらっしゃる。  大きな木の枝などが折れる音も、たいそう気味が悪い。御殿の瓦まで残らず吹き飛ばすので、  「よくぞおいで下さいましたこと」  と、脅えながらも挨拶なさる。あれほど盛んだったご威勢も今はひっそりとして、この君一人を頼りに思っていらっしゃるのは、無常な世の中であ る。今でも世間一般のご声望が衰えていらっしゃることはないけれども、内の大殿のご態度は、親子であるのにかえって疎遠のようであったのだ。  中将は、一晩中激しい風の音の中でも、何となくせつなく悲しい気持ちがする。心にかけて恋しいと思っていた人のことは、ついさしおかれて、先 程の御面影が忘れられないのを、  「これは、どうしたことだろう。だいそれた料簡を持ったら大変だ。とても恐ろしいことだ」  と、自分自身で気を紛らわして、他の事に考えを移したが、やはり、思わず御面影がちらついては、  「過去にも将来にも、めったにいない素晴らしい方でいらっしゃったなあ。このような素晴らしいご夫婦仲に、どうして東の御方が、夫人の一人とし て肩を並べなさったのだろうか。比べようもないことだな。ああ、お気の毒な」  とつい思わずにはいられない。大臣のお気持ちをご立派だとお分かりになる。  人柄がたいそう誠実なので、不相応なことを考えはしないが、「あのような美しい方とこそ、同じ結婚をするなら、妻にして暮らしたいものだ。限り のある寿命も、きっともう少しは延びるだろう」と、自然と思い続けられる。  [第四段 夕霧、暁方に六条院へ戻る]  明け方に風が少し湿りを含んで、雨が村雨のように降り出す。  「六条院では、離れている建物が幾棟か倒れた」  などと人々が申す。  「風が吹き巻いているうちは、広々とはなはだ高い感じのする六条院には、家司たちは、殿のいらっしゃる御殿あたりには大勢詰めていようが、 東の町などは、人少なで心細く思っていらっしゃることだろう」  とお気づきになって、まだ夜がほんのりとする時分に参上なさる。  道中、横なぐりの雨がとても冷たく吹き込んでくる。空模様も恐ろしいうえに、妙に魂も抜け出たような感じがして、  「どうしたことか。更に自分の心に物思いが加わったことよ」と思い出すと、「まことに似つかわしくないことでであるよ。ああ、気違いじみている」  と、あれやこれやと思いながら、東の御方にまず参上なさると、脅えきっていらっしゃったところなるので、いろいろとお慰め申して、人を呼んで、あ ちこち修繕すべきことを命じ置いて、南の御殿に参上なさると、まだ御格子も上げていない。  いらっしゃる近くの高欄に寄り掛かって、見渡すと、築山の多数の木を吹き倒して、枝がたくさん折れて落ちていた。草むらは言うまでもなく、桧 皮、瓦、あちこちの立蔀、透垣などのような物までが散乱していた。  日がわずかに差したところ、悲しい顔をしていた庭の露がきらきらと光って、空はたいそう冷え冷えと霧がかかっているので、何とはなしに涙が落 ちるのを、拭い隠して、咳払いをなさると、  「中将が挨拶しているようだ。夜はまだ深いことだろうな」  とおっしゃって、お起きになる様子である。何事であろうか、お話し申し上げなさる声はしないで、大臣がお笑いになって、  「昔でさえ味わわせることのなかった、暁の別れですよ。今になって経験なさるのは、つらいことでしょう」  とおっしゃって、しばらくの間仲睦まじくお語らいになっていらっしゃるお二方のご様子は、たいそう優雅である。女のお返事は聞こえないが、かす かながら、このように冗談を申し上げなさる言葉の様子から、「水も漏らさないご夫婦仲だな」と、聞いていらっしゃった。  [第五段 源氏、夕霧と語る]  御格子をご自身でお上げになるので、あまりに近くにいたのが具合悪く、退いて控えていらっしゃる。  「どうであった。昨夜は、大宮はお待ちかねでお喜びになったか」  「はい。ちょっとしたことにつけても、涙もろくいらっしゃいますので、たいそう困ったことでございます」  と申し上げなさると、お笑いになって、  「もう先も長くはいらっしゃるまい。ねんごろにお世話して上げるがよい。内大臣は、こまかい情愛がないと、愚痴をこぼしていらっしゃった。人柄は 妙に派手で、男性的過ぎて、親に対する孝養なども、見ための立派さばかりを重んじて、世間の人の目を驚かそうというところがあって、心底のし みじみとした深い情愛はない方でいらっしゃった。それはそれとして、物事に思慮深く、たいそう賢明な方で、この末世では過ぎたほど学問も並ぶ 者がなく、閉口するほどだが。人間として、このように欠点のないことは難しいことだなあ」  などとおっしゃる。  「たいそうひどい風だったが、中宮の御方には、しっかりした宮司などは控えていただろうか」  とおっしゃって、この中将の君を使者として、お見舞を差し上げなさる。  「昨夜の風の音は、どのようにお聞きあそばしましたでしょうか。吹き荒れていましたが、あいにく風邪をひきまして、とてもつらいので、休んでい たところでございました」  とご伝言申し上げなさる。  [第六段 夕霧、中宮を見舞う]  中将は御前を辞して、中の廊の戸を通って、参上なさる。朝日をうけたお姿は、とても立派で素晴らしい。東の対の南の側に立って、寝殿の方を 遥かに御覧になると、御格子は、まだ二間ほど上げたばかりで、かすかな朝日の中に、御簾を巻き上げて、女房たちが座っていた。  高欄にいく人も寄り掛かっている、若々しい女房ばかりが大勢見える。気を許している姿はどんなものであろうか、はっきり見えない早朝では、色 とりどりの衣装を着た姿は、どれもこれも美しく見えるものでる。  童女を庭にお下ろしになって、いくつもの虫籠に露をおやりになっていらっしゃるのであった。紫苑、撫子、濃い薄い色の袙の上に、女郎花の汗衫 などのような、季節にふさわしい衣装で、四、五人連れ立って、あちらこちらの草むらに近づいて、色とりどりの虫籠をいくつも持ち歩いて、撫子など の、たいそう可憐な枝をいく本も取って参上する、その霧の中に見え隠れする姿は、たいそう優艷に見えるのであった。  あとから吹いて来る追風は、紫苑の花すべてが匂う空も、薫物の香も、お触れになった御移り香のせいかと、想像されるのもまことにみごとなの で、つい緊張されて、御前に進みにくいけれども、小声で咳払いして、お歩き出しになると、女房たちははっきりと驚いた顔ではないが、皆奥に入っ てしまった。  御入内されたころなどは、子供だったので、御簾の中によくお入りなにっていたので、女房なども、たいしてよそよそしくはない。お見舞いを言上さ せなさって、宰相の君や、内侍などのいる様子がするので、私事も小声でお話しになる。こちらはこちらで、何といっても、気品高く暮らしていらっし ゃる様子を見るにつけ、さまざまなことが思い出される。   第二章 光源氏の物語 六条院の女方を見舞う物語  [第一段 源氏、中宮を見舞う]  南の御殿では、御格子をすっかり上げて、昨夜、見捨てることのできなかった花々が、見るかげもなく萎れて倒れているのを御覧になった。中将 が、御階にお座りになって、お返事を申し上げなさる。  「激しい風を防いでくださいましょうかと、子供のように心細がっておりましたが、今はもう安心しました」  と申し上げなさると、  「妙に気が弱くいらっしゃる宮だ。女ばかりでは、空恐ろしくお思いであったに違いない昨夜の様子だったから、おっしゃる通り、不親切だとお思い になったことであろう」  とおっしゃって、すぐに参上なさる。御直衣などをお召しになろうとして、御簾を引き上げてお入りになる時、「低い御几帳を引き寄せて、わずかに 見えたお袖口は、きっとあの方であろう」と思うと、胸がどきどきと高鳴る気がするのも、いやな感じので、他の方へ視線をそらした。  殿が御鏡などを御覧になって、小声で、  「中将の朝の姿は、美しいな。今はまだ、子供のはずなのに、不体裁でなく見えるのも、親心の迷いからであろうか」  と言って、ご自分のお顔は、年を取らず美しいと御覧のようです。とてもたいそう気をおつかいになって、  「中宮にお目にかかるのは、気後れする感じがします。特に人目につく趣味ありげなところも、お見えでない方だが、奥の深い感じがして何かと 気をつかわされるお人柄も方です。とてもおっとりして女らしい感じですが、なにかおもちのようでいらっしゃいますよ」  とおっしゃって、外にお出になると、中将は物思いに耽って、すぐにはお気づきにならない様子で座っていらっしゃったので、察しのよい人のお目に はどのようにお映りになったことか、引き返してきて、女君に、  「昨日、風の騷ぎに、中将はお隙見したのではないでしょうか。あの妻戸が開いていたからね」  とおっしゃると、お顔を赤らめて、  「どうして、そのようなことがございましょう。渡殿の方には、人の物音もしませんでしたもの」  とお答え申し上げなさる。  「やはり、変だ」と独り言をおっしゃって、お渡りになりった。  御簾の中にお入りになってしまったので、中将は、渡殿の戸口に女房たちのいる様子がしたので近寄って、冗談を言ったりするが、悩むことのあ れこれが嘆かわしくて、いつもよりもしんみりとしていらっしゃった。  [第二段 源氏、明石御方を見舞う]  こちらから、そのまま北の町に抜けて、明石の御方をお見舞いになると、これといった家司らしい人なども見えず、もの馴れた下女どもが、草の中 を分け歩いている。童女などは、美しい衵姿にくつろいで、心をこめて特別にお植えになった龍胆や、朝顔の蔓が這いまつわっている籬垣も、みな 散り乱れているのを、あれこれと引き出して、元の姿を求めているのであろう。  何となくもの悲しい気分で、箏の琴をもてあそびながら、端近くに 座っていらっしゃるところに、御前駆の声がしたので、くつろいだ糊気のない不断着姿の上に、小袿を衣桁から引き下ろしてはおって、きちんとして 見せたのは、たいそう立派なものである。端の方にちょっとお座りになって、風のお見舞いだけをおっしゃって、そっけなくお帰りになるのが、恨めし げである。  「ただ普通に荻の葉の上を通り過ぎて行く風の音も   つらいわが身だけにはしみいるような気がして」  とつい独り言をいうのであった。  [第三段 源氏、玉鬘を見舞う]  西の対では、恐ろしく思って夜をお明かしになった、その影響で、寝過ごして、今やっと鏡などを御覧になるのであった。  「仰々しく先払い、するな」  とおっしゃるので、特に音も立てないでお入りになる。屏風などもみな畳んで隅に寄せ、乱雑にしてあったところに、日がぱあっと照らし出した時、 くっきりとした美しい様子をして座っていらっしゃった。その近くにお座りになって、いつものように、風の見舞いにかこつけても同じように、厄介な冗 談を申し上げなさるので、たまらなく嫌だわと思って、  「このように情けないなので、昨夜の風と一緒に飛んで行ってしまいとうございましたわ」  と、御機嫌を悪くなさると、たいそうおもしろそうにお笑いになって、  「風と一緒に飛んで行かれるとは、軽々しいことでしょう。そうはいっても、落ち着くところがきっとあることでしょう。だんだんこのようなお気持ちが 出てきたのですね。もっともなことです」  とおっしゃるので、  「なるほど、ふと思ったままに申し上げてしまったわ」  とお思いになって、自分自身でもほほ笑んでいらっしゃるのが、とても美しい顔色であり、表情である。酸漿などというもののようにふっくらとして、 髪のかかった隙間から見える頬の色艶が美しく見える。目もとのほがらか過ぎる感じが、特に上品とは見えなかったのであった。その他は、少しも 欠点のつけようがなかった。  [第四段 夕霧、源氏と玉鬘を垣間見る]  中将は、たいそう親しげにお話し申し上げていらっしゃるのを、「何とかこの姫君のご器量を見たいものだ」と思い続けていたので、隅の間の御簾 を、その奥に几帳は立ててあったがきちんとしていなかったので、静かに引き上げて中を見ると、じゃま物が片づけてあったので、たいそうよく見え る。このようにふざけていらっしゃる様子がはっきりわかるので、  「妙なことだ。親子とは申せ、このように懐に抱かれるほど、馴れ馴れしくしてよいものだろうか」  と目がとまった。「見つけられはしまいか」と恐ろしいけれども、変なので、びっくりして、なおも見ていると、柱の陰に少し隠れていらっしゃったの を、引き寄せなさると、御髪が横になびいて、はらはらとこぼれかかったところ、女も、とても嫌でつらいと思っていらっしゃる様子ながら、それでも穏 やかな態度で、寄り掛かっていらっしゃるのは、  「すっかり親密な仲になっているらしい。いやはや、ああひどい。どうしたことであろうか。抜け目なくいらっしゃるご性分だから、最初からお育てに ならなかった娘には、このようなお思いも加わるのだろう。もっともなことだが。ああ、嫌だ」  と思う自分自身までが気恥ずかしい。「女のご様子は、なるほど、姉弟といっても、少し縁遠くて、異母姉弟なのだ」などと思うと、「どうして、心得 違いを起こさないだろうか」と思われる。  昨日拝見した方のご様子には、どこか劣って見えるが、一目見ればにっこりしてしまうところは、肩も並べられそうに見える。八重山吹の花が咲き 乱れた盛りに、露の置いた夕映えのようだと、ふと思い浮かべずにはいられない。季節に合わないたとえだが、やはり、そのように思われるのであ るよ。花は美しいといっても限りがあり、ばらばらになった蘂などが混じっていることもあるが、姫君のお姿の美しさは、たとえようもないものなので あった。  御前には女房も出て来ず、たいそう親密に小声で話し合っていらっしゃったが、どうしたのであろうか、真面目な顔つきでお立ち上がりになる。女 君は、  「吹き乱す風のせいで女郎花は   萎れてしまいそうな気持ちがいたします」  はっきりとは聞こえないが、お口ずさみになるのをかすかに聞くと、憎らしい気がする一方で興味がわくので、やはり最後まで見届たいが、「近く にいたなと悟られ申すまい」と思って、立ち去った。  お返歌は、  「下葉の露になびいたならば   女郎花は荒い風には萎れないでしょうに  なよ竹を御覧なさい」  などと、聞き間違いであろうか、あまり聞きよい歌ではない。  [第五段 源氏、花散里を見舞う]  東の御方へ、ここからお渡りになる。今朝の寒さのせいで内輪の仕事であろうか、裁縫などをする老女房たちが御前に大勢いて、細櫃らしい物 に、真綿をひっかけて延ばしている若い女房たちもいる。とても美しい朽葉色の羅や、流行色でみごとに艶出ししたのなどを、ひき散らかしていらっ しゃった。  「中将の下襲か。御前での壷前栽の宴もきっと中止になるだろう。このように吹き散らしたのでは、何の催し事ができようか。興ざめな秋になりそ うだ」  などとおっしゃって、何の着物であろうか、さまざまな衣装の色が、とても美しいので、「このような技術は南の上にも負けない」とお思いになる。 御直衣、花文綾を、近頃摘んできた花で、薄く染め出しなさったのは、たいそう申し分ない色をしていた。  「中将にこそ、このようなのをお着せなさるがよい。若い人の直衣として無難でしょう」  などというようなことを申し上げなさって、お渡りになった。   第三章 夕霧の物語 幼恋の物語  [第一段 夕霧、雲井雁に手紙を書く]  気疲れのする方々をお回りになるお供をして歩いて、中将は、何となく気持ちが晴れず、書きたい手紙など、日が高くなってしまうのを心配しなが ら、姫君のお部屋に参上なさった。  「まだあちらにおいであそばします。風をお恐がりあそばして、今朝はお起きになれませんでしたこと」  と、御乳母が申し上げる。  「ひどい荒れようでしたから、宿直しようと存じましたが、宮が、たいそう恐がっていらっしゃったものですから。お雛様の御殿は、いかがでいらっし ゃいましたか」  とお尋ねになると、女房たちは笑って、  「扇の風でさえ吹けば、たいへんなことにお思いになっているのを、危うく吹き壊されるところでございました。この御殿のお世話に、困りっており ます」などと話す。  「大げさでない紙はありませんか。お局の硯を」  とお求めになると、御厨子に近寄って、紙一巻を、御硯箱の蓋に載せて差し上げたので、  「いや、これは恐れ多い」  とおっしゃるが、北の御殿の世評を考えれば、そう気をつかうほどでもない気がして、手紙をお書きになる。  紫の薄様の紙であった。墨は、ていねいにすって、筆先を見い見いして、念を入れて書きながら筆を休めていらっしゃるのが、とても素晴らしい。 けれども、妙に型にはまって、感心しない詠みぶりでいらっしゃった。  「風が騒いでむら雲が乱れる夕べにも   片時の間もなく忘れることのできないあなたです」  風に吹き乱れた刈萱にお付けになったので、女房たちは、  「交野の少将は、紙の色と同じ色の物に揃えましたよ」と申し上げる。  「それくらいの色も考えつかなかったな。どこの野の花を付けようか」  などと、このような女房たちにも、言葉少なに応対して、気を許すふうもなく、とてもきまじめで気品がある。  もう一通お書きになって、右馬助にお渡しになったので、美しい童や、またたいそう心得ている御随身などに、ひそひそとささやいて渡すのを、若 い女房たちは、ひどく知りたがっている。  [第二段 夕霧、明石姫君を垣間見る]  お戻りあそばすというので、女房たちがざわめき、几帳を元に直したりする。先ほど見た花の顔たちと、比べて見たくて、いつもは覗き見など関心 もない人なのに、無理に、妻戸の御簾に身体を入れて、几帳の隙間を見ると、物蔭から、ちょうどいざっていらっしゃるところが、ふと目に入った。  女房が大勢行ったり来たりするので、はっきりわからないほどなので、たいそうじれったい。薄紫色のお召物に、髪がまだ背丈には届いていない 末の広がったような感じで、たいそう細く小さい身体つきが可憐でいじらしい。  「一昨年ぐらいまでは、偶然にもちらっとお姿を拝見したが、またすっかり成長なさったようだ。まして盛りになったらどんなに美しいだろう」と思う。 「あの前に見た方々を、桜や山吹と言ったら、この方は藤の花と言うべきであろうか。木高い木から咲きかかって、風になびいている美しさは、ちょ うどこのような感じだ」と思い比べられる。「このような方々を、思いのままに毎日拝見していたいものだ。そうあってもよい身内の間柄なのに、事ご とに隔てを置いて厳しいのが恨めしいことだ」などと思うと、誠実な心も、何やら落ち着かない気がする。  [第三段 内大臣、大宮を訪う]  祖母宮のお側に参上なさると、静かにお勤めをなさっている。まずまずの若い女房などは、こちらにも伺候しているが、物腰や様子、衣装なども、 栄華を極めている所とは比較にもならない。器量のよい尼君たちが、墨染の衣装で質素にしているのが、かえってこのような所では、それなりにし みじみとした感じがするのであった。  内大臣も参上なさったので、御殿油などを灯して、のんびりとお話など申し上げになさる。  「姫君に久しくお目にかからないのが情けないこと」  とおっしゃって、ただひたすらお泣きになる。  「もうすぐこちらに参上させましょう。自分からふさぎ込んでいまして、惜しいことに痩せてしまっているようです。女の子は、はっきり申せば、持つ べきではございませんでした。何かにつけて、心配ばかりさせられました」  などと、依然として不快にこだわっている様子でおっしゃるので、情けなくて、ぜひにともお申し上げなさらない。その話の折に、  「たいそう不出来な娘を持ちまして、手を焼いてしまいました」  と、愚痴をおこぼしになって、にが笑いなさる。宮、  「まあ、変ですこと。あなたの娘という以上、出来の悪いことがありましょうか」  とおっしゃると、  「それが体裁の悪いことなのでございます。ぜひ、御覧に入れたいものです」  と申し上げなさったとか。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 1/27/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    行幸 光る源氏の太政大臣時代三十六歳十二月から三十七歳二月までの物語 第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸 1.大原野行幸---このようにお考えの行き届かないことなく、何とかよい案はないかと 2.玉鬘、行幸を見物---西の対の姫君もお出かけになった 3.行幸、大原野に到着---こうして、大原野に御到着あそばして 4.源氏、玉鬘に宮仕えを勧める---翌日、大臣は、西の対に 5.玉鬘、裳着の準備---「何はともあれ、まずは御裳着の儀式を 第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る 1.源氏、三条宮を訪問---今は以前にもまして、目立たないようになさったが 2.源氏と大宮との対話---お話など、昔のこと今のことなどあれこれととりまぜて申し上げなさる折に 3.源氏、大宮に玉鬘を語る---「実は、あの方がお世話なさるはずの人を 4.大宮、内大臣を招く---内大臣、このように三条宮に太政大臣がお越しになって 5.内大臣、三条宮邸に参上---ご子息方をたいそう大勢引き連れてお入りになる様子 6.源氏、内大臣と対面---大臣も、ひさしぶりのご対面に、昔のことを自然と思い出されて 7.源氏、内大臣、三条宮邸を辞去---夜がたいそう更けて、それぞれお別れになる 第三章 玉鬘の物語 裳着の物語 1.内大臣、源氏の意向に従う---内大臣は、さっそくとても見たくなって、早く会いたく 2.二月十六日、玉鬘の裳着の儀---こうしてその当日となって、三条宮からも 3.玉鬘の裳着への祝儀の品々---中宮から、白い御裳、唐衣、御装束、御髪上の道具など 4.内大臣、腰結に役を勤める---内大臣は、大してお急ぎにならない気持ちであったが 5.祝賀者、多数参上---親王たちや、次々の、人々が残らずお祝いに参上なさった 6.近江の君、玉鬘を羨む---世間の人の口の端のために、「暫くの間はこのことを上らないように」と 7.内大臣、近江の君を愚弄---内大臣、この願いをお聞きになって、たいそう陽気に   第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸  [第一段 大原野行幸]  このようにお考えの行き届かないことなく、何とかよい案はないかと、ご思案なさるが、あの音無の滝ではないが、嫌で気の毒なことなので、南 の上のご想像通り、身分にふさわしくないご醜聞である。あの内大臣が、何ごとにつけても、はっきりさせ、少しでも中途半端なことを、我慢できず にいらっしゃるようなご気性なので、「そうなったら誰はばからず、はっきりとしたお婿扱いなどなされたりしたら、世間の物笑いになるのではない か」などと、お考え直しなさる。  その年の十二月に、大原野の行幸とあって、世の中の人は一人残らず見物に騒ぐのを、六条院からも御夫人方が引き連ねて御覧になる。卯の 刻に御出発になって、朱雀大路から五条大路を西の方に折れなさる。桂川の所まで、見物の車がびっしり続いている。  行幸といっても、かならずしもこんなにではないのだが、今日は親王たちや、上達部も、皆特別に気をつかって、御馬や鞍を整え、随身、馬副人 の器量や背丈、衣装をお飾りお飾りになっては、見事で美しい。左右の大臣、内大臣、大納言以下、いうまでもなく一人残らず行幸に供奉なさっ た。麹塵の袍に、葡萄染の下襲を、殿上人から五位六位までの人々が着ていた。  雪がほんの少し降って、道中の空までが優美に見えた。親王たち、上達部なども、鷹狩に携わっていらっしゃる方は、見事な狩のご装束類を用 意なさっている。近衛の鷹飼どもは、それ以上に見たことのない摺衣を思い思いに着て、その様子は格別である。素晴らしく美しい見物をと競って 出て来ては、大した身分でもなく、お粗末な脚の弱い車など、車輪を押しつぶされて、気の毒なのもある。舟橋の辺りなどにも優美にあちこちする 立派な車が多かった。  [第二段 玉鬘、行幸を見物]  西の対の姫君もお出かけになった。大勢の我こそはと綺羅を尽くしていらっしゃる方々のご器量や様子を御覧になると、帝が赤色の御衣をお召し になって、凛々しく微動だになさらない御横顔に、ご比肩申し上げる人もいない。  わが父内大臣を、こっそりとお気をつけて拝見なさったが、派手で美しく、男盛りでいらっしゃるが、限界があった。たいそう人よりは優れた臣下と 見えて、御輿の中以外の人には、目が移りそうもない。  ましてや、美男だとか、素敵な方よなどと、若い女房たちが死ぬほど慕っている中将、少将、何とかいう殿上人などの人は、何ほどのこともなく眼 中にないのは、まったく群を抜いていらっしゃるからなのであった。源氏の太政大臣のお顔の様子は、別人とはお見えにならないが、気のせいかも う少し威厳があって、恐れ多く立派である。  そうしてみると、このような方はいらっしゃりにくいのであった。身分の高い人は、皆美しく感じも格別よいはずのものとばかり、大臣や、中将など のお美しさに見慣れていたので、見劣りした者たちでまともな者はないのであろうか、同じ人の目鼻とも見えず、悔しいほど圧倒されていることだ。  兵部卿宮もいらっしゃる。右大将が、あれほど重々しく気取っているのも、今日の衣装がたいそう優美で、やなぐいなどを背負って供奉なさってい た。色黒く鬚が多い感じに見えて、とても好感がもてない。どうして、女性の化粧した顔の色に男が似たりしようか。とても無理なことを、お若い方 の考えとて、軽蔑なさったのであった。  大臣の君がお考えになっておっしゃっることを、「どうしたものか、宮仕えは、不本意なことで見苦しいことではないかしら」と躊躇していらっしゃっ たが、「帝の寵愛ということを離れて、一般の宮仕えしてお目通りするならば、きっと結構なことであろう」という、お気持ちになった。  [第三段 行幸、大原野に到着]  こうして、大原野に御到着あそばして、御輿を止め、上達部の平張の中で食事を召し上がり、御衣装を直衣や、狩衣の装束に改めたりなさる時 に、六条院からお酒やお菓子類などが献上された。今日供奉なさる予定だと、前もってご沙汰があったのだが、御物忌の理由を奏上なさったので あった。  蔵人で左衛門尉を御使者として、雉をつけた一枝を献上あそばしなさった。仰せ言にはどのようにあったか、そのような時のことを語るのは、わず らわしいことなので。  「雪の深い小塩山に飛び立つ雉のように   古例に従って今日はいらっしゃればよかったのに」  太政大臣が、このような野の行幸に供奉なさった先例があったのであろうか。大臣は、御使者を恐縮しておもてなしなさる。  「小塩山に深雪が積もった松原に   今日ほどの盛儀は先例がないでしょう」  と、その当時に伝え聞いたことで、ところどころ思い出されるのは、聞き間違いがあるかもしれない。  [第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める]  翌日、大臣は、西の対に、  「昨日、主上は拝見なさいましたか。あの件は、その気におなりになりましたか」  と申し上げなさった。白い色紙に、たいそう親しげな手紙で、こまごまと色めいたことも含まれてないのが、素晴らしいのを御覧になって、  「いやなことを」  とお笑いなさるものの、「よくも人の心を見抜いていらっしゃるわ」とお思いになる。お返事には、  「昨日は、   雪が散らついて朝の間の行幸では   はっきりと日の光は見えませんでした  はっきりしない御ことばかりで」  とあるのを、紫の上も御覧になる。  「しかじかのことを勧めたのですが、中宮がああしていらっしゃるし、わたしの娘という扱いのままでは不都合であろう。あの内大臣に知られても、 弘徽殿の女御がまたあのようにいらっしゃるのだからなどと、思い悩んでいたことです。若い女性で、そのように親しくお仕えするのに、何も遠慮す る必要がないのは、主上をちらとでも拝見して、宮仕えを考えない者はないでしょう」  とおっしゃると、  「あら、嫌ですわ。いくら御立派だと拝見しても、自分から進んで宮仕えを考えるなんて、とても出過ぎた考えでしょう」  と言って、お笑いになる。  「さあ、そういうあなたこそ、きっと熱心になることでしょう」  などとおっしゃって、改めてお返事に、  「日の光は曇りなく輝いていましたのに   どうして行幸の日に雪のために目を曇らせたのでしょう  やはり、ご決心なさい」  などと、ひっきりなしにお勧めになる。  [第五段 玉鬘、裳着の準備]  「何はともあれ、まずは御裳着の儀式を」とお思いになって、そのご用意の御調度類の、精巧で立派な品々をお加えになり、どういった儀式であ れ、ご自分では大して考えていらっしゃらないことでも、自然と大げさに立派になるのを、まして、「内大臣にも、このまま儀式の機会にお知らせ申 そうか」とお考え寄りになったので、たいそう立派である。「年が明けて、二月に」とお考えになる。  「女性というものは、評判が高く、名をお隠しできる年頃ではなくとも、誰かの姫君として、深窓にこもっていらっしゃる間は、必ずしも氏神への参 詣なども、表立ってしないので、今までは分からないように過ごしていらっしゃったが、この、もし今考えていることが実現したら、春日明神の御心に 背いてしまうし、結局は隠しおおせるものではないから、つまらないことに、格別の計略があったことのように後々まで取り沙汰されては、おもしろ からぬことだろう。並の人の身分なら、当世ふうとしては、氏を改めることも簡単なものだが」などとご思案なさるが、「親子のご縁は、絶えるような ことはないものだ。同じことなら、こちらから進んで、お知らせ申そう」  などとご決心なさって、この儀式の御腰結役には、その内大臣をと、お手紙を差し上げなさったところ、大宮が、去年の冬頃から病気をなさってい たが、一向によくおなりにならないので、このような場合では、都合がつかない旨を、お返事申された。  中将の君も、昼夜、三条宮邸に伺候なさっていて、心に余裕もなくいらっしゃるので、時機が悪いのを、どうしたものか、とお考えになる。  「世の中も、まことに無常なものだ。大宮がお亡くなりにあそばしたら、御喪に服さなければならないのに、知らない顔をしていらっしゃったら、罪 深いことが多かろう。生きていらっしゃるうちに、このことを打ち明けよう」  とお考えになって、三条宮邸に、お見舞いかたがたお出かけになる。   第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る  [第一段 源氏、三条宮を訪問]  今は以前にもまして、目立たないようになさったが、行幸に負けないほど厳めしく立派で、ますます光輝くばかりのお顔立ちなどが、この世では見 られないほどの感じがして、素晴らしいと拝見なさるにつけては、ますますご気分の悪さも、取り除かれたような気持ちがして、起きて座わりになっ た。御脇息に寄りかかりなさって、弱々しそうであるが、お話などはたいそうよく申し上げなさる。  「お悪くはいらっしゃいませんのに、某の朝臣が気を動転させて、仰々しくお嘆き申しているようでしたので、どのようにいらっしゃるのかと、ご心配 申し上げておりました。宮中などにも、特別な場合でない限りは参内せず、朝廷に仕える人らしくもなく籠もっておりますので、何事も不慣れで大儀 に思っております。年齢など、わたし以上の人で、腰が辛抱できないほど曲がっても動き回る例は、昔も今もございますようですが、妙に愚かしい 性分の上に、物臭になったのでございましょう」  などと申し上げなさる。  「年老いたための病気と存じながら、ここ数か月になってしまいましたが、今年になってからは、望みも少なそうに思われますので、もう一度、この ようにお目にかかりお話し申し上げることもないのではなかろうかと、心細く存じておりましたが、今日は、再びもう少し寿命も延びたような気が致し ます。今はもう惜しむほどの年ではございません。親しい人たちにも先立たれ、年老いて生き残っている例を、他人の身の上として、とても見苦しい と見ておりましたので、後世への出立の準備が、気になっておりますが、この中将が、とても真心こめて不思議なほどよくお世話し、心配してくださ るのを見ましては、あれこれと心を引き留められて、今まで生き延びております」  と、ただお泣きになるばかりで、お声が震えているのも、ばかばかしく思うが、無理のないことなので、まことにお気の毒なことである。  [第二段 源氏と大宮との対話]  お話など、昔のこと今のことなどあれこれととりまぜて申し上げなさる折に、  「内大臣は、日を置かず参上なさることは多いでしょうから、このような機会にお目にかかれたら、どんなに嬉しいことでしょう。ぜひともお知らせ申 し上げたいと思うことがございますが、しかるべき機会がなくては、お目にかかることも難しいので、気になっています」  と申し上げなさる。  「公務が忙しいのでしょうか、孝心が深くないのでしょうか、それほど見舞いにも参りません。おっしゃりたいことは、どのようなことでしょうか。中将 が恨めしく思っていることもございますが、『初めのことは知らないが、今となって二人を引き離そうとしたところで、いったん立った噂は、取り消せる ものではなし、ばかげたようで、かえって世間の人も噂するというものを』などと言いましたが、一度言い出しことは、昔から後に引かない性格です から、分かってくれないように見受けられます」  と、この中将のこととお思いになっておっしゃるので、にっこりなさって、  「今さら言ってもしかたのないことと、お許しになることもあろうかと聞きまして、わたくしまでがそれとなく口添え申したようなことがありましたが、 たいそう厳しくお諌めになる旨を拝見しまして後は、どうしてそんなにまで口出しを致したのだろうかと、体裁悪く後悔致しております。  万事につけて、清めということがございますので、何とかして、元通りにきれいさっぱり水に流してくださらないことがあろうかとは存じながら、この ように残念ながら濁り淀んでしまった末には、いくら待ち受けても深く澄むような水というものは出て来にくいものなのでしょう。何事につけても、後 になるほど、悪くなって行き易いもののようでございます。お気の毒なことと存じます」  などと申し上げて、  [第三段 源氏、大宮に玉鬘を語る]  「実は、あの方がお世話なさるはずの人を、思い違いがございまして、思いがけず捜し出しましたが、その時は、そうした間違いだとも言ってくれ なかったものでしたから、しいて事情を詮索することもしませんで、ただそのような子どもが少ないので、口実であっても、何かまうものかと大目に 見まして、少しも親身な世話もしませんで、年月が過ぎましたが、どのようにしてお聞きあそばしたのでしょうか、帝から仰せになることがございまし た。  尚侍として、宮仕えする者がいなくては、あの役所の仕事は取り締まれず、女官なども公務を勤めるのに頼り所がなく、事務が滞るようであった が、現在、帝付きの老齢の典侍二人や、また他に適当な人々が、それぞれに申し出ているが、立派な人をお選びあそばそうとするのに、その適任 者がいない。  やはり、家柄も高く、世間の評判も軽くはなく、家の生活の心配のない人が、昔からなってきている。仕事ができて賢い人という点での選考なら ば、そういった人でなくとも、長年の功労によって昇任する例もあるが、それに当たる者もいないとなると、せめて世間一般の評判によってでもお選 びあそばそうと、内々に仰せられましたが、似つかわしくないことだと、どうしてお思いになるでしょう。  宮仕えというものは、帝の恩顧を期待して、身分の高い者も低い者も出仕するというのが、理想が高いというものです。一般職の役職に就いて、 そうした所の役所を取り仕切り、公事に関する事務を処理するようなことは、何でもない、重々しくないように思われていますが、どうしてまたそのよ うなことがありましょうか。ただ、自分自身の心がけ次第で、万事決まるようでございましょうというふうに、気持ちが傾いてきましたところです。  年齢を尋ねましたところ、あの大臣がお引き取りになるはずの人であることが分かりましたので、どうしたらよいことかと、はっきりとご相談申し上 げたいと存じております。何かの機会がなくてはお目にかかることもございません。すぐにこれこれしかじかのことをと、打ち明けて申し上げるべく手 立てを考えて、お手紙を差し上げたのですが、ご病気のことを口実にして、億劫がって辞退なさいました。  なるほど、時期も悪いと思い止まっていたのですが、ご病気もよろしくいらっしゃるようですから、やはり、このように考え出しました機会にと存じて おります。そのようにお伝え下さいませ」  と申し上げなさる。宮、  「それは、それは、一体どうしたことでございましょうか。あちらでは、いろいろとこのような名乗って出て来る人を、かまわずに迎え取っているよう ですが、どのような考えで、このように間違えて申し出たのでしょう。近年になってから、お噂を伺って、お子になったのでしょうか」  と、お尋ねなさるので、  「それにはそれなりの訳がございますのです。詳しい事情は、あの大臣も自然とお分かりになるでしょう。ごたごたした身分の女との間によくある ような話ですから、事情を明かしても、喧しく人が噂するでしょうから、中将の朝臣にさえ、まだ事情を知らせておりません。人にはお漏らしになりま せんように」  と、お口止め申し上げなさる。  [第四段 大宮、内大臣を招く]  内大臣、このように三条宮に太政大臣がお越しになっていらっしゃる由、お聞きになって、  「どんなに人少なの状態で、威勢の盛んな御方をお迎え申されているのだろう。御前駆どもを接待し、お座席を、整える女房も、きっと気の利いた 者はいないだろう。中将は、お供をなさっていることだろう」  などと、驚きなさって、ご子息の公達や、親しく出入りしているしかるべき廷臣たちを、差し向けなさる。  「御果物や、御酒など、しかるべく差し上げよ。自分自身も参上しなければならないが、かえって大騷ぎになるだろう」  などとおっしゃているところに、大宮のお手紙がある。  「六条の大臣がお見舞いにいらっしゃっているが、人少なな感じが致しますので、人目も体裁も悪く、もったいなくもあるので、仰々しくこのように 申し上げたようにではなく、お越しになりませんか。お目にかかって申し上げたいそうなこともあるそうです」  と、お申し上げなさった。  「どのようなことだろうか。この姫君のおんこと、中将の苦情だろうか」とお考えめぐらしになって、「宮もこのように余命少なげで、このことをしきり におっしゃり、大臣も穏やかに一言口に出して訴えておっしゃるなるば、とやかく反対申すことはしまい。平気な顔をして深く思い悩んでいないのを 見るのは面白くないし、適当な機会があったら、相手のお言葉に従った顔をして二人の仲を許そう」とお考えになる。  「お二人が心を合わせておっしゃろうとすることだな」とお思いになると、「ますます反対のしようのないことだが、また、どうしてすぐに承知する必 要があろうか」と躊躇されるのは、じつによからぬあいにくなご性分である。「しかし、宮がこのようにおっしゃり、大臣も会おうとお待ちになっている とか、どちらに対しても恐れ多い。参上してからご意向に従おう」  などとお考え直して、ご装束を特に気をつけ整えなさって、御前駆なども仰々しくなくしてお出かけになる。  [第五段 内大臣、三条宮邸に参上]  ご子息方をたいそう大勢引き連れてお入りになる様子、堂々として頼もしげである。背丈も高くていらっしゃるうえに、肉づきも釣り合って、たいそ う落ち着いて威厳があり、お顔つき、歩き方、大臣というに十分でいらっしゃる。  葡萄染の御指貫、桜の下襲、たいそう長く裾を引いて、ゆったりとことさらに振る舞っていらっしゃるのは、ああ何とご立派なとお見えになるが、六 条殿は、桜の唐の綺の御直衣、今様色の御衣を重ねて、くつろいだ皇子らしい姿が、ますます喩えようもない。一段と光輝いていらっしゃるが、こ のようにきちんと衣装を整えていらっしゃるご様子には、比べものにならないお姿であった。  ご子息たちは次々と、まことに美しいご兄弟で、集まっていらっしゃる。藤大納言、春宮大夫などと、今では申す方のご子息方も、みな大きくなっ てお供していらっしゃる。自然と、特別ではないが、評判が高く身分の高い殿上人、蔵人頭、五位の蔵人、近衛の中将、少将、弁官など、人柄が 派手で立派な、十何人が集まっていらっしゃるので、堂々としていて、それ以下の普通の人も多くいるので、杯が何回も回り、みな酔ってしまって、 それぞれがこのように幸福が誰よりも勝れていらっしゃるご境遇を話題にしていた。  [第六段 源氏、内大臣と対面]  大臣も、ひさしぶりのご対面に、昔のことを自然と思い出されて、離れていてこそ、ちょっとしたことにつけても、競争心も起きるようだが、向かい合 ってお話し申し上げなさると、お互いにたいそうしみじみとしたことの数々が思い出されなさって、いつもの、心の隔てなく、昔や今のことがらや、長 年のお話しに、日が暮れて行く。お杯などお勧め申し上げなさる。  「お見舞いに伺わなくてはいけないことでしたが、お呼びがないので遠慮致しておりまして。お越しを承りながら参りませんでしたら、お叱り事が 増えたことでしょうが」  とお申し上げになると、  「お叱りは、こちらの方です。お怒りだと思うことがたくさんございます」  などと、意味ありげにおっしゃると、あの姫君のことだろうかとお思いになって、厄介なことだと、恐縮した態度でいらっしゃる。  「昔から、公私の事柄につけて、心に隔てなく、大小のことを申し上げたり承ったりして、羽翼を並べるようにして、朝廷の御補佐も致そうと存じて おりましたが、年月がたちまして、その当時考えておりました気持ちと違うようなこと、時々出て来ましたが、内々の私事でしかありません。  それ以外のことでは、まったく変わるところはありません。特に何ということもなく年をとって行くにつれて、昔のことが懐しくなったのに、お目にか かることもほとんどなくなって行くばかりですので、身分柄きまりがあって、威儀あるお振る舞いをしなければとは存じながらも、親しい間柄では、そ のご威勢もお控え下さって、お訪ね下さったらよいのにと、恨めしく思うことが度々ございます」  とお申し上げなさると、  「昔は、おっしゃる通りしげしげお会いして、何とも失礼なまでにいつもご一緒申して、心に隔てることなくお付き合いいただきましたが、朝廷にお 仕えした当初は、あなたと羽翼を並べる一人とは思いもよりませんで、嬉しいお引き立てをば、大したこともない身の上で、このような地位に昇りま して、朝廷にお仕え致しますことに合わせても、有り難いと存じませぬのではありませんが、年をとりますと、おっしゃる通りつい怠慢になることば かりが、多くございました」  などと、お詫びを申し上げなさる。  その機会に、ちらと姫君のことをおっしゃったのであった。内大臣、  「まことに感慨深く、またとなく珍しいことでございますね」と、何よりも先お泣きになって、「その当時からどうしてしまったのだろうと捜しておりまし たことは、何の機会でございましたでしょうか、悲しさに我慢できず、お話しお耳に入れましたような気が致します。今このように、少しは一人前にも なりまして、つまらない子供たちが、それぞれの縁故を頼ってうろうろ致しておりますのを、体裁が悪く、みっともないと思っておりますにつけても、 またそれはそれとして、数々いる子供の中では、不憫だと思われる時々につけても、真っ先に思い出されるのです」  とおっしゃるのをきっかけに、あの昔の雨夜の物語の時に、さまざまに語った体験談の結論をお思い出しになって、泣いたり笑ったり、すっかり打 ち解けられた。  [第七段 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去]  夜がたいそう更けて、それぞれお別れになる。  「このように参上してご一緒しては、まったく、古くなってしまった昔の事が、自然と思い出されて、懐しい気持ちが抑えきれずに、帰る気も致しま せん」  とおっしゃって、決して気弱くはいらっしゃらない六条殿も、酔い泣きなのか、涙をお流しになる。宮は宮で言うまでもなく、姫君のお身の上をお思 い出しになって、昔に優るご立派な様子、ご威勢を拝見なさると、悲しみが尽きないで、涙をとどめることができず、しおしおとお泣きになる尼姿は、 なるほど格別な風情であった。  このようなよい機会であるが、中将のおんことは、お口に出さずに終わってしまった。一ふし思いやりがないとお思いであったので、口に出すこと も体裁悪くお考えやめになり、あの内大臣はまた内大臣で、お言葉もないのに出過ぎることができずに、そうはいうものの胸の晴れない気持ちが なさるのであった。  「今夜もお供致すべきでございますが、急なことでお騒がせしてもいかがかと存じます。今日のお礼は、日を改めて参上致します」  とお申し上げなさると、  「それでは、こちらのご病気もよろしいようにお見えになるので、きっと申し上げた日をお間違えにならず、お出で下さるように」とのこと、お約束な さる。  お二人方のご機嫌も良くて、それぞれがお帰りになる物音、たいそう盛大である。ご子息たちのお供の人々は、  「何があったのだろうか。久し振りのご対面で、たいそうご機嫌が良くなったのは」  「また、どのようなご譲与があったのだろうか」  などと、勘違いをして、このようなこととは思いもかけなかったのであった。   第三章 玉鬘の物語 裳着の物語  [第一段 内大臣、源氏の意向に従う]  内大臣は、さっそくとても見たくなって、早く会いたくお思いになるが、  「さっと、そのように迎え取って、親らしくするのも不都合だろう。捜し出して手にお入れになった当初のことを想像すると、きっと潔白なまま放って おかれることはあるまい。れっきとした夫人方の手前を遠慮して、はっきりと愛人としては扱わず、そうはいっても面倒なことで、世間の評判を思っ て、このように打ち明けたのだろう」  とお思いになるのは、残念だけれども、  「そのことを瑕としなくてはならないことだろうか。こちらから進んで、あちらのお側に差し上げたとしても、どうして評判の悪いことがあろうか。宮仕 えなさるようなことになったら、女御などがどうお思いになることも、おもしろくないことだ」とお考えになるが、「どちらにせよ、ご決定されおっしゃった ことに背くことができようか」  と、いろいろとお考えになるのであった。  このようなお話があったのは、二月上旬のことであった。十六日が彼岸の入りで、たいそう吉い日であった。近くにまた吉い日はないと占い申した 上に、宮も少しおよろしかったので、急いでご準備なさって、いつものようにお越しになっても、内大臣にお打ち明けになった様子などを、たいそう詳 細に、当日の心得などをお教え申し上げなさると、  「行き届いたお心づかいは、実の親と申しても、これほどのことはあるまい」  とお思いになるものの、とても嬉しくお思いになるのであった。  こうして以後は、中将の君にも、こっそりとこのような事実をお知らせなさったのであった。  「妙なことばかりだ。知ってみればもっともなことだ」  と、合点のゆくことがあるが、あの冷淡な姫君のご様子よりも、さらにたまらなく思い出されて、「思いも寄らないことだった」と、ばかばかしい気が する。けれども、「あってはならないこと。筋違いなことだ」と、反省することは、珍しいくらいの誠実さのようである。  [第二段 二月十六日、玉鬘の裳着の儀]  こうしてその当日となって、三条宮からも、こっそりとお使いがある。御櫛の箱など、急なことであるが、種々の品々をたいそう見事に仕立てなさっ て、お手紙には、  「お手紙を差し上げるにも、憚れる尼姿のため、今日は引き籠もっておりますが、それに致しましても、長生きの例にあやかって戴くということで、 お許し下さるだろうかと存じまして。しみじみと感動してお聞き致しまして、はっきりしました事情を申し上げるのも、どうかと存じまして。あなたのお 気持ち次第で。   どちらの方から言いましてもあなたはわたしにとって   切っても切れない孫に当たる方なのですね」  と、たいそう古風に震えてお書きになっているのを、殿もこちらにいらっしゃって、準備をお命じになっている時なので、御覧になって、  「古風なご文面だが、大したものだ、このご筆跡は。昔はお上手でいらっしゃったが、年を取るに従って、奇妙に筆跡も年寄じみて行くものです ね。たいそう痛々しいほどお手が震えていらっしゃるなあ」  などと、繰り返し御覧になって、  「よくもこれほど玉くしげに引っ掛けた歌だ。三十一文字の中に、無縁な文字を少ししか使わずに詠むということは難しいことだ」 と、そっとお笑いになる。  [第三段 玉鬘の裳着への祝儀の品々]  中宮から、白い御裳、唐衣、御装束、御髪上の道具など、たいそうまたとない立派さで、例によって、数々の壷に、唐の薫物、格別に香り深いの を差し上げなさった。  ご夫人方は、みな思い思いに、御装束、女房の衣装に、櫛や扇まで、それぞれにご用意なさった出来映えは、優るとも劣らない、それぞれにつ けて、あれほどの方々が互いに、競争でご趣向を凝らしてお作りになったので、素晴らしく見えるが、東の院の人々も、このようなご準備はお聞き になっていたが、お祝い申し上げるような人数には入らないので、ただ聞き流していたが、常陸の宮の御方、妙に折目正しくて、なすべき時にはし ないではいられない昔気質でいらして、どうしてこのようなご準備を、他人事として聞き過していられようか、とお思いになって、きまり通りご用意な さったのであった。  殊勝なお心掛けである。青鈍色の細長を一襲、落栗色とか、何とかいう、昔の人が珍重した袷の袴を一具、紫色の白っぽく見える霰地の御小袿 とを、結構な衣装箱に入れて、包み方をまことに立派にして、差し上げなさった。  お手紙には、  「お見知り戴くような数にも入らない者でございませんので、遠慮致しておりましたが、このような時は知らないふりもできにくうございまして。これ は、とてもつまらない物ですが、女房たちにでもお与え下さい」  と、おっとり書いてある。殿が、御覧になって、たいそうあきれて、例によって、とお思いになると、お顔が赤くなった。  「妙に昔気質の人だ。ああした内気な人は、引っ込んでいて出て来ない方がよいのに。やはり体裁の悪いものです」と言って、「返事はおやりなさ い。きまり悪く思うでしょう。父親王が、たいそう大切になさっていたのを、思い出すと、他人より軽く扱うのはたいそう気の毒な方です」  と申し上げなさる。御小袿の袂に、例によって、同じ趣向の歌があるのであった。  「わたし自身が恨めしく思われます   あなたのお側にいつもいることができないと思いますと」  ご筆跡は、昔でさえそうであったのに、たいそうひどくちぢかんで、彫り込んだように深く、強く、固くお書きになっていた。大臣は、憎く思うものの、 おかしいのを堪えきれないで、  「この歌を詠むのにはどんなに大変だったろう。まして今は昔以上に助ける人もいなくて、思い通りに行かなかったことだろう」  と、お気の毒にお思いになる。  「どれ、この返事は、忙しくても、わたしがしよう」  とおっしゃって、  「妙な、誰も気のつかないようなお心づかいは、なさらなくてもよいことですのに」  と、憎らしさのあまりにお書きになって、  「唐衣、また唐衣、唐衣   いつもいつも唐衣とおっしゃいますね」  と書いて、  「たいそうまじめに、あの人が特に好む趣向ですから、書いたのです」  と言って、お見せなさると、姫君は、たいそう顔を赤らめてお笑いになって、  「まあ、お気の毒なこと。からかったように見えますわ」  と、気の毒がりなさる。つまらない話が多かったことよ。  [第四段 内大臣、腰結に役を勤める]  内大臣は、大してお急ぎにならない気持ちであったが、珍しい話をお聞きになって後は、早く会いたいとお心にかかっていたので、早く参上なさっ た。  裳着の儀式などは、しきたり通りのことに更に事を加えて、目新しい趣向を凝らしてなさった。「なるほど特にお心を留めていらっしゃることだ」と御 覧になるのも、もったいないと思う一方で、風変わりだと思わずにはいらっしゃれない。  亥の刻になって、御簾の中にお入れなさる。慣例通りの設備はもとよりのこと、御簾の中のお席をまたとないほど立派に整えなさって、御酒肴を 差し上げなさる。御殿油は、慣例の儀式の明るさよりも、少し明るくして、気を利かせてお持てなしなさった。  たいそうはっきりとお顔を見たいとお思いになるが、今夜はとても唐突なことなので、お結びになる時、お堪えきれない様子である。  主人の大臣、  「今夜は、昔のことは何も話しませんから、何の詳細もお分りなさらないでしょう。事情を知らない人の目を繕って、やはり普通通りの作法で」  とお申し上げなさる。  「おっしゃる通り、まったく何とも申し上げようもございません」  お杯をお口になさる時、  「言葉に尽くせないお礼の気持ちは、世間にまたとないご厚意と感謝申し上げますが、今までこのようにお隠しになっていらっしゃった恨み言も、 どうして申し添えずにいられましょう」  と申し上げなさる。  「恨めしいことですよ。玉裳を着る   今日まで隠れていた人の心が」  と言って、やはり隠し切れず涙をお流しになる。姫君は、とても立派なお二方が集まっており、気恥ずかしさに、お答え申し上げることがおできに なれないので、殿が、  「寄る辺がないので、このようなわたしの所に身を寄せて   誰にも捜してもらえない気の毒な子だと思っておりました  何とも無体なだしぬけのお言葉です」  と、お答え申し上げなさると、  「まことにごもっともです」  と、それ以上申し上げる言葉もなくて、退出なさった。  [第五段 祝賀者、多数参上]  親王たちや、次々の、人々が残らずお祝いに参上なさった。思いを寄せている方々も大勢混じっていらっしゃったので、この内大臣が、このように 中にお入りになって暫く時間がたつので、どうしたことか、とお疑いになっていた。  あの殿のご子息の中将や、弁の君だけは、かすかにご存知だったのであった。密かに思いを懸けていたことを、辛いこととも、また嬉しいことと も、お思いになる。弁の君は、  「よくもまあ告白しなかった」と小声で言って、「一風変わった大臣のお好みのようだ。中宮とご同様に入内させなさろうとお考えなのだろう」  などと、めいめい言っているのをお聞きになるが、  「やはり、暫くの間はご注意なさって、世間から非難されないようにお扱い下さい。何事も、気楽な身分の人には、みだらなことがままあるでしょう が、こちらもそちらも、いろいろな人が噂して悩まされようなことがあっては、普通の身分の人よりも困ることですから、穏やかに、だんだんと世間の 目が馴れて行くようにするのが、良いことでございましょう」  と申し上げなさると、  「ただあなた様のなされように従いましょう。こんなにまでお世話いただき、またとないご養育によって守られておりましたのも、前世の因縁が特 別であったのでしょう」  とお答えなさる。  御贈物などは、言うまでもなく、すべて引出物や、禄などは、身分に応じて、通常の例では限りがあるが、それに更に加えて、またとないほど盛 大におさせになった。大宮のご病気を理由に断りなさった事情もあるので、大げさな音楽会などはなかった。  兵部卿宮は、  「今はもうお断りになる支障も何もないでしょうから」  と、身を入れてお願い申し上げなさるが、  「帝から御内意があったことを、ご辞退申し上げ、また再びお言葉に従いまして、他の話は、その後にでも決めましょう」  とお返事申し上げなさった。  父内大臣は、  「かすかに見た様子を、何とかはっきりと再び見たいものだ。少しでも不具なところがおありならば、こんなにまで大げさに大事にお世話なさるま い」  などと、かえって焦れったく恋しく思い申し上げなさる。  今になって、あの御夢も、本当にお分かりになったのであった。弘徽殿女御だけには、はっきりと事情をお話し申し上げなさったのであった。  [第六段 近江の君、玉鬘を羨む]  世間の人の口の端のために、「暫くの間はこのことを上らないように」と、特にお隠しになっていたが、おしゃべりなのは世間の人であった。自然と 噂が流れ流れて、だんだんと評判になって来たのを、あの困り者の姫君が聞いて、女御の御前に、中将や、少将が伺候していらっしゃる所に出て 来て、  「殿は、姫君をお迎えあそばすそうですね。まあ、おめでたいこと。どのような方が、お二方に大切にされるのでしょう。聞けば、その人も賤しいお 生まれですね」  と、無遠慮におっしゃるので、女御は、はらはらなさって、何ともおっしゃらない。中将が、  「そのように、大切にされるわけがおありなのでしょう。それにしても、誰が言ったことを、このように唐突におっしゃるのですか。口うるさい女房た ちが、耳にしたらたいへんだ」  とおっしゃると、  「おだまり。すっかり聞いております。尚侍になるのだそうですね。宮仕えにと心づもりして出て参りましたのは、そのようなお情けもあろうかと思っ てなので、普通の女房たちですら致さぬようなことまで、進んで致しました。女御様がひどくていらっしゃるのです」  と、恨み言をいうので、みなにやにやして、  「尚侍に欠員ができたら、わたしこそが願い出ようと思っていたのに、無茶苦茶なことをお考えですね」  などとおっしゃるので、腹を立てて、  「立派なご兄姉の中に、人数にも入らない者は、仲間入りすべきではなかったのだわ。中将の君はひどくていらっしゃる。自分からかってにお迎 えになって、軽蔑し馬鹿になさる。普通の人では、とても住んでいられない御殿の中ですわ。ああ、恐い。ああ、恐い」  と、後ろの方へいざり下がって、睨んでいらっしゃる。憎らしくもないが、たいそう意地悪そうに目尻をつり上げている。  中将は、このように言うのを聞くにつけ、「まったく失敗したことだ」と思うので、まじめな顔をしていらっしゃる。少将は、  「こちらの宮仕えでも、またとないようなご精勤ぶりを、いいかげんにはお思いでないでしょう。お気持ちをお鎮めになって下さい。固い岩も沫雪の ように蹴散らかしてしまいそうなお元気ですから、きっと願いの叶う時もありましょう」  と、にやにやして言っていらっしゃる。中将も、  「天の岩戸を閉じて引っ込んでいらっしゃるのが、無難でしょうね」  と言って、立ってしまったので、ぽろぽろと涙をこぼして、  「わたしの兄弟たちまでが、みな冷たくあしらわれるのに、ただ女御様のお気持ちだけが優しくいらっしゃるので、お仕えしているのです」  と言って、とても簡単に、精を出して、下働きの女房や童女などが行き届かない雑用などをも、走り回り、気軽にあちこち歩き回っては、真心をこ めて宮仕えして、  「尚侍に、わたしを、推薦して下さい」  とお責め申すので、あきれて、「どんなつもりで言っているのだろう」とお思いになると、何ともおっしゃれない。  [第七段 内大臣、近江の君を愚弄]  内大臣、この願いをお聞きになって、たいそう陽気にお笑いになって、女御の御方に参上なさった折に、  「どこですか、これ、近江の君。こちらに」  とお呼びになると、  「はあい」  と、とてもはっきりと答えて、出て来た。  「たいそう、よくお仕えしているご様子は、お役人としても、なるほどどんなにか適任であろう。尚侍のことは、どうして、わたしに早く言わなかった のですか」  と、たいそう真面目な態度でおっしゃるので、とても嬉しく思って、  「そのように、ご内意をいただきとうございましたが、こちらの女御様が、自然とお伝え申し上げなさるだろうと、精一杯期待しておりましたのに、な る予定の人がいらっしゃるようにうかがいましたので、夢の中で金持になったような気がしまして、胸に手を置いたようでございます」  とお答えなさる。その弁舌はまことにはきはきしたものである。笑ってしまいそうになるのを堪えて、  「たいそう変った、はっきりしないお癖だね。そのようにもおっしゃってくださったら、まず誰より先に奏上したでしょうに。太政大臣の姫君、どんなに ご身分が高かろうとも、わたしが熱心にお願い申し上げることは、お聞き入れなさらぬことはありますまい。今からでも、申文をきちんと作って、立派 に書き上げなさい。長歌などの趣向のあるのを御覧あそばしたら、きっとお捨て去りなさることはありますまい。主上は、とりわけ風流を解する方で いらっしゃるから」  などと、たいそううまくおだましになる。人の親らしくない、見苦しいことであるよ。  「和歌は、下手ながら何とか作れましょう。表向きのことの方は、殿様からお申し上げ下されば、それに言葉を添えるようにして、お蔭を頂戴しまし ょう」  と言って、両手を擦り合わせて申し上げていた。御几帳の後ろなどにいて聞いている女房は、死にそうなほどおかしく思う。おかしさに我慢できな い者は、すべり出して、ほっと息をつくのであった。女御もお顔が赤くなって、とても見苦しいと思っておいでであった。殿も、  「気分のむしゃくしゃする時は、近江の君を見ることによって、何かと気が紛れる」  と言って、ただ笑い者にしていらっしゃるが、世間の人は、  「ご自分でも恥ずかしくて、ひどい目におあわせになる」  などと、いろいろと言うのであった。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 1/27/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    行幸 光る源氏の太政大臣時代三十六歳十二月から三十七歳二月までの物語 第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸 1.大原野行幸---このようにお考えの行き届かないことなく、何とかよい案はないかと 2.玉鬘、行幸を見物---西の対の姫君もお出かけになった 3.行幸、大原野に到着---こうして、大原野に御到着あそばして 4.源氏、玉鬘に宮仕えを勧める---翌日、大臣は、西の対に 5.玉鬘、裳着の準備---「何はともあれ、まずは御裳着の儀式を 第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る 1.源氏、三条宮を訪問---今は以前にもまして、目立たないようになさったが 2.源氏と大宮との対話---お話など、昔のこと今のことなどあれこれととりまぜて申し上げなさる折に 3.源氏、大宮に玉鬘を語る---「実は、あの方がお世話なさるはずの人を 4.大宮、内大臣を招く---内大臣、このように三条宮に太政大臣がお越しになって 5.内大臣、三条宮邸に参上---ご子息方をたいそう大勢引き連れてお入りになる様子 6.源氏、内大臣と対面---大臣も、ひさしぶりのご対面に、昔のことを自然と思い出されて 7.源氏、内大臣、三条宮邸を辞去---夜がたいそう更けて、それぞれお別れになる 第三章 玉鬘の物語 裳着の物語 1.内大臣、源氏の意向に従う---内大臣は、さっそくとても見たくなって、早く会いたく 2.二月十六日、玉鬘の裳着の儀---こうしてその当日となって、三条宮からも 3.玉鬘の裳着への祝儀の品々---中宮から、白い御裳、唐衣、御装束、御髪上の道具など 4.内大臣、腰結に役を勤める---内大臣は、大してお急ぎにならない気持ちであったが 5.祝賀者、多数参上---親王たちや、次々の、人々が残らずお祝いに参上なさった 6.近江の君、玉鬘を羨む---世間の人の口の端のために、「暫くの間はこのことを上らないように」と 7.内大臣、近江の君を愚弄---内大臣、この願いをお聞きになって、たいそう陽気に   第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸  [第一段 大原野行幸]  このようにお考えの行き届かないことなく、何とかよい案はないかと、ご思案なさるが、あの音無の滝ではないが、嫌で気の毒なことなので、南 の上のご想像通り、身分にふさわしくないご醜聞である。あの内大臣が、何ごとにつけても、はっきりさせ、少しでも中途半端なことを、我慢できず にいらっしゃるようなご気性なので、「そうなったら誰はばからず、はっきりとしたお婿扱いなどなされたりしたら、世間の物笑いになるのではない か」などと、お考え直しなさる。  その年の十二月に、大原野の行幸とあって、世の中の人は一人残らず見物に騒ぐのを、六条院からも御夫人方が引き連ねて御覧になる。卯の 刻に御出発になって、朱雀大路から五条大路を西の方に折れなさる。桂川の所まで、見物の車がびっしり続いている。  行幸といっても、かならずしもこんなにではないのだが、今日は親王たちや、上達部も、皆特別に気をつかって、御馬や鞍を整え、随身、馬副人 の器量や背丈、衣装をお飾りお飾りになっては、見事で美しい。左右の大臣、内大臣、大納言以下、いうまでもなく一人残らず行幸に供奉なさっ た。麹塵の袍に、葡萄染の下襲を、殿上人から五位六位までの人々が着ていた。  雪がほんの少し降って、道中の空までが優美に見えた。親王たち、上達部なども、鷹狩に携わっていらっしゃる方は、見事な狩のご装束類を用 意なさっている。近衛の鷹飼どもは、それ以上に見たことのない摺衣を思い思いに着て、その様子は格別である。素晴らしく美しい見物をと競って 出て来ては、大した身分でもなく、お粗末な脚の弱い車など、車輪を押しつぶされて、気の毒なのもある。舟橋の辺りなどにも優美にあちこちする 立派な車が多かった。  [第二段 玉鬘、行幸を見物]  西の対の姫君もお出かけになった。大勢の我こそはと綺羅を尽くしていらっしゃる方々のご器量や様子を御覧になると、帝が赤色の御衣をお召し になって、凛々しく微動だになさらない御横顔に、ご比肩申し上げる人もいない。  わが父内大臣を、こっそりとお気をつけて拝見なさったが、派手で美しく、男盛りでいらっしゃるが、限界があった。たいそう人よりは優れた臣下と 見えて、御輿の中以外の人には、目が移りそうもない。  ましてや、美男だとか、素敵な方よなどと、若い女房たちが死ぬほど慕っている中将、少将、何とかいう殿上人などの人は、何ほどのこともなく眼 中にないのは、まったく群を抜いていらっしゃるからなのであった。源氏の太政大臣のお顔の様子は、別人とはお見えにならないが、気のせいかも う少し威厳があって、恐れ多く立派である。  そうしてみると、このような方はいらっしゃりにくいのであった。身分の高い人は、皆美しく感じも格別よいはずのものとばかり、大臣や、中将など のお美しさに見慣れていたので、見劣りした者たちでまともな者はないのであろうか、同じ人の目鼻とも見えず、悔しいほど圧倒されていることだ。  兵部卿宮もいらっしゃる。右大将が、あれほど重々しく気取っているのも、今日の衣装がたいそう優美で、やなぐいなどを背負って供奉なさってい た。色黒く鬚が多い感じに見えて、とても好感がもてない。どうして、女性の化粧した顔の色に男が似たりしようか。とても無理なことを、お若い方 の考えとて、軽蔑なさったのであった。  大臣の君がお考えになっておっしゃっることを、「どうしたものか、宮仕えは、不本意なことで見苦しいことではないかしら」と躊躇していらっしゃっ たが、「帝の寵愛ということを離れて、一般の宮仕えしてお目通りするならば、きっと結構なことであろう」という、お気持ちになった。  [第三段 行幸、大原野に到着]  こうして、大原野に御到着あそばして、御輿を止め、上達部の平張の中で食事を召し上がり、御衣装を直衣や、狩衣の装束に改めたりなさる時 に、六条院からお酒やお菓子類などが献上された。今日供奉なさる予定だと、前もってご沙汰があったのだが、御物忌の理由を奏上なさったので あった。  蔵人で左衛門尉を御使者として、雉をつけた一枝を献上あそばしなさった。仰せ言にはどのようにあったか、そのような時のことを語るのは、わず らわしいことなので。  「雪の深い小塩山に飛び立つ雉のように   古例に従って今日はいらっしゃればよかったのに」  太政大臣が、このような野の行幸に供奉なさった先例があったのであろうか。大臣は、御使者を恐縮しておもてなしなさる。  「小塩山に深雪が積もった松原に   今日ほどの盛儀は先例がないでしょう」  と、その当時に伝え聞いたことで、ところどころ思い出されるのは、聞き間違いがあるかもしれない。  [第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める]  翌日、大臣は、西の対に、  「昨日、主上は拝見なさいましたか。あの件は、その気におなりになりましたか」  と申し上げなさった。白い色紙に、たいそう親しげな手紙で、こまごまと色めいたことも含まれてないのが、素晴らしいのを御覧になって、  「いやなことを」  とお笑いなさるものの、「よくも人の心を見抜いていらっしゃるわ」とお思いになる。お返事には、  「昨日は、   雪が散らついて朝の間の行幸では   はっきりと日の光は見えませんでした  はっきりしない御ことばかりで」  とあるのを、紫の上も御覧になる。  「しかじかのことを勧めたのですが、中宮がああしていらっしゃるし、わたしの娘という扱いのままでは不都合であろう。あの内大臣に知られても、 弘徽殿の女御がまたあのようにいらっしゃるのだからなどと、思い悩んでいたことです。若い女性で、そのように親しくお仕えするのに、何も遠慮す る必要がないのは、主上をちらとでも拝見して、宮仕えを考えない者はないでしょう」  とおっしゃると、  「あら、嫌ですわ。いくら御立派だと拝見しても、自分から進んで宮仕えを考えるなんて、とても出過ぎた考えでしょう」  と言って、お笑いになる。  「さあ、そういうあなたこそ、きっと熱心になることでしょう」  などとおっしゃって、改めてお返事に、  「日の光は曇りなく輝いていましたのに   どうして行幸の日に雪のために目を曇らせたのでしょう  やはり、ご決心なさい」  などと、ひっきりなしにお勧めになる。  [第五段 玉鬘、裳着の準備]  「何はともあれ、まずは御裳着の儀式を」とお思いになって、そのご用意の御調度類の、精巧で立派な品々をお加えになり、どういった儀式であ れ、ご自分では大して考えていらっしゃらないことでも、自然と大げさに立派になるのを、まして、「内大臣にも、このまま儀式の機会にお知らせ申 そうか」とお考え寄りになったので、たいそう立派である。「年が明けて、二月に」とお考えになる。  「女性というものは、評判が高く、名をお隠しできる年頃ではなくとも、誰かの姫君として、深窓にこもっていらっしゃる間は、必ずしも氏神への参 詣なども、表立ってしないので、今までは分からないように過ごしていらっしゃったが、この、もし今考えていることが実現したら、春日明神の御心に 背いてしまうし、結局は隠しおおせるものではないから、つまらないことに、格別の計略があったことのように後々まで取り沙汰されては、おもしろ からぬことだろう。並の人の身分なら、当世ふうとしては、氏を改めることも簡単なものだが」などとご思案なさるが、「親子のご縁は、絶えるような ことはないものだ。同じことなら、こちらから進んで、お知らせ申そう」  などとご決心なさって、この儀式の御腰結役には、その内大臣をと、お手紙を差し上げなさったところ、大宮が、去年の冬頃から病気をなさってい たが、一向によくおなりにならないので、このような場合では、都合がつかない旨を、お返事申された。  中将の君も、昼夜、三条宮邸に伺候なさっていて、心に余裕もなくいらっしゃるので、時機が悪いのを、どうしたものか、とお考えになる。  「世の中も、まことに無常なものだ。大宮がお亡くなりにあそばしたら、御喪に服さなければならないのに、知らない顔をしていらっしゃったら、罪 深いことが多かろう。生きていらっしゃるうちに、このことを打ち明けよう」  とお考えになって、三条宮邸に、お見舞いかたがたお出かけになる。   第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る  [第一段 源氏、三条宮を訪問]  今は以前にもまして、目立たないようになさったが、行幸に負けないほど厳めしく立派で、ますます光輝くばかりのお顔立ちなどが、この世では見 られないほどの感じがして、素晴らしいと拝見なさるにつけては、ますますご気分の悪さも、取り除かれたような気持ちがして、起きて座わりになっ た。御脇息に寄りかかりなさって、弱々しそうであるが、お話などはたいそうよく申し上げなさる。  「お悪くはいらっしゃいませんのに、某の朝臣が気を動転させて、仰々しくお嘆き申しているようでしたので、どのようにいらっしゃるのかと、ご心配 申し上げておりました。宮中などにも、特別な場合でない限りは参内せず、朝廷に仕える人らしくもなく籠もっておりますので、何事も不慣れで大儀 に思っております。年齢など、わたし以上の人で、腰が辛抱できないほど曲がっても動き回る例は、昔も今もございますようですが、妙に愚かしい 性分の上に、物臭になったのでございましょう」  などと申し上げなさる。  「年老いたための病気と存じながら、ここ数か月になってしまいましたが、今年になってからは、望みも少なそうに思われますので、もう一度、この ようにお目にかかりお話し申し上げることもないのではなかろうかと、心細く存じておりましたが、今日は、再びもう少し寿命も延びたような気が致し ます。今はもう惜しむほどの年ではございません。親しい人たちにも先立たれ、年老いて生き残っている例を、他人の身の上として、とても見苦しい と見ておりましたので、後世への出立の準備が、気になっておりますが、この中将が、とても真心こめて不思議なほどよくお世話し、心配してくださ るのを見ましては、あれこれと心を引き留められて、今まで生き延びております」  と、ただお泣きになるばかりで、お声が震えているのも、ばかばかしく思うが、無理のないことなので、まことにお気の毒なことである。  [第二段 源氏と大宮との対話]  お話など、昔のこと今のことなどあれこれととりまぜて申し上げなさる折に、  「内大臣は、日を置かず参上なさることは多いでしょうから、このような機会にお目にかかれたら、どんなに嬉しいことでしょう。ぜひともお知らせ申 し上げたいと思うことがございますが、しかるべき機会がなくては、お目にかかることも難しいので、気になっています」  と申し上げなさる。  「公務が忙しいのでしょうか、孝心が深くないのでしょうか、それほど見舞いにも参りません。おっしゃりたいことは、どのようなことでしょうか。中将 が恨めしく思っていることもございますが、『初めのことは知らないが、今となって二人を引き離そうとしたところで、いったん立った噂は、取り消せる ものではなし、ばかげたようで、かえって世間の人も噂するというものを』などと言いましたが、一度言い出しことは、昔から後に引かない性格です から、分かってくれないように見受けられます」  と、この中将のこととお思いになっておっしゃるので、にっこりなさって、  「今さら言ってもしかたのないことと、お許しになることもあろうかと聞きまして、わたくしまでがそれとなく口添え申したようなことがありましたが、 たいそう厳しくお諌めになる旨を拝見しまして後は、どうしてそんなにまで口出しを致したのだろうかと、体裁悪く後悔致しております。  万事につけて、清めということがございますので、何とかして、元通りにきれいさっぱり水に流してくださらないことがあろうかとは存じながら、この ように残念ながら濁り淀んでしまった末には、いくら待ち受けても深く澄むような水というものは出て来にくいものなのでしょう。何事につけても、後 になるほど、悪くなって行き易いもののようでございます。お気の毒なことと存じます」  などと申し上げて、  [第三段 源氏、大宮に玉鬘を語る]  「実は、あの方がお世話なさるはずの人を、思い違いがございまして、思いがけず捜し出しましたが、その時は、そうした間違いだとも言ってくれ なかったものでしたから、しいて事情を詮索することもしませんで、ただそのような子どもが少ないので、口実であっても、何かまうものかと大目に 見まして、少しも親身な世話もしませんで、年月が過ぎましたが、どのようにしてお聞きあそばしたのでしょうか、帝から仰せになることがございまし た。  尚侍として、宮仕えする者がいなくては、あの役所の仕事は取り締まれず、女官なども公務を勤めるのに頼り所がなく、事務が滞るようであった が、現在、帝付きの老齢の典侍二人や、また他に適当な人々が、それぞれに申し出ているが、立派な人をお選びあそばそうとするのに、その適任 者がいない。  やはり、家柄も高く、世間の評判も軽くはなく、家の生活の心配のない人が、昔からなってきている。仕事ができて賢い人という点での選考なら ば、そういった人でなくとも、長年の功労によって昇任する例もあるが、それに当たる者もいないとなると、せめて世間一般の評判によってでもお選 びあそばそうと、内々に仰せられましたが、似つかわしくないことだと、どうしてお思いになるでしょう。  宮仕えというものは、帝の恩顧を期待して、身分の高い者も低い者も出仕するというのが、理想が高いというものです。一般職の役職に就いて、 そうした所の役所を取り仕切り、公事に関する事務を処理するようなことは、何でもない、重々しくないように思われていますが、どうしてまたそのよ うなことがありましょうか。ただ、自分自身の心がけ次第で、万事決まるようでございましょうというふうに、気持ちが傾いてきましたところです。  年齢を尋ねましたところ、あの大臣がお引き取りになるはずの人であることが分かりましたので、どうしたらよいことかと、はっきりとご相談申し上 げたいと存じております。何かの機会がなくてはお目にかかることもございません。すぐにこれこれしかじかのことをと、打ち明けて申し上げるべく手 立てを考えて、お手紙を差し上げたのですが、ご病気のことを口実にして、億劫がって辞退なさいました。  なるほど、時期も悪いと思い止まっていたのですが、ご病気もよろしくいらっしゃるようですから、やはり、このように考え出しました機会にと存じて おります。そのようにお伝え下さいませ」  と申し上げなさる。宮、  「それは、それは、一体どうしたことでございましょうか。あちらでは、いろいろとこのような名乗って出て来る人を、かまわずに迎え取っているよう ですが、どのような考えで、このように間違えて申し出たのでしょう。近年になってから、お噂を伺って、お子になったのでしょうか」  と、お尋ねなさるので、  「それにはそれなりの訳がございますのです。詳しい事情は、あの大臣も自然とお分かりになるでしょう。ごたごたした身分の女との間によくある ような話ですから、事情を明かしても、喧しく人が噂するでしょうから、中将の朝臣にさえ、まだ事情を知らせておりません。人にはお漏らしになりま せんように」  と、お口止め申し上げなさる。  [第四段 大宮、内大臣を招く]  内大臣、このように三条宮に太政大臣がお越しになっていらっしゃる由、お聞きになって、  「どんなに人少なの状態で、威勢の盛んな御方をお迎え申されているのだろう。御前駆どもを接待し、お座席を、整える女房も、きっと気の利いた 者はいないだろう。中将は、お供をなさっていることだろう」  などと、驚きなさって、ご子息の公達や、親しく出入りしているしかるべき廷臣たちを、差し向けなさる。  「御果物や、御酒など、しかるべく差し上げよ。自分自身も参上しなければならないが、かえって大騷ぎになるだろう」  などとおっしゃているところに、大宮のお手紙がある。  「六条の大臣がお見舞いにいらっしゃっているが、人少なな感じが致しますので、人目も体裁も悪く、もったいなくもあるので、仰々しくこのように 申し上げたようにではなく、お越しになりませんか。お目にかかって申し上げたいそうなこともあるそうです」  と、お申し上げなさった。  「どのようなことだろうか。この姫君のおんこと、中将の苦情だろうか」とお考えめぐらしになって、「宮もこのように余命少なげで、このことをしきり におっしゃり、大臣も穏やかに一言口に出して訴えておっしゃるなるば、とやかく反対申すことはしまい。平気な顔をして深く思い悩んでいないのを 見るのは面白くないし、適当な機会があったら、相手のお言葉に従った顔をして二人の仲を許そう」とお考えになる。  「お二人が心を合わせておっしゃろうとすることだな」とお思いになると、「ますます反対のしようのないことだが、また、どうしてすぐに承知する必 要があろうか」と躊躇されるのは、じつによからぬあいにくなご性分である。「しかし、宮がこのようにおっしゃり、大臣も会おうとお待ちになっている とか、どちらに対しても恐れ多い。参上してからご意向に従おう」  などとお考え直して、ご装束を特に気をつけ整えなさって、御前駆なども仰々しくなくしてお出かけになる。  [第五段 内大臣、三条宮邸に参上]  ご子息方をたいそう大勢引き連れてお入りになる様子、堂々として頼もしげである。背丈も高くていらっしゃるうえに、肉づきも釣り合って、たいそ う落ち着いて威厳があり、お顔つき、歩き方、大臣というに十分でいらっしゃる。  葡萄染の御指貫、桜の下襲、たいそう長く裾を引いて、ゆったりとことさらに振る舞っていらっしゃるのは、ああ何とご立派なとお見えになるが、六 条殿は、桜の唐の綺の御直衣、今様色の御衣を重ねて、くつろいだ皇子らしい姿が、ますます喩えようもない。一段と光輝いていらっしゃるが、こ のようにきちんと衣装を整えていらっしゃるご様子には、比べものにならないお姿であった。  ご子息たちは次々と、まことに美しいご兄弟で、集まっていらっしゃる。藤大納言、春宮大夫などと、今では申す方のご子息方も、みな大きくなっ てお供していらっしゃる。自然と、特別ではないが、評判が高く身分の高い殿上人、蔵人頭、五位の蔵人、近衛の中将、少将、弁官など、人柄が 派手で立派な、十何人が集まっていらっしゃるので、堂々としていて、それ以下の普通の人も多くいるので、杯が何回も回り、みな酔ってしまって、 それぞれがこのように幸福が誰よりも勝れていらっしゃるご境遇を話題にしていた。  [第六段 源氏、内大臣と対面]  大臣も、ひさしぶりのご対面に、昔のことを自然と思い出されて、離れていてこそ、ちょっとしたことにつけても、競争心も起きるようだが、向かい合 ってお話し申し上げなさると、お互いにたいそうしみじみとしたことの数々が思い出されなさって、いつもの、心の隔てなく、昔や今のことがらや、長 年のお話しに、日が暮れて行く。お杯などお勧め申し上げなさる。  「お見舞いに伺わなくてはいけないことでしたが、お呼びがないので遠慮致しておりまして。お越しを承りながら参りませんでしたら、お叱り事が 増えたことでしょうが」  とお申し上げになると、  「お叱りは、こちらの方です。お怒りだと思うことがたくさんございます」  などと、意味ありげにおっしゃると、あの姫君のことだろうかとお思いになって、厄介なことだと、恐縮した態度でいらっしゃる。  「昔から、公私の事柄につけて、心に隔てなく、大小のことを申し上げたり承ったりして、羽翼を並べるようにして、朝廷の御補佐も致そうと存じて おりましたが、年月がたちまして、その当時考えておりました気持ちと違うようなこと、時々出て来ましたが、内々の私事でしかありません。  それ以外のことでは、まったく変わるところはありません。特に何ということもなく年をとって行くにつれて、昔のことが懐しくなったのに、お目にか かることもほとんどなくなって行くばかりですので、身分柄きまりがあって、威儀あるお振る舞いをしなければとは存じながらも、親しい間柄では、そ のご威勢もお控え下さって、お訪ね下さったらよいのにと、恨めしく思うことが度々ございます」  とお申し上げなさると、  「昔は、おっしゃる通りしげしげお会いして、何とも失礼なまでにいつもご一緒申して、心に隔てることなくお付き合いいただきましたが、朝廷にお 仕えした当初は、あなたと羽翼を並べる一人とは思いもよりませんで、嬉しいお引き立てをば、大したこともない身の上で、このような地位に昇りま して、朝廷にお仕え致しますことに合わせても、有り難いと存じませぬのではありませんが、年をとりますと、おっしゃる通りつい怠慢になることば かりが、多くございました」  などと、お詫びを申し上げなさる。  その機会に、ちらと姫君のことをおっしゃったのであった。内大臣、  「まことに感慨深く、またとなく珍しいことでございますね」と、何よりも先お泣きになって、「その当時からどうしてしまったのだろうと捜しておりまし たことは、何の機会でございましたでしょうか、悲しさに我慢できず、お話しお耳に入れましたような気が致します。今このように、少しは一人前にも なりまして、つまらない子供たちが、それぞれの縁故を頼ってうろうろ致しておりますのを、体裁が悪く、みっともないと思っておりますにつけても、 またそれはそれとして、数々いる子供の中では、不憫だと思われる時々につけても、真っ先に思い出されるのです」  とおっしゃるのをきっかけに、あの昔の雨夜の物語の時に、さまざまに語った体験談の結論をお思い出しになって、泣いたり笑ったり、すっかり打 ち解けられた。  [第七段 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去]  夜がたいそう更けて、それぞれお別れになる。  「このように参上してご一緒しては、まったく、古くなってしまった昔の事が、自然と思い出されて、懐しい気持ちが抑えきれずに、帰る気も致しま せん」  とおっしゃって、決して気弱くはいらっしゃらない六条殿も、酔い泣きなのか、涙をお流しになる。宮は宮で言うまでもなく、姫君のお身の上をお思 い出しになって、昔に優るご立派な様子、ご威勢を拝見なさると、悲しみが尽きないで、涙をとどめることができず、しおしおとお泣きになる尼姿は、 なるほど格別な風情であった。  このようなよい機会であるが、中将のおんことは、お口に出さずに終わってしまった。一ふし思いやりがないとお思いであったので、口に出すこと も体裁悪くお考えやめになり、あの内大臣はまた内大臣で、お言葉もないのに出過ぎることができずに、そうはいうものの胸の晴れない気持ちが なさるのであった。  「今夜もお供致すべきでございますが、急なことでお騒がせしてもいかがかと存じます。今日のお礼は、日を改めて参上致します」  とお申し上げなさると、  「それでは、こちらのご病気もよろしいようにお見えになるので、きっと申し上げた日をお間違えにならず、お出で下さるように」とのこと、お約束な さる。  お二人方のご機嫌も良くて、それぞれがお帰りになる物音、たいそう盛大である。ご子息たちのお供の人々は、  「何があったのだろうか。久し振りのご対面で、たいそうご機嫌が良くなったのは」  「また、どのようなご譲与があったのだろうか」  などと、勘違いをして、このようなこととは思いもかけなかったのであった。   第三章 玉鬘の物語 裳着の物語  [第一段 内大臣、源氏の意向に従う]  内大臣は、さっそくとても見たくなって、早く会いたくお思いになるが、  「さっと、そのように迎え取って、親らしくするのも不都合だろう。捜し出して手にお入れになった当初のことを想像すると、きっと潔白なまま放って おかれることはあるまい。れっきとした夫人方の手前を遠慮して、はっきりと愛人としては扱わず、そうはいっても面倒なことで、世間の評判を思っ て、このように打ち明けたのだろう」  とお思いになるのは、残念だけれども、  「そのことを瑕としなくてはならないことだろうか。こちらから進んで、あちらのお側に差し上げたとしても、どうして評判の悪いことがあろうか。宮仕 えなさるようなことになったら、女御などがどうお思いになることも、おもしろくないことだ」とお考えになるが、「どちらにせよ、ご決定されおっしゃった ことに背くことができようか」  と、いろいろとお考えになるのであった。  このようなお話があったのは、二月上旬のことであった。十六日が彼岸の入りで、たいそう吉い日であった。近くにまた吉い日はないと占い申した 上に、宮も少しおよろしかったので、急いでご準備なさって、いつものようにお越しになっても、内大臣にお打ち明けになった様子などを、たいそう詳 細に、当日の心得などをお教え申し上げなさると、  「行き届いたお心づかいは、実の親と申しても、これほどのことはあるまい」  とお思いになるものの、とても嬉しくお思いになるのであった。  こうして以後は、中将の君にも、こっそりとこのような事実をお知らせなさったのであった。  「妙なことばかりだ。知ってみればもっともなことだ」  と、合点のゆくことがあるが、あの冷淡な姫君のご様子よりも、さらにたまらなく思い出されて、「思いも寄らないことだった」と、ばかばかしい気が する。けれども、「あってはならないこと。筋違いなことだ」と、反省することは、珍しいくらいの誠実さのようである。  [第二段 二月十六日、玉鬘の裳着の儀]  こうしてその当日となって、三条宮からも、こっそりとお使いがある。御櫛の箱など、急なことであるが、種々の品々をたいそう見事に仕立てなさっ て、お手紙には、  「お手紙を差し上げるにも、憚れる尼姿のため、今日は引き籠もっておりますが、それに致しましても、長生きの例にあやかって戴くということで、 お許し下さるだろうかと存じまして。しみじみと感動してお聞き致しまして、はっきりしました事情を申し上げるのも、どうかと存じまして。あなたのお 気持ち次第で。   どちらの方から言いましてもあなたはわたしにとって   切っても切れない孫に当たる方なのですね」  と、たいそう古風に震えてお書きになっているのを、殿もこちらにいらっしゃって、準備をお命じになっている時なので、御覧になって、  「古風なご文面だが、大したものだ、このご筆跡は。昔はお上手でいらっしゃったが、年を取るに従って、奇妙に筆跡も年寄じみて行くものです ね。たいそう痛々しいほどお手が震えていらっしゃるなあ」  などと、繰り返し御覧になって、  「よくもこれほど玉くしげに引っ掛けた歌だ。三十一文字の中に、無縁な文字を少ししか使わずに詠むということは難しいことだ」 と、そっとお笑いになる。  [第三段 玉鬘の裳着への祝儀の品々]  中宮から、白い御裳、唐衣、御装束、御髪上の道具など、たいそうまたとない立派さで、例によって、数々の壷に、唐の薫物、格別に香り深いの を差し上げなさった。  ご夫人方は、みな思い思いに、御装束、女房の衣装に、櫛や扇まで、それぞれにご用意なさった出来映えは、優るとも劣らない、それぞれにつ けて、あれほどの方々が互いに、競争でご趣向を凝らしてお作りになったので、素晴らしく見えるが、東の院の人々も、このようなご準備はお聞き になっていたが、お祝い申し上げるような人数には入らないので、ただ聞き流していたが、常陸の宮の御方、妙に折目正しくて、なすべき時にはし ないではいられない昔気質でいらして、どうしてこのようなご準備を、他人事として聞き過していられようか、とお思いになって、きまり通りご用意な さったのであった。  殊勝なお心掛けである。青鈍色の細長を一襲、落栗色とか、何とかいう、昔の人が珍重した袷の袴を一具、紫色の白っぽく見える霰地の御小袿 とを、結構な衣装箱に入れて、包み方をまことに立派にして、差し上げなさった。  お手紙には、  「お見知り戴くような数にも入らない者でございませんので、遠慮致しておりましたが、このような時は知らないふりもできにくうございまして。これ は、とてもつまらない物ですが、女房たちにでもお与え下さい」  と、おっとり書いてある。殿が、御覧になって、たいそうあきれて、例によって、とお思いになると、お顔が赤くなった。  「妙に昔気質の人だ。ああした内気な人は、引っ込んでいて出て来ない方がよいのに。やはり体裁の悪いものです」と言って、「返事はおやりなさ い。きまり悪く思うでしょう。父親王が、たいそう大切になさっていたのを、思い出すと、他人より軽く扱うのはたいそう気の毒な方です」  と申し上げなさる。御小袿の袂に、例によって、同じ趣向の歌があるのであった。  「わたし自身が恨めしく思われます   あなたのお側にいつもいることができないと思いますと」  ご筆跡は、昔でさえそうであったのに、たいそうひどくちぢかんで、彫り込んだように深く、強く、固くお書きになっていた。大臣は、憎く思うものの、 おかしいのを堪えきれないで、  「この歌を詠むのにはどんなに大変だったろう。まして今は昔以上に助ける人もいなくて、思い通りに行かなかったことだろう」  と、お気の毒にお思いになる。  「どれ、この返事は、忙しくても、わたしがしよう」  とおっしゃって、  「妙な、誰も気のつかないようなお心づかいは、なさらなくてもよいことですのに」  と、憎らしさのあまりにお書きになって、  「唐衣、また唐衣、唐衣   いつもいつも唐衣とおっしゃいますね」  と書いて、  「たいそうまじめに、あの人が特に好む趣向ですから、書いたのです」  と言って、お見せなさると、姫君は、たいそう顔を赤らめてお笑いになって、  「まあ、お気の毒なこと。からかったように見えますわ」  と、気の毒がりなさる。つまらない話が多かったことよ。  [第四段 内大臣、腰結に役を勤める]  内大臣は、大してお急ぎにならない気持ちであったが、珍しい話をお聞きになって後は、早く会いたいとお心にかかっていたので、早く参上なさっ た。  裳着の儀式などは、しきたり通りのことに更に事を加えて、目新しい趣向を凝らしてなさった。「なるほど特にお心を留めていらっしゃることだ」と御 覧になるのも、もったいないと思う一方で、風変わりだと思わずにはいらっしゃれない。  亥の刻になって、御簾の中にお入れなさる。慣例通りの設備はもとよりのこと、御簾の中のお席をまたとないほど立派に整えなさって、御酒肴を 差し上げなさる。御殿油は、慣例の儀式の明るさよりも、少し明るくして、気を利かせてお持てなしなさった。  たいそうはっきりとお顔を見たいとお思いになるが、今夜はとても唐突なことなので、お結びになる時、お堪えきれない様子である。  主人の大臣、  「今夜は、昔のことは何も話しませんから、何の詳細もお分りなさらないでしょう。事情を知らない人の目を繕って、やはり普通通りの作法で」  とお申し上げなさる。  「おっしゃる通り、まったく何とも申し上げようもございません」  お杯をお口になさる時、  「言葉に尽くせないお礼の気持ちは、世間にまたとないご厚意と感謝申し上げますが、今までこのようにお隠しになっていらっしゃった恨み言も、 どうして申し添えずにいられましょう」  と申し上げなさる。  「恨めしいことですよ。玉裳を着る   今日まで隠れていた人の心が」  と言って、やはり隠し切れず涙をお流しになる。姫君は、とても立派なお二方が集まっており、気恥ずかしさに、お答え申し上げることがおできに なれないので、殿が、  「寄る辺がないので、このようなわたしの所に身を寄せて   誰にも捜してもらえない気の毒な子だと思っておりました  何とも無体なだしぬけのお言葉です」  と、お答え申し上げなさると、  「まことにごもっともです」  と、それ以上申し上げる言葉もなくて、退出なさった。  [第五段 祝賀者、多数参上]  親王たちや、次々の、人々が残らずお祝いに参上なさった。思いを寄せている方々も大勢混じっていらっしゃったので、この内大臣が、このように 中にお入りになって暫く時間がたつので、どうしたことか、とお疑いになっていた。  あの殿のご子息の中将や、弁の君だけは、かすかにご存知だったのであった。密かに思いを懸けていたことを、辛いこととも、また嬉しいことと も、お思いになる。弁の君は、  「よくもまあ告白しなかった」と小声で言って、「一風変わった大臣のお好みのようだ。中宮とご同様に入内させなさろうとお考えなのだろう」  などと、めいめい言っているのをお聞きになるが、  「やはり、暫くの間はご注意なさって、世間から非難されないようにお扱い下さい。何事も、気楽な身分の人には、みだらなことがままあるでしょう が、こちらもそちらも、いろいろな人が噂して悩まされようなことがあっては、普通の身分の人よりも困ることですから、穏やかに、だんだんと世間の 目が馴れて行くようにするのが、良いことでございましょう」  と申し上げなさると、  「ただあなた様のなされように従いましょう。こんなにまでお世話いただき、またとないご養育によって守られておりましたのも、前世の因縁が特 別であったのでしょう」  とお答えなさる。  御贈物などは、言うまでもなく、すべて引出物や、禄などは、身分に応じて、通常の例では限りがあるが、それに更に加えて、またとないほど盛 大におさせになった。大宮のご病気を理由に断りなさった事情もあるので、大げさな音楽会などはなかった。  兵部卿宮は、  「今はもうお断りになる支障も何もないでしょうから」  と、身を入れてお願い申し上げなさるが、  「帝から御内意があったことを、ご辞退申し上げ、また再びお言葉に従いまして、他の話は、その後にでも決めましょう」  とお返事申し上げなさった。  父内大臣は、  「かすかに見た様子を、何とかはっきりと再び見たいものだ。少しでも不具なところがおありならば、こんなにまで大げさに大事にお世話なさるま い」  などと、かえって焦れったく恋しく思い申し上げなさる。  今になって、あの御夢も、本当にお分かりになったのであった。弘徽殿女御だけには、はっきりと事情をお話し申し上げなさったのであった。  [第六段 近江の君、玉鬘を羨む]  世間の人の口の端のために、「暫くの間はこのことを上らないように」と、特にお隠しになっていたが、おしゃべりなのは世間の人であった。自然と 噂が流れ流れて、だんだんと評判になって来たのを、あの困り者の姫君が聞いて、女御の御前に、中将や、少将が伺候していらっしゃる所に出て 来て、  「殿は、姫君をお迎えあそばすそうですね。まあ、おめでたいこと。どのような方が、お二方に大切にされるのでしょう。聞けば、その人も賤しいお 生まれですね」  と、無遠慮におっしゃるので、女御は、はらはらなさって、何ともおっしゃらない。中将が、  「そのように、大切にされるわけがおありなのでしょう。それにしても、誰が言ったことを、このように唐突におっしゃるのですか。口うるさい女房た ちが、耳にしたらたいへんだ」  とおっしゃると、  「おだまり。すっかり聞いております。尚侍になるのだそうですね。宮仕えにと心づもりして出て参りましたのは、そのようなお情けもあろうかと思っ てなので、普通の女房たちですら致さぬようなことまで、進んで致しました。女御様がひどくていらっしゃるのです」  と、恨み言をいうので、みなにやにやして、  「尚侍に欠員ができたら、わたしこそが願い出ようと思っていたのに、無茶苦茶なことをお考えですね」  などとおっしゃるので、腹を立てて、  「立派なご兄姉の中に、人数にも入らない者は、仲間入りすべきではなかったのだわ。中将の君はひどくていらっしゃる。自分からかってにお迎 えになって、軽蔑し馬鹿になさる。普通の人では、とても住んでいられない御殿の中ですわ。ああ、恐い。ああ、恐い」  と、後ろの方へいざり下がって、睨んでいらっしゃる。憎らしくもないが、たいそう意地悪そうに目尻をつり上げている。  中将は、このように言うのを聞くにつけ、「まったく失敗したことだ」と思うので、まじめな顔をしていらっしゃる。少将は、  「こちらの宮仕えでも、またとないようなご精勤ぶりを、いいかげんにはお思いでないでしょう。お気持ちをお鎮めになって下さい。固い岩も沫雪の ように蹴散らかしてしまいそうなお元気ですから、きっと願いの叶う時もありましょう」  と、にやにやして言っていらっしゃる。中将も、  「天の岩戸を閉じて引っ込んでいらっしゃるのが、無難でしょうね」  と言って、立ってしまったので、ぽろぽろと涙をこぼして、  「わたしの兄弟たちまでが、みな冷たくあしらわれるのに、ただ女御様のお気持ちだけが優しくいらっしゃるので、お仕えしているのです」  と言って、とても簡単に、精を出して、下働きの女房や童女などが行き届かない雑用などをも、走り回り、気軽にあちこち歩き回っては、真心をこ めて宮仕えして、  「尚侍に、わたしを、推薦して下さい」  とお責め申すので、あきれて、「どんなつもりで言っているのだろう」とお思いになると、何ともおっしゃれない。  [第七段 内大臣、近江の君を愚弄]  内大臣、この願いをお聞きになって、たいそう陽気にお笑いになって、女御の御方に参上なさった折に、  「どこですか、これ、近江の君。こちらに」  とお呼びになると、  「はあい」  と、とてもはっきりと答えて、出て来た。  「たいそう、よくお仕えしているご様子は、お役人としても、なるほどどんなにか適任であろう。尚侍のことは、どうして、わたしに早く言わなかった のですか」  と、たいそう真面目な態度でおっしゃるので、とても嬉しく思って、  「そのように、ご内意をいただきとうございましたが、こちらの女御様が、自然とお伝え申し上げなさるだろうと、精一杯期待しておりましたのに、な る予定の人がいらっしゃるようにうかがいましたので、夢の中で金持になったような気がしまして、胸に手を置いたようでございます」  とお答えなさる。その弁舌はまことにはきはきしたものである。笑ってしまいそうになるのを堪えて、  「たいそう変った、はっきりしないお癖だね。そのようにもおっしゃってくださったら、まず誰より先に奏上したでしょうに。太政大臣の姫君、どんなに ご身分が高かろうとも、わたしが熱心にお願い申し上げることは、お聞き入れなさらぬことはありますまい。今からでも、申文をきちんと作って、立派 に書き上げなさい。長歌などの趣向のあるのを御覧あそばしたら、きっとお捨て去りなさることはありますまい。主上は、とりわけ風流を解する方で いらっしゃるから」  などと、たいそううまくおだましになる。人の親らしくない、見苦しいことであるよ。  「和歌は、下手ながら何とか作れましょう。表向きのことの方は、殿様からお申し上げ下されば、それに言葉を添えるようにして、お蔭を頂戴しまし ょう」  と言って、両手を擦り合わせて申し上げていた。御几帳の後ろなどにいて聞いている女房は、死にそうなほどおかしく思う。おかしさに我慢できな い者は、すべり出して、ほっと息をつくのであった。女御もお顔が赤くなって、とても見苦しいと思っておいでであった。殿も、  「気分のむしゃくしゃする時は、近江の君を見ることによって、何かと気が紛れる」  と言って、ただ笑い者にしていらっしゃるが、世間の人は、  「ご自分でも恥ずかしくて、ひどい目におあわせになる」  などと、いろいろと言うのであった。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 2/11/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    真木柱 光る源氏の太政大臣時代三十七歳冬十月から三十八歳十一月までの物語 第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚 1.鬚黒、玉鬘を得る---「帝がお聞きあそばすことも恐れ多い 2.内大臣、源氏に感謝---父内大臣は、「かえって無難であろう 3.玉鬘、宮仕えと結婚の新生活---十一月になった。神事などが多く 4.源氏、玉鬘と和歌を詠み交す---殿も、気の毒だと女房たちも疑っていたことに 第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動 1.鬚黒の北の方の嘆き---宮中に参内なさることを、心配なことと 2.鬚黒、北の方を慰める(一)---お住まいなどが、とんでもなく乱雑で 3.鬚黒、北の方を慰める(二)---殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君 4.鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする---日が暮れたので、気もそぞろになって 5.北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける---御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせて 6.鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る---一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて 7.翌日、鬚黒、玉鬘を訪う---日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる 第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る 1.式部卿宮、北の方を迎えに来る---修法などを盛んにしたが、物の怪がうるさく 2.母君、子供たちを諭す---お子様たちは、無心に歩き回っていられるのを 3.姫君、柱の隙間に和歌を残す---日も暮れ、雪も降って来そうな空模様も 4.式部卿宮家の悲憤慷慨---宮邸では待ち受けて、たいそうお悲しみである 5.鬚黒、式部卿宮家を訪問---宮に苦情を申し上げようと思って、参上なさるついでに 6.鬚黒、男子二人を連れ帰る---幼い男の子たちを車に乗せて、親しく話しながらお帰りになる 第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ 1.玉鬘、新年になって参内---このようなことの騒動に、尚侍の君のご気分は 2.男踏歌、貴顕の邸を回る---踏歌は、局々に実家の人が参内し、ふだんとは違って 3.玉鬘の宮中生活---宿直所にいらっしゃって、一日中、申し上げ 4.帝、玉鬘のもとを訪う---月が明るいので、ご容貌は言いようもなくお美しくて 5.玉鬘、帝と和歌を詠み交す---大将は、このようにお越しあそばしたのをお聞きになって 6.玉鬘、鬚黒邸に退出---そのまま今夜、あの邸にとお考えになっていたが 7.二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る---二月になった。大殿は 8.源氏、玉鬘の返書を読む---手紙を広げて、玉水がこぼれるように思わずにはいらっしゃれないが 9.三月、源氏、玉鬘を思う---三月になって、六条殿の御前の、藤、山吹が 第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君 1.北の方、病状進む---あの、もとの北の方は、月日のたつにしたがって 2.十一月に玉鬘、男子を出産---その年の十一月に、たいそうかわいい赤子まで 3.近江の君、活発に振る舞う---そうそう、あの内の大殿のご息女で、尚侍を望んでいた女君も   第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚  [第一段 鬚黒、玉鬘を得る]  「帝がお聞きあそばすことも恐れ多い。少しの間は広く世間には知らせまい」とご注意申し上げなさるが、そう隠してもお隠しきれになれない。何 日かたったが、少しもお心を開くご様子もなく、「思いの他の不運な身の上だわ」と、思い詰めていらっしゃる様子がいつまでも続くので、「ひどく恨 めしい」と思うが、浅からぬご縁、しみじみと嬉しく思う。  見れば見るほどにご立派で、理想的なご器量、様子を、「他人のものにしてしまうところであったよ」と思うだけでも胸がどきどきして、石山寺の観 音も、弁の御許も並べて拝みたく思うが、女君がほんとうに不愉快だと嫌ったので、出仕もせずに自宅に引き籠もっているのであった。  なるほど、たくさんお気の毒な例を、いろいろと見て来たが、思慮の浅い人のために、お寺の霊験が現れたのであった。  大臣も「不満足で残念だ」とお思いになるが、今さら言ってもしかたのないことなので、「誰も彼もこのようにご承知なさったことなので、今さら態度 を変えるのも、相手のためにたいそうお気の毒であり、筋違いである」とお考えになって、結婚の儀式をたいそうまたとなく立派にお世話なさる。  一日も早く、自分の邸にお迎え申し上げることをご準備なさるが、軽率にひょいとお移りなさる場合、あちらに待ち受けて、きっと好ましく思うはず のない人がいらっしゃるらしいのが、気の毒なことにかこつけなさって、  「やはり、ゆっくりと、波風を立てないようにして、騒がれないで、どこからも人の非難や妬みを受けないよう、お振る舞いなさい」  とお申し上げなさる。  [第二段 内大臣、源氏に感謝]  父内大臣は、  「かえって無難であろう。格別親身に世話してくれる後見のない人が、なまじっかの色めいた宮仕えに出ては、辛いことであろうと、不安に思って いた。大切にしたい気持ちはあるが、女御がこのようにいらっしゃるのを差し置いて、どうして世話できようか」  などと、内々におっしゃっているのであった。なるほど、帝だと申しても、人より軽くおぼし召し、時たまお目にかかりなさって、堂々としたお扱いを なさらなかったら、軽率な出仕ということになりかねないのであった。  三日の夜のお手紙を、取り交わしなさった様子を伝え聞きなさって、こちらの大臣のお気持ちを、「ほんとうにもったいなく、ありがたい」と感謝申し 上げなさるのであった。  このように隠れたご関係であるが、自然と、世間の人がおもしろい話として語り伝えては、次から次へと漏れ聞いて、めったにない世間話として 言いはやすのであった。帝におかれてもお聞きあそばしたのであった。  「残念にも、縁のなかった人であるが、あのように望んでいられた願いもあるのだから。宮仕えなど、妃の一人としてでは、お諦めになるのもよか ろうが」  などと仰せられるのであった。  [第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活]  十一月になった。神事などが多く、内侍所にも仕事の多いころなので、女官連中、内侍連中が参上しては、はなやかに騒々しいので、大将殿 は、昼もたいそう隠れたようにして籠もっていらっしゃるのを、たいそう気にくわなく、尚侍の君はお思いになっていた。  兵部卿宮などは、それ以上に残念にお思いになる。兵衛督は、妹の北の方の事までを外聞が悪いと嘆いて、重ね重ね憂鬱であったが、「馬鹿ら しく、恨んでみても今はどうにもならない」と考え直す。  大将は、有名な堅物で、長年少しも浮気沙汰もなくて過ごしてこられたのが、すっかり変わってご満悦で、別人のようなご様子で、夜や早朝の人 目を忍んでいらっしゃる出入りも、恋人らしく振る舞っていらっしゃるのを、おもしろいと女房たちは拝する。  女は、陽気にはなやかにお振る舞いなさるご性分も表に出さず、とてもひどくふさぎ込んで、自分から求めて一緒になったのでないことは誰の目 からも明らかであるが、「大臣がどうお思いであろうか、兵部卿宮のお気持ちの深くやさしくいらっしゃったこと」などを思い出しなさると、「恥ずかし く、残念だ」とばかりお思いになると、何かと気に入らないご様子が絶えない。  [第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す]  殿も、気の毒だと女房たちも疑っていたことに、潔白であることを証明なさって、「自分の心中でも、その場限りの間違ったことは好まないのだ」 と、昔からのこともお思い出しになって、紫の上にも、  「お疑いでしたね」  などと申し上げなさる。「今さら、厄介な癖が出ても困る」とお思いになる一方で、何かたまらなくお思いになった時、「いっそ自分の物にしてしまお うか」と、お考えになったこともあるので、やはりご愛情も切れない。  大将のおいでにならない昼ころ、お渡りになった。女君は、不思議なほど悩ましそうにばかりお振る舞いになって、さわやかな気分の時もなく萎 れていらっしゃったが、このようにしてお越しになると、少し起き上がりなさって、御几帳に隠れてお座りになる。  殿も、改まった態度で、少し他人行儀にお振る舞いになって、世間一般の話などを申し上げなさる。真面目な普通の人を夫として迎えるようにな ってからは、今まで以上に言いようのないご様子や有様をお分りになるにつけ、意外な運命の身の、置き所もないような恥ずかしさにも、涙がこぼ れるのであった。  だんだんと、情のこもったお話になって、近くにある御脇息に寄り掛かって、少し覗き見しながら、お話し申し上げになさる。たいそう美しげに面や つれしておいでの様子が、見飽きず、いじらしさがお加わりになっているにつけても、「他人に手放してしまうのも、あまりな気まぐれだな」と残念で ある。  「あなたと立ち入った深い関係はありませんでしたが、三途の川を渡る時、   他の男に背負われて渡るようにはお約束しなかったはずなのに  思ってもみなかったことです」  と言って、鼻をおかみになる様子、やさしく心を打つ風情である。  女は顔を隠して、  「三途の川を渡らない前に何とかしてやはり   涙の流れに浮かぶ泡のように消えてしまいたいものです」  「幼稚なお考えですね。それにしても、あの三途の川の瀬は避けることのできない道だそうですから、お手先だけは、引いてお助け申しましょう か」と、ほほ笑みなさって、「真面目な話、お分かりになることもあるでしょう。世間にまたといない馬鹿さ加減も、また一方で安心できるのも、この 世に類のないくらいなのを、いくら何でもと、頼もしく思っています」  と申し上げなさるのを、ほんとうにどうすることもできず、聞き苦しいとお思いでいらっしゃるので、お気の毒になって、話をおそらしになりながら、  「帝が仰せになることがお気の毒なので、やはり、ちょっとでも出仕おさせ申しましょう。自分の物と家の中に閉じ込めてしまってからでは、そのよ うなお勤めもできにくいお身の上となりましょう。当初の考えとは違ったかっこうですが、二条の大臣は、ご満足のようなので、安心です」  などと、こまごまとお話し申し上げなさる。ありがたくも気恥ずかしくもお聞きになることが多いけれど、ただ涙に濡れていらっしゃる。たいそうこん なにまで悩んでおいでの様子がお気の毒なので、お思いのままに無体な振る舞いはなさらず、ただ、心得や、ご注意をお教え申し上げなさる。あ ちらにお移りになることを、直ぐにはお許し申し上げなさらないご様子である。   第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動  [第一段 鬚黒の北の方の嘆き]  宮中に参内なさることを、心配なことと大将はお思いになるが、その機会に、そのまま退出おさせ申そうかとのお考えを思いつかれて、ただちょっ との暇のお許しを申し上げなさる。このように人目を忍んでお通いになることも、お慣れにならない感じで辛いので、ご自分の邸内の修理し整えて、 長年荒れさせ埋もれ、放って置かれたお部屋飾り、すべての飾りつけを立派にしてご準備なさる。  北の方がお嘆きになろうお気持ちもお考えにならず、かわいがっていらっしゃったお子たちにも、お目もくれなさらず、やさしく情け深い気持ちのあ る人ならば、何かのことにつけても、女にとって恥になるようなことには、考え及ぶところもあろうが、一徹で融通のきかないご性分なので、人のお 気に障るようなことが多いのであった。  女君は、人にひけをお取りになるようなところはない。お人柄も、あのような高貴な父親王がたいそう大切にお育て申された世間の評判、けっして 軽々しくなく、ご器量なども、たいそう素晴らしくいらっしゃったが、妙に、しつこい物の怪をお患いになって、ここ数年来、普通の人とはお変わりにな って、正気のない時々が多くおありになって、ご夫婦仲も疎遠になって長くなったが、れっきとした本妻としては、また並ぶ人もなくお思い申し上げ ていらっしゃったが、珍しくお心惹かれる方が、一通りどころの方でなく、人より勝れていらっしゃるご様子よりも、あの疑いを持って皆が想像してい たことさえ、潔白の身でお過ごしになっていらしたことなどを、めったにない立派な態度だと、ますます深くお思い申し上げなさるのも、もっともなこと である。  式部卿宮がお聞きになって、  「今は、あのような若い女を迎えて、大切にするだろう片隅で、みっともなく連れ添っていらっしゃるのも、外聞も痩せるほど恥ずかしいだろう。自分 が生きているうちは、まことに世間に恥をさらして言いなりにならなくても、お過ごしになられよう」  とおっしゃって、宮邸の東の対を掃除し整えて、「お迎え申そう」とお考えになっておっしゃるのを、「親の御家と言っても、夫に捨てられた身の上 で、再び実家に戻ってお顔を合わせ申すのも」と、思い悩みなさると、ますますご気分も悪くなって、ずっと病床にお臥せりになる。  生まれつきは、たいそう静かで気立てもよく、おっとりとしていらっしゃる方で、時々、気がおかしくなって、人から嫌われてしまうようなことが、時 たまおありなのであった。  [第二段 鬚黒、北の方を慰める(1)]  お住まいなどが、とんでもなく乱雑で、綺麗さもなく汚れて、たいそう塞ぎ込んでいらっしゃるのを、玉を磨いたような所を見て来た目には、気に入 らないが、長年連れ添ってきた愛情が急に変わるものでもないので、心中では、たいそう気の毒にとお思い申し上げる。  「昨日今日の、たいそう浅い夫婦仲でさえ、悪くはない身分の人となれば、皆我慢することがあって添い遂げるものだ。たいそう身体も苦しそうに していらっしゃったので、申し上げなければならないこともお話し申し上げにくくてね。  長年添い遂げ申して来た仲ではありませんか。世間の人と違ったご様子を、最後までお世話申そうと、ずいぶんと我慢して過ごして来たのに、と てもそうは行かないようなお考えで、お嫌いなさるのですね。  幼い子どもたちもいますので、何かにつけて、いいかげんにはしまいとずっと存じ上げてきたのに、女心の考えなさから、このように恨み続けてい らっしゃる。最後まで見届けないうちは、そうかも知れないことですが、信頼してこそ、もう少し御覧になっていてください。  式部卿宮がお聞きになりお疎みになって、はっきりとすぐにお迎え申そうとお考えになっておっしゃっているのが、かえってたいそう軽率です。ほ んとうに決心なさったことなのか、暫く懲らしめなさろうというのでしょうか」  と、ちょっと笑っておっしゃる、たいそう憎らしくおもしろくない。  [第三段 鬚黒、北の方を慰める(2)]  殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君、中将の御許などという女房たちでさえ、身分相応につけて、「おもしろくなく辛い」と思い申 し上げているのだから、まして北の方は、正気でいらっしゃる時なので、たいそうしおらしく泣いていらっしゃった。  「わたしを、惚けている、僻んでいる、とおっしゃって、馬鹿にするのは、けっこうなことです。父宮のことまでを引き合いに出しておっしゃるのは、も し、お耳に入ったらお気の毒だし、つたないわが身の縁から軽々しいようです。耳馴れていますから、今さら何とも思いません」  と言って、横を向いていらっしゃる、いじらしい。  たいそう小柄な人で、いつものご病気で痩せ衰え、ひ弱で、髪はとても清らかに長かったが、半分にしたように抜け落ちて細くなって、櫛梳ること もほとんどなさらず、涙で固まっているのは、とてもお気の毒である。  つややかに美しいところはなくて、父宮にお似申して、優美な器量をなさっていたが、身なりを構わないでいられるので、どこに華やかな感じがあ ろうか。  「宮の御事を、軽んじたりどうして思い申そう。恐ろしい、人聞きの悪いおっしゃりようをなさいますな」となだめて、  「あの通っております所の、たいそう眩しい玉の御殿に、もの馴れない、生真面目な恰好で出入りしているのも、あれこれ人目に立つだろうと、気 がひけるので、気楽に迎えてしまおうと考えているのです。  太政大臣が、ああした世に比べるものもないご声望を、今さら申し上げるまでもなく、恥ずかしくなるほど、行き届いていらっしゃるお邸に、よくない 噂が漏れ聞こえては、たいそうお気の毒であるし、恐れ多いことでしょう。  穏やかにして、お二人仲を好くして、親しく付き合ってください。宮邸にお渡りになっても、忘れることはございませんでしょう。いずれにせよ、今さ らわたしの気持ちが遠ざかることはあるはずはないのですが、世間の噂や物笑いに、わたしにとっても軽々しいことでございましょうから、長年の約 束を違えず、お互いに力になり合おうと、お考えください」  と、とりなし申し上げなさると、  「あなたのお仕打ちは、どうこうと申しません。世間の人と違った身の病を、父宮におかれてもお嘆きになって、今さら物笑いになることと、お心を 痛めていらっしゃるとのことなので、お気の毒で、どうしてお目にかかれましょう、と思うのです。  大殿の北の方と申し上げる方も、他人でいらっしゃいましょうか。あの方は、知らない状態で成長なさった方で、後になって、このように人の親の ように振る舞っていらっしゃる辛さを考えて、お口になさるようですが、わたしの方では何とも思っていませんわ。なさりよう見ているばかりです」  とおっしゃるので、  「たいそう良いことをおっしゃるが、いつものご乱心では、困ったことも起こるでしょう。大殿の北の方がご存知になることでもございません。箱入り 娘のようでいらっしゃっるので、このように軽蔑された人の身の上まではご存知のはずがありません。あの人の親らしくなくおいでのようです。この ようなことが耳に入ったら、ますます困ることでしょう」  などと、一日中お側で、お慰め申し上げなさる。  [第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする]  日が暮れたので、気もそぞろになって、何とか出かけたいとお思いになるが、雪がまっくらにして降っている。このような天候にあえて出かけるの も、人目に立ってお気の毒であるし、このご様子も憎らしく嫉妬して恨みなどなさるならば、かえってそれを口実にして、自分も対抗して出て行くの だが、たいそうおっとりと、気にかけていらっしゃらない様子が、たいそうお気の毒なので、どうしようか、と迷いながら、格子なども上げたまま、端近 くに物思いに耽っていらっしゃった。  北の方がその様子を見て、  「あいにくな雪ですが、どう踏み分けてお出かけなさろうとするのでしょう。夜も更けたようですわ」  とお促しになる。「今はもうおしまいだ、引き止めたところで」と思案なさっている様子、まことに不憫である。  「このような雪では、どうして出かけられようか」  とおっしゃる一方で、  「やはり、ここ当分の間だけは。わたしの気持ちを知らないで、何かと人が噂し、大臣たちもあれこれとお耳になさろうことを憚って、途絶えを置く のは気の毒です。落ち着いて、やはりわたしの気持ちをお見届けください。こちらになど迎えたら、気がねもなくなるでしょう。このように普通のご様 子をしていらっしゃる時は、他の女に心を移すこともなくなって、いとおしくお思い申し上げます」  などと、お慰めなさると、  「お止まりになっても、お心が他に行っているのなら、かえってつらいことでございましょう。他の所にいても、せめて思い出してくだされば、涙に濡 れた袖の氷もきっと解けることでしょう」  などと、穏やかにおっしゃっていられる。  [第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける]  御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっ そりとか弱げである。沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとお しいと見る時は、咎める気もお消えになって、  「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきな がら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。  やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見 えず、気おくれするほど立派である。  侍所で、供人たちが声立てて、  「雪が小止みです。夜が更けてしまいましょう」  などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。  中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄り かかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる 間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。  あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。  正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、  「例の物の怪が、人から嫌われるようにしようとしていることだ」  と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。  大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽く していらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。  「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せた が、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。わめき叫んでいらっ しゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。  [第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る]  一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて夜をお明かしになって、少しお静かになっているころに、あちらへお手紙を差し上げなさる。  「昨夜、急に意識を失った人が出まして、雪の降り具合も出掛けにくく、ためらっておりましたところ、身体までが冷えてしまいました。あなたのお 気持ちはもちろんのこと、周囲の人はどのように取り沙汰したことでございましょう」  と、生真面目にお書きになっている。  「心までが中空に思い乱れましたこの雪に   独り冷たい片袖を敷いて寝ました  耐えられませんでした」  と、白い薄様に、重々しくお書きになっているが、格別風情のあるところもない。筆跡はたいそうみごとである。漢学の才能は高くいらっしゃるので あった。  尚侍の君は、夜離れを何ともお思いなさらないので、このように心はやっていらっしゃるのを、御覧にもならないので、お返事もない。男は、落胆し て、一日中物思いをなさる。  北の方は、依然としてたいそう苦しそうになさっているので、御修法などを始めさせなさる。心の中でも、「せめてもう暫くの間だけでも、何事もな く、正気でいらっしゃってください」とお祈りになる。「ほんとうの気立てが優しいのを知らなかったら、こんなにまで我慢できない気味悪さだ」と、思っ ていらっしゃった。  [第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う]  日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる。お召物のことなども、体裁よく整えなさらず、まことに奇妙で身にそぐわないとばかり不機 嫌でいらっしゃるが、立派な御直衣などは、間に合わせることがおできになれず、たいそう見苦しい。  昨夜のは、焼け穴があいて、気味悪く焦げた匂いがするのも異様である。御下着にまでその匂いが染みていた。嫉妬された跡がはっきりして、 相手もお嫌いになるに違いないので、脱ぎ替えて、御湯殿などで、たいそう身繕いをなさる。  木工の君、お召物に香をたきしめながら、  「北の方が独り残されて、思い焦がれる胸の苦しさが   思い余って炎となったその跡と拝見しました  すっかり変わったお仕打ちは、お側で拝見する者でさえも、平気でいられましょうか」  と、口もとをおおっている、目もとは、たいそう魅力的である。けれども、「どのような気持ちからこのような女に情けをかけたのだろう」などとだけ思 われなさるのであった。薄情なことであるよ。  「嫌なことを思って心が騒ぐので、あれこれと   後悔の炎がますます立つのだ  まったくとんでもない事が、もし先方の耳に入ったら、宙ぶらりな身の上となるだろう」  と、溜息ついてお出かけになった。  一夜会わなかっただけなのに、改めて珍しいほどに、美しさが増して見えなさるご様子に、ますます心を他の女に分けることもできないように思わ れて、憂鬱なので、長い間居続けていらっしゃった。   第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る  [第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る]  修法などを盛んにしたが、物の怪がうるさく起こってわめいているのをお聞きになると、「あってはならない不名誉なことにもなり、外聞の悪いこと が、きっと出てこよう」と、恐ろしくて寄りつきなさらない。  邸にお帰りになる時も、別の部屋に離れていらして、子どもたちだけを呼び出してお会い申しなさる。 女の子が一人、十二、三歳ほどで、またそ の下に、男の子が二人いらっしゃるのであった。最近になって、ご夫婦仲も離れがちでいらっしゃるが、れっきとした方として、肩を並べる人もなくて 暮らして来られたので、「いよいよ最後だ」とお考えになると、お仕えしている女房たちも「ひどく悲しい」と思う。  父宮が、お聞きになって、  「今は、あのように別居して、はっきりした態度をとっておいでだというのに、それにしても、辛抱していらっしゃる、たいそう不面目な物笑いなこと だ。自分が生きている間は、そう一途に、どうして相手の言いなりに従っていらっしゃることがあろうか」  と申し上げなさって、急にお迎えがある。  北の方は、ご気分が少し平常になって、夫婦仲を情けなく思い嘆いていらっしゃると、このようにお申し上げになっているので、  「無理して立ち止まって、すっかり見捨てられるのを見届けて、諦めをつけるのも、さらに物笑いになるだろう」  などと、ご決心なさる。  ご兄弟の公達、兵衛督は、上達部でいらっしゃるので、仰々しいというので、中将、侍従、民部大輔など、お車三台程でいらっしゃった。「きっとそ うなるだろう」と、以前から思っていたことであるが、目の前に、今日がその終わりと思うと、仕えている女房たちも、ぽろぽろと涙をこぼし泣き合っ ていた。  「長年ご経験のないよそでのお住まいで、手狭で気の置ける所では、どうして大勢の女房が仕えられようか。何人かは、それぞれ実家に下がっ て、落ち着きになられてから」  などと決めて、女房たちはそれぞれ、ちょっとした荷物など、実家に運び出したりして、散り散りになるのであろう。お道具類は、必要な物は皆荷 作りなどしながら、上の者や下の者が泣き騒いでいるのは、たいそう不吉に見える。  [第二段 母君、子供たちを諭す]  お子様たちは、無心に歩き回っていられるのを、母君、皆を呼んで座らせなさって、  「わたしは、このようにつらい運命を、今は見届けてしまったので、この世に生き続ける気もありません。どうなりとなって行くことでしょう。将来が あるのに、何といっても、散り散りになって行かれる様子が、悲しいことです。  姫君は、どうなるにせよ、わたしについていらっしゃい。かえって、男の子たちは、どうしてもお父様のもとに参上してお会いしなければならないで しょうが、構ってもくださらないでしょうし、どっちつかずの頼りない生活になるでしょう。  父宮が生きていらっしゃるうちは、型通りに宮仕えはしても、あの大臣たちのお心のままの世の中ですから、あの気を許せない一族の者よと、や はり目をつけられて、立身することも難しい。それだからといって、山林に続いて入って出家することも、来世まで大変なこと」  とお泣きになると、皆、深い事情は分からないが、べそをかいて泣いていらっしゃる。  「昔物語などを見ても、世間並の愛情深い親でさえ、時勢に流され、人の言うままになって、冷たくなって行くものです。まして、形だけの親のよう で、見ている前でさえすっかり変わってしまったお心では、頼りになるようなお扱いをなさるまい」  と、乳母たちも集まって、おっしゃり嘆く。  [第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す]  日も暮れ、雪も降って来そうな空模様も、心細く見える夕方である。  「ひどく荒れて来ましょう。お早く」  と、お迎えの公達はお促し申し上げるが、お目を拭いながら物思いに沈んでいらっしゃる。姫君は、殿がたいそうかわいがって、懐いていらっしゃ っるので、  「お目にかからないではどうして行けようか。『これで』などと挨拶しないで、再び会えないことになるかもしれない」  とお思いになると、突っ伏して、「とても出かけられない」とお思いでいるのを、  「そのようなお考えでいらっしゃるとは、とても情けない」  などと、おなだめ申し上げなさる。「今すぐにも、お父様がお帰りになってほしい」とお待ち申し上げなさるが、このように日が暮れようとする時、あ ちらをお動きなさろうか。  いつも寄りかかっていらっしゃる東面の柱を、他人に譲る気がなさるのも悲しくて、姫君、桧皮色の紙を重ねたのに、ほんのちょっと書いて、柱の ひび割れた隙間に、笄の先でお差し込みなさる。  「今はもうこの家を離れて行きますが、わたしが馴れ親しんだ   真木の柱はわたしを忘れないでね」  最後まで書き終わることもできずお泣きになる。母君、「いえ、なんの」と言って、  「長年馴れ親しんで来た真木柱だと思い出しても   どうしてここに止まっていられましょうか」  お側に仕える女房たちも、それぞれに悲しく、「それほどまで思わなかった木や草のことまで、恋しいことでしょう」と、目を止めて、鼻水をすすり合 っていた。  木工の君は、殿の女房として留まるので、中将の御許は、  「浅い関係のあなたが残って、邸を守るはずの北の方様が   出て行かれることがあってよいものでしょうか  思いもしなかったことです。こうしてお別れ申すとは」  と言うと、木工の君は、  「どのように言われても、わたしの心は悲しみに閉ざされて   いつまでここに居られますことやら  いや、そのような」  と言って泣く。  お車を引き出して振り返って見るのも、「再び見ることができようか」と、心細い気がする。梢にも目を止めて、見えなくなるまで振り返って御覧に なるのであった。君が住んでいるからではなく、長年お住まいになった所が、どうして名残惜しくないことがあろうか。  [第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨]  宮邸では待ち受けて、たいそうお悲しみである。母の北の方、泣き騷ぎなさって、  「太政大臣を、結構なご親戚とお思い申し上げていらっしゃるが、どれほどの昔からの仇敵でいらっしゃったのだろうと思われます。  女御にも、何かにつけて、冷淡なお仕打ちをなさったが、それは、お二人の間の恨み事が解けなかったころ、思い知れということであったであろう と、思ったりおっしゃったりもし、世間の人もそう言っていたのでさえ、やはり、そあってよいことでしょうか。  一人を大切になさるのであれば、その周辺までもお蔭を蒙るという例はあるものだと、納得行きませんでしたが、まして、このような晩年になっ て、わけの分からない継子の世話をして、自分が飽きたのを気の毒に思って、律儀者で浮気しそうのない人をと思って、婿に迎えて大切になさるの は、どうして辛くないことでしょうか」  と、大声で言い続けなさるので、宮は、  「ああ、聞き苦しい。世間から非難されることのおありでない大臣を、口から出任せに悪くおっしゃるものではありませんよ。賢明な方は、かねて から考えていて、このような報復をしようと、思うことがおありだったのだろう。そのように思われるわが身の不幸なのだろう。  なにげないふうで、すべてあの苦しみなさった報復は、引き上げたり落としたり、たいそう賢く考えていらっしゃるようだ。わたし一人は、しかるべき 親戚だと思って、先年も、あのような世間の評判になるほどに、わが家には過ぎたお祝賀があった。そのことを生涯の名誉と思って、満足すべきな のだろう」  とおっしゃると、ますます腹が立って、不吉な言葉を言い散らしなさる。この大北の方は、性悪な人だったのである。  大将の君は、このようにお移りになってしまったことを聞いて、  「まことに妙な、年若い夫婦のように、やきもちを焼いたようなことをなさったものだなあ。ご本人には、そのようなせっかちできっぱりした性分もな いのに、宮があのように軽率でいらっしゃる」  と思って、御子息もあり、世間体も悪いので、いろいろと思案に困って、尚侍の君に、  「こんな妙なことがございましたようです。かえって気楽に存じられますが、そのまま邸の片隅に引っ込んでいてもよい気楽な人と、安心しており ましたのに、急にあの宮がなさったのでしょう。世間が見たり聞いたりことも薄情なので、ちょっと顔を出して、すぐに戻ってまいりましょう」  と言って、お出になる。  立派な袍のお召物に、柳の下襲、青鈍色の綺の指貫をお召しになって、身なりを整えていらっしゃる、まことに堂々としている。「どうして不似合い なところがあろうか」と、女房たちは拝見するが、尚侍の君は、このようなことをお聞きになるにつけても、わが身が情けなく思わずにはいらっしゃれ ないので、見向きもなさらない。  [第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問]  宮に苦情を申し上げようと思って、参上なさるついでに、先に、自邸にいらっしゃると、木工の君などが出てきて、その時の様子をお話し申し上げ る。姫君のご様子をお聞きになって、男らしく堪えていらっしゃるが、ぽろぽろと涙がこぼれるご様子、たいそうお気の毒である。  「それにしても、世間の人と違い、おかしな振る舞いの数々を大目に見てきた長年の気持ちを、ご理解なさらなかったのかな。ひどくわがままな人 は、今までも一緒にいただろうか。まあよい、あの本人は、どうなったところで、廃人にお見えになるから、同じことだ。子どもたちも、どうなさろうとい うのだろうか」  と、嘆息しながら、あの真木の柱を御覧になると、筆跡も幼稚だが、気立てがしみじみといじらしくて、道すがら、涙を押し拭い押し拭い参上なさる と、お会いになれるはずもない。  「何の。ただ時勢におもねる心が、今初めてお変わりになったのではない。年来うつつを抜かしていらっしゃる様子を、長いこと聞いてはいたが、 いつを再び改心する時かと待てようか。ますます、奇妙な姿を現すばかりで終わることにおなりになろう」  とご意見申される、もっともなことである。  「まったく、大人げない気がしますな。お見捨てになるはずもない子供たちもいますのでと、のんきに構えておりましたわたしの不行届を、繰り返し お詫び申しても、お詫びの申しようがありません。今はただ、穏便に大目に見て下さって、罪は免れがたく、世間の人にも分からせた上で、このよう にもなさるのがよい」  などと、説得申すのに苦慮していらっしゃる。「せめて姫君にだけでもお会いしたい」と申し上げなさっているが、お出し申すはずもない。  男の子たち、十歳になるのは、童殿上なさっている。とてもかわいらしい。人からほめられて、器量など優れてはいないが、たいそう利発で、物の 道理をだんだんお分りになっていらした。  次の君は、八歳ほどで、とても可憐で、姫君にも似ているので、撫でながら、  「おまえを恋しい姫君のお形見と思って見ることにしよう」  などと、涙を流してお話しなさる。宮にも、ご内意を伺ったが、  「風邪がひどくて、養生しております時なので」  と言うので、不体裁な思いで退出なさった。  [第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る]  幼い男の子たちを車に乗せて、親しく話しながらお帰りになる。六条殿には連れて行くことがおできになれないので、邸に残して、  「やはり、ここにいなさい。会いに来るのにも安心して来られるであろうから」  とおっしゃる。悲しみにくれて、たいそう心細そうに見送っていらっしゃる様子、たいそうかわいそうなので、心配の種が増えたような気がするが、 女君のご様子が、見がいがあって立派なので、気違いじみたご様子と比べると、格段の相違で、すべてお慰めになる。  さっぱり途絶えてお便りもせず、体裁の悪かったことを口実にしているふうなのを、宮におかれて、ひどく不愉快にお嘆きになる。  春の上もお聞きになって、  「わたしまで、恨まれる原因になるのがつらいこと」  とお嘆きになるので、大臣の君は、気の毒だとお思いになって、  「難しいことだ。自分の一存だけではどうすることもできない人の関係で、帝におかせられても、こだわりをお持ちになっていらっしゃるようだ。兵部 卿宮なども、お恨みになっていらっしゃると聞いたが、そうは言っても、思慮深くいらっしゃる方なので、事情を知って、恨みもお解けになったようだ。 自然と、男女の関係は、人目を忍んでいると思っても、隠すことのできないものだから、そんなに苦にするほどの責任もない、と思っております」  とおっしゃる。   第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ  [第一段 玉鬘、新年になって参内]  このようなことの騒動に、尚侍の君のご気分は、ますます晴れる間もないでいるのを、大将は、お気の毒にとお気づかい申し上げて、  「あの参内なさる予定であったことも、沙汰止みになって、お妨げ申したのを、帝におかせられても、快からず何か含むところがあるようにお聞きあ そばし、方々もお考えになるところがあるだろう。宮仕えの女性を妻にしている男もいないではないが」  と思い返して、年が改まってから、参内させ申し上げなさる。男踏歌があったので、ちょうどその折に、参内の儀式をたいそう立派に、この上なく 整えて参内なさる。  お二方の大臣たち、この大将のご威勢までが加わり、宰相中将、熱心に気を配ってお世話申し上げなさる。兄弟の公達も、このような機会にと集 まって、ご機嫌を取りに近づいて、大事になさる様子、たいそう素晴らしい。  承香殿の東面にお局を設けてある。西に宮の女御がいらしたので、馬道だけの間隔であるが、お心の中は、遠く離れていらっしゃったであろう。 御方々は、どの方となく競争なさい合って、宮中では、奥ゆかしくはなやいだ時分である。格別家柄の劣った更衣たち、多くも伺候なさっていない。  中宮、弘徽殿女御、この宮の王女御、左大臣の女御などが伺候していらっしゃる。その他には、中納言、宰相の御息女が二人ほどが伺候してい らっしゃるのであった。  [第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る]  踏歌は、局々に実家の人が参内し、ふだんとは違って、ことに賑やかな見物なので、どなたもどなたも綺羅を尽くし、袖口の色の重なり、うるさい ほど立派に整えていらっしゃる。春宮の女御も、たいそう華やかになさって、春宮は、まだお若くいらっしゃるが、すべての面でたいそう風流である。  帝の御前、中宮の御方、朱雀院と参って、夜がたいそう更けてしまったので、六条院には、今回は仰々しいのでとお取り止めになる。朱雀院から 帰参して、春宮の御方々を回るうちに、夜が明けた。  ほのぼのと美しい夜明けに、たいそう酔い乱れた恰好をして、「竹河」を謡っているところを見ると、内大臣家の御子息が、四、五人ほど、殿上人 の中で、声が優れ、器量も美しくて、うち揃っていらっしゃるのが、たいそう素晴らしい。  殿上童の八郎君は、正妻腹の子で、たいそう大切になさっているのが、とてもかわいらしくて、大将殿の太郎君と立ち並んでいるのを、尚侍の君 も、他人とはお思いにならないので、お目が止まった。高貴な身分で長く宮仕えしていらっしゃる方々よりも、この御局の袖口は、全体の感じが今 風で、同じ衣装の色合い、襲なりであるが、他の所より格別華やかである。  ご本人も女房たちも、このようにご気分を晴らして、暫くの間は宮中でお過ごせになれたら、と思い合っていた。  どこでも同じように、肩にお被けになる綿の様子も、色艶も格別に洗練なさって、こちらは水駅であったが、様子が賑やかで、女房たちが心づかい し過ぎるほどで、一定の作法通りの御饗応など、用意がしてある様子は、特別に気を配って、大将殿がおさせになったのであった。  [第三段 玉鬘の宮中生活]  宿直所にいらっしゃって、一日中、申し上げなさることは、  「夜になったら、ご退出おさせ申そう。このような機会にと、急にお考えが変わる宮仕えは安心でない」  とばかり、同じことをご催促申し上げなさるが、お返事はない。伺候している女房たちが、  「大臣が、『急いで退出することなく、めったにない参内なので、ご満足あそばされるくらいに。お許しがあってから、退出なさるよう』と、申し上げ ていらしたので、今夜は、あまりにも急すぎませんか」  と申し上げたのを、たいそうつらく思って、  「あれほど申し上げたのに、何とも思い通りに行かない夫婦仲だなあ」  とお嘆きになっていらっしゃった。  兵部卿宮、御前の管弦の御遊に伺候していらっしゃっても、気が落ち着かず、このお局あたりを思わずにはいらっしゃれないので、堪えきれずに お便りを申し上げなさった。大将は、近衛府の御曹司にいらっしゃる時であった。「そこから」と言って取り次いだので、しぶしぶと御覧になる。  「深山木と仲よくしていらっしゃる鳥が   またなく疎ましく思われる春ですねえ  鳥の囀る声が耳に止まりまして」  とある。お気の毒に思って、顔が赤くなって、お返事のしようもなく思っていらっしゃるところに、主上がお越しあそばす。  [第四段 帝、玉鬘のもとを訪う]  月が明るいので、ご容貌は言いようもなくお美しくて、まるで、あの大臣のご様子に違うところなくいらっしゃる。「このような方が二人もいらっしゃっ たのだ」と、拝見なさる。あの方のお気持ちは浅くはないが、嫌な物思いをしたけれど、こちらは、どうしてそのように思わせなさろう。たいそうやさし そうに、期待していたことと違ってしまった恨み事を仰せられるので、顔のやり場もないほどにお思いなさるよ。顔を袖で隠して、お返事も申し上げ なさらないので、  「妙に黙っていらっしゃるのですね。昇進なども、ご存知であろうと思うことがあるのに、何もお聞き入れなさらない様子でばかりいらっしゃるのは、 そのようなご性格なのですね」  と仰せになって、  「どうしてこう一緒になりがたいあなたを   深く思い染めてしまったのでしょう  これ以上深くはなれないのでしょうか」  と仰せになる様子、たいそう若々しく美しくて気恥ずかしいので、「どこが違っていらっしゃろうか」と気を取り直して、お返事申し上げなさる。宮仕 えの年功もなくて、今年、位を賜ったお礼の気持ちなのであろうか。  「どのようなお気持ちからとも存じませんでした   この紫の色は、深いお情けから下さったものなのですね  ただ今からはそのように存じましょう」  と申し上げなさると、ほほ笑みなさって、  「その、今から思って下さろうとしても、何の役にも立たないことです。訴えを聞いてくれる人があったら、その判断を聞いてみたいものです」  と、たいそうお恨みあそばす御様子が、真面目で厄介なので、「とても嫌だわ」と思われて、「愛想の良い態度をお見せ申すまい、男の方の困っ た癖だわ」と思うと、真面目になって伺候していらっしゃるので、お思い通りの冗談も仰せになれずに、「だんだんと親しみ馴れて行くことだろう」とお 思いあそばすのであった。  [第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す]  大将は、このようにお越しあそばしたのをお聞きになって、ますます心が落ち着かないので、急いでせき立てなさる。ご自身も、「身分不相応なこ とも出て来かねない身の上だなあ」と情けなく思うので、落ち着いていらっしゃれず、退出させなさる段取り、もっともらしい口実を作り出して、父大 臣など、うまく取り繕いなさって、御退出を許されなさったのであった。  「それでは。これに懲りて、二度と出仕をさせない人があっては困る。たいそうつらい。誰より先に望んだ気持ちが、人に先を越されて、その人の 御機嫌を伺うことよ。昔の誰それの例も、持ち出したい気がします」  と仰せになって、ほんとうに残念だとお思いあそばしていらっしゃった。  お聞きあそばしていた時よりも、格段に実際に素晴らしいのを、初めからそのような気持ちがないにせよ、お見逃しになれないだろうに、なおさら たいそう悔しく、残念にお思いなさる。  けれども、まったく出来心からと、疎んじられまいとして、たいそう愛情深い程度にお約束なさって、親しみなさるのも、恐れ多く、「わたしは、わた しだわ、と思っているのに」とお思いになる。  御輦車を寄せて、こちら方、あちら方の、お世話役の人々が待ち遠しがって、大将も、たいそううるさいほどお側を離れず、世話をお焼きになる時 まで、お離れあそばされない。  「こんなに厳重な付ききりの警護は不愉快だ」  とお憎みあそばす。  「幾重にも霞が隔てたならば、梅の花の香は   宮中まで匂って来ないのだろうか」  格別どうという歌ではないが、ご様子、物腰を拝見している時は、結構に思われたのであろうか。  「野原が懐かしいので、このまま夜明かしをしたいが、そうさせたくないでいる人が、自分の身につまされて気の毒に思う。どのようにお便りしたら よいものか」  とお悩みあそばすのも、「まことに恐れ多いこと」と、拝する。  「香りだけは風におことづけください   美しい花の枝に並ぶべくもないわたしですが」  やはり冷たく扱われない様子を、しみじみとお思いになりながら、振り返りがちにお帰りあそばした。  [第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出]  そのまま今夜、あの邸にとお考えになっていたが、前もってはお許しが出ないだろうから、打ち明け申されずに、  「急にたいそう風邪で気分が悪くなったものですから、気楽な所で休ませます間、よそに離れていてはたいそう不安でございますから」  と、穏やかに申し上げなさって、そのままお移し申し上げなさる。  父内大臣は、急なことで、「格式が欠けるようではないか」とお思いになるが、「強引に、そのくらいのことで反対するのも、気を悪くするだろう」と お思いになると、  「どのようにでも。もともとわたしの自由にならないお方のことだから」  と、申し上げなさるのであった。  六条殿は、「あまりに急で不本意だ」とお思いになるが、どうしようもない。女も、思ってもみなかった身の上を、情けないとお思いになるが、盗ん で来たらと、たいそう嬉しく安心した。  あの、お入りあそばしたことを、たいそう嫉妬申し上げなさるのも、不愉快で、やはりつまらない人のような気がして、夫婦仲は疎々しい態度で、 ますます機嫌が悪い。  あの宮家でも、あのようにきつくおっしゃったが、たいそう後悔なさっているが、まったく音沙汰もない。ただ念願が叶ったお世話で、毎日いそしん でお過ごしになる。  [第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る]  二月になった。大殿は、  「それにしても、無愛想な仕打ちだ。まったくこのようにきっぱりと自分のものにしようとは思いもかけないで、油断させられたのが悔しい」  と、体裁悪く、何から何までお気にならない時とてなく、恋しく思い出さずにはいらっしゃれない。  「運命などと言うのも、軽く見てはならないものだが、自分のどうすることもできない気持ちから、このように誰のせいでもなく物思いをするのだ」  と、寝ても起きても幻のようにまぶたにお見えになる。  大将のような、趣味も、愛想もない人に連れ添っていては、ちょっとした冗談も遠慮されつまらなく思われなさって、我慢していらっしゃるとき、雨 がひどく降って、とてものんびりとしたころ、このような所在なさも気の紛らし所にお行きになって、お話しになったことなどが、たいそう恋しいので、 お手紙を差し上げなさる。  右近のもとにこっそりと差し出すのも、一方では、それをどのように思うかとお思いになると、詳しくは書き綴ることがおできになれず、ただ相手の 推察に任せた書きぶりなのであった。  「降りこめられてのどやかな春雨のころ   昔馴染みのわたしをどう思っていらっしゃいますか  所在なさにつけても、恨めしく思い出されることが多くございますが、どのようにして分かるように申し上げたらよいのでしょうか」  などとある。  人のいない間にこっそりとお見せ申し上げると、ほろっと泣いて、自分の心でも、月日のたつにつれて、思い出さずにはいらっしゃれないご様子 を、正面きって、「恋しい、何とかしてお目にかかりたい」などとは、おっしゃることのできない親なので、「おっしゃるとおり、どうしてお会いすることが できようか」と、もの悲しい。  時々、厄介であったご様子を、気にくわなくお思い申し上げたことなどは、この人にもお知らせになっていないことなので、自分ひとりでお思い続 けていらっしゃるが、右近は、うすうす感じ取っていたのであった。実際、どんな仲であったのだろうと、今でも納得が行かず思っていたのであった。  お返事は、「差し上げるのも気が引けるが、ご不審に思われようか」と思って、お書きになる。  「物思いに耽りながら軒の雫に袖を濡らして   どうしてあなた様のことを思わずにいられましょうか  時がたつと、おっしゃるとおり、格別な所在なさも募りますこと。あなかしこ」  と、恭しくお書きになっていた。  [第八段 源氏、玉鬘の返書を読む]  手紙を広げて、玉水がこぼれるように思わずにはいらっしゃれないが、「人が見たら、体裁悪いことだろう」と、平静を装っていらっしゃるが、胸が一 杯になる思いがして、あの昔の、尚侍の君を朱雀院の母后が無理に逢わせまいとなさった時のことなどをお思い出しになるが、目前のことだから であろうか、こちらは普通と変わって、しみじみと心うつのであった。  「色好みの人は、本心から求めて物思いの絶えない人なのだ。今は何のために心を悩まそうか。似つかわしくない恋の相手であるよ」  と、冷静になるのに困って、お琴を掻き鳴らして、やさしくしいてお弾きになった爪音が、思い出さずにはいらっしゃれない。和琴の調べを、すが掻 きにして、  「玉藻はお刈りにならないで」  と、謡い興じていらっしゃるのも、恋しい人に見せたならば、感動せずにはいられないご様子である。  帝におかせられても、わずかに御覧あそばしたご器量ご様子を、お忘れにならず、  「赤裳を垂れ引いて去っていってしまった姿を」  と、耳馴れない古歌であるが、お口癖になさって、物思いに耽っておいであそばすのであった。お手紙は、そっと時々あるのであった。わが身を不 運な境遇と思い込みなさって、このような軽い気持ちのお手紙のやりとりも、似合わなくお思いになるので、うち解けたお返事も申し上げなさらな い。  やはり、あの、またとないほどであったお心配りを、何かにつけて深くありがたく思い込んでいらっしゃるお気持ちが、忘れられないのであった。  [第九段 三月、源氏、玉鬘を思う]  三月になって、六条殿の御前の、藤、山吹が美しい夕映えを御覧になるにつけても、まっさきに見る目にも美しい姿でお座りになっていらしたご様 子ばかりが思い出さずにはいらっしゃれないので、春の御前を放って、こちらの殿に渡って御覧になる。  呉竹の籬に、自然と咲きかかっている色艶が、たいそう美しい。  「色に衣を」  などとおっしゃって、  「思いがけずに二人の仲は隔てられてしまったが   心の中では恋い慕っている山吹の花よ  面影に見え見えして」  などとおっしゃっても、聞く人もいない。このように、さすがに諦めていることは、今になってお分かりになるのであった。なるほど、妙なおたわむれ の心であるよ。  鴨の卵がたいそうたくさんあるのを御覧になって、柑子や、橘などのように見せて、何気ないふうに差し上げなさる。お手紙は、「あまり人目に立 っては」などとお思いになって、そっけなく、  「お目にかからない月日がたちましたが、思いがけないおあしらいだとお恨み申し上げるのも、あなたお一人のお考えからではなく聞いておりま すので、特別の場合でなくては、お目にかかることの難しいことを、残念に存じております」  などと、親めいてお書きになって、  「せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね   どんな人が手に握っているのでしょう  どうして、こんなにまでもなどと、おもしろくなくて」  などとあるのを、大将も御覧になって、ふと笑って、  「女性は、実の親の所にも、簡単に行ってお会いなさることは、適当な機会がなくてはなさるべきではない。まして、どうして、この大臣は、度々諦 めずに、恨み言をおっしゃるのだろう」  と、ぶつぶつ言うのも、憎らしいとお聞きになる。  「お返事は、わたしは差し上げられません」  と、書きにくくお思いになっているので、  「わたしがお書き申そう」  と代わるのも、はらはらする思いである。  「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を  どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか  不機嫌なご様子にびっくりしまして。懸想文めいていましょうか」  とお返事申し上げた。  「この大将が、このような風流ぶった歌を詠んだのも、まだ聞いたことがなかった。珍しくて」  と言って、お笑いになる。心中では、このように一人占めにしているのを、とても憎いとお思いになる。   第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君  [第一段 北の方、病状進む]  あの、もとの北の方は、月日のたつにしたがって、あまりな仕打ちだと、物思いに沈んで、ますます気が変になっていらっしゃる。大将殿の一通り のお世話、どんなことでも細かくご配慮なさって、男の子たちは、変わらずかわいがっていらっしゃるので、すっかり縁を切っておしまいにならず、生 活上の頼りだけは、同様にしていらっしゃるのであった。  姫君を、たまらなく恋しくお思い申し上げなさるが、全然お会わせ申し上げなさらない。子供心にも、この父君を、誰もが、みな許すことなくお恨み 申し上げて、ますます遠ざけることばかりが増えて行くので、心細く悲しいが、男の子たちは、いつも一緒に行き来しているので、尚侍の君のご様 子などを、自然と何かにつけて話し出して、  「わたしたちをも、かわいがってやさしくして下さいます。毎日おもしろいことばかりして暮らしていらっしゃいます」  などと言うと、羨ましくなって、このようにして自由に振る舞える男の身に生まれてこなかったことをお嘆きになる。妙に、男にも女にも物思いをさ せる尚侍の君でいらっしゃるのであった。  [第二段 十一月に玉鬘、男子を出産]  その年の十一月に、たいそうかわいい赤子までお生みになったので、大将も、願っていたようにめでたいと、大切にお世話なさること、この上な い。その時の様子、言わなくても想像できることであろう。父大臣も、自然に願っていた通りのご運命だとお思いになっていた。  特別に大切にお世話なさっているお子様たちにも、ご器量などは劣っていらっしゃらない。頭中将も、この尚侍の君を、たいそう仲の好い姉弟とし て、お付き合い申し上げていらっしゃるものの、やはりすっきりしない御そぶりを時々は見せながら、  「入内なさって、その甲斐あってのご出産であったらよかったのに」  と、この若君のかわいらしさにつけても、  「今まで皇子たちがいらっしゃらないお嘆きを拝見しているので、どんなに名誉なことであろう」  と、あまりに身勝手なことを思っておっしゃる。  公務は、しかるべく取り仕切っているが、参内なさることは、このままこうして終わってしまいそうである。それもやむをえないことである。  [第三段 近江の君、活発に振る舞う]  そうそう、あの内の大殿のご息女で、尚侍を望んでいた女君も、ああした類の人の癖として、色気まで加わって、そわそわし出して、持て余してい らっしゃる。女御も、「今に、軽率なことが、この君はきっとしでかすだろう」と、何かにつけ、はらはらしていらっしゃるが、大臣が、  「今後は、人前に出てはいけません」  と、戒めておっしゃるのさえ聞き入れず、人中に出て仕えていらっしゃる。  どのような時であったろうか、殿上人が大勢、立派な方々ばかりが、この女御の御方に参上して、いろいろな楽器を奏して、くつろいだ感じの拍 子を打って遊んでいる。秋の夕方の、どことなく風情のあるところに、宰相中将もお寄りになって、いつもと違ってふざけて冗談をおっしゃるのを、女 房たちは珍しく思って、  「やはり、どの人よりも格別だわ」  と誉めると、この近江の君、女房たちの中を押し分けて出ていらっしゃる。  「あら、嫌だわ。これはどうなさるおつもり」  と引き止めるが、たいそう意地悪そうに睨んで、目を吊り上げているので、厄介になって、  「軽率なことを、おっしゃらないかしら」  と、お互いにつつき合っていると、この世にも珍しい真面目な方を、  「この人よ、この人よ」  と誉めて、小声で騷ぎ立てる声、まことにはっきり聞こえる。女房たち、とても困ったと思うが、声はとてもはっきりした調子で、  「沖の舟さん。寄る所がなくて波に漂っているなら   わたしが棹さして近づいて行きますから、行く場所を教えてください  棚なし小舟みたいに、いつまでも一人の方ばかり思い続けていらっしゃるのね。あら、ごめんなさい」  と言うので、たいそう不審に思って、  「こちらの御方には、このようなぶしつけなこと、聞かないのに」と思いめぐらすと、「あの噂の姫君であったのか」  と、おもしろく思って、  「寄る所がなく風がもてあそんでいる舟人でも   思ってもいない所には磯伝いしません」  とおっしゃったので、引っ込みがつかなかったであろう、とか。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 2/16/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    梅枝 光る源氏の太政大臣時代三十九歳秋一月から二月までの物語 第一章 光る源氏の物語 薫物合せ 1.六条院の薫物合せの準備---御裳着の儀式、ご準備なさるお心づかい 2.二月十日、薫物合せ---二月の十日、雨が少し降って、御前近くの紅梅の盛りに 3.御方々の薫物---この機会に、ご夫人方がご調合なさった薫物を 4.薫物合せ後の饗宴---月が出たので、御酒などをお召し上がりになって 第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着 1.明石の姫君の裳着---こうして、西の御殿に、戌の刻にお渡りになる 2.明石の姫君の入内準備---春宮の御元服は、二十日過ぎの頃に行われたのであった 3.源氏の仮名論議---「すべての事が、昔に比べて劣って 4.草子執筆の依頼---墨、筆、最上の物を選び出して、いつもの方々に 5.兵部卿宮、草子を持参---「兵部卿宮がお越しになりました」と申し上げたので 6.他の人々持参の草子---左衛門督は、仰々しくえらそうな書風ばかりを 7.古万葉集と古今和歌集---今日はまた、書のことなどを一日中お話しになって 第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語 1.内大臣家の近況---内大臣は、この入内の御準備を、他人事として 2.源氏、夕霧に結婚の教訓---大臣は、「妙に身の固まらないことだ」と 3.夕霧と雲居の雁の仲---このようなご教訓に従って、冗談にも   第一章 光る源氏の物語 薫物合せ  [第一段 六条院の薫物合せの準備]  御裳着の儀式、ご準備なさるお心づかい、並々ではない。春宮も同じ二月に、御元服の儀式がある予定なので、そのまま御入内も続くのであろ うか。  正月の月末なので、公私ともにのんびりとした頃に、薫物合わせをなさる。大宰大弐が献上したいくつもの香を御覧になると、「やはり、昔の香に は劣っていようか」とお思いになって、二条院の御倉を開けさせなさって、唐の品々を取り寄せなさって、ご比較なさると、  「錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった」  とおっしゃって、身近な調度類の、物の覆いや、敷物、座蒲団などの端々に、故院の御代の初め頃、高麗人が献上した綾や、緋金錦類など、今 の世の物には比べ物にならず、さらにいろいろとご鑑定なさっては、今回の綾、羅などは、女房たちにご下賜なさる。  数々の香は、昔のと今のを、取り揃えさせなさって、ご夫人方にお配り申し上げさせなさる。  「二種類づつ調合なさって下さい」  と、お願い申し上げさせなさった。贈物や、上達部への禄など、世にまたとないほどに、内にも外にも、お忙しくお作りなさるに加えて、それぞれに 材料を選び準備して、鉄臼の音が喧しく聞こえる頃である。  大臣は、寝殿に離れていらっしゃって、承和の帝の御秘伝の二つの調合法を、どのようにしてお耳にお伝えなさったのであろうか、熱心にお作り になる。  紫の上は、東の対の中の放出に、御設備を特別に厳重におさせになって、八条の式部卿の御調合法を伝えて、互いに競争して調合なさってい る間に、たいそう秘密にしていらっしゃるので、  「匂いの深さ浅さも、勝負けの判定にしよう」  と大臣がおっしゃる。子を持つ親御らしくない競争心である。  どちらにも、御前に伺候する女房は多くいない。御調度類も、多く善美を尽くしていらっしゃる中でも、いくつもの香壷の御箱の作り具合、壷の恰 好、香炉の意匠も、見慣れない物で、当世風に、趣向を変えさせていらっしゃるのが、あちらこちらで一生懸命にお作りになったような香の中で、優 れた幾種かを、匂いを比べた上で入れようとお考えなのである。  [第二段 二月十日、薫物合せ]  二月の十日、雨が少し降って、御前近くの紅梅の盛りに、色も香も他に似る物がない頃に、兵部卿宮がお越しになった。御裳着の支度が今日明 日に迫ってお忙しいことについて、ご訪問なさる。昔から特別にお仲が好いので、隠し隔てなく、あの事この事、とご相談なさって、紅梅の花を賞美 なさっていらっしゃるところに、前斎院からと言って、散って薄くなった梅の枝に結び付けられているお手紙を持ってまいった。宮、お聞きになってい たこともあるので、  「どのようなお手紙があちらから参ったのでしょうか」  とおっしゃって、興味をお持ちになっているので、にっこりして、  「たいそう無遠慮なことをお願い申し上げたところ、几帳面に急いでお作りになったのでしょう」  とおっしゃって、お手紙はお隠しになった。  沈の箱に、瑠璃の香壷を二つ置いて、大きく丸めてお入れになってある。心葉は、紺瑠璃のには五葉の枝を、白いのには白梅を彫って、同じよう に結んである糸の様子も、優美で女性的にお作りになってある。  「優雅な感じのする出来ばえですね」  とおっしゃって、お目を止めなさると、  「花の香りは散ってしまった枝には残っていませんが、   香を焚きしめた袖には深く残るでしょう」  薄墨のほんのりとした筆跡を御覧になって、宮は仰々しく口ずさみなさる。  宰相中将、お使いの者を捜し出して引き止めさせなさって、たいそう酔わせなさる。紅梅襲の唐の細長を添えた女装束をお与えになる。お返事も 同じ紙の色で、御前の花を折らせてお付けになる。  宮、  「どんな内容か気になるお手紙ですね。どのような秘密があるのか、深くお隠しになさるな」  と恨んで、ひどく見たがっていらっしゃった。  「何でもありません。秘密があるようにお思いになるのが、かえって迷惑です」  とおっしゃって、御筆のついでに、  「花の枝にますます心を惹かれることよ   人が咎めるだろうと隠しているが」  とでもあったのであろうか。  「実のところ、物好きなようですが、二人といない娘のことですから、こうするのが当然の催しであろうと、存じましてね。たいそう不器量ですから、 疎遠な方にはきまりが悪いので、中宮を御退出おさせ申し上げてと存じております。親しい間柄でお慣れ申し上げているが、気の置ける点が深く おありの宮なので、何事も世間一般の有様でお見せ申しては、恐れ多いことですから」  などと、申し上げなさる。  「あやかるためにも、おっしゃるとおり、きっとお考えになるはずのことなのでしたね」  と、ご判断申し上げなさる。  [第三段 御方々の薫物]  この機会に、ご夫人方がご調合なさった薫物を、それぞれお使いを出して、  「今日の夕方の雨じめりに試してみよう」  とお話申し上げなさっていたので、それぞれに趣向を凝らして差し上げなさった。  「これらをご判定ください。あなたでなくて誰に出来ましょう」  と申し上げなさって、いくつもの御香炉を召して、お試しになる。  「知る人というほどの者ではありませんが」  と謙遜なさるが、何とも言えない匂いの中で、香りの強い物や弱い物の一つなどが、わずかの欠点を識別して、強いて優劣の区別をお付けにな る。あのご自分の二種の香は、今お取り出させになる。  右近の陣の御溝水の辺に埋める例に倣って、西の渡殿の下から湧き出る遣水の近くに埋めさせなさっていたのを、惟光の宰相の子の兵衛尉 が、掘り出して参上した。宰相中将が、受け取って差し上げさせなさる。宮、  「とても難しい判者に任命されたものですね。とても煙たくて閉口しますよ」  と、お困りになる。同じのは、どこにでも伝わって広がっているようだが、それぞれの好みで調合なさった、深さ浅さを、聞き分けて御覧になると、 とても興味深いものが数多かった。  まったくどれと言えない香の中で、斎院の御黒方、そうは言っても、奥ゆかしく落ち着いた匂い、格別である。侍従の香は、大臣のその御香は、 優れて優美でやさしい香りである、とご判定になさる。  対の上の御香は、三種ある中で、梅花の香が、ぱっと明るくて当世風で、少し鋭く匂い立つように工夫を加えて、珍しい香りが加わっていた。  「今頃の風に薫らせるには、まったくこれに優る匂いはあるまい」  と賞美なさる。  夏の御方におかれては、このようにご夫人方が思い思いに競争なさっている中で、人並みにもなるまいと、煙にさえお考えにならないご気性で、 ただ荷葉の香を一種調合なさった。一風変わって、しっとりした香りで、しみじみと心惹かれる。  冬の御方におかれても、季節季節に基づいた香が決まっているから、負けるのもつまらないとお考えになって、薫衣香の調合法の素晴らしいの は、前の朱雀院のをお学びなさって、源公忠朝臣が、特別にお選び申した百歩の方などを思いついて、世間にない優美さを調合した、その考えが 素晴らしいと、どれも悪い所がないように判定なさるのを、  「当たりさわりのない判者ですね」  と申し上げなさる。  [第四段 薫物合せ後の饗宴]  月が出たので、御酒などをお召し上がりになって、昔のお話などをなさる。霞んでいる月の光が奥ゆかしいところに、雨上がりの風が少し吹いて、 梅の花の香りが優しく薫り、御殿の辺りに何とも言いようもなく匂い満ちて、皆のお気持ちはとてもうっとりしている。  蔵人所の方にも、明日の管弦の御遊の試演に、お琴類の準備などをして、殿上人などが大勢参上して、美しい幾種もの笛の音が聞こえて来る。  内の大殿の頭中将、弁少将なども、挨拶だけで退出するのを、お止めさせになって、いくつも御琴をお取り寄せになる。  宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴を差し上げて、頭中将は、和琴を賜って、賑やかに合奏なさっているのは、たいそう興趣深く聞こえる。宰相中 将、横笛をお吹きになる。季節にあった調べを、雲居に響くほど吹き立てた。弁少将は拍子を取って、「梅が枝」を謡い出したところ、たいそう興味 深い。子供の時、韻塞ぎの折に、「高砂」を謡った君である。宮も大臣も一緒にお謡いになって、仰々しくはないが、趣のある夜の管弦の催しであ る。  お杯をお勧めになる時に、宮が、  「鴬の声にますます魂が抜け出しそうです   心を惹かれた花の所では、  千年も過ごしてしまいそうです」  とお詠み申し上げなさると、  「色艶も香りも移り染まるほどに、今年の春は   花の咲くわたしの家を絶えず訪れて下さい」  頭中将におさずけになると、受けて、宰相中将に廻す。  「鴬のねぐらの枝もたわむほど   夜通し笛の音を吹き澄まして下さい」  宰相中将は、  「気づかって風が避けて吹くらしい梅の花の木に  むやみに近づいて笛を吹いてよいものでしょうか  無風流ですね」  と言うと、皆お笑いになる。弁少将は、  「霞でさえ月と花とを隔てなければ   ねぐらに帰る鳥も鳴き出すことでしょう」  ほんとうに、明け方になって、宮はお帰りになる。御贈物に、ご自身の御料の御直衣のご装束一揃い、手をおつけになっていない薫物を二壷添 えて、お車までお届けになる。宮は、  「この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら  女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう」  と言うので、  「たいそう弱気ですな」  と言ってお笑いになる。お車に牛を繋ぐところに、追いついて、  「珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう   この花の錦を着て帰るあなたを  めったにないこととお思いになるでしょう」  とおっしゃるので、とてもつらがりなさる。以下の公達にも、大げさにならないようにして、細長、小袿などをお与えになる。   第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着  [第一段 明石の姫君の裳着]  こうして、西の御殿に、戌の刻にお渡りになる。中宮のいらっしゃる西の放出を整備して、御髪上の内侍なども、そのままこちらに参上した。紫の 上も、この機会に、中宮にご対面なさる。お二方の女房たちが、一緒に来合わせているのが、数えきれないほど見えた。  子の刻に御裳をお召しになる。大殿油は微かであるが、御器量がまことに素晴らしいと、中宮はご拝見あそばす。大臣は、  「お見捨てになるまいと期待して、失礼な姿を、進んでお目にかけたのでございます。後世の前例になろうかと、狭い料簡から密かに考えており ます」  などと申し上げなさる。中宮、  「どのようなこととも判断せず致したことを、このように大層におっしゃって戴きますと、かえって気が引けてしまいます」  と、否定しておっしゃる御様子、とても若々しく愛嬌があるので、大臣も、理想通りに立派なご様子の婦人方が、集まっていらっしゃるのを、お互い の間柄も素晴らしいとお思いになる。母君が、このような機会でさえお目にかかれないのを、たいそう辛い事と思っているのも気の毒なので、参列 させようかしらと、お考えになるが、世間の悪口を慮って、見送った。  このような邸での儀式は、まあまあのものでさえ、とても煩雑で面倒なのだが、一部分だけでも、例によってまとまりなくお伝えするのも、かえっ てどうかと思い、詳細には書かない。  [第二段 明石の姫君の入内準備]  春宮の御元服は、二十日過ぎの頃に行われたのであった。たいそう大人でおいであそばすので、人々が娘たちを競争して入内させることを、希 望していらっしゃるというが、この殿がご希望していらっしゃる様子が、まことに格別なので、かえって中途半端な宮仕えはしないほうがましだと、左 大臣なども、お思い留まりになっているということをお耳になさって、  「じつにもってのほかのことだ。宮仕えの趣旨は、大勢いる中で、僅かの優劣の差を競うのが本当だろう。たくさんの優れた姫君たちが、家に引き 籠められたならば、何ともおもしろくないだろう」  とおっしゃって、御入内が延期になった。その次々にもと差し控えていらっしゃったが、このようなことをあちこちでお聞きになって、左大臣の三の 君がご入内なさった。麗景殿女御と申し上げる。  こちらの御方は、昔の御宿直所の、淑景舎を改装して、ご入内が延期になったのを、春宮におかれても待ち遠しくお思いあそばすので、四月にと お決めあそばす。ご調度類も、もとからあったのを整えて、御自身でも、道具類の雛形や図案などを御覧になりながら、優れた諸道の専門家たちを 呼び集めて、こまかに磨きお作らせになる。  冊子の箱に入れるべき冊子類を、そのまま手本になさることのできるのを選ばせなさる。昔のこの上もない名筆家たちが、後世にお残しになった 筆跡類も、たいそうたくさんある。  [第三段 源氏の仮名論議]  「すべての事が、昔に比べて劣って、浅くなって行く末世だが、仮名だけは、現代は際限もなく発達したものだ。昔の字は、筆跡が定まっているよ うではあるが、ゆったりした感じがあまりなくて、一様に似通った書法であった。  見事で上手なものは、近頃になって書ける人が出て来たが、平仮名を熱心に習っていた最中に、特に難点のない手本を数多く集めていた中で、 中宮の母御息所が何気なくさらさらとお書きになった一行ほどの、無造作な筆跡を手に入れて、格段に優れていると感じたものです。  そういうことで、とんでもない浮名までもお流し申してしまったことよ。残念なことと思い込んでいらっしゃったが、それほど薄情ではなかったのだ。 中宮にこのように御後見申し上げていることを、思慮深くいらっしゃったので、亡くなった後にも見直して下さることだろう。  中宮の御筆跡は、こまやかで趣はあるが、才気は少ないようだ」  と、ひそひそと申し上げなさる。  「故入道宮の御筆跡は、たいそう深味もあり優美な手の筋はおありだったが、なよなよした点があって、はなやかさが少なかった。  朱雀院の尚侍は、当代の名人でいらっしゃるが、あまりにしゃれすぎて欠点があるよだ。そうは言っても、あの尚侍君と、前斎院と、あなたは、上 手な方だと思う」  と、お認め申し上げなさるので、  「この方々に仲間入りするのは、恥ずかしいですわ」  と申し上げなさると、  「ひどく謙遜なさってはいけません。柔和という点の好ましさは、格別なものですよ。漢字が上手になってくると、仮名は整わない文字が交るよう ですがね」  とおっしゃって、まだ書写してない冊子類を作り加えて、表紙や、紐など、たいへん立派にお作らせになる。  「兵部卿宮、左衛門督などに書いてもらおう。わたし自身も二帖は書こう。いくら自信がおありでも、並ばないことはあるまい」  と、自賛なさる。  [第四段 草子執筆の依頼]  墨、筆、最上の物を選び出して、いつもの方々に、特別のご依頼のお手紙があると、方々は、難しいこととお思いになって、ご辞退申し上げなさる 方もあるので、懇ろにご依頼申し上げなさる。高麗の紙の薄様風なのが、はなはだ優美なのを、  「あの、風流好みの若い人たちを、試してみよう」  とおっしゃって、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、  「葦手、歌絵を、各自思い通りに書きなさい」  とおっしゃると、皆それぞれ工夫して競争しているようである。  いつもの寝殿に独り離れていらっしゃってお書きになる。花盛りは過ぎて、浅緑色の空がうららかなので、いろいろ古歌などを心静かに考えなさっ て、ご満足のゆくまで、草仮名も、普通の仮名も、女手も、たいそう見事にこの上なくお書きになる。  御前に人は多くいず、女房が二、三人ほどで、墨などをお擦らせになって、由緒ある古い歌集の歌など、どんなものだろうかなどと、選び出しなさ るので、相談相手になれる人だけが伺候している。  御簾を上げ渡して、脇息の上に冊子をちょっと置いて、端近くに寛いだ姿で、筆の尻をくわえて、考えめぐらしていらっしゃる様子、いつまでも見飽 きない美しさである。白や赤などの、はっきりした色の紙は、筆を取り直して、注意してお書きになっていらっしゃる様子までが、情趣を解せる人 は、なるほど感心せずにはいられないご様子である。  [第五段 兵部卿宮、草子を持参]  「兵部卿宮がお越しになりました」と申し上げたので、驚いて御直衣をお召しになって、御敷物を持って来させなさって、そのまま待ち受けて、お 入れ申し上げなさる。この宮もたいそう美しくて、御階を体裁よく歩いて上がっていらっしゃるところを、御簾の中からも女房たちが覗いて拝見する。 丁重に挨拶して、お互いに威儀を正していらっしゃるのも、たいそう美しい。  「することもなく邸に籠もっておりますのも、辛く存じられますこの頃ののんびりとした折に、ちょうどよくお越し下さいました」  と、歓迎申し上げなさる。あの御依頼の冊子を持たせてお越しになったのであった。その場で御覧になると、たいして上手でもないご筆跡を、ただ 一本調子に、たいそう垢抜けした感じにお書きになってある。和歌も、技巧を凝らして、風変わりな古歌を選んで、わずか三行ほどに、文字を少なく して好ましく書いていらっしゃった。大臣、御覧になって驚いた。  「こんなにまで上手にお書きになるとは存じませんでした。まったく筆を投げ出してしまいたいほどですね」  と、悔しがりなさる。  「このような名手の中で臆面もなく書く筆跡の具合は、いくら何でもさほどまずくはないと存じます」  などと、冗談をおっしゃる。  お書きになった冊子類を、お隠しすべきものでもないので、お取り出しになって、お互いに御覧になる。  唐の紙で、たいそう堅い材質に、草仮名をお書きになっている、まことに結構であると、御覧になると、高麗の紙で、きめが細かで柔らかく優しい 感じで、色彩などは派手でなく、優美な感じのする紙に、おっとりした女手で、整然と心を配って、お書きになっている、喩えようもない。  御覧になる方の涙までが、筆跡に沿って流れるような感じがして、見飽きることのなさそうなところへ、さらに、わが国の紙屋院の色紙の、色合い が派手なのに、乱れ書きの草仮名の和歌を、筆にまかせて散らし書きになさったのは、見るべき点が尽きないほどである。型にとらわれず自在に 愛嬌があって、ずっと見ていたい気がしたので、他の物にはまったく目もおやりにならない。  [第六段 他の人々持参の草子]  左衛門督は、仰々しくえらそうな書風ばかりを好んで書いているが、筆法の垢抜けしない感じで、技巧を凝らした感じである。和歌なども、わざと らしい選び方をして書いていた。  女君たちのは、そっくりお見せにならない。斎院のなどは、言うまでもなく取り出しなさらないのであった。葦手の冊子類が、それぞれに何となく趣 があった。  宰相中将のは、水の勢いを豊富に書いて、乱れ生えている葦の様子など、難波の浦に似ていて、あちこちに入り混じって、たいそうすっきりした 所がある。また、たいそう大仰に趣を変えて、字体、石などの様子、風流にお書きになった紙もあるようだ。  「目も及ばぬ素晴らしさだ。これは手間のかかったにちがいない代物だね」  と、興味深くお誉めになる。どのようなことにも趣味を持って、風流がりなさる親王なので、とてもたいそうお誉め申し上げなさる。  [第七段 古万葉集と古今和歌集]  今日はまた、書のことなどを一日中お話しになって、いろいろな継紙をした手本を、何巻かお選び出しになった機会に、御子息の侍従をして、宮 邸に所蔵の手本類を取りにおやりになる。  嵯峨の帝が、『古万葉集』を選んでお書かせあそばした四巻。延喜の帝が、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継いで、同じ色の濃い紋様の綺の 表紙、同じ玉の軸、だんだら染に組んだ唐風の組紐など、優美で、巻ごとに御筆跡の書風を変えながら、あらん限りの書の美をお書き尽くしあそば したのを、大殿油を低い台に燈して御覧になると、  「いつまで見ていても見飽きないものだ。最近の人は、ただ部分的に趣向を凝らしているだけにすぎない」  などと、お誉めになる。そのままこれらはこちらに献上なさる。  「女の子などを持っていましたにしても、たいして見る目を持たない者には、伝えたくないのですが、まして、埋もれてしまいますから」  などと申し上げて差し上げなさる。侍従に、唐の手本などの特に念入りに書いてあるのを、沈の箱に入れて、立派な高麗笛を添えて、差し上げな さる。  またこの頃は、ひたすら仮名の論評をなさって、世間で能書家だと聞こえた、上中下の人々にも、ふさわしい内容のものを見計らって、探し出して お書かせになる。この御箱には、身分の低い者のはお入れにならず、特別に、その人の家柄や、地位を区別なさりなさり、冊子、巻物、すべてお 書かせ申し上げなさる。  何もかも珍しい御宝物類、外国の朝廷でさえめったにないような物の中で、この何冊かの本を見たいと心を動かしなさる若い人たちが、世間に多 いことであった。御絵画類をご準備なさる中で、あの『須磨の日記』は、子孫代々に伝えたいとお思いになるが、「もう少し世間がお分りになったら」 とお思い返しなさって、まだお取り出しなさらない。   第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語  [第一段 内大臣家の近況]  内大臣は、この入内の御準備を、他人事としてお聞きになるが、たいそう気が気でなく、つまらないとお思いになる。姫君のご様子、女盛りに成 長して、もったいないほどにかわいらしい。所在なげに塞ぎ込んでいらっしゃる様子は、たいへんなお嘆きの種であるが、あの方のご様子は、どう かといえば、いつも変わらず平気なので、「弱気になってこちらから歩み寄るようなのも、体裁が悪いし、相手が夢中だった時に、言うことを聞いて いたら」などと、一人お嘆きになって、一途に悪いと責めることもおできになれない。  このように少し弱気になられたご様子を、宰相の君はお聞きになるが、ひところ冷たかったお心を酷いと思うと、平気を装い、落ち着いた態度で、 そうはいっても他の女をという考えお持ちにならず、自分から求めてやるせない思いをする時は多いが、「浅緑の六位」と申して馬鹿にした御乳母ど もに、中納言に昇進した姿を見せてやろうとのお気持ちが強いのであろう。  [第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓]  大臣は、「妙に身の固まらないことだ」と、ご心配になって、  「あちらの姫君のこと、思い切ってしまったら、右大臣、中務宮などが娘を縁づけたいご意向であるらしいから、どちらなりともお決めなさい」  とおっしゃるが、何ともお返事申し上げず、恐縮したご様子で伺候していらっしゃる。  「このようなことは、恐れ多い父帝の御教訓でさえ従おうという気にもならなかったのだから、口をさしはさみにくいが、今考えてみると、あの御教 訓こそは、今にも通じるものであった。  所在なく独身でいると、何か考えがあるのかと、世間の人も推量するであろうから、運命の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着く ことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。  ひどく高望みしても、思うようにならず、限界があることから、浮気心を起こされるな。幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず、窮屈に、ち ょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと、慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から非難された ものだ。  位階が低く、気楽な身分だからと、油断して、思いのままの行動などなさるな。心が自然と思い上がってしまうと、好色心を抑えるべき妻子がい ない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。  けしからぬことに熱中して、相手の浮名を立て、自分も恨まれるのは、後世の妨げとなるのだ。結婚に失敗したと思いながら共に暮らしている相 手が、自分の理想通りでなく、我慢することのできない点があっても、やはり思い直す気を持って、もしくは女の親の心に免じて、もしくは親がいなく なって生活が不十分であっても、人柄がいじらしく思われるような人は、その人柄一つを取柄としてお暮らしなさい。自分のため、相手のため、末長 く添い遂げるような思慮が深くあって欲しいものだ」  などと、のんびりとした所在のない時は、このような心づかいをしきりにお教えになる。  [第三段 夕霧と雲居の雁の仲]  このようなご教訓に従って、冗談にも他の女に心を移すようなことは、かわいそうなことだと、自分からお思いになっている。女も、いつもより格別 に、大臣が思い嘆いていらっしゃるご様子に、顔向けのできない思いで、つらい身の上と悲観していらっしゃるが、表面はさりげなくおっとりとして、 物思いに沈んでお過ごしになっている。  お手紙は、我慢しきれない時々に、しみじみと深い思いをこめて書いて差し上げなさる。「誰の誠実を信じたらよいのか」と思いながら、男を知って いる女ならば、むやみに男の心を疑うであろうが、しみじみと御覧になる文句が多いのであった。  「中務宮が、大殿のご内意をも伺って、そのようにもと、お約束なさっているそうです」  と女房が申し上げたので、大臣は、改めてお胸がつぶれることであろう。こっそりと、  「こういうことを聞いた。薄情なお心の方であったな。大臣が、口添えなさったのに、強情だというので、他へ持って行かれたのだろう。気弱になっ て降参しても、人に笑われることだろうし」  などと、涙を浮かべておっしゃるので、姫君、とても顔も向けられない思いでいるにも、何とはなしに涙がこぼれるので、体裁悪く思って後ろを向い ていらっしゃる、そのかわいらしさ、この上もない。  「どうしよう。やはりこちらから申し出て、先方の意向を聞いてみようか」  などと、お気持ちも迷ってお立ちになった後も、そのまま端近くに物思いに沈んでいらっしゃる。  「妙に、思いがけず流れ出てしまった涙だこと。どのようにお思いになったかしら」  などと、あれこれと思案なさっているところに、お手紙がある。それでもやはり御覧になる。愛情のこもったお手紙で、  「あなたの冷たいお心は、つらいこの世の習性となって行きますが   それでも忘れないわたしは世間の人と違っているのでしょうか」  とある。「そぶりにも仄めかさない、冷たいお方だわ」と、思い続けなさるのはつらいけれども、  「もうこれまでだと、忘れないとおっしゃるわたしのことを忘れるのは   あなたのお心もこの世の習性の人心なのでしょう」  とあるのを、「妙だな」と、下にも置かれず、首をかしげながらじっと座ったまま手紙を御覧になっていた。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 2/22/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    藤裏葉 光る源氏の太政大臣時代三十九歳三月から十月までの物語 第一章 夕霧の物語 雲居雁との筒井筒の恋実る 1.夕霧と雲居雁の相思相愛の恋---御入内の準備の最中にも、宰相中将は 2.三月二十日、極楽寺に詣でる---ご子息たちを皆引き連れて、ご威勢この上なく 3.内大臣、夕霧を自邸に招待---長い年月思い続けてきた甲斐あってか 4.夕霧、内大臣邸を訪問---ご自分のお部屋で、念入りにおめかしなさって 5.藤花の宴 結婚を許される---月は昇ったが、花の色がはっきりと 6.夕霧、雲居雁の部屋を訪う---七日の夕月夜、月の光は微かであるのに、池の水が鏡の 7.後朝の文を贈る---お手紙は、やはり人目を忍んだ配慮で届けられたのを 8.夕霧と雲居雁の固い夫婦仲---灌仏会の誕生仏をお連れ申して来て、御導師が遅く参上したので 第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の入内 1.紫の上、賀茂の御阿礼に参詣---こうして、六条院の御入内の儀は、四月二十日のころ 2.柏木や夕霧たちの雄姿---近衛府の使者は、頭中将であった 3.四月二十日過ぎ、明石姫君、東宮に入内---こうして、御入内には北の方がお付き添いになるものだが 4.紫の上、明石御方と対面する---三日間を過ごして、対の上はご退出あそばす 第三章 光る源氏の物語 准太上天皇となる 1.源氏、秋に准太上天皇の待遇を得る---大臣も、「いつまでも生きていられないと思わずにはいられない存命中に」と 2.夕霧夫妻、三条殿に移る---ご威勢が増して、このようなお住まいでは手狭なので 3.内大臣、三条殿を訪問---昔大宮がお住まいだったご様子に、たいして変わるところなく 4.十月二十日過ぎ、六条院行幸---神無月の二十日過ぎ頃に、六条院に行幸がある 5.六条院行幸の饗宴---皆お酔いになって、日が暮れかかるころに 6.朱雀院と冷泉帝の和歌---夕風が吹き散らした紅葉の色とりどりの、濃いの薄いの   第一章 夕霧の物語 雲居雁との筒井筒の恋実る  [第一段 夕霧と雲居雁の相思相愛の恋]  御入内の準備の最中にも、宰相中将は物思いに沈みがちで、ぼんやりした感じがするが、「一方では、不思議な感じで、自分ながら執念深いこ とだ。むやみにこんなに恋しいことならば、関守が、目をつぶって許そうというほどに気弱におなりだという噂を聞きながら、同じことなら、体裁の悪く ないよう最後まで通そう」と我慢するにつけても、苦しく思い悩んでいらっしゃる。  女君も、大臣がちらっとおっしゃった縁談のお話を、「もしも、そうなったら、わたしのことをすっかり忘れてしまうだろう」と嘆かわしくて、不思議と背 を向けあった関係ながら、そうはいっても相思相愛の仲である。  内大臣も、あれほど強情をお張りになったが、意地の張りがいのないのにご思案にあまって、「あの宮におかれても、そのようにお決めになってし まったら、再びあれこれと改めて別の相手を探す間、その相手にも悪いし、ご自分の方にも物笑いとなって、自然と軽率だという噂の種にされよう。 隠そうとしても、内輪の失敗も、世間に漏れているだろう。何とか世間体をつくろって、やはり折れた方が良いようだ」と、お考えになった。  表面上は何気ないが、恨みの解けないご関係なので、「きっかけもなく言い出すのはどんなものか」と、ご躊躇なさって、「改まって申し出るのも、 世間の人が思うところも馬鹿馬鹿しい。どのような機会にそれとなく切り出したらよかろう」などと、お考えだったところ、三月二十日が、大殿の大宮 の御忌日なので、極楽寺に参詣なさった。  [第二段 三月二十日、極楽寺に詣でる]  ご子息たちを皆引き連れて、ご威勢この上なく、上達部なども大勢参集なさっていたが、宰相中将、少しも引けを取らず、堂々とした様子で、容貌 など、ちょうど今が盛りに美しく成人されて、何もかもすべて結構なご様子である。  この大臣を、ひどいとお思い申し上げなさってから、お目にかかるのも、つい気が張って、とてもひどく気をつかって、取り澄ましていらっしゃるの を、大臣も、いつもよりは注目なさっている。御誦経など、六条院からもおさせになった。宰相の君は、誰にもまして、万端のことを引き受けて、真心 をこめて奉仕していらっしゃる。  夕方になって、皆がお帰りになるころ、花はみな散り乱れ、霞の朧ろな中に、内大臣、昔をお思い出して、優雅に口ずさんで物思いに耽っていら っしゃる。宰相も、しみじみとした夕方の景色に、ますます物思いに沈んだ面持ちで、「雨が降りそうです」と、人々が騒いでいるのに、依然として物 思いに耽りきっていらっしゃった。心をときめかせて御覧になることがあるのであろうか、袖を引き寄せて、  「どうして、そんなにひどく怒っておいでなのか。今日の御法要の縁故をお考えになれば、不行届きはお許し下さいよ。余命少なくなってゆく老い の身に、お見限りなさるのも、お恨み申し上げたい」  とおっしゃるので、ちょっと恐縮して、  「故人のご意向も、お頼り申し上げるようにと、承っておりましたが、お許しのないご様子に、遠慮致しておりました」  とお答え申し上げになる。  気ぜわしい雨風に、皆ばらばらに急いでお帰りになった。宰相の君は、「どのようにお考えになって、いつもとは違って、あのようなことをおっしゃっ たのだろうか」などと、絶えず気にかけていらっしゃる内大臣家のことなので、ちょっとしたことであるが、耳が止まって、ああかこうかと、考えながら 夜をお明かしになる。  [第三段 内大臣、夕霧を自邸に招待]  長い年月思い続けてきた甲斐あってか、あの内大臣も、すっかり気弱になって、ちょっとした機会で、特別にというのでなく、そうはいっても相応し い時期をお考えになって、四月の初旬ころ、お庭先の藤の花、たいそうみごとに咲き乱れて、世間にある藤の花の色とは違って、何もしないのも惜 しく思われる花盛りなので、管弦の遊びなどをなさって、日が暮れてゆくころの、ますます色美しくなってゆく時分に、頭中将を使いとして、お手紙が ある。  「先日の花の下でお目にかかったことが、堪らなく思われたので、お暇があったら、お立ち寄りなさいませんか」  とある。お手紙には、  「わたしの家の藤の花の色が濃い夕方に   訪ねていらっしゃいませんか、逝く春の名残を惜しみに」  おっしゃる通り、たいそう美しい枝に付けていらっしゃった。心待ちしていらっしゃったのにつけても、心がどきどきして、恐縮してお返事を差し上げ なさる。  「かえって藤の花を折るのにまごつくのではないでしょうか   夕方時のはっきりしないころでは」  と申し上げて、  「残念なほど、気後れしてしまった。適当に取り繕って下さい」  と申し上げなさる。  「お供しましょう」  とおっしゃったが、  「面倒なお供はいりません」  と言って、お帰しになった。  大臣の御前に、これこれしかじかです、と言って、御覧にお入れになる。  「考えがあっておっしゃっているのであろうか。そのように先方から折れて来られたのならば、故人への不孝の恨みも解けることだろう」  とおっしゃる。そのご高慢は、この上なく憎らしいほどである。  「そうではございますまい。対の屋の前の藤が、例年よりも美しく咲いているというので、暇なころなので、管弦の遊びをしようなどというのでござ いましょう」  と申し上げなさる。  「わざわざ使者をさし向けられたのだから、早くお出掛けなさい」  とお許しになる。どんなだろうと、内心は不安で、落ち着かない。  「直衣はあまりに色が濃過ぎて、身分が軽く見えよう。非参議のうちとか、何でもない若い人は、二藍はよいだろうが、お召し替えになるかね」  とおっしゃって、ご自分のお召し物の格別見事なのに、何ともいえないほど素晴らしい御下着類を揃えて、お供に持たせて差し上げなさる。  [第四段 夕霧、内大臣邸を訪問]  ご自分のお部屋で、念入りにおめかしなさって、黄昏時も過ぎ、じれったく思うころに参上なさった。主人のご子息たち、中将をはじめとして、七、 八人うち揃ってお出迎えなさる。どの方となくいずれも美しい器量の方々だが、やはり、その人々以上に、水際立って美しい一方、優しく、優雅で、 犯しがたい気品がある。  内大臣、お座席を整え直させたりなさるご配慮、並大抵でない。御冠などお付けになって、お出になろうとして、北の方や、若い女房などに、  「覗いて御覧なさい。たいそう立派になって行かれる方だ。態度などもとても沈着で、堂々としたものだ。はっきりと、抜きん出て成人された点で は、父の大臣よりも勝っているようだ。  あの方は、ただ非常に優美で愛嬌があって、見るとついほほ笑みたくなり、世の中の憂さを忘れるような気持ちにおさせになる。政治の面では、 多少柔らかさ過ぎて、謹厳さに欠けるところがあったのは、もっともなことだ。  この方は、学問の才能も優れ、心構えも男らしく、しっかりしていて申し分ないと、世間の評判のようだ」  などとおっしゃって、対面なさる。儀礼的で、固苦しいご挨拶は、少しだけにして、花の美しさに興味はお移りになった。  「春の花、どれもこれも皆咲き出す色ごとに、目を驚かさない物はないが、気ぜわしく人の気も構わず散ってしまうのが、恨めしく思われるころに、 この藤の花だけがひとり遅れて、夏に咲きかかるのが、妙に奥ゆかしくしみじみと思われます。色も色で、懐しい由縁の物といえましょう」  と言って、ちょっとほほ笑んでいらっしゃる、風格があって、つややかでお美しい。  [第五段 藤花の宴 結婚を許される]  月は昇ったが、花の色がはっきりと見えない時分なのだが、花を愛でる心に寄せて、御酒を召して、管弦のお遊びなどをなさる。大臣、程もなく空 酔いをなさって、遠慮もせずに無理に酔わせなさるが、用心して、とても断るのに困っているようである。  「あなたは、この末世にできすぎるほどの、天下の有識者でいらっしゃるようだが、年を取った者を、お忘れになっていらっしゃるのが辛いことだ。 古典にも、家礼ということがあるではありませんか。誰それの教えにも、よくご存知でいらっしゃろうと存じますが、ひどく辛い思いをおさせになると、 お恨み申し上げたいのです」  などとおっしゃって、酔い泣きというのか、ほどよく抑えて意中を仄めかしなさる。  「どうしてそのような。今は亡き方々を思い出しますお身変わりとして、わが身を捨ててまでもと、存じておりますのに、どのように御覧になっての ことでございましょうか。もともと、わたしのうかつな心の至らなさのためです」  と、恐縮して申し上げなさる。頃合いを見計らって、はやし立てて、  「藤の裏葉の」  とお謡いになった、そのお心をお受けになって、頭中将、藤の花の色濃く、特に花房の長いのを折って、客人のお杯に添えになる。受け取って、も てあましていると、内大臣、  「紫色のせいにしましょう、藤の花の   待ち過ぎてしまって恨めしいことだが」  宰相中将、杯を持ちながら、ほんの形ばかり拝舞なさる様子、実に優雅である。  「幾度も湿っぽい春を過ごして来ましたが   今日初めて花の開くお許しを得ることができました」  頭中将にお廻しになると、  「うら若い女性の袖に見違える藤の花は   見る人の立派なためかいっそう美しさを増すことでしょう」  次々と杯が回り歌を詠み添えて行ったようであるが、酔いの乱れに大したこともなく、これより優れていない。  [第六段 夕霧、雲居雁の部屋を訪う]  七日の夕月夜、月の光は微かであるのに、池の水が鏡のように静かに澄み渡っている。なるほど、まだ茂らない梢が、物足りないころなので、た いそう気取って横たわっている松の、木高くないのに、咲き掛かっている藤の花の様子、世になく美しい。  例によって、弁少将が、声をたいそう優しく「葦垣」を謡う。大臣、  「実に妙な歌を謡うものだな」  と、冗談をおっしゃって、  「年を経たこの家の」  と、お添えになるお声、誠に素晴らしい。興趣ある中に冗談も混じった管弦のお遊びで、気持ちのこだわりもすっかり解けてしまったようである。  だんだんと夜が更けて行くにつれて、ひどく苦しげな様子をして見せて、  「酔いが回ってひどく辛いので、帰り道も危なそうです。泊まる部屋を貸していただけませんか」  と、頭中将に訴えなさる。大臣が、  「朝臣よ、お休み所になる部屋を用意しなさい。老人はひどく酔いが回って失礼だから、引っ込むよ」  と言い捨てて、お入りになってしまった。  頭中将が、  「花の下の旅寝ですね。どういうものだろう、辛い案内役ですね」  と言うと、  「松と約束したのは、浮気な花なものですか。縁起でもありません」  と反発なさる。中将は、心中に、「憎らしいな」と思うところがあるが、人柄が理想通り立派なので、「最後はこのようになって欲しい」と、願って来 たことなので、心許して案内した。  男君は、夢かと思われなさるにつけても、自分の身がますます立派に思われなさったことであろう。女は、とても恥ずかしいと思い込んでいらっし ゃるが、大人になったご様子は、ますます不足なところもなく素晴らしい。  「世間の話の種となってしまいそうな身の上を、その誠実さをもって、このようにお許しになったのでしょう。わたしの気持ちをお分りになって下さら ないとは、変なことですね」  と、お恨み申し上げなさる。  「少将が進んで謡い出した『葦垣』の心は、お分りでしたか。ひどい人ですね。『河口の』と、言い返したかったなあ」  とおっしゃると、女は、とても聞き苦しい、とお思いになって、  「軽々しい浮名を流したあなたの口は   どうしてお漏らしになったのですか  あきれました」  とおっしゃる様子は、実におっとりしている。少し微笑んで、  「浮名が漏れたのはあなたの父大臣のせいでもありますのに   わたしのせいばかりになさらないで下さい  長い歳月の思いも、本当に切なくて苦しいので、何も分りません」  と、酔いのせいにして、苦しそうに振る舞って、夜の明けて行くのも知らないふうである。女房たちが、起こしかねているのを、大臣が、  「得意顔した朝寝だな」  と、文句をおっしゃる。けれども、すっかり夜が明け果てないうちにお帰りになる。その寝乱れ髪の朝のお顔は、見がいのあったことだ。  [第七段 後朝の文を贈る]  お手紙は、やはり人目を忍んだ配慮で届けられたのを、かえって今日はお返事をお書き申し上げになれないのを、口の悪い女房たちが目引き袖 引きしているところに、内大臣がお越しになって御覧になるのは、本当に困ったことよ。  「打ち解けて下さらなかったご様子に、ますます思い知られるわが身の程よ。耐えがたいつらさに、またも死んでしまいそうだが、   お咎め下さいますな、人目を忍んで絞る手も力なく   今日は人目にもつきそうな袖の涙のしずくを」  などと、たいそう馴れ馴れしい詠みぶりである。微笑んで、  「筆跡もたいそう上手になられたものだなあ」  などとおっしゃるのも、昔の恨みはない。  お返事が、直ぐに出来かねているので、「みっともないぞ」とおっしゃって、ご躊躇なっているのももっともなことなので、あちらへお行きになった。  お使いの者への褒禄は、並大抵でなくお与えになった。頭中将が、風情のある様にお持てなしなさる。いつも人目を忍んでは持ち運んでいたお 使い、今日は顔の表情など、人かどに振る舞っているようである。右近将監である人で、親しくお使いになっている者であった。  六条の大臣も、これこれとお聞き知りになったのであった。宰相中将、いつもより美しさが増して、参上なさったので、じっと御覧になって、  「今朝はどうした。手紙など差し上げたか。賢明な人でも、女のことでは失敗する話もあるが、見苦しいほど思いつめたり、じれたりせずに過ごさ れたのは、少し人より優れたお人柄だと思ったことだ。  内大臣のご方針が、あまりにもかたくなで、すっかり折れてしまわれたのが、世間の人も噂するだろうよ。だからといって、自分の方が偉い顔をし て、いい気になって、浮気心などをお出しなさるな。  あのようにおおらかで、寛大な性格と見えるが、内心は男らしくなくねじけていて、付き合いにくいところがおありの方である」  などと、例によってご教訓申し上げなさる。釣り合いもよく、恰好のご夫婦だ、とお思いになる。  ご子息とも見えず、少しばかり年長程度にお見えである。別々に見ると、同じ顔を写し取ったように似て見えるが、御前では、それぞれに、ああ素 晴らしいとお見えでいらっしゃった。  大臣は、薄縹色の御直衣に、白い御袿の唐風の織りが、紋様のくっきりと浮き出て艶やかに透けて見えるのをお召しになって、今もこの上なく上 品で優美でいらっしゃる。  宰相殿は、少し色の濃い縹色の御直衣に、丁子染めで焦げ茶色になるまで染めた袿と、白い綾の柔らかいのを着ていらっしゃるのは、格別に優 雅にお見えになる。  [第八段 夕霧と雲居雁の固い夫婦仲]  灌仏会の誕生仏をお連れ申して来て、御導師が遅く参上したので、日が暮れてから、六条院の御方々から女童たちを使者に立てて、お布施な ど、宮中の儀式と違わず、思い思いになさった。御前での作法を真似て、公達なども参集して、かえって、格式ばった御前での儀式よりも、妙に気 がつかわれて気後れするのである。  宰相は、心落ち着かず、ますますおめかしし、衣服を整えてお出かけになるのを、特別にではないが、多少お情けをおかけの若い女房などは、恨 めしいと思っている人もいるのであった。長年の思いが加わって、理想的なご夫婦仲のようなので、水も漏れまい。  主人の内大臣、ますます側に近づくほど美しいのを、かわいらしくお思いになって、たいそう大切にお世話申し上げなさる。負けたことの悔しさは、 やはりお持ちだが、こだわりもなく、誠実なご性格などで、長年の間浮気沙汰などもなくてお過ごしになったのを、めったにないことだとお認めにな る。  弘徽殿女御のご様子などよりも、派手で立派で理想的だったので、北の方や、仕えている女房などは、おもしろからず思ったり言ったりする者も いるが、何の構うことがあろうか。按察使大納言の北の方なども、このように結婚が決まって、嬉しくお思い申し上げていらっしゃるのであった。   第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の入内  [第一段 紫の上、賀茂の御阿礼に参詣]  こうして、六条院の御入内の儀は、四月二十日のころであった。対の上、賀茂の御阿礼に参詣なさろうとして、例によって御方々をお誘い申し上 げなさったが、なまじ、そのように後に付いて行くのもおもしろくないのをお思いになって、どなたもどなたもお残りになって、仰々しいほどでなく、お 車二十台ほどで、御前駆なども、ごたごたするほどの人数でなく、簡略になさったのが、かえって素晴らしい。  祭の日の早朝に参詣なさって、帰りには、御見物なさる予定のお桟敷席におつきになる。御方々の女房たち、それぞれの車を後から連ねて、御 前に車を止めているのは、堂々として、「あれは誰それだ」と、遠くから見ても仰々しいご威勢である。  大臣は、中宮の御母御息所が、お車の榻を押し折られなさった時のことをお思い出しになって、  「権勢をたのんで心奢りなさって、あのようなことを起こすのは、心ないことであった。全然無視していた方も、その恨みを受けた形で亡くなってし まった」  と、そこのあたりは言葉をお濁しになって、  「後に残った人で、中将は、このような臣下として、やっと立身した程度だ。宮は並ぶ者のいない地位にいらっしゃるのも、考えてみれば、実にし みじみと感慨深い。何もかもひどく定めない世の中なので、どのようなことも思い通りに、生きている間の世を過ごしたく思うが、後にお残りになる 晩年などが、言いようもない衰えなどまでが、心配されるものですから」  と、親しくお話しなさって、上達部などもお桟敷に参集なさったので、そちらにお出ましになった。  [第二段 柏木や夕霧たちの雄姿]  近衛府の使者は、頭中将であった。あの大殿邸を、出立する所から人々は参上なさったのであった。藤典侍も使者であった。格別に評判がよく て、帝、春宮をお初めとして、六条院などからも、御祝儀の数々が置き所もないほど、ご贔屓ぶりは実に素晴らしい。  宰相中将、出立の所にまでお手紙をお遣わしになった。人目を忍んで恋し合うお間柄なので、このようにれっきとしたお方と結婚がお決まりにな ったのを、心穏やかならず思っているのであった。  「何と言ったのか、今日のこの插頭は、目の前に見ていながら   思い出せなくなるまでになってしまったことよ  あきれたことだ」  とあるのを、機会をお見逃しにならなかったことだけは、どう思ったことやら、たいそう忙しく、車に乗る時であるが、  「頭に插頭してもなおはっきりと思い出せない草の名は   桂を折られたあなたはご存知でしょう  博士でなくては」  と申し上げた。つまらない歌であるが、悔しい返歌だとお思いになる。やはり、この典侍を、忘れられず、こっそりお会いなさるのであろう。  [第三段 四月二十日過ぎ、明石姫君、東宮に入内]  こうして、御入内には北の方がお付き添いになるものだが、「いつまでも長々とお付き添い申していらっしゃることはできまい。このような機会に、 あの実の親をご後見役に付けようか」とお考えになる。  対の上も、「結局は一緒になるはずなのに、このように離れて年月を過ごして来られたのを、あの方も、ひどいと思い嘆いていることだろう。姫君 のお胸の中でも、今ではだんだんと恋しくお感じになっていらっしゃろう。お二方からおもしろくなく思われ申すのも、つまらないことだ」とお思いにな って、  「この機会にお付き添わせ申しなさいませ。まだとてもか弱くいらっしゃるのも不安なので、伺候する女房たちとしても、若々しい人ばかり多いで す。御乳母たちなども、気をつけるといっても行き届かない所がありますから、わたし自身は、ずっとお付きできません時、安心なように」  と申し上げなさると、「よくお気が付いたなあ」とお思いになって、「これこれで」と、あちらにもご相談になったので、まことに嬉しく願っていたこと が、すっかり叶った心地がして、女房の着る装束、その他のことまで、高貴な方のご様子に劣らないほどに準備し出す。  尼君、やはりこの姫君のご将来を拝見したいお気持ちが深いのであった。「もう一度拝見する時があろうか」と、生きることに執念を燃やして祈っ ているのであったが、「どうしたらお目にかかれるだろうか」と、思うにつけても悲しい。  その夜は、対の上が付き添って参内なさるが、その際、輦車にも一段下がって歩いて行くなど、体裁の悪いことだが、自分は構わないが、ただ、 このように大事に磨き申し上げなさった姫君の玉の瑕となって、自分がこのように長生きをしているのを、一方ではひどく心苦しく思う。  御入内の儀式、「世間の人を驚かすようなことはすまい」とご遠慮なさるが、自然と普通の入内とは違ったものとならざるをえない。この上もなく大 事にお世話申し上げていらっしゃって、対の上は、本当にしみじみとかわいいとお思い申し上げなさるにつけても、他人に譲りたくなく、「本当にこの ような子があったらいいのに」とお思いになる。大臣も宰相の君も、ただこのこと一点だけを、「物足りないことよ」と、お思いであった。  [第四段 紫の上、明石御方と対面する]  三日間を過ごして、対の上はご退出あそばす。入れ替わって参内なさる夜に、ご対面がある。  「このようにご成人なさった節目に、長い歳月のほどが存じられますが、よそよそしい心の隔ては、ないでしょうね」  と、やさしくおっしゃって、お話などなさる。このことも仲好くなった初めのようである。お話などなさる態度に、なるほどもっともだと、目を見張る思 いで御覧になる。  また、実に気品高く女盛りでいらっしゃるご様子を、お互いに素晴らしいと認めて、「大勢の御方々の中でも優れたご寵愛で、並ぶ方がいない地 位を占めていらっしゃったのを、まことにもっともなことだ」と理解されると、「こんなにまで出世し、肩をお並べ申すことができた前世の約束、いいか げんなものでない」と思う一方で、ご退出になる儀式が実に格別に盛大で、御輦車などを許されなさって、女御のご様子と異ならないのを、思い比 べると、やはり身分の相違というものを感じずにはいられないのである。  とてもかわいげに、お人形のようなご様子を、夢のような心地で拝見するにつけても、涙ばかりが止まらないのは、同じ涙とは思われないのであ った。長年何かにつけ悲しみに沈んで、何もかも辛い運命だと悲観していた寿命も更に延ばしたく、気も晴れやかになったにつけても、本当に住吉 の神も霊験あらたかだと思わずにいられない。  思う通りにお世話申し上げて、行き届かないこと、それは、まったくない方の利発さなので、世人一般の人気、声望をはじめとして、並々ならぬご 容姿ご器量なので、東宮も、お若い心で、たいそう格別にお思い申し上げていらっしゃった。  競争なさっている御方々の女房などは、この母君がこうして伺候していらっしゃるのを、欠点に言ったりなどするが、それに負けるはずがない。当 世風で、並ぶ者がないことは、言うまでもなく、奥ゆかしく上品なご様子を、ちょっとしたことにつけても、理想的に引き立ててお上げになるので、殿 上人なども、珍しい風流の才を競う所として、それぞれに伺候する女房たちも、心寄せている女房の、心構え態度までが、実に立派なのを揃えて いらっしゃった。  対の上も、しかるべき機会には参内なさる。お二方の仲は理想的に睦まじくなって行くが、そうかといって出過ぎたり馴れ馴れしくならず、軽く見 られるような態度、言うまでもなく、まったくなく、不思議なほど理想的な方の態度、心構えである。   第三章 光る源氏の物語 准太上天皇となる  [第一段 源氏、秋に准太上天皇の待遇を得る]  大臣も、「いつまでも生きていられないと思わずにはいられない存命中に」と、お思いであったご入内を、立派な地位にお付け申し上げなさって、 本人が求めてのことであるが、身の上が落ち着かず、体裁の悪かった宰相の君も、心配もなく安心した結婚生活に落ち着きなさったので、すっかり ご安心なさって、「今は出家の本意を遂げよう」と、お思いになる。  対の上のご様子の、見捨て難いのにつけても、「中宮がいらっしゃるので、並々ならぬお味方である。この姫君におかれても、表向きの親として は、真っ先にきっとお思い申し上げなさるだろうから、いくら何でも大丈夫」と、お任せになるのであった。  夏の御方が、何かにつけて華やかになりそうもないのも、「宰相がいらっしゃるので」と、皆それぞれに心配はなくお考えになって行く。  明年、四十歳におなりになる、御賀のことを、朝廷をお初め申して、大変な世を挙げてのご準備である。  その年の秋、太上天皇に準じる御待遇をお受けになって、御封が増加し、年官や年爵など、全部お加わりになる。そうでなくても、世の中でご希 望通りにならないことはないのが、やはりめったになかった昔の例を踏襲して、院司たちが任命され、格段に威儀厳めしくおなりになったので、宮 中に参内なさることが、難しいだろうことを、一方では残念にお思いであった。  それでも、なおも物足りなく帝はお思いあそばして、世間に遠慮して、皇位をお譲り申し上げられないことが、朝夕のお嘆きの種であった。  内大臣は太政大臣にご昇進になって、宰相中将は、中納言におなりになった。そのお礼言上にお出になる。輝きがますますお加わりになった 姿、容貌をはじめとして、足りないところのないのを、主人の大臣も、「なまじ人に圧倒されるような宮仕えよりはましであった」と、お考え直しにな る。  女君の大輔の乳母が、「六位の人との結婚」と、ぶつぶつ言った夜のことが、何かの機会ごとにお思い出しになったので、菊のたいそう美しくて、 色の変化しているのをお与えになって、  「浅緑色をした若葉の菊を   濃い紫の花が咲こうとは夢にも思わなかっただろう  辛かったあの時の一言が忘れられない」  と、たいそう美しくほほ笑んでお与えになった。恥ずかしく、お気の毒なことをしたと思う一方で、いとしくも、お思い申し上げる。  「二葉の時から名門の園に育つ菊ですから   浅い色をしていると差別する者など誰もございませんでした  どのようにお気を悪くお思いになったことでしょうか」  と、いかにも物馴れた様子に言い訳をする。  [第二段 夕霧夫妻、三条殿に移る]  ご威勢が増して、このようなお住まいでは手狭なので、三条殿にお移りになった。少し荒れていたのをたいそう立派に修理して、大宮がいらっしゃ ったお部屋を修繕してお住まいになる。昔が思い出されて、懐しく心にかなったお部屋である。  前栽どもなど、小さい木であったのが、たいそう大きな木蔭を作り、一叢薄ものび放題になっていたのを、手入れさせなさる。遣水の水草も取り払 って、とても気持ちよさそうに流れている。  美しい夕暮れ時を、お二人で眺めなさって、情けなかった昔の、子供時代のお話などをなさると、恋しいことも多く、女房たちが何と思っていたか も恥ずかしく、女君はお思い出しになる。古い女房たちで、退出せず、それぞれの曹司に伺候していた人たちなど、参集して、実に嬉しく互いに思 い合っていた。  男君、  「おまえこそはこの家を守っている主人だ、お世話になった人の   行方は知っているか、邸の真清水よ」  女君、  「亡き人の姿さえ映さず知らない顔で   心地よげに流れている浅い清水ね」  などとおっしゃっているところに、太政大臣、宮中からご退出なさった途中、紅葉のみごとな色に驚かされてお越しになった。  [第三段 内大臣、三条殿を訪問]  昔大宮がお住まいだったご様子に、たいして変わるところなく、あちらこちらも落ち着いてお住まいになっている様子、若々しく明るいのを御覧に なるにつけても、ひどくしみじみと感慨が込み上げてくる。中納言も、改まった表情で、顔が少し赤くなって、いつも以上にしんみりとしていらっしゃ る。  理想的で初々しいご夫婦仲であるが、女は、他にこのような器量の人もいないこともなかろうと、お見えになる。男は、この上なく美しくいらっしゃ る。古女房たちが御前で得意気になって、昔のことなどを申し上げる。さきほどのお二人の歌が、散らかっているのをお見つけになって、ふと涙ぐみ なさる。  「この清水の気持ちを尋ねてみたいが、老人は遠慮して」  とおっしゃる。  「その昔の老木はなるほど朽ちてしまうのも当然だろう   植えた小松にも苔が生えたほどだから」  男君の宰相の御乳母、冷たかったお仕打ちを忘れなかったので、得意顔に、  「どちら様をも蔭と頼みにしております、二葉の時から   互いに仲好く大きくおなりになった二本の松でいらっしゃいますから」  老女房たちも、このような話題ばかりを歌に詠むのを、中納言は、おもしろいとお思いになる。女君は、わけもなく顔が赤くなって、聞き苦しく思っ ていらっしゃる。  [第四段 十月二十日過ぎ、六条院行幸]  神無月の二十日過ぎ頃に、六条院に行幸がある。紅葉の盛りで、きっと興趣あるにちがいない今回の行幸なので、朱雀院にも御手紙があって、 院までがお越しあそばすので、実に珍しくめったにない盛儀なので、世間の人も心をときめかす。主人の六条院方でも、お心を尽くして、目映いば かりのご準備をあそばす。  巳の時に行幸があって、まず、馬場殿に左右の馬寮の御馬を牽き並べて、左右近衛府の官人が立ち並んだ儀式、五月の節句に違わずよく似て いた。未の刻を過ぎたころ、南の寝殿にお移りあそばす。途中の反橋、渡殿には錦を敷き、よそから見えるにちがいない所には軟障を引き、厳めし くおしつらわせなさった。  東の池に舟を幾隻か浮かべて、御厨子所の鵜飼の長が、院の鵜飼を召し並べて、鵜を下ろさせなさった。小さい鮒を幾匹もくわえた。特別に御 覧に入れるのではないが、お通りすがりになる一興ほどにである。  築山の紅葉、どの町のも負けない程であるが、西の御庭のは格別に素晴らしいので、中の廊の壁を崩し、中門を開いて、霧がさえぎることなく御 覧にお入れあそばす。  御座、二つ準備して、主人の御座は下にあるのを、宣旨があってお改めさせなさるのも、素晴らしくお見えになったが、帝は、やはり規定以上の 礼をお現し申し上げられないのを、残念にお思いあそばすのであった。  池の魚を、左少将が手に取り、蔵人所の鷹飼が、北野で狩をして参った鳥の一番を、右少将が捧げて、寝殿の東から御前に出て、御階の左右 に膝まづいて奏上する。太政大臣が、お言葉を賜り伝えて、料理して御膳に差し上げる。親王方、上達部たちの御馳走も、珍しい様子に、いつもの と目先を変えて差し上げさせなさった。  [第五段 六条院行幸の饗宴]  皆お酔いになって、日が暮れかかるころに、楽所の人をお召しになる。特別の大がかりの舞楽ではなく、優雅に奏して、殿上の童が、舞を御覧に 入れる。朱雀院の紅葉の御賀、例によって昔の事が自然と思い出されなさる。「賀皇恩」という楽を奏する時に、太政大臣の御末子の十歳ほどに なる子が、実に上手に舞う。今上の帝、御召物を脱いで御下賜なさる。太政大臣、下りて拝舞なさる。  主人の院、菊を折らせなさって、「青海波」を舞った時のことをお思い出しになる。  「色濃くなった籬の菊も折にふれて   袖をうち掛けて昔の秋を思い出すことだろう」  太政大臣、あの時は、同じ舞をご一緒申してお舞いなさったのだが、自分も人には勝った身ではあるが、やはりこの院のご身分はこの上ないも のであったと、思わずにはいらっしゃれない。時雨が、時知り顔に降る。  「紫の雲と似ている菊の花は   濁りのない世の中の星かと思います  一段とお栄えの時を」  と申し上げなさる。  [第六段 朱雀院と冷泉帝の和歌]  夕風が吹き散らした紅葉の色とりどりの、濃いの薄いの、錦を敷いた渡殿の上、見違えるほどの庭の面に、容貌のかわいい童べの、高貴な家の 子供などで、青と赤の白橡に、蘇芳と葡萄染めの下襲など、いつものように、例のみずらを結って、額に天冠をつけただけの飾りを見せて、短い曲 目類を少しずつ舞っては、紅葉の葉蔭に帰って行くところ、日が暮れるのも惜しいほどである。  楽所など仰々しくはしない。堂上での管弦の御遊が始まって、書司の御琴類をお召しになる。一座の興が盛り上がったころに、お三方の御前に みな御琴が届いた。宇多の法師の変わらぬ音色も、朱雀院は、実に珍しくしみじみとお聞きあそばす。  「幾たびの秋を経て、時雨と共に年老いた里人でも   このように美しい紅葉の時節を見たことがない」  恨めしくお思いになったのであろうよ。帝は、  「世の常の紅葉と思って御覧になるのでしょうか   昔の先例に倣った今日の宴の紅葉の錦ですのに」  と、おとりなし申し上げあそばす。御器量は一段と御立派におなりになって、まるでそっくりにお見えあそばすのを、中納言が控えていらっしゃる が、また別々のお顔と見えないのには、目を見張らされる。気品があって素晴らしい感じは、思いなしか優劣がつけられようか、目の覚めるような 美しい点は、加わっているように見える。  笛を承ってお吹きになる、たいそう素晴らしい。唱歌の殿上人、御階に控えて歌っている中で、弁少将の声が優れていた。やはり前世からの宿縁 によって優れた方々がお揃いなのだと思われるご両家のようである。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 3/19/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    若菜上 光る源氏の准太上天皇時代三十九歳暮から四十一歳三月までの物語 第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び 1.朱雀院、女三の宮の将来を案じる---朱雀院の帝、先日の行幸の後、そのころから 2.東宮、父朱雀院を見舞う---東宮は、「このような御病気に加えて、御出家あそばす 3.源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う---六条院からも、お見舞いが頻繁にある 4.夕霧、源氏の言葉を言上す---中納言の君は、「過ぎ去りました昔の事は、何とも 5.朱雀院の夕霧評---女房などは、覗き見申して 6.女三の宮の乳母、源氏を推薦---姫宮がとてもかわいらしげで、幼く無邪気な 第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾 1.乳母と兄左中弁との相談---姫宮のご後見たちの中で、重々しい御乳母の兄 2.乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上---乳母が、また別の機会に 3.朱雀院、内親王の結婚を苦慮---「そのように考えるからなのだ。皇女たちが 4.朱雀院、婿候補者を批評---「もう少し分別がおできになるまで 5.婿候補者たちの動静---太政大臣も、「この右衛門督が、今まで独身でいて 6.夕霧の心中---権中納言も、このような事柄をお聞きになって 7.朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす---東宮におかれても、このような事をお耳にあそばして 8.源氏、承諾の意向を示す---この姫宮の御事、このようにお悩みの様子は 第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家 1.歳末、女三の宮の裳着催す---年も暮れた。朱雀院におかれては、御気分もやはり 2.秋好中宮、櫛を贈る---中宮からも、御装束、櫛の箱を、特別にお作らせに 3.朱雀院、出家す---御気分のたいそう苦しいのを我慢なさりながら、元気をお出しになって 4.源氏、朱雀院を見舞う---六条院も、少し御気分がよろしいとお耳に入れあそばして 5.朱雀院と源氏、親しく語り合う---院も、何となく心細くお思いになられて、我慢おできになれず 6.内親王の結婚の必要性を説く---お心の中でも、何と言っても関心のある御事なので 7.源氏、結婚を承諾---「そのように考えたこともありますが、それも難しいこと 8.朱雀院の饗宴---夜に入ったので、主人の院方も、お客の上達部たちも 第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける 1.源氏、結婚承諾を煩悶す---六条院は、何となく気が重くて、あれこれと思い悩みなさる 2.源氏、紫の上に打ち明ける---翌日、雪がちょっと降って、空模様も物思いを催し 3.紫の上の心中---心の中でも、「このように空から降って来たようなことなので 第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う 1.玉鬘、源氏に若菜を献ず---年も改まった。朱雀院におかれては、姫宮が、六条院にお移りになる 2.源氏、玉鬘と対面---人々が参上などなさって、お座席にお出になるに当たり 3.源氏、玉鬘と和歌を唱和---尚侍の君も、すっかり立派に成熟して、貫祿まで加わって 4.管弦の遊び催す---朱雀院の御病気が、まだすっかり良くならないことによって 5.暁に玉鬘帰る---明け方に、尚侍の君はお帰りになる。御贈り物などがあるのだった 第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁 1.女三の宮、六条院に降嫁---こうして、二月の十日過ぎに、朱雀院の姫宮、六条院へお輿入れになる 2.結婚の儀盛大に催さる---三日の間は、あちらの院からも、主人である院からも 3.源氏、結婚を後悔---三日間は、毎晩お通いになるのを 4.紫の上、眠れぬ夜を過ごす---長い間には、もしかしたらと思っていたいろいろな事も 5.六条院の女たち、紫の上に同情---このように女房たちが容易ならぬことを言ったり思ったりしているのも 6.源氏、夢に紫の上を見る---特別に恨めしいというのではないが、このように思い乱れ 7.源氏、女三の宮と和歌を贈答---今朝は、いつものようにこちらでお目覚めになって 8.源氏、昼に宮の方に出向く---今日は、宮の御方に昼お渡りになる。特別 9.朱雀院、紫の上に手紙を贈る---院の帝は、その月のうちにお寺にお移りになった 第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋 1.源氏、朧月夜に今なお執心---いよいよこれまでと、女御、更衣たちなど、それぞれお別れ 2.和泉前司に手引きを依頼---その人の兄に当たる和泉前司を招き寄せて 3.紫の上に虚偽を言って出かける---「昔、逢瀬も難しかった時でさえ、お心をお通わし 4.源氏、朧月夜を訪問---その日は、寝殿へもお渡りにならず、お手紙だけを書き交わしなさる 5.朧月夜と一夜を過ごす---夜はたいそう更けて行く。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々などが 6.源氏、和歌を詠み交して出る---朝ぼらけの美しい空に、百千鳥の声が 7.源氏、自邸に帰る---たいそう人目を忍んで入って来られたその寝乱れ髪の様子を 第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感 1.明石姫君、懐妊して退出---桐壷の御方は、ずっと長いこと退出なさっていない 2.紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る---対の上が、こちらにおいでになって、お会いなさるついでに 3.紫の上の手習い歌---対の上におかれては、このようにご挨拶にお出向きなさるものの 4.紫の上、女三の宮と対面---東宮の御方は、実の母君よりも、この御方を 5.世間の噂、静まる---それから後は、いつもお手紙のやりとりなどをなさって、おもしろい遊び事が 第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う 1.紫の上、薬師仏供養---神無月に、対の上は、院の四十の御賀のために、嵯峨野の御堂で 2.精進落としの宴---二十三日を御精進落しの日として、こちらの院は 3.舞楽を演奏す---未の刻ごろに楽人が参る。「万歳楽」、「皇じょう」などを 4.宴の後の寂寥---夜に入って、楽人たちが退出する。北の対の政所の別当連中は 5.秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷---十二月の二十日過ぎのころに、中宮が御退出あそばして 6.中宮主催の饗宴---宮のいらっしゃる町の寝殿に、御準備などをして 7.勅命による夕霧の饗宴---帝におかせられては、お思い立ちあそばした事柄を、やすやすとは中止できまいと 8.舞楽を演奏す---例によって、「万歳楽」「賀皇恩」などという舞、形ばかり舞って 9.饗宴の後の感懐---大将が、ただ一人りいらっしゃるのを、物足りなく 第十章 明石の物語 男御子誕生 1.明石女御、産期近づく---年が改まった。桐壷の御方の御出産が近づきなさったことによって 2.大尼君、孫の女御に昔を語る---あの大尼君も、今ではすっかりもうろくした人になったのであろう 3.明石御方、母尼君をたしなめる---たいそう物思いに沈んでいらっしゃるところに、御方がお上がりになって 4.明石女三代の和歌唱和---御加持が終わって退出したので、果物など 5.三月十日過ぎに男御子誕生---三月の十何日のころに、無事にお生まれになった 6.産養の儀盛大に催される---六日目という日に、いつもの御殿にお移りになった 7.紫の上と明石御方の仲---御方のお心構えが、気が利いていて気品があって 第十一章 明石の物語 入道の手紙 1.明石入道、手紙を贈る---あの明石でも、このようなお話を伝え聞いて 2.入道の手紙---「ここ数年というものは、同じこの世に生きておりましたが 3.手紙の追伸---「寿命の尽きる月日を、決してお心にかけてなさいますな 4.使者の話---尼君、この手紙を見て、その使いの大徳に尋ねると 5.明石御方、手紙を見る---明石御方は、南の御殿にいらっしゃったが、「このようなお手紙が 6.尼君と御方の感懐---尼君は、長い間涙を抑えて、「あなたのお蔭で 7.御方、部屋に戻る---「昨日も、大殿の君が、あちらにいると御覧になって 第十二章 明石の物語 一族の宿世 1.東宮からのお召しの催促---東宮から、早く参内なさるようにとのお召しが始終あるので 2.明石女御、手紙を見る---対の上などがお帰りになった夕方 3.源氏、女御の部屋に来る---院は、姫宮の御方にいらっしゃったが、中の御障子から 4.源氏、手紙を見る---さきほどの文箱も、慌てて隠すのも体裁が悪いので 5.源氏の感想---「年を取って、世の中の様子を、あれこれと分かって 6.源氏、紫の上の恩を説く---「この願文には、また一緒に差し上げねばならない物があります 7.明石御方、卑下す---「あなたこそは、少し物の道理が分かっていらっしゃるようだから 8.明石御方、宿世を思う---「ああして、たいそう大事になさるお気持ちが深まるばかりのようだこと 第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る 1.夕霧の女三の宮への思い---大将の君は、この姫宮の御事を、考えなかったわけでもないので 2.夕霧、女三の宮を他の女性と比較---このようなことを、大将の君も、「なるほど、立派な方は 3.柏木、女三の宮に執心---衛門督の君も、朱雀院に常に参上し、常日頃親しく伺候して 4.柏木ら東町に集い遊ぶ---三月ころの空がうららかに晴れた日、六条の院に 5.南町で蹴鞠を催す---だんだん日が暮れかかって行き、「風が吹かず、絶好の日だ」と興じて 6.女三の宮たちも見物す---たいそう稽古を積んだ技の数々が見えて、回が進んで行くにつれて 7.唐猫、御簾を引き開ける---御几帳類をだらしなく方寄せ方寄せして、女房がすぐ側にいて 8.柏木、女三の宮を垣間見る---几帳の側から少し奥まった所に、袿姿で 9.夕霧、事態を憂慮す---大将は、たいそうはらはらしていたが、近寄るのも 第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴 1.蹴鞠の後の酒宴---大殿がこちらを御覧になって、「上達部の座席には、あまりに軽々しいな 2.源氏の昔語り---院は、昔話を始めなさって、「太政大臣が 3.柏木と夕霧、同車して帰る---大将の君と同車して、途中お話なさる 4.柏木、小侍従に手紙を送る---督の君は、やはり太政大臣邸の東の対に、独身で 5.女三の宮、柏木の手紙を見る---御前には女房たちがあまりいない時なので、この手紙を   第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び  [第一段 朱雀院、女三の宮の将来を案じる]  朱雀院の帝、先日の行幸の後、そのころから、御不例でずっと御病気でおいであそばす。もともと御病気がちでいらせられるが、今回は何となく 心細くお思いあさばされて、  「長年出家の願望は強いが、后の宮がご存命であった間は、いろいろと御遠慮申し上げなさって、今まで決意しないでいたが、やはりその方面 に心が向くのだろうか、長くは生きていられないような気がする」  などと仰せられて、しかるべきお心づもりをいろいろ御準備あそばす。  御子たちは、東宮を別に申して、女宮たちがお四方いらっしゃった。その中でも、藤壷と申し上げた方は、先帝の源氏でいらっしゃった。  まだ東宮と申し上げた時代に入内なさって、高い地位にもおつきになるはずであった方が、これと言ったご後見役もいらっしゃらず、母方も名門の 家柄でなく、微力の更衣腹でいらっしゃったので、ご交際ぶりも頼りなさそうで、大后が尚侍の君をお入れ申し上げなさって、側に競争相手がいな いほど重くお扱い申し上げなさったりしたので、圧倒されて、帝も御心中に、お気の毒にはお思い申し上げあそばしながら、御譲位あそばしたの で、入内した甲斐もなく残念で、世の中を恨むような有様でお亡くなりになった。  その腹の女三の宮を、大勢の御子たちの中で、特別にかわいがって大事になさっておいでになる。  その当時、お年、十三、四歳ほどでいらっしゃる。  「今を限りと世を捨てて、山籠もりした後に残って、誰を頼りとして行かれるのだろうか」  と、ただこの御方のことだけが気がかりにお嘆きになる。  西山にある御寺を完成させて、お移りあそばすための御準備をあそばすにつけても、またこの宮の御裳着の儀式を御準備あそばす。  院の中に秘蔵していらっしゃる御宝物、御調度類は言うまでもなく、ちょっとしたお遊び道具類まで、少しでも由緒ある物は全て、ただこの御方に お譲り申し上げなさって、それに次ぐ品々を、他の御子たちには、御分配なさったのであった。  [第二段 東宮、父朱雀院を見舞う]  東宮は、「このような御病気に加えて、御出家あそばすお心づもりだ」とお聞きあそばして、お越しあそばした。母女御、ご一緒申されておいでに なった。格別のご寵愛というほどでもなかったが、東宮がこうしていらっしゃるご運勢が、この上なく素晴らしいので、久しぶりのお話、親しくお話し 合いになったのであった。  東宮にも、いろいろなこと、国をお治めになる時の御注意など、お教え申し上げなさる。お年のわりにはとてもよくご成人あそばされていて、ご後 見役たちも、あちらこちらと、重々しい立派なお間柄でいらっしゃるので、たいそう安心だとお思い申し上げていらっしゃる。  「この世に不満の残ることはございません。女宮たちが大勢後に残るその行く末を思いやると、それがいざ別れとなる時にきっと障りとなることで しょう。これまで、他人事として見たり聞いたりしてきたことが、女は思いがけず、軽々しく、世間から批判される運命であるのが、たいそう残念で悲 しいことだ。  どなたをも、御即位なさった御代には、何かにつけて、お心にかけてお世話なさって下さい。その中で、後見人のいる方は、そちらに任せてよいと 思います。  三の宮は、幼いお年頃で、ただわたし一人をずっと頼りとしてきたので、出家した後の世に、寄るべもなく心細い生活をするだろうことを、とてもま ことに気がかりで悲しく思っております」  と、お目を拭いながら、お聞かせ申し上げあそばす。  女御にも、やさしくして下さるようお頼み申し上げあそばす。けれども、母女御が、他の人よりは優れて御寵愛が厚かったために、皆が競争なさい 合ったころ、お妃方の御仲も、あまりよろしくできなかったので、その影響で、「なるほど、今では特に憎いなどとは思わなくても、本当に心にかけて お世話しようとまではお思いでなかろう」と推量されるのである。  朝な夕なに、この方の御事を御心配なさる。年が暮れてゆくにつれて、御病気がほんとうに重くおなりあそばして、御簾の外にもお出ましにならな い。御物の怪で、時々お悩みになったことはあったが、とてもこのようにいつまでもお悪いことはあり続けなかったが、「今度は、やはり、最期だ」と お思いでいらっしゃった。  お位をお退きあそばしたが、やはりその当時にお頼り申し上げていらした方々は、今でもおやさしくご立派なお人柄を、心の慰め所にして参上し お仕えなさっている方々は、みな心の底からお悲しみ申し上げなさる。  [第三段 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う]  六条院からも、お見舞いが頻繁にある。ご自身も参上なさる由、お聞きあそばして、院はとてもたいそうお喜び申し上げあそばす。  中納言の君が参上なさったのを、御簾の中に招き入れて、お話を親密になさる。  「故院の帝が、御臨終の際に、多くの御遺言があった中で、この院の御事と今上の帝の御事を、特別に仰せになったが、皇位に即くと、何かと自 由にならないもので、心の中の好意は、変わらないものの、ちょっとした事の行き違いから、お恨まれ申されることもあっただろうと思うが、長年何 かにつけて、その時の恨みが残っていらっしゃるご様子をお見せにならない。  賢人と言っても、自分自身の事となると、話は違って、心が動揺し、必ずその報復をし、道を踏みはずす例は、昔でさえ多くあったのだ。  どのような時にか、お恨みの心が漏れ出ることだろうかと、世間の人々もその気で疑っていたが、とうとう辛抱なさって、東宮などにもご好意をお 寄せ申されていらっしゃる。今では、またとなく親しい姻戚関係になって交際していらっしゃるのも、この上なく有り難く心の中では思いながら、生来 の愚かさに加えて、子を思う親心で目がくらみ、見苦しいことではないかと思って、かえってよそ事のようにお任せ申している有様でございます。  帝の御事は、あの御遺言通りに致しましたので、このような末世の名君として、これまでの不面目を挽回して下さる。願い通りで、まことに嬉しく 思います。  この秋の行幸の後は、昔のことがあれこれと思い出されて、懐かしくお会いしたく存じます。お目にかかって申し上げたいことどもがございます。 必ずご自身お訪ね下さるよう、お勧め申し上げて下さい」  などと、涙ぐみながら仰せになる。  [第四段 夕霧、源氏の言葉を言上す]  中納言の君は、  「過ぎ去りました昔の事は、何とも分りかねがたく存じます。成人いたしまして、朝廷にもお仕え致す間に、世間の事をあれこれと経験してまいり ますうちに、大小の公事につけても、私的な打ち解けた話し合いの中でも、『昔の辛い思いをしたことがあって』などと、ほのめかされることはござい ませんでした。  『このように朝廷の御後見を中途でご辞退申して、静かな暮らしをしようと、すっかり籠居して後は、どのような事をも、関係ないようにして、故院 の御遺言通りにもお仕え申すことができず、御在位時代には、年齢も器量も不十分で、すぐれた上位の方々が多くて、わたしの思いを十分に尽くし て御覧いただくこともありませんでした。今は、このように御退位なさって、静かにお暮らしになっていらっしゃるこの折に、思いのまま心おきなく、参 上してお話を承りたいが、そうは言っても何やら大層な身分のために、ついつい月日を過ごしたていること』  と、時々お嘆き申していらっしゃいます」  などと、奏上なさる。  二十歳にもまだわずか足りない年齢であるが、まことに立派に年齢以上に成人して、器量も今を盛りに輝くばかりで、たいそう美しいので、お目 に止めてじっと御覧あそばしながら、この御心中を悩ましていらっしゃる姫宮の御後見に、この人はどうかしらなどと、人知れずお考えよりになるの であった。  「太政大臣の邸に、今は落ちつかれたそうですね。長年わけの分からない話のように聞いたのは、気の毒に思ったが、ほっとしたものの、やはり 残念に思うことがあります」  と仰せになる御様子を、「何を仰せになろうとするのかしら」と、不思議に思って考えてみると、「こちらの姫宮をこのように御心配なさって、適当な 人がいたら、頼んで、気楽に俗世を離れたい、とお思いになって仰せになるのだろう」と、自然と漏れ聞きなさる伝もあったので、「そのようなことで はないか」とは思ったが、すぐさま分かったような顔をして、どうしてお答え申し上げられよう。ただ、  「頼りにもならないわたしには、妻もなかなか得がたくございます」  とだけお答え申し上げるにとどまった。  [第五段 朱雀院の夕霧評]  女房などは、覗き見申して、  「本当に立派にお見えになる容貌や、態度ですこと」  「ああ、素晴らしい」  などと、集まってお噂申し上げているのを、年輩の女房は、  「さあ、どうかしら、そうは言っても、あの院がこれぐらいお年でいらっしゃった時のご様子には、とてもお比べ申し上げることはおできになれませ ん。実に眩しいほどお美しくいらっしゃいました」  などと、言い合うのをお耳にあそばして、  「本当に、あの方は特別の人であった。今はまた、あの当時以上に立派になって、光り輝くとはこれを言うべきなのかと見える輝きが、一段と加 わっている。威儀を正して、公事に携わっているところを見ると、堂々として鮮やかで、目も眩ゆい気がするが、また一方に、うちくつろいで、冗談を 言ってふざけるところは、その方面では、またとないほど愛嬌があって、親しみやすく愛らしいこと、この上ないのは、めったにいない人だ。何事に つけても前世の果報が思いやられて、類稀な人柄だ。  宮中で成長して、帝王がこの上なくおかわいがりなさり、あれほど大事にし、わが身以上に大切になさったが、いい気になって増長することもな く、謙虚にして、二十歳までは、中納言にもならずじまいだった。一つ越してか、宰相で大将を兼官なさったろう。  それに比べて、こちらはこの上なく昇進しているのは、親から子へと次第に声望が高まっていくのであろう。本当に公事に関する才能、心構えな どは、こちらも決して父親に劣らず、たとい間違っても、年々老成してきたという評判は、たいそう格別なようだ」  などと、お誉めあそばす。  [第六段 女三の宮の乳母、源氏を推薦]  姫宮がとてもかわいらしげで、幼く無邪気なご様子であるのを拝見なさるにつけても、  「はなやかにお世話して上げ、また一方では、至らないところは、見知らない体でそっと教えて上げるような人で、安心な方にお預け申したいもの だ」  などとお申し上げになる。  年かさの御乳母たちを御前に召し出して、御裳着の時の事などを仰せになる折に、  「六条の大殿が、式部卿の親王の娘を育て上げたというように、この姫宮を引き取って育ててくれる人がいないものか。臣下の中ではいそうにな い。主上には中宮がいらっしゃる。それに次ぐ女御たちにしても、たいそう高貴な家柄の方ばかりが揃っていられるから、しっかりした御後見役がい なくて、そのような宮廷生活は、かえってしないほうがましだろう。  この権中納言の朝臣が独身でいた時に、こっそり打診してみるべきであった。若いけれど、たいそう有能で、将来有望な人と思えるから」  と仰せになる。  「中納言は、もともとたいそう生真面目な方で、長年、あの方に心を懸けて、他の女性には心を移そうともしなかったのでございますから、その願 いが叶ってからは、ますますお心の動くはずがございますまい。  あの院こそは、かえって、依然としてどのようなことにつけても、女性にご関心の心は、引き続きお持ちのようでいらっしゃると聞いております。そ の中でも、高貴な女性を得たいとのお望みが深くて、前斎院などをも、今でも忘れることができずに、お便りを差し上げていらっしゃると聞いておりま す」  と申し上げる。  「いや、その変わらない好色心が、たいそう心配だ」  とは仰せになるが、  「なるほど、大勢の婦人方の中に混じって、不愉快な思いをすることがあったとしても、やはり親代わりと決めたことにして、そのようにお譲り申そ うか」  などとも、お考えになるのだろう。  「ほんとうに、少しでも結婚させようと思うような女の子を持っていたら、同じことなら、あの院の側に、添わせたいものだ。長くもない人生では、あ のように満ち足りた気持ちで、過ごしたいものだ。  わたしが女だったら、同じ姉弟ではあっても、きっと睦まじい仲になっていただろう。若かった時など、そのように思った。ましてや、女がだまされ たりするようなのは、まことに、もっともなことだ」  と仰せになって、御心中に、尚侍の君の御事も、自然とお思い出しになっているのであろう。   第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾  [第一段 乳母と兄左中弁との相談]  姫宮のご後見たちの中で、重々しい御乳母の兄、左中弁でいる者で、あちらの院の近臣として、長年仕えている者がいたのであった。こちらの宮 にも特別の気持ちを持って仕えているので、参上した折に会って、話をした機会に、  「院の上が、これこれしかじかの御意向があってお洩らしになったが、あちらの院に、機会があったらそれとなくお耳にお入れ申し上げてください。 内親王たちは、独身でいらっしゃるのが通例ですが、いろいろなことにつけてご好意をお寄せ申し、どのような事柄につけても、ご後見なさる方がい ることは頼もしいことです。  院の上をお置き申しては、また心底からご心配申し上げなさる方もいないので、自分たちは、お仕え申しているが、どれほどのお役に立てましょ うか。わたしの一存のままにもならず、自然と思いの他の事もおありになり、浮いた噂が立つような時には、どんなにか厄介なことでしょう。御存命 中には、どのような形にせよ、姫宮のお身の上が決まったならば、お仕えしやすいことでしょう。  高貴なご身分と申しても、女は、本当に運命が不安定でいらっしゃいますから、いろいろと心配な上に、このような多くの皇女たちの中で、特別大 切にお扱い申されるにつけても、人の妬みもあるでしょうし、何とか少しの瑕もおつけ申すまい」  と相談をもちかけると、弁は、  「どのような御事なのでしょうか。院は、不思議なまでお心の変わらない方で、いったんご寵愛なさった女性は、お気に入った方も、またさほど深く なかった方をも、それぞれにつけてお引き取りになっては、大勢お集め申していらっしゃるが、大切にお思いなさる方は、限りがあって、お一方のよ うなので、そちらに片寄って、寂しい暮らしをしていらっしゃる方々が多いようですが、御宿縁があって、もし、そのようにあそばされるようなことがあ りましたら、どんなに大切な方と申しても、張り合って押して来られるようなことは、とてもできますまいと想像されますが、やはり、どのようなものか と案じられることがあるように存じられます。  とはいえ、『この世での栄誉は、末世には過ぎて、身の上に不足はないが、女性関係では、人の非難を受け、自分自身の意に満たないところも ある』と、いつも内々の閑談にお気持ちを漏らされるそうです。  なるほど、わたくしどもが拝見致しても、そのようでいらっしゃいます。それぞれの御縁で、お世話なさっている方は、みな素姓の分からぬような卑 しい身分ではいらっしゃいませんが、たかだか知れた臣下の身分ばかりで、院のご様子に並び得る声望のある方はいらっしゃるだろうか。  それに、同じ事なら、御意向通りに御降嫁あそばしたら、どんなにお似合いのご夫婦となることでしょう」  と内情を話したのを、  [第二段 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上]  乳母が、また別の機会に、  「これこれしかじかの事を、某朝臣にそれとなく話しましたところ、『あちらの院では、きっとご承諾申し上げなさるでしょう。長年のご宿願が叶うと お思いになるはずのことですし、こちらの院の御許可が本当にあるのでしたらお伝え申し上げましょう』と申しておりましたが、どのように致しましょ うか。  身分身分に応じて、夫人それぞれの待遇をお考えになっては、めったにないお心づかいでいらっしゃるようですが、臣下の者でも、自分以外に寵 愛を受ける女が横にいることは、誰でも不満に思うことでございますから、心外なことでございましょうかしら。ご後見を希望なさる方は、大勢いらっ しゃるようです。  よくお考えあそばしてお決めになるのがようございましょう。この上ない身分の人と申しても、今の世の中では、みなわだかまりなく、立派に処理 して、夫婦仲を考え通りにお過ごしになられる方もいらっしゃるようですが、姫宮は、驚くほど気がかりで、頼りなくお見えでいらっしゃるし、伺候して いる女房たちは、お仕え申すにも限界がございましょう。  大抵ご主人のご意向にお従い申して、賢明な下々の者もそのお考え通りに従うのが、心丈夫なことでしょう。特別のご後見がいらっしゃらないの は、やはり心細いことでございましょう」  と申し上げる。  [第三段 朱雀院、内親王の結婚を苦慮]  「そのように考えるからなのだ。皇女たちが結婚している様子は、見苦しく軽薄なようでもあり、また高貴な身分といっても、女は男との結婚によっ て、悔やまれることも、しゃくに障る思いも、自然と生じるもののようだと、一方では不憫に思い悩むが、また一方で、頼りとする人に先立たれて、頼 る人々に別れた後、自分の意志通りに世の中を生きて行くことも、昔は、人の心も穏やかで、世間から許されない身分違いのことは、考えもしない ことであったろうが、今の世では、好色で淫らなことも、縁者を頼って聞こえてくるようだ。  昨日まで高貴な親の家で大切にされて育てられていた姫が、今日は平凡な身分の低い好色者たちに浮名を立てられだまされて、亡き親の面目 をつぶし、死後の名を辱めるような例が多く聞こえる。詮じつめれば、どちらも同じ事である。  身分身分に応じて、宿世などということは、知りがたいことなので、万事が不安である。総じて、良くも悪くも、しかるべき人が指図しておいたよう にして世の中を過ごして行くのは、それぞれの宿世であって、晩年に衰えることがあっても、自分自身の間違いにはならない。  後になって、この上ない幸福がきて、見苦しからぬことになった時には、それでもかまわなかったと見えるが、やはり、その当座いきなり耳にした 時には、親にも内緒だし、しかるべき保護者も許さないのに、自分勝手の秘事をしでかしたのは、女の身の上にはこれ以上ない欠点だと思われる ことだ。  平凡な臣下の者同士でさえ、軽薄で良くないことである。本人の意志と無関係に事が運ばれて良いはずのものでもないが、自分の意に反しては 結婚せず、運命の程が決めらるのは、たいそう軽率で、日常の態度、様子が想像されることよ。  妙に頼りない性質ではないかと見えるようなご様子だから、お前たちの考えのままに、お取り計らい申し上げるというのは、そのようなことが世間 に漏れ出るようなことは、まことに情けないことだ」  などと、お残し申されて御出家あそばされる後のことを、不安にお思い申し上げていらっしゃるので、ますます厄介なことと思い合っていた。  [第四段 朱雀院、婿候補者を批評]  「もう少し分別がおできになるまで世話してあげようとは、長年辛抱してきたが、深い出家の本懐も遂げずになってしまいそうな気がするので、つ い気が急かされるものだ。  あの六条の大殿は、なるほど、そうはいっても万事心得ていて、安心な点ではこの上ないが、あちこちに大勢いらっしゃるご夫人たちを考慮する 必要もあるまい。何といっても、当人の心次第である。ゆったりと落ち着いていて、広く世の模範であり、信頼できる点では並ぶ者がなくおいでにな る方である。この人以外で適当な人は誰がいようか。  兵部卿宮、性質は好ましい。同じ皇族で、他人扱いして軽んじるべきではないが、あまりにひどく弱々しく風流めいていて、重々しいところが足り なくて、少し軽薄な感じが過ぎていよう。やはり、そのような人はたいそう頼りなさそうな気がする。  また、大納言の朝臣が家司を望んでいるというのは、そうした点では、忠実に勤めるにちがいないだろうが、それでもどんなものか。その程度の 世間一般の身分の者では、やはりとんでもない不釣合であろう。  昔も、このような婿選びでは、万事につけ人より格別優れた評判のある者に、落ち着いたものだ。ただ一途に、他の女には目もくれず大事にして くれる点だけを、立派なことだと考えるのは、実に物足りなく残念なことだ。  右衛門督が内々希望していると、尚侍が話していたが、その人だけは、位などがもう少し一人前になったら、何の不釣合なことがあろう、と思い つくところだが、まだ年齢が若くて、あまりに軽い地位である。  高貴な女性をという願いが強くて、独身で過ごしながら、たいそう沈着に理想を高く持している態度が、誰よりも抜群で、漢学なども難なく備わり、 最後は世の重鎮となるはずの人なので、将来を期待できるが、やはり婿にと決めてしまうには、不十分ではないか」  と、いろいろとお考え悩んでいらっしゃった。  これほどにはお考えでない姉宮たちには、一向にお心をお悩ませ申し上げる人もいない。不思議と、内々に仰せになる内証事が、自然と広がっ て、気を揉む人々が多いのであった。  [第五段 婿候補者たちの動静]  太政大臣も、  「この右衛門督が、今まで独身でいて、内親王でなければ妻としないと思っているのを、このような御詮議が問題になっているという機会に、その ようにお願い申し上げて、召し寄せられたならば、どんなにか自分にとっても名誉なことで、嬉しいだろう」  と、お思いになりおっしゃりもなさって、尚侍の君には、その姉の北の方を通じて、お伝え申し上げるのであった。あらん限りの言葉を尽くして奏上 させて、御内意をお伺いになる。  兵部卿宮は、左大将の北の方を貰い受け損ねなさって、お聞きになっているだろうところもあって、欠点があってはと、選り好みしていらっしゃった が、どうしてお心が動かないことがあろうか。この上なくやきもきしていらっしゃった。  藤大納言は、長年院の別当として、親しくお仕え続けてきたが、御入山あそばして後、頼る所もなくきっと心細いだろうから、この宮の御後見を口 実にして、お心にかけていただくよう、御内意を熱心に伺っていらっしゃるのであろう。  [第六段 夕霧の心中]  権中納言も、このような事柄をお聞きになって、  「人伝でもなく直接に、あれほど意中をお漏らしあそばした御様子を拝見したのだから、自然と何かの機会を待って、自分の意向をほのめかし、お 耳にあそばすことがあったら、けっして外れることはあるまい」  と、心をときめかしたにちがいなかろうが、  「女君が、今はもう大丈夫と心から頼りにしていらっしゃるのを、長年、辛い仕打ちを口実に浮気しようと思えば出来た時でさえ、他の女への心変 わりもなく過ごしてきたのに、無分別にも、今になって昔に戻って、急に心配をおかけできようか。並々ならぬ高貴なお方に関係したならば、どのよ うなことも思うようにならず、左右に気を使っては、自分も苦しいことだろう」  などと、本来好色でない性格なので、心を抑えながら外には出さないが、やはり他人に決定してしまうのも、どんなことかと思わずにはいられず、 聞き耳を立てるのであった。  [第七段 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす]  東宮におかれても、このような事をお耳にあそばして、  「差し当たっての現在のことよりも、後の世の例となるべきのことですから、よくよくお考えあそばさなければならないことです。人柄がまあまあ良 いといっても、臣下では限界があるので、やはり、そのようにお考えになられるならば、あの六条院にこそ、親代わりとしてお譲り申し上げあそばし ませ」  と、特別のお手紙というのではないが、御内意があったのを、お待ち受けお聞きあそばしても、  「なるほど、おっしゃる通りだ。たいそうよく考えておっしゃったことだ」  と、ますます御決心をお固めあそばして、まずは、あの弁を使者として、とりあえず事情をお伝え申し上げさせあそばすのであった。  [第八段 源氏、承諾の意向を示す]  この姫宮の御事、このようにお悩みの様子は、以前からもみなお聞きになっていらっしゃったので、  「お気の毒なことですね。そうはいっても、院の御寿命が短いといっても、わたしとてまた、どれほど生き残り申せると思ってか、姫の御後見のこと をお引き受け申すことができようか。なるほど、年の順を間違わずに、もう暫くの間長生きできたら、大体の関係からいって、どの内親王たちをも、 他人扱い申すはずもないが、またこのように特別に御心配の旨をお伺いしてしまったような方を、特別に御後見致そうと思うが、それさえも無常な 世の中の定めなさということだ」  とおっしゃって  「それにもまして、一途に頼みにして戴くような者として、お親しみ申すことは、とてもかえって、引き続いて世を去るような時がおいたわしくて、自 分自身にとっても容易ならぬ障りとなるにちがいなかろう。  中納言などは、年も若く身分も軽々しいようだが、将来性があって、人柄も、最後は朝廷のご後見をするにちがいない見込みのようなので、そち らにお考えなさって、どうして申し分ないことがあろう。  しかし、とてもたいそう生真面目で、思う人を妻にしたようなので、それに御遠慮あそばすのだろうか」  などとおっしゃって、ご自身は思ってもいないというふうなので、弁は、並々な御決定でないことを、このようにおっしゃるので、お気の毒にも、残念 にも思って、内々に御決意になった様子など、詳しく申し上げると、断ったとはいえ、やはりにっこりなさりながら、  「とても大切にかわいがっていらっしゃる内親王のようなので、ひとえに過去や将来のことを深く考えたのだろうな。ただ、帝に差し上げなさるがよ いであろう。れっきとした前からの人々がいらっしゃるということは、理由のないことである。そのことに支障の生じることではない。必ず、後から入 内するからといって、後の人が疎略にされるものでない。  故院の御時に、弘徽殿大后が、東宮の最初の女御として、威勢をふるっていらっしゃったが、はるか後に入内なさった入道宮に、暫くの間は圧倒 されなさったのだ。  この内親王の御母女御は、あの宮の御姉妹でいらっしゃったはず。器量も、その次には、おきれいな方だと言われなさった方であったから、どち らから見ても、この姫宮は並大抵の方ではいらっしゃるまいが」  などと、興味深くお思い申し上げていらっしゃるのであろう。   第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家  [第一段 歳末、女三の宮の裳着催す]  年も暮れた。朱雀院におかれては、御気分もやはり快方に向かう御様子もないので、何かと気忙しく御決心なさって、御裳着の儀式は、その御 準備なさる様子、過去にも将来にも例のないと思われるほど、盛大に大騷ぎである。  お部屋の飾り付けは、柏殿の西表に、御帳台、御几帳をはじめとして、この国の綾や錦はお加えあそばさず、唐国の皇后の装飾を想像して、端 麗で豪華に、光眩しいほどに御準備あそばした。  御腰結の役には、太政大臣を前もってお願い申し上げていらっしゃったので、物事を大げさになさる方なので、参上しにくくお思いであったが、院 のお言葉に昔から背きなさらないので、参上なさる。  もう二方の大臣たち、その他の上達部などは、やむをえない支障がある者も、無理に何とかし都合をつけて参上なさる。親王たち八人、殿上人は 言うまでもなく、内裏、東宮の人々も残らず参集して、盛大な御儀式の騷ぎである。  院の御催事も、今回が最後であろうと、帝、東宮をおはじめ申して、お気の毒にお思いあそばされて、蔵人所、納殿の舶来品を、数多く献上させ なさった。  六条院からも、御祝儀がたいそう盛大にある。数々の贈り物や、人々の禄、尊者の大臣の御引出者など、あちらの院からご献上あそばしたもの であった。  [第二段 秋好中宮、櫛を贈る]  中宮からも、御装束、櫛の箱を、特別にお作らせになって、あの昔の御髪上の道具、趣のあるように手を加えて、それでいて元の感じも失わず、 それと分かるようにして、その日の夕方、献上させなさった。中宮の権亮で、院の殿上にも伺候している人を御使者として、姫宮の御方に献上させ るべく仰せになったが、このような歌が中にあったのである。  「挿したまま昔から今に至りましたので   玉の小櫛は古くなってしまいました」  院が、御覧になって、しみじみとお思い出されることがあるのであった。あやかり物として悪くはないとお譲り申し上げなさるだが、なるほど、名誉 な櫛なので、お返事も、昔の感情はさておいて、  「あなたに引き続いて姫宮の幸福を見たいものです   千秋万歳を告げる黄楊の小櫛が古くなるまで」  とお祝い申し上げなさった。  [第三段 朱雀院、出家す]  御気分のたいそう苦しいのを我慢なさりながら、元気をお出しになって、この御儀式がすっかり終わったので、三日過ぎて、とうとう御髪をお下ろし になる。普通の身分の者でさえ、今は最後と姿が変わるのは悲しいことなので、まして、お気の毒な御様子に、御妃方もお悲しみに暮れる。  尚侍の君は、ぴったりとお側を離れずにいらして、ひどく思いつめていらっしゃるのを、慰めかねなさって、  「子を思う道には限度があるなあ。このように悲しんでいらっしゃる別れが堪え難いことよ」  といって、御決心が鈍ってしまいそうだが、無理に御脇息に寄りかかりなさって、山の座主をはじめとして、御授戒の阿闍梨三人が伺候して、法 服などをお召しになるとき、この世をお別れなさる御儀式、堪らなく悲しい。  今日は、人の世を悟りきった僧たちなどでさえ、涙を堪えかねるのだから、まして女宮たち、女御、更衣、おおぜいの男女たち、身分の上下の者 たち、皆どよめいて泣き悲しむので、何とも心が落ち着かず、こうしたふうにでなく、静かな所に、そのまま籠もろうとお心づもりなさっていた本意と 違って思われなさるのも、「ただもう、この幼い姫宮に引かれて」と仰せられる。  帝をおはじめ申して、お見舞いの多いこと、いまさら言うまでもない。  [第四段 源氏、朱雀院を見舞う]  六条院も、少し御気分がよろしいとお耳に入れあそばして、参上なさる。御下賜の御封など、みな同じように、退位された帝と同じく決まっていら っしゃったが、ほんとうの太上天皇の儀式には威勢をお張りにならない。世間の人々のお扱いや尊敬申し上げる様子などは、格別であるが、わざ と簡略になさって、例によって、仰々しくないお車にお乗りになって、上達部などのしかるべき方だけが、お車でお供なさっていた。  院におかれては、たいそうお待ちかねしてお喜び申し上げあそばして、苦しい御気分をしいて我慢なさって御対面なさる。格式ばらずに、ただ常 の御座所に新たにお席を設けて、お入れ申し上げなさる。  お変わりになった御様子を拝見なさると、過去も未来も真暗になって、悲しく涙を止めがたく思わずにはいらっしゃれないので、すぐには気持ちを お静めになれない。  「故院に先立たれ申したころから、世の中が無常に存じられずにはいられませんでしたので、この方面への決心も深くなっていましたが、心弱くて ぐずぐずしてばかりいまして、とうとうこのように拝見致すまで、遅れ申してしまいました心の怠慢を、恥ずかしく存ぜずにはいられませんなあ。  わたくし自身のこととしては、たいしたことでもあるまいと決心致しました時々もありましたが、どうしても堪えられないことが多くございましたよ」  と、心を静められないお思いでいらっしゃった。  [第五段 朱雀院と源氏、親しく語り合う]  院も、何となく心細くお思いになられて、我慢おできになれず、涙をお流しになりながら、昔、今のお話、たいそう弱々そうにお話しあそばされて、  「今日か明日かと思われながら、それでも年月を経てしまったが、つい油断して、心からの念願の一端も遂げずに終わってしまいそうなことだ、と 思い立ったのです。  こう出家しても余生がなければ、勤行の意志も果たせそうにありませんが、まずは一時なりとも、命を延ばしておいて、せめて念仏だけでもと思っ ています。何もできない身の上ですが、今まで生きながらえているのは、ただこの意志に引き留められていたと、存じられないわけではありません が、今まで仏道に励まなかった怠慢だけでも、気にかかってなりません」  とおっしゃって、考えていたことなどを、詳しく仰せになる機会に、  「内親王たちを、大勢残して行きますのが気の毒です。その中でも、他に頼んでおく人のない姫を、格別に気がかりで、どうしたものかと苦にして おります」  とおっしゃって、はっきりとは仰せにならない御様子を、お気の毒と拝し上げなさる。  [第六段 内親王の結婚の必要性を説く]  お心の中でも、何と言っても関心のある御事なので、お聞き過ごし難く思って、  「仰せのとおり、尋常の臣下の者以上に、こういうご身分の方には、内々のご後見役がいないのは、いかにも残念なことでございますね。東宮が こうしてご立派にいらっしゃいますので、まことに末世には過ぎた畏れ多い儲けの君として、天下の頼り所として仰ぎ見申し上げておりますよ。  まして、これこれのことは是非にと仰せおきなさることは、一事としていい加減に軽んじ申し上げなさるはずのことはございませんので、全然将来 のことをお悩みになることはございませんが、なるほど、物事には限りがあるので、即位なさり、世の中の政治もお心のままにお執りなるとは言っ ても、姫宮の御ためには、どれほどのはっきりとしたお力添えができるものでもございません。  総じて、内親王の御ためには、いろいろとほんとうのご後見に当たる者は、やはりしかるべき夫婦の契りを交わし、当然の役目として、お世話申 し上げる御保護者のいますのが、安心なことでございましょうが、やはり、どうしても将来にご不安が残りそうでしたら、適当な人物をお選びになっ て、内々に、しかるべきお引き受け手をお決めおきあそばすのがよいことでしょう」  と、奏上なさる。  [第七段 源氏、結婚を承諾]  「そのように考えたこともありますが、それも難しいことなのです。昔の例を聞きましても、在位中の帝の内親王でさえ、人を選んで、そのような婿 選びをなさった例は多かったのです。  ましてこのように、これが最後とこの世を離れる時になって、仰々しく思い悩むこともないのですが、また一方、世を捨てた中にも、捨て去り難いこ とがあって、いろいろと思い悩んでいましたうちに、病気は重くなってゆく。再び取り戻すことのできない月日も過ぎて行くので、気が急いてなりませ ん。  恐縮なお譲りごとなのですが、この幼い内親王、一人、特別にお目にかけ育てくださって、適当な婿をも、あなたのお考え通りにお決めくださっ て、その人にお預けくださいと申し上げたいところですが。  権中納言などが独身でいた時に、こちらから申し出るべきであった。太政大臣に先を越されて、残念に思っています」  と申し上げなさる。  「中納言の朝臣は、誠実という点では、たいそうよくお仕え致しましょうが、何事もまだ経験が浅くて、分別が足りのうございましょう。  恐れ多いことですが、真心をこめてご後見させていただきましたら、御在俗中と違ってはお思いなされないでしょうが、ただ老い先が短くて、途中 でお仕えできなくなることがございはしまいかと、懸念される点だけが、お気の毒でございます」  と言って、お引き受け申し上げなさった。  [第八段 朱雀院の饗宴]  夜に入ったので、主人の院方も、お客の上達部たちも、皆御前において、御饗応の事があり、精進料理で、格式ばらずに、風情ある感じにおさせ になっていた。院の御前に、浅香の懸盤に御鉢など、在俗の時とは違って差し上げるのを、人々は、涙をお拭いになる。しみじみとした和歌が詠ま れたが、煩わしいので書かない。  夜が更けてお帰りになる。禄の品々を、次々と御下賜される。別当の大納言もお送りに供奉申し上げなさる。主の院は、今日の雪にますますお 風邪まで召されて、御気分が悪く苦しくいらっしゃるが、この姫宮の御身の上を、御依頼し決定なさったので、御安心なさったのであった。   第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける  [第一段 源氏、結婚承諾を煩悶す]  六条院は、何となく気が重くて、あれこれと思い悩みなさる。  紫の上も、このようなご決定があったと、以前からちらっとお聞きになっていたが、  「決してそのようなことはあるまい。前斎院を熱心に言い寄っていらっしゃるようだったが、ことさら思いを遂げようとはなさらなかったのだから」  などとお思いになって、「そのようなことがあったのですか」ともお尋ね申し上げなさらず、平気な顔でいらっしゃるので、おいたわしくて、  「このことをどのようにお思いだろう。自分の心は少しも変わるはずもなく、そのことがあった場合には、かえってますます愛情が深くなることだろう が、それがお分りいただけない間は、どんなにお思い疑いなさるだろう」  などと、気がかりにお思いになる。  長の年月を経たこのごろでは、ましてお互いに心を隔て置き申し上げることもなく、しっくりしたご夫婦仲なので、一時でも心に隔てを残しているよ うなことがあるのも気が重いのだが、その晩はそのまま寝んで、夜を明かしなさった。  [第二段 源氏、紫の上に打ち明ける]  翌日、雪がちょっと降って、空模様も物思いを催し、過去のこと将来のことをお話し合いなさる。  「院がお弱りになりなさったが、お見舞いに参上して、ひどく胸を打たれることがありました。女三の宮の御身の上の事を、実に放っておきがたく 思し召されて、これこれしかじかのことを仰せになったので、お気の毒で、お断り申し上げることができなくなってしまったのを、大げさに人は言いな すだろう。  今は、そのようなことも気恥ずかしく、関心も持てなくなってきたので、人を通してそれとなく仰せになった時には、何とか逃げ申したが、対面した 時に、あわれ深い親心をおっしゃり続けたのには、すげなくご辞退申し上げることができませんでした。  深い山住み生活にお移りになるころには、こちらにお迎え申し上げることになろう。おもしろくなくお思いでしょうか。たとえどんなことがあっても、あ なたにとって、今までと変わることは決してありませんから、気にかけないでくださいよ。  あちらの方にとってこそ、お気の毒でしょう。その方も見苦しからずお世話しよう。皆が皆、穏やかにお過ごしくださったなら」  などと申し上げなさる。  ちょっとしたお浮気でさえ、目障りなとお思いなさって、心穏やかでないご性分なので、「どうお思いかしら」とお思いになると、まったく平静で、  「ほんとうにお気の毒なご依頼ですこと。わたしには、どのような快からぬ心をお抱き申しましょうか。目障りな、こうしていてなどと、咎められない ようでしたら、安心してここにいさせていただきましょうが、あちらの御母女御の御縁からいっても、仲好くしていただけるでしょうから」  と、謙遜なさるのを、  「あまり、こんなに、快くお許しくださるのも、どうしてかと、不安に思われます。ほんとうは、せめてそのように大目に見てくださって、自分もあちら の方も事情を分かりあって、穏やかに暮らしてくださるなら、一層ありがたいことです。  根も葉もない噂などをする人の話は、信じなさるな。総じて、世間の人の口というものは、誰が言い出したということもなく、自然と他人の夫婦仲な どを、事実とは違えて、意外な話が出て来るもののようですが、自分一人の心におさめて、成り行きに従うのが良い。早まって騷ぎ出して、つまら ない嫉妬をなさるな」  と、たいそう良くお教え申し上げなさる。  [第三段 紫の上の心中]  心の中でも、  「このように空から降って来たようなことなので、ご辞退できなかったのだから、恨み言は申し上げまい。ご自身気が咎めなさり、他人の諌めに従 いなさるような、当人同士の心から出た恋でない。せき止めるすべもないものだから、馬鹿らしくうち沈んでいる様子、世間の人に漏れ見せまい。  式部卿宮の大北の方が、常に呪わしそうな言葉をおっしゃっては、どうにもならない大将の御身の上の事についてまで、変に恨んだり妬んだりな さるというが、このように聞いて、どんなにかそれ見たことかと思うことだろう」  などと、おっとりしたご性分とはいえ、どうしてこの程度の邪推をなさらないことがあろうか。今はもう大丈夫とばかり、わが身の上を気位を高く持っ て、気兼ねなく過ごして来た夫婦仲が、物笑いになろうことを、心の中では思い続けなさるが、表面はとても穏やかにばかり振る舞っていらっしゃっ た。   第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う  [第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず]  年も改まった。朱雀院におかれては、姫宮が、六条院にお移りになる御準備をなさる。ご求婚申し上げなさっていた方々は、たいそう残念にお嘆 きになる。帝におかせられてもお気持ちがあって、お申し入れしていらっしゃるうちに、このような御決定をお耳にあそばして、お諦めになったのであ った。  それはそれとして実は、今年四十歳におなりになったので、その御賀のこと、朝廷でもお聞き流しなさらず、世を挙げての行事として、早くから評 判であったが、いろいろと煩わしいことが多い厳めしい儀式は、昔からお嫌いなご性分であるから、皆ご辞退申し上げなさる。  正月二十三日は、子の日なので、左大将殿の北の方が、若菜を献上なさる。前もってその様子も外に現しなさらず、とてもたいそう密かにご準備 なさっていたので、急な事で、ご意見してご辞退申し上げることもできない。内々にではあるが、あれほどのご威勢なので、ご訪問の作法など、た いそう騷ぎが格別である。  南の御殿の西の放出に御座席を設ける。屏風、壁代をはじめ、新しくすっかり取り替えられている。儀式ばって椅子などは立てず、御地敷四十 枚、御褥、脇息など、総じてその道具類は、たいそう美しく整えさせていらっしゃった。  螺鈿の御厨子二具に、御衣箱四つを置いて、夏冬の御装束。香壷、薬の箱、御硯、ゆする坏、掻上の箱などのような物を、目立たない所に善美 を尽くしていらっしゃった。御插頭の台としては、沈や、紫檀で作り、珍しい紋様を凝らし、同じ金属製品でも、色を使いこなしているのは、趣があ り、現代風で。  尚侍の君は、風雅の心が深く、才気のある方なので、目新しい形に整えなさっていたが、儀式全般のこととしては、格別に仰々しくないようにして ある。  [第二段 源氏、玉鬘と対面]  人々が参上などなさって、お座席にお出になるに当たり、尚侍の君とご対面がある。お心の中では、昔を思い出しなさることがさまざまとあったこ とであろう。  実に若々しく美しくて、このように御四十の賀などということは、数え違いではないかと、つい思われる様子で、優美で子を持つ親らしくなくいらっ しゃるのを、珍しくて、歳月を経て拝見なさるのは、とても恥ずかしい思いがするが、やはり際立った隔てもなく、お話を交わしなさる。  幼い君も、とてもかわいらしくいらっしゃる。尚侍の君は、続いて二人もお目にかけたくないとおっしゃったが、大将が、せめてこのような機会に御 覧に入れようと言って、二人同じように、振り分け髪で、無邪気な童直衣姿でいらっしゃる。  「年を取ると、自分自身では特に気にもならず、ただ昔のままの若々しい様子で、変わることもないのだが、このような孫たちができたことで、きま りの悪いまでに年を取ったことを思い知られる時もあるのですね。  中納言が早々と子をなしたというのに、仰々しく分け隔てして、まだ見せませんよ。誰より先に、私の年を数えて祝ってくださった今日の子の日 は、やはりつらく思われます。しばらくは老いを忘れてもいられたでしょうに」  と申し上げなさる。  [第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和]  尚侍の君も、すっかり立派に成熟して、貫祿まで加わって、素晴らしいご様子でいらっしゃった。  「若葉が芽ぐむ野辺の小松を引き連れて   育てて下さった元の岩根を祝う今日の子の日ですこと」  と、強いて母親らしく申し上げなさる。沈の折敷を四つ用意して、御若菜を御祝儀ばかりに献上なさった。御杯をお取りになって、  「小松原の将来のある齢にあやかって   野辺の若菜も長生きするでしょう」  などと詠み交わしなさっているうちに、上達部が大勢南の廂の間にお着きになる。  式部卿宮は、参上しにくくお思いであったが、ご招待があったのに、このように親しい間柄で、わけがあるみたいに取られるのも具合が悪いので、 日が高くなってからお渡りになった。  大将が得意顔で、このようなお間柄ゆえ、すべて取り仕切っていらっしゃるのも、いかにも癪に障ることのようであるが、御孫の君たちは、どちらか らも縁続きゆえに、骨身を惜しまず、雑用をなさっている。籠物四十枝、折櫃物四十。中納言をおはじめ申して、相当な方々ばかりが、次々に受け 取って献上なさっていた。お杯が下されて、若菜の御羹をお召し上がりになる。御前には、沈の懸盤四つ、御坏類も好ましく現代風に作られてい た。  [第四段 管弦の遊び催す]  朱雀院の御病気が、まだすっかり良くならないことによって、楽人などはお召しにならない。管楽器などは、太政大臣が、そちらの方面はお整え になって、  「世の中に、この御賀より他に立派で善美を尽くすような催しはまたとあるまい」  とおっしゃって、優れた楽器ばかりを、以前からご準備なさっていたので、内輪の方々で音楽のお遊びが催される。  それぞれ演奏する楽器の中で、和琴は、あの太政大臣が第一にご秘蔵なさっていた御琴である。このような名人が、日頃入念に弾き馴らしてい らっしゃる音色、またとないほどなので、他の人は弾きにくくなさるので、衛門督が固く辞退しているのを催促なさると、なるほど実に見事に、少しも 父親に負けないほどに弾く。  「どのようなことも、名人の後嗣と言っても、これほどにはとても継ぐことはできないものだ」と、奥ゆかしく感心なことに人々はお思いになる。それ ぞれの調子に従って、楽譜の整っている弾き方や、決まった型のある中国伝来の曲目は、かえって習い方もはっきりしているが、気分にまかせ て、ただ掻き合わせるすが掻きに、すべての楽器の音色が一つになっていくのは、見事に素晴らしく、不思議なまでに響き合う。  父大臣は、琴の緒をとても緩く張って、たいそう低い調子で調べ、余韻を多く響かせて掻き鳴らしなさる。こちらは、たいそう明るく高い調子で、親 しみのある朗らかなので、「とてもこんなにまでとは知らなかった」と、親王たちはびっくりなさる。  琴は、兵部卿宮がお弾きになる。この御琴は、宜陽殿の御物で、代々に第一の評判のあった御琴を、故院の晩年に、一品宮がお嗜みがおあり であったので、御下賜なさったのを、この御賀の善美を尽しなさろうとして、大臣が願い出て賜ったという次々の伝来をお思いになると、実にしみじ みと、昔のことが恋しくお思い出さずにはいらっしゃれない。  親王も、酔い泣きを抑えることがおできになれない。ご心中をお察しになって、琴は御前にお譲り申し上げあそばす。感興にじっとしていらっしゃれ ずに、珍しい曲目を一曲だけお弾きなさると、儀式ばった仰々しさはないけれども、この上なく素晴らしい夜のお遊びである。  唱歌の人々を御階に召して、美しい声ばかりで歌わせて、返り声に転じて行く。夜が更けて行くにつれて、楽器の調子など、親しみやすく変わっ て、「青柳」を演奏なさるころに、なるほど、ねぐらの鴬が目を覚ますに違いないほど、大変に素晴らしい。私的な催しの形式になさって、禄など、た いそう見事な物を用意なさっていた。  [第五段 暁に玉鬘帰る]  明け方に、尚侍の君はお帰りになる。御贈り物などがあるのだった。  「このように世を捨てたようにして毎日を送っていると、年月のたつのも気づかぬありさまだが、このように齢を数えて祝ってくださるにつけて、心細 い気がする。  時々は、前より年とったかどうか見比べにいらっしゃって下さいよ。このように老人の身の窮屈さから、思うままにお会いできないのも、まことに残 念だ」  などと申し上げなさって、しんみりとまた情趣深く、思い出しなさることがないでもないから、かえってちらっと顔を見せただけで、このように急いで お帰りになるのを、たいそう堪らなく残念に思わずにはいらっしゃれなかった。  尚侍の君も、実の親は親子の宿縁とお思い申し上げなさるだけで、世にも珍しく親切であったお気持ちの程を、年月とともに、このようにお身の上 が落ち着きなさったにつけても、並々ならずありがたく感謝申し上げなさるのであった。   第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁  [第一段 女三の宮、六条院に降嫁]  こうして、二月の十日過ぎに、朱雀院の姫宮、六条院へお輿入れになる。こちらの院におかれても、ご準備は並々でない。若菜を召し上がった西 の放出に御帳台を設けて、そちらの西の第一、第二の対、渡殿にかけて、女房の局々に至るまで、念入りに整え飾らせなさっていた。宮中に入内 なさる姫君の儀式に似せて、あちらの院からも御調度類が運ばれて来る。お移りになる儀式の盛大さは、今さら言うまでもない。  御供奉に、上達部などが大勢お供なさる。あの家司をお望みになった大納言も、面白らかず思いながらも供奉なさっている。お車を寄せた所に、 院がお出になって、お下ろし申し上げなさるなども、例には無いことである。  臣下でいらっしゃるので、何もかも制限があって、入内の儀式とも違うし、婿の大君と言うのとも事情が違って、珍しいご夫婦の関係である。  [第二段 結婚の儀盛大に催さる]  三日の間は、あちらの院からも、主人である院からも、盛大でまたとないほどの優雅な催しをお尽くしになる。  対の上も何かにつけて、平静ではいらっしゃれないお身の回りである。なるほど、このようなことになったからと言って、すっかりあちらに負けて影 が薄くなってしまうこともあるまいけれど、また一方でこれまで揺ぎない地位にいらしたのに、華やかでお年も若く、侮りがたい勢いでお輿入れにな ったので、何となく居心地が悪くお思いになるが、何気ないふうにばかり装って、お輿入れの時も、ご一緒に細々とした事までお世話なさって、まこ とにかいがいしいご様子を、ますます得がたい人だとお思い申し上げなさる。  姫宮は、なるほど、まだとても小さく、大人になっていらっしゃらないうえ、まことにあどけない様子で、まるきり子供でいらっしゃった。  あの紫のゆかりを探し出しなさった時をお思い出しなさると、  「あちらは気が利いていて手ごたえがあったが、こちらはまことに幼くだけお見えでいらっしゃるので、 まあ、よかろう。憎らしく強気に出ることなど もあるまい」  とお思いになる一方で、「あまり張り合いのないご様子だ」と拝見なさる。  [第三段 源氏、結婚を後悔]  三日間は、毎晩お通いになるのを、今までにこのようなことは経験がおありでないので、堪えはするが、やはり胸が痛む。お召し物などを、いっそ う念入りに香を薫きしめさせなさりながら、物思いに沈んでいらっしゃる様子は、たいそういじらしく美しい。  「どうして、どんな事情があるにもせよ、他に妻を迎える必要があったのだろうか。浮気っぽく、気弱になっていた自分の失態から、このような事も 出てきたのだ。若いけれど、中納言をお考えに入れずじまいだったようなのに」  と、自分ながら情けなくお思い続けられて、つい涙ぐんで、  「今夜だけは、無理もないこととお許しくださいな。これから後に来ない夜があったら、我ながら愛想が尽きるだろう。だが、とは言っても、あちらの 院には何とお聞きになろうやら」  と言って、思い悩んでいらっしゃるご心中、苦しそうである。少しほほ笑んで、  「ご自身のお考えでさえ、お決めになれないようですのに、ましてわたしは無理からぬことやら何やら、どちらに決められましょう」  と、取りつく島もないように話を逸らされるので、恥ずかしいまでに思われなさって、頬杖をおつきになって、寄り臥していらっしゃると、硯を引き寄 せて、  「眼のあたりに変われば変わる二人の仲でしたのに   行く末長くとあてにしていましたとは」  古歌などを書き交えていらっしゃるのを、取って御覧になって、何でもない歌であるが、いかにもと、道理に思って、  「命は尽きることがあってもしかたのないことだが   無常なこの世とは違う変わらない二人の仲なのだ」  すぐにはお出かけになれないのを、  「まこと不都合なことです」  と、お促し申し上げなさると、柔らかで優美なお召し物に、たいそうよい匂いをさせてお出かけになるのを、お見送りなさるのも、まことに平気では いられないだろう。  [第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす]  長い間には、もしかしたらと思っていたいろいろな事も、今は終わりとすっかりお絶ちになって、ではこれで大丈夫と、安心なさるようになった今頃 になって、とどのつまり、このような世間に外聞の悪い事が出て来るとは。安心できる二人の仲ではなかったのだから、これから先も不安にお思い になるのであった。  あのようにさりげなく装ってはいらっしゃるが、伺候している女房たちも、  「思いがけない事になりましたわね。大勢いらっしゃるようですが、どの方も、皆こちらのご威勢には一歩譲って遠慮なさって来たからこそ、何事も なく平穏でしたのに、誰憚らないこのようなやり方に、負けておしまいになったままではお過ごしになれまい」  「でも、それはそれとして、ちょっとした事でも、穏やかならぬことがいろいろと起こったら、きっと面倒な事が持ち上がって来ましょうよ」  などと、朋輩同士話し合って嘆いているふうなのを、少しも知らないふうに、まことに感じも優雅にお話などをなさりながら、夜が更けるまで起きて いらっしゃる。  [第五段 六条院の女たち、紫の上に同情]  このように女房たちが容易ならぬことを言ったり思ったりしているのも、聞きにくいことだとお思いになって、  「このように、だれかれと大勢いらっしゃるようですが、お気持ちにかなった、華やかな高い身分ではないと、目馴れて物足りなくお思いになってい たところに、この宮がこのようにお輿入れなさったことは、本当に結構なことです。  まだ、子供心が抜けないのでしょうか、わたしもお親しくさせていただきたいのですが、困ったことにこちらに隔て心があるかのように皆が考えよう とするのかしら。同じ程度の人とか、劣っていると思う人に対しては、黙って聞き流すわけに行かないことも、ついつい起こるものですが、恐れ多く、 お気の毒な御事情がおありらしいので、何とか親しくさせていただきたいと思っています」  などとおっしゃると、中務、中将の君などといった女房たちは、目くばせしながら、  「あまりなお心づかいですこと」  などと、きっと言っているであろう。昔は、普通の女房よりは親しく使っていらした女房たちであるが、ここ何年かはこちらの御方にお仕えして、皆 お味方申しているようである。  他の御方々からも、  「どのようなお気持ちでしょう。初めから諦めているわたしたちには、かえって平気ですが」  などと、こちらの気を引きながら、お慰め申される方もあるが、  「このように推量する人こそ、かえって厄介なこと。世の中もまことに無常なものなのに、どうしてそんなにばかり思い悩んでいよう」  などとお思いになる。  あまり遅くまで起きているのも、いつにないことと、皆が変に思うだろうと気が咎めて、お入りになったので、御衾をお掛けしたが、なるほど独り寝 の寂しい夜々を過ごしてきたのも、やはり、穏やかならぬ気持ちがするが、あの須磨のお別れの時などをお思い出しになると、  「もう最後だと、お離れになっても、ただ同じこの世に無事でいらっしゃるとお聞き申すのであったらと、自分の身の上までのことはさておいて、惜 しみ悲しく思ったことだわ。あのまま、あの騷ぎの中に、自分も殿も死んでしまったならば、お話にもならない二人の仲であったろうに」  とお思い直される。  風が吹いている夜の様子が冷やかに感じられて、急には寝つかれなされないのを、近くに伺候している女房たち、変に思いはせぬかと、身動き 一つなさらないのも、やはりまことにつらそうである。夜深いころの鶏の声が聞こえるのも、しみじみと哀れを感じさせる。  [第六段 源氏、夢に紫の上を見る]  特別に恨めしいというのではないが、このように思い乱れなさったためであろうか、あちらの御夢に現れなさったので、ふと目をお覚ましになって、 どうしたのかと胸騷ぎがなさるので、鶏の声をお待ちになっていたので、まだ夜の深いのも気づかないふりをして、急いでお帰りになる。とても子供 子供したご様子なので、乳母たちが近くに伺候していた。  妻戸を押し開けてお出になるのを、お見送り申し上げる。明け方の暗い空に、雪の光が見えてぼんやりとしている。後に残っている御匂いに、  「闇はあやなし」  とつい独り言が出る。  雪は所々に消え残っているのが、真白な庭と、すぐには見分けがつかぬほどなので、  「今も残っている雪」  とひっそりとお口ずさみなさりながら、御格子をお叩きなさるのも、長い間こうしたことがなかったのが常となって、女房たちも空寝をしては、やや お待たせ申してから、引き上げた。  「ずいぶん長かったので、身もすっかり冷えてしまったよ。お恐がり申す気持ちが並々でないからでしょう。とは言っても、別に私には罪はないの だがね」  と言って、御衾を引きのけなどなさると、少し涙に濡れた御単衣の袖を引き隠して、素直でやさしいものの、仲直りしようとはなさらないお気持ちな ど、とてもこちらが恥ずかしくなるくらい立派である。  「この上ない身分の人と申しても、これほどの人はいまい」  と、ついお比べにならずにはいられない。  いろいろと昔のことをお思い出しになりながら、なかなか機嫌を直してくださらないのをお恨み申し上げなさって、その日はお過ごしになったので、 お渡りになれず、寝殿にはお手紙を差し上げなさる。  「今朝の雪で気分を悪くして、とても苦しゅうございますので、気楽な所で休んでおります」  とある。御乳母は、  「さように申し上げました」  とだけ、口上で申し上げた。「そっけないお返事だ」とお思いになる。「院がお耳にあそばすこともおいたわしい、しばらくの間は人前を取り繕う」と お思いになるが、そうもできないので、「それは思ったとおりだった。ああ困ったことだ」と、ご自身お思い続けなさる。  女君も、「お察しのないお方だ」と、迷惑がりなさる。  [第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答]  今朝は、いつものようにこちらでお目覚めになって、宮の御方にお手紙を差し上げなさる。特別に気の張らないご様子であるが、お筆などを選ん で、白い紙に、  「わたしたちの仲を邪魔するほどではありませんが  降り乱れる今朝の淡雪にわたしの心も乱れています」  梅の枝にお付けなさった。人を呼び寄せて、  「西の渡殿から差し上げなさい」  とおっしゃる。そのまま外を見出して、端近くにいらっしゃる。白い御衣類を何枚もお召しになって、花を玩びなさりながら、「友待つ雪」がほのかに 残っている上に、雪の降りかかる空をながめていらっしゃった。鴬が初々しい声で、軒近い紅梅の梢で鳴いているのを、  「袖が匂う」  と花を手で隠して、御簾を押し上げて眺めていらっしゃる様子は、少しも、このような人の親で重い地位のお方とはお見えでなく、若々しく優美な ご様子である。  お返事が、少し暇どる感じなので、お入りになって、女君に花をお見せ申し上げなさる。  「花と言ったら、このように匂いがあってよいものだな。桜に移したら、少しも他の花を見る気はしないだろうね」  などとおっしゃる。  「この花も、多くの花に目移りしないうちに咲くから、人目を引くのであろうか。桜の花の盛りに比べてみたいものだ」  などとおっしゃっているところに、お返事がある。紅の薄様に、はっきりと包まれているので、どきりとして、ご筆跡のまことに幼稚なのを、  「しばらくの間はお見せしないでおきたいものだ。隠すというのではないが、軽々しく人に見せたら、身分柄恐れ多いことだ」  とお思いになると、お隠しになるというのもきっと気を悪くするだろうから、片端を広げていらっしゃるのを、横目で御覧になりながら、物に寄り臥し ていらっしゃった。  「頼りなくて中空に消えてしまいそうです   風に漂う春の淡雪のように」  ご筆跡は、なるほどまことに未熟で幼稚である。「これほどの年になった人は、とてもこんなではいらっしゃらないものを」と、目につくが、見ないふ りをなさって、お止めになった。  他人のことならば、「こんなに下手な」などとは、こっそり申し上げなさるにちがいないのだが、気の毒で、ただ、  「ご安心して、お思いなさい」  とだけ申し上げなさる。  [第八段 源氏、昼に宮の方に出向く]  今日は、宮の御方に昼お渡りになる。特別念入りにお化粧なさっているご様子、今初めて拝見する女房などは、宮以上に素晴らしいとお思い申 し上げることであろう。御乳母などの年とった女房たちは、  「さあ、どうでしょう。このお一方はご立派ですが、癪にさわるようなことがきっと起こることでしょう」  と、嬉しいなかにも心配する者もいるのだった。  女宮は、たいそうかわいらしげに子供っぽい様子で、お部屋飾りなどが仰々しく。堂々と整然としているが、ご自身は無心に、頼りないご様子で、 まったくお召し物に埋まって、身体もないかのように、か弱くいらっしゃる。特に恥ずかしがりもなさらず、まるで子供が人見知りしないような感じがし て、気の張らないかわいい感じでいらっしゃった。  「院の帝は、男らしく理屈っぽい方面のご学問などは、しっかりしていらっしゃらないと、世間の人は思っていたようだが、趣味の方面では、優美 で風雅なことでは、人一倍勝れていらっしゃったのに、どうして、このようにおっとりとお育てになったのだろう。とはいえ、たいそうお心にとめていら っしゃった内親王と聞いたのだが」  と思うと、何やら残念な気がするが、それもかわいいと拝見なさる。  ただ申し上げるままに、柔らかくお従いになって、お返事なども、お心に浮かんだことは、何の考えもなくお口に出されて、とても見捨てられないご 様子にお見えになる。  若いころの考えであったなら、嫌になってがっかりしたろうが、今では、世の中を人それぞれだと穏やかに考えて、  「あれやこれやといろいろな女がいるが、飛び抜けて立派な女はいないものだなあ。それぞれいろいろな特色があるものだが、はたから見れば、 まったく申し分のない方なのだ」  とお思いになると、二人一緒にいつも離れずお暮らし申して来られた年月からも、対の上のご様子がやはり立派で、「自分ながらもよく教育したも のだ」とお思いになる。一晩の間、朝の間も、恋しく気にかかって、いっそうのご愛情が増すので、「どうしてこんなに思われるのだろう」と、不吉な 予感までなさる。  [第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る]  院の帝は、その月のうちにお寺にお移りになった。こちらの院に、情のこもったお手紙を何度も差し上げなさる。姫宮の御事は言うまでもない。  気を遣って、どのように思うかなどと、遠慮なさることもなく、どうなりと、ただお心次第にお世話くださいますように、度々お申し上げなさるのであっ た。けれども、身にしみて後ろ髪引かれる思いで、幼くていらっしゃるのを御心配申し上げなさるのでもあった。  紫の上にも、お手紙が特別にあった。  「幼い人が、何のわきまえもない有様でそちらへ参っておりますが、罪もないものと大目に見ていただき、お世話ください。お心にかけてくださる はずの縁もあろうかと存じます。   捨て去ったこの世に残る子を思う心が   山に入るわたしの妨げなのです  親心の闇を晴らすことができずに申し上げるのも、愚かなことですが」  とある。殿も御覧になって、  「お気の毒なお手紙よ。謹んでお承りした旨を差し上げなさい」  とおっしゃって、お使いにも、女房を通じて、杯をさし出させなさって、何杯もお勧めになる。「お返事はどのように」などと、申し上げにくくお思いに なったが、仰々しく風流めかすべき時のことでないので、ただ心のままを書いて、  「お捨て去りになったこの世が御心配ならば   離れがたいお方を無理に離れたりなさいますな」  などというようにあったらしい。  女の装束に、細長を添えてお与えになる。ご筆跡などがとても立派なのを、院が御覧になって、万事気後れするほど立派なような所で、幼稚にお 見えになるだろうこと、まことにお気の毒に、お思いになっていた。   第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋  [第一段 源氏、朧月夜に今なお執心]  いよいよこれまでと、女御、更衣たちなど、それぞれお別れなさるのも、しみじみと悲しいことが多かった。  尚侍の君は、故后の宮がいらっしゃった二条宮にお住まいになる。姫宮の御事をおいては、この方の御事を気がかりに、院の帝もお思いになっ ていたのであった。尼になってしまおうとお思いであったが、  「そのように競って出家したのでは、後を追うようで気ぜわしいから」  と、お止めになって、だんだんと仏道の御事などをご準備おさせになる。  六条の大殿は、いとしく飽かぬ思いのままに別れてしまったお方の事なので、長年忘れがたく、  「どのような時に会えるだろう。もう一度お会いして、その当時の事もお話申し上げたい」  と、ばかりお思い続けていらっしゃったが、お互いに世間の噂も遠慮なさらねばならないご身分であるし、お気の毒に思った当時の騷動なども、お 思い出さずにはいらっしゃれないので、何事も心に秘めてお過ごしになったが、このようにのんびりとしたお身になられて、世の中を静かに御覧にな っていらっしゃるこのごろのご様子を、ますますお会いしたく、気になってならないので、あってはならないこととはお思いになりながら、通例のお見 舞いにかこつけて、心をこめた書きぶりで始終お便りを差し上げなさる。  若い者どうしの色恋めいた間柄でもないので、お返事も時に応じてやりとりなさっていらっしゃる。若いころよりも格段に何もかもそなわって、すっ かり円熟していらっしゃるご様子を御覧になるにつけても、やはり堪えがたくて、昔の中納言の君の許にも、切ない気持ちをいつもおっしゃる。  [第二段 和泉前司に手引きを依頼]  その人の兄に当たる和泉前司を招き寄せて、若々しく、昔に返って相談なさる。  「人を介してではなく、直接物越しに申し上げねばならないことがある。しかるべく申し上げご承知いただいた上で、たいそうこっそりと参上した い。  今は、そのような忍び歩きも、窮屈な身分で、並々ならず秘密のことなので、そなたも他の人にはお漏らしなさるまいと思うゆえ、お互いに安心 だ」  とおっしゃる。尚侍の君は、  「さてどうしたものだろう。世間の事が分かって来たにつけても、昔から薄情なお心を、幾度も味わわされて来た長の年月の果てに、しみじみと悲 しい御事をさしおいて、どのような昔話をお話し申し上げられようか。  なるほど、他人は漏れ聞かないようにしたところで、良心に聞かれたら恥ずかしい気がするに違いない」  と嘆息をなさりながら、やはり、会うことはできない旨だけを申し上げる。  [第三段 紫の上に虚偽を言って出かける]  「昔、逢瀬も難しかった時でさえ、お心をお通わしなさらないでもなかったものを。なるほど、ご出家なさったお方に対しては後ろ暗い気はするが、 昔なかった事でもないのだから、今になって綺麗に潔白ぶっても、立ってしまった自分の浮名は、今さらお取り消しになることができるものでもある まい」  と、お思い起こして、この信太の森の和泉前司を道案内にしてお出かけになる。女君には、  「東の院にいらっしゃる常陸の君が、このところ久しく患っていましたのに、何かと忙しさに取り紛れて、お見舞いもしなかったので、お気の毒に思 っております。昼間など、人目に立って出かけるのも不都合なので、夜の間にこっそりと、思っております。誰にもそうとは知らせまい」  と申し上げなさって、とてもたいそう改まった気持ちでいらっしゃるのを、いつもはそれほどまでにはお思いでない方を、妙だ、と御覧になって、お 思い当たりなさることもあるが、姫宮の御事の後は、どのような事も、まったく昔のようにではなく、少し隔て心がついて、見知らないようにしていら っしゃる。  [第四段 源氏、朧月夜を訪問]  その日は、寝殿へもお渡りにならず、お手紙だけを書き交わしなさる。薫物などを念入りになさって一日中お過ごしになる。  宵が過ぎるのを待って、親しい者ばかり、四、五人ほどで、網代車の、昔を思い出させる粗末なふうで、お出かけになる。和泉守を遣わして、ご挨 拶を申し上げなさる。このようにいらっしゃった旨、小声で申し上げると、驚きなさって、  「変だこと。どのようにお返事申し上げたのだろうか」  とご機嫌が悪いが、  「気を持たせるようにしてお帰し申すのは、たいそう不都合でございましょう」  と言って、無理に工夫をめぐらして、お入れ申し上げる。お見舞いの言葉などを申し上げなさって、  「ただここまでお出ください、几帳越しにでも。まったく昔のけしからぬ心などは、無くなったのですから」  と、切々と訴え申し上げなさるので、ひどく溜息をつきながらいざり出ていらっしゃった。  「案の定だ。やはり、すぐに靡くところは」  と、一方ではお思いになる。お互いに、知らないではない相手の身動きなので、感慨も浅からぬものがある。東の対だったのだ。辰巳の方の廂 の間にお座りいただいて、御障子の端だけは固くとめてあるので、  「とても若い者のような心地がしますね。あれからの年月の数をも、間違いなく数えられるほど思い続けているのに、このように知らないふりをなさ るのは、たいそう辛いことです」  とお恨み申し上げなさる。  [第五段 朧月夜と一夜を過ごす]  夜はたいそう更けて行く。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々などが、しみじみと聞こえて、ひっそりと人の少ない宮邸の中の様子を、「こうも変わってしまう 世の中だな」とお思い続けると、平中の真似ではないが、ほんとうに涙が出てしまう。昔に変わって、落ち着いて申し上げなさる一方で、「この隔て をこのままでいられようか」と、引き動かしなさる。  「長の年月を隔ててやっとお逢いできたのに   このような関があっては堰き止めがたく涙が落ちます」  女、  「涙だけは関の清水のように堰き止めがたくあふれても   お逢いする道はとっくに絶え果てました」  などとまったくお受け付けにならないが、昔をお思い出しなさると、  「誰のせいで、あのような大変なことが起こり世の騷ぎもあったのか、この自分のせいではなかったか」とお思い出しなさると、「なるほど、もう一 度会ってもいい事だ」  と、気弱におなりになるのも、もともと重々しい所がおありでなかった方で、この何年かは、あれこれと愛情の問題も分かるようになり、過去を悔 やまれて、公事につけ私事につけ、数えきれないほど物思いが重なって、とてもたいそう自重してお過ごしなさって来たのだが、昔が思い出される ご対面に、その当時の事もそう遠くない心地がして、いつまでも気強い態度をおとりになれない。  昔に変わらず、洗練されて、若々しく魅力的で、並々でない世間への遠慮も思慕も、思い乱れて、溜息がちでいらっしゃるご様子など、今初めて 逢った以上に新鮮で心が動いて、夜が明けて行くのもまことに残念に思われて、お帰りになる気もしない。  [第六段 源氏、和歌を詠み交して出る]  朝ぼらけの美しい空に、百千鳥の声がとてもうららかに囀っている。花はみな散り終わって、その後に霞のかかった梢が浅緑の木立に、「昔、藤 の宴をなさったのは、今頃の季節であったな」とお思い出される、あれからずいぶん歳月の過ぎ去った事も、その当時の事も、次から次へとしみじ みと思い出される。  中納言の君、お見送り申し上げるために、妻戸を押し開けたが、立ち戻りなさって、  「この藤の花よ。どうしてこのように美しく染め出して咲いているのか。やはり、何とも言えない風情のある色あいだな。どうして、この花蔭を離れ ることができようか」  と、どうしても帰りにくそうにためらっていらっしゃった。  築山の端からさし昇ってくる朝日の明るい光に映えて、目も眩むように美しいお姿が、年とともにこの上なくご立派におなりになったご様子など を、久し振りに拝見するのは、いよいよ世の常の人とは思われない気がするので、  「ご一緒になって、どうしてお暮らしにならなかったのだろうか。御宮仕えにも限度があって、特別のご身分になられることもなかったのに。故宮 が、万事にお心を尽くしなさって、けしからぬ世の騷ぎが起こって、軽々しいお噂まで立って、それきりになってしまったことだわ」  などと思い出される。尽きない思いが多く残っているだろうお話の終わりは、なるほど後を続けたいものであろうが、御身を、お心のままにおでき になれず、大勢の人目に触れることもたいそう恐ろしく遠慮もされるので、だんだん日が上って行くので、気がせかれて、廊の戸に御車をつけ寄せ た供人たちも、そっと催促申し上げる。  人を呼んで、あの咲きかかっている藤の花、一枝折らさせなさった。  「須磨に沈んで暮らしていたことを忘れないが   また懲りもせずにこの家の藤の花に、淵に身を投げてしまいたい」  とてもひどく思い悩んでいらっしゃって、物に寄り掛かっていらっしゃるのを、お気の毒に拝し上げる。 女君も、今さらにとても遠慮されて、いろいろ と思い乱れていらっしゃるが、藤の花は、やはり慕わしくて、  「身を投げようとおっしゃる淵も本当の淵ではないのですから   性懲りもなくそんな偽りの波に誘われたりしません」  とても若々しいお振る舞いを、ご自分ながらも良くないこととお思いになりながら、関守が固くないのに気を許してか、たいそうよく後の逢瀬を約束 してお帰りになる。  その昔も、誰にも勝ってご執心でいらっしゃったご愛情であるが、わずかの契りで終わってしまったお二人の仲なので、どうして愛情の浅いことが あろうか。  [第七段 源氏、自邸に帰る]  たいそう人目を忍んで入って来られたその寝乱れ髪の様子を待ち受けて、女君、そんなことだろうと、お悟りになっていたが、気づかないふりをし ていらっしゃる。なまじやきもちを焼いたりなどなさるよりも、お気の毒で、「どうして、このように見放していられるのだろうか」と思わずにはいらっし ゃれないので、以前よりもいっそう強い愛情を、永遠に変わらないことをお誓い申し上げなさる。  尚侍の君の御事も、他に漏らしてよいことではないが、昔のこともご存知でいらっしゃるので、ありのままではないが、  「物越しに、ほんのちょっとお会いしましたので、物足りない気が致しています。何とか人に見咎められないように秘密にして、もう一度だけでも」  と、打ち明けて申し上げなさる。軽く笑って、  「ずいぶん若返ったご様子ですこと。昔の恋を今さらむし返しなさるので、どっちつかずのよるべのないわたしには辛くて」  とおっしゃって、そうはいうものの涙ぐんでいらっしゃる目もとが、とてもおいたわしく見えるので、  「このようにご機嫌の悪いご様子が辛いことです。いっそ素直に抓るなりなさって、叱ってください。他人行儀に思うこともおっしゃらないふうには、 今までお仕向けしてこなかったのに、心外なお気持ちになってしまわれたお心ですね」  とおっしゃって、いろいろとご機嫌をお取りになるうちに、何もかも残らず白状なさってしまったようである。  宮の御方にも、すぐにはお行きになることができずに、あれこれとおなだめ申してお過ごしになる。姫宮は、何ともお思いにならないが、ご後見人 たちはご不満申し上げてるのであった。うるさいお方と思われなさるようなことであったら、あちらもこちら以上にお気の毒なはずだが、おっとりとし てかわいらしいお相手のようにお思い申し上げていらっしゃった。   第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感  [第一段 明石姫君、懐妊して退出]  桐壷の御方は、ずっと長いこと退出なさっていない。御暇が出そうにもないので、今までお気楽に過ごして来られたお若い年頃の方ゆえ、とても 辛くばかり思っていらっしゃった。  夏のころ、ご気分がすぐれなくいらっしゃったのを、すぐにもお許し申し上げなさらないので、とても困ったこことお思いになる。ご懐妊のご様子だっ たのである。まだとても若すぎるご様子なので、たいそう恐ろしいことと、どなたもどなたもお思いのようである。やっとのことでご退出なさった。  姫宮がいらっしゃる寝殿の東側に、お部屋は設営してある。明石の御方、今は女御の御方に付き添って、参内し退出なさるのも、申し分ないご運 勢である。  [第二段 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る]  対の上が、こちらにおいでになって、お会いなさるついでに、  「姫宮にも、中の戸を開けてご挨拶申し上げましょう。前々からそのように思っていましたが、機会がなくては遠慮されますが、このような機会に ご挨拶申し上げ、お近づきになれましたら、気が楽になるでしょう」  と、大殿に申し上げると、ほほ笑んで、  「それは望みどおりのお付き合いというものだ。とても子供子供していらっしゃるようだから、心配のないようにお教え上げてください」  と、お許し申し上げなさる。姫宮よりも、明石の君が気の張る様子で控えているだろうことをお思いになると、御髪を洗い身づくろいしていらっしゃ る、世にまたとあるまいとお見えになった。  大殿は、宮の御方においでになって、  「夕方、あちらの対にいます人が、淑景舎の御方にお目にかかろう出て参ります。その機会に、お近づき申し上げたいように申しておりますような ので、お許しになって会ってください。気立てなどはとてもよい方です。まだ若々しくて、お遊び相手として不似合いでなく思われます」  などと、申し上げなさる。  「さぞきまりの悪いことでしょうね。何をお話し申し上げたらよいのでしょう」  と、おっとりとおっしゃる。  「お返事は、あちらの言うことに応じて考えつかれるのがよいでしょう。他人行儀なおあしらいはなさいますな」  と、こまごまとお教え申し上げなさる。「二人が仲好くきちんとお暮らしになって欲しい」とお思いになる。  あまりに無邪気なご様子を見られてしまっても、きまり悪く面白くないが、あのようにおっしゃるお気持ちを、「止めだてするのも感心しない」と、お 思いになるのであった。  [第三段 紫の上の手習い歌]  対の上におかれては、このようにご挨拶にお出向きなさるものの、  「自分より上の人があるだろうか。わが身の頼りない身の上を、見出され申しただけのことなのだわ」  などと、つい思い続けずにはいらっしゃれなくて、物思いに沈んでいらっしゃる。手習いなどをするにも、自然と古歌も、物思いの歌だけが筆先に 出てくるので、「それでは、わたしには思い悩むことがあったのだわ」と、自分ながら気づかされる。  院、お渡りになって、宮、女御の君などのご様子などを、「かわいらしくていらっしゃるものだ」と、それぞれを拝見なさったそのお目で御覧になる と、長年連れ添っていらした人が、世間並の器量であったなら、とてもこうも驚くはずもないのに、「やはり、二人といない方だ」と御覧になる。世間 にありそうもないお美しさである。  どこからどこまでも、気品高く立派に整っていらっしゃる上に、はなやかに現代風で、照り映えるような美しさと優雅さとを、何もかも兼ね備え、素 晴らしい女盛りにお見えになる。去年より今年が素晴らしく、昨日よりは今日が目新しく、いつも新鮮なご様子でいらっしゃるのを、「どうしてこんな にも美しく生まれつかれたのか」とお思いになる。  気を許してお書きになった御手習いを、硯の下にさし隠しなさっていたが、見つけなさって、繰り返して御覧になる。筆跡などの、特別に上手とも 見えないが、行き届いてかわいらしい感じにお書きになっていた。  「身近に秋が来たのかしら、見ているうちに   青葉の山のあなたも心の色が変わってきたことです」  とある所に、目をお止めになって、  「水鳥の青い羽のわたしの心の色は変わらないのに   萩の下葉のあなたの様子は変わっています」  などと書き加えながら手習いに心をやりなさる。何かにつけて、おいたわしいご様子が、自然に漏れて見えるのを、何でもないふうに隠していらっ しゃるのも、またと得がたい殊勝な方だと思わずにはいらっしゃれない。  今夜は、どちらの方にも行かなくてよさそうなので、あの忍び所に、実にどうしようもなくて、お出かけになるのであった。「とんでもないけしからぬ 事」と、ひどく自制なさるのだが、どうすることもできないのであった。  [第四段 紫の上、女三の宮と対面]  東宮の御方は、実の母君よりも、この御方を親しいお方と思ってお頼り申し上げていらっしゃった。たいそうかわいらしげに一段と大人らしくおなり になったのを、実の子のように、いとしいとお思い申し上げなさる。  お話などを、とてもうちとけてお互いに話し合われてから、中の戸を開けて、宮にもお会いになった。  ただもう子供っぽくばかりお見えになるので、気安く感じられて、年輩者らしく母親のような態度で、親たちのお血筋をお話し申し上げなさる。中納 言の乳母という人を召し出して、  「同じ血筋の繋がりをお尋ね申し上げてゆくと、恐れ多いことですが、切っても切れない御縁とは拝し上げながら、その機会もなく失礼致しており ましたが、今からはお心おきなく、あちらの方にもおいでくださって、行き届かない点がありましたら、ご注意くださるなどしていただけましたら、嬉し ゅうございましょう」  などとおっしゃると、  「頼みとなさっていた方々に、それぞれお別れ申されて、心細そうでいらっしゃいますので、このようなお言葉を戴きますと、この上なくありがたく 存じられます。御出家あそばされた院の上の御意向も、ただこのように他人扱いなさらずに、まだ子供っぽいご様子を、お育て申し上げて戴きたく ございましたようでした。内々の話にも、そのようにお頼み申していらっしゃいました」  などと申し上げる。  「まことに恐れ多いお手紙を頂戴してから後は、是非にお力になりたいとばかり存じておりましたが、何事につけても、人数に入らない我が身が 残念に思われます」  と、穏やかに大人びた様子で、宮にも、お気に入りなさるように、絵などのこと、お人形遊びの楽しいことを、若々しく申し上げなさるので、「なるほ ど、ほんとうに若々しく気立てのよい方だわ」と、子供心にうちとけなさった。  [第五段 世間の噂、静まる]  それから後は、いつもお手紙のやりとりなどをなさって、おもしろい遊び事がある折につけても、別け隔てせずお便りをやりとりなさる。世の中の人 も、おせっかいなことに、これほどの地位になった方々のことは、とかく噂したがるものなので、初めのうちは、  「対の上は、どのようにお思いだろう。ご寵愛は、とても今までのようにはおありであるまい。少しは落ちるだろう」  などと言っていたが、以前よりも深い愛情、こうなってから一段と勝った様子なので、それにつけても、また事ありげに言う人々もいたが、このよう に仲睦まじいまでに交際なさっているので、噂も変わって、無難におさまっていたのである。   第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う  [第一段 紫の上、薬師仏供養]  神無月に、対の上は、院の四十の御賀のために、嵯峨野の御堂で、薬師仏をご供養申し上げなさる。盛大になることは、切にご禁じ申されてい たので、目立たないようにとお考えになっていた。  仏像、経箱、帙簀の整っていること、真の極楽のように思われる。最勝王経、金剛般若経、寿命経など、たいそう盛大なお祈りである。上達部が たいへん大勢参上なさった。  御堂の様子、素晴らしく何とも言いようがなく、紅葉の蔭を分けて行く野辺の辺りから始まって、見頃の景色なので、半ばはそれで競ってお集ま りになったのであろう。  一面に霜枯れしている野原のまにまに、馬や牛車が行き違う音がしきりに響いていた。御誦経を、我も我もと御方々がご立派におさせになる。  [第二段 精進落としの宴]  二十三日を御精進落しの日として、こちらの院は、このように隙間もなく大勢集っていらっしゃるので、ご自分の私的邸宅とお思いの二条院で、そ のご用意をおさせになる。ご装束をはじめとして、一般の事柄もすべてこちらでばかりなさる。他の御方々も適当な事を分担しいしい、進んでお仕え なさる。  東西の対は、女房たちの局にしていたのを片付けて、殿上人、諸大夫、院司、下人までの饗応の席を、盛大に設けさせなさっている。  寝殿の放出を例のように飾って、螺鈿の椅子を立ててある。  御殿の西の間に、ご衣装の机を十二立てて、夏冬のご衣装、御夜具など、しきたりによって、紫の綾の覆いの数々が整然と掛けられていて、中 の様子ははっきりしない。  御前に置物の机を二脚、唐の地の裾濃の覆いをしてある。挿頭の台は沈の花足、黄金の鳥が、銀の枝に止まっている工夫など、淑景舎のご担 当で、明石の御方がお作らせになったものだが、趣味深くて格別である。  背後の御屏風の四帖は、式部卿宮がお作らせになったものであった。たいそう善美を尽くして、おきまりの四季の絵であるが、目新しい山水、潭 など、見なれず興味深い。北の壁に沿って、置物の御厨子、二具立てて、御調度類はしきたりどおりである。  南の廂の間に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をおはじめ申して、ましてそれ以下の人々で参上なさらない人はいない。舞台の左右に、楽人の 平張りを作り、東西に屯食を八十具、禄の唐櫃を四十ずつ続けて立ててある。  [第三段 舞楽を演奏す]  未の刻ごろに楽人が参る。「万歳楽」、「皇じょう」などを舞って、日が暮れるころ、高麗楽の乱声をして、「落蹲」が舞い出たところは、やはり常に は見ない舞の様子なので、舞い終わるころに、権中納言や、衛門督が庭に下りて、「入綾」を少し舞って、紅葉の蔭に入ったその後の気持ちは、い つまでも面白いとご一同お思いである。  昔の朱雀院の行幸に、「青海波」が見事であった夕べ、お思い出しになる方々は、権中納言と、衛門督とが、また負けず跡をお継ぎになっていら っしゃるのが、代々の世評や様子、器量、態度なども少しも負けず、官位は少し昇進さえしていらっしゃるなどと、年齢まで数えて、「やはり、前世 の因縁で、昔からこのように代々並び合うご両家の間柄なのだ」と、素晴らしく思う。  主人の院も、しみじみと涙ぐんで、自然と思い出される事柄が多かった。  [第四段 宴の後の寂寥]  夜に入って、楽人たちが退出する。北の対の政所の別当連中は、下男どもを引き連れて、禄の唐櫃の側に立って、一つずつ取り出して、順々に 与えなさる。白い衣類をそれぞれが肩に懸けて、築山の側から池の堤を通り過ぎて行くのを横から眺めると、千歳の寿をもって遊ぶ鶴の白い毛衣 に見間違えるほどである。  管弦の御遊びが始まって、これもまた素晴らしい。御琴類は、東宮から御準備あそばしたものであった。朱雀院からお譲りのあった琵琶、琴。帝 から頂戴なさった箏の御琴など、すべて昔を思い出させる音色で、久しぶりに合奏なさると、どの演奏の時にも、昔のご様子や、宮中あたりのこと などが自然とお思い出される。  「亡き入道の宮が生きていらっしゃったら、このような御賀など、自分が進んでお仕え申したであろうに。何をすることによって、わたしの気持ちを 分かって戴けただろうか」  と、ただただ恨めしく残念にばかりお思い申し上げなさる。  帝におかせられても、亡き母宮のおいであそばさないことを、何事につけても張り合いがなく物足りなくお思いなされるので、せめてこの院の御賀 の事だけでも、きまったとおりの礼儀を十分に尽くしてさし上げることができないのを、何かにつけ常に物足りないお気持ちでいらっしゃるので、今 年はこの四十の御賀にかこつけて、行幸などもあるようにお考えでいらっしゃったが、  「世の中の迷惑になるようなことは、絶対になさらぬように」  とご辞退申し上げなさること、再々になったので、残念ながらお思い止まりなさった。  [第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷]  十二月の二十日過ぎのころに、中宮が御退出あそばして、今年の残りの御祈祷に、奈良の京の七大寺に、御誦経のため、布を四千反、この平 安京の四十寺に、絹を四百疋分けてお納めあそばす。  ありがたいお世話をご存知でありながら、どのような機会にか、深い感謝の気持ちを表して御覧に入れようとお思いなさって、父宮と、母御息所と がご存命ならばきっとして差し上げただろう感謝の気持ちも添えてお思いになったのだが、このように無理に、帝に対してもご辞退申し上げていらっ しゃっるので、ご計画の多くを中止なさった。  「四十の賀ということは、先例を聞きましても、残りの寿命が長い例が少なかったが、今回は、やはり、世間の騷ぎになることをお止めあそばし て、ほんとうに後に寿命を保った時に祝ってください」  とあったが、公的催しとなって、やはりたいそう盛大になったのであった。  [第六段 中宮主催の饗宴]  宮のいらっしゃる町の寝殿に、御準備などをして、前のと特に変わらず、上達部の禄など、大饗に準じて、親王たちには特に女装束、非参議の四 位、廷臣たちなどの、普通の殿上人には、白い細長を一襲と、腰差などまで、次々とお与えになる。  装束はこの上なく善美を尽くして、有名な帯や、御佩刀など、故前坊のお形見として御相続なさっているのも、また感慨に堪えないことである。古 来第一の宝物として有名な物は、すべて集まって参るような御賀のようである。昔物語にも、引出物を与えることを、たいしたこととして一つ一つ数 え上げているようであるが、これはとても煩わしいので、ご立派な方々のご贈答の数々は、とても数え上げることができない。  [第七段 勅命による夕霧の饗宴]  帝におかせられては、お思い立ちあそばした事柄を、やすやすとは中止できまいとお思いになって、中納言に御依頼あそばした。そのころの右大 将が、病気になって職をお退きになったので、この中納言に、御賀に際して喜びを加えてやろうとお思いあそばして、急に右大将におさせあそばし た。  院もお礼申し上げなさるものの、  「とても、このような、急に身に余る昇進は、早すぎる気が致します」  とご謙遜申し上げなさる。  丑寅の町に、ご準備を整えなさって、目立たないようになさったが、今日は、やはり儀式の様子も格別で、あちらこちらでの饗応なども、内蔵寮 や、穀倉院から、ご奉仕させなさっていた。  屯食などは、公式的な作り方で、頭中将が宣旨を承って、親王たち五人、左右の大臣、大納言が二人、中納言が三人、参議が五人で、殿上人 は、例によって、内裏のも、東宮のも、院のも、残る人は少ない。  お座席、ご調度類などは、太政大臣が詳細に勅旨を承って、ご準備なさっていた。今日は、勅命があって、いらっしゃっていた。院も、たいそう恐 縮申されて、お座席にご着席になった。  母屋のお座席に向かい合って、大臣のお座席がある。たいそう美々しく堂々と太って、この大臣は、今が盛りの威厳があるようにお見えである。  主人の院は、今もなお若々しい源氏の君とお見えである。御屏風四帖に、帝が御自身でお書きあそばした唐の綾の薄毯の地に、下絵の様子な ど、尋常一様であるはずがない。美しい春秋の作り絵などよりも、この御屏風のお筆の跡の輝く様子は、目も眩む思いがし、御宸筆と思うせいでい っそう素晴らしかったのであった。  置物の御厨子、絃楽器、管楽器など、蔵人所から頂戴なさった。右大将のご威勢も、たいそう堂々たる者におなりになったので、それも加わっ て、今日の儀式はまことに格別である。御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人が、上の者から順々に馬を引き並べるうちに、日がすっかり暮れ た。  [第八段 舞楽を演奏す]  例によって、「万歳楽」「賀皇恩」などという舞、形ばかり舞って、太政大臣がおいでになっているので、珍しく湧き立った管弦の御遊に、参会者一 同、熱中して演奏していらっしゃった。琵琶は、例によって兵部卿宮、どのような事でも世にも稀な名人でいらっしゃって、二人といない出来である。 院の御前に琴の御琴。太政大臣、和琴をお弾きになる。  長年幾度となくお聞きになってきたお耳のせいか、まことに優美にしみじみと感慨深くお感じになって、ご自身の琴の秘術も少しもお隠しになら ず、素晴らしい音色を奏でる。  昔のお話なども出てきて、今は今で、このような親しいお間柄で、どちらからいっても、仲よくお付き合いなさるはずの親しいご交際などを、気持ち よくお話し申されて、お杯を幾度もお傾けになって、音楽の感興も増す一方で、酔いの余りの感涙を抑えかねていらっしゃる。  御贈り物として見事な和琴を一つ、お好きでいらっしゃる高麗笛を加えて。紫檀の箱一具に、唐の手本とわが国の草仮名の手本などを入れて。 お車まで追いかけて差し上げなさる。御馬を受け取って、右馬寮の官人たちが、高麗の楽を演奏して、大声を上げる。六衛府の官人の禄など、大 将がお与えになる。  ご意向から簡素になさって、仰々しいことは、今回はご中止なさったが、帝、東宮、一の院、后の宮、次から次へと御縁者の堂々たることは、筆 舌に尽くしがたいことなので、やはりこのような晴れの賀宴の折には、素晴らしく思われるのであった。  [第九段 饗宴の後の感懐]  大将が、ただ一人りいらっしゃるのを、物足りなく張り合いのない感じがしたが、大勢の人々に抜きん出て、評判も格別で、人柄も並ぶ者がない ように優れていらっしゃるにつけても、あの母北の方が、伊勢の御息所との確執が深く、互いに争いなさったご運命の結果が現れたのが、それぞ れの違いだったのである。  その当日のご装束類は、こちらの御方がご用意なさったのであった。禄などの一通りのことは、三条の北の方がご準備なさったようであった。何 かの折節につけたお催し事、内輪の善美事をも、こちらはただ他所事とばかり聞き過していらっしゃるので、どのような事をして、このような堂々た る方々のお仲間入りなされようかと、お思いであったのだが、大将の君のご縁で、まことに立派に重んじられていらっしゃった。   第十章 明石の物語 男御子誕生  [第一段 明石女御、産期近づく]  年が改まった。桐壷の御方の御出産が近づきなさったことによって、正月上旬から、御修法を不断におさせになる。多くの寺々、神社神社の御祈 祷は、これまた数えきれないほどである。大殿の君は、不吉なことをご経験なさったことがあるので、このような時のことは、たいそう恐ろしいものと 心底から思っていらっしゃるので、対の上などがそのようなことがおありでなかったのは、残念に物足りなく思うものの、一方では嬉しく思わずには いらっしゃれないので、まだとてもお小さいお年頃なので、どんなことにおなりかと、前々からご心配であったが、二月ごろから、妙にご容態が変わ ってお苦しみなさるので、どなたもご心痛のようである。  陰陽師たちも、お住まいを変えてお大事になさるのがよいと申したので、他のかけ離れた所は気がかりであると思って、あの明石の御町の中の 対にお移し申し上げなさる。こちらは、ただ大きい対の屋が二棟だけあって、幾つもの渡廊などが周囲を廻っていたが、御修法の壇を隙間なく塗り 固めて、たいそう霊験ある修験者たちが集まって、大声を上げて祈願する。  母君は、この時に自分の御運もはっきりするだろうことなので、たいそう気が気でない思いでいらっしゃる。  [第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る]  あの大尼君も、今ではすっかりもうろくした人になったのであろう。このご様子を拝見するのは、夢のような心地がして、早速お側に上がり、親しく お付き添い申す。  今まで、この母君はこのようにお付き添いなさっていたが、昔のことなどは、まともにお聞かせ申し上げなかったが、この尼君、喜びを抑えること ができず、参上しては、たいそう涙っぽく、大昔のことどもを震え声を出しては度々お話し申し上げる。  初めのころは、妙にうるさい人だと、じっと顔を見つめていらっしゃったが、このような人がいるという程度には、うすうす聞いていらっしゃったので、 やさしくお相手なさっていた。  お生まれになったころのこと、大殿の君があの浦にいらっしゃった様子、  「もうお別れとばかり都へ上京なさった時、皆が皆、気が動転して、これが最後と、これだけの御縁であったのだと嘆いていましたが、若君がお生 まれになってお助けくださった御運が、ほんとうに身にしみて感じられますこと」  とぼろぼろと涙をこぼして泣くので、  「なるほど、大変であった当時のことを、このように聞かせてくださらなかったら、知らずに過ごしてしまったにちがいないことだわ」  とお思いになって、涙をお漏らしになる。心の中では、  「わが身は、なるほど大きな顔をして栄華をきわめるような身分ではなかったのに、対の上のご養育のお蔭で立派になって、世間の人の思惑な ども、悪くはなかったのだわ。傍輩の女御更衣たちをまったく問題にもせず、すっかり思い上がっていたものだわ。世間の人は、蔭で噂することもあ ったであろうよ」  などと、すっかりお分りになった。  母君を、もともとこのように少し身分が低い家柄とは知っていたが、お生まれになったときの状況などを、あのような都から遠く離れた田舎だなど とはご存知なかったのである。実にあまりにおっとりし過ぎていらっしゃるせいであろう。変に頼りないお話であったこと。  あの入道が、今では仙人のように、とてもこの世ではないような暮らしぶりでいるとの話をお聞きになるにつけても、お気の毒ななどと、あれやこ れやとお心をお痛めになった。  [第三段 明石御方、母尼君をたしなめる]  たいそう物思いに沈んでいらっしゃるところに、御方がお上がりになって、日中の御加持に、あちらこちらから参まって来て、大声を立てて祈祷し ていたが、御前に特に女房たちも伺候していず、尼君、得意顔にたいそう身近にお付きしていらっしゃる。  「まあ、見苦しいこと。短い御几帳をお側に置いてこそ、お付きなさいませ。風などが強くて、自然と隙間もできましょうに。医師のようにして。ほん とうに盛りを過ぎていらっしゃること」  などと、はらはらしていらっしゃった。十分気を付けて振る舞っていると、思っているらしいけれども、老いぼれて耳もよく聞こえなかったので、「あ あ」と、首をかしげていた。  実際、そう言うほどの年齢でもない。六十五、六歳ぐらいである。尼姿、たいそうこざっぱりと、気品がある様子で、目がきらきらと涙で泣きはらし た様子が、妙に昔を思い出しているようなので、胸がどきりとして、  「古めかしいわけのわからないお話でも、ございましたのでしょう。よく、この世にはありそうもない記憶違いのことを交えては、妙な昔話もあれこ れとお話し申し上げたことでしょうよ。夢のような心地がします」  と、ちょっと苦笑して拝見なさると、たいそう優雅でお美しくて、いつもよりひどく落ち着いていらして、物思いに沈んでいるようにお見えになる。自 分が生んだ子ともお見えにならないほど、恐れ多い方なので、  「お気の毒なことを申し上げなさったので、お悩みになっていらっしゃるのだろうか。もうこれ以上ない最高のお地位におつきになった時に、お話し 申し上げようと思っていたのに、残念にも自信をおなくしになる程のことではないが、さぞやお気の毒にがっかりしていられることだろう」  とご心配なさる。  [第四段 明石女三代の和歌唱和]  御加持が終わって退出したので、果物など近くにさし上げ、「せめてこれだけでもお召し上がりください」と、たいそうおいたわしく思い申し上げなさ る。  尼君は、とても立派でかわいらしいと拝見するにつけても、涙を止めることができない。顔は笑って、口もとなどはみっともなく広がっているが、目 のあたりは涙に濡れて、泣き顔していた。  「まあ、みっともない」  と、目くばせするが、かまいつけない。  「長生きした甲斐があると嬉し涙に泣いているからと言って   誰が出家した老人のわたしを咎めたりしましょうか  昔の時代にも、このような老人は、大目に見てもらえるものでございます」  と申し上げる。御硯箱にある紙に、  「泣いていらっしゃる尼君に道案内しいただいて   訪ねてみたいものです、生まれ故郷の浜辺を」  御方も我慢なされずに、つい泣いておしまいになった。  「出家して明石の浦に住んでいる父入道も   子を思う心の闇は晴れることもないでしょう」  などと申し上げて、涙をお隠しになる。別れたという暁のことを、少しも覚えていらっしゃらないのを、「残念なことだった」とお思いになる。  [第五段 三月十日過ぎに男御子誕生]  三月の十何日のころに、無事にお生まれになった。前々は仰々しく大騒ぎしていたのだが、ひどくお苦しみになることもなくて、男の御子でさえい らっしゃったので、際限もなく望みどおりだったので、大殿もご安心なさった。  こちらは裏側に当たっていて、端近な所であるが、盛大な御産養などがひき続き、騷ぎの仰々しい様子は、なるほど「価値ある浦」と、尼君のた めには見えたが、威儀も整わないようなので、お移りになることになる。  対の上もいらっしゃった。白い御装束をお着けになって、まるで親のようにして、若宮をしっかりと抱いていらっしゃる様子、たいそう素晴らしい。ご 自身ではこのようなことはご経験もないし、他人のことでも御覧になったことがないので、とても珍しくかわいいとお思い申し上げていらっしゃった。 まだお扱いにくそうでいらっしゃる時なのを、しじゅうお抱きになっていらっしゃるので、実の祖母君は、ただお任せ申して、お湯殿のお世話などをな さる。  東宮の宣旨である典侍がお湯殿に奉仕する。御迎湯の役を、ご自身がなさるのも大変に胸をうつことで、内々の事情も少しは知っているので、   「少しでも欠点があれば、お気の毒であったろうに、驚くほど気品があり、なるほど、このような前世からの約束事があったお方なのだわ」  と拝見する。この時の儀式の様子などを、そっくりそのまま語り伝えるのも、まったく今さららしく思われるよ。  [第六段 帝の七夜の産養]  六日目という日に、いつもの御殿にお移りになった。七日の夜に、内裏からも御産養がある。  朱雀院が、このように御出家あそばされいるお代わりであろうか、蔵人所から、頭弁が、宣旨を承って、例のないほど立派にご奉仕した。禄の衣 装など、また中宮の御方からも、公事のきまり以上に、盛大におさせあそばす。次々の親王方、大臣の家々、その当時のもっぱらの仕事にして、 われもわれもと、善美を尽くしてご奉仕なさる。  大殿の君も、この時の儀式はいつものように簡略になさらずに、世に例のないほど大仰な騷ぎで、内輪の優美で繊細な優雅さの、そのままお伝 えしなければならない点は、目も止まらずに終わってしまったのであった。大殿の君も、若宮をすぐにお抱き申し上げなさって、  「大将が大勢子供を儲けているそうだが、今まで見せないのが恨めしいが、このようにかわいらしい子をお授かり申したことよ」  と、おかわいがり申し上げなさるのは、無理もないことであるよ。  日に日に、物を引き伸ばすようご成長なさっていく。御乳母など、気心の知れないのは急いでお召しにならず、伺候している者の中から、家柄、 嗜みのある人ばかりを選んで、お仕えさせなさる。  [第七段 紫の上と明石御方の仲]  御方のお心構えが、気が利いていて気品があって、おっとりしているものの、しかるべき時には謙遜して、小憎らしくわがもの顔に振る舞ったりし ないことなどを、誉めない人はいない。  対の上は、改まった形というのではないが、時々お会いなさって、あれほど許せないと思っていらっしゃったが、今では、若宮のお蔭で、たいそう 仲好く、大切な方と思うようにおなりになっていた。子供をおかわいがりになるご性格で、天児などを、ご自身でお作りになり忙しそうにしていらっし ゃるのも、たいそう若々しい。毎日このお世話で日を暮していらっしゃる。  あの年寄の尼君は、若君をゆっくりと拝見できないことを、残念に思っているのであった。なまじ拝見したために、またお目にかかりたく思って、死 Last updated 4/13/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    若菜下 光る源氏の准太上天皇時代四十一歳三月から四十七歳十二月までの物語 第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後 1.六条院の競射---もっともだとは思うけれども、「いまいましい言い方だな 2.柏木、女三の宮の猫を預る---弘徽殿女御の御方に参上して、お話などを申し上げて心を紛らわそうとしてみる 3.柏木、真木柱姫君には無関心---左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも 4.真木柱、兵部卿宮と結婚---蛍兵部卿宮は、やはり独身生活でいらっしゃって、熱心にお望みになった 5.兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活---宮は、お亡くなりになった北の方を、それ以来ずっと恋い 第二章 光る源氏の物語 住吉参詣 1.冷泉帝の退位---これという事もなくて、年月が過ぎて行き、今上の帝 2.六条院の女方の動静---姫宮の御事は、帝が、御配慮になってお気をつけて 3.源氏、住吉に参詣---住吉の神に懸けた御願、そろそろ果たそうとなさって 4.住吉参詣の一行---上達部も、大臣お二方をお除き申しては 5.住吉社頭の東遊び---十月の二十日なので、社の玉垣に這う葛も色が変わって 6.源氏、往時を回想---大殿、昔の事が思い出されて、ひところご辛労なさった 7.終夜、神楽を奏す---一晩中神楽を奏して夜をお明かしなさる。二十日の月が 8.明石一族の幸い---夜がほのぼのと明けて行くと、霜はいよいよ深く、本方と末方とが 第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画 1.女三の宮と紫の上---入道の帝は、仏道に御専心あそばして 2.花散里と玉鬘---夏の御方は、このようなあれこれのお孫たちのお世話を 3.朱雀院の五十賀の計画---朱雀院が、「今はすっかり死期が近づいた心地がして 4.女三の宮に琴を伝授---姫宮は、もともと琴の御琴をお習いであったが 5.明石女御、懐妊して里下り---女御の君にも、対の上にも、琴の琴はお習わせ 6.朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定---朱雀院の五十の御賀は、まず今上の帝のあそばす 第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽 1.六条院の女楽---正月二十日ほどなので、空模様もうららかで 2.孫君たちと夕霧を召す---廂の中の御障子を取り外して、あちらとこちらと 3.夕霧、箏を調絃す---大将は、とてもたいそう緊張して、御前での 4.女四人による合奏---それぞれのお琴の調絃が終わって、合奏なさる 5.女四人を花に喩える---月の出が遅いころなので、灯籠をあちらこちらに懸けて 6.夕霧の感想---この方もあの方も、とりすましたご様子を 第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論 1.音楽の春秋論---夜が更けて行く様子、冷え冷えとした感じがする。臥待の月が 2.琴の論---「何事も、その道その道の稽古をすれば 3.源氏、葛城を謡う---女御の君は、箏の御琴を、紫の上にお譲り申し上げて 4.女楽終了、禄を賜う---この若君たちが、とてもかわいらしく笛を吹き立てて、一生懸命になっているのを 5.夕霧、わが妻を比較して思う---大将殿は、若君たちをお車に乗せて、月の澄んだ中を 第六章 紫の上の物語 出家願望と発病 1.源氏、紫の上と語る---院は、対へお渡りになった。紫の上は、お残りになって 2.紫の上、三十七歳の厄年---こういった音楽の方面のことも、今はまた年輩者らしく 3.源氏、半生を語る---「わたしは、幼い時から、人とは違ったふうに 4.源氏、関わった女方を語る---「多くは知らないが、人柄が、それぞれに 5.紫の上、発病す---対の上のもとでは、いつものようにいらっしゃらない夜は、遅くまで起きていらして 6.朱雀院の五十賀、延期される---女御の御方からお便りがあったので 7.紫の上、二条院に転地療養---同じような状態で、二月も過ぎた 8.明石女御、看護のため里下り---女御の君もお渡りになって、ご一緒に 第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語 1.柏木、女二の宮と結婚---そうであったよ、衛門督は、中納言になったのだ 2.柏木、小侍従を語らう---こうして、院も離れていらっしゃる時、人目が少なく 3.小侍従、手引きを承諾---「まあ、何と、聞きにくいことを。あまり大げさな物の言い方を 4.小侍従、柏木を導き入れる---どうなのか、どうなのかと、毎日催促され困って 5.柏木、女三の宮をかき抱く---宮は、無心にお寝みになっていらっしゃったが 6.柏木、猫の夢を見る---はたから想像すると威厳があって、馴れ馴れしく 7.きぬぎぬの別れ---夜が明けてゆく様子であるが、帰って行く気にもなれず、かえって逢わないほうがましであったほどである 8.柏木と女三の宮の罪の恐れ---女宮のお側にもお帰りにならないで、大殿へ 9.柏木と女二の宮の夫婦仲---督の君は、宮以上に、かえって苦しさがまさって 第八章 紫の上の物語 死と蘇生 1.紫の上、絶命す---大殿の君は、たまたまお渡りになって 2.六条御息所の死霊出現---ひどく調伏されて、「他の人は皆去りなさい。院お一人方のお耳に 3.紫の上、死去の噂流れる---このようにお亡くなりになったという噂が、世間に 4.紫の上、蘇生後に五戒を受く---このように生き返りなさった後は、恐ろしくお思いになって 5.紫の上、小康を得る---五月などは、これまで以上に、晴々しくない空模様で 第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見 1.女三の宮懐妊す---姫宮は、わけの分からなかった出来事をお嘆きになって以来 2.源氏、紫の上と和歌を唱和す---池はとても涼しそうで、蓮の花が一面に咲いているところに 3.源氏、女三の宮を見舞う---宮は、良心の呵責に苛まれて、お会いするのも恥ずかしく 4.源氏、女三の宮と和歌を唱和す---夜になってから、二条院にお帰りになろうとして 5.源氏、柏木の手紙を発見---まだ朝の涼しいうちにお帰りになろうとして 6.小侍従、女三の宮を責める---お帰りになったので、女房たちが少しばらばらになったので 7.源氏、手紙を読み返す---大殿は、この手紙をやはり不審に思わずにはいらっしゃれないので 8.源氏、妻の密通を思う---「それにしても、この宮をどのようにお扱いしたら良いものだろうか 第十章 光る源氏の物語 密通露見後 1.紫の上、女三の宮を気づかう---平静を装っていらっしゃるが、ご煩悶の様子が 2.柏木と女三の宮、密通露見におののく---姫宮は、このようにお越しにならない日が数日続くのも 3.源氏、女三の宮の幼さを非難---「良いことだからと言って、あまり一途に 4.源氏、玉鬘の賢さを思う---「右大臣の北の方が、特にご後見もなく 5.朧月夜、出家す---二条の尚侍の君を、依然として忘れず、お思い出し申し上げ 6.源氏、朧月夜と朝顔を語る---二条院にいらっしゃる時なので、女君にも、今ではすっかり 第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引 1.女二の宮、院の五十の賀を祝う---こうして、山の帝の御賀も延期になって、秋にとあったが 2.朱雀院、女三の宮へ手紙---お山におかせられてもお耳にあそばして、いとおしくお会いしたいと 3.源氏、女三の宮を諭す---「とても幼い御気性を御存知で、たいそう 4.朱雀院の御賀、十二月に延引---参賀なさることは、この月はこうして過ぎてしまった 5.源氏、柏木を六条院に召す---十二月になってしまった。十何日と決めて、数々の舞を練習し 6.源氏、柏木と対面す---まだ上達部なども参上なさっていない時分であった 7.柏木と御賀について打ち合わせる---「ここいく月、あちらの方こちらの方のご病気 第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる 1.御賀の試楽の当日---今日は、このような試楽の日であるが、ご夫人方が見物なさるので 2.源氏、柏木に皮肉を言う---ご主人の院は、「寄る年波とともに、酔泣きの癖は 3.柏木、女二の宮邸を出る---特別の事がない月日は、のんびりと当てにならない将来のことを当てにして 4.柏木の病、さらに重くなる---大殿ではお待ち受け申し上げなさって、いろいろと大騒ぎをなさる   第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後  [第一段 六条院の競射]  もっともだとは思うけれども、「いまいましい言い方だな。いや、しかし、なんでこのような通り一遍の返事だけを慰めとしては、どうして過ごせよう か。このような人を介してではなく、一言でも直接おっしゃってくださり、また申し上げたりする時があるだろうか」  と思うにつけても、普通の関係では、もったいなく立派な方だとお思い申し上げる院の御為には、けしからぬ心が生じたのであろうか。  晦日には、人々が大勢参上なさった。何やら気が進まず、落ち着かないけれども、「あのお方のいらっしゃる辺りの桜の花を見れば気持ちが慰む だろうか」と思って参上なさる。  殿上の賭弓は、二月とあったが過ぎて、三月もまた御忌月なので、残念に人々は思っているところに、この院で、このような集まりがある予定と 伝え聞いて、いつものようにお集まりになる。左右の大将は、お身内という間柄で参上なさるので、中将たちなども互いに競争しあって、小弓とおっ しゃったが、歩弓の勝れた名人たちもいたので、お呼び出しになって射させなさる。  殿上人たちも、相応しい人は、すべて前方と後方との、交互に組分けをして、日が暮れてゆくにつれて、今日が最後の春の霞の感じも気ぜわしく て、吹き乱れる夕風に、花の蔭はますます立ち去りにくく、人々はひどく酔い過ごしなさって、  「しゃれた賭物の数々は、あちらこちらの御婦人方のご趣味のほどが窺えようというものを。柳の葉を百発百中できそうな舎人たちが、わがもの 顔をして射取るのは、面白くないことだ。少しおっとりした手並みの人たちこそ、競争させよう」  といって、大将たちをはじめとして、お下りになると、衛門督、他の人より目立って物思いに耽っていらっしゃるので、あの少々は事情をご存知の 方のお目には止まって、  「やはり、様子が変だ。厄介な事が引き起こるのだろうか」  と、自分までが悩みに取りつかれたような心地がする。この君たち、お仲が大変に良い。従兄弟同士という中でも、気心が通じ合って親密なの で、ちょっとした事でも、物思いに悩んで屈託しているところがあろうものなら、お気の毒にお思いになる。  自分でも、大殿を拝見すると、何やら恐ろしく目を伏せたくなるようで、  「このような考えを持ってよいものだろうか。どうでもよいことでさえ、不行き届きで、人から非難されるような振る舞いはすまいと思うものを。まして 身のほどを弁えぬ大それたことを」  と思い悩んだ末に、  「あの先日の猫でも、せめて手に入れたい。思い悩んでいる気持ちを打ち明ける相手にはできないが、独り寝の寂しい慰めを紛らすよすがにも、 手なづけてみよう」  と思うと、気違いじみて、「どうしたら盗み出せようか」と思うが、それさえ難しいことだったのである。  [第二段 柏木、女三の宮の猫を預る]  弘徽殿女御の御方に参上して、お話などを申し上げて心を紛らわそうとしてみる。たいそう嗜み深く、気恥ずかしくなるようなご応対ぶりなので、 直にお姿をお見せになることはない。このような姉弟の間柄でさえ、隔てを置いてきたのに、「思いがけず垣間見したのは、不思議なことであった」 とは、さすがに思われるが、並々ならず思い込んだ気持ちゆえ、軽率だとは思われない。  東宮に参上なさって、「当然似ていらっしゃるところがあるだろう」と、目を止めて拝すると、輝くほどのお美しさのご容貌ではないが、これくらいの ご身分の方は、また格別で、上品で優雅でいらっしゃる。  内裏の御猫が、たくさん引き連れていた仔猫たちの兄弟が、あちこちに貰われて行って、こちらの宮にも来ているのが、とてもかわいらしく動き回 るのを見ると、何よりも思い出されるので、  「六条院の姫宮の御方におります猫は、たいそう見たこともないような顔をしていて、かわいらしうございました。ほんのちょっと拝見しました」  と申し上げなさると、猫を特におかわいがりあそばすご性分なので、詳しくお尋ねあそばす。  「唐猫で、こちらのとは違った恰好をしてございました。同じようなものですが、性質がかわいらしく人なつっこいのは、妙にかわいいものでござい ます」  などと、興味をお持ちになるように、特にお話し申し上げなさる。  お耳にお止めあそばして、桐壷の御方を介してご所望なさったので、差し上げなさった。「なるほど、たいそうかわいらしげな猫だ」と、人々が面白 がるので、衛門督は、「手に入れようとお思いであった」と、お顔色で察していたので、数日して参上なさった。  子供であったころから、朱雀院が特別におかわいがりになってお召し使いあそばしていたので、御入山されて後は、やはりこの東宮にも親しく参 上し、お心寄せ申し上げていた。お琴などをお教え申し上げなさるついでに、  「御猫たちがたくさん集まっていますね。どうしたかな、わたしが見た人は」  と探してお見つけになった。とてもかわいらしく思われて、撫でていた。東宮も、  「なるほど、かわいい恰好をしているね。性質が、まだなつかないのは、人見知りをするのだろうか。ここにいる猫たちも、大して負けないがね」  とおっしゃるので、  「猫というものは、そのような人見知りは、普通しないものでございますが、その中でも賢い猫は、自然と性根がございますのでしょう」などとお答 え申し上げて、「これより勝れている猫が何匹もございますようですから、これは暫くお預かり申しましょう」  と申し上げなさる。心の中では、何とも馬鹿げた事だと、一方ではお考えになるが、この猫を手に入れて、夜もお側近くにお置きなさる。  夜が明ければ、猫の世話をして、撫でて食事をさせなさる。人になつかなかった性質も、とてもよく馴れて、ともすれば、衣服の裾にまつわりつい て、側に寝そべって甘えるのを、心からかわいいと思う。とてもひどく物思いに耽って、端近くに寄り臥していらっしゃると、やって来て、「ねよう、ね よう」と、とてもかわいらしげに鳴くので、撫でて、「いやに、積極的だな」と、思わず苦笑される。  「恋いわびている人のよすがと思ってかわいがっていると   どういうつもりでそんな鳴き声を立てるのか  これも前世からの縁であろうか」  と、顔を見ながらおっしゃると、ますますかわいらしく鳴くので、懐に入れて物思いに耽っていらっしゃる。御達などは、  「奇妙に、急に猫を寵愛なさるようになったこと。このようなものはお好きでなかったご性分なのに」  と、不審がるのだった。宮から返すようにとご催促があってもお返し申さず、独り占めして、この猫を話相手にしていらっしゃる。  [第三段 柏木、真木柱姫君には無関心]  左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君を、やはり昔のままに、親しくお思い申し上げていらっしゃった。気立てに才気があって、 親しみやすくいらっしゃる方なので、お会いなさる時々にも、親身に他人行儀になるところはなくお振る舞いになるので、右大将も、淑景舎などが、 他人行儀で近づきがたいお扱いであるので、一風変わったお親しさで、お付き合いしていらっしゃった。  夫君は、今では以前にもまして、あの前の北の方とすっかり縁が切れてしまって、並ぶ者がないほど大切にしていらっしゃる。このお方の腹に は、男のお子たちばかりなので、物足りないと思って、あの真木柱の姫君を引き取って、大切にお世話申したいとお思いになるが、祖父宮などは、 どうしてもお許しにならず、  「せめてこの姫君だけでも、物笑いにならないように世話しよう」  とお思いになり、おっしゃりもしている。  親王のご声望はたいそう高く、帝におかせられても、この宮への御信頼は、並々ならぬものがあって、こうと奏上なさることはお断りになることが できず、お気づかい申していらっしゃる。だいたいのお人柄も現代的でいらっしゃる宮で、こちらの院、大殿にお次ぎ申して、人々もお仕え申し、世 間の人々も重々しく申し上げているのであった。  左大将も、将来の国家の重鎮とおなりになるはずの有力者であるから、姫君のご評判、どうして軽いことがあろうか。求婚する人々、何かにつけ て大勢いるが、ご決定なさらない。衛門督を、「そのような、態度を見せたら」とお思いのようだが、猫ほどにはお思いにならないのであろうか、まっ たく考えもしないのは、残念なことであった。  母君が、どうしたことか、今だに変な方で、普通のお暮らしぶりでなく、廃人同様になっていらっしゃるのを、残念にお思いになって、継母のお側 を、いつも心にかけて憧れて、現代的なご気性でいらっしゃっるのだった。  [第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚]  蛍兵部卿宮は、やはり独身生活でいらっしゃって、熱心にお望みになった方々は、皆うまくいかなくて、世の中が面白くなく、世間の物笑いに思 われると、「このまま甘んじていられない」とお思いになって、この宮に気持ちをお漏らしになったところ、式部卿大宮は、  「いや何。大切に世話しようと思う娘なら、帝に差し上げる次には、親王たちにめあわせ申すのがよい。臣下の、真面目で、無難な人だけを、今の 世の人が有り難がるのは、品のない考え方だ」  とおっしゃって、そう大してお焦らし申されることなく、ご承諾なさった。  蛍親王は、あまりに口説きがいのないのを、物足りないとお思いになるが、大体が軽んじ難い家柄なので、言い逃れもおできになれず、お通いに なるようになった。たいそうまたとなく大事にお世話申し上げなさる。  式部卿大宮は、女の子がたくさんいらっしゃって、  「いろいろと何かにつけ嘆きの種が多いので、懲り懲りしたと思いたいところだが、やはりこの君のことが放っておけなく思えてね。母君は、奇妙 な変人に年とともになって行かれる。大将は大将で、自分の言う通りにしないからと言って、いい加減に見放ちなされたようだから、まことに気の毒 である」  と言って、お部屋の飾り付けも、立ったり座ったり、ご自身でお世話なさり、すべてにもったいなくも熱心でいらっしゃった。  [第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活]  宮は、お亡くなりになった北の方を、それ以来ずっと恋い慕い申し上げなさって、「ただ、亡くなった北の方の面影にお似申し上げたような方と結 婚しよう」とお思いになっていたが、「悪くはないが、違った感じでいらっしゃる」とお思いになると、残念であったのか、お通いになる様子は、まこと 億劫そうである。  式部卿大宮は、「まったく心外なことだ」とお嘆きになっていた。母君も、あれほど変わっていらっしゃったが、正気に返る時は、「口惜しい嫌な世 の中だ」と、すっかり思いきりなさる。  左大将の君も、「やはりそうであったか。ひどく浮気っぽい親王だから」と、はじめからご自身お認めにならなかったことだからであろうか、面白か らぬお思いでいらっしゃった。  尚侍の君も、このように頼りがいのないご様子を、身近にお聞きになるにつけ、「そのような方と結婚をしたのだったら、こちらにもあちらにも、どん なにお思いになり御覧になっただろう」などと、少々おかしくも、また懐かしくもお思い出しになるのだった。  「あの当時も、結婚しようとは、考えてもいなかったのだ。ただ、いかにも優しく、情愛深くお言葉をかけ続けてくださったのに、張り合いなく軽率な ように、お見下しになったであろうか」と、とても恥ずかしく、今までもお思い続けていらっしゃることなので、「あのような近いところで、わたしの噂を お聞きになることも、気をつかわねばならない」などとお思いになる。  こちらからも、しかるべき事柄はしてお上げになる。兄弟の公達などを差し向けて、このようなご夫婦仲も知らない顔をして、親しげにお側に伺わ せたりなどするので、気の毒になって、お見捨てになる気持ちはないが、大北の方という性悪な人が、いつも悪口を申し上げなさる。  「親王たちは、おとなしく浮気をせず、せめて愛して下さるのが、華やかさがない代わりには思えるのだが」  とぶつぶつおっしゃるのを、宮も漏れお聞きなさっては、「まったく変な話だ。昔、とてもいとしく思っていた人を差し置いても、やはり、ちょっとした 浮気はいつもしていたが、こう厳しい恨み言は、なかったものを」  と、気にくわなく、ますます故人をお慕いなさりながら、自邸に物思いに耽りがちでいらっしゃる。そうは言いながらも、二年ほどになったので、こう した事にも馴れて、ただ、そのような夫婦仲としてお過ごしになっていらっしゃる。   第二章 光る源氏の物語 住吉参詣  [第一段 冷泉帝の退位]  これという事もなくて、年月が過ぎて行き、今上の帝、御即位なさってから十八年におなりあそばした。  「後を嗣いで次の帝におなりになる皇子がいらっしゃらず、物寂しい上に、寿命がいつまで続くか分からない気がするので、気楽に、会いたい人た ちと会い、私人として思うままに振る舞って、のんびりと過ごしたい」  と、長年お思いになりおっしゃりもしていたが、最近たいそう重くお悩みあそばすことがあって、急に御退位あそばした。世間の人は、「惜しい盛り のお年を、このようにお退きになること」と、惜しみ嘆いたが、東宮もご成人あそばしているので、お嗣ぎになって、世の中の政治など、特別に変わ ることもなかった。  太政大臣は致仕の表を奉って、ご引退なさった。  「世間の無常によって、恐れ多い帝の君も、御位をお下りになったのに、年老いた自分が冠を掛けるのは、何の惜しいことがあろうか」  とお考えになりおっしゃって、左大将が、右大臣におなりになって、政務をお勤めになったのであった。承香殿女御の君は、このような御世にお会 いにならず、お亡くなりになったので、規定のご称号を奉られたが、光の当たらない感じがして、何にもならなかった。  六条院の女御腹の一の宮、東宮におつきになった。当然のこととは以前から思っていたが、実現して見るとやはり素晴らしく、目を見張るようなこ とであった。右大将の君、大納言におなりになった。ますます理想的なお間柄である。  六条院は、御退位あそばした冷泉院が、御後嗣がいらっしゃらないのを、残念なこととご心中ひそかにお思いになる。同じ自分の血統であるが、 御煩悶なさることなくて、無事にお過ごしなっただけに、罪は現れなかったが、子孫まで皇位を伝えることができなかった御運命を、口惜しく物足り なくお思いになるが、人と話し合えないことなので、気持ちが晴れない。  東宮の母女御は、御子たちが大勢いらっしゃって、ますます御寵愛は並ぶ者がいない。源氏が、引き続いて皇后におなりになることを、世間の人 は不満に思っているのにつけても、冷泉院の皇后は、格別の理由もないのに、強引にこのようにして下さったお気持ちをお思いになると、ますます 六条院の御事を、年月と共に、この上なく有り難くお思い申し上げになっていらっしゃった。  院の帝は、お考えになっていたように、御幸も、気軽にお出かけなさったりして、御退位後はかえって、確かに素晴らしく申し分ない御生活であ る。  [第二段 六条院の女方の動静]  姫宮の御事は、帝が、御配慮になってお気をつけて差し上げなさる。世間の人々からも、広く重んじられていらっしゃるが、対の上のご威勢には、 勝ることがおできになれない。年月がたつにつれて、ご夫婦仲は互いにたいそうしっくりと睦まじくいらして、少しも不満なところなく、よそよそしさも お見えでないが、  「今は、このような普通の生活ではなく、のんびりと仏道生活に入りたい、と思います。この世はこれまでと、すっかり見終えた気がする年齢にも なってしまいました。そのようにお許し下さいませ」  と、真剣に申し上げなさることが度々あるが、  「とんでもない、酷いおっしゃりようです。わたし自身、強く希望するところですが、後に残って寂しいお気持ちがなさり、今までと違ったようにおな りになるのが、気がかりなばかりに、生き永らえているのです。とうとう出家した後に、どうなりとお考え通りになさるがよい」  などとばかり、ご制止申し上げなさる。  女御の君、ひたすらこちらを、本当の母親のようにお仕え申し上げなさって、御方は蔭のお世話役として、謙遜していらっしゃるのが、かえって、 将来頼もしげで、立派な感じであった。  尼君も、ややもすれば感激に堪えない喜びの涙、ともすれば、落とし落としして、目まで拭い爛れさせて、長生きした、幸福者の例になっていらっ しゃる。  [第三段 源氏、住吉に参詣]  住吉の神に懸けた御願、そろそろ果たそうとなさって、春宮の女御の御祈願に参詣なさろうとして、あの箱を開けて御覧になると、いろいろな盛 大な願文が多かった。  毎年の春秋に奏する神楽に、必ず子孫の永遠の繁栄を祈願した願文類が、なるほど、このようなご威勢でなければ果たすことがおできになれな いように考えていたのであった。ただ走り書きしたような文面で、学識が見え論旨も通り、仏神もお聞き入れになるはずの文意が明瞭である。  「どうしてあのような山伏の聖心で、このような事柄を思いついたのだろう」と、感服し分を過ぎたことだと御覧になる。「前世の因縁で、ほんの少し の間、仮に身を変えた前世の修行者であったのだろうか」などとお考えめぐらすと、ますます軽んじることはできなかった。  今回は、この趣旨は表にお立てにならず、ただ、院の物詣でとしてご出立なさる。浦から浦へと流離した事変の当時の数多くの御願は、すっかり お果たしなさったが、やはりこの世にこうお栄えになっていらっしゃって、このようないろいろな栄華を御覧になるにつけても、神の御加護は忘れるこ とができず、対の上もご一緒申し上げなさって、ご参詣あそばす、その評判、大変なものである。たいそう儀式を簡略にして、世間に迷惑があって はならないように、と省略なさるが、仕来りがあることゆえ、またとない立派さであった。  [第四段 住吉参詣の一行]  上達部も、大臣お二方をお除き申しては、皆お供奉申し上げなさる。舞人は、近衛府の中将たちで器量が良くて、背丈の同じ者ばかりをお選び あそばす。この選に漏れたことを恥として、悲しみ嘆いている芸熱心の者たちもいるのだった。  陪従も、岩清水、賀茂の臨時の祭などに召す人々で、諸道に殊に勝れた者ばかりをお揃えになっていらっしゃった。それに加わった二人も、近衛 府の世間に名高い者ばかりをお召しになっているのだった。  御神楽の方には、たいそう数多くの人々がお供申していた。帝、東宮、院の殿上人、それぞれに分かれて、進んで御用をお勤めになる。その数 も知れず、いろいろと善美を尽くした上達部の御馬、鞍、馬添、随身、小舎人童、それ以下の舎人などまで、飾り揃えた見事さは、またとないほど である。  女御殿と、対の上は、同じお車にお乗りになっていた。次のお車には、明石の御方と、尼君がこっそりと乗っていらっしゃった。女御の御乳母、事 情を知る者として乗っていた。それぞれお供の車は、対の上の御方のが五台、女御殿のが五台、明石のご一族のが三台、目も眩むほど美しく飾り 立てた衣装、様子は、言うまでもない。一方では、  「尼君をば、どうせなら、老の波の皺が延びるように、立派に仕立てて参詣させよう」  と、院はおっしゃったが、  「今回は、このような世を挙げての参詣に加わるのも憚られます。もし希望通りの世まで生き永らえていましたら」  と、御方はお抑えなさったが、余命が心配で、もう一方では見たくて、付いていらっしゃったのであった。前世からの因縁で、もともとこのようにお 栄えになるお身の上の方々よりも、まことに素晴らしい幸運が、はっきり分かるご様子の方である。  [第五段 住吉社頭の東遊び]  十月の二十日なので、社の玉垣に這う葛も色が変わって、松の下紅葉などは、風の音にだけ秋を聞き知っているのではないというふうである。 仰々しい高麗、唐土の楽よりも、東遊の耳馴れているのは、親しみやすく美しく、波風の音に響き合って、あの木高い松風に吹き立てる笛の音も、 他で聞く調べに変わって身にしみて感じられ、お琴に合わせた拍子も、鼓を用いないで調子をうまく合わせた趣が、大げさなところがないのも、優 美でぞっとするほど面白く、場所が場所だけに、いっそう素晴らしく聞こえるのであった。  山藍で摺り出した竹の模様の衣装は、松の緑に見間違えて、插頭の色とりどりなのは、秋の草と見境がつかず、どれもこれも目先がちらつくば かりである。  「求子」が終わった後に、若い上達部は、肩脱ぎしてお下りになる。光沢のない黒の袍衣から、蘇芳襲で、葡萄染の袖を急に引き出したところ、 紅の濃い袙の袂が、はらはらと降りかかる時雨にちょっとばかり濡れたのは、松原であることを忘れて、紅葉が散ったのかと思われる。  皆見栄えのする容姿で、たいそう白く枯れた荻を、高々と插頭に挿して、ただ一さし舞って入ってしまったのは、実に面白くもっといつまでも見て いたい気がするのであった。  [第六段 源氏、往時を回想]  大殿、昔の事が思い出されて、ひところご辛労なさった当時の有様も、目の前のように思い出されなさるが、その当時の事、遠慮なく語り合える 相手もいないので、致仕の大臣を、恋しくお思い申し上げなさるのであった。  お入りになって、二の車に目立たないように、  「わたしの外に誰がまた昔の事情を知って住吉の   神代からの松に話しかけたりしましょうか」  御畳紙にお書きになっていた。尼君、感涙にむせぶ。このような時世を見るにつけても、あの明石の浦で、これが最後とお別れになった時の事、 女御の君が御方のお腹に中にいらっしゃった時の様子などを思い出すにつけても、まことにもったいない運勢の程を思う。出家なさった方も恋しく、 あれこれと物悲しく思われるので、一方では涙は縁起でもないと思い直して言葉を慎んで、  「住吉の浜を生きていた甲斐がある渚だと   年とった尼も今日知ることでしょう」  遅くなっては不都合だろうと、ただ思い浮かんだままにお返ししたのであった。  「昔の事が何よりも忘れられない   住吉の神の霊験を目の当たりにするにつけても」  とひとり口ずさむのであった。  [第七段 終夜、神楽を奏す]  一晩中神楽を奏して夜をお明かしなさる。二十日の月が遥かかなたに澄み照らして、海面が美しく見えわたっているところに、霜がたいそう白く 置いて、松原も同じ色に見えて、何もかもが寒気をおぼえる素晴らしさで、風情や情趣の深さも一入に感じられる。  対の上は、いつものお邸の内にいらしたまま、季節季節につけて、興趣ある朝夕の遊びに、耳慣れ目馴れていらっしゃったが、御門から外の見 物を、めったになさらず、ましてこのような都の外へお出になることは、まだご経験がないので、物珍しく興味深く思わずにはいらっしゃれない。  「住吉の浜の松に夜深く置く霜は   神様が掛けた木綿鬘でしょうか」  篁朝臣が、「比良の山さえ」と言った雪の朝をお思いやりになると、ご奉納の志をお受けになった証だろうかと、ますます頼もしかった。女御の君、  「神主が手に持った榊の葉に   木綿を掛け添えた深い夜の霜ですこと」  中務の君、  「神に仕える人々の木綿鬘と見間違えるほどに置く霜は   仰せのとおり神の御霊験の証でございましょう」  次々と数え切れないほど多かったのだが、どうして覚えていられようか。このような時の歌は、いつもの上手でいらっしゃるような殿方たちも、かえ って出来映えがぱっとしないで、松の千歳を祝う決まり文句以外に、目新しい歌はないので、煩わしくて省略した。  [第八段 明石一族の幸い]  夜がほのぼのと明けて行くと、霜はいよいよ深く、本方と末方とがその分担もはっきりしなくなるほど、酔い過ぎた神楽面が、自分の顔がどんな になっているか知らないで、面白いことに夢中になって、庭燎も消えかかっているのに、依然として、「万歳、万歳」と、榊の葉を取り直し取り直し て、お祝い申し上げる御末々の栄えを、想像するだけでもいよいよめでたい限りである。  万事が尽きせず面白いまま、千夜の長さをこの一夜の長さにしたいほどの今夜も、何という事もなく明けてしまったので、返る波と先を争って帰る のも残念なことと、若い人々は思う。  松原に、遥か遠くまで立て続けた幾台ものお車が、風に靡く下簾の間々も、常磐の松の蔭に、花の錦を引き並べたように見えるが、袍の色々な 色が位階の相違を見せて、趣きのある懸盤を取って、次々と食事を一同に差し上げるのを、下人などは目を見張って、立派だと思っている。  尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表を付けて、精進料理を差し上げるという事で、「驚くほどの女性のご運勢だ」と、それぞれ陰口を言った のであった。  御参詣なさった道中は、ものものしいことで、もてあますほどの奉納品が、いろいろと窮屈げにあったが、帰りはさまざまな物見遊山の限りをお尽 くしになる。それを語り続けるのも煩わしく、厄介な事柄なので。  このようなご様子をも、あの入道が、聞こえないまた見えない山奥に離れ去ってしまわれたことだけが、不満に思われた。それも難しいことだろ う、出てくるのは見苦しいことであろうよ。世の中の人は、これを例として、高望みがはやりそうな時勢のようである。万事につけて、誉め驚き、世間 話の種として、「明石の尼君」と、幸福な人の例に言ったのであった。あの致仕の大殿の近江の君は、双六を打つ時の言葉にも、  「明石の尼君、明石の尼君」  と言って賽を祈ったのである。   第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画  [第一段 女三の宮と紫の上]  入道の帝は、仏道に御専心あそばして、内裏の御政道にはいっさいお口をお出しにならない。春秋の朝覲の行幸には、昔の事をお思い出しにな ることもあった。姫宮の御事だけを、今でも御心配でいらして、こちらの六条院を、やはり表向きのお世話役としてお思い申し上げなさって、内々の 御配慮を下さるべく帝にもお願い申し上げていらっしゃる。二品におなりになって、御封なども増える。ますます華やかにご威勢も増す。  対の上は、このように年月とともに何かにつけてまさって行かれるご声望に比べて、  「自分自身はただ一人が大事にして下さるお蔭で、他の人には負けないが、あまりに年を取り過ぎたら、そのご愛情もしまいには衰えよう。その ような時にならない前に、自分から世を捨てたい」  と、ずっと思い続けていらっしゃるが、生意気なようにお思いになるだろうと遠慮されて、はっきりとはお申し上げになることができない。今上帝ま でが、御配慮を特別にして上げていらっしゃるので、疎略なと、お耳にあそばすことがあったらお気の毒なので、お通いになることがだんだんと同等 になってなって行く。  無理もないこと、当然なこととは思いながらも、やはりそうであったのかとばかり、面白からずお思いになるが、やはり素知らぬふうに同じ様にして 過ごしていらっしゃる。春宮のすぐお下の女一の宮を、こちらに引き取って大切にお世話申し上げていらっしゃる。そのご養育に、所在ない殿のいら っしゃらない夜々を気をお紛らしていらっしゃるのだった。どちらの宮も区別せず、かわいくいとしいとお思い申し上げていらっしゃった。  [第二段 花散里と玉鬘]  夏の御方は、このようなあれこれのお孫たちのお世話を羨んで、大将の君の典侍腹のお子を、ぜひにと引き取ってお世話なさる。とてもかわいら しげで、気立ても、年のわりには利発でしっかりしているので、大殿の君もおかわいがりになる。数少ないお子だとお思いであったが、孫は大勢で きて、あちらこちらに数多くおなりになったので、今はただ、これらをかわいがり世話なさることで、退屈さを紛らしていらっしゃるのであった。  右の大殿が参上してお仕えなさることは、昔以上に親密になって、今では北の方もすっかり落ち着いたお年となって、あの昔の色めかしい事は 思い諦めたのであろうか、適当な機会にはよくお越しになる。対の上ともお会いになって、申し分ない交際をなさっているのであった。  姫宮だけが、同じように若々しくおっとりしていらっしゃる。女御の君は、今は主上にすべてお任せ申し上げなさって、この姫宮をたいそう心に懸け て、幼い娘のように思ってお世話申し上げていらっしゃる。  [第三段 朱雀院の五十賀の計画]  朱雀院が、  「今はすっかり死期が近づいた心地がして、何やら心細いが、決してこの世のことは気に懸けまいと思い捨てたが、もう一度だけお会いしたく思う が、もし未練でも残ったら大変だから、大げさにではなくお越しになるように」  と、お便り申し上げなさったので、大殿も、  「なるほど、仰せの通りだ。このような御内意が仮になくてさえ、こちらから進んで参上なさるべきことだ。なおさらのこと、このようにお待ちになっ ていらっしゃるとは、おいたわしいことだ」  と、ご訪問なさるべきことをご準備なさる。  「何のきっかけもなく、取り立てた趣向もなくては、どうして簡単にお出かけになれようか。どのようなことをして、御覧に入れたらよかろうか」  と、ご思案なさる。  「来年ちょうどにお達しになる年に、若菜などを調進してお祝い申し上げようか」と、お考えになって、いろいろな御法服のこと、精進料理のご準 備、何やかやと勝手が違うことなので、ご夫人方のお智恵も取り入れてお考えになる。  御出家以前にも、音楽の方面には御関心がおありでいらっしゃったので、舞人、楽人などを、特別に選考し、勝れた人たちだけをお揃えあそば す。右の大殿のお子たち二人、大将のお子は、典侍腹の子を加えて三人、まだ小さい七歳以上の子は、皆童殿上させなさる。兵部卿宮の童孫 王、すべてしかるべき宮家のお子たちや、良家のお子たち、皆お選び出しになる。  殿上の君たちも、器量が良く、同じ舞姿と言っても、また格別な人を選んで、多くの舞の準備をおさせになる。大層なこの度の催しとあって、誰も 皆懸命に練習に励んでいらっしゃる。その道々の師匠、名人が、大忙しのこのごろである。  [第四段 女三の宮に琴を伝授]  姫宮は、もともと琴の御琴をお習いであったが、とても小さい時に父院にお別れ申されたので、気がかりにお思いになって、  「お越しになる機会に、あの御琴の音をぜひ聞きたいものだ。いくら何でも琴だけは物になさったことだろう」  と、陰で申されなさったのを、帝におかせられてもお耳にあそばして、  「仰せの通り、何と言っても、格別のご上達でしょう。院の御前で、奥義をお弾きなさる機会に、参上して聞きたいものだ」  などと仰せになったのを、大殿の君は伝え聞きなさって、  「今までに適当な機会があるたびに、お教え申したことはあるが、その腕前は、確かに上達なさったが、まだお聞かせできるような深みのある技 術には達していないのを、何の準備もなくて参上した機会に、お聞きあそばしたいと強くお望みあそばしたら、とてもきっときまり悪い思いをすること になりはせぬか」  と、気の毒にお思いになって、ここのところご熱心にお教え申し上げなさる。  珍しい曲目、二つ三つ、面白い大曲類で、四季につれて変化するはずの響き、空気の寒さ温かさをその音色によって調え出して、高度な技術の いる曲目ばかりを、特別にお教え申し上げになるが、気がかりなようでいらっしゃるが、だんだんと習得なさるにつれて、大変上手におなりになる。  「昼間は、たいそう人の出入りが多く、やはり絃を一度揺すって音をうねらせる間も、気ぜわしいので、夜な夜なに、静かに奏法の勘所をじっくりと お教え申し上げよう」  と言って、対の上にも、そのころはお暇申されて、朝から晩までお教え申し上げなさる。  [第五段 明石女御、懐妊して里下り]  女御の君にも、対の上にも、琴の琴はお習わせ申されなかったので、この機会に、めったに耳にすることのない曲目をお弾きになっていらっしゃる らしいのを、聞きたいとお思いになって、女御も、特別にめったにないお暇を、ただ少しばかりお願い申し上げなさって御退出なさっていた。  お子様がお二方いらっしゃるが、再びご懐妊なさって、五か月ほどにおなりだったので、神事にかこつけてお里下がりしていらっしゃるのであっ た。十一日が過ぎたら、参内なさるようにとのお手紙がしきりにあるが、このような機会に、このように面白い毎夜の音楽の遊びが羨ましくて、「どう してわたしにはご伝授して下さらなかったのだろう」と、恨めしくお思い申し上げなさる。  冬の夜の月は、人とは違ってご賞美なさるご性分なので、美しい雪の夜の光に、季節に合った曲目類をお弾きになりながら、伺候する女房たち も、少しはこの方面に心得のある者に、お琴類をそれぞれ弾かせて、管弦の遊びをなさる。  年の暮れ方は、対の上などは忙しく、あちらこちらのご準備で、自然とお指図なさる事柄があるので、  「春のうららかな夕方などに、ぜひにこのお琴の音色を聞きたい」  とおっしゃり続けているうちに、年が改まった。  [第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定]  朱雀院の五十の御賀は、まず今上の帝のあそばすことがたいそう盛大であろうから、それに重なっては不都合だとお思いになって、少し日を遅ら せなさる。二月十日過ぎとお決めになって、楽人や、舞人などが参上しては、合奏が続く。  「こちらの対の上が、いつも聞きたがっているお琴の音色を、ぜひとも他の方々の箏の琴や、琵琶の音色も合わせて、女楽を試みてみたい。ただ 最近の音楽の名人たちは、この院の御方々のお嗜みのほどにはかないませんね。  きちんと伝授を受けたことは、ほとんどありませんが、どのようなことでも、何とかして知らないことがないようにと、子供の時に思ったので、世間に いる道々の師匠は全部、また高貴な家々の、しかるべき人の伝えをも残さず受けてみた中で、とても造詣が深くてこちらが恥じ入るように思われた 人はいませんでした。  その当時から、また最近の若い人々が、風流で気取り過ぎているので、全く浅薄になったのでしょう。琴の琴は、琴の琴で、他の楽器以上に全 然稽古する人がなくなってしまったとか。あなたの御琴の音色ほどにさえも習い伝えている人は、ほとんどありますまい」  とおっしゃると、無邪気にほほ笑んで、嬉しくなって、「このようにお認めになるほどになったのか」とお思いになる。  二十一、二歳ほどにおなりになりだが、まだとても幼げで、未熟な感じがして、ほっそりと弱々しく、ただかわいらしくばかりお見えになる。  「院にもお目にかかりなさらないで、何年にもなったが、ご成人なさったと御覧いただけるように、一段と気をつけてお会い申し上げなさい」  と、何かの機会につけてお教え申し上げなさる。  「なるほど、このようなご後見役がいなくては、まして幼そうにいらっしゃいますご様子、隠れようもなかろう」  と、女房たちも拝見する。   第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽  [第一段 六条院の女楽]  正月二十日ほどなので、空模様もうららかで、風がなま温かく吹いて、御前の梅の花も盛りになって行く。たいていの花の木も、みな蕾がふくらん で、一面に霞んでいた。  「来月になったら、ご準備が近づいて、何かと騒がしかろうから、合奏なさる琴の音色も、試楽のように人が噂するだろうから、今の静かなころに 合奏なさってごらんなさい」  とおっしゃって、寝殿にお迎え申し上げなさる。  お供に、わたしもわたしもと、合奏を聞きたく参上したがるが、音楽の方面に疎い者は、残させなさって、すこし年は取っていても、心得のある者 だけを選んで伺候させなさる。  女童は、器量の良い四人、赤色の表着に桜襲の汗衫、薄紫色の織紋様の袙、浮紋の上の袴に、紅の打ってある衣装で、容姿、態度などのすぐ れている者たちだけをお召しになっていた。女御の御方にも、お部屋の飾り付けなど、常より一層に改めたころの明るさなので、それぞれ競争し合 って、華美を尽くしている衣装、鮮やかなこと、またとない。  童は、青色の表着に蘇芳の汗衫、唐綾の表袴、袙は山吹色の唐の綺を、お揃いで着ていた。明石の御方のは、仰々しくならず、紅梅襲が二人、 桜襲が二人、いずれも青磁色ばかりで、袙は濃紫や薄紫、打目の模様が何とも言えず素晴らしいのを着せていらっしゃった。  宮の御方でも、このようにお集まりになるとお聞きになって、女童の容姿だけは特別に整えさせていらっしゃった。青丹の表着に柳襲の汗衫、葡 萄染の袙など、格別趣向を凝らして目新しい様子ではないが、全体の雰囲気が、立派で気品があることまでが、まことに並ぶものがない。  [第二段 孫君たちと夕霧を召す]  廂の中の御障子を取り外して、あちらとこちらと御几帳だけを境にして、中の間には、院がお座りになるための御座所を設けてあった。今日の拍 子合わせの役には、子供を召そうとして、右の大殿の三郎君、尚侍の君の御腹の兄君、笙の笛、左大将の御太郎君、横笛と吹かせて、簀子に伺 候させなさる。  内側には御褥をいくつも並べて、お琴を御方々に差し上げる。秘蔵の御琴類を、いくつもの立派な紺地の袋に入れてあるのを取り出して、明石の 御方に琵琶、紫の上に和琴、女御の君に箏のお琴、宮には、このような仰々しい琴はまだお弾きになれないかと、心配なので、いつもの手馴れて いらっしゃる琴を調絃して差し上げなさる。  「箏のお琴は、弛むというわけではないが、やはり、このように合奏する時の調子によって、琴柱の位置がずれるものだ。よくその点を考慮すべき だが、女性の力ではしっかりと張ることはできまい。やはり、大将を呼んだ方がよさそうだ。この笛吹く人たちも、まだ幼いようで、拍子を合わせるに は頼りにならない」  とお笑いになって、  「大将、こちらに」  とお呼びになるので、御方々はきまり悪く思って、緊張していらっしゃる。明石の君を除いては、どなたも皆捨てがたいお弟子たちなので、お気を 遣われて、大将がお聞きになるので、難点がないようにとお思いになる。  「女御は、ふだん主上がお聞きあそばすにも、楽器に合わせながら弾き馴れていらっしゃるので、安心だが、和琴は、たいして変化のない音色な のだが、奏法に決まった型がなくて、かえって女性は弾き方にまごつくに違いないのだ。春の琴の音色は、おおよそ合奏して聞くものであるから、 他の楽器と合わないところが出て来ようかしら」  と、何となく気がかりにお思いになる。  [第三段 夕霧、箏を調絃す]  大将は、とてもたいそう緊張して、御前での大がかりな、改まった御試楽以上に、今日の気づかいは、格別に勝って思われなさったので、鮮やか なお直衣に、香のしみたいく重ものお召し物で、袖に特に香をたきしめて、化粧して参上なさるころ、日はすっかり暮れてしまった。  趣深い夕暮の空に、花は去年の古雪を思い出されて、枝も撓むほどに咲き乱れている。緩やかに吹く風に、何とも言えず素晴らしく匂っている御 簾の内側の薫りも一緒に漂って、鴬を誘い出すしるべにできそうな、たいそう素晴らしい御殿近辺の匂いである。御簾の下から箏のお琴の裾、少し さし出して、  「失礼なようですが、この絃を調節して、みてやって下さい。ここには他の親しくない人を入れることはできないものですから」  とおっしゃると、礼儀正しくお受け取りになる態度、心づかいも行き届いていて立派で、「壱越調」の音に発の緒を合わせて、すぐには弾き始めず に控えていらっしゃるので、  「やはり、調子合わせの曲ぐらいは、一曲、興をそがない程度に」  とおっしゃるので、  「まったく、今日の演奏会のお相手に、仲間入りできるような腕前では、ございませんから」  と、思わせぶりな態度をなさる。  「もっともな言い方だが、女楽の相手もできずに逃げ出したと、噂される方が不名誉だぞ」  と言ってお笑いになる。  調絃を終わって、興をそそる程度に調子合わせだけを弾いて、差し上げなさった。このお孫の君たちが、とてもかわいらしい宿直姿で、笛を吹き合 わせている音色は、まだ幼い感じだが、将来性があって、素晴らしく聞こえる。  [第四段 女四人による合奏]  それぞれのお琴の調絃が終わって、合奏なさる時、どれも皆優劣つけがたい中で、琵琶は特別上手という感じで、神々しい感じの弾き方、音色 が澄みきって美しく聞こえる。  和琴に、大将も耳を留めていらっしゃるが、やさしく魅力的な爪弾きに、掻き返した音色が、珍しく当世風で、まったくこの頃名の通った名人たち が、ものものしく掻き立てた曲や調子に負けず、華やかで、「大和琴にもこのような弾き方があったのか」と感嘆される。深いお嗜みのほどがはっき りと分かって、素晴らしいので、大殿はご安心なさって、またとない方だとお思い申し上げなさる。  箏のお琴は、他の楽器の音色の合間合間に、頼りなげに時々聞こえて来るといった性質の音色のものなので、可憐で優美一筋に聞こえる。  琴の琴は、やはり未熟ではあるが、習っていらっしゃる最中なので、あぶなげなく、たいそう良く他の楽器の音色に響き合って、「随分と上手にな ったお琴の音色だな」と、大将はお聞きになる。拍子をとって唱歌なさる。院も、時々扇を打ち鳴らして、一緒に唱歌なさるお声、昔よりもはるかに 美しく、少し声が太く堂々とした感じが加わって聞こえる。大将も、声はたいそう勝れていらっしゃる方で、夜が静かになって行くにつれて、何とも言 いようのない優雅な夜の音楽会である。  [第五段 女四人を花に喩える]  月の出が遅いころなので、灯籠をあちらこちらに懸けて、明かりを調度良い具合に灯させていらっしゃった。  宮の御方をお覗きになると、他の誰よりも一段と小さくかわいらしげで、ただお召し物だけがあるという感じがする。つややかな美しさは劣るが、 ただとても上品に美しく、二月の二十日頃の青柳が、ようやく枝垂れ始めたような感じがして、鴬の羽風にも乱れてしまいそうなくらい、弱々しい感 じにお見えになる。  桜襲の細長に、御髪は左右からこぼれかかって、柳の糸のようであった。  「この方こそは、この上ないご身分の方のご様子というものだろう」と見えるが、女御の君は、同じような優美なお姿で、もう少し生彩があって、態 度や雰囲気が奥ゆかしく、風情のあるご様子でいらっしゃって、美しく咲きこぼれている藤の花が、夏に咲きかかって、他に並ぶ花がない、朝日に 輝いているような感じでいらっしゃった。  とは言え、とてもふっくらとしたころにおなりになって、ご気分もすぐれない時期でいらっしゃったので、お琴も押しやって、脇息に寄りかかっていら っしゃった。小柄なお身体でなよなよとしていらっしゃるが、ご脇息は並の大きさなので、無理に背伸びしている感じで、特別に小さく作って上げた いと見えるのが、とてもおかわいらしげにお見えになるのであった。  紅梅襲のお召物に、お髪がかかってさらさらと美しくて、灯台の光に映し出されたお姿、またとなくかわいらしげだが、紫の上は、葡萄染であろう か、色の濃い小袿に、薄蘇芳襲の細長で、お髪がたまっている様子、たっぷりとゆるやかで、背丈などちょうど良いぐらいで、姿形は申し分なく、辺 り一面に美しさが満ちあふれている感じがして、花と言ったら桜に喩えても、やはり衆に抜ん出た様子、格別の風情でいらっしゃる。  このような方々の中で、明石は圧倒されてしまうところだが、まったくそのようなことはなく、態度なども意味ありげにこちらが恥ずかしくなるくらい で、心の底を覗いてみたいほどの深い様子で、どことなく上品で優雅に見える。  柳の織物の細長に、萌黄であろうか、小袿を着て、羅の裳の目立たないのを付けて、特に卑下していたが、その様子、そうと思うせいもあって、 立派で軽んじられない。  高麗の青地の錦で縁どりした敷物に、まともに座らず、琵琶をちょっと置いて、ほんの心持ばかり弾きかけて、しなやかに使いこなした撥の扱いよ う、音色を聞くやいなや、また比類なく親しみやすい感じがして、五月待つ花橘の、花も実もともに折り取った薫りのように思われる。  [第六段 夕霧の感想]  この方もあの方も、とりすましたご様子を見たり聞いたりなさると、大将も、まことに中を御覧になりたくお思いになる。対の上が、昔見た時よりも、 ずっと美しくなっていっらっしゃるだろう様子が見たいので、心が落ち着かない。  「宮を、もう少し運勢があったなら、自分の妻としてお世話申し上げられたであろうに。まことにゆったり構えていたのが悔やまれるよ。院は、度々 そのように水を向けられ、蔭でおっしゃっていられたものを」と、残念に思うが、少し軽率なようにお見えになるご様子に、軽くお思い申すと言うので はないが、それほど心は動かなかったのである。  こちらの御方を、何事につけても手の届くすべなく、高嶺の花として、長年過ごして来たので、「ただ何とかして、義理の親子の関係として、好意 をお寄せ申している気持ちをお見せ申し上げたい」とだけ、残念に嘆かわしいのであった。むやみに、あってはならない大それた考えなどは、まった くおありではなく、実に立派に振る舞っていらっしゃった。   第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論  [第一段 音楽の春秋論]  夜が更けて行く様子、冷え冷えとした感じがする。臥待の月がわずかに顔を出したのを、  「おぼつかない光だね、春の朧月夜は。秋の情趣は、やはりまた、このような楽器の音色に、虫の声を合わせたのが、何とも言えず、この上ない 響きが深まるような気がするものだ」  とおっしゃると、大将の君、  「秋の夜の曇りない月には、すべてのものがくっきりと見え、琴や笛の音色も、すっきりと澄んだ気は致しますが、やはり特別に作り出したような 空模様や、草花の露も、いろいろと目移りし気が散って、限界がございます。  春の空のたどたどしい霞の間から、朧に霞んだ月の光に、静かに笛を吹き合わせたようなのには、どうして秋が及びましょうか。笛の音色なども、 優艶に澄みきることはないのです。  女性は春をあわれぶと、昔の人が言っておりました。なるほど、そのようでございます。やさしく音色が調和する点では、春の夕暮が格別でござ います」  と申し上げなさると、  「いや、この議論だがね。昔から皆が判断しかねた事を、末の世の劣った者には、決定しがたいことであろう。楽器の調べや、曲目などは、なる ほど律を二の次にしているが、そのようなことであろう」  などとおっしゃって、  「どんなものであろう。現在、演奏上手の評判の高い、その人あの人を、帝の御前などで、度々試みさせあそばすと、勝れた者は、数少なくなっ たようだが、その一流と思われる名人たちも、どれほども習得し得ていないのではなかろうか。このような何でもないご婦人方の中で一緒に弾いた としても、格別に勝れているようには思われない。  何年もこのように引き籠もって過ごしていると、鑑賞力も少し変になったのだろうか、残念なことだ。妙に、人々の才能は、ちょっと習い覚えた芸事 でも、見栄えがして他より勝れているところである。あの、御前の管弦の御遊などに、一流の名手として選ばれた人々の、誰それと比較したらどう であろうか」  とおっしゃるので、大将は、  「その事を、申し上げようと思っておりましたが、よくも弁えぬくせに、偉そうに言うのもどうかと存じまして。古い昔の勝れた時代を聞き比べており ませんからでしょうか、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などは、最近の珍しく勝れた例に引くようでございます。  なるほど、又とない演奏者ですが、今夜お聞き致しました楽の音色は、皆同じように耳を驚かしました。やはり、このように特別のことでもない御 催しと、かねがね思って油断しておりました気持ちが不意をつかれて騒ぐのでしょう。唱歌など、とてもお付き合いしにくうございました。  和琴は、あの太政大臣だけが、このように臨機応変に、巧みに操った音色などを、思いのままに掻き立てていらっしゃるのは、とても格別上手で いらっしゃったが、なかなか飛び抜けて上手には弾けないものでございますのに、まことに勝れて調子が整ってございました」  と、お誉め申し上げなさる。  「いや、それほど大した弾き方ではないが、特別に立派なようにお誉めになるね」  とおっしゃって、得意顔に微笑んでいらっしゃる。  「なるほど、悪くはない弟子たちである。琵琶は、わたしが口出しするようなことは何もないが、そうは言っても、どことなく違うはずだ。思いがけな い所で初めて聞いた時、珍しい楽の音色だと思われたが、その時からは、又格段上達しているからな」  と、強引に自分の手柄のように自慢なさるので、女房たちは、そっとつつきあう。  [第二段 琴の論]  「何事も、その道その道の稽古をすれば、才能というもの、どれも際限ないとだんだんと思われてくるもので、自分の気持ちに満足する限度はな く、習得することは実に難しいことだが、いや、どうして、その奥義を究めた人が、今の世に少しもいないので、一部分だけでも無難に習得したよう な人は、その一面で満足してもよいのだが、琴の琴は、やはり面倒で、手の触れにくいものである。  この琴は、ほんとうに奏法どおりに習得した昔の人は、天地を揺るがし、鬼神の心を柔らげ、すべての楽器の音がこれに従って、悲しみの深い者 も喜びに変わり、賎しく貧しい者も高貴な身となり、財宝を得て、世に認められるといった人が多かったのであった。  わが国に弾き伝える初めまで、深くこの事を理解している人は、長年見知らぬ国で過ごし、生命を投げうって、この琴を習得しようとさまよってす ら、習得し得るのは難しいことであった。なるほど確かに、明らかに空の月や星を動かしたり、時節でない霜や雪を降らせたり、雲や雷を騒がしたり した例は、遠い昔の世にはあったことだ。  このように限りない楽器で、その伝法どおりに習得する人がめったになく、末世だからであろうか、どこにその当時の一部分が伝わっているのだ ろうか。けれども、やはり、あの鬼神が耳を止め、傾聴した始まりの事のある琴だからであろうか、なまじ稽古して、思いどおりにならなかったという 例があってから後は、これを弾く人、禍があるとか言う難癖をつけて、面倒なままに、今ではめったに弾き伝える人がいないとか。実に残念なことで ある。  琴の音以外では、どの絃楽器をもって音律を調える基準とできようか。なるほど、すべての事が衰えて行く様子は、たやすくなって行く世の中で、 一人故国を離れて、志を立てて、唐土、高麗と、この世をさまよい歩き、親子と別れることは、世の中の変わり者となってしまうことだろう。  どうして、それほどまでせずとも、やはりこの道をだいたい知る程度の一端だけでも、知らないでいられようか。一つの調べを弾きこなす事さえ、量 り知れない難しいものであるという。いわんや、多くの調べ、面倒な曲目が多いので、熱中していた盛りには、この世にあらん限りの、わが国に伝 わっている楽譜という楽譜のすべてを広く見比べて、しまいには、師匠とすべき人もなくなるまで、好んで習得したが、やはり昔の名人には、かな いそうにない。まして、これから後というと、伝授すべき子孫がいないのが、何とも心寂しいことだ」  などとおっしゃるので、大将は、なるほどまことに残念にも恥ずかしいとお思いになる。  「この御子たちの中で、望みどおりにご成人なさる方がおいでなら、その方が大きくなった時に、その時まで生きていることがあったら、いかほど でもないわたしの技にしても、すべてご伝授申し上げよう。三の宮は、今からその才能がありそうにお見えになるから」  などとおっしゃると、明石の君は、たいそう面目に思って、涙ぐんで聞いていらっしゃった。  [第三段 源氏、葛城を謡う]  女御の君は、箏の御琴を、紫の上にお譲り申し上げて、寄りかかりなさったので、和琴を大殿の御前に差し上げて、寛いだ音楽の遊びになった。 「葛城」を演奏なさる。明るくおもしろい。大殿が繰り返しお謡いになるお声は、何にも喩えようがなく情がこもっていて素晴らしい。  月がだんだんと高く上って行くにつれて、花の色も香も一段と引き立てられて、いかにも優雅な趣である。箏の琴は、女御のお爪音は、とてもか わいらしげにやさしく、母君のご奏法の感じが加わって、揺の音が深く、たいそう澄んで聞こえたのを、こちらのご奏法は、また様子が違って、緩や かに美しく、聞く人が感に堪えず、気もそぞろになるくらい魅力的で、輪の手など、すべていかにも、たいそう才気あふれたお琴の音色である。  返り声に、すべて調子が変わって、律の合奏の数々が、親しみやすく華やかな中にも、琴の琴は、五箇の調べを、たくさんある弾き方の中で、注 意して必ずお弾きにならなければならない五、六の発刺を、たいそう見事に澄んでお弾きになる。まったくおかしなところはなく、たいそうよく澄んで 聞こえる。  春秋どの季節の物にも調和する調べなので、それぞれに相応しくお弾きになる。そのお心配りは、お教え申し上げたものと違わず、たいそうよく 会得していらっしゃるのを、たいそういじらしく、晴れがましくお思い申し上げになる。  [第四段 女楽終了、禄を賜う]  この若君たちが、とてもかわいらしく笛を吹き立てて、一生懸命になっているのを、おかわいがりになって、  「眠たくなっているだろうに。今夜の音楽の遊びは、長くはしないで、ほんの少しのところでと思っていたが。やめるのには惜しい楽の音色が、甲 乙をつけがたいのを、聞き分けるほどに耳がよくないので愚図愚図しているうちに、たいそう夜が更けてしまった。気のつかないことであった」  と言って、笙の笛を吹く君に、杯をお差しになって、お召物を脱いでお与えになる。横笛の君には、こちらから、織物の細長に、袴などの仰々しくな いふうに、形ばかりにして、大将の君には、宮の御方から、杯を差し出して、宮のご装束を一領をお与え申し上げなさるのを、大殿は、  「妙なことだね。師匠のわたしにこそ、さっそくご褒美を下さってよいものなのに。情ないことだ」  とおっしゃるので、宮のおいであそばす御几帳の側から、御笛を差し上げる。微笑みなさってお取りになる。たいそう見事な高麗笛である。少し吹 き鳴らしなさると、皆お返りになるところであったが、大将が立ち止まりなさって、ご子息の持っておいでの笛を取って、たいそう素晴らしく吹き鳴ら しなさったのが、実に見事に聞こえたので、どなたもどなたも、皆ご奏法を受け継がれたお手並みが、実に又となくばかりあるので、ご自分の音楽 の才能が、めったにないほどだと思われなさるのであった。  [第五段 夕霧、わが妻を比較して思う]  大将殿は、若君たちをお車に乗せて、月の澄んだ中をご退出なさる。道中、箏の琴が普通とは違ってたいそう素晴らしかった音色が、耳について 恋しくお思い出されなさる。  ご自分の北の方は、亡き大宮がお教え申し上げなさったが、熱心にお習いなさらなかったうちに、お引き離されておしまいになったので、ゆっくり とも習得なさらず、夫君の前では、恥ずかしがって全然お弾きにならない。何ごともただあっさりと、おっとりとした物腰で、子供の世話に、休む暇も なく次々となさるので、風情もなくお思いになる。そうはいっても、機嫌を悪くして、嫉妬するところは、愛嬌があってかわいらしい人柄でいらっしゃる ようである。   第六章 紫の上の物語 出家願望と発病  [第一段 源氏、紫の上と語る]  院は、対へお渡りになった。紫の上は、お残りになって、宮にお話など申し上げなさって、暁方にお帰りになった。日が高くなるまでお寝みになっ た。  「宮のお琴の音色は、たいそう上手になったものだな。どのようにお聞きなさいましたか」  とお尋ねなさるので、  「初めの方は、あちらでちらっと聞いた時には、どんなものかしらと思いましたが、とてもこの上なく上手になりましたわ。どうして、あのように専心 してお教え申し上げになったのですから」  とお答えなさる。  「そうなのだ。手を取り取りの、たいした師匠なんだよ。他のどなたにも、厄介で、面倒なことなので、お教え申さないが、院にも帝にも、琴の琴は いくらなんでもお教え申しているだろうとおっしゃると、耳にするのがおいたわしくて、そうは言っても、せめてその程度のことだけはと、このように特 別なご後見にとお預けになった甲斐にはと、思い立ってね」  などと申し上げなさるついでにも、  「昔、まだ幼かったころ、お世話したものだが、当時は暇がなくて、ゆっくりと特別にお教え申し上げることなどもなく、近頃になっても、何となく次 から次へと、とり紛れては日を送り、聞いて上げなかったお琴の音色が、素晴らしい出来映えだったのも、晴れがましいことで、大将が、たいそう耳 を傾け感嘆していた様子も、思いどおりで嬉しいことであった」  などと申し上げなさる。  [第二段 紫の上、三十七歳の厄年]  こういった音楽の方面のことも、今はまた年輩者らしく、若宮たちのお世話などを、引き受けなさっている様子も、至らないところなく、すべて何事 につけても、非難されるような行き届かないところなく、世にもまれなご様子の方なので、まことにこのように何から何までそなわっていらっしゃる方 は、長生きしない例もあるというのでと、不吉なまでにお思い申し上げなさる。  いろいろな人の有様を多く御覧になっているために、何から何まで揃っている点では、本当に例があるまいと心底からお思い申し上げていらっし ゃった。今年は、三十七歳におなりである。一緒にお暮らし申されてからの年月のことなどを、しみじみとお思い出しなさったついでに、  「しかるべきご祈祷など、いつもの年よりも特別にして、今年はご用心なさい。何かと忙しくばかりあって、考えつかないことがあるだろうから、や はり、あれこれとお思いめぐらしになって、大がかりな仏事を催しなさるなら、わたしの方でさせていただこう。僧都が亡くなってしまわれたことが、 たいそう残念なことだ。一通りのお願いをするのにつけても、たいそう立派な方であったのに」  などとおっしゃる。  [第三段 源氏、半生を語る]  「わたしは、幼い時から、人とは違ったふうに、大層な育ち方をして来て、現在の世の評判や有様、過去にも類例が少ないものであった。けれど も、また一方で、大変に悲しいめに遭ったことでも、人並み以上であったことです。  まず第一に、愛する方々に次々と先立たれ、とり残された晩年になっても、意に満たず悲しいと思う事が多く、不本意にも感心しないことにかかわ ったにつけても、妙に物思いが絶えず、心に満足のゆかず思われる事が身につきまとって過ごして来てしまったので、その代わりとででもいうの か、思っていたわりに、今まで生き永らえているのだろうと、思わずにはいられません。  あなたご自身には、あの一件での離別のほかは、その前にも後にも、心配して、心をお痛めになるようなことはあるまいと思う。后と言っても、ま してそれより下の方々は、身分が高いからと言っても、皆必ず物思いの種が付き纏うものなのです。  高いお付き合いをするにつけても、気苦労があり、人と争う思いが絶えないのも、楽なことではないから、親のもとでの深窓生活同然に暮らしてい らっしゃるような気楽さはありません。その点では、人並み以上の運勢だとお分かりでしょうか。  思いもかけず、この宮がこのようにお輿入れなさったのは、何やら辛くお思いでしょうが、それにつけては、いっそう勝る愛情を、ご自分の身の上 のことですから、あるいはお気づきでないかも知れません。物のわけをよくお分りのようですから、きっとお分りだろうと思います」  と申し上げなさると、  「おっしゃるように、ふつつかな身の上には、過ぎた事と世間の目には見えましょうが、心に堪えない物思いばかりがつきまとうのは、それがわた し自身のご祈祷となっているのでした」  と言って、多く言い残したような様子は、奥ゆかしそうである。  「ほんとうのことを申しますと、もうとても先も長くないような心地がするのですが、今年もこのように知らない顔をして過ごすのは、とても不安なこと です。先々にも申し上げたこと、何とかお許しがあれば」  と申し上げなさる。  「それは、とんでもないことだ。そうして、離れておしまいになった後に残ったわたしは、何の生き甲斐があろう。ただこのように何ということもなく 過ぎて行く月日だが、朝に晩に顔を合わせる嬉しさだけで、これ以上の事はないと思われるのです。やはりあなたを人とは違って思う気持ちがどれ ほど深いものであるか最後まで見届けてください」  とばかり申し上げなさるのを、いつものことと胸が痛んで、涙ぐんでいらっしゃる様子を、たいそういとしいと拝見なさって、いろいろとお慰め申し上 げなさる。  [第四段 源氏、関わった女方を語る]  「多くは知らないが、人柄が、それぞれにとりえのないものはないと分かって行くにつれて、ほんとうの気立てがおおらかで落ち着いているのは、 なかなかいないものであると、思うようになりました。  大将の母君を、若いころにはじめて妻として、大事にしなければならない方とは思ったが、いつも夫婦仲が好くなく、うちとけぬ気持ちのまま終わ ってしまったのが、今思うと、気の毒で残念である。  しかしまた、わたし一人の罪ばかりではなかったのだと、自分の胸一つに思い出される。きちんとして重々しくて、どの点が不満だと思われること もなかった。ただ、あまりにくつろいだところがなく、几帳面すぎて、少しできすぎた人であったと言うべきであろうかと、離れて思うには信頼が置け て、一緒に生活するには面倒な人柄であった。  中宮の御母君の御息所は、人並すぐれてたしなみ深く優雅な人の例としては、まず第一に思い出されるが、逢うのに気がおけて、こちらが気苦 労するような方でした。恨むことも、なるほど無理もないことと思われる点を、そのままいつまでも思い詰めて、深く怨まれたのは、まことに辛いこと であった。  緊張のし通しで気づまりで、自分も相手もゆっくりとして、朝夕睦まじく語らうには、とても気の引けるところがあったので、気を許しては軽蔑される のではないかなどと、あまりに体裁をつくろっていたうちに、そのまま疎遠になった仲なのです。  たいそうとんでもない浮名を立て、ご身分に相応しくなくなってしまった嘆きを、たいそう思い詰めていらっしゃったのがお気の毒で、なるほど人柄 を考えても、自分に罪がある心地がして終わってしまったその罪滅ぼしに、中宮をこのようにそうなるべき前世からのご因縁とは言いながら、取り 立てて、世の非難、人の嫉妬も意に介さず、お世話申し上げているのを、あの世からであっても考え直して下さったろう。今も昔も、いいかげんな気 まぐれから、気の毒な事や後悔する事が多いのです」  と、亡くなったご夫人方について少しずつおっしゃり出して、  「今上の御方のご後見は、大した身分の人でないと、最初から軽く見て、気楽な相手だと思っていたが、やはり心の底が見えず、際限もなく深い ところのある人でした。表面は従順で、おっとりして見えるながら、しっかりしたところが下にあって、どことなく気の置けるところがある人です」  とおっしゃると、  「他の方は会ったことがないので知りませんが、この方は、はっきりとではないが、自然と様子を見る機会も何度かあったので、とても馴れ馴れし くできず、気の置ける嗜みがはっきりと分かりますにつけても、とても途方もない単純なわたしを、どのように御覧になっているだろうと、気の引ける ところですが、女御は、自然と大目に見て下さるだろうとばかり思っています」  とおっしゃる。  あれほど目障りな人だと心を置いていらっしゃった人を、今ではこのように顔を合わせたりなどなさるのも、女御の御ためを思う真心の結果なのだ とお思いになると、普通にはとても出来ないことなので、  「あなたこそは、それでもやはり心底に思わないこともないではないが、人によって、事によって、とても上手に心を使い分けていらっしゃいます ね。全く多くの女たちに接して来たが、あなたのご様子に似ている人はいませんでした。とても態度は格別でいらっしゃいます」  と、ほほ笑んで申し上げなさる。  「宮に、とても琴の琴を上手にお弾きになったお祝いを申し上げよう」  と言って、夕方お渡りになった。自分に気兼ねする人があろうかともお考えにもならず、とてもたいそう若々しくて、一途に御琴に熱中していらっし ゃる。  「もう、お暇を下さって休ませていただきたいものです。師匠は満足させてこそです。とても辛かった日頃の成果があって、安心出来るほどお上手 になりになりました」  と言って、お琴類は押しやって、お寝みになった。  [第五段 紫の上、発病す]  対の上のもとでは、いつものようにいらっしゃらない夜は、遅くまで起きていらして、女房たちに物語などを読ませてお聞きになる。  「このように、世間で例に引き集めた昔語りにも、不誠実な男、色好み、二心ある男に関係した女、このようなことを語り集めた中にも、結局は頼 る男に落ち着くようだ。どうしたことか、浮いたまま過してきたことだわ。確かにおっしゃったように、人並み勝れた運勢であったわが身の上だが、世 間の人が我慢できず満足ゆかないこととする悩みが身にまといついて終わろうとするのだろうか。つまらない事よ」  などと思い続けて、夜が更けてお寝みになった、その明け方から、お胸をお病みになる。女房たちがご看病申し上げて、  「お知らせ申し上げましょう」  と申し上げるが、  「とても不都合なことです」  とお制しなさって、苦しいのを我慢して夜を明かしなさった。お身体も熱があって、ご気分もとても悪いが、院がすぐにお帰りにならない間、これこ れとも申し上げない。  [第六段 朱雀院の五十賀、延期される]  女御の御方からお便りがあったので、  「これこれと気分が悪くていらっしゃいます」  と申し上げなさると、びっくりして、そちらから申し上げなさったので、胸がどきりとして、急いでお帰りになると、とても苦しそうにしていらっしゃる。  「どのようなご気分ですか」  と手をさし入れなさると、とても熱っぽくいらっしゃるので、昨日申し上げなさったご用心のことなどをお考え合わせになって、とても恐ろしく思わず にはいらっしゃれない。  御粥などをこちらで差し上げたが、御覧にもならず、一日中付き添っていらして、いろいろと介抱なさりお心を痛めなさる。ちょっとしたお果物でさ Last updated 4/26/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    柏木 光る源氏の准太上天皇時代四十八歳春一月から夏四月までの物語 第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産 1.柏木、病気のまま新年となる--衛門督の君、このようにばかりお病み続けになること 2.柏木、女三の宮へ手紙---「どうしてこのように、生きる瀬もなくしてしまった身の上なのだろう」と 3.柏木、侍従を招いて語る---大臣は、優れた行者で、葛城山から招き迎えたのを 4.女三の宮の返歌を見る---宮も何かと恥ずかしく顔向けできない思いでいられる様子を話す 5.女三の宮、男子を出産---宮は、この日の夕方から苦しそうになさったが、産気づかれた様子だと 6.女三の宮、出家を決意---宮は、あれほどか弱いご様子で、とても気味の悪い 第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家 1.朱雀院、夜闇に六条院へ参上---山の帝は、初めてのご出産が無事であったとお聞きあそばして 2.朱雀院、女三の宮の希望を入れる---「はなはだ恐縮な御座所ではありますが」と言って、御帳台の前に 3.源氏、女三の宮の出家に狼狽---御心中、この上なく安心に思ってお任せ申した姫宮の御ことを 4.朱雀院、夜明け方に山へ帰る---山に帰って行くのに、道中が昼間では不体裁であろうと 第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去 1.柏木、権大納言となる---あの衛門督は、このような御事をお聞きになって 2.夕霧、柏木を見舞う---大将の君、いつも大変に心配して、お見舞い申し上げなさる 3.柏木、夕霧に遺言---「長らくご病気でいらっしゃったわりには、ことにひどくも 4.柏木、泡の消えるように死去---女御は申し上げるまでもなく、この大将の御方なども 第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い 1.三月、若君の五十日の祝い---三月になると、空の様子もどことなく麗かな感じがして 2.源氏と女三の宮の夫婦の会話---宮もお起きなさって、御髪の裾がいっぱいに広がっているのを 3.源氏、老後の感懐---御乳母たちは、家柄が高く、見た目にも無難な人たちばかりが大勢伺候している 4.源氏、女三の宮に嫌味を言う---「この事情を知って人、女房の中にもきっといることだろう 5.夕霧、事の真相に関心---大将の君は、あの思い余って、ちらっと言い出した事を 第五章 夕霧の物語 柏木哀惜 1.夕霧、一条宮邸を訪問---一条宮におかれては、それ以上に、お目にかかれぬままご逝去 2.母御息所の嘆き---御息所も鼻声におなりになって、「死別の悲しみは 3.夕霧、御息所と和歌を詠み交わす---大将も、すぐには涙をお止めになれない 4.夕霧、太政大臣邸を訪問---致仕の大殿に、そのまま参上なさったところ、弟君たちが 5.四月、夕霧の一条宮邸を訪問---あの一条宮邸にも、常にお見舞い申し上げなさる 6.夕霧、御息所と対話---御息所のいざり出でなさるご様子がするので、静かに居ずまいを正し   第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産  [第一段 柏木、病気のまま新年となる]  衛門督の君、このようにばかりお病み続けになること、依然として回復せぬまま、年も改まった。大臣、北の方、お嘆きになる様子を拝見すると、  「無理して死のうと思う命、その甲斐もなく、罪障のきっと重いだろうことを思う、その考えは考えとして、また一方で、むやみに、この世から出離し がたく、惜しんで留めて置きたい身の上であろうか。幼かったときから、思う考えは格別で、どのようなことでも、人にはいま一段抜きんでたいと、公 事私事につけて、並々ならず気位高く持していたが、その望みも叶いがたかった」  と、一つ二つのつまずき事に、わが身に自信をなくして以来、大方の世の中がおもしろくなく思うようになって、来世の修業に心深く惹かれたのだ が、両親のご悲嘆を思うと、山野にもさまよい込む道の強い障害ともなるにちがいなく思われたので、あれやこれやと紛らわし紛らわし過ごしてき たのだが、とうとう、  「やはり、世の中には生きていけそうにも思われない悩みが、並々ならず身に付き纏っているのは、自分より外に誰を恨めようか、自分の料簡違 いから破滅を招いたのだろう」  と思うと、恨むべき相手もいない。  「神、仏にも不平の訴えようがないのは、これは皆前世からの因縁なのであろう。誰も千年を生きる松ではない一生は、結局いつまでも生きてい られるものではないから、このように、あの人からも、少しは思い出してもらえるようなところで、かりそめの憐れみなりともかけて下さる方があろうと いうことを、一筋の思いに燃え尽きたしるしとはしよう。  無理に生き永られていれば、自然ととんでもない噂もたち、自分にも相手にも、容易ならぬ面倒なことが出て来るようになるよりは、不届き者よ と、ご不快に思われた方にも、いくら何でもお許しになろう。何もかものこと、臨終の折には、一切帳消しになるものである。また、これ以外の過失 はほんとないので、長年何かの催しの機会には、いつも親しくお召し下さったことからの憐れみも生じて来よう」  などと、所在なく思い続けるが、いくら考えてみても、実にどうしようもない。  [第二段 柏木、女三の宮へ手紙]  「どうしてこのように、生きる瀬もなくしてしまった身の上なのだろう」と、心がまっくらになる思いがして、枕も浮いてしまうほどに、誰のせいでもな く涙を流しては、少しは具合が好いとあって、ご両親たちがお側を離れなさっていた時に、あちらにお手紙を差し上げなさる。  「今はもう最期となってしまいました様子は、自然とお耳に入っていらっしゃいましょうが、せめていかがですかとだけでも、お耳に止めて下さらな いのも、無理もないことですが、とても情けなく存じられますよ」  などと申し上げるにつけても、ひどく手が震えるので、思っていることも皆書き残して、  「もうこれが最期と燃えるわたしの荼毘の煙もくすぶって   空に上らずあなたへの諦め切れない思いがなおもこの世に残ることでしょう  せめて不憫なとだけでもおっしゃって下さい。気持ちを静めて、自分から求めての無明の闇を迷い行く道の光と致しましょう」  と申し上げなさる。  侍従にも、性懲りもなく、つらい思いの数々を書いてお寄こしになった。  「直接お会いして、もう一度申し上げたい事がある」  とおっしゃるので、この人も、子供の時から、あるご縁で行き来して、親しく存じ上げている人なので、大それた恋心は疎ましく思われなさるが、最 期と聞くと、とても悲しくて、泣き泣き、  「やはり、このお返事。本当にこれが最後でございましょう」  と申し上げると、  「わたしも、今日か明日かの心地がして、何となく心細いので、人の死は悲しいものと思いますが、まことに嫌な事であったと懲り懲りしてしまっ たので、とてもその気になれません」  とおっしゃって、どうしてもお書きにならない。  ご性質が、しっかりしていて重々しいというのではないが、気の置ける方のご機嫌が時々良くないのが、とても恐く辛く思われるのであろう。けれ ども、御硯などを用意して是非にとお促し申し上げるので、しぶしぶとお書きになる。受け取って、こっそりと宵闇に紛れて、あちらに持って上がっ た。  [第三段 柏木、侍従を招いて語る]  大臣は、優れた行者で、葛城山から招き迎えたのを、お待ち受けになって、加持をして上げようとなさる。御修法、読経なども、まことに大声で行 なっていた。誰彼のお勧め申すがままに、いろいろと聖めいた験者などで、ほとんど世間では知られず、深い山中に籠もっている者などをも、弟の 公達をお遣わしお遣わしになって、探し出して召し出しになるので、無愛想で気にくわない山伏連中なども、たいそう大勢参上する。お病みになっ ているご様子が、ただ何となく物心細く思って、声を上げて時々お泣きになる。  陰陽師なども、多くは女の霊だとばかり占い申したので、そういう事かも知れないとお考えになるが、まったく物の怪が現れ出て来るものがない ので、お困り果てになって、こうした辺鄙な山々にまでお探しになったのであった。  この聖も、背丈が高く、眼光が鋭くて、荒々しい大声で陀羅尼を読むのを、  「ええ、嫌なことだ。罪障の深い身だからであろうか、陀羅尼の大声が聞こえて来るのは、まことに恐ろしくて、ますます死んでしまいそうな気が する」  と言って、そっと病床を抜け出して、この侍従とお話し合いになる。  大臣は、そうともご存知でなく、お休みになっていると、女房たちに申し上げさせなさったので、そうお思いになって、小声でこの聖とお話なさって いる。お年は召していらっしゃるが、相変わらず陽気なところがおありで、よくお笑いになる大臣が、このような山伏どもと対座して、この病気におな りになった当初からの様子、どうということもなくはっきりしないままに、重くおなりになったこと、  「本当に、この物の怪の正体が、現れるよう祈祷して下さい」  などと、心からお頼みなさるのも、まことにいたいたしい。  「あれをお聞きなさい。何の罪咎ともご存じならないのに。占い当てたという女の霊、本当にそのようなあの方のご執念がわたしの身に取りつい ているならば、愛想の尽きたこの身もうって変わって、大切なものとなるだろう。  それにしても身分不相応な望みを抱いて、とんでもない過ちをしでかして、相手のお方の浮名をも立て、身の破滅を顧みないといった例は、昔の 世にもないではなかった、と考え直してみるが、どうしても様子が何となく恐ろしくて、かのお心に、このような過失をお知られ申したからには、この 世に生き永らえることも、まことに顔向けができなく思われるのは、なるほど特別なご威光なのだろう。  大きな過失でもないのに、目をお合わせした夕方から、そのまま気分がおかしくなって、抜け出した魂が、戻って来なくなってしまったのですが、 あの院の中で彷徨っていたら、魂結びをして下さいよ」  などと、とても弱々しく、脱殻のような様子で、泣いたり笑ったりしてお話しになる。  [第四段 女三の宮の返歌を見る]  宮も何かと恥ずかしく顔向けできない思いでいられる様子を話す。そのようにうち沈んで、痩せていらっしゃるだろうご様子が、目の前にありありと 拝見できるような気がして、ご想像されるので、なるほど抜け出した霊魂は、あちらに行き通うのだろうかなどと、ますます気分もひどくなるので、  「今となっては、もう宮の御事は、いっさい申し上げますまい。この世はこうしてはかなく過ぎてしまったが、未来永劫の成仏する障りになるかもし れないと思うと、お気の毒だ。気にかかるお産の事を、せめてご無事に済んだとお聞き申しておきたい。見た夢を独り合点して、また他に語る相手 もいないのが、たいそう堪らないことであるなあ」    などと、あれこれと思い詰めていらっしゃる執着の深いことを、一方では嫌で恐ろしく思うが、おいたわしい気持ちは、抑え難く、この人もひどく 泣く。  紙燭を取り寄せて、お返事を御覧になると、ご筆跡もたいそう弱々しいが、きれいにお書きになって、  「お気の毒に聞いていますが、どうしてお伺いできましょう。ただお察しするばかりです。お歌に『残ろう』とありますが、   わたしも一緒に煙となって消えてしまいたいほどです   辛いことを思い嘆く悩みの競いに  後れをとれましょうか」  とだけあるのを、しみじみともったいないと思う。  「いやもう、この煙だけが、この世の思い出であろう。はかないことであったな」  と、ますますお泣きになって、お返事、横に臥せりながら、筆を置き置きしてお書きになる。文句の続きもおぼつかなく、筆跡も妙な鳥の脚跡のよ うになって、  「行く方もない空の煙となったとしても   思うお方のあたりは離れまいと思う  夕方は特にお眺め下さい。咎め立て申されるお方の目も、今はもうお気になさらずに、せめて何にもならないことですが、憐みだけは絶えず懸け て下さいませ」  などと乱れ書きして、気分の悪さがつのって来たので、  「もうよい。あまり夜が更けないうちに、お帰りになって、このように最期の様子であったと申し上げて下さい。今となって、人が変だと感づくのを、 自分の死んだ後まで想像するのは情けないことだ。どのような前世からの因縁で、このような事が心に取り憑いたのだろうか」  と、泣き泣きいざってお入りになったので、いつもはいつまでも前に座らせて、とりとめもない話までをおさせになりたくなさっていたのに、お言葉 の数も少ない、と思うと悲しくてならないので、帰ることも出来ない。ご様子を乳母も話して、ひどく泣きうろたえる。大臣などがご心配された有様は 大変なことであるよ。  「昨日今日と、少し好かったのだが、どうしてたいそう弱々しくお見えなのだろう」  とお騷ぎになる。  「いいえもう、生きていられそうにないようです」  と申し上げなさって、ご自身もお泣きになる。  [第五段 女三の宮、男子を出産]  宮は、この日の夕方から苦しそうになさったが、産気づかれた様子だと、お気づき申した女房たち、一同に騷ぎ立って、大殿にも申し上げたので、 驚いてお越しになった。ご心中では、  「ああ、残念なことよ。疑わしい点もなくてお世話申すのであったら、おめでたく喜ばしい事であろうに」  とお思いになるが、他人には気づかれまいとお考えになるので、験者などを召し、御修法はいつとなく休みなく続けてしていられるので、僧侶たち の中で効験あらたかな僧は皆参上して、加持を大騷ぎして差し上げる。  一晩中お苦しみあそばして、日がさし昇るころにお生まれになった。男君とお聞きになると、  「このように内証事が、あいにくなことに、父親に大変よく似た顔つきでお生まれになることは困ったことだ。女なら、何かと人目につかず、大勢の 人が見ることはないので心配ないのだが」  とお思いになるが、また一方では、  「このように、つらい疑いがつきまとっていては、世話のいらない男子でいらしたのも良かったことだ。それにしても、不思議なことだなあ。自分が 一生涯恐ろしいと思っていた事の報いのようだ。この世で、このような思いもかけなかった応報を受けたのだから、来世での罪も、少しは軽くなった ろうか」  とお思いになる。  周囲の人は他に誰も知らない事なので、このように特別なお方のご出産で、晩年にお生まれになったご寵愛はきっと大変なものだろうと、思って 大事にお世話申し上げる。  御産屋の儀式は、盛大で仰々しい。ご夫人方が、さまざまにお祝いなさる御産養、世間一般の折敷、衝重、高坏などの趣向も、特別に競い合っ ている様子が見えるのであった。  五日の夜、中宮の御方から、御産婦のお召し上がり物、女房の中にも、身分相応の饗応の物を、公式のお祝いとして盛大に調えさせなさった。 御粥、屯食を五十具、あちらこちらの饗応は、六条院の下部、院庁の召次所の下々の者たちまで、堂々としたなさり方であった。中宮の宮司、大 夫をはじめとして、冷泉院の殿上人が、皆参上した。  お七夜は、帝から、それも公事に行われた。致仕の大臣などは、格別念を入れてご奉仕なさるはずのところだが、最近は、何を考えるお気持ち のゆとりもなく、一通りのお祝いだけがあった。  親王方、上達部などが、大勢お祝いに参上する。表向きのお祝いの様子にも、世にまたとないほど立派にお世話して差し上げなさるが、大殿の ご心中に、辛くお思いになることがあって、そう大して賑やかなお祝いもしてお上げにならず、管弦のお遊びなどはなかったのであった。  [第六段 女三の宮、出家を決意]  宮は、あれほどか弱いご様子で、とても気味の悪い、初めてのご出産で、恐く思われなさったので、御薬湯などもお召し上がりにならず、わが身 の辛い運命を、こうしたことにつけても心底お悲しみになって、  「いっそのこと、この機会に死んでしまいたい」  とお思いになる。大殿は、まことにうまく表面を飾って見せていらっしゃるが、まだ生まれたばかりの扱いにくい状態でいらっしゃるのを、特別には お世話申されるというでもないので、年老いた女房などは、  「何とまあ、お冷たくていらっしゃること。おめでたくお生まれになったお子様が、こんなにこわいほどお美しくていらっしゃるのに」  と、おいとしみ申し上げるので、小耳におはさみなさって、  「そんなにもよそよそしいことは、これから先もっと増えて行くことになるのだろう」  と恨めしく、わが身も辛くて、尼にもなってしまいたい、というお気持ちになられた。  夜なども、こちらにはお寝みにならず、昼間などにちょっとお顔をお見せになる。  「世の中の無常な有様を見ていると、この先も短く、何となく頼りなくて、勤行に励むことが多くなっておりますので、このようなご出産の後は騒が しい気がするので、参りませんが、いかがですか、ご気分はさわやかになりましたか。おいたわしいことです」  と言って、御几帳の側からお覗き込みになった。御髪をお上げになって、  「やはり、生きていられない気が致しますが、こうしたわたしは罪障も重いことです。尼になって、もしやそのために生き残れるかどうか試してみ て、また死んだとしても、罪障をなくすことができるかと存じます」  と、いつものご様子よりは、とても大人らしく申し上げなさるので、  「まことに嫌な、縁起でもないお言葉です。どうして、そんなにまでお考えになるのですか。このようなことは、そのように恐ろしい事でしょうが、そ れだからと言って命が永らえないというなら別ですが」  とお申し上げなさる。ご心中では、  「本当にそのようにお考えになっておっしゃるのならば、出家をさせてお世話申し上げるのも、思いやりのあることだろう。このように連れ添ってい ても、何かにつけて疎ましく思われなさるのがおいたわしいし、自分自身でも、気持ちも改められそうになく、辛い仕打ちが折々まじるだろうから、 自然と冷淡な態度だと人目に立つこともあろうことが、まことに困ったことで、院などがお耳になさることも、すべて自分の至らなさからとなるであろ う。ご病気にかこつけて、そのようにして差し上げようかしら」  などとお考えになるが、また一方では、大変惜しくていたわしく、これほど若く生い先長いお髪を、尼姿に削ぎ捨てるのはお気の毒なので、  「やはり、気をしっかりお持ちなさい。心配なさることはありますまい。最期かと思われた人も、平癒した例が身近にあるので、やはり頼みになる 世の中です」  などと申し上げなさって、御薬湯を差し上げなさる。とてもひどく青く痩せて、何とも言いようもなく頼りなげな状態で臥せっていらっしゃるご様子、 おっとりして、いじらしいので、  「大層な過失があったにしても、心弱く許してしまいそうなご様子だな」  と拝見なさる。   第二章 女三の宮の物語 女三の宮の出家  [第一段 朱雀院、夜闇に六条院へ参上]  山の帝は、初めてのご出産が無事であったとお聞きあそばして、しみじみとお会いになりたくお思いになるが、  「このようにご病気でいらっしゃるという知らせばかりなので、どうおなりになることか」  と、御勤行も乱れて御心配あそばすのであった。  あれほどお弱りになった方が、何もお召し上がりにならないで、何日もお過ごしになったので、まことに頼りなくおなりになって、幾年月もお目にか からなかった時よりも、院を大変恋しく思われなさるので、  「再びお目にかかれないで終わってしまうのだろうか」  と、ひどくお泣きになる。このように申し上げなさるご様子、しかるべき人からお伝え申し上げさせなさったので、とても我慢できず悲しくお思いに なって、あってはならないこととはお思いになりながら、夜の闇に隠れてお出ましになった。  前もってそのようなお手紙もなくて、急にこのようにお越しになったので、主人の院、驚いて恐縮申し上げなさる。  「世俗の事を顧みすまいと思っておりましたが、やはり煩悩を捨て切れないのは、子を思う親心の闇でございましたが、勤行も懈怠して、もしも親 子の順が逆になって先立たれるようなことになったら、そのまま会わずに終わった怨みがお互いに残りはせぬかと、情けなく思われたので、世間 の非難を顧みず、こうして参ったのです」  とお申し上げになる。御姿、僧形であるが、優雅で親しみやすいお姿で、目立たないように質素な身なりをなさって、正式な法服ではなく、墨染の 御法服姿で、申し分なく素晴らしいのにつけても、羨ましく拝見なさる。例によって、まっさきに涙がこぼれなさる。  「患っていらっしゃるご様子、特別どうというご病気ではありません。ただここ数月お弱りになったご様子で、きちんとお食事なども召し上がらない 日が続いたせいか、このようなことでいらっしゃるのです」  などと申し上げなさる。  [第二段 朱雀院、女三の宮の希望を入れる]  「はなはだ恐縮な御座所ではありますが」  と言って、御帳台の前に、御褥を差し上げてお入れ申し上げなさる。宮を、あれこれと女房たちが身なりをお整い申して、浜床の下方にお下ろし 申し上げる。御几帳を少し押し除けさせなさって、  「夜居の加持僧などのような気がするが、まだ効験が現れるほどの修業もしていないので、恥ずかしいけれど、ただお会いしたく思っていらっしゃ るわたしの姿を、そのままとくと御覧になるがよい」  とおっしゃって、お目をお拭いあそばす。宮も、とても弱々しくお泣きになって、  「生き永らえそうにも思われませんので、このようにお越しになった機会に、尼になさって下さいませ」  と申し上げなさる。  「そのようなご希望があるならば、まことに尊いことであるが、そうはいえ、人の寿命は分からないものゆえ、生き先長い人は、かえって後で間違 いを起こして、世間の非難を受けるようなことになりかねないだろう」  などと仰せられて、大殿の君に、  「このように自分から進んでおっしゃるので、もうこれが最期の様子ならば、ちょっとの間でも、その功徳があるようにして上げたい、と存じます」  と仰せになるので、  「この日頃もそのようにおっしゃいますが、物の怪などが、宮のお心を惑わして、このような方面に勧めるようなこともございますこととて、お聞き入 れ致さないのです」  とお申し上げになる。  「物の怪の教えであっても、それに負けたからといって、悪いことになるのならば控えねばならないが、衰弱した人が、最期と思って願っていらっし ゃるのを、聞き過ごすのは、後々になって悔やまれ辛い思いをするのではないか」  と仰せになる。  [第三段 源氏、女三の宮の出家に狼狽]  御心中、この上なく安心に思ってお任せ申した姫宮の御ことを、お引き受けなさったが、それほど愛情も深くなく、自分の思っていたのとは違った ご様子を、何かにつけて、ここ幾年もお聞きあそばして積もりに積もったご不満、顔色に現してお恨み申し上げなさるべきことでもないので、世間の 人が想像したり噂したりすることも残念にお思い続けていられたので、  「このような機会に、出家するのが、どうしてか、物笑いになるような、夫婦仲を恨んでのことのようでなく、それで不都合があろうか。一通りのお 世話は、やはり頼りになれそうなお気持ちであるから、ただそれだけをお預け申し上げた甲斐と思うことにして、面当てつけがましく出家した恰好で はなくとも、ご遺産に広くて美しい宮邸をご伝領なさっていたのを、修繕してお住ませ申そう。  自分の生きている間に、そのようにしてでも、不安がないようにしておき、またあの大殿も、そうは言っても、冷淡には決してお見捨てなさるまい。 その気持ちも見届けよう」  とお考え決めなさって、  「それでは、このように参った機会に、せめて出家の戒をお受けになることだけでもして、仏縁を結ぶことにしよう」  と仰せになる。  大殿の君、厭わしいとお思いになる事も忘れて、これはどうなることかと、悲しく残念でもあったので、堪えることがおできになれず、御几帳の中 に入って、  「どうしてか、そう長くはないわたしを捨てて、そのようにお考えになったのですか。やはり、もう暫く心を落ち着けなさって、御薬湯を上がり、食べ 物を召し上がりなさい。尊い事ではあるが、お身体が弱くては、勤行もおできになれようか。ともかくも、養生なさってから」  と申し上げなさるが、頭を振って、とても辛いことをおっしゃると思っておいでである。表面ではさりげなく振る舞っているが、心中恨めしいとお思い になっていらしたことがあったのかと拝見なさると、不憫でおいたわしい。あれやこれやと反対を申して、ためらっていらっしゃるうちに、夜明け近くな ってしまいまった。  [第四段 朱雀院、夜明け方に山へ帰る]  山に帰って行くのに、道中が昼間では不体裁であろうとお急がせあそばして、御祈祷に伺候している中で、位が高く有徳の僧だけを召し入れて、 お髪を下ろさせなさる。まことに女盛りで美しいお髪を削ぎ落として、戒をお受けになる儀式、悲しく残念なので、大殿は堪えることがおできになれ ず、ひどくお泣きになる。  院は院で、もとから特別大切に、誰よりも幸福にしてさし上げたいとお思いになっていたのだが、この世ではその甲斐もないようにおさせ申し上げ るのも、どんなに考えても悲しいので、涙ぐみなさる。  「こうした姿にしたが、健康になって、同じことなら念仏誦経をもお勤めなさい」  と申し上げなさって、夜が明けてしまうので、急いでお帰りになった。  宮は、今も弱々しく息も絶えそうでいらっしゃって、はっきりともお顔も拝見なさらず、ご挨拶も申し上げなさらない。大殿も、  「夢のように存じられて心が乱れておりますので、このように昔を思い出させます御幸のお礼を、御覧に入れられない御無礼は、後日改めて参上 致しまして」  と申し上げなさる。お帰りのお供に家臣を差し上げなさる。  「わたしの寿命も、今日か明日かと思われました時に、また他に面倒を見る人もなくて、寄るべもなく暮らすことが、気の毒で放っておけないよう に思われましたので、あなたの本意ではなかったでしょうが、このようにお願い申して、今まではずっと安心しておりましたが、もしも宮が命を取り 留めましたら、普通とは変わった尼姿で、人の大勢いる中で生活するのは不都合でしょうが、適当な山里などに離れ住む様子も、またそうはいって も心細いことでしょう。尼の身の上相応に、やはり、今まで通りお見捨てなさらずに」  などとお頼み申し上げなさると、  「改めてこのようにまで仰せ下さいましたことが、かえってこちらが恥ずかしく存じられます。乱れ心地に、何やかやと思い乱れまして、何事も判断 がつきかねております」  と答えて、なるほど、とても辛そうに思っていらっしゃった。  後夜の御加持に、御物の怪が現れ出て、  「それごらん。みごとに取り返したと、一人はそうお思いになったのが、まことに悔しかったので、この辺に、気づかれないようにして、ずっと控えて いたのだ。今はもう帰ろう」  と言って、ちょっと笑う。まことに驚きあきれて、  「それでは、この物の怪がここにも、離れずにいたのか」  とお思いになると、お気の毒に悔しく思わずにはいらっしゃれない。宮は、少し生き返ったようだが、やはり頼りなさそうにお見えになる。伺候する 女房たちも、まことに何とも言いようもなく思われるが、「こうしてでも、せめてご無事でいらっしゃったならば」と、祈りながら、御修法をさらに延長し て、休みなく行わせたりなど、いろいろとおさせになる。   第三章 柏木の物語 夕霧の見舞いと死去  [第一段 柏木、権大納言となる]  あの衛門督は、このような御事をお聞きになって、ますます死んでしまいそうな気がなさって、まるきり回復の見込みもなさそうになってしまわれ た。女宮がしみじみと思われなさるので、こちらにお越しになることは、今さら軽々しいようにも思われますが、母上も大臣もこのようにぴったり付き 添っていらっしゃるので、何かの折にうっかりお顔を拝見なさるようなことがあっては、困るとお思いになって、  「あちらの宮邸に、何とかしてもう一度参りたい」  とおっしゃるが、まったくお許し申し上げなさらない。  皆にも、この宮の御事をお頼みなさる。最初から母御息所は、あまりお気が進みでなかったのだが、この大臣自身が奔走して熱心に懇請申し上 げなさって、そのお気持ちの深いことにお折れになって、院におかれても、しかたないとお許しになったのだが、二品の宮の御事にお心をお痛めに なっていた折に、  「かえって、この宮は将来安心で、実直な夫をお持ちになったことだ」  と、仰せられたとお聞きになったのを、恐れ多いことだと思い出す。  「こうして、後にお残し申し上げてしまうようだと思うにつけても、いろいろとお気の毒だが、思う通りには行かない命なので、添い遂げられない夫 婦の仲が恨めしくて、お嘆きになるだろうことがお気の毒なこと。どうか気をつけてお世話してさし上げて下さい」  と、母上にもお頼み申し上げなさる。  「まあ、何と縁起でもないことを。あなたに先立たれては、どれほど生きていられるわたしだと思って、こうまで先々の事をおっしゃるの」  と言って、ただもうお泣きになるばかりなので、十分にお頼み申し上げになることができない。右大弁の君に、一通りの事は詳しくお頼み申し上げ なさる。  気性が穏やかでよくできたお方なので、弟の君たちも、まだ下の方の幼い君たちは、まるで親のようにお頼り申していらっしゃったのに、このよう に心細くおっしゃるのを、悲しいと思わない人はなく、お邸中の人達も嘆いている。  帝も、惜しがり残念がりあそばす。このように最期とお聞きあそばして、急に権大納言にお任じあそばした。喜びに気を取り戻して、もう一度参内 なさるようなこともあろうかと、お考えになって仰せになったが、一向に病気が好くおなりにならず、苦しい中ながら、丁重にお礼申し上げなさる。大 臣も、このようにご信任の厚いのを御覧になるにつけても、ますます悲しく惜しいとお思い乱れなさる。  [第二段 夕霧、柏木を見舞う]  大将の君、いつも大変に心配して、お見舞い申し上げなさる。ご昇進のお祝いにも早速参上なさった。このいらっしゃる対の屋の辺り、こちらの御 門は、馬や、車がいっぱいで、人々が騒がしいほど混雑しあっていた。今年になってからは、起き上がることもほとんどなさらないので、重々しいご 様子に、取り乱した恰好では、お会いすることがおできになれないで、そう思いながら会えずに衰弱してしまったこと、と思うと残念なので、  「どうぞ、こちらへお入り下さい。まことに失礼な恰好でおりますご無礼は、何とぞお許し下さい」  と言って、臥せっていらっしゃる枕元に、僧たちを暫く外にお出しになって、お入れ申し上げなさる。  幼少のころから、少しも分け隔てなさることなく、仲好くしていらっしゃったお二方なので、別れることの悲しく恋しいに違いない嘆きは、親兄弟の 思いにも負けない。今日はお祝いということで、元気になっていたらどんなによかろうと思うが、まことに残念に、その甲斐もない。  「どうしてこんなにお弱りになってしまわれたのですか。今日は、このようなお祝いに、少しでも元気になったろうかと思っておりましたのに」  と言って、几帳の端を引き上げなさったところ、  「まことに残念なことに、本来の自分ではなくなってしまいましたよ」  と言って、烏帽子だけを押し入れるように被って、少し起き上がろうとなさるが、とても苦しそうである。白い着物で、柔らかそうなのをたくさん重ね 着して、衾を引き掛けて臥していらっしゃる。御座所の辺りをこぎれいにしていて、あたりに香が薫っていて、奥ゆかしい感じにお過ごしになってい た。  くつろいだままながら、嗜みがあると見える。重病人というものは、自然と髪や髭も乱れ、むさくるしい様子がするものだが、痩せてはいるが、か えって、ますます白く上品な感じがして、枕を立ててお話を申し上げなさる様子、とても弱々しそうで、息も絶え絶えで、見ていて気の毒そうである。  [第三段 柏木、夕霧に遺言]  「長らくご病気でいらっしゃったわりには、ことにひどくもやつれていらっしゃらないね。いつものご容貌よりも、かえって素晴らしくお見えになりま す」  とおっしゃるものの、涙を拭って  「後れたり先立ったりすることなく死ぬ時は一緒にとお約束申していたのに。ひどいことだな。このご病気の様子を、何が原因でこうもご重態にな られたのかと、それさえ伺うことができないでおります。こんなに親しい間柄ながら、もどかしく思うばかりです」  などとおっしゃると、  「わたし自身には、いつから重くなったのか分かりません。どこといって苦しいこともありませんで、急にこのようになろうとは思ってもおりませんで したうちに、月日を経ずに衰弱してしまいましたので、今では正気も失せたような有様で。  惜しくもない身を、いろいろとこの世に引き止められる祈祷や、願などの力でしょうか、そうはいっても生き永らえるのも、かえって苦しいものです から、自分から進んで、早く死出の道へ旅立ちたく思っております。  そうは言うものの、この世の別れに、捨て難いことが数多くあります。親にも孝行を十分せずに、今になって両親にご心配をおかけし、主君にお仕 えすることも中途半端な有様で、わが身の立身出世を顧みると、また、なおさら大したこともない恨みを残すような世間一般の嘆きは、それはそれ として。  また、心中に思い悩んでおりますことがございますが、このような臨終の時になって、どうして口に出そうかと思っておりましたが、やはり堪えきれ ないことを、あなたの他に誰に訴えられましょう。誰彼と兄弟は多くいますが、いろいろと事情があって、まったく仄めかしたところで、何にもなりま せん。  六条院にちょっとした不都合なことがありまして、ここ幾月、心中密かに恐縮申していることがございましたが、まことに不本意なことで、世の中に 生きて行くのも心細くなって、病気になったと思われたのですが、お招きがあって、朱雀院の御賀の楽所の試楽の日に参上して、ご機嫌を伺いま したところ、やはりお許しなさらないお気持ちの様子に、御目差しを拝見致しまして、ますますこの世に生き永らえることも憚り多く思われまして、ど うにもならなく存じられましたが、魂がうろうろ離れ出しまして、このように鎮まらなくなってしまいました。  一人前とはお考え下さいませんでしたでしょうが、幼うございました時から、深くお頼り申す気持ちがございましたが、どのような中傷などがあった のかと、このことが、この世の恨みとして残りましょうから、きっと来世への往生の妨げになろうかと存じますので、何かの機会がございましたら、お 耳に止めて下さって、よろしく申し開きなさって下さい。  死んだ後にも、このお咎めが許されたらば、あなたのお蔭でございましょう」  などとおっしゃるうちに、たいそう苦しそうになって行くばかりなので、おいたわしくて、心中に思い当たることもいくつかあるが、どうしたことなの か、はっきりとは推量できない。  「どのような良心の呵責なのでしょうか。全然、そのようなご様子もなく、このように重態になられた由を聞いて驚きお嘆きになっていること、この 上もなく残念がり申されていたようでした。どうして、このようにお悩みになることがあって、今まで打ち明けて下さらなかったのでしょうか。こちらと あちらとの間に立って弁解して差し上げられたでしょうに。今となってはどうしようもありません」  と言って、昔を今に取り戻したくお思いになる。  「おっしゃる通り、少しでも具合の良い時に、申し上げてご意見を承るべきでございました。けれども、ほんとうに今日か明日かの命になろうとは、 自分ながら分からない寿命のことを、悠長に考えておりましたのも、はかないことでした。このことは、決してあなた以外にお漏らしなさらないで下さ い。適当な機会がございました折には、ご配慮戴きたいと申し上げて置くのです。  一条の邸にいらっしゃる宮を、何かの折にはお見舞い申し上げて下さい。お気の毒な様子で、父院などにおかれても御心配あそばされるでしょう が、よろしく計らって上げて下さい」  などとおっしゃる。言いたいことは多くあるに違いないようだが、気分がどうにもならなくなってきたので、  「お出になって下さい」  と、手真似で申し上げなさる。加持を致す僧たちが近くに参って、母上、大臣などがお集まりになって、女房たちも立ち騒ぐので、泣く泣くお立ちに なった。  [第四段 柏木、泡の消えるように死去]  女御は申し上げるまでもなく、この大将の御方などもひどくお嘆きになる。思ひやりが、誰に対しても兄としての面倒見がよくていらっしゃったの で、右の大殿の北の方も、この君だけを親しい人とお思い申し上げていらしたので、万事にお嘆きになって、ご祈祷などを特別におさせになった が、薬では治らない病気なので、何の役にも立たないことであった。女宮にも、とうとうお目にかかることがおできになれないで、泡が消えるように してお亡くなりになった。  長年の間、心底から真心こめて愛していたのではなかったが、表面的には、まことに申し分なく大事にお世話申し上げて、素振りもお優しく、気 立てもよく、礼節をわきまえてお過ごしになられたので、辛いと思った事も特にない。ただ、  「このように短命なお方だったので、不思議なことに普通の生活を面白くなくお思いであったのだわ」  とお思い出されると、悲しくて、沈み込んでいらっしゃる様子、ほんとうにおいたわしい。  母御息所も、「大変に外聞が悪く残念だ」と、拝見しお嘆きになること、この上もない。  大臣や、北の方などは、それ以上に何とも言いようがなく、  「自分こそ先に死にたいものだ。世間の道理もあったものでなく辛いことよ」  と恋い焦がれなさったが、何にもならない。  尼宮は、大それた恋心も不愉快なこととばかりお思いなされて、長生きして欲しいともお思いではなかったが、このように亡くなったとお聞きにな ると、さすがにかわいそうな気がした。  「若君のご誕生を、自分の子だと思っていたのも、なるほど、こうなるはずの運命であってか、思いがけない辛い事もあったのだろう」とお考えいた ると、あれこれと心細い気がして、お泣きになった。   第四章 光る源氏の物語 若君の五十日の祝い  [第一段 三月、若君の五十日の祝い]  三月になると、空の様子もどことなく麗かな感じがして、この若君、五十日のほどにおなりになって、とても色白くかわいらしくて、日数の割に大き くなって、おしゃべりなどなさる。大殿がお越しになって、  「ご気分は、さっぱりなさいましたか。いやもう、何とも張り合いのないことだな。普通のお姿で、このようにお祝い申し上げるのであるならば、どん なにか嬉しいことであろうに。残念なことに、ご出家なさったことよ」  と、涙ぐんでお恨み申し上げなさる。毎日お越しになって、今になって、この上なく大切にお世話申し上げなさる。  五十日の御祝いに餅を差し上げなさろうとして、尼姿でいられるご様子を、女房たちは、「どうしたものか」とお思い申して躊躇するが、院がお越し あそばして、  「何のかまうことはない。女の子でいらっしゃったら、同じ事で、縁起でもなかろうが」  と言って、南面に小さい御座所などを設定して、差し上げなさる。御乳母は、とても派手に衣装を着飾って、御前の物、色々な色彩を尽くした籠 物、桧破子の趣向の数々を、御簾の中でも外でも、本当の事は知らないことなので、とり散らかして、無心にお祝いしているのを、「まことに辛く目 を背けたい」とお思いになる。  [第二段 源氏と女三の宮の夫婦の会話]  宮もお起きなさって、御髪の裾がいっぱいに広がっているのを、とてもうるさくお思いになって、額髪などを撫でつけていらっしゃる時に、御几帳を 引き動かしてお座りになると、とても恥ずかしい思いで顔を背けていらっしゃるが、ますます小さく痩せ細りなさって、御髪は惜しみ申されて、長くお 削ぎになってあるので、後姿は格別普通の人と違ってお見えにならない程である。  次々と重なって見える鈍色の袿に、黄色みのある今流行の紅色などをお召しになって、まだ尼姿が身につかない御横顔は、こうなっても可憐な 少女のような気がして、優雅で美しそうである。  「まあ、何と情けない。墨染の衣は、やはり、まことに目の前が暗くなる色だな。このようになられても、お目にかかることは変わるまいと、心を慰 めておりますが、相変わらず抑え難い心地がする涙もろい体裁の悪さを、実にこのように見捨てられ申したわたしの悪い点として思ってみますにつ けても、いろいろと胸が痛く残念です。昔を今に取り返すことができたらな」  とお嘆きになって、  「もうこれっきりとお見限りなさるならば、本当に本心からお捨てになったのだと、顔向けもできず情けなく思われることです。やはり、いとしい者と 思って下さい」  と申し上げなさると、  「このような出家の身には、もののあわれもわきまえないものと聞いておりましたが、ましてもともと知らないことなので、どのようにお答え申し上 げたらよいでしょうか」  とおっしゃるので、  「情けないことだ。お分りになることがおありでしょうに」  とだけ途中までおっしゃって、若君を拝見なさる。  [第三段 源氏、老後の感懐]  御乳母たちは、家柄が高く、見た目にも無難な人たちばかりが大勢伺候している。お呼び出しになって、お世話申すべき心得などをおっしゃる。  「ああかわいそうに、残り少ない晩年に、ご成人して行くのだな」  と言って、お抱きになると、とても人見知りせずに笑って、まるまると太っていて色白でかわいらしい。大将などが幼い時の様子、かすかにお思い 出しなさるのには似ていらっしゃらない。明石女御の宮たちは、それはそれで、父帝のお血筋を引いて、皇族らしく高貴ではいらっしゃるが、特別優 れて美しいというわけでもいらっしゃらない。  この若君、とても上品な上に加えて、かわいらしく、目もとがほんのりとして、笑顔がちでいるのなどを、とてもかわいらしいと御覧になる。気のせ いか、やはり、とてもよく似ていた。もう今から、まなざしが穏やかで人に優れた感じも、普通の人とは違って、匂い立つような美しいお顔である。  宮はそんなにもお分りにならず、女房たちもまた、全然知らないことなので、ただお一方のご心中だけが、  「ああ、はかない運命の人であったな」  とお思いになると、世間一般の無常の世も思い続けられなさって、涙がほろほろとこぼれたのを、今日の祝いの日には禁物だと、拭ってお隠しに なる。  「静かに思って嘆くことに堪へた」  と、朗誦なさる。五十八から十とったお年齢だが、晩年になった心地がなさって、まことにしみじみとお感じになる。「おまえの父親に似るな」とで も、お諌めなさりたかったのであろうよ。  [第四段 源氏、女三の宮に嫌味を言う]  「この事情を知って人、女房の中にもきっといることだろう。知らないのは、悔しい。馬鹿だと思っているだろう」、と穏やかならずお思いになるが、 「自分の落度になることは堪えよう。二つを問題にすれば、女宮のお立場が、気の毒だ」  などとお思いになって、顔色にもお出しにならない。とても無邪気にしゃべって笑っていらっしゃる目もとや、口もとのかわいらしさも、「事情を知ら ない人はどう思うだろう。やはり、父親にとてもよく似ている」、と御覧になると、「ご両親が、せめて子供だけでも残してくれていたらと、お泣きにな っていようにも、見せることもできず、誰にも知られずはかない形見だけを残して、あれほど高い望みをもって、優れていた身を、自分から滅ぼしてし まったことよ」  と、しみじみと惜しまれるので、けしからぬと思う気持ちも思い直されて、つい涙がおこぼれになった。  女房たちがそっと席をはずした間に、宮のお側に近寄りなさって、  「この子を、どのようにお思いになりますか。このような子を見捨てて、出家なさらねばならなかったものでしょうか。何とも、情けない」  と、ご注意をお引き申し上げなさると、顔を赤くしていらっしゃる。  「いったい誰が種を蒔いたのでしょうと人が尋ねたら   誰と答えてよいのでしょう、岩根の松は  不憫なことだ」  などと、そっと申し上げなさると、お返事もなくて、うつ臥しておしまいになった。もっともなことだとお思いになるので、無理に催促申し上げなさらな い。  「どうお思いでいるのだろう。思慮深い方ではいらっしゃらないが、どうして平静でいられようか」  と、ご推察申し上げなさるのも、とてもおいたわしい思いである。  [第五段 夕霧、事の真相に関心]  大将の君は、あの思い余って、ちらっと言い出した事を、  「どのような事であったのだろうか。もう少し意識がはっきりしている状態であったならば、あれほど言い出した事なのだから、十分に事情が察せ られたろうに。何とも言いようのない最期であったので、折も悪くはっきりしないままで、残念なことであったな」  と、その面影が忘れることができなくて、兄弟の君たちよりも、特に悲しく思っていらっしゃった。  「女宮がこのように出家なさった様子、大したご病気でもなくて、きれいさっぱりとご決心なさったものよ。また、そうだからといって、お許し申し上 げなさってよいことだろうか。  二条の上が、あれほど最期に見えて、泣く泣くお願い申し上げなさったと聞いたのは、とんでもないことだとお考えになって、とうとうあのようにお 引き留め申し上げなさったものを」  などと、あれこれと思案をこらしてみると、  「やはり、昔からずっと抱き続けていた気持ちが、抑え切れない時々があったのだ。とてもよく静かに落ち着いた表面は、誰よりもほんとうに嗜み があり、穏やかで、どのようなことをこの人は考えているのだろうかと、周囲の人も気づまりなほどであったが、少し感情に溺れやすいところがあっ て、もの柔らか過ぎたためだ。  どんなにせつなく思い込んだとしても、あってはならないことに心を乱して、このように命を引き換えにしてよいことだろうか。相手のためにもお気 の毒であるし、わが身は滅ぼすことではないか。そのようになるはずの前世からの因縁と言っても、まことに軽率で、つまらないことであるぞ」  などと、自分独りで思うが、女君にさえ申し上げなさらない。適当な機会がなくて、院にもまだ申し上げることができなかった。とはいえ、このよう なことを小耳にはさみました、と申し出て、ご様子も窺って見てみたい気持ちでもあった。  父大臣と、母北の方は、涙の乾かぬ間なく悲しみにお沈みになって、いつの間にか過ぎて行く日数をもお分かりにならず、ご法要の法服、ご衣 装、何やかやの準備も、弟の君たち、姉妹の方々が、それぞれ準備なさるのであった。  経や仏像の指図なども、右大弁の君がおさせになる。七日七日ごとの御誦経などを、周囲の人が注意を促すにつけても、  「わたしに何も聞かせるな。このようにひどく悲しい思いに暮れているのに、かえって往生の妨げとなってはいけない」  と言って、死んだ人のようにぼんやりしていらっしゃる。   第五章 夕霧の物語 柏木哀惜  [第一段 夕霧、一条宮邸を訪問]  一条宮におかれては、それ以上に、お目にかかれぬままご逝去なさった心残りまでが加わって、日数が過ぎるにつれて、広い宮の邸内も、人数 少なく心細げになって、親しく使い馴らしていらした人は、やはりお見舞いに参上する。  お好きであった鷹、馬など、その係の者たちも、皆主人を失ってしょんぼりとして、ひっそりと出入りしているのを御覧になるにつけても、何かにつ けてしみじみと悲しみの尽きないものであった。お使いになっていらしたご調度類で、いつもお弾きになった琵琶、和琴などの絃も取り外されて、音 を立てないのも、あまりにも引き籠もり過ぎていることであるよ。  御前の木立がすっかり芽をふいて、花は季節を忘れない様子なのを眺めながら、何となく悲しく、伺候する女房たちも、鈍色の喪服に身をやつし ながら、寂しく所在ない昼間に、先払いを派手にする声がして、この邸の前に止まる人がいる。  「ああ、亡くなられた殿のおいでかと、ついうっかり思ってしまいました」  と言って、泣く者もいる。大将殿がいらっしゃったのであった。ご案内を申し入れなさった。いつものように弁の君や、宰相などがいらっしゃったもの かとお思いになったが、たいそう気おくれのするほど立派な美しい物腰でお入りになった。  母屋の廂間に御座所を設けてお入れ申し上げなさる。普通の客人と同様に、女房たちがご応対申し上げるのでは、恐れ多い感じのなさる方でい らっしゃるので、御息所がご対面なさった。  「悲しい気持ちでおりますことは、身内の方々以上のものがございますが、世のしきたりもありますから、お見舞いの申し上げようもなくて、世間 並になってしまいました。臨終の折にも、ご遺言なさったことがございましたので、いいかげんな気持ちでいたわけではありません。  誰でも安心してはいられない人生ですが、生き死にの境目までは、自分の考えが及ぶ限りは、浅からぬ気持ちを御覧いただきたいものだと思っ ております。神事などの忙しいころは、私的な感情にまかせて、家に籠もっておりますことも、例のないことでしたので、立ったままではこれまた、 かえって物足りなく存じられましょうと思いまして、日頃ご無沙汰してしまったのです。  大臣などが悲嘆に暮れていらっしゃるご様子、見たり聞いたり致すにつけても、親子の恩愛の情は当然のことですが、ご夫婦の仲では、深いご 無念がおありだったでしょうことを、推量致しますと、まことにご同情に堪えません」  と言って、しばしば涙を拭って、鼻をおかみになる。きわだって気高い一方で、親しみが感じられ優雅な物腰である。  [第二段 母御息所の嘆き]  御息所も鼻声におなりになって、  「死別の悲しみは、この無常の世の習いでございましょう。どんなに悲しいといっても、世間に例のないことではないと、この年寄りは、無理に気 強く冷静に致しておりますが、すっかり悲しみに暮れたご様子が、とても不吉なまでに、今にも後を追いなさるように見えますので、すべてまことに 辛い身の上であったわたしが、今まで生き永らえまして、このようにそれぞれに無常な世の末の様子を拝見致して行くのかと、まことに落ち着かな い気持ちでございます。  自然と親しいお間柄ゆえで、お聞き及んでいらっしゃるようなこともございましたでしょう。最初のころから、なかなかご承知申し上げなかったご縁 組でしたが、大臣のご意向もおいたわしく、院におかれても結構な縁組のようにお考えであった御様子などがございましたので、それではわたしの 考えが至らなかったのだと、自ら思い込ませまして、お迎え申し上げたのですが、このように夢のような出来事を目に致しまして、考え会わせてみ ますと、自分の考えを、同じことなら強く押し通し反対申せばよかったものを、と思いますと、やはりとても残念で。それは、こんなに早くとは思いも 寄りませんでした。  内親王たちは、並大抵のことでは、よかれあしかれ、このように結婚なさることは、感心しないことだと、老人の考えでは思っていましたが、結婚 するしないにかかわらず、中途半端な中空にさまよった辛い運命のお方であったので、いっそのこと、このような時にでも後をお慕い申したところ で、このお方にとって外聞などは、特に気にしないでよろしいでしょうが、そうかといっても、そのようにあっさりとも、諦め切れず、悲しく拝し上げてお りますが、まことに嬉しいことに、懇ろなお見舞いを重ね重ね頂戴しましたようで、有り難いこととお礼申し上げますが、それでは、あのお方とのお 約束があったゆえと、願っていたようには見えなかったお気持ちでしたが、今はの際に、誰彼にお頼みなさったご遺言が、身にしみまして、辛い中 にも嬉しいことはあるものでございました」  と言って、とてもひどくお泣きになる様子である。  [第三段 夕霧、御息所と和歌を詠み交わす]  大将も、すぐには涙をお止めになれない。  「どうしたわけか、実に申し分なく老成していらっしゃった方が、このようになる運命だったからでしょうか、ここ二、三年の間、ひどく沈み込んで、ど ことなく心細げにお見えになったので、あまりに世の無常を知り、考え深くなった人が、悟りすまし過ぎて、このような例で、心が素直でなくなり、か えって逆に、てきぱきしたところがないように人に思われるものだと、いつも至らない自分ながらお諌め申していたので、思慮が浅いとお思いのよう でした。何事にもまして、人に優れて、おっしゃる通り、宮のお悲しみのご心中、恐れ多いことですが、まことにおいたわしゅうございます」  などと、優しく情愛こまやかに申し上げなさって、やや長居してお帰りになる。  あの方は、五、六歳くらい年上であったが、それでも、とても若々しく、優雅で、人なつっこいところがおありであった。この方は、実にきまじめで 重々しく、男性的な感じがして、お顔だけがとても若々しく美しいことは、誰にも勝っていらっしゃった。若い女房たちは、もの悲しい気持ちも少し紛 れてお見送り申し上げる。  御前に近い桜がたいそう美しく咲いているのを、「今年ばかりは」と、ふと思われるのも、縁起でもないことなので、  「再びお目にかかれるのは」  と口ずさみなさって、  「季節が廻って来たので変わらない色に咲きました   片方の枝は枯れてしまったこの桜の木にも」  さりげないふうに口ずさんでお立ちになると、とても素早く、  「今年の春は柳の芽に露の玉が貫いているように泣いております   咲いて散る桜の花の行く方も知りませんので」  と申し上げなさる。格別深い情趣があるわけではないが、当世風で、才能があると言われていらした更衣だったのである。「なるほど、無難なお 心づかいのようだ」と御覧になる。  [第四段 夕霧、太政大臣邸を訪問]  致仕の大殿に、そのまま参上なさったところ、弟君たちが大勢いらっしゃっていた。  「こちらにお入りあそばせ」  と言うので、大臣の御客間の方にお入りになった。悲しみを抑えてご対面なさった。いつまでも若く美しいご容貌、ひどく痩せ衰えて、お髭なども お手入れなさらないので、いっぱい生えて、親の喪に服するよりも憔悴していらっしゃった。お会いなさるや、とても堪え切れないので、「あまりだら しなくこぼす涙は体裁が悪い」と思うので、無理にお隠しになる。  大臣も、「特別仲好くいらしたのに」とお思いになると、ただ涙がこぼれこぼれて、お止めになることができず、語り尽きせぬ悲しみを互いにお話し なさる。  一条宮邸に参上した様子などを申し上げなさる。ますます、春雨かと思われるまで、軒の雫と違わないほど、いっそう涙をお流しになる。畳紙に、 あの「柳の芽に」とあったのを、お書き留めになっていたのを差し上げなさると、「目も見えませんよ」と、涙を絞りながら御覧になる。  泣き顔をして御覧になるご様子、いつもは気丈できっぱりして、自信たっぷりのご様子もすっかり消えて、体裁が悪い。実のところ、特別良い歌で はないようだが、この「玉が貫く」とあるところが、なるほどと思わずにはいらっしゃれないので、心が乱れて、暫くの間、涙を堪えることができない。  「あなたの母上がお亡くなりになった秋は、本当に悲しみの極みに思われましたが、女性というものはきまりがって、知る人も少なく、あれこれと 目立つこともないので、悲しみも表立つことはないのであった。  ふつつかな者でしたが、帝もお見捨てにならず、だんだんと一人前になって、官位も昇るにつれて、頼りとする人々が、自然と次々に多くなってき たりして、驚いたり残念に思う者も、いろいろな関係でいることでしょう。  このように深い嘆きは、その世間一般の評判も、官位のことは考えていません。ただ格別人と変わったところもなかった本人の有様だけが、堪え 難く恋しいのです。いったいどのようにして、この悲しみが忘れられるのでしょう」  と言って、空を仰いで物思いに耽っていらっしゃる。  夕暮の雲の様子、鈍色に霞んで、花の散った梢々を、今日初めて目をお止めになる。さきほどの御畳紙に、  「木の下の雫に濡れて逆様に   親が子の喪に服している春です」  大将の君、  「亡くなった人も思わなかったことでしょう   親に先立って父君に喪服を着て戴こうとは」  弁の君、  「恨めしいことよ、墨染の衣を誰が着ようと思って   春より先に花は散ってしまったのでしょう」  ご法要などは、世間並でなく、立派に催されたのであった。大将殿の北の方はもちろんのこと、殿は特別に、誦経なども手厚くご趣向をお加えな さる。  [第五段 四月、夕霧の一条宮邸を訪問]  あの一条宮邸にも、常にお見舞い申し上げなさる。四月ごろの卯の花は、どこそことなく心地よく、一面新緑に覆われた四方の木々の梢が美しく 見わたされるが、物思いに沈んでいる家は、何につけてもひっそりと心細く、暮らしかねていらっしゃるところに、いつものように、お越しになった。  庭もだんだんと青い芽を出した若草が一面に見えて、あちらこちらの白砂の薄くなった物蔭の所に、雑草がわが物顔に茂っている。前栽を熱心に 手入れなさっていたのも、かって放題に茂りあって、一むらの薄も思う存分に延び広がって、虫の音が加わる秋が想像されると、もうとても悲しく涙 ぐまれて、草を分けてお入りになる。  伊予簾を一面に掛けて、鈍色の几帳を衣更えした透き影が、涼しそうに見えて、けっこうな童女の、濃い鈍色の汗衫の端、頭の恰好などがちらっ と見えているのも、趣があるが、やはりはっとさせられる色である。  今日は簀子にお座りになったので、褥をさし出した。「まことに軽々しいお座席です」と言って、いつものように、御息所に応対をお促し申し上げる が、最近、気分が悪いといって物に寄り臥していらっしゃった。あれこれと座をお取り持ちする間、御前の木立が、何の悩みもなさそうに茂っている 様子を御覧になるにつけても、とてもしみじみとした思いがする。  柏木と楓とが、他の木々よりも一段と若々しい色をして、枝をさし交わしているのを、  「どのような前世の縁でか、枝先が繋がっている頼もしさだ」  などとおっしゃって、目立たないように近寄って、  「同じことならばこの連理の枝のように親しくして下さい   葉守の神の亡き方のお許があったのですからと  御簾の外に隔てられているのは、恨めしい気がします」  と言って、長押に寄りかかっていらっしゃった。  「くだけたお姿もまた、とてもたいそうしなやかでいらっしゃること」  と、お互いにつつき合っている。お相手を申し上げる少将の君という人を使って、  「柏木に葉守の神はいらっしゃらなくても   みだりに人を近づけてよい梢でしょうか  唐突なお言葉で、いい加減なお方と思えるようになりました」  と申し上げたので、なるほどとお思いになると、少し苦笑なさった。  [第六段 夕霧、御息所と対話]  御息所のいざり出でなさるご様子がするので、静かに居ずまいを正しなさった。  「嫌な世の中を、悲しみに沈んで月日を重ねてきたせいでしょうか、気分の悪いのも、妙にぼうっとして過ごしておりますが、このように度々重ね てお見舞い下さるのが、まことにもったいので、元気を奮い起こしまして」  と言って、本当に苦しそうなご様子である。  「お嘆きになるのは、世間の道理ですが、またそんなに悲しんでばかりいられるのもいかがなものかと。何事も、前世からの約束事でございましょ う。何といっても限りのある世の中です」  と、お慰め申し上げなさる。  「この宮は、聞いていたよりも奥ゆかしいところがお見えになるが、お気の毒に、なるほど、どんなにか外聞の悪い事を加えてお嘆きになっていら れることだろう」  と思うと心が動くので、たいそう心をこめて、ご様子をもお尋ね申し上げなさった。  「器量などはとても十人並でいらっしゃるまいけれども、ひどくみっともなくて見ていられない程でなければ、どうして、見た目が悪いといって相手を 嫌いになったり、また、大それたことに心を迷わすことがあってよいものか。みっともないことだ。ただ、気立てだけが、結局は、大切なのだ」とお考 えになる。  「今はやはり故人と同様にお考え下さって、親しくお付き合い下さいませ」  などと、特に色めいたおっしゃりようではないが、心を込めて気のある申し上げ方をなさる。直衣姿がとても鮮やかで、背丈も堂々と、すらりと高く お見えであった。  「お亡くなりになった殿は、何事にもお優しく美しく、上品で魅力的なところがおありだったことは無類でした」  「こちらは、男性的で派手で、何と美しいのだろうと、直ぐにお見えになる美しさは、ずば抜けています」  と、ささやいて、  「同じことなら、このようにしてお出入りして下さったならば」  などと、女房たちは言っているようである。  「右将軍の墓に草初めて青し」  と口ずさんで、それも最近の事だったので、あれこれと近頃も昔も、人の心を悲しませるような世の中の出来事に、身分の高い人も低い人も、惜 しみ残念がらない者がないのも、もっともらしく格式ばった事柄はそれとして、不思議と人情の厚い方でいらっしゃったので、大したこともない役人、 女房などの年取った者たちまでが、恋い悲しみ申し上げた。それ以上に、主上におかせられては、管弦の御遊などの折毎に、まっさきにお思い出 しになって、お偲びあそばされた。  「ああ、衛門督よ」  と言う口癖を、何事につけても言わない人はいない。六条院におかれては、まして気の毒にとお思い出しになること、月日の経つにつれて多くな っていく。  この若君を、お心の中では形見と御覧になるが、誰も知らないことなので、まことに何の張り合いもない。秋頃になると、この若君は、這い這いを し出したりなどして。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 5/2/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    横笛 光る源氏の准太上天皇時代四十九歳春から秋までの物語 第一章 光る源氏の物語 薫成長の物語 1.柏木一周忌の法要---故権大納言があっけなくお亡くなりになった悲しさを 2.朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る---山の帝は、二の宮も、このように人に笑われるような境遇になって 3.若君、竹の子を噛る---若君は、乳母のもとでお寝みになっていたが 第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛 1.夕霧、一条宮邸を訪問---大将の君は、あの臨終の際に言い遺した一言を 2.柏木遺愛の琴を弾く---和琴をお引き寄せになると、律の調子に調えられていて 3.夕霧、想夫恋を弾く---月が出て雲もない空に、羽をうち交わして飛ぶ雁も 4.御息所、夕霧に横笛を贈る---「今夜の風流なお振る舞いについては、誰もがお許し申すはずの 5.帰宅して、故人を想う---殿にお帰りになると、格子などを下ろさせて 6.夢に柏木現れ出る---少し寝入りなさった夢に、あの衛門督が 第三章 夕霧の物語 匂宮と薫 1.夕霧、六条院を訪問---大将の君も、夢を思い出しなさると、「この笛は 2.源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う---こちら方にも、二の宮が、若君とご一緒になって 3.夕霧、薫をしみじみと見る---大将は、この若君を「まだよく見ていないな」とお思いになって 4.夕霧、源氏と対話す---対へお渡りになったので、のんびりとお話など 5.笛を源氏に預ける---「その笛は、わたしが預からねばならない理由がある物だ   第一章 光る源氏の物語 薫の成長  [第一段 柏木一周忌の法要]  故権大納言があっけなくお亡くなりになった悲しさを、いつまでも残念なことに、恋い偲びなさる方々が多かった。六条院におかれても、特別の関 係がなくてさえ、世間に人望のある人が亡くなるのは、惜しみなさるご性分なので、なおさらのこと、この人は、朝夕に親しくいつも参上しいしい、誰 よりもお心を掛けていらしたので、どうにもけしからぬと、お思い出しなさることはありながら、哀悼の気持ちは強く、何かにつけてお思い出しにな る。  ご一周忌にも、誦経などを、特別おさせになる。何事も知らない顔の幼い子のご様子を御覧になるにつけても、何といってもやはり不憫でならな いので、内中密かに、また志立てられて、黄金百両を別にお布施あそばすのであった。父大臣は、事情も知らないで恐縮してお礼を申し上げさせ なさる。  大将の君も、供養をたくさんなさり、ご自身も熱心に法要のお世話をなさる。あの一条宮に対しても、一周忌に当たってのお心遣いも深くお見舞い 申し上げなさる。兄弟の君たちよりも優れたお気持ちのほどを、とてもこんなにまでとはお思い申さなかったと、大臣、母上もお喜び申し上げなさ る。亡くなった後にも、世間の評判の高くていらっしゃったことが分かるので、ひどく残念がり、いつまでも恋い焦がれること、限りがない。  [第二段 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る]  山の帝は、二の宮も、このように人に笑われるような境遇になって物思いに沈んでいらっしゃるといい、入道の宮も、現世の普通の人らしい幸せ は、一切捨てておしまいになったので、どちらも物足りなくお思いなさるが、総じてこの世の事を悩むまい、と我慢なさる。御勤行をなさる時にも、 「同じ道をお勤めになっているのだろう」などとお思いやりになって、このように尼になられてから後は、ちょっとしたことにつけても、絶えずお便りを 差し上げなさる。  お寺近くの林に生え出した筍、その近辺の山で掘った山芋などが、山里の生活では風情があるものなので、差し上げようとなさって、お手紙を情 愛こまやかにお書きになった端に、  「春の野山は、霞がかかってはっきりしませんが、深い心をこめて掘り出させたものでございます。   この世を捨ててお入りになった道はわたしより遅くとも   同じ極楽浄土をあなたも求めて来て下さい  とても難しい事ですよ」  とお便り申し上げなさったのを、涙ぐんで御覧になっているところに、大殿の君がお越しになった。いつもと違って、御前近くに櫑子がいくつもある ので、「何だろう、おかしいな」と御覧になると、院からのお手紙なのであった。御覧になると、とても胸の詰まる思いがする。  「わが命も今日か、明日かの心地がするのに、思うままにお会いすることができないのが辛いことです」  などと、情愛こまやかにお書きあそばしていらっしゃった。この「同じ極楽浄土」へ御一緒にとのお歌を、特別に趣があるものではない、僧侶らしい 言葉遣いであるが、「いかにも、そのようにお思いのことだろう。自分までが疎略にお世話しているというふうをお目に入れ申して、ますます御心配 あそばされることになろうことを、おいたわしい」とお思いになる。  お返事は恥ずかしげにお書きになって、お使いの者には、青鈍の綾を一襲をお与えなさる。書き変えなさった紙が、御几帳の端からちらっと見え るのを、取って御覧になると、ご筆跡はとても頼りない感じで、  「こんな辛い世の中とは違う所に住みたくて   わたしも父上と同じ山寺に入りとうございます」  「ご心配なさっているご様子なのに、ここと違う住み処を求めていらっしゃる、まことに嫌な、辛いことです」  と申し上げなさる。  今では、まともにお顔をお合わせ申されず、とても美しくかわいらしいお額髪、お顔の美しさ、まるで子供のようにお見えになって、たいそういじら しいのを拝見なさるにつけては、「どうして、このようになってしまったことか」と、罪悪感をお感じになるので、御几帳だけを隔てて、また一方でたい そう隔たった感じで、他人行儀にならない程度に、お扱い申し上げていらっしゃるのだった。  [第三段 若君、竹の子を噛る]  若君は、乳母のもとでお寝みになっていたが、起きて這い出しなさって、お袖を引っ張りまとわりついていらっしゃる様子、とてもかわいらしい。  白い羅に、唐の小紋の紅梅のお召し物の裾、とても長くだらしなく引きずられて、お身体がすっかりあらわに見えて、後ろの方だけが着ていらっし ゃる恰好は、幼児の常であるが、とてもかわいらしく色白ですんなりとして、柳の木を削って作ったようである。  頭は露草で特別に染めたような感じがして、口もとはかわいらしく艶々として、目もとがおっとりと、気がひけるほど美しいのなどは、やはりとても よく思い出さずにはいられないが、  「あの人は、とてもこのようにきわだった美しさはなかったが、どうしてこんなに美しいのだろう。母宮にもお似申さず、今から気品があり立派で、 格別にお見えになる様子などは、自分が鏡に映った姿にも似てはいないこともないな」というお気持ちになる。  やっとよちよち歩きをなさる程である。この筍が櫑子に、何であるのか分からず近寄って来て、やたらにとり散らかして、食いかじったりなどなさる ので、  「まあ、お行儀の悪い。いけません。あれを片づけなさい。食べ物に目がなくていらっしゃると、口の悪い女房が言うといけない」  と言って、お笑いになる。お抱き寄せになって、  「若君の目もとは普通と違うな。小さい時の子を、多く見ていないからだろうか、これくらいの時は、ただあどけないものとばかり思っていたが、今 からとても格別すぐれているのが、厄介なことだ。女宮がいらっしゃるようなところに、このような人が生まれて来て、厄介なことが、どちらにとっても 起こるだろうな。  ああ、この人たちが育って行く先までは、見届けることができようか。花の盛りにめぐり逢うことは、寿命あってのことだ」  と言って、じっとお見つめ申していらっしゃる。  「何とまあ、縁起でもないお言葉を」  と、女房たちは申し上げる。  歯の生えかけたところに噛み当てようとして、筍をしっかりと握り持って、よだれをたらたらと垂らしてお齧りになっているので、  「変わった色好みだな」とおっしゃって、  「いやなことは忘れられないがこの子は   かわいくて捨て難く思われることだ」  と、引き離して連れて来て、お話しかけになるが、にこにことしていて、何とも分からず、とてもそそくさと、這い下りて動き回っていらっしゃる。  月日が経つにつれて、この君がかわいらしく不吉なまでに美しく成長なさっていくので、本当に、あの嫌なことが、すべて忘れられてしまいそうで ある。  「この人がお生まれになるためのご縁で、あの思いがけない事件も起こったのだろう。逃れられない宿命だったのだ」  と、少しはお考えが改まる。ご自身の運命にもやはり不満のところが多かった。  「大勢集っていらっしゃるご夫人方の中でも、この宮だけは、不足に思うところもなく、宮ご自身のご様子も、物足りないと思うところもなくていらっ しゃるはずなのに、このように思いもかけない尼姿で拝見するとは」  とお思いになるにつけて、過去の二人の過ちを許し難く、今も無念に思われるのであった。   第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛  [第一段 夕霧、一条宮邸を訪問]  大将の君は、あの臨終の際に言い遺した一言を、心ひそかに思い出し思い出ししては、「どういうことであったのか」と、とてもお尋ね申し上げた く、お顔色も伺いたいのだが、うすうす思い当たられる節もあるので、かえって口に出して申し上げるのも具合が悪くて、「どのような機会に、この事 の詳しい事情をはっきりさせ、また、あの人の思いつめていた様子をお耳に入れようか」と、思い続けていらっしゃる。  秋の夕方の心寂しいころに、一条の宮をどうしていられるかとご心配申し上げなさって、お越しになった。くつろいで、ひっそりとお琴などを弾いて いらっしゃったところなのであろう。奥へ片づけることもできず、そのままその南の廂間にお入れ申し上げなさった。端の方にいた人たちが、いざって 入って行く様子がはっきり分かって、衣ずれの音や、あたりに漂う香の匂いも薫り高く、奥ゆかしい感じである。  いつものように、御息所がお相手なさって、昔話をあれこれと交わし合いなさる。ご自分の御殿は、明け暮れ人が大勢出入りして、もの騒がしく、 幼い子供たちが、大勢寄って騒々しくしていらっしゃるのにお馴れになっているので、とても静かで心寂しい感じがする。ちょっと手入れも行き届い てない感じがするが、上品に気高くお暮らしになって、前栽の花々、虫の音のたくさん聞こえる野原のように咲き乱れている夕映えを、見渡しなさ る。  [第二段 柏木遺愛の琴を弾く]  和琴をお引き寄せになると、律の調子に調えられていて、とてもよく弾きこんであるのが、人の移り香がしみこんでいて、心惹かれる感じがする。  「このようなところに、慎みのない好き心のある人は、心を抑えることができなくて、見苦しい振る舞いにでも出て、あってはならない評判を立てる ものだ」  などと、思い続けながら、お弾きになる。  故君がいつもお弾きになっていた琴であった。風情のある曲目を一つ二つ、少しお弾きになって、  「ああ、まことにめったにない素晴らしい音色をお弾きになったものだがな。このお琴にも故人の名残が籠もっておりましょう。お聞かせ願いたいも のだ」  とおっしゃると、  「主人が亡くなりまして後より、昔の子供遊びの時の記憶さえ、思い出しなさらなくなってしまったようです。院の御前で、女宮たちがそれぞれ得 意なお琴を、お試し申されました時にも、このような方面は、しっかりしていらっしゃると、ご判定申されなさったようでしたが、今は別人のようにぼん やりなさって、物思いに沈んでいらっしゃるようなので、悲しい思いを催す種というように拝見しております」  とお答え申し上げなさると、  「まことにごもっともなお気持ちです。せめて終わりがあれば」  と、物思いに沈んで、琴は押しやりなさったので、  「あの琴を、やはりそういうことなら、音色の中に伝わることもあろうかと、聞いて分かるように弾いて下さい。何やら気も晴れずに物思いに沈み込 んでいる耳だけでも、せめてさっぱりさせましょう」  と申し上げなさるので、  「ご夫婦の仲に伝わる琴の音色は、特別でございましょう。それを伺いたいと申し上げているのです」  とおっしゃって、御簾の側近くに和琴を押し寄せなさるが、すぐにはお引き受けなさるはずもないことなので、無理にお願いなさらない。  [第三段 夕霧、想夫恋を弾く]  月が出て雲もない空に、羽をうち交わして飛ぶ雁も、列を離れないのを、羨ましくお聞きになっているのであろう。風が肌寒く感じられ、何となく寂 しさに心動かされて、箏の琴をたいそうかすかにお弾きになっているのも、深みのある音色なので、ますます心を引きつけられてしまって、かえって 物足りない思いがするので、琵琶を取り寄せて、とても優しい音色に「想夫恋」をお弾きになる。  「お気持ちを察してのようなのは、恐縮ですが、この曲目なら、何かおっしゃって下さるかと思いまして」  とおっしゃって、しきりに御簾の中に向かって催促申し上げなさるが、和琴を所望された以上に、気が引けるお相手なので、宮はただ悲しいとば かりお思い続けていらっしゃるので、  「言葉に出しておっしゃらないのも、おっしゃる以上に   深いお気持ちなのだと、慎み深い態度からよく分かります」  と申し上げなさると、わずかに終わりの方を少しお弾きになる。  「趣深い秋の夜の情趣はぞんじておりますが、   靡き顔に琴をお弾き申したでしょうか」  もっと聞いていたいほどであるが、そのおっとりした音色によって、昔の人が心をこめて弾き伝えてきた、同じ調子の曲目といっても、しみじみとま たぞっとする感じで、ほんの少し弾いてお止めになったので、恨めしいほどに思われるが、  「物好きな心を、いろいろな琴を弾いてお目に掛けてしまいました。秋の夜に遅くまでおりますのも、故人の咎めがあろうかとご遠慮致して、退出 致さねばなりません。また改めて失礼のないよう気をつけてお伺い致そうと思いますが、このお琴の調子を変えずにお待ち下さいませんか。とかく 思いもよらぬことが起こる世の中ですから、気掛かりでなりません」  などと、あらわにではないが、心の内をほのめかしてお帰りになる。  [第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る]  「今夜の風流なお振る舞いについては、誰もがお許し申すはずのことでございます。これということもない昔話にばかり紛らわせなさって、寿命が 延びるまでお聞かせ下さらなかったのが、とても残念です」  と言って、御贈り物に笛を添えて差し上げなさる。  「この笛には、実に古い由緒もあるように聞いておりましたが、このような蓬生の宿に埋もれているのは残念に存じまして、御前駆の負けないほ どにお吹き下さる音色を、ここからでもお伺いしたく存じます」  と申し上げなさると、  「似つかわしくない随身でございましょう」  とおっしゃって、御覧になると、この笛もなるほど肌身離さず愛玩しては、  「自分でも、まったくこの笛の音のあらん限りは、吹きこなせない。大事にしてくれる人に何とか伝えたいものだ」  と、柏木が時々愚痴をこぼしていらっしゃったのをお思い出しなさると、さらに悲しみが胸に迫って、試みに吹いてみる。盤渉調の半分ばかりでお 止めになって、  「故人を偲んで和琴を独り弾きましたのは、下手でも何とか聞いて戴けました。この笛はとても分不相応です」  と言って、お出になるので、  「涙にくれていますこの荒れた家に昔の   秋と変わらない笛の音を聞かせて戴きました」  と、内側から申し上げなさった。  「横笛の音色は特別昔と変わりませんが   亡くなった人を悼む泣き声は尽きません」  出て行きかねていらっしゃると、夜もたいそう更けてしまった。  [第五段 帰宅して、故人を想う]  殿にお帰りになると、格子などを下ろさせて、皆お寝みになっていた。  「この宮にご執心申されて、あのようにご熱心でいらっしゃるのだ」  などと、誰かがご報告したので、このように夜更けまで外出なさるのも憎らしくて、お入りになったのも知っていながら、眠ったふりをしていらっしゃ るのであろう。  「いい人とわたしと一緒に入るあの山の」  と、声はとても美しく独り歌って、  「これは、またどうして、こう固く鍵を閉めているのだ。何とまあ、うっとうしいことよ。今夜の月を見ない所もあるのだなあ」  と、不満げにおっしゃる。格子を上げさせなさって、御簾を巻き上げなどなさって、端近くに横におなりになった。  「このように素晴らしい月なのに、気楽に夢を見ている人が、あるものですか。少しお出になりなさい。何と嫌な」  などと申し上げなさるが、面白くない気がして、知らぬ顔をなさっている。  若君たちが、あどけなく寝惚けている様子などが、あちらこちらにして、女房も混み合って寝ている、とてもにぎやかな感じがするので、さきほどの 所の様子が、思い比べられて、多く違っている。この笛をちょっとお吹きになりながら、  「どのように、わたしが立ち去った後でも、物思いに耽っていらっしゃることだろう。お琴の合奏は、調子を変えずなさっていらっしゃるのだろう。御 息所も、和琴の名手であった」  などと、思いをはせて臥せっていらっしゃった。  「どうして、故君は、ただ表向きの気配りは、大切にお扱い申し上げていながら、大して深い愛情はなかったのだろう」  と、考えるにつけても、大変いぶかしく思わずにはいらっしゃれない。  「実際会って見て器量がよくないとなると、たいそうお気の毒なことだな。世間一般の話でも、最高に素晴らしいという評判の人は、きっとそんなこ ともあるものだ」  などと思うにつけ、ご自分の夫婦仲が、その気持ちを顔に出して相手を疑うこともなくて、仲睦まじくなった歳月のほどを数えると、しみじみと感慨 深く、とてもこう我が強くなって勝手に振る舞うようにおなりになったのも、無理もないことと思われなさった。  [第六段 夢に柏木現れ出る]  少し寝入りなさった夢に、あの衛門督が、まるで生前の袿姿で、側に座って、この笛を取って見ている。夢の中にも、故人が、厄介にも、この笛の 音を求めて来たのだ、と思っていると、  「この笛の音に吹き寄る風は同じことなら   わたしの子孫に伝えて欲しいものだ  その伝えたい人は違うのだった」  と言うので、尋ねようと思った時に、若君が寝おびえて泣きなさるお声に、目が覚めておしまいになった。  この若君がひどく泣きなさって、乳を吐いたりなさるので、乳母も起き騷ぎ、母上も御殿油を近くに取り寄せさせなさって、額髪を耳に挟んで、せわ しげに世話して、抱いていらっしゃった。とてもよく太って、ふっくらとした美しい胸を開けて、乳などをお含ませになる。子供もとてもかわいらしくいら っしゃる若君なので、色白で美しく見えるが、お乳はまったく出ないのを、気休めにあやしていらっしゃる。  男君も側にお寄りになって、「どうしたのだ」などとおっしゃる。魔除の撤米をし米を散らかしなどして、とり騒いでいるので、夢の情趣もどこかへ行 ってしまうことであろう。  「苦しそうに見えますわ。若い人のような恰好でうろつきなさって、夜更けのお月見に、格子なども上げなさったので、例の物の怪が入って来たの でしょう」  などと、とても若く美しい顔をして、恨み言をおっしゃるので、にっこりして、  「妙な、物の怪の案内とは。わたしが格子を上げなかったら、道がなくて、おっしゃる通り入って来られなかったでしょう。大勢の子持ちの母親にお なりになるにつれて、思慮深く立派なことをおっしゃるようにおなりになった」  と言って、ちらりと御覧になる目つきが、たいそう気後れするほど立派なので、それ以上は何ともおっしゃらず、  「さあ、もうお止めなさいまし。みっともない恰好ですから」  と言って、明るい灯火を、さすがに恥ずかしがっていらっしゃる様子も憎くない。ほんとうに、この若君は苦しがって、一晩中泣きむずかって夜をお 明かしになった。   第三章 夕霧の物語 匂宮と薫  [第一段 夕霧、六条院を訪問]  大将の君も、夢を思い出しなさると、  「この笛は厄介なものだな。故人が執着していた笛の、行くべき所ではなかったのだ。女方から伝わっても意味のなことだ。どのように思ったこと だろう。この世に、物の数にも入らない些事も、あの臨終の際に、一心に恨めしく思ったり、または愛情を持ったりしては、無明長夜の闇に迷うとい うことだ。そうだからこそ、どのようなことにも執着は持つまいと思うのだ」  などと、お考え続けなさって、愛宕で誦経をおさせになる。また、故人が帰依していた寺にもおさせになって、  「この笛を、わざわざ御息所が特別の遺品として、譲り下さったのを、すぐにお寺に納めるのも、供養になるとは言うものの、あまりにあっけなさぎ よう」  と思って、六条院に参上なさった。  女御の御方にいらっしゃる時なのであった。三の宮は、三歳ほどで、親王の中でもかわいらしくいらっしゃるのを、こちらではまた特別に引き取っ てお住ませなさっているのであった。走っておいでになって、  「大将よ、宮をお抱き申して、あちらへ連れていらっしゃい」  と、自分に敬語をつけて、とても甘えておっしゃるので、ほほ笑んで、  「いらっしゃい。どうして御簾の前を行けましょうか。たいそう無作法でしょう」  と言って、お抱き申してお座りになると、  「誰も見ていません。わたしが、顔を隠そう。さあさあ」  と言って、お袖で顔をお隠しになるので、とてもかわいらしいので、お連れ申し上げなさる。  [第二段 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う]  こちら方にも、二の宮が、若君とご一緒になって遊んでいらっしゃるのを、かわいがっておいであそばすのであった。隅の間の所にお下ろし申し上 げなさるのを、二の宮が見つけなさって、  「わたしも大将に抱かれたい」  とおっしゃるのを、三の宮は、  「わたしの大将なのだから」  と言って、お放しにならない。院も御覧になって、  「まことにお行儀の悪いお二方ですね。朝廷のお身近の警護の人を、自分の随身にしようと争いなさるとは。三の宮が、特にいじわるでいらっしゃ います。いつも兄宮に負けまいとなさる」  と、おたしなめ申して仲裁なさる。大将も笑って、  「二の宮は、すっかりお兄様らしく弟君に譲って上げるお気持ちが十分におありのようです。お年のわりには、こわいほどご立派にお見えになりま す」  などと申し上げなさる。ほほ笑んで、どちらもとてもかわいらしいとお思い申し上げあそばしていらっしゃった。  「見苦しく失礼なお席だ。あちらへ」  とおっしゃって、お渡りになろうとすると、宮たちがまとわりついて、まったくお離れにならない。宮の若君は、宮たちとご同列に扱うべきではない と、ご心中にはお考えになるが、かえってそのお気持ちを、母宮が、心にとがめて気を回されることだろうと、これもまたご性分で、お気の毒に思わ れなさるので、とても大切にお扱い申し上げなさる。  [第三段 夕霧、薫をしみじみと見る]  大将は、この若君を「まだよく見ていないな」とお思いになって、御簾の間からお顔をお出しになったところを、花の枝が枯れて落ちているのを取っ て、お見せ申して、お呼びなさると、走っていらっしゃった。  二藍の直衣だけを着て、たいそう色白で光輝いてつやつやとかわいらしいこと、親王たちよりもいっそうきめこまかに整っていらっしゃって、まるま ると太りおきれいである。何となくそう思って見るせいか、目つきなど、この子は少しきつく才走った様子は衛門督以上だが、目尻の切れが美しく輝 いている様子など、とてもよく似ていらっしゃった。  口もとが、特別にはなやかな感じがして、ほほ笑んでいるところなどは、「自分がふとそう思ったせいなのか、大殿はきっとお気づきであろう」と、 ますますご心中が知りたい。  宮たちは、親王だと思うせいから気高くもみえるものの、世間普通のかわいらしい子供とお見えになるのだが、この君は、とても上品な一方で、 特別に美しい様子なので、ご比較申し上げながら、  「何と、かわいそうな。もし自分の疑いが本当なら、父大臣が、あれほどすっかり気落ちしていらして、  『子供だと名乗って出て来る人さえいないことよ。形見と思って世話する者でもせめて遺してくれ』  と、泣き焦がれていらしたのに、お知らせ申し上げないのも罪なことではないか」などと思うが、「いや、どうしてそんなことがありえよう」  と、やはり納得がゆかず、推測のしようもない。気立てまでが優しくおとなしくて、じゃれていらっしゃるので、とてもかわいらしく思われる。  [第四段 夕霧、源氏と対話す]  対へお渡りになったので、のんびりとお話など申し上げていらっしゃるうちに、日も暮れかかって来た。昨夜、あの一条宮邸に参った時に、おいで になっていたご様子などを申し上げなさったところ、ほほ笑んで聞いていらっしゃる。気の毒な故人の話、関係のある話の節々には、あいずちなどを 打ちなさって、  「あの想夫恋を弾いた気持ちは、なるほど、昔の風流の例として引き合いに出してもよさそうなところであるが、女は、やはり、男が心を動かす程 度の風流があっても、いい加減なことでは表わすべきではないことだと、考えさせられることが多いな。  故人への情誼を忘れず、このように末長い好意を、先方も知られたとならば、同じことなら、きれいな気持ちで、あれこれとかかわり合って、面白く ない間違いを起こさないのが、どちらにとっても奥ゆかしく、世間体も穏やかなことであろうと思う」  とおっしゃるので、「そのとおりだ。他人へのお説教だけはしっかりしたものだが、このような好色の道はどうかな」と、拝見なさる。  「何の間違いがございましょう。やはり、無常の世の同情から世話をするようになりました方々に、当座だけのいたわりで終わったら、かえって世 間にありふれた疑いを受けましょうと思ってです。  想夫恋は、ご自分の方から弾き出しなさったのなら、非難されることにもなりましょうが、ことのついでに、ちょっとお弾きになったのは、あの時に ふさわしい感じがして、興趣がございました。  何事も、人次第、事柄次第の事でございましょう。年齢なども、だんだんと、若々しいお振る舞いが相応しいお年頃ではいらっしゃいませんし、ま た、冗談を言って、好色がましい態度を見せることに、馴れておりませんので、お気を許されるでしょうか。大体が優しく無難なお方のご様子でいら っしゃいました」  などと申し上げなさっているうちに、ちょうどよい機会を作り出して、少し近くに寄りなさって、あの夢のお話を申し上げなさると、すぐにはお返事を なさらずに、お聞きあそばして、お気づきあそばすことがある。  [第五段 笛を源氏に預ける]  「その笛は、わたしが預からねばならない理由がある物だ。それは陽成院の御笛だ。それを故式部卿宮が大事になさっていたが、あの衛門督 は、子供の時から大変上手に笛を吹いたのに感心して、故式部卿宮が萩の宴を催された日、贈り物にお与えになったものだ。女の考えで深い由 緒もよく知らず、そのように与えたのだろう」  などとおっしゃって、  「子孫に伝えたいということは、また他に誰と間違えようか。そのように考えたのだろう」などとお考えになって、「この君も思慮深い人なので、気づ くこともあろうな」とお思いになる。  そのご表情を見ていると、ますます遠慮されて、すぐにはお話し申し上げなされないが、せめてお聞かせ申そうとの思いがあるので、ちょうど今こ の機会に思い出したように、はっきり分からないふりをして、  「臨終となった折にも、お見舞いに参上いたしましたところ、亡くなった後の事を遺言されました中に、これこれしかじかと、深く恐縮申している旨 を、繰り返し言いましたので、どのようなことでしょうか、今に至までその理由が分かりませんので、気に掛かっているのでございます」  と、いかにも腑に落ちないように申し上げなさるので、  「やはり知っているのだな」  とお思いになるが、どうして、そのような事柄をお口にすべきではないので、暫くは分からないふりをして、  「そのような、人に恨まれるような事は、いつしただろうかと、自分自身でも思い出す事ができないな。それはそれとして、そのうちゆっくり、あの 夢の事は考えがついてからお話し申そう。夜には夢の話はしないものだとか、女房たちが言い伝えているようだ」  とおっしゃって、ろくにお返事もないので、お耳に入れてしまったことを、どのように考えていらっしゃるのかと、きまり悪くお思いであった、とか。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 5/6/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    鈴虫 光る源氏の准太上天皇時代五十歳夏から秋までの物語 第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養 1.持仏開眼供養の準備---夏頃、蓮の花の盛りに、入道の姫宮が御持仏の数々を 2.源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす---お堂を飾り終わって、講師が壇上して、行道の人々も 3.持仏開眼供養執り行われる---例によって、親王たちなども、とても大勢参上なさった 4.三条宮邸を整備---今となって、おいたわしく思われる気持ちが加わって、この上もなく大切にお世話 第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴 1.女三の宮の前栽に虫を放つ---秋頃、西の渡殿の前、中の塀の東側を、辺り一帯を 2.八月十五夜、秋の虫の論---十五夜の夕暮に、仏の御前に宮はいらっしゃって、端近くに物思いに耽り 3.六条院の鈴虫の宴---今夜は、いつものとおり管弦のお遊びがあろうかと推量して、兵部卿宮が 4.冷泉院より招請の和歌---お杯が二回りほど廻ったころに、冷泉院からお手紙が 5.冷泉院の月の宴---人々のお車を、身分に従って並べ直し、御前駆の人々が大勢集まって来て 第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う 1.秋好中宮、出家を思う---六条の院は、中宮の御方にお越しになって、お話など 2.母御息所の罪を思う---母御息所が、ご自身お苦しみになっていらっしゃろう様子 3.秋好中宮の仏道生活---昨夜はこっそりとお気軽なお出ましであったが、今朝は世間に知れわたり   第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養  [第一段 持仏開眼供養の準備]  夏頃、蓮の花の盛りに、入道の姫宮が御持仏の数々をお造りになったのを、開眼供養を催しあそばす。  今回は、大殿の君のお志で、御念誦堂の道具類も、こまごまとご準備させていたのを、そっくりそのままお飾りあそばす。幡の様子など優しい感 じで、特別な唐の錦を選んでお縫わせなさった。紫の上が、ご準備させなさったのであった。  花机の覆いなどの美しい絞り染も優しい感じで、美しい色艶が、染め上げられている趣向など、またとない素晴らしさである。夜の御帳台の帷子 を、四面とも上げて、後方に法華の曼陀羅をお掛け申して、銀の花瓶に、高々と見事な蓮の花を揃えてお供えになって、名香には、唐の百歩の衣 香を焚いていらっしゃる。  阿彌陀仏、脇士の菩薩、それぞれ白檀でお造り申してあるのが、繊細で美しい感じである。閼伽の道具は、例によって、際立って小さくて、青 色、白色、紫の蓮の色を揃えて、荷葉香を調合したお香は、蜜を控えてぼろぼろに崩して、焚き匂わしているのが、一緒に匂って、とても優しい感 じがする。  経は、六道の衆生のために六部お書きあそばして、ご自身の御持経は、院がご自身でお書きあそばしたのであった。せめてこれだけでも、この 世の結縁として、互いに極楽浄土に導き合いなさるようにとの旨を願文にお作りあそばした。  その他には、阿彌陀経、唐の紙はもろいので、朝夕のご使用にはどのようなものかしらと考えて、紙屋院の官人を召して、特別にご命令を下し て、格別美しく漉かせなさった紙に、この春頃から、お心を込めて急いでお書きあそばしたかいがあって、その片端を御覧になった方々、目も眩む ほどに驚いていらっしゃる。  罫に引いた金泥の線よりも、墨の跡の方がさらに輝くように立派な様子などが、まことに見事なものであった。軸、表紙、箱の様子など、言うまで もないことである。これは特に沈の花足の机の上に置いて、仏と同じ御帳台の上に飾らせなさった。  [第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす]  お堂を飾り終わって、講師が壇上して、行道の人々も参集なさったので、院もそちらに出ようとなさって、宮のいらっしゃる西の廂の間にお立ち寄 りなさると、狭い感じのする仮の御座所に、窮屈そうに暑苦しいほどに、仰々しく装束をした女房たちが五、六十人ほど集まっていた。  北の廂の間の簀子まで、女童などはうろうろしている。香炉をたくさん使って、煙いほど扇ぎ散らすので、近づきなさって、  「空薫物は、どこで焚いているのか分からないくらいなのがよいのだ。富士山の噴煙以上に、煙がたちこめているのは、感心しないことだ。お経の 御講義の時には、あたり一帯の音は立てないようにして、静かにお説教の意味を理解しなければならないことだから、遠慮のない衣ずれの音、人 のいる感じは、出さないのがよいのです」  などと、いつものとおり、思慮の足りない若い女房たちの心用意をお教えになる。宮は、人気に圧倒されなさって、とても小柄で美しい感じに臥せ っていらっしゃった。  「若君が、騒がしかろう。抱いてあちらへお連れ申せ」  などとおっしゃる。  北の御障子も取り放って、御簾を掛けてある。そちらに女房たちをお入れになっている。静かにさせて、宮にも、法会の内容がお分かりになるよう に予備知識をお教え申し上げなさるのも、とても親切に見える。御座所をお譲りなさった仏のお飾り付け、御覧になるにつけても、あれこれと感慨 無量で、  「このような仏事の御供養を、ご一緒にしようとは思いもしなかったことだ。まあ、しかたない。せめて来世では、あの蓮の花の中の宿を、一緒に 仲好くしよう、と思って下さい」  とおっしゃって、お泣きになった。  「来世は同じ蓮の花の中でと約束したが   その葉に置く露のように別々でいる今日が悲しい」  と、御硯に筆を濡らして、香染の御扇にお書き付けになった。宮は、  「蓮の花の宿を一緒に仲好くしようと約束なさっても   あなたの本心は悟り澄まして一緒にとは思っていないでしょう」  とお書きになったので、  「せっかくの申し出をかいなくされるのですね」  と、苦笑しながらも、やはりしみじみと感に堪えないご様子である。  [第三段 持仏開眼供養執り行われる]  例によって、親王たちなども、とても大勢参上なさった。御夫人方から、我も我もと作り出した御供物の様子、格別立派で、所狭しと見える。七僧 の法服など、総じて一通りのことは、皆紫の上がご準備させなさった。綾織物で、袈裟の縫目まで、分かる人は、世間にはめったにない立派な物 だと誉めたとか。うるさく細かい話であるよ。  講師が大変に尊く、法要の趣旨を申して、この世でご立派であった盛りのお身の上を厭い離れなさって、未来永劫にわたって絶えることのない夫 婦の契りを、法華経に結びなさる、尊く深いお心を表わして、ただ現在、才学も優れ、豊かな弁舌を、ますます心をこめて言い続ける、とても尊いの で、参会者全員、涙をお流しなさる。  この持仏開眼供養は、ただこっそりと、御念誦堂の開き初めとお考えになったことだが、帝におかせられても、また山の帝もお耳にあそばして、い ずれもお使者があった。御誦経のお布施など、大変置ききれないほど、急に大げさになったのであった。  院でご準備あそばしたことも、簡略にとはお思いになったが、それでも並々ではなかったのだが、それ以上に、華やかなお布施が加わったので、 夕方のお寺に置き場もないほど沢山になって、僧たちは帰って行ったのであった。  [第四段 三条宮邸を整備]  今となって、おいたわしく思われる気持ちが加わって、この上もなく大切にお世話申し上げなさる。院の帝は、御相続なさった宮に離れてお住み になることも、結局のことなのだから、世間体がよいように申し上げなさるが、  「離れ離れでいては、気掛かりであろう。毎日お世話申し上げて、こちらから申し上げたり用向きを承ることができないようでは、本意に外れること であろう。なるほど、いつまでも生きていられない世であるが、やはり生きている限りはお世話したい気持ちだけはなくしたくない」  と申し上げ申し上げなさっては、あちらの宮も大変念入りに美しくご改築させなさって、御封の収入、国々の荘園、牧場などからの献上物で、これ はと思われる物は、全てあちらの三条宮の御倉に納めさせなさる。さらに又、増築させて、いろいろな御宝物類、院の御遺産相続の時に無数にお 譲り受けなさった物など、宮の関係の品物は、全てあちらの宮に運び移して、念を入れて厳重に保管させなさる。  日常のお世話、大勢の女房の事ども、上下の人々の面倒は、全てご自分の経費のまかないでなどと、急いでお手入れをして差し上げる。   第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴  [第一段 女三の宮の前栽に虫を放つ]  秋頃、西の渡殿の前、中の塀の東側を、辺り一帯を野原の感じにお作らせになった。閼伽の棚などを作って、その方面の生活にふさわしくお整え になったお道具類など、とても優美な感じである。  お弟子としてお従い申し上げている尼たち、御乳母、老女たちは、それはそれとして、若い盛りの女房でも、決心固く、尼として一生を送れる者だ けを選んで、おさせになったのであった。  その当座の競争気分の折には、我も我もと競って申し出たが、大殿がお聞きになって、  「それは良くないことだ。本心からでない人が少しでも混じってしまうと、周囲の人が困るし、浮ついた噂が出て来るものだ」  とお諌めになって、十何人かだけが尼姿になってお付きしている。  この野原に虫どもを放たせなさって、風が少し涼しくなってきた夕暮に、たびたびお越しになっては、虫の音を聴くふりをなさって、今でも断ちがた い思いのほどを申し上げ悩ましなさるので、  「いつものお心癖はとんでもないことになろう」  と、一途に厄介なことにお思い申し上げていらっしゃった。  他人の目には変わったところなくお扱いになっているが、内心では嫌な事件をご存知の様子がはっきり分かり、すっかり変わってしまったお心を、 何とかお目に掛からずにいたいお気持ちで、それが主な動機でご決心なさったご出家なので、今は離れて安心していたのに、  「やはり、このように」  などとお耳に入れたりなどなさるのが辛くて、「人里離れた所に住みたい」とお思いになるが、大人ぶってとてもそのように押して申し上げることは おできになれない。  [第二段 八月十五夜、秋の虫の論]  十五夜の夕暮に、仏の御前に宮はいらっしゃって、端近くに物思いに耽りながら念誦なさる。若い尼君たち二、三人が花を奉ろうとして鳴らす閼 伽、坏の音、水の感じなどが聞こえるのは、今までとは違った仕事に、忙しく働いているが、まことに感慨無量なので、いつものようにお越しになっ て、  「虫の音がとてもうるさく鳴き乱れている夕方ですね」  と言って、自分もひっそりと朗誦なさる阿彌陀経の大呪が、たいそう尊くかすかに聞こえる。いかにも、虫の音がいろいろ聞こえる中で、鈴虫が声 を立てているところは、華やかで趣きがある。  「秋の虫の声は、どれも素晴らしい中で、松虫が特に優れているとおっしゃって、中宮が、遠い野原から、特別に探して来てはお放ちになったが、 はっきり鳴き伝えているのは少ないようだ。名前とは違って、寿命の短い虫のようである。  思う存分に、誰も聞かない山奥、遠い野原の松原で、声を惜しまず鳴いているのも、まことに分け隔てしている虫であるよ。鈴虫は、親しみやす く、にぎやかに鳴くのがかわいらしい」  などとおっしゃると、宮は、  「秋という季節はつらいものと分かっておりますが   やはり鈴虫の声だけは飽きずに聴き続けていたいものです」  とひっそりとおっしゃる。とても優雅で、上品でおっとりしていらっしゃる。  「何とおしゃいましたか。いやはや、思いがけないお言葉ですね」と言って、  「ご自分からこの家をお捨てになったのですが   やはりお声は鈴虫と同じように今も変わりません」  などと申し上げなさって、琴の御琴を召して、珍しくお弾きになる。宮が御数珠を繰るのを忘れなさって、お琴の音色に依然として聴き入っていらっ しゃった。  月が出て、とても明るくなったのもしみじみと心を打つので、空をちょっと眺めて、人の世のあれこれにつけて、無常に移り変わる有様が次々と思 い出されて、いつもよりもしみじみとした音色でお弾きになる。  [第三段 六条院の鈴虫の宴]  今夜は、いつものとおり管弦のお遊びがあろうかと推量して、兵部卿宮がお越しになった。大将の君、殿上人で音楽の素養のある人々を連れて いらっしゃっていたので、こちらにいらっしゃると、お琴の音をたよりにして、そのまま参上なさる。  「とても所在ないので、特別の音楽会というのではなくても、長い間弾かないでいた珍しい楽器の音など、聴きたかったので独りで弾いていたの を、たいそうよく聴きつけて来て下さった」  とおっしゃって、宮にも、こちらに御座所を設けてお入れ申し上げなさる。宮中の御前で、今夜は月の宴が催される予定であったが、中止になって 物足りない気がしたので、こちらの院に方々が参上なさると伝え聞いて、誰や彼やと上達部なども参上なさった。虫の音の批評をなさる。  お琴類を合奏なさって、興が乗ってきたころに、  「月を見る夜は、いつでももののあわれを誘わないことはない中でも、今夜の新しい月の色には、なるほどやはり、この世の後の世界までが、い ろいろと想像されるよ。故大納言が、いつの折にも、亡くなったことにつけて、一層思い出されることが多く、公、私、共に何かある機会に物の栄え がなくなった感じがする。花や鳥の色にも音にも、美をわきまえ、話相手として、大変に優れていたのだったが」  などとお口に出されて、ご自身でも合奏なさる琴の音につけても、お袖を濡らしなさった。御簾の中でも耳を止めてお聴きになって入るだろうと、片 一方のお心ではお思いになりながら、このような管弦のお遊びの折には、まずは恋しく、帝におかせられてもお思い出しになられるのであった。  「今夜は鈴虫の宴を催して夜を明かそう」  とお考えになっておっしゃる。  [第四段 冷泉院より招請の和歌]  お杯が二回りほど廻ったころに、冷泉院からお手紙がある。宮中の御宴が急に中止になったのを残念に思って、左大弁や、式部大輔らが、また 大勢人々を引き連れて、詩文に堪能な人々ばかりが参上したところ、大将などは六条院に伺候していらっしゃる、とお耳にあそばしてなのであっ た。  「宮中から遠く離れて住んでいる仙洞御所にも   忘れもせず秋の月は照っています  同じことならあなたにも」  とお申し上げなさったので、  「どれほどの窮屈な身分ではないのだが、今はのんびりとしてお過ごしになっていらっしゃるところに、親しく参上することもめったにないことを、不 本意なことと思し召されるあまりに、お便りをお寄越しあばされている、恐れ多いことだ」  とおっしゃって、急な事のようだが、参上なさろうとする。  「月の光は昔と同じく照っていますが   わたしの方がすっかり変わってしまいました」  特に変わったところはないようであるが、ただ昔と今とのご様子が思い続けられての歌なのであろう。お使者にお酒を賜って、禄はまたとなく素晴 らしい。  [第五段 冷泉院の月の宴]  人々のお車を、身分に従って並べ直し、御前駆の人々が大勢集まって来て、しみじみとした合奏もうやむやになって、お出ましになった。院のお 車に、親王をお乗せ申し、大将、左衛門督、藤宰相など、いらっしゃった方々全員が参上なさる。  直衣姿で、皆お手軽な装束なので、下襲だけをお召し加えになって、月がやや高くなって、夜が更けた空が美しいので、若い方々に、笛などをさ りげなくお吹かせになったりなどして、お忍びでの参上の様子である。  改まった公式の儀式の折には、仰々しく厳めしい威儀の限りを尽くして、お互いにご対面なさり、また一方で、昔の臣下時代に戻った気持ちで、 今夜は手軽な恰好で、急にこのように参上なさったので、大変にお驚きになり、お喜び申し上げあそばす。  御成人あそばした御容貌、ますますそっくりである。お盛りの最中であったお位を、御自分から御退位あそばして、静かにお過ごしになられる御 様子に、心打たれることが少なくない。  その夜の詩歌は、漢詩も和歌も共に、趣深く素晴らしいものばかりである。例によって、一端を言葉足らずにお伝えするのも気が引けて。明け方 に漢詩などを披露して、早々に方々はご退出なさる。   第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う  [第一段 秋好中宮、出家を思う]  六条の院は、中宮の御方にお越しになって、お話など申し上げなさる。  「今はこのように静かなお住まいに、しばしば伺うことができ、特にどうということはないけれども、年をとるにつれて、忘れない昔話など、お聞きし たり申し上げたりしたく存じますが、中途半端な身の有様で、やはり気が引け、窮屈な思いが致しまして。  わたしより若い方々に、何かにつけて先を越されて行く感じが致しますのも、まことに無常の世の心細さが、のんびり構えていられぬ気持ちがし ますので、世を離れた生活をしようかと、だんだん気持ちが進んできましたが、後に残された方々が頼りないでしょうから、おちぶれさせなさらない ように、と以前にもお願い申し上げました通り、その気持ちを変えずにお世話してやって下さい」  などと、方々の生活面のことについてお願い申し上げなさる。  例によって、大変に若くおっとりしたご様子で、  「宮中の奥深くに住んでおりましたころよりも、お目に掛かれないことが多くなったように存じられます今の有様が、ほんとうに思いもしなかったこ とで、面白くなく思われまして、皆が出家して行くこの世を、厭わしく思われることもございますが、その心の中を申し上げてご意向を伺っておりませ んので、何事もまずは頼りにしている癖がついていますため、気に致しております」  と申し上げなさる。  「おっしゃる通り、宮中にいらっしゃった時には、決まりに従った折々のお里下がりも、ほんとうにお待ち申し上げておりましたが、今は何を理由と して、御自由にお出であそばすことがございましょうか。無常な世の習いとは言いながらも、特に世を厭う理由のない人が、きっぱりと出家すること も難しいことで、容易に出家できそうな身分の人でさえ、自然とかかわり合う係累ができて世を背くことが出来ませんのに、どうして、そんな人真似 をして負けずに出家なさろうとするのは、かえって変なお心掛けとご推量申し上げる者があっては困ります。絶対にあってはならない御事でござい ます」  と申し上げなさるので、「深くは汲み取っ下さっていないようだ」と、恨めしくお思い申し上げなさる。  [第二段 母御息所の罪を思う]  母御息所が、ご自身お苦しみになっていらっしゃろう様子、どのような業火の中で迷っていらっしゃるのだろう様子、亡くなった後までも、人から疎 まれ申される物の怪となって名乗り出たことは、あちらの院では大変に隠していらっしゃったが、自然と人の口は煩しいもので、伝え聞いた後は、と ても悲しく辛くて、何もかもが厭わしくお思いになって、たとい憑坐にのり移った言葉にせよ、そのおっしゃった内容を詳しく聞きたいのだが、まとも には申し上げかねなさって、ただ、  「亡くなった母上のあの世でのご様子が、罪障の軽くない様子と、かすかに聞くことがございましたので、そのような証拠がはっきりしているので なくとも、推し量らねばならないことでしたのに、先立たれた時の悲しみばかりを忘れずにおりまして、あの世での苦しみを想像しなかった至らなさ を、何とかして、ちゃんと教えてくれる人の勧めを聞きまして、せめてわたしでも、その業火の炎を薄らげて上げたいと、だんだんと年をとるにつれ て、考えられるようになったことでございます」  などと、それとなしにおっしゃる。  「なるほど、そのようにお考えになるのももっともなことだ」と、お気の毒に拝し上げなさって、  「その業火の炎は、誰も逃れることはできないものだと分かっていながら、朝露のようにはかなく生きている間は、執着を去ることはできないもの なのです。目蓮が仏に近い聖僧の身で、すぐに救ったという故事にも、真似はお出来になれないでしょうが、玉の簪をお捨てになって出家なさった としても、この世に悔いを残すようなことになるでしょう。  だんだんそのようなお気持ちを強くなさって、あの母君のお苦しみが救われるような供養をなさいませ。そのように存じますことお持ちしながら、何 か落ち着かないようで、静かな出家の本意もないような有様で毎日を過ごしておりまして、自分自身の勤行に加えて、供養もそのうちゆっくりと存じ ておりますのも、おしゃるとおり、浅はかなことでした」  などと、世の中の事が何もかも無常であり、出家したいことをお互いに話し合いなさるが、やはり、出家することは難しいお二方の身の上である。  [第三段 秋好中宮の仏道生活]  昨夜はこっそりとお気軽なお出ましであったが、今朝は世間に知れわたりなさって、上達部なども、参上していた方々は皆お帰りのお供を申し上 げなさる。  春宮の女御のご様子、他に並ぶ方がなく、大切にお世話申し上げなさっているだけのことは十分あり、大将がまた大変に格別に優れているご様 子をも、どちらも安心だとお思いになるが、やはり、この冷泉院をお思い申し上げるお気持ちは、特に深くいとしくお思いなさる。院もいつも気に掛け ていらっしゃったが、ご対面がめったになく気掛かりにお思いだったため、気がせかれなさって、このように気楽なご境遇にとお考えになったのであ った。  中宮は、かえって里下がりなさることが大変に難しくなって、臣下の夫婦のようにいつもご一緒にいられて、当世風に、かえって御在位中よりも華 やかに、管弦の御遊などもなさる。どのようなことにもご満足のゆくご様子であるが、ただあの母御息所の御事をお考えなさっては、勤行のお心が 深まって行ったのを、院がお許し申されるはずのないことなので、追善供養をひたすら熱心にお営みになって、ますます道心深く、この世の無常を お悟りになったご様子におなりになって行かれる。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 5/31/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    夕霧 光る源氏の准太上天皇時代五十歳秋から冬までの物語 第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問 1.一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る---堅物との評判を取って、こざかしそうにしていらっしゃる大将 2.八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問---八月二十日のころなので、野辺の様子も 3.夕霧、落葉宮に面談を申し入れる---宮は、奥の方にとてもひっそりとしていらっしゃるが 4.夕霧、山荘に一晩逗留を決意---日も入り方になるにつれて、空の様子もしんみりと 5.夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む---そうしてから、「帰り道が霧でまことにはっきりしないので、この近辺に 6.夕霧、落葉宮をかき口説く---お聞き入れになるはずもなく、悔しい、こんな事にまでと 7.迫りながらも明け方近くなる---風がとても心細い感じで、更けて行く夜の様子、虫の音も 8.夕霧、和歌を詠み交わして帰る---月は曇りなく澄みわたって、霧にも遮られず 第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口 1.夕霧の後朝の文---このような出歩き、馴れていらっしゃらないお人柄なので 2.律師、御息所に告げ口---物の怪にお悩みになっていらっしゃる方は、重病と見えるが 3.御息所、小少将君に問い質す---律師が立ち去った後に、小少将の君を呼んで 4.落葉宮、母御息所のもとに参る---お越しになろうとして、額髪が濡れて固まっている 5.御息所の嘆き---苦しいご気分ながら、並々ならずかしこまって 第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸 1.御息所、夕霧に返書---あちらからまたお手紙がある。事情を知らない女房が 2.雲居雁、手紙を奪う---大将殿は、この昼頃に、三条殿にいらっしゃったが 3.手紙を見ぬまま朝になる---あれこれと言い合いをして、このお手紙はお隠しに 4.夕霧、手紙を見る---蜩の鳴き声に目が覚めて、「小野の麓ではどんなに 5.御息所の嘆き---あちらでは、昨夜も薄情なとお見えになったご様子を 6.御息所死去す---ほんとうにどうしようもなく独りぎめにしておっしゃるので、抗弁して申し開きをする 7.朱雀院の弔問の手紙---あちこちからのご弔問、いつの間に知れたのかと見える。大将殿も 8.夕霧の弔問---道のりまでも遠くて、山麓にお入りになるころ、じつにぞっとした気がする 9.御息所の葬儀---まさか今夜ではあるまいと思っていた葬儀の準備が 第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧 1.夕霧、返事を得られず---山下ろしがたいそう烈しく、木の葉の影もなくなって 2.雲居雁の嘆きの歌---女君、やはりこのお二人のご様子を、「どのような関係だったのだろうか 3.九月十日過ぎ、小野山荘を訪問---九月十余日、野山の様子は、十分に分からない人でさえ 4.板ばさみの小少将君---この人も、それ以上にひどく泣き入りながら、「その夜の 5.夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅---道すがら、しみじみとした空模様を眺めて、十三日の月が 6.落葉宮の返歌が届く---日が高くなってから返事を持って参った。紫の濃い紙が素っ気ない感じで 第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る 1.源氏や紫の上らの心配---六条院にもお聞きあそばして、とても落ち着いていて 2.夕霧、源氏に対面---大将の君が、参上なさった機会があって、悩んでいらっしゃる 3.父朱雀院、出家希望を諌める---こうしてご法事に、万端を取り仕切っておさせなさる 4.夕霧、宮の帰邸を差配---大将も、「あれこれと言ってみたが、今は無駄なことだ 5.落葉宮、自邸へ向かう---寄ってたかって説得申し上げるので、とても困りきって、色鮮やかな 6.夕霧、主人顔して待ち構える---ご到着なさると、邸内は悲しそうな様子もなく 7.落葉宮、塗籠に籠る---このように強情であるが、今となっては、邪魔立てされなさるおつもりもないので 第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮 1.夕霧、花散里へ弁明---六条院にいらっしゃって、ご休息なさる。東の上は 2.雲居雁、嫉妬に荒れ狂う---日が高くなって、殿にお帰りになった。お入りになるや 3.雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す---昨日今日と全然お召し上がりにならなかった食事を、少々はお召し上がりに 4.塗籠の落葉宮を口説く---あちらには、やはり籠もっていらっしゃるのを、女房たちが 5.夕霧、塗籠に入って行く---「そうかといって、こうしてばかりいられようか。人が洩れ聞くことも 6.夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ---こうしてばかり馬鹿らしく出入りするのもみっともないので 第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語 1.雲居雁、実家へ帰る---このように無理して馴染んだ顔をしていらっしゃるので、三条殿は 2.夕霧、雲居雁の実家へ行く---寝殿にいらっしゃると聞いて、いつもお帰りの時に使う部屋は 3.蔵人少将、落葉宮邸へ使者---大殿は、このようなことをお聞きになって、物笑いになることと 4.藤典侍、雲居雁を慰める---ますますおもしろからぬご気分に、気もそぞろにうろうろなさって   第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問  [第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る]  堅物との評判を取って、こざかしそうにしていらっしゃる大将、この一条宮のご様子を、やはり理想的だと心に止めて、世間の人目には、昔の友 情を忘れていない心遣いを見せながら、とても懇切にお見舞い申し上げなさる。内心では、このままではやめられそうになく、月日を経るに従って 思いが募って行かれるのであった。  御息所も、「大変にもったいないご親切であることよ」と、今ではますます寂しく所在ないお暮らしを、絶えず訪れなさるので、お慰めになることが いろいろと多かった。  初めから色めいたことを申し上げたりなさらなかったのだが、  「打って変わって色めかしく艶めいた振る舞いをするのも気恥ずかしい。ただ深い愛情をお見せ申せば、心を許してくれる時がなくはないだろう」  と思いながら、何かの用事にかこつけても、宮のご様子や態度をお伺いなさる。ご自身がお応え申し上げなさることはまったくない。  「どのような機会に、思っていることをまっすぐに申し上げて、相手のご様子を見ようか」  と、お考えになっていたところ、御息所が、物の怪にひどくお患いになって、小野という辺りに、山里を持っていらっしゃった所にお移りになった。早 くから御祈祷師として、物の怪などを追い払っていた律師が、山籠もりして里には出まいと誓願を立てていたのを、麓近くなので、下山して頂くため なのであった。  お車をはじめとして、御前駆など、大将殿から差し向けなさったのであるが、かえって故人の親しい弟君たちは、仕事が忙しく自分の事にかまけ て、お思い出し申し上げることができなかった。  弁の君、彼は彼で、気がないわけでもなくて、素振りを匂わせたのだが、思ってもみない程のおあしらいだったので、無理に参上してお世話なさ ることもできなくなっていた。  この君は、とても賢く、何とはない様子で自然と馴れ親しみなさったようである。修法などをおさせになると聞いて、僧の布施、浄衣などのような、 こまごまとした物まで差し上げなさる。病気でいらっしゃる方は、お書きになるとができない。  「通り一遍の代筆は、けしからぬとお思いでしょう、重々しい身分のお方です」  と、女房たちが申し上げるので、宮がお返事をさし上げなさる。  とても美しく、ただ一くだりほど、おっとりとした筆づかいに、言葉も優しい感じを書き添えなさっているので、ますます見たく目がとまって、頻繁に 手紙を差し上げなさる。  「やはり、いつかは事の起こるに違いないご関係のようだ」  と、北の方は様子を察していられたので、めんどうに思って、訪問したいとはお思いになるが、すぐにはお出かけになることができない。  [第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問]  八月二十日のころなので、野辺の様子も美しい時期だし、山里の様子もとても気になるので、  「何某律師が珍しく下山していると言うので、是非に相談したいことがある。御息所が病気でいらっしゃると言うのもお見舞いがてら、お伺いしよ う」  と、さりげない用件のように申し上げてお出かけになる。御前駆、大げさにせず、親しい者だけ五、六人ほどが、狩衣姿で従う。特別深い山道で はないが、松が崎の小山の色なども、それほどの岩山ではないが、秋らしい様子になって、都で又となく善美を尽くした住居より、やはり、情趣も 風情も立ち勝って見えることであるよ。  ちょっとした小柴垣も風流な様に作ってあって、仮のお住まいだが品よくお暮らしになっていらっしゃった。寝殿と思われる東の放出に、修法の壇 を塗り上げて、北の廂の間にいらっしゃるので、西表の間に宮はいらっしゃる。  御物の怪が厄介だからと言って、お止め申し上げなさったが、どうしてお側を離れ申そうと、慕ってお移りになったのだが、物の怪が他の人に乗り 移るのを恐れて、わずかの隔てを置く程度にして、そちらにはお入れ申し上げなさらない。  客人のお座りになる所がないので、宮の御方の簾の前にお入れ申して、上臈のような女房たちが、ご挨拶をお伝え申し上げる。  「まことにもったいなく、こんなにまで遠路はるばるお見舞いにお越し下さいまして。もしこのままはかなくなってしまいましたならば、このお礼をさ え申し上げることができないのではないかと、存じておりましたが、もう暫く生きていたいという気持ちになりました」  と、奥から申し上げなさった。  「お移りあそばした時のお供を致そうと存じておりましたが、六条院から仰せつけられていた事が中途になっていまして。このところも、何かと忙し い雑事がございまして、案じておりました気持ちよりも、ずっと誠意がない者のように御覧になられますのが、辛うございます」  などと、申し上げなさる。  [第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる]  宮は、奥の方にとてもひっそりとしていらっしゃるが、おおげさでない仮住まいのお設備で、端近な感じのご座所なので、宮のご様子も自然とはっ きり伝わる。とても物静かに身じろぎなさる時の衣ずれの音、あれがそうなのだろうと、聞いていらっしゃった。  心も上の空になって、あちらへのご挨拶を伝えている間、少し長く手間取っているうちに、例の少将の君などの、伺候している女房たちにお話な どなさって、  「このように参上して親しくお話を伺うことが、何年という程になったが、まったく他人行儀にお扱いなさる恨めしさよ。このような御簾の前で、人伝 てのご挨拶などを、ほのかにお伝え申し上げるとはね。いまだ経験したことがないね。どんなにか古くさい人間かと、宮様方は笑っていらっしゃるだ ろうと、きまりの悪い思いがする。  年齢も若く身分も低かったころに、多少とも色めいたことに経験が豊かであったら、こんな恥ずかしい思いはしなかったろうに。まったく、このように 生真面目で、愚かしく年を過ごして来た人は、他にいないだろう」  とおっしゃる。なるほど、まことに軽々しくお扱いできないご様子でいらっしゃるので、やはりそうであったかと、  「中途半端なお返事を申し上げるのは、気が引けます」  などとつっ突き合って、  「このようなご不満に対し情趣を解さないように思われます」  と、宮に申し上げると、  「ご自身で直接申し上げなさらないようなご無礼につき、代わって致さねばならないところですが、大変に恐いほどのご病気でいらっしゃったよう なのを、看病致しておりましたうちに、ますます生きているのかどうなのか分からない気分になって、お返事申し上げることができません」  とおっしゃるので、  「これは、宮のお返事ですか」と居ずまいを正して、「お気の毒なご病気を、わが身に代えてもとご心配申し上げておりましたのも、他ならぬあな たのためです。恐れ多いことですが、物事のご判断がお出来になるご様子などを、ご快復を御覧になられるまでは、平穏にお過ごしになられるの が、どなたにとっても心強いことでございましょうと、ご推察申し上げるのです。ただ母上様へのご心配ばかりとお考えになって、積もる思いをご理 解下さらないのは、不本意でございます」  と申し上げなさる。「おっしゃる通りだ」と、女房たちも申し上げる。  [第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意]  日も入り方になるにつれて、空の様子もしんみりと霧が立ち籠めて、山の蔭は薄暗い感じがするところに、蜩がしきりに鳴いて、垣根に生えてい る撫子が、風になびいている色も美しく見える。  前の前栽の花々が、思い思いに咲き乱れているところに、水の音がとても涼しそうに聞こえて、山下ろしの風がぞっとするように、松風の響きが 奥にこもってそこらじゅう聞こえたりなどして、不断の経を読むのが、交替の時刻になって、鐘を打ち鳴らすと、立つ僧の声も変って座る僧の声も、 一緒になって、まことに尊く聞こえる。  場所柄ゆえ、あらゆる事が心細く思われるのも、しみじみと感慨が湧き起こる。お帰りなる気持ちも起こらない。律師の加持する声がして、陀羅尼 を大変に尊く読んでいる様子である。  たいそうお苦しそうでいらっしゃるということで、女房たちもそちらの方に集まって、大体が、このような仮住まいに大勢はお供しなかったので、ま すます人少なで、宮は物思いに耽っていらっしゃった。ひっそりしていて、「思っていることも話し出すによい機会かな」と思って座っていらっしゃる と、霧がすぐこの軒の所まで立ち籠めたので、  「帰って行く方角も分からなくなって行くのは、どうしたらよいでしょうか」と言って、  「山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために   帰って行く気持ちにもなれずおります」  と申し上げなさると、  「山里の垣根に立ち籠めた霧も   気持ちのない人は引き止めません」  かすかに申し上げるご様子に慰めながら、ほんとうに帰るのを忘れてしまった。  「どうしてよいか分からない気持ちです。家路は見えないし、霧の立ち籠めたこの家には、立ち止まることもできないようにせき立てなさる。物馴 れない男は、こうした目に遭うのですね」  などとためらって、これ以上堪えられない思いをほのめかして申し上げなさると、今までも全然ご存知でなかったわけではないが、知らない顔で ばかり通して来なさったので、このように言葉に出されてお恨み申し上げなさるのを、面倒に思って、ますますお返事もないので、たいそう嘆きなが ら、心の中で、「再び、このような機会があるだろうか」と、思案をめぐらしなさる。  「薄情で軽薄な者と思われ申そうとも、どうすることもできない。せめて思い続けて来たことだけでもお打ち明け申そう」  と思って、供人をお呼びになると、近衛府の将監から五位になった、腹心の家来が参った。人目に立たないように呼び寄せなさって、  「この律師に是非とも話したいことがあるのだが。護身などに忙しいようだが、ちょうど今は休んでいるだろう。今夜はこの近辺に泊まって、初夜の 時刻が終わるころに、あの控えている所に参ろう。誰と誰とを、控えさせておけ。随身などの男たちは、栗栖野の荘園が近いから、秣などを馬に食 わせて、ここでは大勢の声を立てるではない。このような旅寝は、軽率なように人が取り沙汰しようから」  とお命じになる。何かきっと子細があるのだろうと理解して、仰せを承って立った。  [第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む]  そうしてから、  「帰り道が霧でまことにはっきりしないので、この近辺に宿をお借りしましょう。同じことなら、この御簾の側をお許し下さい。阿闍梨が下がって来る までは」  などと、さりげなくおっしゃる。いつもは、このように長居して、くだけた態度もお見せなさらないのに、「嫌なことだわ」と、宮はお思いになるが、わ ざとらしくして、さっさとあちらにお移りになるのは、人の体裁の悪い気がなさって、ただ音を立てずにいらっしゃると、何かと申し上げて、お言葉をお 伝えに入って行く女房の後ろに付いて、御簾の中に入っておしまいになった。  まだ夕暮のころで、霧に閉じ籠められて、家の内は暗くなった時分である。驚いて振り返ると、宮はとても気味悪くおなりになって、北の御障子の 外にいざってお出あそばすが、実によく探し当てて、お引き止め申した。  お身体はお入りになったが、お召し物の裾が残って、襖障子は、向側から鍵を掛けるすべもなかったので、閉めきれないまま、総身びっしょりに 汗を流して震えていらっしゃる。  女房たちも驚きあきれて、どうしたらよいかとも考えがつかない。こちら側からは懸金もあるが、困りきって、手荒くは、引き離すことのできるご身 分の方ではないので、  「何ともひどいことを。思いも寄りませんでしたお心ですこと」  と、今にも泣き出しそうに申し上げるが、  「この程度にお側近くに控えているのが、誰にもまして疎ましく、目障りな者とお考えになるのでしょうか。人数にも入らないわが身ですが、お耳 馴れになった年月も長くなったでしょう」  とおっしゃって、とても静かに体裁よく落ち着いた態度で、心の中をお話し申し上げなさる。  [第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く]  お聞き入れになるはずもなく、悔しい、こんな事にまでと、お思いになることばかりが、心を去らないので、返事のお言葉はまったく思い浮かびな さらない。  「まことに情けなく、子供みたいなお振る舞いですね。人知れない胸の中に思いあまった色めいた罪ぐらいはございましょうが、これ以上馴れ馴れ し過ぎる態度は、まったくお許しがなければ致しません。どんなにか、千々に乱れて悲しみに堪え兼ねていますことか。  いくらなんでも自然とご存知になる事もございましょうに、無理に知らぬふりに、よそよそしくお扱いなさるようなので、申し上げるすべもないので、 しかたがない、わきまえもなくけしからぬとお思いなさっても、このままでは朽ちはててしまいかねない訴えを、はっきりと申し上げて置きたいと思っ ただけです。言いようもないつれないおあしらいが辛く思われますが、まことに恐れ多いことですから」  と言って、努めて思いやり深く、気をつかっていらっしゃった。  襖を押さえていらっしゃるのは、頼りにならない守りであるが、あえて引き開けず、  「この程度の隔てをと、無理にお思いになるのがお気の毒です」  と、ついお笑いになって、思いやりのない振る舞いはしない。宮のご様子の、優しく上品で優美でいらっしゃること、何と言っても格別に思える。ず っと物思いに沈んでいらっしゃったせいか、痩せてか細い感じがして、普段着のままでいらっしゃるお袖の辺りもしなやかで、親しみやすく焚き込め た香の匂いなども、何もかもがかわいらしく、なよなよとした感じがしていらっしゃった。  [第七段 迫りながらも明け方近くなる]  風がとても心細い感じで、更けて行く夜の様子、虫の音も、鹿の声も、滝の音も、一つに入り乱れて、風情をそそるころなので、まるで情趣など解 さない軽薄な人でさえ、寝覚めするに違いない空の様子を、格子もそのまま、入方の月が山の端に近くなったころ、涙を堪え切れないほど、ものあ われである。  「やはり、このようにお分かりになって頂けないご様子は、かえって浅薄なお心底と思われます。このような世間知らずなまで愚かしく心配のいら ないところなども、他にいないだろうと思われますが、どのようなことでも手軽にできる身分の人は、このような振る舞いを愚か者だと笑って、同情 のない心をするものです。  あまりにひどくお蔑みなさるので、もう抑えてはいられないような気が致します。男女の仲というものを全くご存知ないわけではありますまいに」  と、いろいろと言い迫られなさって、どのようにお答えしたらよいものかと、困り切って思案なさる。  結婚した経験があるから気安いように、時々口にされるのも、不愉快で、「なるほど、又とない身の不運だわ」と、お思い続けていらっしゃると、死 んでしまいそうに思われなさって、  「情けない我が身の過ちを知ったとしても、とてもこのようなひどい有様を、どのように考えたらよいものでしょうか」  と、とてもかすかに、悲しそうにお泣きになって、  「わたしだけが不幸な結婚をした女の例として   さらに涙の袖を濡らして悪い評判を受けなければならないのでしょうか」  とおっしゃるともないのに、わが気持ちのままに、ひっそりとお口ずさみなさるのも、いたたまれない思いで、どうして歌など詠んだのだろうと、悔 やまずいらっしゃれないでいると、  「おっしゃるとおり、悪い事を申しましたね」  などと、微笑んでいらっしゃるご様子で、  「だいたいがわたしがあなたに悲しい思いをさせなくても   既に立ってしまった悪い評判はもう隠れるものではありません  一途にお心向け下さい」  と言って、月の明るい方にお誘い申し上げるのも、心外な、とお思いになる。気強く応対なさるが、たやすくお引き寄せ申して、  「これほど例のない厚い愛情をお分かり下さって、お気を楽になさって下さい。お許しがなくては、けっして、けっして」  と、たいそうはっきりと申し上げなさっているうちに、明け方近くなってしまった。  [第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る]  月は曇りなく澄みわたって、霧にも遮られず光が差し込んでいる。浅い造りの廂の軒は、奥行きもない感じがするので、月の顔と向かい合ってい るようで、妙にきまり悪くて、顔を隠していらっしゃる振る舞いなど、言いようもなく優美でいらっしゃった。  亡き君のお話も少し申し上げて、当たり障りのない穏やかな話を申し上げなさる。それでもやはり、あの故人ほどに思って下さらないのを、恨めし そうにお恨み申し上げなさる。お心の中でも、  「かの亡き君は、位などもまだ十分ではなかったのに、誰も彼もがお許しになったので、自然と成り行きに従って、結婚なさったのだが、それでさ え冷淡になって行ったお心の有様は、ましてこのようなとんでもないことに、まったくの他人というわけでさえないが、大殿などがお聞きになってどう お思いになることか。世間一般の非難は言うまでもなく、父の院におかれてもどのようにお聞きあそばしお思いあそばされることだろうか」  などと、ご縁者のあちらこちらの方々のお心をお考えなさると、とても残念で、自分の考え一つに、  「このように強く思っても、世間の人の噂はどうだろうか。母御息所がご存知でないのも、罪深い気がするし、このようにお聞きになって、考えのな いことだと、お思いになりおっしゃろうこと」が辛いので、  「せめて夜を明かさずにお帰り下さい」  と、せき立て申し上げなさるより他ない。  「驚いたことですね。意味ありげに踏み分けて帰る朝露が変に思うでしょうよ。やはり、それならばお考え下さい。愚かな姿をお見せ申して、うまく 言いくるめて帰したとお見限り考えなさるようなら、その時はこの心もおとなしくしていられない、今までに致した事もない、不埒な事どもを仕出かす ようなことになりそうに存じられます」  と言って、とても後が気がかりで、中途半端な逢瀬であったが、いきなり色めいた態度に出ることが、ほんとうに馴れていないお人柄なので、「お 気の毒で、ご自身でも見下げたくならないか」などとお思いになって、どちらにとっても、人目につきにくい時分の霧に紛れてお帰りになるのは、心 も上の空である。  「荻原の軒葉の荻の露に濡れながら幾重にも   立ち籠めた霧の中を帰って行かねばならないのでしょう  濡れ衣はやはりお免れになることはできますまい。このように無理にせき立てなさるあなたのせいですよ」  と申し上げなさる。なるほど、ご自分の評判が聞きにくく伝わるに違いないが、「せめて自分の心に問われた時だけでも、潔白だと答えよう」とお 思いになると、ひどくよそよそしいお返事をなさる。  「帰って行かれる草葉の露に濡れるのを言いがかりにして   わたしに濡れ衣を着せようとお思いなのですか  心外なことですわ」  と、お咎めになるご様子、とても風情があり気品がある。長年、人とは違った人情家になって、いろいろと思いやりのあるところをお見せ申してい たのに、それとうって変わって、油断させ、好色がましいのが、おいたわしく、気恥ずかしいので、少なからず反省し反省しては、「このように無理を してお従い申したとしても、後になって馬鹿らしく思われないか」と、あれこれと思い乱れながらお帰りになる。帰り道の露っぽさも、まことにいっぱ いある。   第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口  [第一段 夕霧の後朝の文]  このような出歩き、馴れていらっしゃらないお人柄なので、興をそそられまた気のもめることだとも思われながら、三条殿にお帰りになると、女君 が、このような露に濡れているのを変だとお疑いになるに違いないので、六条院の東の御殿に参上なさった。まだ朝霧も晴れず、それ以上にあちら ではどうであろうか、とお思いやりになる。  「いつにないお忍び歩きだったのですわ」  と、女房たちはささやき合う。暫くお休みになってから、お召し物を着替えなさる。いつでも夏服冬服と大変きれいに用意していらっしゃるので、香 を入れた御唐櫃から取り出して差し上げなさる。お粥など召し上がって、院の御前に参上なさる。  あちらにお手紙を差し上げなさったが、御覧になろうともなさらない。唐突にも心外であった有様、腹だたしくも恥ずかしくもお思いなさると、不愉快 で、母御息所がお聞き知りになることもまことに恥ずかしく、また一方、こんなことがあったとは全然御存知でないのに、普段と変わった態度にお気 づきになり、人の噂もすぐに広まる世の中だから、自然と聞き合わせて、隠していたとお思いになるのがとても辛いので、  「女房たちがありのままに申し上げて欲しい。困ったことだとお思いになってもしかたがない」とお思いになる。  母子の御仲と申す中でも、少しも互いに隠さず打ち明けていらっしゃる。他人は漏れ聞いても、親には隠している例は、昔の物語にもあるようだ が、そのようにはお思いなさらない。女房たちは、  「何の、少しばかりお聞きになって、子細ありそうに、あれこれと御心配なさることがありましょうか。まだ何事もないのに、おいたわしい」  などと言い合わせて、この御仲がどうなるのだろうと思っている女房どうしは、このお手紙が見たいと思うが、すこしも開かせなさらないので、じれ ったくて、  「やはり、全然お返事をなさらないのも、不安だし、子供っぽいようでございましょう」  などと申し上げて、広げたので、  「見苦しく、呆然としていて、相手にあの程度でお会いした至らなさを、わが身の過ちと思ってみるが、遠慮のなかったあまりの態度を、情けなく 思われるのです。拝見できませんと言いなさい」  と、もってのほかだと、横におなりあそばした。  実のところは、憎い様子もなく、とても心をこめてお書きになって、  「魂をつれないあなたの所に置いてきて   自分ながらどうしてよいか分かりません  思うにまかせないものは心であるとか、昔も同じような人があったのだと存じてみますにも、まったくどうしてよいものか分かりません」  などと、とても多く書いてあるようだが、女房はよく見ることができない。通常の後朝の手紙ではないようであるが、やはりすっきりとしない。女房 たちは、ご様子もお気の毒なので、心を痛めて拝見しながら、  「どのような御事なのでしょう。どのような事につけても、素晴らしく思いやりのあるお気持ちは長年続いているけれども」  「ご結婚相手としてお頼み申しては、がっかりなさるのではないか、と思うのも不安で」  などと、親しく伺候している者だけは、皆それぞれ心配している。御息所もまったく御存知でない。  [第二段 律師、御息所に告げ口]  物の怪にお悩みになっていらっしゃる方は、重病と見えるが、爽やかな気分になられる合間もあって、正気にお戻りになる。昼日中のご加持が終 わって、阿闍梨一人が残って、なおも陀羅尼を読んでいらっしゃる。好くおなりあそばしたのを、喜んで、  「大日如来は嘘をおっしゃいません。どうして、このような拙僧が心をこめて奉仕するご修法に、験のないことがありましょうか。悪霊は執念深いよ うですが、業障につきまとわれた弱いものである」  と、声はしわがれて荒々しくいらっしゃる。たいそう俗世離れした一本気な律師なので、だしぬけに、  「そうでした。あの大将は、いつからここにお通い申すようになられましたか」  とお尋ねになる。御息所は、  「そのようなことはございません。亡くなった大納言と大変仲が好くて、お約束なさったことを裏切るまいと、ここ数年来、何かの機会につけて、不 思議なほど親しくお出入りなさっているのですが、このようにわざわざ、患っていますのをお見舞いにと言って、立ち寄って下さったので、もったいな いことと聞いておりました」  と申し上げなさる。  「いや、何とおかしい。拙僧にお隠しになることもありますまい。今朝、後夜の勤めに参上した時に、あの西の妻戸から、たいそう立派な男性がお 出になったのを、霧が深くて、拙僧にはお見分け申すことができませんでしたが、この法師どもが、『大将殿がお出なさるのだ』と、『昨夜もお車を帰 してお泊りになったのだ』と、口々に申していた。  なるほど、まことに香ばしい薫りが満ちていて、頭が痛くなるほどであったので、なるほどそうであったのかと、合点がいったのでござった。いつも まことに香ばしくいらっしゃる君である。このことは、決して望ましいことではあるまい。相手はまことに立派な方でいらっしゃる。  拙僧らも、子供でいらっしゃったころから、あの君の御為の事には、修法を、亡くなられた大宮が仰せつけになったので、もっぱらしかるべき事は、 今でも承っているところであるが、まことに無益である。本妻は勢いが強くていらっしゃる。ああした、今を時めく一族の方で、まことに重々しい。若 君たちは七、八人におなりになった。  皇女の君とて圧倒できまい。また、女人という罪障深い身を受け、無明長夜の闇に迷うのは、ただこのような罪によって、そのようなひどい報いを 受けるものである。本妻のお怒りが生じたら、長く成仏の障りとなろう。全く賛成できぬ」  と、頭を振って、ずけずけと思い通りに言うので、  「何とも妙な話です。まったくそのようにはお見えにならない方です。いろいろと気分が悪かったので、一休みしてお目にかかろうとおっしゃって、 暫くの間立ち止まっていらっしゃると、ここの女房たちが言っていたが、そのように言ってお泊まりになったのでしょうか。だいたいが誠実で、実直で いらっしゃる方ですが」  と、不審がりなさりながら、心の中では、  「そのような事があったのだろうか。普通でないご様子は、時々見えたが、お人柄がたいそうしっかりしていて、努めて人の非難を受けるようなこ とは避けて、真面目に振る舞っていらっしゃったのに、たやすく納得できないことはなさるまいと、安心していたのだ。人少なでいらっしゃる様子を見 て、忍び込みなさったのであろうか」とお思いになる。  [第三段 御息所、小少将君に問い質す]  律師が立ち去った後に、小少将の君を呼んで、  「これこれの事を聞きました。どうした事ですか。どうしてわたしには、これこれ、しかじかの事があったとお聞かせ下さらなかったのですか。そん な事はあるまいと思いますが」  とおっしゃると、お気の毒であるが、最初からのいきさつを、詳しく申し上げる。今朝のお手紙の様子、宮もかすかに仰せになった事などを申し上 げ、  「長年、秘めていらしたお胸の中を、お耳に入れようというほどでございましたでしょうか。めったにないお心づかいで、夜も明けきらないうちにお帰 りになりましたが、人はどのようなふうに申し上げたのでございましょうか」  律師とは思いもよらず、こっそりと女房が申し上げたものと思っている。何もおっしゃらず、とても残念だとお思いになると、涙がぽろぽろとこぼれな さった。拝見するのも、まことにお気の毒で、「どうして、ありのままを申し上げてしまったのだろう。苦しいご気分を、ますますお胸を痛めていらっし ゃるだろう」と後悔していた。  「襖は懸金が懸けてありました」と、いろいろと適当に言いつくろって申し上げるが、  「どうあったにせよ、そのように近々と、何の用心もなく、軽々しく人とお会いになったことが、とんでもないのです。内心のお気持ちが潔白でいらっ しゃっても、こうまで言った法師たちや、口さがない童などは、まさに言いふらさずには置くまい。世間の人には、どのように抗弁をし、何もなかった 事と言うことができましょうか。皆、思慮の足りない者ばかりがここにお仕えしていて」  と、最後までおっしゃれない。とても苦しそうなご容態の上に、心を痛めてびっくりなさったので、まことにお気の毒である。品高くお扱い申そうとお 思いになっていたのに、色恋事の、軽々しい浮名がお立ちになるに違いないのを、並々ならずお嘆きにならずにはいられない。  「このように少しはっきりしている間に、お越しになるよう申し上げなさい。あちらへお伺いすべきですが、動けそうにありません。お会いしないで、 長くなってしまった気がしますわ」  と、涙を浮かべておっしゃる。参上して、  「しかじかと申されていらっしゃいます」  とだけ申し上げる。  [第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る]  お越しになろうとして、額髪が濡れて固まっている、繕い直し、単重のお召し物が綻びているが、着替えなどなさっても、すぐにはお動きになれな い。  「この女房たちもどのように思っているだろう。まだご存知なくて、後に少しでもお聞きになることがあったとき、素知らぬ顔をしていたよ」  とお思い当たられるのも、ひどく恥ずかしいので、再び臥せっておしまいになった。  「気分がひどく悩ましいわ。このまま治らなくなったら、とてもいい都合だろう。脚の気が上がった気がする」  と、脚を指圧させなさる。心配事をとてもつらく、あれこれ気にしていらっしゃる時には、気が上がるのであった。  小少将の君は、  「母上に、あの御事をそれとなく申し上げた人がいたようでございます。どのような事であったのかと、お尋ねあそばしたので、ありのままに申し 上げて、御襖障子の掛金の点だけを、少し誇張して、はっきりと申し上げました。もし、そのように何かお尋ねなさいましたら、同じように申し上げな さいまし」  と申し上げる。  お嘆きでいらっしゃる様子は申し上げない。「やはりそうであったか」と、とても悲しくて、何もおっしゃらない御枕もとから涙の雫がこぼれる。  「このことだけでない、不本意な結婚をして以来、ひどくご心配をお掛け申していることよ」  と、生きている甲斐もなくお思い続けなさって、「この方は、このまま引き下がることはなく、何かと言い寄ってくることも、厄介で聞き苦しいだろう」 と、いろいろとお悩みになる。「まして、言いようもなく、相手の言葉に従ったらどんなに評判を落とすことになるだろう」  などと、多少はお気持ちの慰められる面もあるが、「内親王ほどにもなった高貴な人が、こんなにまでも、うかうかと男と会ってよいものであろう か」と、わが身の不運を悲しんで、夕方に、  「やはり、お出で下さい」  とあるので、中の塗籠の戸を両方を開けて、お越しになった。  [第五段 御息所の嘆き]  苦しいご気分ながら、並々ならずかしこまって丁重にご応対申し上げなさる。いつものご作法と違わず、起き上がりなさって、  「とても見苦しい有様でおりますので、お越し頂くにもお気の毒に存じます。ここ二、三日ほど、拝見しませんでした期間が、年月がたったような気 がし、また一方では心細い気がします。後の世で、必ずしもお会いできるとも限らないもののようでございます。再びこの世に生まれて参っても、何 にもならないことでございましょう。  考えてみれば、ただ一瞬一瞬の間に別れ別れにならねばならない世の中を、無理に馴れ親しんでまいりましたのも、悔しい気がします」  などとお泣きになる。  宮も、物悲しい思いばかりがせられて、申し上げる言葉もなくてただ拝見なさっている。ひどく内気なご性格で、はきはきと弁明をなさるような方で はないから、恥ずかしいとばかりお思いなので、とてもお気の毒になって、どのような事であったのですかなどと、お尋ね申し上げなさらない。  大殿油などを急いで灯させて、お膳など、こちらで差し上げなさる。何も召し上がらないとお聞きになって、あれこれと自分自身で食事を整え直し なさるが、箸もおつけにならない。ただご気分がよろしくお見えなので、少し胸がほっとなさる。   第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸  [第一段 御息所、夕霧に返書]  あちらからまたお手紙がある。事情を知らない女房が受け取って、  「大将殿から、少将の君にと言って、お使者があります」  と言うのが、また辛いことであるよ。少将の君は、お手紙は受け取った。母御息所が、  「どのようなお手紙ですか」  と、やはりお尋ねになる。人知れず弱気な考えも起こって、内心はお待ち申し上げていらしたのに、いらっしゃらないようだとお思いになると、胸騷 ぎがして、  「さあ、そのお手紙には、やはりお返事をなさい。失礼ですよ。一度立った噂を良いほうに言い直してくれる人はいないものです。あなただけ潔白 だとお思いになっても、そのまま信用してくれる人は少ないものです。素直にお手紙のやりとりをなさって、やはり以前と同様なのが良いことでしょ う。いいかげんな馴れ過ぎた態度というものでしょう」  とおっしゃって、取り寄せなさる。辛いけれども差し上げた。  「驚くほど冷淡なお心をはっきり拝見しては、かえって気楽になって、一途な気持ちになってしまいそうです。  拒むゆえに浅いお心が見えましょう  山川の流れのように浮名は包みきれませんから」  と言葉も多いが、最後まで御覧にならない。  このお手紙も、はっきりした態度でもなく、いかにも癪に障るようないい気な調子で、今夜訪れないのを、とてもひどいとお思いになる。  「故衛門督君が心外に思われた時、とても情けないと思ったが、表向きの待遇は、またとなく大事に扱われたので、こちらに権威のある気がして 慰めていたのでさえ、満足ではなかったのに。ああ、何ということであろう。大殿のあたりでどうお思いになりおっしゃっていることだろうか」  と心をお痛めになる。  「やはり、どのようにおっしゃるかと、せめて様子を窺ってみよう」と、気分がひどく悪く涙でかき曇ったような目、おし開けて、見にくい鳥の足跡の ような字でお書きになる。  「すっかり弱ってしまった、お見舞いにお越しになった折なので、お勧め申したのですが、まことに沈んだような様子でいらっしゃるようなので、見 兼ねまして。  女郎花が萎れている野辺をどういうおつもりで  一夜だけの宿をお借りになったのでしょう」  と、ただ途中まで書いて、捻り文にしてお出しなさって、臥せっておしまいになったまま、とてもお苦しがりなさる。御物の怪が油断させていたの かと、女房たちは騒ぐ。  いつもの、効験のある僧すべてが、とても大声を出して祈祷する。宮に、  「やはり、あちらにお移りあそばせ」  と、女房たちが申し上げるが、ご自身が辛く思うと同時に、後れ申すまいとお思いなので、ぴったりと付き添っていらっしゃった。  [第二段 雲居雁、手紙を奪う]  大将殿は、この昼頃に、三条殿にいらっしゃったが、今晩再び小野にお伺いなさるのに、「何かわけがありそうで、まだ何もないのに外聞が悪か ろう」などと気持ちをお抑えになって、ほんとにかえって今までの気がかりさよりも、幾重にも物思いを重ねて嘆息していらっしゃる。  北の方は、このようなお忍び歩きの様子をちらっと聞いて、面白くなく思っていらっしゃるので、知らないふりをして、若君たちをあやして気を紛らし ながら、ご自分の昼のご座所で臥していらっしゃった。  ちょうど宵過ぎるころに、このお返事を持って参ったが、このようにいつもと違った鳥の足跡のような筆跡なので、直ぐにはご判読できないで、大殿 油を近くに取り寄せて御覧になる。女君、物を隔てていたようであるが、とてもすばやくお見つけになって、這い寄って、殿の後ろから取り上げなさ なった。  「あきれたことを。これは、何をなさるのですか。何と、けしからん。六条の東の上様のお手紙です。今朝、風邪をひいて苦しそうでいらっしゃった が、院の御前におりまして、帰る時に、もう一度伺わないままになってしまったので、お気の毒に思って、ただ今の加減はいかかがですかと、申し 上げたのです。御覧なさい。恋文めいた手紙の様子ですか。それにしても、はしたないなさりようです。年月とともに、ひどく馬鹿になさるのが情け ないことです。どう思うか、全く気になさらないのですね」  と慨嘆して、大切そうに無理に取り返そうとなさらないので、それでもやはり、すぐには見ずに持ったままでいらっしゃった。  「年月につれて馬鹿になさるのは、あなたのほうこそそうでございますわ」  とだけ、このように泰然としていらっしゃる態度に気後れして、若々しくかわいらしい顔つきでおっしゃるので、ふとお笑いになって、  「それは、どちらでも良いことでしょう。夫婦とはそのようなものです。二人といないでしょうね、相当な地位に上った男が、このように気を紛らすこと なく、一人の妻を守り続けて、びくびくしている雄鷹のような者はね。どんなに人が笑っているでしょう。そのような愚か者に守られていらっしゃるの は、あなたにとっても名誉なことではありますまい。  大勢の妻妾の中で、それでも一段と際立って、格別に重んじられていることが、世間の見る目も奥ゆかしく、わが気持ちとしてもいつまでも新鮮な 感じがして、興をそそることもしみじみとしたことも続くでしょう。このように翁が何かを守ったように、愚かしく迷っているので、大変に残念なことで す。どこに見栄えがありましょうか」  と、そうはいっても、この手紙を欲しそうな態度を見せずにだまし取ろうとのつもりで、嘘を申し上げると、とても高かにお笑いになって、  「見栄えのある事をお作りになるので、年取ったわたしは辛いのです。とても若々しくなられたご様子がぞっとしてなりませんことも、今まで経験し たことのない事なので、とても辛いのです。以前から馴れさせてお置きにならないで」  と文句をおっしゃるのも、憎くはない。  「急にとお考えになる程に、どこが変わって見えるのでしょう。とても嫌なお心の隔てですね。良くないことを申し上げる女房がいるのでしょう。不 思議と、昔からわたしのことを良く思っていないのです。依然として、あの緑の六位の袍の名残で、軽蔑しやすいことにつけて、あなたをうまく操ろう と思っているのではないでしょうか。いろいろと聞きにくいことをほのめかしているらしい。関わりのない方にとっても、お気の毒です」  などとおっしゃるが、結局はそうなることだとお考えなので、特に言い争いはしない。大輔の乳母は、とても辛いと聞いて、何も申し上げない。  [第三段 手紙を見ぬまま朝になる]  あれこれと言い合いをして、このお手紙はお隠しになってしまったので、無理しても探し出さず、さりげない顔してお寝みになったので、胸騷ぎがし て、「何とかして奪い返したいものだ」と、「御息所のお手紙のようだ。何事があったのだろう」と、目も合わず考えながら臥せっていらっしゃった。  女君が眠っていらっしゃる間に、昨夜のご座所の下などを、何げなくお探しになるが、ない。お隠しなさる場所もないのに、とても悔しい思いで、夜 も明けてしまったが、すぐにはお起きにならない。  女君は、若君たちに起こされて、いざり出ていらっしゃったので、自分も今お起きになったようにして、あちこちとお探しになるが、見つけることがお できになれない。妻は、このように探そうとお思いなさらないので、「なるほど、恋文ではないお手紙であったのだ」と、気にもかけていないので、若 君たちが騒がしく遊びあって、人形を作って、立て並べて遊んでいらっしゃり、漢籍を読んだり、習字をしたりなど、いろいろと雑然としていて、小さ い稚児が這ってきて裾を引っ張るので、奪い取った手紙のこともお思い出しにならない。  夫は、他の事もお考えにならず、あちらに早く返事を差し出そうとお思いになると、昨夜の手紙の内容も、よく読まないままになってしまったので、 「見ないで書いたというようなのも、なくしたのだとお察しになるだろう」などと、お思い乱れなさる。  どなたもどなたもお食事などを召し上がったりして、のんびりとなった昼ころに、困りきって、  「昨夜のお手紙には、何が書いてありましたか。けしからん事にお見せにならないで。今日もお見舞い申そう。気分が悪くて、六条院にも参上す ることができないようなので、手紙を差し上げたい。何が書いてあったのだろうか」  とおっしゃるのが、とてもさりげないので、「手紙を、愚かにも奪い取ってしまった」と興醒めがして、そのことはおっしゃらずに、  「昨夜の深山風に当たって、具合を悪くされたらしいと、風流気取りで訴えられたらよいでしょう」  と申し上げなさる。  「さあ、そんな冗談、いつまでもおっしゃいませんな。何の風流なことがあろうか。世間の人と一緒になさるのは、かえって気が引けます。ここの女 房たちも、一方では不思議なほどの堅物を、このようにおっしゃると、笑っていることでしょうよ」  と、冗談に言いなして、  「その手紙ですよ。どこですか」  とお尋ねになるが、すぐにはお出しにならないままに、またお話などを申し上げて、暫く横になっていらっしゃるうちに、日が暮れてしまった。  [第四段 夕霧、手紙を見る]  蜩の鳴き声に目が覚めて、「小野の麓ではどんなに霧が立ち籠めているだろう。何ということか。せめて今日中にお返事をしよう」と、お気の毒に なって、ただ知らない顔をして硯を擦って、「どのように取り繕って書こうか」と、物思いに耽っていらっしゃる。  ご座所の奥の少し盛り上がった所を、試しにお引き上げなさったところ、「ここに差し挟みなさったのだ」と、嬉しくもまた馬鹿らしくも思えるので、に っこりして御覧になると、あのようなおいたわしいことが書いてあったのであった。胸がどきりとして、「先夜の出来事を、何かあったようにお聞きに なったのだ」とお思いになると、おいたわしくて胸が痛む。  「昨夜でさえ、どれほどの思いで夜をお明かしになったことだろう。今日も、今まで手紙さえ上げずに」  と、何とも言いようなく思われる。とても苦しそうに、言いようもなく、書き紛らしていらっしゃる様子で、  「よほど思案にあまって、このようにお書きになったのだろう。返事のないまま、夜が明けていくのだろう」  と、申し上げる言葉もないので、女君が、まことに辛く恨めしい。  「いいかげんな、あなようなことをして、悪ふざけに隠すとは。いやはや、自分がこのようにしつけたのだ」と、あれこれとわが身が情けなくなって、 全く泣き出したい気がなさる。  そのままお出かけなさろうとするが、  「気安く対面することもできないだろうから、御息所もあのようにおっしゃっているし、どうであろうか。坎日でもあったが、もし万が一にお許し下さっ ても、日が悪かろう。やはり縁起の良いように」  と、几帳面な性格から判断なさって、まずは、このお返事を差し上げなさる。  「とても珍しいお手紙を、何かと嬉しく拝見しましたが、このお叱りは。どのようにお聞きあそばしたのですか。   秋の野の草の茂みを踏み分けてお伺い致しましたが   仮初の夜の枕に契りを結ぶようなことを致しましょうか  言い訳を申すのも筋違いですが、昨夜の罪は、一方的過ぎませんでしょうか」  とある。宮には、たいそう多くお書き申し上げなさって、御厩にいる足の速いお馬に移し鞍を置いて、先夜の大夫を差し向けなさる。  「昨夜から、六条院に伺候していて、たった今退出してきたところだと言え」  と言って、言うべきさま、ひそひそとお教えになる。  [第五段 御息所の嘆き]  あちらでは、昨夜も薄情なとお見えになったご様子を、我慢することができないで、後のちの評判をもはばからず恨み申し上げなさったが、そのお 返事さえ来ずに、今日がすっかり暮れてしまったのを、どれ程のお気持ちかと、愛想が尽きて、驚きあきれて、心も千々に乱れて、すこしは好ろし かったご気分も、再びたいそうひどくお苦しみになる。  かえってご本人のお気持ちは、このことを特に辛いこととお思いになり、心を動かすほどのことではないので、ただ思いも寄らない方に、気を許し た態度で会ったことだけが残念であったが、たいしてお心にかけていなかったのに、このようにひどくお悩みになっているのを、言いようもなく恥ず かしく、弁解申し上げるすべもなくて、いつもよりも恥ずかしがっていらっしゃる様子にお見えになるのを、「とてもお気の毒で、ご心労ばかりがお加 わりになって」と拝するにつけても、胸が締めつけられて悲しいので、  「今さら厄介なことは申し上げまいと思いますが、やはり、ご運命とは言いながらも、案外に思慮が甘くて、人から非難されなさることでしょうが。 それを元に戻れるものではありませんが、今からは、やはり慎重になさいませ。  物の数に入るわが身ではありませんが、いろいろとお世話申し上げてきましたが、今ではどのようなことでもお分かりになり、世の中のあれやこ れやの有様も、お分かりになるほどに、お世話申してきたことと、そうした方面は安心だと拝見していましたが、やはりとても幼くて、しっかりしたお 心構えがなかったことと、思い乱れておりますので、もう暫く長生きしたく思います。  普通の人でさえ、多少とも人並みの身分に育った女性で、二人の男性に嫁ぐ例は、感心しない軽薄なことですのに、ましてこのようなご身分で は、そのようないい加減なことで、男性がお近づき申してよいことでもないのに、思ってもいませんでした心外なご結婚と、長年来心を痛めてまいり ましたが、そのようなご運命であったのでしょう。  院をお始め申して、御賛成なさり、この父大臣にもお許しなさろうとの御内意があったのに、わたし一人が反対を申し上げても、どんなものかと思 いよりましたことですが、のちのちまで面白からぬお身の上を、あなたご自身の過ちではないので、天命を恨んでお世話してまいりましたが、とても このような相手にとってもあなたにとっても、いろいろと聞きにくい噂が加わって来ましょうが、そうなっても、世間の噂を知らない顔をして、せめて世 間並のご夫婦としてお暮らしになれるのでしたら、自然と月日が過ぎて行くうちに、心の安まる時が来ようかと、思う気持ちにもなりましたが、この 上ない薄情なお心の方でございますね」  と、ほろほろとお泣きになる。  [第六段 御息所死去す]  ほんとうにどうしようもなく独りぎめにしておっしゃるので、抗弁して申し開きをする言葉もなくて、ただ泣いていらっしゃる様子、おっとりとしていじら しい。じっと見つめながら、 「ああ、どこが、人に劣っていらっしゃろうか。どのようなご運命で、心も安まらず、物思いなさらなければならない因縁が深かったのでしょう」  などとおっしゃるうちに、ひどくお苦しみになる。物の怪などが、このような弱り目につけ込んで勢いづくものだから、急に息も途絶えて、見る見るう ちに冷たくなっていかれる。律師も騷ぎ出しなさって、願などを立てて大声でお祈りなさる。  深い誓いを立てて、命果てるまでと決心した山籠もりを、こんなにまで並々の思いでなく出てきて、壇を壊して退出することが、面目なくて、仏も恨 めしく思わずいはいらっしゃれない趣旨を、一心不乱にお祈り申し上げなさる。宮が泣き取り乱していらっしゃること、まことに無理もないことではあ る。  このように騒いでいる最中に、大将殿からお手紙を受け取ったと、かすかにお聞きになって、今夜もいらっしゃらないらしい、とお聞きになる。  「情けない。世間の話の種にも引かれるに違いない。どうして自分まであのような和歌を残したのだろう」  と、あれこれとお思い出しなさると、そのまま息絶えてしまわれた。あっけなく情けないことだと言っても言い足りない。昔から、物の怪には時々お 患いになさる。最期と見えた時々もあったので、「いつものように物の怪が取り入ったのだろう」と考えて、加持をして大声で祈ったが、臨終の様子 は、明らかであったのだ。  宮は、一緒に死にたいとお悲しみに沈んで、ぴったりと添い臥していらっしゃった。女房たちが参って、  「もう、何ともしかたありません。まことこのようにお悲しみになっても、定められた運命の道は、引き返すことはできるものでありません。お慕い申 されようとも、どうしてお思いどおりになりましょう」  と、言うまでもない道理を申し上げて、  「とても不吉です。亡くなったお方にとっても、罪深いことです。もうお離れなさいまし」  と、引き動かし申し上げるが、身体もこわばったようで、何もお分かりにならない。  修法の壇を壊して、ばらばらと出て行くので、しかるべき僧たちだけ、一部の者が残ったが、今は全てが終わった様子、まことに悲しく心細い。  [第七段 朱雀院の弔問の手紙]  あちこちからのご弔問、いつの間に知れたのかと見える。大将殿も、限りなく驚きなさって、さっそくご弔問申し上げなさった。六条院からも、致仕 の大臣からも、皆々頻繁にご弔問申し上げなさる。山の帝もお聞きあそばして、まことにしみじみとしたお手紙をお書きなさっていた。宮は、このお 手紙には、おぐしをお上げなさる。  「長らく重く患っていらっしゃるとずっと聞いていましたが、いつも病気がちとばかり聞き馴れておりましたので、つい油断しておりました。言っても しかたのないことはそれとして、お悲しみ嘆いていらっしゃるだろう有様、想像するのがお気の毒でおいたわしい。すべて世の中の定めとお諦めに なって慰めなさい」  とある。目もお見えにならないが、お返事は申し上げなさる。  普段からそうして欲しいとおっしゃっていたことなので、今日直ちに葬儀を執り行い申すことになって、御甥の大和守であった者が、万事お世話申 し上げたのであった。  せめて亡骸だけでも暫くの間拝していたいと思って、宮は惜しみ申し上げなさったが、いくら別れを惜しんでもきりがないので、皆準備にとりかか って、忌中の最中に、大将がいらっしゃった。  「今日から後は、日柄が悪いのだ」  などと、人前ではおっしゃって、とても悲しくしみじみと、宮がお悲しみであろうことをご推察申し上げなさって、  「こんなに急いでお出掛けになる必要はありません」  と、女房たちがお引き止め申したが、無理にいらっしゃった。  [第八段 夕霧の弔問]  道のりまでも遠くて、山麓にお入りになるころ、じつにぞっとした気がする。不吉そうに幕を引き廻らした葬儀の方は目につかないようにして、この 西面にお入れ申し上げる。大和守が出て来て、泣きながら挨拶を申し上げる。妻戸の前の簀子に寄り掛かりなさって、女房をお呼び出しなさるが、 伺候する者みな、悲しみも収まらず、何も考えられない状態である。  このようにお越しになったので、すこし気持ちもほっとして、小少将の君は参った。何もおっしゃることができない。涙もろくはいらっしゃらない気丈 な方であるが、場所柄、人の様子などをお思いやりになると、ひどく悲しくて、無常の世の有様が、他人事でもないのも、まことに悲しいのであっ た。少し気を落ち着けてから、  「好くおなりになったように承っておりましたので、油断しておりました時に。夢でも醒める時がございますというのに、何とも思いがけないことで」  と申し上げなさった。「ご心痛であったご様子、この方のために多くはお心も乱れになったのだ」とお思いになると、そうなる運命とはいっても、まこ とに恨めしい人とのご因縁なので、お返事さえなさらない。  「どのように申し上げあそばしたかと、申し上げましょうか」  「とても重々しいご身分で、このように遠路急いでお越しになったご厚志を、お分かりにならないようなのも、あまりというものでございましょう」  と、口々に申し上げるので、  「ただ、よいように返事せよ。わたしはどう言ってよいか分かりません」  とおっしゃって、臥せっていらっしゃるのも道理なので、  「ただ今は、亡き人と同然のご様子でありまして。お出あそばしました旨は、お耳に入れ申し上げました」  と申し上げる。この女房たちも涙にむせんでいる様子なので、  「お慰め申し上げようもありませんが。もう少し、私自身も気が静まって、またお静まりになったころに、参りましょう。どうしてこのように急にと、そ のご様子が知りたい」  とおっしゃると、すっかりではないが、あのお悩みになり嘆いていた様子を、少しずつお話し申し上げて、  「恨み言を申し上げるようなことに、きっとなりましょう。今日は、いっそう取り乱したみなの気持ちのせいで、間違ったことを申し上げることもござい ましょう。それゆえ、このようにお悲しみに暮れていらっしゃるご気分も、きりのあるはずのことで、少しお静まりあそばしたころに、お話を申し上げ承 りましょう」  と言って、正気もない様子なので、おっしゃる言葉も口に出ず、  「なるほど、闇に迷った気がします。やはり、お慰め申し上げなさって、わずかのお返事でもありましたら」  などと言い残しなさって、ぐずぐずしていらっしゃるのも、身分柄軽々しく思われ、そうはいっても人目が多いので、お帰りになった。  [第九段 御息所の葬儀]  まさか今夜ではあるまいと思っていた葬儀の準備が、実に短時間にてきぱきと整えられたのを、いかにもあっけないとお思いになって、近くの御 荘園の人々をお呼びになりお命じになって、しかるべき事どもをお仕えするように、指図してお帰りになった。事が急なので、簡略になりがちであっ たのが、盛大になり、人数も多くなった。大和守も、  「有り難い殿のお心づかいだ」  などと、喜んでお礼申し上げる。「跡形もなくあっけないこと」と、宮は身をよじってお悲しみになるが、どうすることもできない。親と申し上げても、 まことにこのように仲睦まじくするものではないのだった。拝見する女房たちも、このご悲嘆を、また不吉だと嘆き申し上げる。大和守は、後始末を して、  「このように心細い状態では、いらっしゃれまい。とてもお心の紛れることはありますまい」  などと申し上げるが、やはり、せめて峰の煙だけでも、側近くお思い出し申そうと、この山里で一生を終わろうとお考えになっていた。  御忌中に籠もっていた僧は、東面や、そちらの渡殿、下屋などに、仮の仕切りを立てて、ひっそりとしていた。西の廂の間の飾りを取って、宮はお 住まいになる。日の明け暮れもお分かりにならないが、いく月かが過ぎて、九月になった。   第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧  [第一段 夕霧、返事を得られず]  山下ろしがたいそう烈しく、木の葉の影もなくなって、何もかもがとても悲しく寂しいころなので、だいたいがもの悲しい秋の空に催されて、涙の乾 く間もなくお嘆きになり、「命までが思いどおりにならなかった」と、厭わしくひどくお悲しみになる。伺候する女房たちも、何かにつけ悲しみに暮れて いた。  大将殿は、毎日お見舞いの手紙を差し上げなさる。心細げな念仏の僧などが、気の紛れるように、いろいろな物をお与えになりお見舞いなさり、 宮の御前には、しみじみと心をこめた言葉の限りを尽くしてお恨み申し上げ、一方では、限りなくお慰め申し上げなさるが、手に取って御覧になるこ とさえなく、思いもしなかったあきれた事を、弱っていらしたご病状に、疑う余地なく信じこんで、お亡くなりになったことをお思い出しになると、「ご成 仏の妨げになりはしまいか」と、胸が一杯になる心地がして、この方のお噂だけでもお耳になさるのは、ますます恨めしく情けない涙が込み上げて くる思いが自然となさる。女房たちもお困り申し上げていた。  ほんの一行ほどのお返事もないのを、「暫くの間は気が転倒していらっしゃるのだ」などとお考えになっていたが、あまりに月日も過ぎたので、  「悲しい事でも限度があるのに。どうして、こんなに、あまりにお分かりにならないことがあろうか。言いようもなく子供のようで」と恨めしく、「これと は筋違いに、花や蝶だのと書いたのならともかく、自分の気持ちに同情してくれ、悲しんでいる状態を、いかがですかと尋ねる人は、親しみを感じう れしく思うものだ。  大宮がお亡くなりになったのを、実に悲しいと思ったが、致仕の大臣がそれほどにもお悲しみにならず、当然の死別として、世間向けの盛大な儀 式だけを供養なさったので、恨めしく情けなかったが、六条院が、かえって心をこめて、後のご法事をもお営みになったのが、自分の父親ということ を超えて、嬉しく拝見したその時に、故衛門督を、特別に好ましく思うようになったのだった。  人柄がたいそう冷静で、何事にも心を深く止めていた性格で、悲しみも深くまさって、誰よりも深かったのが、慕わしく思われたのだ」  などと、所在なく物思いに耽るばかりで、毎日をお過ごしになる。  [第二段 雲居雁の嘆きの歌]  女君、やはりこのお二人のご様子を、  「どのような関係だったのだろうか。御息所と、手紙を遣り取りしていたのも、親密なようになさっていたようだが」  などと納得がゆきがたいので、夕暮の空を眺め入って臥せっていらっしゃるところに、若君を使いにして差し上げなさった。ちょっとした紙の端に、  「お悲しみを何が原因と知ってお慰めしたらよいものか   生きている方が恋しいのか、亡くなった方が悲しいのか  はっきりしないのが情けないのです」  とあるので、にっこりとして、  「以前にも、このような想像をしておっしゃる、見当違いな、故人などを持ち出して」  とお思いになる。ますます、何気ないふうに、  「特に何がといって悲しんでいるのではありません   消えてしまう露も草葉の上だけでないこの世ですから  世間一般の無常が悲しいのです」  とお書きになっていた。「やはり、このように隔て心を持っていらっしゃること」と、露の世の悲しさは二の次のこととして、並々ならず胸を痛めてい らっしゃる。  やはり、このように気がかりでたまらなくなって、改めてお越しになった。「御忌中などが明けてからゆっくり訪ねよう」と、気持ちを抑えていらっしゃ ったが、そこまでは我慢がおできになれず、  「今はもうこのおん浮名を、どうして無理に隠していようか。ただ世間一般の男性と同様に、目的を遂げるまでのことだ」  と、ご計画なさったので、北の方のご想像を、無理に打ち消そうとなさらない。  ご本人はきっぱりとお気持ちがなくても、あの「一夜ばかりの宿を」といった恨みのお手紙を理由に訴えて、「潔白を言い張ることは、おできになれ まい」と、心強くお思いになるのであった。  [第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問]  九月十余日、野山の様子は、十分に分からない人でさえ、何とも思わずにはいられない。山風に堪えきれない木々の梢も、峰の葛の葉も、気ぜ わしく先を争って散り乱れているところに、尊い読経の声がかすかに、念仏などの声ばかりして、人の気配がほとんどせず、木枯らしが吹き払った ところに、鹿は籬のすぐそばにたたずんでは、山田の引板にも驚かず、色の濃くなった稲の中に入って鳴いているのも、もの悲しそうである。  滝の音は、ますます物思いをする人をはっとさせるように、耳にうるさく響く。叢の虫だけが、頼りなさそうに鳴き弱って、枯れた草の下から、龍胆 が、自分だけ茎を長く延ばして、露に濡れて見えるなど、みないつもの時節のことであるが、折柄か場所柄か、実に我慢できないほどの、もの悲し さである。  いつもの妻戸のもとに立ち寄りなさって、そのまま物思いに耽りながら立っていらっしゃった。やさしい感じの直衣に、紅の濃い下襲の艶が、とて も美しく透けて見えて、光の弱くなった夕日が、それでも遠慮なく差し込んできたので、眩しそうに、さりげなく扇をかざしていらっしゃる手つきは、 「女こそこうありたいものだが、それでさえできないものを」と、拝見している。  物思いの時の慰めにしたいほどの、笑顔の美しさで、小少将の君を、特別にお呼びよせになる。簀子はさほどの広さもないが、奥に人が一緒に いるだろうかと不安で、打ち解けたお話はおできになれない。  「もっと近くに。放っておかないでください。このように山の奥にやって来た気持ちは、他人行儀でよいものでしょうか。霧もとても深いのですよ」  と言って、特に見るでもないふりをして、山の方を眺めて、「もっと近く、もっと近く」としきりにおっしゃるので、鈍色の几帳を、簾の端から少し外に 押し出して、裾を引き繕って横向きに座わっている。大和守の妹なので、お近い血縁の上に、幼い時からお育てになったので、着物の色がとても 濃い鈍色で、橡の喪服一襲に、小袿を着ていた。  「このようにいくら悲しんでもきりのない方のことは、それはそれとして、申し上げようもないお気持ちの冷たさをそれに加えて思うと、魂も抜け出て しまって、会う人ごとに怪しまれますので、今はまったく抑えることができません」  と、とても多く恨み続けなさる。あの最期の折のお手紙の様子もお口にされて、ひどくお泣きになる。  [第四段 板ばさみの小少将君]  この人も、それ以上にひどく泣き入りながら、  「その夜のお返事さえ拝見せずじまいでしたが、もう最期という時のお心に、そのままお思いつめなさって、暗くなってしまいましたころの空模様 に、ご気分が悪くなってしまいましたが、そのような弱目に、例の物の怪が取りつき申したのだ、と拝見しました。  以前の御事でも、ほとんど人心地をお失いになったような時々が多くございましたが、宮が同じように沈んでいらっしゃったのを、お慰め申そうとの お気を強くお持ちになって、だんだんとお気をしっかりなさいました。このお嘆きを、宮におかれては、まるで正体のないようなご様子で、ぼんやりと していらっしゃるのでした」  などと、涙を止めがたそうに悲しみながら、はきはきとせず申し上げる。  「そうですね。それもあまりに頼りなく、情けないお心です。今は、恐れ多いことですが、誰を頼りにお思い申し上げなさるのでしょう。御山暮らしの 父院も、たいそう深い山の中で、世の中を思い捨てなさった雲の中のようなので、お手紙のやりとりをなさるにも難しい。  ほんとうにこのような冷たいお心を、あなたからよく申し上げてください。万事が、前世からの定めなのです。この世に生きていたくないとお思いに なっても、そうはいかない世の中です。第一、このような死別がお心のままになるなら、この死別もあるはずがありません」  などと、いろいろと多くおっしゃるが、お返事申し上げる言葉もなくて、ただ溜息をつきながら座っていた。鹿がとても悲しそうに鳴くのを、「自分も 鹿に劣ろうか」と思って、  「人里が遠いので小野の篠原を踏み分けて来たが   わたしも鹿のように声も惜しまず泣いています」  とおっしゃると、  「喪服も涙でしめっぽい秋の山里人は   鹿の鳴く音に声を添えて泣いています」  上手な歌ではないが、時が時とて、ひっそりとした声の調子などを、けっこうにお聞きになった。  ご挨拶をあれこれ申し上げなさるが、  「今は、このように思いがけない夢のような世の中を、少しでも落ち着きを取り戻す時がございましたら、たびたびのお見舞いにもお礼申し上げま しょう」  とだけ、素っ気なく言わせなさる。「ひどく何とも言いようのないお心だ」と、嘆きながらお帰りになる。  [第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅]  道すがら、しみじみとした空模様を眺めて、十三日の月がたいそう明るく照り出したので、薄暗い小倉の山も難なく通れそうに思っているうちに、 一条の宮邸はその途中であった。  以前にもまして荒れて、南西の方角の築地の崩れている所から覗き込むと、ずっと一面に格子を下ろして、人影も見えない。月だけが遣水の表 面をはっきりと照らしているので、大納言が、ここで管弦の遊びなどをなさった時々のことを、お思い出しになる。  「あの人がもう住んでいないこの邸の池の水に   独り宿守りしている秋の夜の月よ」  と独言を言いながら、お邸にお帰りになっても、月を見ながら、心はここにない思いでいらっしゃった。  「何ともみっもない。今までになかったお振る舞いですこと」  と、おもだった女房たちも憎らしがっていた。北の方は、真実嫌な気がして、  「魂が抜け出たお方のようだ。もともと何人もの夫人たちがいっしょに住んでいらっしゃる六条院の方々を、ともすれば素晴らしい例として引き出し 引き出しては、性根の悪い無愛想な女だと思っていらっしゃる、やりきれないわ。わたしも昔からそのように住むことに馴れていたならば、人目にも 無難に、かえってうまくいったでしょうが。世の男性の模範にしてもよいご性質と、親兄弟をはじめ申して、けっこうなあやかりたい者となさっていた のに、このままいったら、あげくの果ては恥をかくことがあるだろう」  などと、とてもひどく嘆いていらっしゃった。  夜明け方近く、お互いに口に出すこともなくて、背き合いながら夜を明かして、朝霧の晴れる間も待たず、いつものように、手紙を急いでお書きに なる。とても気にくわないとお思いになるが、以前のようには奪い取りなさらない。たいそう情愛をこめて書いて、ちょっと下に置いて歌を口ずさみな さる。声をひそめていらっしゃったが、漏れて聞きつけられる。  「いつになったらお訪ねしたらよいのでしょうか   明けない夜の夢が覚めたらとおっしゃったことは  お返事がありません」  とでもお書きになったのであろうか、手紙を包んで、その後も、「どうしたらよかろう」などと口ずさんでいらっしゃった。人を召してお渡しになった。 「せめてお返事だけでも見たいものだわ。やはり、本当はどうなのかしら」と、様子を窺いたくお思いになっている。  [第六段 落葉宮の返歌が届く]  日が高くなってから返事を持って参った。紫の濃い紙が素っ気ない感じで、小少将の君が、いつものようにお返事申し上げた。いつもと同じで、何 の甲斐もないことを書いて、  「お気の毒なので、あの頂戴したお手紙に、手習いをしていらしたのをこっそり盗みました」  とあって、中に破いて入っていたが、「御覧になったのだ」と、お思いになるだけで嬉しいとは、とても体裁の悪い話である。とりとめもなくお書きに なっているのを、見続けていらっしゃると、  「朝な夕なに声を立てて泣いている小野山では   ひっきりなしに流れる涙は音無の滝になるのだろうか」  とか、読むのであろうか、古歌などを、悩ましそうに書き乱れていらっしゃる、ご筆跡なども見所がある。  「他人の事などで、このような浮気沙汰に心焦がれているのは、はがゆくもあり、正気の沙汰でもないように見たり聞いたりしていたが、自分の事 となると、なるほどまことに我慢できないものであるなあ。不思議だ。どうして、こんなにもいらいらするのだろう」  と反省なさるが、思うにまかせない。   第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る  [第一段 源氏や紫の上らの心配]  六条院にもお聞きあそばして、とても落ち着いていて何につけ冷静で、人の非難もなく、無難に過ごしていらっしゃるのを、誇りに思い、自分の若 いころ、少し風流すぎて、好色家だという評判をおとりになった名誉回復に、嬉しくお思い続けていらしたが、  「かわいそうに、どちらにとってもお気の毒なことがきっとあるだろうことよ。赤の他人の間でさえなく、大臣なども、どのようにお思いになろうか。そ れくらいのこと、分からないではないだろう。宿世というものからは、逃れられないのだ。とやかく口を出すべきことではない」  とお思いになる。女の身にとっては、どちらに対してもお気の毒だと、困った事にお聞きあそばしてお心をお痛めになる。  紫の上に対しても、今までのことや将来のことをお考えになりながら、このような噂を聞くにつけても、亡くなった後、不安にお思い申し上げる様子 をおっしゃると、お顔をぽっと赤らめて、「情けないこと。そんなに長く後にお残しなさるおつもりか」とお思いになっていた。  「女ほど、身の処し方も窮屈で、痛ましいものはない。ものの情趣も、折にふれた興趣深いことも、見知らないふうに身を引いて黙ってなどいて は、いったい何によって、この世に生きている晴れがましさを味わい、無常なこの世の所在なさをも慰めることができよう。  だいたい、ものの道理も弁えないで、つまらない者のようになってしまったのでは、育てた親も、とても残念に思うはずではないか。  心の中にばかり思いをこめて、無言太子とか言って、小法師たちが辛い修行の例とする昔の喩えのように、悪い事良い事を弁えながら、口に出さ ずにいるのは、つまらない。自分ながらも、ほど好い身の処し方をするには、どのようにしたらよいものか」  とご思案なさるのも、今はただ女一の宮の御身のためを思ってのことである。  [第二段 夕霧、源氏に対面]  大将の君が、参上なさった機会があって、悩んでいらっしゃる様子も知りたいので、  「御息所の忌中は明けたのだろうね。昨日今日と思っているうちに、三年以上の昔になる世の中なのだ。ああ、悲しく味気ないものだ。夕方の露 がかかっている間の寿命を貪っているとは。何とかこの髪を剃って、何もかも捨て去ろうと思うが、なんといつまでものんびりと過ごしていることか。 まことに悪いことだ」  とおっしゃる。  「ほんとうに、惜しくない人でさえ、めいめい離れがたく思っている人の世でございましょう」などと申し上げて、「御息所の四十九日の法事など、 大和守某朝臣が、独りでお世話致しますのは、とてもお気の毒なことです。しっかりした縁者がいない方は、生きている間だけのことで、このような 死後は、悲しゅうございます」  と、お申し上げになる。  「朱雀院からも御弔問があるだろう。あの内親王、どんなにお嘆きでいらっしゃるだろう。昔聞いていた時よりは、つい最近、何かにつけ聞いたり 見たりするに、この更衣は、しっかりした無難な人の中に入っていた。世間一般のことにつけて、惜しいことをしたものだ。生きていてもよいと思う方 が、このように亡くなってゆくことよ。  朱雀院も、ひどく驚きお悲しみになっていた。あの内親王は、ここにいらっしゃる入道の宮の次には、かわいがっていらっしゃった。人柄も良くいら っしゃるのだろう」  とおっしゃる。  「お気立てはどのようでいらっしゃいましょう。御息所は、申し分のない人柄や、気立てでいらっしゃいました。親しく気をお許して接したわけでは ありませんでしたが、ちょっとした事の機会に、自然と人の心配りというものがよく分かるものでございます」  とお申し上げになって、宮の御事は口にかけず、まったく素知らぬふりをしている。  「これほどの一本気の性格の者が思い染めたことは、忠告しても聞き入れないだろう。聞き入れもしないだろうことを分かっていながら、自分が分 別くさく口を出してもしようがない」  とお思いになっておやめになった。  [第三段 父朱雀院、出家希望を諌める]  こうしてご法事に、万端を取り仕切っておさせなさる。その評判は、自然に知れることなので、大殿などにおかれてもお聞きになって、「そんなこと があって良いことか」などと、妻方が思慮が浅いようにお考えになるのは、困ったことである。あの故人とのご縁もあるので、ご子息たちも。ご法要 に参集なさる。  読経など、大殿からも盛大におさせになる。誰も彼も、いろいろ負けず劣らずなさったので、時めく人のこのような法事に負けないほどであった。  宮は、このまま小野で一生を送ろうとご決心なさったことがあったが、朱雀院に、誰かがそっとお告げ申し上げたので、  「それはとんでもないことです。なるほど、何人とも、あれこれと身の関わりをお持ちになることは良いことではないが、後見のない人は、なまじ尼 姿になってから、けしからぬ噂がたち、罪を得るような時、現世も来世も、どっちつかずの非難されるというものです。  自分がこのように世を捨てているのに、三の宮が同じように出家なさったのを、何ともなす手がないように人が思ったり言ったりするのも、世を捨 てた身には、思い悩むべきことではないが、必ずそんなにも、同じように競って出家なさるのも、感心しないことでしょう。  世の辛さに負けて世を厭うのは、かえって体裁の悪いことです。自分でしっかり考えて、もう少し冷静になって、心を澄ましてから、どうなりとも」  と度々申し上げなさった。この浮いたお噂をお耳にあそばしたのであろう。「噂のようなことが思うとおりに行かないので世をお厭いになった」と言 われなさることを御心配なさったのであった。そうかといって、また、「公然と再婚なさるのも軽薄で、感心しないこと」と、お思いになりながら、恥ず かしいとお思いになるのもお気の毒なので、「どうして、自分までが噂を聞いて口出ししたりしようか」とお思いになって、このことは、全然一言もお 出し申し上げなさらないのだった。  [第四段 夕霧、宮の帰邸を差配]  大将も、  「あれこれと言ってみたが、今は無駄なことだ。宮のお心ではお聞き入れなさることは、難しいことのようだ。御息所が承知済みであったと、世間 の人には知らせよう。どうしようもない。亡くなった方に少し思慮が浅かったと罪を思わせて、いつからそうなったということもなく、分からなくさせてし まおう。年がいもなく若返って、懸想をし、涙を流し尽くして口説いたりするのも、いかにも身にふさわしからぬことだろう」  と決心なさって、一条邸にお帰りになる予定の日を、何日ほどにと決めて、大和守を呼んで、しかるべき諸式をお命じになり、邸内を掃除し整え、 何といっても、女世帯では、草深く住んでいらっしゃったので、磨いたように整備し直して、お気づかいぶりなどは、しかるべきやり方も立派に、壁 代、御屏風、御几帳、御座所などまでお気を配りなさり、大和守にお命じになって、あちらの家で急いで準備させなさる。  その日、自分でいらっしゃって、お車や、御前駆などを差し向けなさる。宮は、どうしても帰るまいとお思いになりおっしゃるのを、女房たちが熱心 に説得申し上げ、大和守も、  「まったくご承知するわけには行きません。心細く悲しいご様子を拝見し心を痛め、これまでのお世話は、できるだけのことはさせていただきまし た。  今は、任国の公務もございますし、下向しなければなりません。お邸内のことも任せられる人もございません。まことに不行届なことで、どうしたも のかと心配いたしておりますが、このように万事お世話なさいますのを、なるほど、ご結婚ということを考えてみますと、必ずしも今すぐに移転する のが良いというのではないお身の上ですが、そのように、昔もお心のままにならなかった例は、多くございます。  あなたお一方だけが、世間の非難をお受けになることでしょうか。とても幼稚なお考えです。いくら強がっても、女一人のご分別で、ご自分の身の 振りをきちんとなさり、お気をつけなさることがどうしてできましょうか。やはり、男性から大事にお世話なされるのに助けられて、初めて深いお考え による立派なご方針も、それに依存するものなのです。  あなた方がよくお教え申し上げなさらないのです。一方では、けしからぬことをも、ご自分たちの判断でかってにお取り計らい申し上げなさって」  と、言い続けて、左近の君や、小少将の君を責める。  [第五段 落葉宮、自邸へ向かう]  寄ってたかって説得申し上げるので、とても困りきって、色鮮やかなお召し物を、女房たちがお召し替え申し上げるにも、夢心地で、やはり、とて も一途に削き落としたく思われなさる御髪を、掻き出して御覧になると、六尺ほどあって、少し細くなったが、女房たちは不完全だとは拝見せず、ご 自身のお気持ちでは、  「ひどく衰えたこと。とても男の人にお見せできなる有様ではない。いろいろと情けない身の上であるものを」  とお思い続けなさって、また臥せっておしまいになった。  「時刻に遅れます。夜も更けてしまいます」  と、皆が騷ぐ。時雨がとても心急かせるように風に吹き乱れて、何事にもつけ悲しいので、  「母君が上っていった峰の煙と一緒になって   思ってもいない方角にはなびかずにいたいものだわ」  ご自分では気強く思っていらっしゃるが、そのころは、お鋏などのような物は、みな取り隠して、女房たちが目をお離し申さずいたので、  「このように騒がないでいても、どうして惜しい身の上で、愚かしく、子供っぽくもこっそり髪を下ろしたりしようか。人聞きも悪いとお思いなさること を」  とお思いになると、ご希望通り出家もなさらない。  女房たちは、全員急ぎ出して、それぞれ、櫛や、手箱や、唐櫃や、いろいろな道具類を、つまらない袋入れのような物であるが、全部前もって運 んでしまっていたので、独り居残っているわけにもゆかず、泣く泣くお車にお乗りになるのも、隣の空席ばかりに自然と目が行きなさって、こちらに お移りになった時、ご気分が優れなかったにも関わらず、御髪をかき撫でて繕って、降ろしてくださったことをお思い出しになると、目も涙にむせんで たまらない。御佩刀といっしょに経箱を持っているが、いつもお側にあるので、  「恋しさを慰められない形見の品として   涙に曇る玉の箱ですこと」  黒造りのもまだお調えにならず、あの日頃親しくお使いになっていた螺鈿の箱なのであった。お布施の料としてお作らせになったのだが、形見と して残して置かれたのであった。浦島の子の気がなさる。  [第六段 夕霧、主人顔して待ち構える]  ご到着なさると、邸内は悲しそうな様子もなく、人の気配が多くて、様子が違っている。お車を寄せてお降りになるに、全然、以前に住んでいた所 とは思われず、よそよそしく嫌な気がなさるので、すぐにはお降りにならない。とてもおかしな子供っぽいお振る舞いですわと、女房たちも拝見し困 っている。殿は、東の対の南面を、自分のお部屋として、仮に設けて、主人気取りでいらっしゃる。三条殿では、女房たちが、  「突然あきれたことにおなりになったこと。いつからのことだったのかしら」  とあきれるのだった。色めいた風流事を、お好きでなくお思いになる方は、このように突然な事がおありになるのだった。けれども、何年も前から あった事を、噂にもならず素振り知られずにお過ごしになって来られたのだ、とばかりに思い込んで、このように、女のお気持ちは不承知であると、 気づく人もいない。いずれにしても宮の御ためにはお気の毒なことである。  お調度類なども普段と変わって、新婚としては縁起が悪いが、お食事を差し上げたりした後、皆が寝静まったころにお渡りになって、少将の君を ひどくお責めになる。  「ご愛情が本当に末長くとお思いでしたら、今日明日を過ぎてから申し上げて下さいませ。お帰りになって、かえって、悲しみに沈み込んで、亡く なった方のようにお臥せりになってしまわれました。おとりなし申し上げても、辛いとばかりお思いでいらっしゃるので、何事もわが身あってでござい ますもの。まことに困って、申し上げにくうございます」  と言う。  「まことに妙なことです。ご推量申し上げていたのとは違って、子供っぽく理解しがたいお考えでありますね」  とおっしゃって、考えていらっしゃる処遇は、宮の御ためにも、自分のためにも、世間の非難のないようにおっしゃり続けるので、  「いえもう、ただ今は、またもお亡くし申し上げてしまうのではないかと、気が気ではなく取り乱しておりますので、万事判断がつきません。お願い でございます、あれこれと無理押しなさって、乱暴なことはなさいませぬように」  と手を擦って頼む。  「これはまだ経験のないことだ。憎らしく嫌な者だと、人より格段に軽蔑される身の上が情けない。是非とも誰かにでも判断してもらいたい」  と、言いようもないとお思いになっておっしゃるので、やはりお気の毒でもあり、  「まだ知らないとおっしゃるのは、なるほど恋愛経験の少ないお人柄だからでしょうと、道理は、仰せのとおり、どちら様を正しいと申す人がござい ますでしょうか」  と、少しほほ笑んだ。  [第七段 落葉宮、塗籠に籠る]  このように強情であるが、今となっては、邪魔立てされなさるおつもりもないので、そのままこの人を引き立てて、当て推量にお入りになる。  宮は、「まことに嫌でたまらない、思いやりのない浅薄な心の方だった」と、悔しく辛いので、「大人げないようだと言われようとも」とご決意なさっ て、塗籠にご座所を一つ敷かせなさって、内側から施錠して、お寝みになってしまった。「これもいつまで続くことであろうか。これほどに浮き足立っ ている女房たちの気持ちは、何と悲しく残念なことか」とお思いなさる。  男君は、心外なひどい仕打ちとお思い申し上げなさるが、このようなことで、どうして逃れることができようかと、気長にお考えになって、いろいろと 思案しながら夜をお明かしなさる。山鳥の気がなさるのであった。やっとのことで明け方になった。こうしてばかり、取り立てて言うと、にらみ合いに なりそうなので、お出になろうとして、  「ただ、少しの隙間だけでも」  と、しきりにお頼み申し上げなさるが、まったくお返事がない。  「怨んでも怨みきれません、胸の思いを晴らすことのできない冬の夜に   そのうえ鎖された関所のような岩の門です  何とも申し上げようのない冷たいお心です」  と、泣く泣くお出になる。   第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮  [第一段 夕霧、花散里へ弁明]  六条院にいらっしゃって、ご休息なさる。東の上は、  「一条の宮をお移し申し上げなさったと、あの大殿あたりなどでお噂申しているのは、どのようなことなのですか」  と、とてもおっとりとお尋ねになる。御几帳を添えているが、端からちらちらと、それでも顔をお見せ申し上げなさる。  「そのようにも、やはり世間の人は取り沙汰しそうなことでございます。故御息所は、とても気強く、とんでもないことときっぱりおっしゃいました が、最期の様子の時に、お気持ちが弱られた折に、わたし以外に後見を依頼できる人のないのが悲しかったのでしょうか、亡くなった後の後見とい うようなことがございましたので、もともとの心積もりもございましたことなので、このようにお引き受け致すことになりましたが、あれこれと、どのよう に世間の人は噂するのでございましょう。そうでないことをも、不思議と世間の人は、口さがないものです」  と、ほほ笑みながら、  「あのご本人の宮は、もう普通の暮らしはするまいと深く決心なさって、尼になってしまいたいと思い詰めていらっしゃるようなので、どうしてどうし て。あちら方こちら方に聞きずらいことでもございますが、そのように嫌疑を招かぬことになったとしても、また一方で、あの遺言に背くまいと存じま して、ただこのようにお世話申しているのでございます。  院がお渡りあそばしたような時に、よい機会がございましたら、このようにわたしの申したとおりに申し上げてください。この年になって、感心しな い浮気心を起こしたと、お思いになりおっしゃりもするだろうと気にいたしておりますが、なるほど、このようなことには、人の意見にも、自分の心にも 従えないものだということが分かりました」  と、声を小さくして申し上げなさる。  「誰かの間違いではないかと思っておりましたが、本当にそのようなご事情があったのですね。すべて世間によくある事ですが、三条の姫君がご 心配なさるのも、お気の毒です。平穏無事に馴れていらっしゃって」  と申し上げなさると、  「かわいらしくおっしゃいますね、姫君とはね。まるで鬼のようでございます性悪な者を」とおっしゃって、「どうして、その人をいい加減に扱っており ましょうか。恐れ多いですが、こちらのご夫人方のご様子からご推量ください。  穏やかである事だけが、女性として結局良いことのようでございます。口やかましく事を荒立てるのも、暫くの間は煩しく、面倒くさいように遠慮す ることもありますが、それに必ずしも最後まで従うものではないので、浮気沙汰が出てきた後、自分も相手も、憎らしそうに嫌気のさすものです。  やはり、南の殿の上のお心遣いこそが、いろいろとまたとないことで、それに次いではこちらのお気立てなどが、素晴らしいものとして、拝見する ようになりました」  などと、お誉め申し上げなさると、お笑いになって、  「そうした女性の例に出したりなさるので、我が身の体裁の悪い評判がはっきりしてしまいそうで。  ところで、おかしなことは、院が、ご自分の女癖を誰も知らないように、ちょっとした好色めいたお心遣いを、重大事とお思いになって、お諌め申し 上げなさる。陰口をも申し上げなさっているらしいのは、賢ぶっている人が、自分のことは知らないでいるように思われます」  とおっしゃると、  「さように、いつも女性の事では厳しくお仰せになります。しかし、恐れ多い教えを戴かなくても、自分で十分に気をつけておりますのに」  とおっしゃって、なるほどおかしいと思っていらっしゃった。  御前に参上なさると、あの事件はお聞きあそばしていらしたが、どうして知っている顔をしていられようかとお思いになって、ただじっと顔を窺って いらっしゃると、「実に素晴らしく美しくて、最近特に男盛りになったようだ。そのような浮気事をなさっても、人が非難すべきご様子もなさっていな い。鬼神も罪を許すに違いなく、鮮やかでどことなく清らかで、若々しく今を盛りに生気溌剌としていらっしゃる。  何の分別もない若い人ではいらっしゃらず、どこからどこまですっかり成人なさっている、無理もないことだ。女性として、どうして素晴らしいと思わ ないでいられようか。鏡を見ても、どうして心奢らずにいられようか」  と、ご自分のお子ながらも、そうお思いになる。  [第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う]  日が高くなって、殿にお帰りになった。お入りになるや、若君たちが、次々とかわいらしい姿で、纏わりついてお遊びになる。女君は、御帳台の中 に臥せっていらっしゃった。  お入りになったが、目もお合わせにならない。ひどいと思っているのであろう、と御覧になるのもごもっともであるが、遠慮した素振りもお見せにな らず、お召し物を引きのけなさると、  「ここをどこと思っていらっしゃったのですか。わたしはとっくに死にました。いつも鬼とおっしゃるので、同じことならすっかりなってしまおうと思って」  とおっしゃる。  「お心は、鬼以上でいらっしゃるが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることはできないな」  と、何くわぬ顔でおっしゃるのも、癪にさわって、  「結構な姿形で優美に振る舞っていらっしゃるお方に、いつまでも連れ添っていられる身でもありませんので、どこへなりとも消え失せようと思うの を、このようにさえお思い出しますな。いつのまにか過ごした年月さえ、惜しく思われるものを」  と言って、起き上がりなさった様子は、たいそう愛嬌があって、つやつやとして赤くなった顔、実に美しい。  「このように子供っぽく腹を立てていらっしゃるからでしょうか、見慣れて、この鬼は、今では恐ろしくもなくなってしまったなあ。神々しい感じを加わ えたいものだ」  と、冗談事におっしゃるが、  「何を言うの。あっさりと死んでおしまいなさい。わたしも死にたい。見ていると憎らしい。聞くも気にくわない。後に残して死ぬのは気になるし」  とおっしゃるが、とても愛らしさが増すばかりなので、心からにっこりして、  「近くで御覧にならなくても、よそながらどうして噂をお聞きにならないわけには行きますまい。そうして、夫婦の縁の深いことを分からせようとのお つもりのようですね。急に続くような冥土への旅立ちは、そのようにお約束申したからね」  と、まこと素っ気なく言って、何やかやと宥めすかし申し慰めなさると、とても若々しく素直で、かわいらしいお心の持ち主でいらっしゃる方なので、 口からの出まかせの言葉とはお思いになりながら、自然と和らいでいらっしゃるのを、とても愛しい人だとお思いになる一方で、心はうわの空で、  「あの方も、とても我を張って、強く頑固な人の様子にはお見えではないが、もしやはり不本意なことと思って、尼などになっておしまいになった ら、馬鹿らしくもあるな」  と思うと、暫くの間は絶え間なく通おうと、落ち着いていられない気がして、日が暮れて行くにつれて、「今日もお返事さえなかったな」とお思いに なって、気にかかりながら、ひどく物思いに耽っていらっしゃる。  [第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す]  昨日今日と全然お召し上がりにならなかった食事を、少々はお召し上がりになったりなどしていらっしゃる。  「昔から、あなたのために愛情が並大抵でなかった事情は、大臣がひどいお扱いをなさったために、世間から愚かな男だとの評判を受けたが、堪 えがたいところを我慢して、あちらこちらが、進んで申し込まれた縁談を、たくさん聞き流して来た態度は、女性でさえそれほどの人はいるまいと、 世間の人も皮肉った。  今思うにつけても、どうしてそうであったのかと、自分ながらも、昔でさえ重々しかったと反省されるが、今は、このようにお憎みになっても、お捨て になることのできない子供たちが、とても辺りせましと数増えたようなので、あなたのお気持ち一つで出てお行きになることはできません。また、ま あ見ていてくださいよ。寿命とは分からないのがこの世の常です」  と言って、お泣きになったりすることもある。女も、往時を思い出しなさると、  「しみじみとも世に又となく仲睦まじかった二人の仲が、何と言っても前世の約束が深かったのだな」  と、お思い出しなさる。柔らかくなったお召し物をお脱ぎになって、新調の素晴らしいのを重ねて香をたきしめなさり、立派に身繕いし化粧してお出 かけになるのを、灯火の光で見送って、堪えがたく涙が込み上げて来るので、脱ぎ置きなさった単衣の袖を引き寄せなさって、  「長年連れ添って古びたこの身を恨んだりするよりも   いっそ尼衣に着替えてしまおうかしら  やはり俗世の人のままでは、生きて行くことができないわ」  と、独言としておっしゃるのを、立ち止まって、  「何とも嫌なお心ですね。   いくら長年連れ添ったからといって、わたしを見限って   尼になったという噂が立ってよいものでしょうか」  急いでいて、とても平凡な歌であるよ。  [第四段 塗籠の落葉宮を口説く]  あちらには、やはり籠もっていらっしゃるのを、女房たちが、  「こうしてばかりいらしてよいものでしょうか。子供っぽく良くない噂も立つでございましょうから、いつものご座所に戻って、お考えのほどを申し上 げなさいませ」  などと、いろいろと申し上げたので、もっともなことだとお思いになりながら、今から以後の世間での噂も、自分のどのようなお気持ちで過ごして来 たかも、気にくわなく、恨めしかった方のせいだとお考えになって、その夜もお会いなさらない。「冗談ではなく、変わった方だ」と、言葉を尽くして恨 みのたけを申し上げなさる。女房もお気の毒だと拝す。  「『わずかでも人心地のする時があろうときに、お忘れでなかったら、何なりとお返事申し上げましょう。この御服喪期間中は、せめて他の事で頭 を思い乱すことなく過ごしたい』と、深くお思いになりおっしゃっていますが、このようにまことに都合悪く、知らない人のなくなってしまったようなこと を、やはりひどくお辛いことと申し上げておいでです」  と申し上げる。  「愛する気持ちは、また普通の人とは違って安心ですのに。思いも寄らない目に遭うものですね」と嘆息して、「普通のご気分でいらっしゃったら、 物越しなどでも、自分の気持ちだけでも申し上げて、お心を傷つけるようなことはしません。何年でもきっとお待ちしましょう」  などと、どこまでも申し上げなさるが、  「やはり、このような喪中の心の乱れに加えて、無理をおっしゃるお心がひどく辛い。他人が聞いて想像することも、すべていい加減なことで済ま されないわが身の辛さは、それはそれとして措いても、格別に情けないお心づもりです」  と、重ねて拒否してお恨みになりながら、つき放してお相手していらっしゃった。  [第五段 夕霧、塗籠に入って行く]  「そうかといって、こうしてばかりいられようか。人が洩れ聞くことも当然だ」と、きまり悪く、こちらの人目も気にかかりなさるので、  「内々のお気づかいは、このおっしゃることに適っても、暫くの間はお気持ちに逆らわないでいよう。夫婦らしからぬ様子が、とても嫌である。ま た、こうだからといって、まったく参らなくなったら、あなたのご評判がどんなにかおいたわしいことでしょうか。一方的にお考えになって、大人げない のが困ったことです」  など、この女房をお責めになるので、なるほどと思って、拝するのも今はお気の毒になって、恐れ多くも思われる様子なので、女房を出入りさせな さる塗籠の北の口から、お入れ申し上げてしまった。  ひどく驚いて情けなくむごいと、伺候している女房も、なるほどこのような世間の人の心だから、これ以上ひどい目に遭わせるに違いないと、頼り にする人もいなくなってしまった我が身を、かえすがえす悲しくお思いになる。  男は、いろいろと納得なさるような条理を尽くしてお説き申し上げ、言葉数多く、しみじみと気を引くようなことをどこまでも申し上げなさるが、辛く気 にくわないとばかりお思いになっていた。  「まったく、このように、何とも言いようもない者に思われなさった身のほどは、例のないくらい恥ずかしいので、あってはならない考えがつき始まっ たのも、迂闊にも悔しく思われますが、昔に戻ることのできない関係で、何の立派なご評判がございましょうか。もう仕方のないこととお諦めくださ い。  思い通りにならない時、淵に身を投げる例もございますそうですが、ただこのような愛情を深い淵だとお思いになって、飛び込んだ身だとお思いく ださい」  と申し上げなさる。単衣のお召し物をお髪ごと被って、できることといっては、声を上げてお泣きになる様子が、心底お気の毒なので、  「まったく困ったことだ。どうしてまったくこのようにまでお嫌いになるのだろう。強情を張っている人でも、これほどになってしまえば、自然と弱くな る様子もあるのだが、石や木よりもほんとうに心を動かさないのは、前世の因縁が薄いために、恨むようなことがあるが、そのようにお思いなのだろ うか」  と思い当たると、あまりひどいので情けなくなって、三条の君がお悲しみであろうことや、昔も何の疑いもなく、お互いに愛情を交わし合った当時 のこと、長年にわたり、もう安心と信頼し、打ち解けていらっしゃった様子を思い出すにつけても、自分のせいで、まことにつまらなく思い続けられず にはいられないので、無理にもお慰め申し上げなさらず、嘆息しながら夜をお明かしになった。  [第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ]  こうしてばかり馬鹿らしく出入りするのもみっともないので、今日は泊まって、ゆっくりとしていらっしゃる。こんなにまで一途なのを、あきれたことと 宮はお思いになって、ますます疎んずる態度が増してくるのを、愚かしい意地の張りようだと、思う一方で、情けなくもおいたわしい。  塗籠も、格別こまごまとした物も多くはなくて、香の御唐櫃や、御厨子などばかりがあるのは、あちらこちらに片づけて、親しみの持てる感じに設 えていらっしゃるのだった。内側は暗い感じがするが、朝日がさし昇った感じが漏れて来たので、被っていた単衣をひき払って、とてもひどく乱れて いたお髪、かき上げたりなどして、わずかに拝見なさる。  まことに気品高く女性的で、優美な感じでいらっしゃった。夫君のご様子は、凛々しくしていらっしゃる時よりも、くつろいでいらっしゃる時は、限り なく美しい感じである。  「亡き夫君が特別すぐれた容貌というわけでなかったが、その彼でさえ、すっかり気位高く持って、ご器量がお美しくないと、何かの折に思ってい たらしい様子をお思い出しになると、それ以上に、このようにひどく衰えた様子を、少しの間でも我慢できようか」と思うのも、ひどく恥ずかしく、あれ やこれやと思案しながら、自分のお気持ちを納得させなさる。  ただ外聞が悪く、こちらでもあちらでも、人がお聞きになってどうお思いなさろうかの罪は避けられないうえ、喪中でさえあるのがとても情けないの で、気持ちの慰めようがないのであった。  御手水や、お粥などを、いつものご座所の方で差し上げる。色の変わった御調度類も、縁起でもないようなので、東面には屏風を立てて、母屋と の境に香染の御几帳など、大げさに見えない物、沈の二階棚などのような物を立てて、気を配って飾ってある。大和守のしたことであったのだ。  女房たちも、派手でない色の、山吹襲、掻練襲、濃い紫の衣、青鈍色などを着替えさせ、薄紫色の裳、青朽葉などを、何かと目立たないようにし て、お食膳を差し上げる。女主人の生活で、諸事しまりなくいろいろ習慣になっていた宮邸の中で、有様に気を配って、わずかの下人たちにも声を かけてきちんとさせ、この大和守一人だけで取り仕切っている。  このように思いがけない高貴な来客がいらっしゃったと聞いて、もとから怠けていた家司なども、急に参上して、政所などという所に控えて仕事を するのだった。   第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語  [第一段 雲居雁、実家へ帰る]  このように無理して馴染んだ顔をしていらっしゃるので、三条殿は、  「これが最後のようだと、まさかそんなことはあるまいと、一方では信頼していたが、実直な人が浮気したら跡形もなくなると聞いていたことは、本 当のことであった」  と、夫婦の仲を見届けてしまった感じがして、「どうにしてこの侮辱を味わっていようか」とお思いになったので、大殿邸へ、方違えしようと思って、 お移りになったところ、弘徽殿の女御が里にいらっしゃる時でもあり、お会いなさって、少し悩みが晴れることとお思いになって、いつものように急い でお帰りにならない。  大将殿もお聞きになって、  「やはりそうであったか。まことせかっちでいらっしゃる性格だ。この大殿の方も、また、年輩者らしくゆったりと落ち着いているところが、何といって もなく、実に性急で派手でいらっしゃる方々だから、気にくわない、見るものか、聞くものかなどと、不都合なことをおっしゃり出すかも知れない」  と、驚きなさって、三条殿にお帰りになると、子供たちも、半ばは残っていらっしゃって、姫君たちと、それからとても幼い子は連れていらっしゃって いたのだが、見つけて喜んで纏わりつき、ある者は母上を恋い慕い申して、悲しんで泣いていらっしゃるのを、かわいそうにとお思いになる。  手紙を頻繁に差し上げて、お迎えに参上なさるが、お返事すらない。このように頑固で軽率な夫婦仲だと、嫌に思われなさるが、大殿が見たり聞 いたりなさる手前もあるので、日が暮れてから、自分自身で参上なさった。  [第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く]  寝殿にいらっしゃると聞いて、いつもお帰りの時に使う部屋は、年配の女房たちだけが控えている。若君たちは、乳母と一緒にいらっしゃった。  「今になって若々しいお付き合いをなさることだ。このような子を、あちらやこちらにほって置きなさって。どうして寝殿でお話に熱中なさっているの ですか。不似合いなご性格とは、長年見知っていたが、前世からの宿縁だろうか、昔から忘れられない人とお思い申し上げて、今ではこのように、 手のかかった子供たちも大勢かわいくなっているのを、お互いに見捨ててよいものかと、お頼み申しているのです。ちょっとしたことで、こんなふうに なさってよいものでしょうか」  と、ひどく非難しお恨み申し上げなさると、  「何もかも、もう飽き飽きしたと見限られてしまった身ですので、今さらまた、直るものでないのを、どうして直そうかと思いまして。見苦しい子供た ちは、お忘れにならなければ、嬉しく思いましょう」  とお答え申し上げなさった。  「穏やかなお返事ですね。言い続けていったら、誰が悪く言われるでしょう」  と言って、無理にお帰りになりなさいとも言わずに、その夜は独りでお寝みになった。  「変に中途半端なこのごろだ」と思いながら、子供たちを前にお寝せになって、あちらではまた、どんなにお悩みになっていらっしゃるだろう様子 を、ご想像申し上げ、気の安まらない心地なので、「どのような人が、このようなことを興味もつのだろう」などと、懲り懲りした感じがなさる。  夜が明けたので、  「誰が見聞きしても大人げないことですから、もう最後だとおっしゃるならば、そのようにしましょう。あちらにいる子供たちも、かわいらしそうに恋い 慕い申しているようでしたが、選び残されたのには、何かわけがあるのかと思いながら、放っておくことができませんから、どうなりともいたしましょ う」  と、脅し申し上げなさると、いかにもきっぱりしたご性格なので、この子供たちまで、知らない所へお連れなさるのだろうか、と心配になる。姫君 を、  「さあ、いらっしゃい。お目にかかるために、このように参上するのも体裁が悪いので、いつも参上できません。あちらにも子供たちがかわいいの で、せめて同じ所でお世話申そう」  と申し上げなさる。まだとても小さく、かわいらしくいらっしゃるのを、しみじみといとしいと拝見なさって、  「母君のお言葉にお従いになってはなりませんよ。とても情けなく、物事の分別がつかないのは、とても良くないことです」  と、お教え申し上げなさる。  [第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者]  大殿は、このようなことをお聞きになって、物笑いになることとお嘆きになる。  「もう少しの間、そのまま様子を見ていらっしゃらないで。自然と反省するところも生じてこようものを。女がこのように性急であるのも、かえって軽く 思われるものだ。仕方ない、このように言い出したからには、どうして間抜け顔をして、おめおめとお帰りになれよう。自然と相手の様子や考えが分 かるだろう」  と仰せになって、この一条宮邸に、蔵人少将の君をお使いとして差し向けなさる。  「前世からの因縁があってか、あなたのことを   お気の毒にと思う一方で、恨めしい方だと聞いております  やはり、お忘れにはなれないでしょう」  とあるお手紙を、少将が持っていらっしゃって、ただずんずんとお入りになる。  南面の簀子に円座をさし出したが、女房たちは、応対申し上げにくい。宮は、それ以上に困ったことだとお思いになる。  この君は、兄弟の中でとても器量がよく、難のない態度で、ゆったりと見渡して、昔を思い出している様子である。  「参上し馴れた気がして、久しぶりの感じもしませんが、そのようにはお認めいただけないでしょうか」  などとだけそれとなくおっしゃる。お返事はとても申し上げにくくて、  「わたしはとても書くことできない」  とおっしゃるので、  「お気持ちも通じず子供っぽいように思われます。代筆のお返事は、差し上げるべきではありません」  と寄ってたかって申し上げるので、何より先涙がこぼれて、  「亡くなった母上が生きていらっしゃったら、どんなに気にくわない、とお思いになりながらも、罪を庇ってくれたであろうに」  とお思い出しなさると、涙ばかりが辛さに先走る気がして、お書きになれない。  「どういうわけで、世の中で人数にも入らないわたしのような身を   辛いとも思い愛しいともお聞きになるのでしょう」  とだけ、お心にうかんだままに、終わりまで書かなかったような書きぶりで、ざっと包んでお出しになった。少将は、女房と話して、  「時々お伺いしますのに、このような御簾の前では、頼りない気がいたしますが、今からは御縁のある気がして、常に参上しましょう。御簾の中に もお許しいただけそうな、長年の忠勤の結果が現れましたような気がいたします」  などと、思わせぶりな態度を見せてお帰りになった。  [第四段 藤典侍、雲居雁を慰める]  ますますおもしろからぬご気分に、気もそぞろにうろうろなさっているうちに、大殿邸にいる女君は、何日も経るうちに、お悲しみ嘆くことしばしばで ある。藤典侍は、このようなことを聞くと、  「わたしを長年ずっと許さないとおっしゃっていたと聞いているが、このように馬鹿にできない相手が現れたこと」  と思って、手紙などは時々差し上げていたので、お見舞い申し上げた。  「わたしが人数にも入る女でしたら夫婦仲の悲しみを思い知られましょうが   あなたのために涙で袖をぬらしております」  何となく出過ぎた手紙だとは御覧になったが、何となくしみじみと物思いに沈んでいる時の所在なさに、「あの人もとても平気ではいられまい」と お思いになる気にも、幾分おなりになった。  「他人の夫婦仲の辛さをかわいそうにと思って見てきたが   わが身のこととまでは思いませんでした」  とだけあるのを、お思いになったままだと、しみじみと見る。  あの、昔、二人のお仲が遠ざけられていた期間は、この典侍だけを、密かにお目をかけていらっしゃったのだが、事情が変わってから後は、とても たまさかに、冷たくおなりになるばかりであったが、そうは言っても、子供たちは大勢になったのであった。  こちらがお生みになったのは、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君といらっしゃる。藤典侍は、大君、三の君、六の君、 二郎君、四郎君といらっしゃった。全部で十二人の中で、出来の悪い子供はなく、とてもかわいらしく、それぞれに大きくおなりになっていた。  藤典侍のお生みになった子供は、特に器量がよく、才気が見えて、みな立派であった。三の君と、二郎君は、六条院の東の御殿で、特別に引き 取ってお世話申していらっしゃる。院も日頃御覧になって、とてもかわいがっていらっしゃる。  このお二方の話は、いろいろとあって語り尽くせない、とのことである。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 6/6/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    御法 光る源氏の准太上天皇時代五十一歳三月から八月までの物語 第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語 1.紫の上、出家を願うが許されず---紫の上、ひどくお患いになったご病気の後 2.二条院の法華経供養---長年、私的なご発願としてお書かせ申し上げなさった 3.紫の上、明石御方と和歌を贈答---三月の十日なので、花盛りで、空の様子なども 4.紫の上、花散里と和歌を贈答---昨日は、いつもと違って起きていらっしゃったせいであろうか 5.紫の上、明石中宮と対面---夏になってからは、いつもの暑さでさえ、ますます意識を失って 6.紫の上、匂宮に別れの言葉---紫の上は、ご心中にお考えになっていらっしゃることがいろいろと多くあるが 第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀 1.紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける---ようやく待っていた秋になって、世の中が少し涼しくなってからは 2.明石中宮に看取られ紫の上、死去す---風が身にこたえるように吹き出した夕暮に、前栽を御覧になろうとして 3.源氏、紫の上の落飾のことを諮る---中宮もお帰りにならず、こうしてお看取り申されたことを 4.夕霧、紫の上の死に顔を見る---長年、何やかやと、分不相応な考えは持たなかったが 5.紫の上の葬儀---お仕え親しんでいた女房たちで、気の確かな者もいないので 第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち 1.源氏の悲嘆と弔問客---大将の君も、御忌みに籠もりなさって、ほんのちょっとも 2.帝、致仕大臣の弔問---あちらこちらからのご弔問は、朝廷をはじめ奉り 3.秋好中宮の弔問---冷泉院の后の宮からも、お心のこもったお便りが絶えずあり   第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語  [第一段 紫の上、出家を願うが許されず]  紫の上、ひどくお患いになったご病気の後、とても衰弱がひどくおなりになって、どこそこがお悪いというのでなくご気分がすぐれない状態が長くな った。  たいして重病ではないが、年月が重なるので、頼りなさそうに、ますます衰弱をお増しになったのを、院がご心痛になること、この上ない。少しの 間でも先立たれ申されることは、堪えがたくお思いになり、ご自身のお気持ちは、この世に何の不足なこともなく、気がかりな子供たちさえおいでで ないお身の上なので、無理に生き残っていたいお命ともお思いなされないのだが、長年のご夫婦の縁を別れ、ご悲嘆申させるだろうことだけが、人 知れず心の中でも、何となく悲しく思われなさるのであった。来世のためにと、尊い仏事を数多くなさりながら、「何とかしてやはり出家の本願を遂 げて、暫くの間でも生きている命の限りは、勤行を一途に行いたい」と、いつもお思いになりお願いなさるが、まったくお許し申し上げなさらない。  そうは言うものの、ご自分のお気持ちにも、そのようにご決心なさっていることなので、このように熱心に思っていらっしゃる機会に促されて、一緒 に出家生活に入ろうとお思いになるが、一度、出家をなさったらば、仮にもこの世の事を顧みようとはお思いにならず、来世では、一つの蓮の座を 分け合おうと、お約束申し上げなさって、頼りにしていらっしゃるご夫婦仲であるが、この世のままで勤行なさる間は、同じ奥山であっても、峰を隔 てて、お互いに顔を会わせない住まいで離れて生活することばかりをお考えになっていたので、このようにとても頼りない状態で病が篤くなってゆ かれるので、とてもお気の毒なご様子を、いよいよ出家しようという時機には捨てることができず、かえって、山水の清い生活も濁ってしまいそう で、ぐずぐずしていらっしゃるうちに、ほんの浅い考えで、思うまま出家心を起こす人々に比べて、すっかり後れを取っておしまいになりそうである。  お許しがなくて、一存でご決心なさるのも、体裁が悪く不本意のようなので、この一事によって、女君は、恨めしくお思い申し上げていらっしゃるの であった。ご自身でも、罪障が浅くない身の上ゆえかと、気がかりに思わずにはいらっしゃれないのであった。  [第二段 二条院の法華経供養]  長年、私的なご発願としてお書かせ申し上げなさった『法華経』一千部を、急いでご供養なさる。ご自身のお邸とお思いの二条院で催されるので あった。七僧の法服など、それぞれ身分に応じてお与えになる。法服の染色や、仕立て方をはじめとして、美しいこと、この上ない。だいたいどのよ うなことに対しても、実にご荘厳な法会を催された。  大層な催しには致されなかったので、詳細な事柄はお教えなさらなかったのに、女性のお指図としては行き届いており、仏道にまで通じていらっ しゃるお心のほどなどを、院はまことにこの上ない方だと感心なさって、ただ大体のお飾り、何やかのことだけを、お世話なさるのであった。楽人、 舞人などのことは、大将の君が特別にお世話を申し上げなさる。  帝、春宮、后宮たちをおはじめ申して、ご夫人方が、それぞれ御誦経、捧げ物など程度のことをご寄進なさるのでさえ所狭しなのに、それ以上 に、その当時は、このご準備のご用をお務めしない人がないので、たいそう物々しいことがあれこれとある。「いつのまに、とてもこのようにいろいろ とご用意なさったのであろう。なるほど、古い昔からの御願であろうか」と見えた。  花散里と申し上げた御方、明石などもお越しになった。東南の妻戸を開けていらっしゃる。寝殿の西の塗籠であった。北の廂に、御方々のお席 は、襖障子だけを仕切って設えてあった。  [第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答]  三月の十日なので、花盛りで、空の様子なども、うららかで興趣あり、仏のいらっしゃる極楽浄土の有様が、身近に想像されて、格別である。信 心のない人までが、罪障がなくなりそうである。薪こる行道の声も、大勢集い響き、あたりをゆるがすが、声が中断して静かになった時でさえしみじ み寂しく思わずにはいらっしゃれないのに、それ以上に、最近になっては、何につけても、心細くばかりお感じになられる。明石の御方に、三の宮を 使いにして、申し上げなさる。  「惜しくもないこの身ですが、これを最後として   薪の尽きることを思うと悲しうございます」  お返事は、心細い歌意のことは、後の非難も気にかかったのであろうか、当り障りのない詠みぶりであったようだ。  「仏道へのお思いは今日を初めの日として   この世で願う仏法のために千年も祈り続けられることでしょう」  一晩中、尊い読経の声に合わせた鼓の音、鳴り続けておもしろい。ほのぼのと夜が明けてゆく朝焼けに、霞の間から見えるさまざまな花の色 が、なおも春に心がとまりそうに咲き匂っていて、百千鳥の囀りも、笛の音に負けない感じがして、しみじみとした情趣も感興もここに極まるといっ た感じで、陵王の舞が急の調べにさしかかった最後のほうの楽、はなやかに賑やかに聞こえるので、一座の人々が脱いで掛けていた衣装のさま ざまな色なども、折からの情景に美しく見える。  親王たち、上達部の中でも、音楽の上手な方々は、技を尽くして演奏なさる。身分の上下に関わらず気持ちよさそうに、うち興じている様子を御 覧になるにも、余命少ないと身をお思いになっていらっしゃるお心の中には、万事がしみじみと悲しく思われなさる。  [第四段 紫の上、花散里と和歌を贈答]  昨日は、いつもと違って起きていらっしゃったせいであろうか、とても苦しくて臥せっていらっしゃる。長年、このような機会ごとに、参集して音楽を なさる方々のご容貌や態度が、それぞれの才能、琴笛の音色をも、今日が見たり聞いたりなさる最後になるだろう、とばかりお思いなさるので、格 別に目にもとまらないはずの人達の顔も、しみじみと一人一人に目が自然とお止まりになる。  それ以上に、夏冬の四季折々の音楽会や遊びなどにも、何となく張り合う気持ちは、自然と沸き起こって来るようであるが、やはりお互いに親しく しあっていらっしゃる御方々は、誰もみな永久に生きていらっしゃれる世の中ではないが、まず自分独りが先立って行くのをお考え続けなさると、ひ どく悲しいのである。  法会が終わって、それぞれお帰りになろうとするのも、永遠の別れのように思われて惜しまれる。花散里の御方に、  「これが最後と思われます法会ですが、頼もしく思われます   生々世々にかけてと結んだあなたとの縁を」  お返事は、  「あなた様と御法会で結んだ御縁は未来永劫に続くでしょう   普通の人には残り少ない命とて、多くは催せない法会でしょうとも」  引き続き、この機会に、不断の読経や、懺法などを、怠りなく、尊い仏事の数々をおさせになる。御修法は、格別の効験も現れないで時が過ぎた ので、いつものことになって、引き続いてしかるべきあちらこちら、寺々においておさせになった。  [第五段 紫の上、明石中宮と対面]  夏になってからは、いつもの暑さでさえ、ますます意識を失っておしまいになりそうな時々が多かった。どこといって、特に苦しんだりなさらないご 病状であるが、ただたいそう衰弱した状態におなりになったので、いかにも病人めいてたいそうにお悩みになることもない。伺候している女房たち も、この先どうおなりになるのだろうか、と思うにつけても、もう目の前がまっくらになって、もったいなくも悲しいご様子と拝する。  こうした状態ばかりでいらっしゃるので、中宮が、この二条院に御退出あそばされる。東の対に御滞在あそばす予定なので、こちらでお待ち申し 上げていらっしゃる。儀式など、いつもと変わらないが、この世の作法もこれが見納めだろうなどとばかりお思いになると、何かにつけても悲しい。名 対面をお聞きになっても、あれは誰、これは誰などと、耳を止めてついお聞きになる。  上達部なども大勢供奉なさっていた。久しく御対面なさらなかったので、珍しくお思いになって、お話をこまごまと申し上げなさる。院がお入りにな って、  「今夜は、巣をなくした鳥の思いで、まったくぶざまなさまですね。退出して寝るとしよう」  と言って、お帰りになってしまった。起きていらっしゃるのを、嬉しいとお思いになるのも、まことにはかないお慰めである。  「別々のお部屋にいらっしゃったのでは、あちらにお越しあそばすのも恐れ多いことです。お伺いすること、それもできにくくなってしまいましたの で」  と言って、暫くの間はこちらにいらっしゃるので、明石の御方もお越しになって、心のこもった静かなお話などをお取り交わしなさる。  [第六段 紫の上、匂宮に別れの言葉]  紫の上は、ご心中にお考えになっていらっしゃることがいろいろと多くあるが、利口そうに、亡くなった後はなどと、お口にされることもない。ただ世 間一般の世の無常な有様を、おっとりと言葉少なでありながらも、並々ではないおっしゃりようをなさるご様子などを、言葉にお出しになるよりも、し みじみと何か心細いご様子は、はっきりと見えるのであった。宮たちを拝見なさっても、  「それぞれのご将来を、見たいものだとお思い申し上げていましたのは、このようにはかなかったわが身を惜しむ気持ちが交じっていたからでしょ うか」  と言って、涙ぐんでいらっしゃるお顔の美しさ、素晴らしく見事である。「どうしてこんなふうにばかりお思いでいらっしゃるのだろう」とお思いになる と、中宮は、思わずお泣きになってしまった。縁起でもない申し上げようはなさらず、お話のついでなどに、長年お仕えし親しんできた女房たちで、 特別の身寄りがなく気の毒そうな、この人、あの人を、  「私が亡くなりました後に、お心をとめて、お目をかけてやってください」  などとだけ申し上げなさるのであった。御読経などのために、いつものご座所にお帰りになる。  三の宮は、大勢の皇子たちの中で、とてもかわいらしくお歩きになるのを、ご気分の好い間には、前にお座らせ申されて、人が聞いていない時 に、  「わたしが亡くなってからも、お思い出しになってくださいましょうか」  とお尋ね申し上げなさると、  「きっととても恋しいことでしょう。わたしは、御所の父上よりも母宮よりも、祖母様を誰よりもお慕い申し上げていますので、いらっしゃらなくなった ら、機嫌が悪くなりますよ」  と言って、目を拭ってごまかしていらっしゃる様子、いじらしいので、ほほ笑みながらも涙は落ちた。  「大人におなりになったら、ここにお住まいになって、この対の前にある紅梅と桜とは、花の咲く季節には、大切にご鑑賞なさい。何かの折には、 仏前にもお供えください」  と申し上げなさると、こっくりとうなずいて、お顔をじっと見つめて、涙が落ちそうなので、立って行っておしまいになった。特別に引き取ってお育て 申し上げなさったので、この宮と姫宮とを、途中でお世話申し上げることができないままになってしまうことが、残念にしみじみとお思いなさるのであ った。   第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀  [第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける]  ようやく待っていた秋になって、世の中が少し涼しくなってからは、ご気分も少しはさわやかになったようであるが、やはりどうかすると、何かにつ け悪くなることがある。といっても、身にしみるほどに思われなさる秋風ではないが、涙でしめりがちな日々をお過ごしになる。  中宮は、宮中に参内なさろうとするのを、もう暫くは御逗留をとも、申し上げたくお思いになるが、差し出がましいような気がし、宮中からのお使い がひっきりなしに見えるのも厄介なので、そのようにはお申し上げなさらず、あちらにもお渡りになることができないので、中宮がお越しなさった。  恐れ多いことであるが、いかにもお目にかからずには張り合いがないということで、こちらに御座所を特別に設えさせなさる。「すっかり痩せ細って いらっしゃるが、こうしても、高貴で優美でいらっしゃることの限りなさも一段と素晴らしく見事である」と、今まで匂い満ちて華やかでいらっしゃった 女盛りは、かえってこの世の花の香にも喩えられていらっしゃったが、この上もなく可憐で美しいご様子で、まことにかりそめの世と思っていらっしゃ る様子、他に似るものもなくおいたわしく、何となく物悲しい。  [第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す]  風が身にこたえるように吹き出した夕暮に、前栽を御覧になろうとして、脇息に寄りかかっていらっしゃるのを、院がお渡りになって拝見なさって、  「今日は、とても具合好く起きていらっしゃいますね。この御前では、すっかりご気分も晴れ晴れなさるようですね」  と申し上げなさる。この程度の気分の好い時があるのをも、まことに嬉しいとお思い申し上げていらっしゃるご様子を御覧になるのも、おいたわし く、「とうとう最期となった時、どんなにお嘆きになるだろう」と思うと、しみじみ悲しいので、  「起きていると見えますのも暫くの間のこと   ややもすれば風に吹き乱れる萩の上露のようなわたしの命です」  なるほど、風にひるがえってこぼれそうなのが、よそえられたのさえ我慢できないので、お覗きになっても、  「どうかすると先を争って消えてゆく露のようにはかない人の世に   せめて後れたり先立ったりせずに一緒に消えたいものです」  と言って、お涙もお拭いになることができない。中宮、  「秋風に暫くの間も止まらず散ってしまう露の命を   誰が草葉の上の露だけと思うでしょうか」  と詠み交わしなさるご器量、申し分なく、見る価値があるにつけても、「こうして千年を過ごしていたいものだ」と思われなさるが、思うにまかせな いことなので、命を掛け止めるすべがないのが悲しいのであった。  「もうお帰りなさいませ。気分がひどく悪くなりました。お話にもならないほどの状態になってしまったとは申しながらも、まことに失礼でございま す」  と言って、御几帳引き寄せてお臥せりになった様子が、いつもより頼りなさそうにお見えなので、  「どうあそばしましたか」  とおっしゃって、中宮は、お手をお取り申して泣きながら拝し上げなさると、本当に消えてゆく露のような感じがして、今が最期とお見えなので、御 誦経の使者たちが、数えきれないほど騷ぎだした。以前にもこうして生き返りなさったことがあったのと同じように、御物の怪のしわざかと疑いなさ って、一晩中いろいろな加持祈祷のあらん限りをし尽くしなさったが、その甲斐もなく、夜の明けきるころにお亡くなりになった。  [第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る]  中宮もお帰りにならず、こうしてお看取り申されたことを、感慨無量にお思いあそばす。どなたもどなたも、当然の別れとして、誰にでもあることとも お思いなされず、又とない大変な悲しみとして、明け方のほの暗い夢かとお惑いなさるのは、言うまでもないことであるよ。  しっかりとした人はいらっしゃらなかった。伺候する女房たちも、居合わせた者は、全て分別のある者はまったくいない。院は、誰よりもお気の静 めようもないので、大将の君がお側近くに参上なさっているのを、御几帳の側にお呼び寄せ申されて、  「このように今はもうご臨終のようなので、長年願っていたこと、このような際にその願いを果たせずに終わってしまうことがかわいそうだ。御加持 を勤める大徳たち、読経の僧なども、皆声を止めて帰ったようだが、そうはいっても、まだ残っている僧たちもいるだろう。この現世のためには何の 役にも立たないような気がするが、仏の御利益は、今はせめて冥途の道案内としてでもお頼み申さねばならないゆえ、剃髪するよう計らいなさい。 適当な僧で、誰が残っているか」  などとおっしゃるご様子、気強くお思いのようであるが、お顔の色も常とは変わって、ひどく悲しみに堪えかね、お涙の止まらないのを、無理もない ことと悲しく拝し上げなさる。  「御物の怪などが、今度も、この方のお心を悩まそうとして、このようなことになるもののようでございますから、そのようなことでいらっしゃいましょ う。それならば、いずれにせよ、御念願のことは、結構なことでございます。一日一夜でも戒をお守りになりましたら、その効は必ずあるものと聞い ております。本当に息絶えてしまわれて、後から御髪だけをお下ろしなさっても、特に後世の御功徳とはおなりではないでしょうから、目の前の悲し みだけが増えるようで、いかがなものでございましょうか」  と申し上げなさって、御忌みに籠もって伺候しようとするお志があって止まっている僧のうち、あの僧、この僧などをお召しになって、しかるべきこと どもを、この君がお命じになる。  [第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る]  長年、何やかやと、分不相応な考えは持たなかったが、「いつの世にか、あの時同様に拝見したいものだ。かすかにお声さえ聞かなかったこと よ」などと、忘れることなく慕い続けていたが、「声はとうとうお聞かせなさらないで終わったようだが、むなしい御亡骸なりとも、もう一度拝見したい 気持ちが叶えられる折は、ただ今の時以外にどうしてあろう」と思うと、抑えることもできずつい泣けて、女房たちで、側に伺候する人たち皆が泣き 騷ぎおろおろしているのを、  「静かに。暫く」  と制止するふりして、御几帳の帷子を、何かおっしゃるのに紛らして、引き上げて御覧になると、ほのぼのと明けてゆく光も弱々しいので、大殿油 を近くにかかげて拝見なさると、どこまでもかわいらしげに、立派で美しく見えるお顔のもったいなさに、この君がこのように覗き込んでいらっしゃる のを目にしながらも、無理に隠そうとのお気持ちも起こらないようである。  「このとおりに何事もまだそのままの感じだが、最期の様子ははっきりしているのです」  と言って、お袖を顔におし当てていらっしゃる時、大将の君も、涙にくれて、目も見えなさらないのを、無理に涙を絞り出すように目を開いて拝見す ると、かえって悲しみが増してたとえようもなく、本当に心もかき乱れてしまいそうである。御髪が無造作に枕許にうちやられていらっしゃる様子、ふ さふさと美しくて、一筋も乱れた様子はなく、つやつやと美しそうな様子、この上ない。  灯火がたいそう明るいので、お顔色はとても白く光るようで、何かと身づくろいをしていらっしゃった、生前のご様子よりも、今さら嘆いても嘆くかい のない、正体のない状態で無心に臥せっていらっしゃるご様子が、一点の非の打ちどころもないと言うのも、ことさらめいたことである。並一通りの 美しさどころか、類のない美しさを拝見すると、「死に入ろうとする魂がそのままこの御亡骸に止まっていてほしい」と思われるのも、無理というもの であるよ。  [第五段 紫の上の葬儀]  お仕え親しんでいた女房たちで、気の確かな者もいないので、院が、何事もお分かりにならないように思われなさるお気持ちを、無理にお静めに なって、ご葬送のことをお指図なさる。昔も、悲しいとお思いになることを多くご経験なさったお身の上であるが、まことにこのようにご自身でもって お指図なさることはご経験なさらなかったことなので、すべて過去にも未来にも、またとない気がなさる。  そのまま、その当日に、あれこれしてご葬儀をお営み申し上げる。所定の作法があることなので、亡骸を見ながらお過しになるということもできな いのが、情けない人の世なのであった。広々とした広い野原に、いっぱいに人が立ち込めて、この上もなく厳めしい葬儀であるが、まことにあっけな い煙となって、はかなく上っていっておしまいになったのも、常のことであるが、あっけなく何とも悲しい。  地に足が付かない感じで、人に支えられてお出ましになったのを、拝し上げる人も、「あれほど威厳のあるお方が」と、わけも分からない下衆まで 泣かない者はいなかった。ご葬送の女房は、それ以上に夢路に迷ったような気がして、車から転び落ちてしまいそうになるのに、手を焼くのであっ た。  昔、大将の君の御母君がお亡くなりになった時の暁のことをお思い出しになっても、あの時は、やはりまだ物事の分別ができたのであろうか、月 の顔が明るく見えたが、今宵はただもう真暗闇で何も分からないお気持ちでいらっしゃった。  十四日にお亡くなりになって、葬儀は十五日の暁であった。日はたいそう明るくさし昇って、野辺の露も隠れたところなく照らし出して、人の世をお 思い続けなさると、ますます厭わしく悲しいので、「先立たれたとて、何年生きられようか。このような悲しみに紛れて、昔からのご本意の出家を遂 げたく」お思いになるが、女々しいとの後の評判をお考えになると、「この時期を過ごしてから」とお思いなさるにつけ、胸に込み上げてくるものが我 慢できないのであった。   第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち  [第一段 源氏の悲嘆と弔問客]  大将の君も、御忌みに籠もりなさって、ほんのちょっとも退出なさらず、朝夕お側近くに伺候して、痛々しくうちひしがれたご様子を、もっともなこと だと悲しく拝し上げなさって、いろいろとお慰め申し上げなさる。  野分めいて吹く夕暮時に、昔のことをお思い出しになって、「かすかに拝見したことがあったことよ」と、恋しく思われなさると、また「最期の時が夢 のような気がした」など、心の中で思い続けなさると、我慢できなく悲しいので、他人にはそのようには見られまいと隠して、  「阿彌陀仏、阿彌陀仏」  と繰りなさる数珠の数に紛らわして、涙の玉を隠していらっしゃるのであった。  「昔お姿を拝した秋の夕暮が恋しいのにつけても   御臨終の薄暗がりの中でお顔を見たのが夢のような気がする」  のが、その名残までがつらいのであった。尊い僧たちを伺候させなさって、決められた念仏はいうまでもなく、法華経など読経させなさる。あれこ れとまた実に悲しい。  寝ても起きても、涙の乾く時もなく、涙に塞がって毎日をお送りになる。昔からご自身の様子をお思い続けると、  「鏡に映る姿をはじめとして、普通の人とは異なったわが身ながら、幼い時から、悲しく無常なわが人生を悟るべく、仏などがお勧めになったわが 身なのに、強情に過ごしてきて、とうとう過去にも未来にも類があるまいと思われる悲しみに遭ったことだ。今はもう、この世に気がかりなこともなく なった。ひたすら仏道に赴くに支障もないのだが、まことにこのように静めようもない惑乱状態では、願っている仏の道に入れないないのでは」  と気が咎めるので、  「この悲しみを少し和らげて、忘れさせてください」  と、阿彌陀仏をお念じ申し上げなさる。  [第二段 帝、致仕大臣の弔問]  あちらこちらからのご弔問は、朝廷をはじめ奉り、型通りの作法だけでなく、たいそう数多く申し上げなさる。ご決意なさっているお気持ちとして は、まったく何事も目にも耳にも止まらず、心に掛りなさること、ないはずであるが、「人から惚けた様子に見られまい。今さらわが晩年に、愚かしく 心弱い惑乱から出家をした」と、後世まで語り伝えられる名をお考えになるので、思うに任せない嘆きまでがお加わりなっていらっしゃるのであっ た。  致仕の大臣は、時宜を得たお見舞いにはよく気のつくお方なので、このように世に類なくいらした方が、はかなくお亡くなりになったことを、残念に 悲しくお思いになって、とても頻繁にお見舞い申し上げなさる。  「昔、大将の御母堂がお亡くなりになったのも、ちょうどこの頃のことであった」とお思い出しになると、とても何となく悲しくて、  「あの時の、あの方を惜しみ申された方も、多くお亡くなりになったな。死に後れたり先立ったりしても、大差のない人生だな」  などと、ひっそりとした夕暮に物思いに耽っていらっしゃる。空の様子も哀れを催し顔なので、ご子息の蔵人少将を使いとして差し上げなさる。しみ じみとした思いを心をこめてお書き申されて、その端に、  「昔の秋までが今のような気がして   涙に濡れた袖の上にまた涙を落としています」  お返事、  「涙に濡れていますことは昔も今もどちらも同じです   だいたい秋の夜というのが堪らない思いがするのです」  何事も悲しくお思いの今のお気持ちのままの返歌では、待ち受けなさって、意気地無しと、見咎めなさるにちがいない大臣のご気性なので、無難 な体裁にと、  「度々の懇ろな御弔問を重ねて頂戴しましたこと」  とお礼申し上げなさる。  「薄墨衣」とお詠みになった時よりも、もう少し濃い喪服をお召しになっていらっしゃった。世の中に幸い人で結構な方も、困ったことに一般の世間 の人から妬まれ、身分が高いにつけ、この上なくおごり高ぶって、他人を困らせる人もあるのだが、不思議なまで、無縁な人々からも人望があり、 ちょっとなさることにも、どのようなことでも、世間から誉められ、奥ゆかしく、その折々につけて行き届いており、めったにいらっしゃらないご性格の 方であった。  さほど縁のなさそうな世間一般の人でさえ、その当時は、風の音、虫の声につけて、涙を落とさない人はいない。まして、ちょっとでも拝した人で は、悲しみの晴れる時がない。長年親しくお仕え馴れてきた人々、寿命が少しでも生き残っている命が、恨めしいことを嘆き嘆き、尼になり、この世 を離れた山寺に入ることなどを思い立つ者もいるのであった。  [第三段 秋好中宮の弔問]  冷泉院の后の宮からも、お心のこもったお便りが絶えずあり、尽きない悲しみをあれこれと申し上げなさって、  「枯れ果てた野辺を嫌ってか、亡くなられたお方は   秋をお好きにならなかったのでしょうか  今になって理由が分かりました」  とあったのを、何も分からぬお気持ちにも、繰り返し、下にも置きがたく御覧になる。「話相手になれる風情ある歌のやりとりをして気を慰める人と しては、この中宮だけがいらっしゃった」と、少しは悲しみも紛れるようにお思い続けても、涙がこぼれるのを、袖の乾く間もなく、返歌をなかなかお 書きになれない。  「煙となって昇っていった雲居からも振り返って欲しい   わたしはこの無常の世にすっかり飽きてしまいました」  お包みになっても、そのまま茫然と、物思いに耽っていらっしゃる。  しっかりとしたお心もなく、自分ながら、ことのほかに正体もないさまにお思い知られることが多いので、紛らわすために、女房のほうにいらっしゃ る。  仏の御前に女房をあまり多くなくお召しになって、心静かにお勤めになる。千年も一緒にとお思いになったが、限りのある別れが実に残念なこと であった。今は、極楽往生の願いが他のことに紛れないように、来世をと、一途にお思い立ちになられる気持ち、揺ぎもない。けれども、外聞を憚っ ていらっしゃるのは、つまらないことであった。  御法要の事も、はっきりとお取り決めなさることもなかったので、大将の君が、万事引き受けてお営みなさるのであった。今日が最期かとばかり、 ご自身でもお覚悟される時が多いのであったが、いつのまにか、月日が積もってしまったのも、夢のような気ばかりがする。中宮なども、お忘れに なる時の間もなく、恋い慕っていらっしゃる。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 6/13/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    幻 光る源氏の准太上天皇時代五十二歳春から十二月までの物語 第一章 光る源氏の物語 紫の上追悼の春の物語 1.紫の上のいない春を迎える---春の光を御覧になるにつけても、ますます涙にくれ心も乱れるようにばかりで 2.雪の朝帰りの思い出---所在ないままに、昔の思い出話などをなさる時々もある 3.中納言の君らを相手に述懐---いつもの、気の紛らわしには、御手水をお使いになって勤行をなさる 4.源氏、面会謝絶して独居---疎遠な人の前にはまったくお見えにならない。上達部なども 5.春深まりゆく寂しさ---春が深くなって行くにつれて、御前の様子は、昔と変わらないのを 6.女三の宮の方に出かける---とても所在ないので、入道の宮のお部屋にお越しになると 7.明石の御方に立ち寄る---夕暮の霞がたちこめて、趣のあるころなので 8.明石の御方に悲しみを語る---「そこまで思慮深くためらい過ぎては、浅薄な出家にも劣ろう 第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語 1.花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす---夏の御方から、お衣更のご装束を差し上げなさるとあって 2.五月雨の夜、夕霧来訪---五月雨の時は、ますます物思いに沈んでお暮らしになるより他のことなく 3.ほととぎすの鳴き声に故人を偲ぶ---「昨日今日と思っておりましたうちに、ご一周忌も 4.蛍の飛ぶ姿に故人を偲ぶ---たいそう暑いころ、涼しい所で物思いに耽っていらっしゃる折 第三章 光る源氏の物語 紫の上追悼の秋冬の物語 1.紫の上の一周忌法要---七月七日も、いつもと変わったことが多く、管弦のお遊びなどもなさらず 2.源氏、出家を決意---神無月には、一般に時雨がちなころとて 3.源氏、手紙を焼く---後に残っては見苦しいような女の人からのお手紙は 4.源氏、出家の準備---「御仏名も、今年限りだ」とお思いになればであろうか   第一章 光る源氏の物語 紫の上追悼の春の物語  [第一段 紫の上のいない春を迎える]  春の光を御覧になるにつけても、ますます涙にくれ心も乱れるようにばかりで、お心ひとつは、悲しみが改まりようもないので、外には、例年のよ うに人びとが年賀に参ったりするが、ご気分のすぐれないように振る舞いなさって、御簾の内にばかりいらっしゃる。兵部卿宮がお越しになったの で、ほんの内々のお部屋でお会いなさろうとして、その旨お伝え申し上げなさる。  「わたしの家には花を喜ぶ人もいませんのに   どうして春が訪ねて来たのでしょう」  宮、ちょっと涙ぐみなさって、  「梅の香を求めて来たかいもなく   ありきたりの花見とおっしゃるのですか」  紅梅の下に歩いていらっしゃったご様子が、大変優しくお似合いなので、この方以外に賞美する人もいないのではないか、とお見えになる。花は わずかに咲きかけて、風情あるころの美しさである。管弦のお遊びもなく、いつもの年と違ったことが多かった。  女房なども、長年仕えて来た者は、墨染の色の濃いのを着て、悲しみも慰めがたく、いつまでも諦めきれずにお慕い申し上げるが、全然、ご夫人 方にもお渡りにならない。それをいつも目の前に拝するのを慰めとして、親しくお仕えしていた今まで、本気でお心をかけてということはなかったけ れど、時々は見放さないようにお思いになっていた女房たちも、かえって、このような寂しいお独り寝になってからは、ごくあっさりとお扱いになっ て、夜の御宿直などにも、この人あの人と大勢を、ご座所から引き離し引き離しして、伺候させなさる。  [第二段 雪の朝帰りの思い出]  所在ないままに、昔の思い出話などをなさる時々もある。昔の好色心の名残もなく仏道一途のお心が深くなってゆくにつけても、長続きしそうもな かった恋愛事につけても、ひと頃、何やら恨めしそうであった様子が、時々お見えになったことなどをお思い出しになると、  「どうして、一時の戯れであるにせよ、また真実おいたわしかったことにつけても、あのような心をお見せ申したのだろう。どのようなことにもよく練 られたお方であったので、自分の心底もとてもよくご存知でありながら、心底お恨みになることはなかったが、それぞれ一通りは、どのようになるの だろう」  とご心配なさっていたのを、わずかであってもお心をお乱しなさったことが、おいたわしく悔やまれなさる様子は、胸一つに収めきれないような気 がなさる。その当時の事情を知っていて、今でもお側近くに仕えている女房たちは、ぽつりぽつりと口に出して申す者もいる。  入道の宮がご降嫁なさった当初、その当座は、顔色にも全然お出しにならなかったが、何かにつけて、情けないことよと、思っていらっしゃった様 子がお気の毒であった中でも、雪が降った早朝に室外にたたずんで、自分の身も冷えきったように思われて、空模様がすごかった時に、とてもやさ しくおっとりとしていらっしゃる一方で、袖がたいそう泣き濡れていらっしゃったのを引き隠し、無理して紛らわしていらっしゃった時のたしなみの深さ などを、一晩中、「夢であっても、もう一度いつになたら会えるだろうか」と、自然とお思い続けられる。  夜明けに、折も折、曹司に下りる女房であろう、  「ひどく積もった雪ですこと」  と言う声をお聞きつけになって、ちょうどその時の気がするが、側にいらっしゃらない寂しさも、言いようもなく悲しい。  「つらいこの世からは姿を消してしまいたいと思いながらも   心外にもまだ月日を送っていることだ」  [第三段 中納言の君らを相手に述懐]  いつもの、気の紛らわしには、御手水をお使いになって勤行をなさる。埋もれている炭火をかき起こして、御火桶を差し上げる。中納言の君、中将 の君などは、御前近くでお話申し上げる。  「独り寝がいつもより寂しかった夜であったよ。このように独り住みでも殊勝に過ごせた世なのに、つまらなく俗世にかかわって来たことよ」  と、物思いに沈みこみなさる。「自分までが出家したら、この女房たちが、ますます嘆き悲しむだろうことが、いじらしくかわいそうだろう」などと思っ て、見渡しなさる。ひっそりと勤行をしながら、経などを読んでいらっしゃるお声を、並一通り聞く時でさえ涙がとまらないのに、まして今は、袖のしが らみも止めかねるほど悲しくて、朝晩拝し上げる女房たちの気持ちは、限りなく悲しくお思い申し上げる。  「現世の果報という点では、物足りなく思うことは、全然なく、高い身分には生まれたが、また誰よりも格別に、残念な運命であったなあ、と思うこ とがしょっちゅうだ。世の中のはかなくつらさを悟らせるべく、仏などがそういう運命をお授けになった身の上なのだろう。それを無理して知らない顔 をして生き永らえて来たので、このように人生の終焉近くに、大変な悲しみの極みにあったのだから、宿世のつたなさも、自分の限界もすっかり残 らず見届けてしまった、その安心感から、今は全然心残りもなくなったが、あの人この人、こうして、以前から親しくなった女房たちが、今を限りに別 れ別れになってしまうことが、もう一段と心が乱れるに違いないだろう。まことにはかないことだ。諦めの悪い心だな」  と言って、お涙を拭い隠しなさるが、ごまかしきれず、そのままこぼれるお涙を、拝する女房たちは、それ以上に止めようもない。そうして、お見捨 てられ申すだろうことのつらさを、それぞれ口に出したく思うが、そのように申すことはできず、涙に咽んでしまった。  こうしてばかり嘆き明かしていらっしゃる早朝、物思いに沈んで暮らしていらっしゃる夕暮などの、ひっそりとした折々には、あの並々にはお思いで なかった女房たちを、お側近くにお召しになって、あのような話などをなさる。  中将の君といって伺候する女房は、まだ小さい時からお側近くに置いていらっしゃったのだが、ごく人目に隠れては何度かお見過ごしになれなか ったことがあったのであろうか、まことに心苦しいことに思って、親しみ申し上げなかったのに、このようにお亡くなりになってから後は、色めいた相 手としてではなく、他の女房よりもかわいい女房だと心をかけていらっしゃった人としても、あの方の形見の人として、しみじみとお思いになっていら っしゃった。気立てや器量なども難がなくて、うない松に思える感じが、何でもなかっただろうよりは、気が利いているとお思いになる。  [第四段 源氏、面会謝絶して独居]  疎遠な人の前にはまったくお見えにならない。上達部なども、親しいご兄弟の宮たちなど、いつも参上なさったが、お会いなさることはめったにな い。  「人に会う時だけは、しっかりと落ち着いて冷静にいようと思っても、幾月も茫然としている身の有様、愚かな間違い事があったりして、晩年が他 人から迷惑がられるのでは、死後の評判までが嫌なことであろう。惚けて人前に出ないらしい、と言われるようなことも、同じことだが、やはり噂を 聞いて想像することの不十分さよりも、見苦しいことが目に入るのは、この上なく格段にばからしいことだ」  とお思いになると、大将の君などに対してでさえ、御簾を隔ててお会いになるのであった。このように、人柄が変わりなさったようだと、人が噂する にちがいない時期だけでもじっと心を静めていなければと、我慢して過ごしていらっしゃる一方で、憂き世をお捨てになりきれない。ご夫人方にまれ にちょっとお顔出しなさるにつけても、まっさきに止めどなく涙ばかりが一層こぼれるので、まことに具合が悪くて、どの方にも御無沙汰がちにお過 ごしになる。  后の宮は、内裏にお帰りあそばして、三の宮を、寂しさのお慰めとしてお置きあそばしていらっしゃるのであった。  「お祖母様がおっしゃったから」  と言って、対の前の紅梅は、特別大事にお世話なさっているのも、とてもしみじみと拝見なさる。  二月になると、梅の木々が花盛りになったのも、まだ蕾なのも、梢が美しく一面に霞んでいるところに、あの御形見の紅梅に、鴬が陽気に鳴き出 したので、立ち出て御覧になる。  「植えて眺めた花の主人もいない宿に   知らない顔をして来て鳴いている鴬よ」  と、口ずさみながらお歩きなさる。  [第五段 春深まりゆく寂しさ]  春が深くなって行くにつれて、御前の様子は、昔と変わらないのを、花を賞美なさるのではないが、心は落ち着かず、何事につけても胸が痛く思 わずにはいらっしゃれないので、だいたいこの世を離れたように、鳥の声も聞こえない山奥ばかりが、ますます恋しくなって行かれる。  山吹などが、気持ちよさそうに咲き乱れているのも、思わず涙の露に濡れているかとばかり見えておしまいになる。他の花は、一重が散って、八 重に咲く桜花が盛りを過ぎて、樺桜は開いて、藤は後れて色づいたりするらしいのを、その遅咲き早咲きの花の性質をよく理解して、いろいろと植 えてお置きになったので、花の時期を忘れず匂い満ちているので、若宮は、  「わたしの桜は咲いた。何とかいつまでも散らすまい。木の回りに帳を立てて、帷子を上げなかったら、風も近寄って来まい」  と、よいことを考えた、と思っておっしゃる顔がとてもかわいらしいので、ふとほほ笑まれなさった。  「大空を覆うほどの袖を求めた人よりは、とてもよいことをお思いつきになった」などと、この宮だけをお遊び相手とお思い申してしていらっしゃる。  「あなたとお親しみ申していられるのも残り少なくなりましたよ。寿命というものは、もう暫くこの世に留まっていても、お会いすることはあるまい」  とおっしゃって、いつものように、涙ぐみなさると、とても嫌だとお思いになって、  「お祖母様がおっしゃったことを、縁起でもなくおっしゃいます」  と言って、伏目になって、お召し物の袖をもてあそびなどしながら、紛らしていらっしゃる。  隅の間の高欄に寄りかかって、御前の庭を、また御簾の中をも、見渡して物思いに沈んでいらっしゃる。女房なども、あの御形見の喪服の色を変 えない者もおり、通常の色合いの者も、綾などは派手なのではない。ご自身のお直衣も、色は普通の物であるが、特別に質素にして、無紋をお召 しになっていた。お部屋飾りなどもたいそう簡略に省いて、寂しく何となく頼りなさそうにひっそりとしているので、  「いよいよ出家するとなるとすっかり荒れ果ててしまうのだろうか   亡き人が心をこめて作った春の庭も」  自分ながら悲しく思われなさる。  [第六段 女三の宮の方に出かける]  とても所在ないので、入道の宮のお部屋にお越しになると、若宮も女房に抱かれておいでになっていて、こちらの若君と走り回って遊び、花を惜 しみなさるお気持ちは深くなく、とても幼い。  宮は、仏の御前で、お経を読んでいらっしゃるのであった。何ほども深くお悟りになった御道心ではなかったが、この現世に対して恨みに思ってお 気持ちの乱れることはおありでなく、のんびりとしたお暮らしのまま、気を散らさずに勤行なさって、仏道一筋にこの世を思い離れていらっしゃるの も、まことに羨ましく、「このような思慮深くない女の御志にさえ後れを取ったこと」と残念に思われなさる。  閼伽の花が、夕日に映えてとても美しく見えるので、  「春に心を寄せた人もいなくなって、花の色も殺風景なばかりに見られるが、仏のお飾りとして見るべきであった」とおっしゃって、「対の前の山吹 は、やはりめったに見られない花の様子ですね。房の大きいことですね。上品に咲こうなどとは考えていない花なのでしょうか、はなやかでにぎや かな面では、とても美しい花です。植えた人のいない春とも知らないで、いつもの年より美しさを増しているのには、しみじみとした思いがしますね」  とおっしゃる。お返事に、  「谷には春も無縁です」  と、何気なく申し上げなさるのを、「他に言いようもあろうに、不愉快な」とお思いなさるにつけても、「まずは、このようなちょっとしたことにおいて は、これこれのことではそうではなくあってほしい、と思うことに、反したことはついぞなかったな」と、幼かった時からのご様子を、「いったい、何の 不足があったろうか」とお思い出しになると、まず、あの時この時の、才気があり行き届いていて、奥ゆかしく情味豊かな人柄、態度、言葉づかいば かりが自然と思い出されなさると、いつもの涙もろさのこととて、ついこぼれ出すのもとてもつらい。  [第七段 明石の御方に立ち寄る]  夕暮の霞がたちこめて、趣のあるころなので、そのまま明石の御方にお渡りになった。久しくお立ち寄りにならなかったので、思いも寄らない時だ ったので、ちょっと驚きはするが、体裁よく奥ゆかしく振る舞って、「やはり他の人より優れている」と御覧になるにつけては、またこのようにではな く、「あの方は格別に、教養や趣味もお振る舞いになっていた」と、ついお比べになられると、面影に浮かんで恋しく、悲しさばかりがつのるので、 「どのようにして慰めたらよい心か」と、とても比較がつらくて、こちらでは、のんびりと昔話などをなさる。  「女をいとしいと思いつめるのは、実に悪いはずのことだと、昔から知っていながら、すべてどのような事柄にも、現世に執着が残らないようにと、 配慮して来たが、普通の世間から見て、むなしく零落してしまいそうだったころなど、あれやこれやと思案したが、命をも自分から捨ててしまおうと、 Last updated 6/17/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    匂兵部卿 薫君の十四歳から二十歳までの物語 第一章 光る源氏没後の物語 光る源氏の縁者たちのその後 1.匂宮と薫の評判---光源氏がお隠れになって後、あのお輝きをお継ぎになるような方 2.今上の女一宮と夕霧の姫君たち---女一の宮は、六条院南の町の東の対を 3.光る源氏の夫人たちのその後---いろいろとお集まりであった御方々は、泣く泣く最後の 第二章 薫中将の物語 薫の厭世観と恋愛に消極的な人生 1.薫、冷泉院から寵遇される---二品の宮の若君は、院がお頼み申し上げなさっているとおりで 2.薫、出生の秘密に悩む---子供心にかすかにお聞きになったことが、時々気にかかり 3.薫、目覚ましい栄達---帝におかせられましても、母宮の御縁続きの御好意が厚くて 4.匂兵部卿宮、薫中将に競い合う---このように、まことに不思議なまで人が気のつく薫りに 5.薫の厭世観と恋愛に消極的な性格---中将は、世の中を深くつまらないものと悟り澄ました 6.夕霧の六の君の評判---「母宮が生きていらっしゃるうちは、朝夕にお側を離れずお目にかかり 7.六条院の賭弓の還饗---賭弓の還饗の準備を、六条院で特別念入りになさって   第一章 光る源氏没後の物語 光る源氏の縁者たちのその後  [第一段 匂宮と薫の評判]  光源氏がお隠れになって後、あのお輝きをお継ぎになるような方、大勢のご子孫方の中にもいらっしゃらないのであった。御譲位された帝をどうこ う申し上げるのは恐れ多いことである。今上帝の三の宮、その同じお邸でお生まれになった宮の若君と、このお二方がそれぞれに美しいとのご評 判をお取りになって、なるほど、実に並大抵でないお二方のご器量であるが、ほんとうに輝くほどではいらっしゃらないであろう。  ただ世間普通の人らしく、立派で高貴で優美でいらっしゃるのを基本として、そのようなご関係から、人が思い込みでご評判申し上げている扱 い、様子も、昔のご評判やご威光よりも、少し勝っていらっしゃる高い評判ゆえに、一つには、この上なく威勢があったのであった。  紫の上が、格別におかわいがりになってお育て申し上げたゆえに、三の宮は、二条院にいらっしゃる。春宮は、そのような重い方として特別扱い 申し上げなさって、帝、后が、大変におかわいがり申し上げになり、大切にお世話申し上げになっている宮なので、宮中生活をおさせ申し上げなさ るが、やはり気楽な里邸を、住みよくお思いでいらっしゃるのであった。ご元服なさってからは、兵部卿と申し上げる。  [第二段 今上の女一宮と夕霧の姫君たち]  女一の宮は、六条院南の町の東の対を、ご生前当時のお部屋飾りを変えずにいらして、朝晩に恋い偲び申し上げなさっている。二の宮も、同じ 邸の寝殿を、時々のご休息所になさって、梅壷をお部屋になさって、右大臣の中の姫君をお迎え申し上げていらっしゃった。次の春宮候補として、 まことに信望が重々しく、人柄もしっかりしていらっしゃるのであった。  大殿の御姫君は、とても大勢いらっしゃる。大姫君は、春宮に入内なさって、また競争する相手もない様子で伺候していらっしゃる。その次々と、 やはりみなその順番通りに結婚なさるだろうと、世間の人もお思い申し上げ、后の宮も仰せになっていらっしゃるが、この兵部卿宮は、それほどは お思いにならず、ご自分のお気持ちから生じたのではない結婚などは、おもしろくなくお思いのご様子のようである。  大臣も、「何の、同じようにと、そのようにばかりきちんきちんとすることはない」と落ち着いていらっしゃるが、また一方で、そのようなご意向があ るなら、お断りはしないという顔つきで、とても大切にお世話申し上げていらっしゃる。六の君は、その当時の、少し自分こそはと自尊心高くいらっし ゃる親王方、上達部の、お心を夢中にさせる種でいらっしゃるのであった。  [第三段 光る源氏の夫人たちのその後]  いろいろとお集まりであった御方々は、泣く泣く最後の生活をなさるべき邸々に、みなそれぞれお移りになったが、花散里と申し上げた方は、二 条東の院を、ご遺産としてお移りになった。  入道の宮は、三条宮にいらっしゃる。今后は、宮中にばかり伺候していらっしゃるので、六条院の中は寂しく、人少なになったが、右大臣が、  「他人事として、昔の例を見たり聞いたりするにつけても、生きている限りの間に、丹精をこめて造り上げた人の邸が、すっかり忘れられて、人の 世の常のことながら無常に思われるのは、まことに感慨無量で、情けない思いがしないではいられないが、せめて自分が生きている間だけでも、 この院を荒廃させず、近くの大路など、人の姿が見えなくならないように」  と、お思いになりおっしゃって、丑寅の町に、あの一条宮をお移し申し上げなさって、三条殿と、一晩置きに十五日ずつ、きちんとお通いになって いらっしゃるのであった。  二条院と言って、磨き造り上げ、六条院の春の御殿と言って、世間に評判であった玉の御殿も、ただお一方の将来のためであったと思えて、明 石の御方は、大勢の宮たちのご後見をしながら、お世話申し上げていらっしゃった。大殿は、どの方の御事も、故人のおとりきめ通りに、改変するこ となく、別け隔てなく親切にお仕えなさっているにつけても、「対の上が、このように生きていらっしゃったならば、どんなに誠意を尽くしてお仕え申し 御覧に入れたことであろうか。とうとう、多少なりとも特別に、自分が好意を寄せているとお分かりになっていただける機会もなくて、お亡くなりにな ってしまったこと」を、残念に物足りなく悲しく思い出し申し上げなさる。  天下の人は、院を恋い慕い申し上げない者はなく、あれこれにつけても、世はまるで火を消したように、何事につけてもはりあいのない嘆きを漏ら さない折はなかった。まして、殿の内の女房たち、ご夫人方、宮様方などは、改めて申し上げるまでもなく、限りないお嘆きの事はもちろんのことと して、またあの紫の上のご様子を心に忘れず、いろいろのことにつけて、お思い出し申し上げなさらない時の間もない。春の花の盛りは、なるほ ど、長くないことによって、かえって大事にされるというものである。   第二章 薫中将の物語 薫の厭世観と恋愛に消極的な人生  [第一段 薫、冷泉院から寵遇される]  二品の宮の若君は、院がお頼み申し上げなさっているとおりで、冷泉院の帝が、特別に大切になさり、后の宮も、親王方などいらっしゃらず、心 細くお思いのために、嬉しいご後見役として、お頼み申し上げていらっしゃった。  ご元服なども、院の御所でおさせになる。十四歳で、二月に侍従におなりになる。秋、右近衛府の中将なって、恩賜の加階などまで、どこが気が かりなのか、急いで加えてご成人させなさる。お住まいあそばす御殿の近くの対の屋をお部屋にしたてたりなど、院御自身で監督なさって、若い女 房も、女の童、下仕えまで、すぐれた人を選びそろえ、姫宮の御儀式よりもまぶしいほど立派にお整えさせなさっていた。  院の上におかれても中宮におかれても、伺候している女房の中でも、器量がよく、上品で難がない者は、みなお移しなさりなさりして、院の中を 気に入って、住みよく生活しよく思うようにとばかり、特別にお世話しようとお思いなっていらっしゃった。故致仕の大殿の女御と申し上げたお方に、 女宮がただお一方いらっしゃったのを、この上なく大切にお育てなさっているのに負けないほど、后の宮の御寵愛が、年月とともに厚くなってゆく感 じなのであろうが、どうして、そんなにまですることがあろう、と思われるほどである。  母宮は、今はただご勤行だけを静かになさって、毎月のお念仏、年に二回の御八講、折々の尊い御仏事の営みばかりなさって、他に何もするこ となくいらっしゃるので、この君がお出入りなさるのを、かえって親のように、頼りになる方とお思いでいらっしゃったので、とてもおいたわしくて、院 におかせられても帝におかせられても、いつもお召しになり、春宮も、次々の親王方も、親しいお遊び相手としてお誘いになるので、暇もなく苦しく て、「何とかして身体を分けたいものだ」と、思われなさるのであった。  [第二段 薫、出生の秘密に悩む]  子供心にかすかにお聞きになったことが、時々気にかかり、どうしたことかとずっと思い続けていたが、尋ねるべき人もいない。宮には、事の一端 なりとも知ってしまったと思われなさるのは、具合の悪い筋合なので、それ以来心から離れることなくて、  「どのようなことであってか、何の因果で、このような気がかりな思いを身にまとって生まれてきたのだろうか。善巧太子が、わが身に問うている 悟りを得たいものだ」と、つい独り言が漏れなさるのであった。  「はっきりしないことだ、誰に尋ねたらよいものか   どうして初めも終わりも分からない身の上なのだろう」  答えることのできる人はいない。何かにつけて、自分自身に悪いところのある感じがするのも、気持ちが落ち着かず、何か物思いばかりがされ、 あれこれ思案して、「母宮もこのような盛りのお姿を尼姿になさって、どのような御道心でからか、急に出家されたのだろう。このように、不本意な過 ちがもとで、きっと世の中が嫌になることがあったのだろう。世間の人も漏れ聞いて、知らないはずがあろうか。やはり、隠しておかなければならな いことのために、わたしには事情を知らせる人がいないようだ」と思う。  「朝晩、勤行なさっているようだが、とりとめもなくおっとりしていらっしゃる女のお悟りの状態では、蓮の露も明らかなように、玉と磨きなさることも 難しい。五つの障害も、やはり不安だが、わたしが、このお志を、同じことならせめて来世を」と思う。「あの亡くなったという方も、辛い思いに迷いが 解けないでいるのではないか」などと推量するが、生まれ変わってでもお会いしたい気がして、元服は気がお進みにならなかったが、辞退しきれ ず、自然と世間から大事にされて、眩しいほど華やかなご身辺も、一向に気に染まず、ひっこみ思案でいらっしゃった。  [第三段 薫、目覚ましい栄達]  帝におかせられましても、母宮の御縁続きの御好意が厚くて、大変にかわいい者としてお思いあさばされ、后の宮も、また、もともと同じ邸で、宮 方と一緒にお育ちになり、お遊びなさったころの御待遇を、すこしもお改めにならず、「晩年にお生まれになって、気の毒で、大きくなるまで見届ける ことができないこと」と、院がおっしゃっていたのを、お思い出し申し上げなさっては、並々ならずお思い申し上げていらっしゃった。  右大臣も、ご自分のご子息たちよりも、この君を気にかけて大事にお扱い申し上げていらっしゃる。  昔、光君と申し上げた方は、あのような比類ない帝の御寵愛であったが、お憎みなさる方があって、母方のご後見がなかったりなどしたが、ご性 質も思慮深く、世間の事を穏やかにお考えになったので、比類ないご威光を、目立たないように抑えなさり、ついに大変な天下の騷ぎになりかねな い事件も、無事にお過ごしになって、来世のご勤行も時期を遅らせなさらず、万事目立たないようにして、遠く先をみて穏やかなご性格の方であっ たが、この君は、まだ若いうちに、世間の評判が大変に過ぎて、自負心を高く持っていることは、この上なくいらっしゃる。  なるほど、そうあるはずのように、とてもこの世の人としてできているのではない、人間の姿を借りて宿ったのかと思えることがお加わりであった。 お顔の器量も、はっきりそれと、どこが素晴らしい、ああ美しい、と見えるところもないが、ただたいそう優美で気品高げで、心の奥底が深いような 感じが、誰にも似ていないのであった。  薫の香ばしさは、この世の匂いでなく、不思議なまでに、ちょっと身じろぎなさる周囲の、遠く離れている所の追い風も、本当に百歩の外も薫りそ うな感じがするのであった。どなたにも、あれほどのご身分で、たいそう身をやつし、平凡な恰好でいられようか、あれこれと、自分こそは誰よりも良 くあろうと、おしゃれをし気をつかうはずなのであるが、このように体裁の悪いほど、ちょっとお忍びに立ち寄ろうとする物蔭も、はっきりこの人と分か る薫りが隠れ場もないので、厄介に思って、ほとんど香を身におつけにならないが、たくさんの御唐櫃にしまってあるお香の薫りも、この君のは、何 ともいえない匂いが加わり、お庭先の花の木も、ちょっと袖をお触れになる梅の香は、春雨の雫にも濡れ、身にしみて感じる人が多く、秋の野に主 のいない藤袴も、もとの薫りは隠れて、やさしい追い風が、特に折り取られて一段と香が引き立つのであった。  [第四段 匂兵部卿宮、薫中将に競い合う]  このように、まことに不思議なまで人が気のつく薫りに染まっていらっしゃるのを、兵部卿宮は、他のことよりも競争心をお持ちになって、それは、 特別にいろいろの優れたのをたきしめなさり、朝夕の仕事として香を合わせるのに熱心で、お庭先の植え込みでも、春は梅の花園を眺めなさり、秋 は世間の人が愛する女郎花や、小牡鹿が妻とするような萩の露にも、少しもお心を移しなさらず、老を忘れる菊に、衰えゆく藤袴、何の取柄もない われもこうなどは、とても見るに堪えない霜枯れのころまでお忘れにならないなどというふうに、ことさらめいて、香を愛する思いを、取り立てて好ん でいらっしゃるのであった。  こうしていることに、少し弱く優し過ぎて、風流な方面に傾いていらしゃると、世間の人はお思い申していた。昔の源氏は、総じて、このように一つ に事を取り立てて、異様なふうに、熱中なさることはなかったものである。  源中将は、この宮にはいつも参上しては、お遊びなどにも、張り合う笛の音色を吹き立てて、いかにも競争者として、若い者同士が好意をお持ち になっているようなご様子である。例によって、世間の人は、「匂う兵部卿、薫る中将」と、聞きずらいほど言い立てて、その当時に、良い娘がいらっ しゃる、高貴な所々では、心をときめかして、婿にと申し出たりなさる人もあるので、宮は、あれこれと、興味の惹かれそうな所にはお言葉をお掛け になって、相手のお人柄、ご様子をもお窺いになる。特別のご熱心にお思いになる方は、格別いないのであった。  「冷泉院の女一の宮を、結婚して一緒に暮らしてみたいものだ。きっとその甲斐はあるだろう」とお思いになっているのは、母女御もとても重々しく て、奥ゆかしくいらっしゃる所であり、姫宮のご様子は、なるほどと、めったにないくらい素晴らしくて、世間の評判も高くいらっしゃるうえに、それ以 上に、少し近くに伺候し馴れている女房などが、詳しいご様子などを、何かの機会にふれてお耳に入れることなどもあるので、ますます我慢できな くお思いのようである。  [第五段 薫の厭世観と恋愛に消極的な性格]  中将は、世の中を深くつまらないものと悟り澄ました気持ちなので、「なまじ女性に執着して、出家しにくい思いが残ろうか」などと思うので、「厄 介な思いをしそうなところに関係するのは、遠慮されて」などと諦めていらっしゃる。さしあたって、心に気に入りそうな事がない間は、賢ぶっていた のであろうか。親の承諾しないような結婚などは、なおさら思うはずもない。  十九歳におなりの年、三位宰相になって、やはり中将を辞めていない。帝、后の御待遇で、臣下であっては、遠慮のない幸い人のご人望でいら っしゃるが、心の中ではわが身の上について思い知るところがあって、もの悲しい気持ちなどがあったので、勝手気ままな浮いた好色事、まったく 好きでなく、万事控え目に振る舞っては、自然と老成した性格を、人からも知られていらっしゃった。  三の宮が、年齢とともに熱心でいらっしゃるらしい、院の姫宮のご様子を見るにつけても、同じ院の内に、朝に夕に一緒にお暮らしなので、何かの 機会にふれても、姫のご様子を聞いたり拝見したりするので、「なるほど、たいそう並々でない。奥ゆかしく嗜み深いお振る舞いはこの上ないので、 同じことならば、ほんとうにこのような人と結婚するのこそ、生涯楽しく暮らせる糸口となることだろう」とは思うものの、普通の事は分け隔てなくお扱 いでいらっしゃるが、姫宮の御事の方面の隔ては、この上なくよそよそしく習慣づけていらっしゃるのも、もっともなことに厄介な事なので、無理に近 づこうとはしない。「もし、思いも寄らない気持ちが起こったら、自分も相手もまことに悪い事だ」と分別して、馴れ馴れしく近づき寄ることはなかった のであった。  自分が、このように、人から誉められるように生まれついていらっしゃる有様なので、ちょっと何気ない言葉をおかけになる相手の女性も、まったく 相手にしない気持ちはなく、靡きやすい程度なので、自然とたいして気の染まない通い所も多くになるが、相手に対して、大仰な待遇はせず、たい そううまく紛らわして、どことなく愛情がないでもない程度で、かえって気がもめるので、情けを寄せる女は、気が引かれ引かれして、三条宮に参集 する者が大勢いる。  冷淡な態度を見るのも、辛いことのようであるが、すっかり仲が絶えてしまうよりはと、心細さが辛くて、宮仕えなどしない身分の人々で、頼りない 縁に期待をかけている者が多かった。そうはいっても、とてもやさしく、見所のある方のご様子なので、一度会った女は、みな自分の気持ちにだま されるようにして、つい大目に見てしまうのである。  [第六段 夕霧の六の君の評判]  「母宮が生きていらっしゃるうちは、朝夕にお側を離れずお目にかかり、お仕え申し上げることを、せめてもの孝養に」  と思っておっしゃるので、右大臣も、大勢いらっしゃる姫君たちを、誰か一人は、とお思いになりながら、口にお出しになることができない。「なんと いっても、近い縁者なのでおもしろみがない」と思ってはみるが、「この君たちを措いて、他に、肩を並べるような人を探し出せるであろうか」とお困り になる。  れっきとした姫君よりも、典侍腹の六の君とか、たいそう素晴らしくて美しそうで、気立てなども申し分なくて成人なさっているのを、世間の評判が 低いのがかえって、このように惜しいのを、不憫にお思いになって、一条宮が、そういうお子様をお持ちでなく手持ち無沙汰なので、迎え取って差し 上げなさった。  「わざわざとではなく、この方々に一度お見せしたら、きっと熱心になるにちがいなかろう。女性の美しさが分かる人は、特に格別であろう」などと お思いになって、はなはだ威厳ばってはお扱いにならず、今風で趣あるように、しゃれた暮らしをさせて、人が熱心になるような工夫を沢山凝らして いらっしゃる。  [第七段 六条院の賭弓の還饗]  賭弓の還饗の準備を、六条院で特別念入りになさって、親王方もご招待しようとのお心づもりをしていらっしゃった。  その当日、親王方で、大人でいらっしゃる方は、みな伺候なさる。后腹の方は、どの方もどの方も、気高く美しそうにいらっしゃる中でも、この兵部 卿宮は、ほんとうにたいそう素晴らしくこの上なくお見えになる。四の親王で、常陸宮と申し上げる方は、更衣腹である方は、思いなしか、感じが格 段に劣っていらっしゃった。  いつものように、左方が、一方的に勝った。いつもよりは、早く賭弓が終わって、大将が退出なさる。兵部卿宮、常陸宮、后腹の五の宮と、同じお 車にお招き乗せ申し上げて、退出なさる。宰相中将は、負方で、静かに退出なさったが、  「親王方がいらっしゃるお送りに、お出でになりませんか」  と、退出をおし止めなさって、ご子息の衛門督を、権中納言、右大弁など、それ以外の上達部が大勢、あれこれの車に乗り合って、誘い合って、 六条院へいらっしゃる。  道中やや時間のかかるうちに、雪が少し降って、優艶な黄昏時である。笛の音色を美しく吹き立てながらお入りなると、「なるほど、ここを措いて、 どのような仏の国が、このような時の楽しみ場所を求めることができようか」と見えた。  寝殿の南の廂間に、いつものように南向きに、中将少将がずらりと着座し、北向きに対座して、垣下の親王方、上達部のお座席がある。お盃の 事などが始まって、何となく座がはずんでくると、「求子」を舞って、翻る袖の数々をあおる羽風に、お庭先の梅がすっかり満開になっている薫りが、 さっと一面に漂って来ると、いつものように、中将の薫りが、ますます素晴らしく引き立てられて、何とも言えないほど優美である。わずかに覗いて いる女房なども、「闇ははっきりせず、見たいものだが、あの薫りは、なるほど他に似たものがありませんね」と、誉め合っていた。  大臣も、たいそう立派だと御覧になる。ご器量やお振る舞いも、いつも以上で、行儀正しく澄ましているのを見て、  「右の中将も一緒にお歌いになりませんか。とてもお客人ぶっていますね」  とおっしゃるので、無愛想にならない程度に、「神のます」などと。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 6/21/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    紅梅 匂宮と紅梅大納言家の物語 第一章 紅梅大納言家の物語 娘たちの結婚を思案 1.按察使大納言家の家族---そのころ、按察使大納言と申し上げる方は 2.按察使大納言家の三姫君---姫君は、同じ年頃で、次々と大きくおなりになったので 3.宮の御方の魅力---殿は、所在ない心地がして、西の御方は 4.按察使大納言の音楽談義---「ここ幾月、何となくごたごたしていたが、お琴の音さえ 第二章 匂兵部卿の物語 宮の御方に執心 1.按察使大納言、匂宮に和歌を贈る---若君は、宮中へ参内しようと、宿直姿で参上なさったが 2.匂宮、若君と語る---中宮の上の御局から、ご宿直所にお出になるところである 3.匂宮、宮の御方を思う---「今夜は宿直のようだ。そのままこちらに 4.按察使大納言と匂宮、和歌を贈答---これは、昨日のお返事なのでお見せ申し上げる 5.匂宮、宮の御方に執心---宮の御方は、物の分別がおつきになるくらいご成人なさっているので   第一章 紅梅大納言家の物語 娘たちの結婚を思案  [第一段 按察使大納言家の家族]  そのころ、按察使大納言と申し上げる方は、故致仕の大臣の次男である。お亡くなりになった衛門督のすぐ次の方であるよ。子供の時から利発 で、はなやかな性質をお持ちだった人で、ご出世なさるに年月とともに、今まで以上にいかにも羽振りがよく、理想的なお暮らしぶりで、帝の御信 望もまことに厚いものであった。  北の方が二人いらっしゃったが、最初の方はお亡くなりになって、今いらっしゃる方は、後太政大臣の姫君で、真木柱を離れがたくなさった姫君 を、式部卿宮家の姫として、故兵部卿の親王に御縁づけ申し上げなさったが、親王がお亡くなりになって後、人目を忍んではお通いになったが、年 月がたったので、世間に遠慮することもなくなったようである。  お子様は、亡くなった北の方に、二人だけいらっしゃったので、寂しいと思って、神仏に祈って、今の北の方に、男君を一人お儲けになっていた。 故宮との間に、女君がお一人いらっしゃる。分け隔てをせず、どちらも同じようにかわいがり申し上げなさっているが、それぞれの御方の女房など は、きれい事には行かない気持ちも交じって、厄介なもめ事も出てくる時があるが、北の方が、とても明朗で現代的な人で、無難にとりなし、ご自 分に辛いようなことも、穏やかに聞き入れ、よく解釈し直していらっしゃるので、世間に聞き苦しい事なく無難に過ごしているのであった。  [第二段 按察使大納言家の三姫君]  姫君は、同じ年頃で、次々と大きくおなりになったので、御裳着などお着せ申し上げなさる。七間の寝殿を、広く大きく造って、南面に、大納言殿 と大君、西面に中の君、東面に宮の御方と、お住ませ申し上げなさるのであった。  おおかたの想像では、父宮がいらしゃらないお気の毒なようであるが、祖父宮方と父宮方とからの御宝物がたくさんあったりして、内々の儀式や 普段の生活など、奥ゆかしく気品のあるお暮らしぶりで、その様子は申し分なくいらっしゃる。  例によって、このように大切になさっているという評判が立って、次々と申し込みなさる方が多く、「帝や、春宮からも御内意はあるが、帝には中宮 がいらっしゃる。どれほどの方が、あのお方にご比肩申せよう。そうかといって、及ばないと諦めて卑下するのも、宮仕えする甲斐がないだろう。春 宮には、右大臣殿の女御が、並ぶ人がないように伺候していらっしゃるのは、競い合いにくいが、そうとばかり言っていられようか。人よりすぐれて いるだろうと思う姫君を、宮仕えに出すことを諦めてしまっては、何の望みがあろうか」とご決意なさって、入内させ申し上げなさる。十七、八歳のほ どで、かわいらしく、派手やかな器量をしていらっしゃった。  中の君も、引き続いて、上品で優美で、すっきり落ち着いた点では大君に勝って、美しくいらっしゃるようなので、臣下の人では、惜しく気が進ま ないご器量なのを、「兵部卿宮が、そのように望んでくださったら」などとお思いになっていた。この若君を、宮中などで御覧になる時は、お召しまと わせ、遊び相手になさっている。利発であって、将来の期待される目もとや額つきである。  「弟と付き合うだけでは終わりたくないと、大納言に申し上げよ」などとお話しかけになるので、「しかじか」と申し上げると、微笑んで、「まことにそ の甲斐があった」と思いになっていた。  「人に負けるような宮仕えよりは、この宮にこそ、人並みの姫君は差し上げたいものだ。思いのままにまかせて、お世話申し上げることになった ら、寿命もきっと延びる気がする宮のご様子である」  とおっしゃりながら、まず、春宮への御入内の事をお急ぎになって、「春日の神の御神託も、わが世にもしや現れ出て、故大臣が、院の女御の御 事を、無念にお思いのまま亡くなってしまったお心を慰めることがあってほしい」と、心中に祈って、入内させなさった。たいそう御寵愛である由を、 人びとはお噂申す。  このような後宮生活にお馴れにならないうちは、しっかりしたご後見がなくてはどんなものかと、北の方が付き添っていらっしゃるので、ほんとうに この上もなく大切に思って、ご後見申し上げなさる。  [第三段 宮の御方の魅力]  殿は、所在ない心地がして、西の御方は、一緒でいることに馴れていらっしゃたので、とても寂しく物思いに沈んでいらっしゃる。東の姫君も、よそ よそしくお互いになさらず、夜々は同じ所にお寝みになり、いろいろなお稽古事を習い、ちょっとしたお遊び事なども、こちらを先生のようにお思い申 し上げて、大君も中の君も習ったり遊んだりしていらっしゃった。  人見知りを世間の人以上になさって、母北の方にさえ、ちゃんとお顔をお見せ申し上げることもなさらず、おかしなほど控え目でいらっしゃる一方 で、気立てや雰囲気が陰気なところはなく、愛嬌がおありであることは、それは、誰よりも優れていらっしゃった。  このように、春宮への入内や何やかやと、ご自分の姫君のことばかり考えてご準備するのも、お気の毒だとお思いになって、  「適当なご縁談をお考えになっておっしゃってください。同じように、お世話いたしましょう」  と、母君にも申し上げなさったが、  「まったくそのような結婚の事は、考えようともしない様子なので、なまじっかの結婚は、気の毒でしょう。ご運命にまかせて、自分が生きている間 はお世話申そう。死後はかわいそうで心配ですが、出家してなりとも、自然と人から笑われ、軽薄なことがなくて、お過ごしになってほしい」  などと、ちょっと泣いて、宮のご性質が立派なことを申し上げなさる。  どの娘も分け隔てなく親らしくなさるが、ご器量を見たいと心動かされて、「お顔をお見せにならないのが辛いことだ」と恨んで、「こっそりと、お見 えにならないか」と、覗いて回りなさるが、全然ちらりとさえお見せにならない。  「母上がいらっしゃらない間は、代わってわたしが参りますが、よそよそしく分け隔てなさるご様子なので、辛いことです」  などと申し上げて、御簾の前にお座りになるので、お返事などを、かすかに申し上げなさる。お声、様子など、上品で美しく、容姿や器量が想像さ れて、立派だと感じられるご様子の人である。ご自分の姫君たちを、誰にも負けないだろうと自慢に思っているが、「この姫君には、とても勝てない だろうか。こうだからこそ、世間付き合いの広い宮中は厄介なのだ。二人といまいと思うのに、それ以上の方も自然といることだろう」などと、ますま す気がかりにお思い申し上げになさる。  [第四段 按察使大納言の音楽談義]  「ここ幾月、何となくごたごたしていたが、お琴の音さえ聴かせて戴かないで久しくなってしまった。西の方におります人は、琵琶に熱心でござい ますが、そのように上手に習得できると思っているのでしょうか。中途半端にしたのでは、聞きにくい楽器の音色です。同じことなら、十分に念を入 れて教えて上げてください。  老人は、特別に習ったものはございませんでしたが、その昔、盛りだったころに合奏に加わったお蔭でしょうか、演奏の上手下手を聞き分ける程 度の区別は、どのような楽器にもひどく不案内ということはございませんでしたが、気を許してお弾きになりませんが、時々お聴きするあなたの琵 琶の音色は、昔が思い出されます。  故六条院のご伝授では、右大臣が、今でも世に残っていらっしゃいます。源中納言、兵部卿宮は、どのようなことでも、昔の人に負けないほど、 まことに前世からの因縁が格別でいらっしゃる方々で、音楽の方面は、特別に熱心でいらっしゃるので、手さばきの少し弱々しい撥の音などが、大 臣には負けていらっしゃると存じておりますが、このお琴の音色は、とてもよく似ていらっしゃいます。  琵琶は、押し手を静かにするのを上手とする都言いますが、柱を据えた時、撥の音の様子が変わって、優美に聞こえるのが、女性のお琴として は、かえって結構なものです。さあ、合奏なさいませんか。お琴を持って参れ」  とおっしゃる。女房などは、お隠れ申している者はほとんどいない。たいそう若い上臈ふうの女房が、姿をお見せ申し上げまいと思っているのは、 勝手に奥に座っているので、「お側の女房までがこのように気ままに振る舞うのが、おもしろくない」と腹をお立てになる。   第二章 匂兵部卿の物語 宮の御方に執心  [第一段 按察使大納言、匂宮に和歌を贈る]  若君は、宮中へ参内しようと、宿直姿で参上なさったが、特別にきちんとした角髪よりも、とても美しく見えて、たいそうかわいいとお思いになって いた。麗景殿に、おことづけを申し上げなさる。  「お任せ申して、今夜も参ることができない、気分が悪いのだ、などと申し上げよ」とおっしゃって、「笛を少しおつとめ申せ。どうかすると、御前の 御合奏に召し出されるが、はらはらさせられることだ。まだとても未熟な笛なので」  とほほ笑んで、双調を吹かせなさる。たいそう美しくお吹きになるので、  「まままあになって行くのは、この辺りで、何かの折りに合奏するからであろう。ぜひ、お琴をお弾き合わせ頂きたい」  とお責め申し上げなさるので、辛いとお思いの様子であるが、爪弾きにとてもよく合わせて、ただ少し掻き鳴らしなさる。口笛を、太い音で物馴れ た声して吹いて、この東の端に、軒に近い紅梅が、たいそう美しく咲き匂っているのを御覧になって、  「お庭先の梅が、風情あるように見える。兵部卿宮は、宮中にいらっしゃるそうだ。一枝折って差し上げよ。知る人は知っている」と言って、「ああ、 光る源氏、といわれたお盛りの大将などでいらしたころ、子供で、このようにしてお仕え馴れ申したのが、年とともに恋しいことです。  この宮たちを、世間の人も、たいそう格別にお思い申し上げ、なるほど誰からも誉められるようにおなりになったご様子であるが、まったく問題に 思われなさらないのは、やはり絶世の方だとお思い申し上げた気持ちのせいでしょうか。  世間一般の立場から、お思い出し申し上げるのに、胸の晴れる時もなく悲しいので、身近な人に先立たれ申して、生き残っているのは、並々でな く長生きを辛いことであろう、と思われます」  などと、申し上げなさって、しみじみと索漠とした子持ちで回想し沈んでいらっしゃる。  折が折とて堪えることができなかったのか、花を折らせて、急いで参上させなさる。  「しかたない。昔の恋しい形見としては、この宮だけだ。釈迦のお隠れになった後には、阿難が光を放ったというが、再来されたかと疑う賢い聖が いたが、闇に迷う悲しみを払うよすがとして、申し上げてみよう」とおっしゃって、  「考えがあって風が匂わす園の梅に   さっそく鴬が来ないことがありましょうか」  と、紅の紙に若々しく書いて、この君の懐紙にまぜて、押したたんでお出しになるのを、子供心に、とてもお親しくしたいと思うので、急いで参上な さった。  [第二段 匂宮、若君と語る]  中宮の上の御局から、ご宿直所にお出になるところである。殿上人が大勢お送りに参上する中から、お見つけになって、  「昨日は、どうしてとても早く退出したのだ。いつ参ったのか」などとおっしゃる。  「早く退出いたしましたのが残念で、まだ宮中にいらっしゃると人が申しましたので、急いで参上したのですよ」  と、子供らしいものの、なれなれしく申し上げる。  「宮中でなく、気楽な所でも、時々は遊びなさい。若い人たちが、誰彼となく集まる所だ」  とおっしゃる。この君を一人だけ呼んでお話になるので、他の人びとは、近くには参らず、退出して散って行ったりして、静かになったので、  「春宮におかれては、お暇を少し許されたようだね。とてもひどくお目をかけられてお側離さずにいらっしゃったようだが、寵愛を奪われて体裁が悪 いようだね」  とおっしゃるので、  「お側から離してくださらず困ってしまいました。あなた様のお側でしたら」  と、途中まで申し上げて座っているので、  「わたしを、一人前でないと敬遠しているのだな。もっともだ。けれどおもしろくないな。古くさい同じ血筋で、東の御方と申し上げる方は、わたしと 思い合ってくださろうかと、こっそりとよく申し上げてくれ」  などとおっしゃる折に、この花を差し上げると、ほほ笑んで、  「こちらから恨み言を言った後からだったら」  とおっしゃって、下にも置かず御覧になる。枝の様子や、花ぶさが、色も香も普通のとは違っている。  「園に咲き匂っている紅梅は、色に負けて、香は、白梅に劣ると言うようだが、とても見事に、色も香も揃って咲いているな」  とおっしゃって、お心をとめていらっしゃる花なので、効があって、ご賞美なさる。  [第三段 匂宮、宮の御方を思う]  「今夜は宿直のようだ。そのままこちらに」  と、呼んだままお離しにならないので、春宮にも参上できず、花も恥ずかしく思うくらい香ばしい匂いで、お側近くに寝かせなさったので、子供心 に、またとなく嬉しく慕わしくお思い申し上げる。  「この花の主人は、どうして春宮には行かれなかったのだ」  「存じません。ものの分かる方になどと、聞いておりました」  などとお答え申し上げる。「大納言のお気持ちは、実の娘を考えているようだ」と思い合わせなさるが、思っていらっしゃる心は別のほうなので、こ のお返事は、はっきりとはおっしゃらない。  翌朝、この君が退出する時に、気のりしない態度で、  「花の香に誘われそうな身であったら   風の便りをそのまま黙っていましょうか」  そうして、「やはり今は、老人たちに出しゃばらせずに、こっそりと」と、繰り返しおっしゃって、この君も、東の御方を、大切に親しく思う気持ちが増 した。  かえって他の姫君たちは、お顔をお見せになったりして、普通の姉弟みたいな様子であるが、子供心に、とても重々しく理想的でいらっしゃるご性 質を、「お世話しがいのある方と結婚させてあげたいものだ」と日頃思っていたが、春宮の御方が、たいそう華やかなお暮らしでいらっしゃるのにつ けて、同じ嬉しいこととは思うものの、とてもたまらなく残念なので、「せめてこの宮だけでも身近に拝見したいものだ」と思ってうろうろしている時 に、嬉しい花の便りのきっかけである。  [第四段 按察使大納言と匂宮、和歌を贈答]  これは、昨日のお返事なのでお見せ申し上げる。  「憎らしくもおっしゃるなあ。あまりに好色な方面に度が過ぎていらっしゃるのを、お許し申し上げないとお聞きになって、右大臣や、わたしどもが拝 見するには、とてもまじめに、お心を抑えていらっしゃるのがおもしろい。好色人というのに、資格十分なご様子を、無理してまじめくさっていらっしゃ るのも、見所が少なくなることになろうに」  などと、悪口を言って、今日も参らせなさる折に、また、  「もともとの香りが匂っていらっしゃるあなたが袖を振ると   花も素晴らしい評判を得ることでしょう  と好色がましく、恐縮です」  と、本気にお申し込みになった。本当に結婚させようと考えているところがあるのだろうかと、そうはいってもお心をときめかしなさって、  「花の香を匂わしていらっしゃる宿に訪ねていったら   好色な人だと人が咎めるのではないでしょうか」  など、やはり胸の内を明かさないでお答えなさるので、憎らしいと思っていらっしゃった。  北の方が退出なさって、宮中辺りのことをおっしゃる折に、  「若君が、先夜、宿直をして、退出した時の匂いが、とても素晴らしかったので、人は普通の香と思ったが、東宮が、よくお気づきなさって、『兵部 卿宮にお近づき申したのだ。なるほど、わたしを嫌ったわけだ』と、様子を理解して、恨んでいらっしゃった。こちらに、お手紙がありましたか。そのよ うにも見えませんでしたが」  とおっしゃると、  「その通り。梅の花を賞美なさる君なので、あちらの建物の端の紅梅が、たいそう盛りに見えたのを、放っておけず、折って差し上げたのです。移 り香は、なるほど格別です。晴れがましい宮中勤めをなさるような女君などは、あのようには焚きしめられないな。  源中納言は、このように風流に焚きしめて匂わすのではなく、人柄が世に又とない。不思議と、前世の宿縁がどんなであったのかと、知りたいほ どだ。  同じ花の名であるが、梅は生え出た根ざしが大したものだ。この宮などが賞美なさるのは、もっもなことだ」  などと、花にかこつけて、まずはお噂申し上げなさる。  [第五段 匂宮、宮の御方に執心]  宮の御方は、物の分別がおつきになるくらいご成人なさっているので、どのようなことでもお分りになり、噂を耳になさっていらっしゃらないではな いが、「人と結婚し、普通の生活を送ることは、けっして」と思い離れていた。  世間の男性も、時の権勢に追従する心があってだろうか、本妻の姫君たちには熱心に申し込み、はなやかな事が多いが、こちらの方には、何か につけて、ひっそりと引き籠もっていらっしゃったのを、宮は、おふさわしい方と伝え聞きなさって、心底、何とかして、とお思いになってしまった。  若君を、いつも側を離さず近づけなさっては、こっそりとお手紙をやるが、大納言の君が、心からお望みになって、「そのようにお考えになってお申 し込まれることがあるならば」と、様子を理解して、準備なさっているのを見ると、気の毒になって、  「予想に反して、このように結婚を考えてもいない方に、かりそめにせよ、お手紙をたくさんくださるが、効のなさそうなこと」  と、北の方もお思いになりおっしゃる。  ちょっとしたお返事などもないので、負けてたまるかとのお考えも加わって、お諦めになることもおできになれない。「何の遠慮がいるものか、宮の お人柄に何の不足があろう、そのように結婚させてお世話申し上げたい、将来有望にお見えになるのだから」など、北の方はお思いになることも 時々あるが、とてもたいそう好色人でいらして、お通いになる所がたくさんあって、八の宮の姫君にも、お気持ちが並々でなく、たいそう足しげくお通 いになっている。頼りがいのないお心で、浮気っぽさなども、ますます躊躇されるので、本気になってはお考えになっていないが、恐れ多いばかり に、こっそりと、母君が時折さし出てお返事申し上げなさる。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 7/1/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    竹河 薫君の中将時代十五歳から十九歳までの物語 第一章 鬚黒一族の物語 玉鬘と姫君たち 1.鬚黒没後の玉鬘と子女たち---これは、源氏のご一族からも離れていらっしゃった、後の大殿あたりに 2.玉鬘の姫君たちへの縁談---男君たちは、ご元服などして、それぞれ成人なさったので 3.夕霧の息子蔵人少将の求婚---器量がたいそう優れていらっしゃるという評判があって、思いをお寄せ申し上げる人びとが 4.薫君、玉鬘邸に出入りす---六条院のご晩年に、朱雀院の姫宮からお生まれになった君 第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語 1.正月、夕霧、玉鬘邸に年賀に参上---正月朔日ころ、尚侍の君のご兄弟の大納言 2.薫君、玉鬘邸に年賀に参上---夕方になって、四位侍従が参上なさった。大勢の成人した若公達も 3.梅の花盛りに、薫君、玉鬘邸を訪問---侍従の君、堅物の評判を情けないと思ったので 4.得意の薫君と嘆きの蔵人少将---少将も、声がとても美しくて、「さき草」を謡う 5.三月、花盛りの玉鬘邸の姫君たち---三月になって、咲く桜がある一方で、空も覆うほど散り乱れ 6.玉鬘の大君、冷泉院に参院の話---尚侍の君は、このように成人した子の親におなりのお年 7.蔵人少将、姫君たちを垣間見る---中将などがお立ちになった後、姫君たちは、途中で打ち止めていらした碁 8.姫君たち、桜花を惜しむ和歌を詠む---姫君たちは、花の争いをしながら日を送っていらっしゃると 第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院 1.大君、冷泉院に参院決定---こうしているうちに、月日をいたづらに送るのも、将来が不安なので 2.蔵人少将、藤侍従を訪問---愚痴でもこぼそうと思って、いつものように、藤侍従のお部屋に来たところ 3.四月一日、蔵人少将、玉鬘へ和歌を贈る---翌日は、四月になったので、兄弟の君たちが 4.四月九日、大君、冷泉院に参院---九日に、院に参上なさる。右の大殿は、お車、御前駆の人びとを 5.蔵人少将、大君と和歌を贈答---蔵人の君は、いつもの女房に大げさな言葉の限りを尽くして 6.冷泉院における大君と薫君---女房や、女童、無難な者だけを揃えられた 7.失意の蔵人少将と大君のその後---あの少将の君は、真剣に、どのようにしようかと 第四章 玉鬘の物語 玉鬘の姫君たちの物語 1.正月、男踏歌、冷泉院に回る---その年が改まって、男踏歌が行われた。殿上の若人たちの中に 2.翌日、冷泉院、薫を召す---一晩中、方々を歩いて、とても気分が苦しくて 3.四月、大君に女宮誕生---四月に、女宮がお生まれになった。特別に目立ったことはないようであるが 4.玉鬘、夕霧へ手紙を贈る---「こうして、気楽に宮中生活をなさってください 5.玉鬘、出家を断念---前尚侍の君は、出家しようと決意なさったが 6.大君、男御子を出産---数年たって、また男御子をお産みになった 7.求婚者たちのその後---求婚申し上げた人びとで、それぞれ立派に昇進して、結婚なさったしても 第五章 薫君の物語 人びとの昇進後の物語 1.薫、玉鬘邸に昇進の挨拶に参上---左大臣がお亡くなりになって、右は左に 2.薫、玉鬘と対面しての感想---「まったくそんなにまでお考えなることはありません 3.右大臣家の大饗---大臣殿は、ちょうどこの邸の東であった。大饗の 4.宰相中将、玉鬘邸を訪問---左の大殿の宰相中将は、大饗の翌日、夕方にこちらに   第一章 鬚黒一族の物語 玉鬘と姫君たち  [第一段 鬚黒没後の玉鬘と子女たち]  これは、源氏のご一族からも離れていらっしゃった、後の大殿あたりにいたおしゃべりな女房たちで、死なずに生き残った者が、問わず語りに話し ておいたのは、紫の物語にも似ないようであるが、あの女どもが言ったことは、「源氏のご子孫について、間違った事柄が交じって伝えられている のは、自分よりも年輩で、耄碌した人のでたらめかしら」などと不審がったが、どちらが本当であろうか。  尚侍のお生みになった、故殿のご子息女は、男三人、女二人がいらっしゃったが、それぞれに大切にお育てすることをお考えおきになっていて、 年月がたつのも待ち遠しく思っていらっしゃったうちに、あっけなくお亡くなりになってしまったので、夢のようで、早く早くと急いで思っていらした宮仕 えもたち消えになってしまった。  人の心は、時の権勢にばかりおもねるものだから、あれほど威勢よくいらした大臣の亡くなった後は、内々のお宝物、所領なさっている所々な ど、その方面の衰退はなかったが、大方の有様はうって変わったように、お邸の中はひっそりとなってゆく。  尚侍の君のご身辺の縁者は、大勢世の中に広がっていらっしゃったが、かえって高貴な方々のお間柄で、もともと親しくはなかったので、故殿 の、人情味が少し欠け、好き嫌いがはげしくいらっしゃるご性質なので、けむたがられることもあったせいであろうか、誰とも親しく交際申し上げられ ないでいらっしゃる。  六条院におかれては、総じて、やはり昔と変わらず娘分としてお扱い申されて、お亡くなりになった後のことも、お書き残しなさったご相続の文書 などにも、中宮のお次にお加え申されていたので、右の大殿などは、かえってその気持ちがあって、しかるべき折々にはご訪問申される。  [第二段 玉鬘の姫君たちへの縁談]  男君たちは、ご元服などして、それぞれ成人なさったので、殿がお亡くなりになって後、不安で気の毒なこともあるが、自然と出世なさって行くよう である。「姫君たちをどのようにお世話申し上げよう」と、お心を悩ましなさる。  帝におかれても、是非とも宮仕えの願いが深い旨を、大臣が奏上なさっていたので、成人なさったであろう年月を御推察あそばして、入内の仰せ 言がしきりにあるが、中宮が、ますます並ぶ人のいないようになって行かれる御様子に圧倒されて、誰も彼も無用の人のようでいらっしゃる末席に 入内して、遠くから睨まれ申すのも厄介で、また人より劣って、数にも入らない様子なのを世話するのも、はたまた、気苦労であろうことを思案なさ っている。  冷泉院から、たいそう御懇切に御所望あそばして、尚侍の君が、昔、念願叶わずに今までお過ごしになって来た辛さまでを、思い出してお恨み 申し上げられて、  「今はもう、いっそう年も取って、つまらない様子だとお思い捨てていらっしゃるとも、安心な親と思いなぞらえて、お譲りください」  と、たいそう真面目に申し上げなさったので、「どうしたらよいことだろう。自分自身のまことに残念な運命で、思いの外に気にくわないとお思いあ そばされたのが、恥ずかしく恐れ多いことだが、この晩年に御機嫌を直していただけようか」などと決心しかねていらっしゃる。  [第三段 夕霧の息子蔵人少将の求婚]  器量がたいそう優れていらっしゃるという評判があって、思いをお寄せ申し上げる人びとが多かった。右の大殿の蔵人少将とか言った人は、三条 殿がお生みになった方は、兄弟たちを越えて、たいそう大事になさり、人柄もとても素晴らしかった方なので、とても熱心に求婚なさる。  どちらの関係からしても、血縁の繋がっているお間柄なので、この君たちが慕ってお伺いなどなさる時は、よそよそしくお扱いなさらない。女房に も親しくなじんでは、意中を伝えるにも手立てがあって、昼夜、お側近くお耳に入れる騒がしさを、煩わしいながらも、お気の毒なので、尚侍の殿も お思いになっていた。  母北の方からのお手紙も、しばしば差し上げなさって、「とても軽い身分でございますが、お許しいただける点もございましょうか」と、大臣も申し 上げなさるのだった。  姫君を、まったく臣下に縁づけようとはなさらず、中の君を、もう少し世間の評判が軽くなくなったら、そうとも考えようか、とお思いでいらっしゃるの だった。お許しにならなかったら、盗み取ってしまおうと、気持ち悪いまで思っていた。不釣合な縁談だとはお思いにならないが、女のほうで承知し ない間違いが起こるのは、世間に聞こえても軽率なことなので、取り次ぐ女房に対しても、「ゆめゆめ、間違いを起こすな」などとおっしゃるので、気 がひけて、億劫がるのであった。  [第四段 薫君、玉鬘邸に出入りす]  六条院のご晩年に、朱雀院の姫宮からお生まれになった君、冷泉院におかれて、お子様のように大切にされている四位の侍従は、そのころ十 四、五歳ほどになって、とても幼い子供の年の割合には、心構えも大人のようで、好ましく、人より優れた将来性がはっきりお見えになるので、尚 侍の君は、婿として世話したくお思いになっていた。  この邸は、あの三条宮とたいそう近い距離なので、しかるべき折々の遊び所としては、公達に連れられてお見えになる時々がある。奥ゆかしい 女君のいらっしゃる邸なので、若い男で気取らない者はなく、これ見よがしに振る舞っている中で、器量のよい人は、この立ち去らない蔵人少将、 親しみやすく気恥ずかしくて、優美な点では、この四位侍従のご様子に、似る者はいなかった。  六条院の感じを引く方と思うのが、格別なのであろうか、世間から自然と大切にされていらっしゃる方、若い女房たちは、特に誉め合っていた。尚 侍の殿も、「ほんとうに、感じのよい人だわ」などとおっしゃって、親しくお話し申し上げたりなさる。  「院のご性質をお思い出し申し上げて、慰められる時もなく、ひどく悲しくばかり思われるので、そのお形見として、どなたをお思い申し上げたらよ いのでしょう。右の大臣は、重々しい方で、機会のない対面は難しいし」  などおっしゃって、姉弟のようにお思い申し上げていらっしゃるので、あの侍従君も、そのような所と思って参上なさる。世間によくある好色がまし いところも見えず、とてもひどく落ち着いていらっしゃるので、あちらこちらの邸の若い女房たちは、残念に物足りなく思って、言葉をかけて困らせま るのであった。   第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語  [第一段 正月、夕霧、玉鬘邸に年賀に参上]  正月朔日ころ、尚侍の君のご兄弟の大納言、「高砂」を謡った方だが、藤中納言、故大殿の太郎君で、真木柱と同じ母親の方などが参賀にいら っしゃった。右大臣も、ご子息たちを六人そのままお連れしていらっしゃった。ご器量をはじめとして、非のうちどころなく見える方のご様子やご評判 である。  ご子息たちも、それぞれとても美しくて、年齢の割合には、官位も進んで、きっと何の物思いもなく見えたであろう。いつも、蔵人の君は、大切にさ れていることは格別であるが、ふさぎ込んで悩み事のある顔をしている。  大臣は、御几帳を隔てて、昔と変わらずお話し申し上げなさる。  「これという用事もなくて、たびたびお話を承ることもできません。年齢が加わるとともに、宮中に参内する以外の外歩きなども、億劫になってしま いましたので、昔のお話も、申し上げたい時々も多くそのままになってしまいました。  若い男の子たちは、何かの時にはお呼びになってお使いください。かならずその気持ちを見て戴くようにと、言い聞かせてあります」など申し上げ なさる。  「今では、このように、世間の人数にも入らぬ者のようになって行く有様を、お心に掛けてくださるので、亡くなった方のことも、ますます忘れ難く存 じられるます」  と申し上げなさったついでに、院から仰せになったことを、ちらっと申し上げなさる。  「これといった後見のない人の宮仕えは、かえって見苦しいと、あれこれ考えあぐねております」  と申し上げなさるので、  「帝にも仰せられることがあるようにお聞きいたしておりましたが、どちらにお決めなさるべきでしょうか。院は、なるほど、お位を退かれあそばしま した点では、盛りの過ぎた感じもしますが、世に二人といない御様子は、いっこうに変わらずにいらっしゃるようですので、人並みに成人した娘がお りましたらと、存じておりますが、立派な方々のお仲間入りできる者がございませんで、残念に存じております。  そもそも、女一宮の母女御は、お許し申し上げなさるでしょうか。これまでの方では、そのような遠慮によって、止めにしたこともございました」  と申し上げなさると、  「女御が、する事もなくのんびりとなった生活も、同じ気持ちでお世話して、気を晴らしたいなどと、その方がお勧めなさったことにかこつけて、せめ てどうしたらよいものかと思案しております」  と申し上げなさる。  あの方この方と、こちらにお集まりになって、三条宮に参上なさる。朱雀院の昔から御厚誼のある方々、六条院の側の方々も、それぞれにつけ て、やはりあの入道の宮を、素通りできず参上なさるようである。この殿の左近中将、右中弁、侍従の君なども、そのまま大臣のお供してお出にな った。引き連れていらっしゃった威勢は格別である。  [第二段 薫君、玉鬘邸に年賀に参上]  夕方になって、四位侍従が参上なさった。大勢の成人した若公達も、みなそれぞれに、どの人が劣っていようか。みな感じのよい方の中で、ひと 足後れてこの君がお姿をお見せになったのが、たいそう際立って目に止まった感じがして、例によって、熱中しやすい若い女房たちは、「やはり、 格別だわ」などと言う。  「この殿の姫君のお側には、この方をこそ並べて見たい」  と、聞きにくいことを言う。なるほど、実に若く優美な姿態をして、振る舞っていらっしゃる匂い香など、尋常のものでない。「姫君と申し上げても、 物ごとのお分りになる方は、本当に人よりは優れているようだと、ご納得なさるに違いない」と思われる。  尚侍の殿は、御念誦堂にいらして、「こちらに」とおっしゃるので、東の階段から昇って、戸口の御簾の前にお座りになった。お庭先の若木の梅 が、頼りなさそうに蕾んで、鴬の初音もとてもたどたどしい声で鳴いて、まことに好き心を挑発してみたくなる様子をしていらっしゃるので、女房たち が戯れ言を言うと、言葉少なに奥ゆかしい態度なのを、悔しがって、宰相の君と申し上げる上臈が詠み掛けなさる。  「手折ってみたらますます匂いも勝ろうかと   もう少し色づいてみてはどうですか、梅の初花」  「詠みぶりが早いな」と感心して、  「傍目には枯木だと決めていましょうが   心の中は咲き匂っていつ梅の初花ですよ  そう言うなら手を触れて御覧なさい」などと冗談を言うと、  「本当は色よりも」  と、口々に、袖を引っ張らんばかりに付きまとう。  尚侍の君は、奥の方からいざり出ていらっしゃって、  「困った人達だわ。気恥ずかしそうなお堅い方までを、よくもまあ、厚かましくも」  と小声でおっしゃるようである。「堅物と、あだ名されたようだ。まったく情けない名だな」と思っていらっしゃった。この家の侍従は、殿上などもまだ しないので、あちらこちら年賀回りなどせずに、居合わせていらっしゃった。浅香の折敷、二つほどに、果物、盃などを差し出しなさった。  「大臣は、年をお取りになるにつれて、故院にとてもよくお似通い申していらっしゃる。この君は、似ていらっしゃるところもお見えにならないが、感 じがとてもしとやかで、優美な態度が、あのお若い盛りの頃が思いやられてならない。このようなふうでいらっしゃったのであろうよ」  となどと、お思い出し申し上げなさって、しんみりとしていらっしゃる。後に残った香の薫りまでを、女房たちは誉めちぎっている。  [第三段 梅の花盛りに、薫君、玉鬘邸を訪問]  侍従の君、堅物の評判を情けないと思ったので、二十日過ぎのころ、梅の花盛りに、「色恋に無縁な男だと言われまい。風流者をまねしてみよ う」とお思いになって、藤侍従のお邸にいらっしゃった。  中門をお入りになる時、同じ直衣姿の男が立っているのだった。隠れようと思ったのを、引き止めてみると、あのいつもうろうろしている蔵人少将 なのであった。  「寝殿の西面で、琵琶や、箏の琴の音がするので、心をときめかして立っているようである。辛そうだな。親の許さない恋に心を染めることは、罪 深いことだな」と思う。琴の音色も止んだので、  「さあ、案内して下さい。わたしは、とても不案内です」  と言って、伴って、西の渡殿の前にある紅梅の木の側で、「梅が枝」を口ずさんで立ち寄った様子が、花の香よりもはっきりと、さっと匂ったので、 妻戸を押し開けて、女房たちが、和琴をとてもよく合奏していた。女の琴なので、呂の調子の歌は、こうまでうまく合わせられないものなのに、大し たものだと思って、もう一度、繰り返して謡うが、琵琶も又となく華やかである。  「趣味高く暮らしていらっしゃる邸だ」と、心が止まったので、今宵は少し気を許して、冗談などを言う。  内側から和琴を差し出した。お互いに譲り合って、手を触れないので、藤侍従の君を介して、尚侍の殿が、  「故致仕の大臣のお爪音に、似ていらっしゃると、ずっと聞いていましたが、ほんとうに聞いてみたいです。今宵は、やはり鴬にもお誘われなさい」  と、おっしゃたので、「照れて爪をかんでいる場合でもない」と思って、あまり気乗りもせずに掻き鳴らしなさる様子、たいそう響きが多く聞こえる。  「いつもお目にかかって親しんだわけではない親ですが、この世にいらっしゃらなくなったと思うと、とても心細くて、ちょっとしたことの機会にもお思 い出し申すと、とてもしみじみ悲しいのでした。  だいたい、この君は、不思議と故大納言のご様子に、とてもよく似て、琴の音色など、まるでその人かと思われます」  と言ってお泣きになるのも、お年のせいの、涙もろさであろうか。  [第四段 得意の薫君と嘆きの蔵人少将]  少将も、声がとても美しくて、「さき草」を謡う。おせっかいな分別者で、出過ぎた女房もいないので、自然とお互いに気がはずんで合奏なさるが、 この家の侍従は、故大臣にお似通い申しているのであろうか、このような方面は苦手で、盃ばかり傾けているので、「せめて祝い歌ぐらい謡えよ」 と、文句を言われて、「竹河」を一緒に声を出して、まだ若いけれど美しく謡う。御簾の内側から盃を差し出す。  「酔いが回っては、心に秘めていることも隠しておくことができません。詰まらないことを口にすると聞いております。どうなさるおつもりですか」  と、すぐには手にしない。小袿の重なった細長で、人の香がやさしく染みているのを、あり合わせのままに、お与えになる。「これはどういうおつも りですか」などとはしゃいで、侍従は、お邸の君に与えて出て行った。ひき止めて与えたが、「水駅で夜が更けてしまいました」と言って、逃げて行 ってしまった。  少将は、「この源侍従の君がこのように出入りしているようなので、こちらの方々は皆あの君に好意を寄せていらっしゃるだろう。わが身はますま す塞ぎ込み元気をなくして」、つまらなく恨むのだった。  「人はみな花に心を寄せているのでしょうが   わたし一人は迷っております、春の夜の闇の中で」  ため息をついて座を立つと、内側にいる女房の返し、  「時と場合によって心を寄せるものです   ただ梅の花の香りだけにこうも引かれるものではありませんよ」  朝に、四位侍従のもとから、邸の侍従のもとに、  「昨夜は、とても酔っぱらったようだが、皆様はどのように御覧になったであろうか」  と、御覧下さいとのおつもりで、仮名がちに書いて、  「竹河の歌を謡ったあの文句の一端から   わたしの深い心のうちを知っていただけましたか」  と書いてある。寝殿に持って上がって、方々が御覧になる。  「筆跡なども、とても美しく書いてありますね。どのような人が、今からこのように整っているのでしょう。幼いころ、院に先立たれ申し、母宮がしま りもなくお育て申されたが、やはり人より優れているのでしょう」  と言って、尚侍の君は、自分の子供たちの、字などが下手なことをお叱りになる。返事は、なるほど、たいそう未熟な字で、  「昨夜は、水駅とおっしゃってお帰りになったことを、いかがなものかと申しておりました。   竹河を謡って夜を更かすまいと急いでいらっしゃったのも   どのようなことを心に止めておけばよいのでしょう」  なるほど、この事件をきっかけとして、この君のお部屋にいらっしゃって、気のある態度で振る舞う。少将が予想していた通り、誰もが好意を寄せ ていた。侍従の君も、子供心に、近い縁者として、明け暮れ親しくしたいと思うのであった。  [第五段 三月、花盛りの玉鬘邸の姫君たち]  三月になって、咲く桜がある一方で、空も覆うほど散り乱れ、ほぼ桜の盛りのころ、のんびりとしていらっしゃるところは、さしたる用事もなく、端近 に出ていても非難されないようである。  その当時、十八、九歳くらいでいらっしゃったろうか、ご器量も気立ても、それぞれに素晴らしい。姫君は、とても際立って気品があり、はなやかで いらして、なるほど、臣下の人に縁づけ申すのは、ふさわしくなくお見えである。  桜の細長に、山吹襲などで、季節にあった色合いがやさしい感じに重なっている裾まで、愛嬌があふれ出ているように見える、そのお振る舞いな ども、洗練されて、気圧されるような感じまでが加わっていらっしゃった。  もうお一方は、薄紅梅に、桜色で、柳の枝のように、しなやかに、たいそうすらっとして優美に、落ち着いた物腰で、重々しく奥ゆかしい感じは、勝 っていらっしゃるが、はなやかな感じは、この上ないと女房は思っていた。  碁をお打ちなさろうとして、向かい合っていらっしゃる髪の生え際、髪の垂れかかっている具合など、たいそう見所がある。侍従の君が、審判をな さろうとして、近くに伺候なさると、兄君たちがお覗きになって、  「侍従の寵愛は、大したものになったね。碁の審判を許されたとはね」  と言って、大人ぶった態度でお座りになったので、御前の女房たちは、あれこれ居ずまいを正す。中将が、  「宮仕えが忙しくなりましたので、弟に出し抜かれたのは、まことに残念なことだなあ」  と愚痴をおこぼしになると、  「弁官は、それ以上に、家でのご奉公はお留守になってしまうからと、そうお見捨てではありますまい」  などと申し上げなさる。碁を打つのを止めて、恥ずかしがっていらっしゃる、たいそう美しい感じである。  「宮中辺りなどに出歩きましても、亡き殿がいらっしゃったら、と存じられますことが多くて」  などと、涙ぐんで拝し上げなさる。二十七、八歳くらいでいらっしゃったので、とても恰幅よくて、姫君たちのご様子を、「何とかして、昔父君がお考 えになっていた通りに、したいものだ」と思っていらっしゃった。  お庭先の花の木々の中でも、色合いの優れて美しい桜を折らせて、「他の桜とは違っている」などと、もて遊んでいらっしゃるのを、  「お小さくいらした時、この花は、わたしのよ、わたしのよと、お争いになったが、故殿は、姫君のお花だとお決めになる。母上は、若君のお花だと お決めになったが、それをひどくそんなには泣き叫んだりしませんでしたが、おもしろくなく存じられましたよ」と言って、「この桜が老木になったにつ けても、過ぎ去った歳月を思い出されますので、大勢の人に先立たれてしまった身の悲しみも、きりがございません」  などと、泣いたり笑ったりしながら申し上げなさって、いつもよりはのんびりとしていらっしゃる。他の家の婿となって、ゆっくりとは今ではお見えに ならないが、花に心を惹かれておいでである。  [第六段 玉鬘の大君、冷泉院に参院の話]  尚侍の君は、このように成人した子の親におなりのお年の割には、たいそう若く美しく、依然として盛りのご容貌にお見えになった。冷泉院の帝 は、主として、この方のご様子が依然として心に掛かって、昔が恋しく思い出されなさったので、何にかこつけたらよいかと、思案なさって、姫君の ご入内の事を、無理やりに申し込みなさるのであった。院に入内なさることは、この君たちが、  「やはり、栄えない気がしましょう。万事が、時流に乗ってこそ、世間の人も認めましょう。なるほど、まことに拝したいお姿は、この世に類なくいら っしゃるようですが、盛りを過ぎた感じがしますね。琴や笛の調子、花や鳥の色や音色も、時期にかなってこそ、人の耳にも止まるものです。春宮 は、どうでしょうか」  などと申し上げなさると、  「さあ、どんなものかしら、最初から重々しい方が、並ぶ者がいないような勢いで、いらっしゃるようですからね。なまじっかの宮仕えは、胸を痛め 物笑いになることもあろうかと、気が引けますので。殿が生きていらっしゃったならば、将来のご運は判らないが、この今は、張り合いのある状態に なさっていたでしょうに」  などとおっしゃって、皆しみじみと悲しい思いがする。  [第七段 蔵人少将、姫君たちを垣間見る]  中将などがお立ちになった後、姫君たちは、途中で打ち止めていらした碁を打ちになる。昔からお争いになる桜を賭物として、  「三番勝負で、一つ勝ち越しになった方に、やはり花を譲りましょう」  と、ふざけて申し合いなさる。暗くなったので、端近くで打ち終えなさる。御簾を巻き上げて、女房たちが皆競い合ってお祈り申し上げる。ちょうど その時、いつもの蔵人少将が、藤侍従の君のお部屋に来ていたのだが、兄弟連れ立ってお出になったので、だいたいが人の少ない上に、廊の戸 が開いていたので、静かに近寄って覗き込んだ。  このように、嬉しい機会を見つけたのは、仏などが姿を現しなさった時に出会ったような気がするのも、あわれな恋心というものである。夕暮の霞 に隠れて、はっきりとはしないが、よくよく見ると、桜色の色目も、はっきりそれと分かった。なるほど、花の散った後の形見として見たく、美しさがい っぱいお見えなのを、ますますよそに嫁ぎなさることを、侘しく思いがまさる。若い女房たちのうちとけている姿、姿が、夕日に映えて美しく見える。 右方がお勝ちあそばした。「高麗の乱声が、遅い」などと、はしゃいで言う女房もいる。  「右方にお味方申し上げて、西のお庭先の近くにあります木を、左方のものだとし、長年のお争いが、そのようなわけで、続いたのでございます よ」  と、右方は気持ちよさそうに応援申し上げる。どのような事情でと知りらないが、おもしろいと聞いて、返事もしたいが、「寛いでいらっしゃる時に、 心ない態度では」と思って、邸をお出になった。「再び、このような機会はないか」と、物蔭に隠れて、窺い歩くのであった。  [第八段 姫君たち、桜花を惜しむ和歌を詠む]  姫君たちは、花の争いをしながら日を送っていらっしゃると、風が激しく吹いている夕暮に、乱れ散るのがまことに残念で惜しいので、負け方の姫 君は、  「桜のせいで吹く風ごとに気が揉めます   わたしを思ってくれない花だと思いながらも」  御方の宰相の君が、  「咲いたかと見ると一方では散ってしまう花なので   負けて木を取られたことを深く恨みません」  とお助け申し上げると、右方の姫君は、  「風に散ることは世の常のことですが、枝ごとそっくり   こちらの木になった花を平気で見ていられないでしょう」  こちらの御方の大輔の君が、  「こちらに味方して池の汀に散る花よ   水の泡となってもこちらに流れ寄っておくれ」  勝ち方の女の童が下りて、花の下を歩いて、散った花びらをたいそうたくさん拾って、持って参った。  「大空の風に散った桜の花を   わたしのものと思って掻き集めて見ました」  左方のなれきが、  「桜の花のはなやかな美しさを方々に散らすまいとしても   大空を覆うほど大きな袖がございましょうか  心が狭く思われます」などと悪口を言う。   第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院  [第一段 大君、冷泉院に参院決定]  こうしているうちに、月日をいたづらに送るのも、将来が不安なので、尚侍の殿はいろいろとお考えになる。院からは、お手紙が毎日ある。女御 は、  「よそよそしく他人行儀にお考えなのでしょうか。お上は、わたしがあなたに邪魔をしているらしいと、とても憎らしそうにおっしゃるので、冗談でも 辛いことです。同じことなら、今のうちにご決心なさいませ」  などと、たいそう懇切に申し上げなさる。「前世からの因縁でいらっしゃるのだろう。とてもこのように反対する立場の方がお勧め申すのも恐れ多 い」などとお思いになった。  御調度類は、たくさん準備なさっていたので、女房たちの衣装や、何やかやのこまごましたことをご準備なさる。これを聞くと、蔵人少将は、悶え 死ぬほど思いつめて、母北の方をお責め申したので、聞くのもお困りになって、  「とても恥ずかしいことですが、お耳に入れますのも、まことに愚かな親心でございます。ご同情下さるならば、ご推察いただき、やはり安心させ てやって下さい」  などと、不憫でならないように申し上げなさるが、「困ったことだわ」と、お嘆きになって、  「どのようなことやらと、決心も致しかねますが、院から無理やりにおっしゃるので、迷っております。ご本心からならば、ここ暫くの間は我慢なさっ て、お心のゆくようお計らい申すのを御覧になって、世間の評判も穏やかでしょう」  などと申し上げなさるのも、この院に参るのを過ごして、中の君をとお思いなのであろう。「時期を一緒にしては、あまりに得意顔に見えよう。ま だ、位なども低いほどだから」などとお思いになると、男は、まったく気持ちを移せそうもなく、ちらっと拝見した後は、面影に立って恋しく、どのような 機会にとばかり思っていたが、このように頼みの綱も切れてしまったのを、お嘆きになることはこの上もない。  [第二段 蔵人少将、藤侍従を訪問]  愚痴でもこぼそうと思って、いつものように、藤侍従のお部屋に来たところ、源侍従の手紙を見ていらっしゃるのであった。さっと隠すので、さては と思って、奪い取った。「意味有りげな顔にとられては」と思って、強く隠さない。どことなく、ただ男女関係のつれなさを恨めしそうに書いてあった。  「わたしの気持ちを分かっていただけずに過ぎてゆく年月を数えていますと   恨めしくも春の暮になりました」  「他人はこのように、悠長に体裁よく恨んでいるようだが、自分のまことに物笑いになる焦りかたを、一つには馴れっこになって、軽んじられること になってしまったのだ」と思うのも、胸が痛むので、特に何も言うことができず、いつも、親しくしている中将のおもとのお部屋の方に行くが、例によっ て、効のないことだと、溜息をつきがちである。  侍従の君は、「この返事をしよう」と思って、母上のもとに参上なさるのを見ると、実に腹立たしくおもしろくなく、若いだけに、一途に思いつめてい るのであった。  見苦しいまでに恨み嘆くので、この取次役も、たいして冗談にもできず、お気の毒と思って、返事もなかなかしない。あの碁に立ち会った夕暮のこ とも言い出して、  「あれくらいの夢でも、再び見たいものだなあ。ああ、何を頼みにして生きていよう。このように申し上げることも、寿命少なく思われますので、つれ ない仕打ちも懐かしい、ということは、本当ですね」  と、実に真顔になって言う。「お気の毒だと言って、も慰めようもないことである。あのお慰め下さるというお話は、少しも嬉しいと思うような様子も ないので、なるほど、あの夕暮のはっきりと見えたことに、ますますこのように無闇な思いが募ったのだろう」と、無理もないことに思って、  「お耳にあそばしたら、ますますなんとけしからぬお心の人なのだと、お恨み申されましょう。お気の毒だとお思い申していました気持ちもなくなっ てしまいました。とても油断のできないお方だったのですね」  と、反対に文句を言うと、  「ええい、どうともなれ。もうおしまいの身だから、何も恐くはなくなってしまった。それにしてもお負けになったことが、実にお気の毒であった。あっ さりと招き入れてくれたら。目配せ申したら、絶対に勝ったろうものを」などと言って、  「いったい何ということか、物の数でもない身なのに   かなえることができないのは負けじ魂だとは」  中将は、吹き出して、  「無理なこと、強い方が勝つ勝負事を   あなたのお心一つでどうなりましょう」  と答えるのさえ、辛いことであった。  「かわいそうだと思って、姫君をわたしに許してください   この先の生死はあなた次第のわが身と思われるならば」  泣いたり笑ったりしながら、一晩中語らい明かす。  [第三段 四月一日、蔵人少将、玉鬘へ和歌を贈る]  翌日は、四月になったので、兄弟の君たちが、宮中に参内するために慌ただしくしているのに、ひどく萎れて物思いに沈んでいらっしゃるので、母 北の方は、涙ぐんでいらっしゃる。大臣も、  「院がお耳にあそばすこともあろう。どうして、真剣に聞き入れてくれることがあろう、と思って、悔しいことに、お会いした時に申し上げずじまいだっ た。自分が無理を押して申し上げたら、いくらなんでもお断りになならなかっただろうに」  などとおっしゃる。そのようなことがあって、いつものように、  「花を見て春は過ごしました。今日からは   茂った木の下で途方に暮れることでしょう」  と申し上げなさった。  御前において、あれこれ上臈めいた女房たち、この懸想人が、いろいろと気の毒なことをお話し申し上げる中で、中将のおもとが、  「生き死にをと言った様子が、言葉だけではなく、お気の毒でした」  などと申し上げると、尚侍の君も、不憫だとお聞きになる。大臣や、北の方のお考えにより、どうしても少将の恨みが深いのならばと、中の君を少 将にと代わりをお考えになった上でのこのお参りを、邪魔しているように思っているのはけしからぬこと、この上ない身分の方でも、臣下であって は、絶対に許さないと、故殿がご遺言なさっていたものを、院に参りなさることでさえ、将来見栄えがしないものをとお思いになっていた、ちょうどそ の時に、このお手紙を受け取って気の毒がる。お返事は、  「今日こそ分かりました、空を眺めているようなふりをして   花に心を奪われていらしたのだと」  「まあ、お気の毒な。冗談事にしてしまうのですね」  などと言うが、面倒がって書き変えない。  [第四段 四月九日、大君、冷泉院に参院]  九日に、院に参上なさる。右の大殿は、お車、御前駆の人びとを大勢差し上げなさった。北の方も、恨めしくお思い申し上げなさったが、長年それ ほどでもなかったっが、このご一件で、しきりに手紙のやりとりなさったのに、再び途絶えてしまうこともおかしいので、禄や、立派な女の装束など を、たくさん差し上げなさった。  「不思議と、気の抜けたような息子の様子を、お世話していますうちに、はっきりと承ることもなかったので、お知らせ下さらなかったことを、他人行 儀なと思っております」  とあったのだった。穏やかなようでいてそれとなく恨み言をこめなさったのを、困ったことと御覧になる。大臣からもお手紙がある。  「わたし自身参上しなければ、と存じましたが、物忌みがございまして。子息たちを、雑用にと思って伺わせます。ご遠慮なさらずお使い下さい」  と言って、源少将、兵衛佐など、を差し上げなさった。「ご厚意ありがとうございます」と、お礼申し上げなさる。大納言殿からも、女房たちのお車を 差し上げなさる。北の方は、故大臣の娘で、真木柱の姫君なので、どちらの関係から見ても、親しくご交際なさり合うはずでいらっしゃるが、そんな にでもない。  藤中納言は、ご自身でいっしゃって、中将や、弁の君たちと、一緒に準備をなさる。殿が生きていらっしゃったならばと、何事につけても悲しい思 いがする。  [第五段 蔵人少将、大君と和歌を贈答]  蔵人の君は、いつもの女房に大げさな言葉の限りを尽くして、  「もうお終いだと思っております命も、そうはいっても悲しいよ。せめてお気の毒ぐらいに思う、とだけでも、一言おっしゃって下さったら、その言葉に 引かれて、もう暫く生きていられましょうか」  などと書いてあるのを、持参して見ると、姫君たちお二方がお話して、とてもひどく沈み込んでいらっしゃった。昼夜一緒に居馴れて、中の戸だけ を隔てた西と東の間でさえ、邪魔にお思いになって、お互いに行き来なさっていたが、離れ離れになろうことをお考えなのであった。  特別に注意して準備して、お着付け申したご様子は、とても立派である。殿がご遺言なさった様子などをお思い出しになって、悲しい時だったせ いか、手に取って御覧になる。「大臣や、北の方が、あれほど揃って、頼もしそうなご家庭で、どうしてこのようなわけの分からないことを思ったり言 ったりするのだろう」と不思議なのにつけても、「お終いだ」とあるので、「本当だろうか」とお思いになって、そのままこのお手紙の端に、  「あわれという一言も、この無常の世に   いったいどなたに言い掛けたらよいのでしょう  縁起でもない方面のこととしては、少しは存じております」  とお書きになって、「このように言いなさい」とおっしゃるのを、そのまま差し上げたところ、この上なく有り難いと思うにつけても、最後の機会をお考 えになっていたのまでが嬉しくて、ますます涙が止まらない。  折り返し、「誰の浮名が立たないで済みましょう」などと、恨みがましく書いて、  「生きているこの世の生死は思う通りにならないので   聞かずに諦めきれましょうか、あなたのあわれという一言を  墓の上でもあわれという一言をおかけになるようなお心の中と、存じられましたら、一途に死ぬことも急がれましょうに」  などとあるので、「まずいこと返事をしてしまったな。書き変えないでやってしまったことよ」と辛そうにお思いになって、何もおっしゃらなくなった。  [第六段 冷泉院における大君と薫君]  女房や、女童、無難な者だけを揃えられた。大方の儀式などは、帝に入内なさる時と、違った所がない。まず、女御の御方に参上なさって、尚侍 の君は、ご挨拶など申し上げなさる。夜が更けてから院の御座所にお上がりになった。  后や、女御など、皆、長年、院にあって年配になっていらっしゃるので、とてもかわいらしく、女盛りで見所のある様子をお見せ申し上げなさって は、どうしていいかげんに思われよう。はなやかに御寵愛を受けられなさる。臣下のように、気安くお暮らしになっていらっしゃる様子が、なるほど、 申し分なく立派なのであった。  尚侍の君を、暫くの間伺候なさるようにと、お心にかけていらっしゃったが、とても早く、静かに退出なさってしまったので、残念に情けなくお思い なさった。  源侍従の君を、明け暮れ御前にお召しになって離さずにいられるので、なるほど、まるで昔の光る源氏がご成人なさった時に劣らない御寵愛ぶり である。院の内では、どの御方とも別け隔てなく、親しくお出入りしていらっしゃる。こちらの御方にも、好意を寄せているように振る舞って、内心で は、どのように思っていらっしゃるのだろうという考えまでがおありであった。  夕暮のひっそりとした時に、藤侍従と連れ立って歩いていると、あちらの御前の近くに眺められる五葉の松に、藤がとても美しく咲きかかっている のを、遣水のほとりの石の上に、苔を敷物として腰掛けて眺めていらっしゃった。はっきりとではないが、姫君のことを恨めしそうにほのめかしなが ら話している。  「手に取ることができるものなら、藤の花の   松の緑より勝れた色を空しく眺めていましょうか」  と言って、花を見上げている様子など、妙に気の毒に思われるので、自分の本心からでないことにほのめかす。  「紫の色は同じだが、あの藤の花は   わたしの思う通りにできなかったのです」  まじめな君なので、気の毒にと思っていた。さほど理性を失うほど思い込んだのではなかったが、残念に思っていたのであった。  [第七段 失意の蔵人少将と大君のその後]  あの少将の君は、真剣に、どのようにしようかと、間違い事もしでかしそうに、抑え難く思っているのであった。求婚申された方々で、中の君にと、 鞍替えする人もいる。少将の君を、母北の方のお恨み言があるので、中の君を許そうかとお思いになって、それとなく申し上げなさったが、すっかり 音沙汰がなくなってしまった。  冷泉院には、あの君たちも、親しくもともと伺候なさっていたが、この姫君が参上なさってから後は、ほとんど参上せず、まれに殿上の方に顔を見 せても、つまらなく、逃げて退出するのであった。  帝におかせられては、故大臣のご意向に格別なものがあったので、このように遺志に反したお宮仕えを、どうしたことにか、とお思いあそばして、 中将を呼んで仰せになった。  「ご機嫌ななめです。それだからこそ、世間の人の思惑も、不審に思うに違いないと、かねて申し上げていたことを、ご判断を間違えて、このよう に御決心なさったので、何とも申し上げにくうございますが、このような仰せ言がございましたので、わたしどもの身のためにも、困ったことでござい ます」  と、とても不愉快に思って、尚侍の君をお責め申し上げなさる。  「さあね。たった今、このように、急に思いついたのではなかったのに。無理やりに、お気の毒なほど仰せになったので、後見のない宮仕えの宮 中生活は、頼りないようですが、今では気楽な御生活のようなので、お預け申して、と思ったからです。誰も彼もが、不都合なことは、率直に注意 なさらずに、今頃むし返して、右大臣殿も、間違っていたような、おっしゃりようをなさるので、辛いことです。これも前世からの因縁でしょうよ」  と、穏やかにおっしゃって、動揺なさらない。  「その前世からのご宿縁は、目には見えないものなので、このように思し召し仰せになるのを、これは御縁がございませんと、どうして弁解申し上 げることができましょう。中宮に御遠慮申されるとして、院の女御を、どのようにお扱い申されるおつもりですか。後見や何やかやと、以前よりお互 いに親しくなさっていても、そうもまいりませんでしょう。  まあよい、拝見致しましょう。よく考えれば、宮中は、中宮がいらっしゃるとて、他のお方は宮仕えなさらないでしょうか。帝にお仕え申すことは、そ れが気楽にできるところを、昔から興趣あることとしたものです。女御は、ちょっとした行き違いでもあって、不愉快にお思い申し上げなさったら、間 違った宮仕えのように、世間も取り沙汰しましょう」  などと、二人して申し上げなさるので、尚侍の君、とても辛くお思いになって、その一方では、この上ない御寵愛が、月日とともに深まって行く。  七月からご懐妊なさったのであった。「苦しそうにしていらっしゃる様子は、なるほど、男性たちがいろいろと求婚申して困らせたのも、もっともであ る。どうしてこのような方を、軽く見聞きしてそのまま放っていられようか」と思われる。毎日のように、管弦の御遊をなさっては、侍従もお側近くにお 召しになるので、お琴の音などをお聞きになる。あの「梅が枝」に合奏した中将のおもとの和琴も、いつも召し出して弾かせなさるので、それと聞く につけても、平静ではいられなかった。   第四章 玉鬘の物語 玉鬘の姫君たちの物語  [第一段 正月、男踏歌、冷泉院に回る]  その年が改まって、男踏歌が行われた。殿上の若人たちの中に、芸達者な者が多いころである。その中でも、優れた人をお選びあそばして、こ の四位侍従は、右の歌頭である。あの蔵人少将は、楽人の数の中にいた。  十四日の月が明るく雲がないので、御前を出発して、冷泉院に参る。女御も、この御息所も、院の御殿に上局を設けて御覧になる。上達部、親 王たちが、連れ立って参上なさる。  「右の大殿と、致仕の大殿の一族とを除くと、端正で美しい人はいない世の中だ」と思われる。帝の御前よりも、この院をたいそう気の置ける、格 別の所とお思い申し上げて、「すべての人が気をつかう中でも、蔵人少将は、御覧になっていらっしゃるだろう」と想像して、落ち着いていられない。  匂いもなく見苦しい綿花も、插頭す人によって見分けられて、態度も声も、実に美しかった。「竹河」を謡って、御階のもとに踏み寄る時、過ぎ去っ た夜のちょっとした遊びも思い出されたので、調子を間違いそうになって涙ぐむのであった。  后の宮の御方に参ると、上もそちらにおいであそばして御覧になる。月は、夜が更けて行くにつれて、昼よりきまりが悪いくらい澄み昇って、どの ように御覧になっているだろうとばかり思われるので、踏む所も分からずふらふら歩いて、盃も、名指しで一人だけ責められるのは、面目ないことで ある。  [第二段 翌日、冷泉院、薫を召す]  一晩中、方々を歩いて、とても気分が苦しくて臥せっているところに、源侍従を、院から召されたので、「ああ、苦しい。もう暫く休みたいのに」と文 句を言いながら参上なさった。宮中でのことなどをお尋ねあそばす。  「歌頭は、年配者がこれまでは勤めた役なのに、選ばれたことは、大したものだね」  とおっしゃって、かわいいとお思いになっているようである。「万春楽」をお口ずさみなさりながら、御息所の御方にお渡りあそばすので、お供して 参上なさる。見物に参った里方の人が多くて、いつもより華やかで、雰囲気が賑やかである。  渡殿の戸口に暫く座って、声を聞き知っている女房に、お話などなさる。  「昨夜の月の光は、体裁の悪かったことだなあ。蔵人少将が、月の光に面映ゆく思っていた様子も、桂の影に恥ずかしがっていたのではなかろう か。雲の上近くでは、そんなには見えませんでした」  などとお話なさると、女房たちはお気の毒にと、聞く者もいる。  「闇でははっきりしませんが、月に照らされたお姿は、あなたのほうが素晴らしかった、とお噂しました」などとおだてて、内側から、  「竹河を謡ったあの夜のことは覚えていらっしゃいますか   思い出すほどの出来事はございませんが」  と言う。ちょっとしたことだが、涙ぐまれるのも、「なるほど、浅いご思慕ではなかったのだ」と、自分ながら分かって来る。  「今までの期待も空しいとことと分かって   世の中は嫌なものだとつくづく思い知りました」  しんみりした様子を、女房たちは面白がる。とはいえ、態度に現して少将のようには泣き言はおっしゃらなかったが、人柄がそうは言ってもお気の 毒に見えるのである。  「おしゃべりし過ぎましては。では、失礼」  と言って、立つところに、「こちらへ」とお召しがあったので、きまりの悪い思いがしたが、参上なさる。  「故六条院が、踏歌の翌朝に、女方で管弦の遊びをなさったのは、とても素晴らしかったと、右大臣が話されました。どのようなことにつけても、あ のような方の後継者が、いなくなってしまった時代だね。とても音楽の上手な女性までが大勢集まって、どんなにちょっとしたことでも、面白かった ことであろう」  などとご想像なさって、お琴類を調子を合わせあそばして、箏は御息所、琵琶は侍従にお与えになる。和琴をお弾きあそばして、「この殿」などを 演奏なさる。御息所のお琴の音色は、まだ未熟なところがあったが、とてもよくお教え申し上げなさったのであった。華やかで爪音がよくて、歌謡の 伴奏と、楽曲などを上手にたいそうよくお弾きになる。どのようなことも、心配で、至らないところはおありでない方のようである。  器量は、もちろんまた、実に素晴らしいのだろうと、やはり心が惹かれる。このような機会は多いが、自然とうとうとしくなく、程度を越すことはな く、馴れ馴れしく恨み言を言わないが、折々にふれて、望みが叶わなかった残念さをほのめかすのも、どのようにお思いになったであろうか、よく分 からない。  [第三段 四月、大君に女宮誕生]  四月に、女宮がお生まれになった。特別に目立ったことはないようであるが、院のお気持ちによって、右の大殿をはじめとして、御産養をなさる 所々が多かった。尚侍の君が、ぴったりと抱いておかわいがりなさるので、早く参院なさるようにとばかりあるので、五十日のころに参院なさった。  女一宮が、お一方いらっしゃったが、実にひさしぶりでかわいらしくいらっしゃるので、たいそう嬉しくお思いであった。ますますただこちらにばかり おいであそばす。女御方の女房たちは、「ほんとにこんなでなくあってほしいことですわ」と、不満そうに言ったり思ったりしている。  ご本人どうしのお気持ちは、特に軽々しくお背きになることはないが、伺候する女房の中に、意地悪な事も出て来たりして、あの中将の君が、そ うは言っても兄で、おっしゃったことが実現して、尚侍の君も、「むやみにこのように言い言いして最後はどうなるのだろう。物笑いに、体裁の悪い扱 いを受けるのではないだろうか。お上の御愛情は浅くはないが、長年仕えていらっしゃる御方々が、面白からずお見限りになったら、辛いことになる だろう」とお思いになると、帝におかせられては、ほんとうにけしからぬとお思いになり、再々御不満をお洩らしになると、人がお知らせ申すので、厄 介に思って、中の君を、女官として宮仕えに差し上げることをお考えになって、尚侍をお譲りなさる。  朝廷は、尚侍の交替をそう簡単にお認めなさらないことなので、長年、このようにお考えになっていたが、辞任することができなかったのを、故大 臣のご遺志をお思いになって、遠くなってしまった昔の例などを引き合いに出して、そのことが実現なさった。この君のご運命で、長年申し上げなさ っていたことは難しいことだったのだ、と思えた。  [第四段 玉鬘、夕霧へ手紙を贈る]  「こうして、気楽に宮中生活をなさってください」と、お思いになるが、「お気の毒に、少将のことを、母北の方がわざわざおっしゃったものを。お頼 み申したようにほのめかしてくださったが、どのように思っていらっしゃるだろう」と気になさる。  弁の君を介して、他意のないように、大臣に申し上げなさる。  「帝から、あのような仰せ言があるので、あれこれと、無理な宮仕えの好みだと、世間の人聞きもどのようなものかと存じられまして、困っておりま す」  と申し上げなさると、  「帝の御不興は、お咎めがあるのも、ごもっともなことと拝します。公事に関しても、宮仕えなさらないのは、よくないことです。早く、ご決心なさい」  と申し上げなさった。  また、今度は、中宮の御機嫌伺いして参内する。「大臣が生きていらっしゃったならば、どなたもないがしろになさりはしないだろうに」などと、しみ じみと悲しい思いをする。姉君は、器量なども評判高く、美しいとお聞きあそばしていらしたが、代わりなさったので、ご不満のようであるが、こちら もとても気が利いていて、奥ゆかしく振る舞って伺候なさっている。  [第五段 玉鬘、出家を断念]  前尚侍の君は、出家しようと決意なさったが、  「それぞれにお世話申し上げなさっている時に、勤行も気忙しく思われなさることでしょう。もう少し、どちらの方も安心できる状態を拝見なさってか ら、誰にも非難されるところなく、一途に勤行なさい」  と、君たちが申し上げなさるので、思いお留まりなさって、宮中へは、時々こっそりと参内なさる時もある。院へは、厄介なお気持ちがなおも続い ているので、参上なさるべき時にも、まったく参上なさらない。昔の事を思い出したが、そうは言っても、恐れ多く思われたお詫びに、誰も不賛成に 思っていたことを、知らず顔に院に差し上げて、「自分自身までが、冗談にせよ、年がいもない浮名が世間に流れ出したら、とても目も当てられず恥 ずかしいことだろう」とお思いになるが、そのような憚りがあるからとは、はたまた、御息所にも打ち明けて申し上げなさらないので、「わたしを、昔か ら、故大臣は特別にかわいがり、尚侍の君は、若君を、桜の木の争いや、ちょっとした時にも、味方なさった続きで、わたしをあまり思ってくださらな いのだ」と、恨めしくお思い申し上げていらっしゃるのであった。院の上は、院の上でまた、それ以上に辛いとお思いになりお口にお出しあそばすの であった。  「年老いたわたしのところは放っておいて。軽くお思いなさるのも、無理のないことだ」  と、お語らいになって、いとしく思われる気持ちはますます深まる。  [第六段 大君、男御子を出産]  数年たって、また男御子をお産みになった。大勢いらっしゃる御方々に、このようなことはなくて長年になったが、並々でなかったご宿世などを、世 人は驚く。帝は、それ以上にこの上なくめでたいと、この今宮をお思い申し上げなさった。「退位なさらない時であったら、どんなにか意義のあること であったろうに。今では何事も見栄えがしない時なのを、まことに残念だ」とお思いになるのであった。  女一の宮を、この上なく大切にお思い申し上げていらっしゃったが、このようにそれぞれにかわいらしく、お子様がお加わりになったので、珍しく思 われて、たいそう格別に寵愛なさるのを、女御も、「あまりにこういう有様では不愉快だろう」と、お心が穏やかでないのであった。  何か事ある毎に、面白くない面倒な事態が出て来たりなどして、自然とお二方の仲も隔たったようである。世間の常として、身分の低い人の間で も、もともと本妻の地位にある方は、関係のない一般の人も、味方するもののようなので、院の内の身分の上下の女房たち、まことにれっきとした 身分で、長年連れ添っていらっしゃる御方にばかり道理があるように言って、ちょっとしたことでも、この御方側を良くないように噂したりなどするの を、御兄君たちも、  「それ見たことよ。間違ったことを申し上げたでしょうか」  と、ますますお責めになる。心穏やかならず、聞き苦しいままに、  「このようにでなく、のんびりと無難に結婚生活を送る人も多いだろうに。この上ない幸運に恵まれないでは、宮仕えの事は、考えるべきことでは なかったのだ」  と、大上はお嘆きになる。  [第七段 求婚者たちのその後]  求婚申し上げた人びとで、それぞれ立派に昇進して、結婚なさったしても、不似合いでない方は大勢いることよ。その中で、源侍従と言って、たい そう若く、ひ弱に見えた方は宰相中将になって、「匂うよ、薫よ」と、聞き苦しいほどもてはやされるが、なるほど、人柄も落ち着いて奥ゆかしいの で、高貴な親王方、大臣が、娘を結婚させようとおっしゃるのなどにも、聞き入れないなどと聞くにつけても、「あの頃は、若く頼りないようであった が、立派に成人なさったようだ」などと、言っていらっしゃる。  少将であった方も、三位中将とか言って、評判が良い。  「器量まで、が立派だった」  などと、意地悪な女房たちは、こっそりと、  「厄介な御様子の所に参るよりは」  などと言う者もいて、お気の毒に見えた。この中将は、依然として思い染めた気持ちがさめず、嫌で辛くも思いながら、左大臣の姫君を得たが、全 然愛情を感じず、「道の果てなる常陸帯の」と、手習いにも口ぐせにもしているのは、どのように思ってのことであろうか。  御息所は、気苦労の多い宮仕えの煩わしさに、里にいることが多くおなりになってしまった。尚侍の君は、思っていたようにならなかったご様子 を、残念にお思いになる。内裏の君は、かえって派手に気楽に振る舞って、大変風雅に、奥ゆかしいとの評判を得て、宮仕えなさっている。   第五章 薫君の物語 人びとの昇進後の物語  [第一段 薫、玉鬘邸に昇進の挨拶に参上]  左大臣がお亡くなりになって、右は左に、藤大納言は、左大将を兼官なさった右大臣におなりになる。順々下の人びとが昇進して、この薫中将 は、中納言に、三位の君は宰相になって、ご昇進なさった方々は、これら一族以外に人もいないといった時勢であった。  中納言の昇進のお礼参りに、前尚侍の君の所に参上なさった。御前の庭先で拝舞申し上げなさる。尚侍の君がお目にかかりなさって、  「このように、とても草深くなって行く葎の門を、お避けにならないお心使いに対して、まず昔の六条院の御事が思い出されまして」  などと申し上げなさる、お声は、上品で愛嬌があって、耳に快く響く。「いつまでもお若くいらっしゃるな。これだから、院のお上はお恨みになるお 心が褪せないのだ。そのうちきっと、事件をお起こしになるだろう」と思う。  「喜びなどは、わたしはさほど嬉しく存じませんが、まず知って戴こうと参上したのでございます。避けないなどとおっしゃるのは、御無沙汰の罪を 皮肉って言われたのでしょうか」とご挨拶申し上げなさる。  「今日は、老人の繰り言などを、申し上げるべき時ではないと、気がとがめますが、わざわざお立ち寄りになることは難しいので、お会いしなくて は、また、いくらなんでもごたごたした話ですから。  院に伺候しておられるのが、とてもひどく宮仕えのことを思い悩んで、宙に浮いたような恰好でうろうろしていますが、女御をご信頼申して、また后 の宮の御方にも、そうは言ってもお許し戴けるだろうと、存じておりましたのに、どちらにも礼儀知らずで堪忍できない者とお思いなされたそうなの で、とても具合が悪くて、宮たちは、そのまま残しておいでになる。この、とても生活しにくそうな本人は、こうしてせめて気楽にぼんやりとお過ごし なさいと思って、退出させたのですが、それに対しても聞きにくい噂です。  上様にもけしからぬとお思いになりお口になさるそうです。機会がありましたら、ちらっとよろしく申し上げてください。あちら様こちら様と、頼もしく 存じて、出仕させました当座は、どちら様も安心して、信頼申し上げたが、今では、このような間違いに、子供っぽく大それた自分自身の考えを、恨 んでおります」  と、涙ぐみなさる様子である。  [第二段 薫、玉鬘と対面しての感想]  「まったくそんなにまでお考えなることはありません。このような宮仕えの楽でないことは、昔から、そのようなことと決まっておりますが、位を去っ て、静かにお暮らしでいらっしゃり、どのようなことでも華やかでないご生活となってしまったので、皆が気を許し合っていらっしゃるようですが、それ ぞれ内心では、どんなに競争心をお持ちになることもないでしょうか。  他人は何の過失と思わないことでも、ご自身にとっては恨めしいものでして、つまらないことに心を動かしなさることは、女御や、后のいつものお 癖でしょう。それくらいのいざこざもない起こらないものと思って、ご決心なさったのですか。ただ穏やかに振る舞って、お見過ごしなさることでござい ます。男の者が、申し上げるべきことではございません」  と、たいそうそっけなく申し上げなさるので、  「お会いした時に愚痴をこぼそうと、お待ち申していた効もなく、あっさりしたご判断ですこと」  と、笑っていらっしゃる、人の親として、てきぱきと事を処理していらっしゃる割には、とても若くおっとりとした感じがする。「御息所も、このようなふ うでいらっしゃるのだろう。宇治の姫君が心にとまって思われるのも、このような様子に興味惹かれるからだ」と思って座っていらっしゃった。  尚侍の君も、この頃退出なさっていた。こちらとあちらとに住んでいらっしゃる様子は素晴らしく、全体がのんびりと忙しさに、紛れることないご様 子で、御簾の内側が、気恥ずかしく感じられるので、自然と気づかいがされて、ますます静かで感じが良いのを、大上は、「近くでお世話するのだっ たなら」と、お思いになるのであった。  [第三段 右大臣家の大饗]  大臣殿は、ちょうどこちらの殿の東であった。大饗の垣下の公達などが、大勢参上なさる。兵部卿宮や、左の大臣殿の賭弓の還立や、相撲の饗 応などには、いらっしゃったことを思って、今日の光を添えて戴きたいとご招待申し上げなさったが、いらっしゃらなかった。  奥ゆかしく大切にお世話なさっている姫君たちを、一方では、特に気を配って、何とか婿君に、と思い申し上げなさっているようであるが、宮は、ど うしたことであろうか、お心を止めにならなかった。源中納言が、ますます理想的に成長して、どのような事にも劣ったことがなくいらっしゃるのを、大 臣も北の方も、お目を止めていらっしゃった。  隣でこのように大騒ぎして、行き交う車の音、前駆の声々も、昔の事が自然と思い出されて、こちらの殿では、しみじみと物思いなさっている。  「故宮がお亡くなりになって、間もなく、この大臣がお通いになったことを、まことに軽薄なように世間の人は非難したというが、愛情も薄れずにこ のように暮らしておいでなのも、やはり無難なことであった。無常の世の中よ。どちらが良いものでしょうか」などとおっしゃる。  [第四段 宰相中将、玉鬘邸を訪問]  左の大殿の宰相中将は、大饗の翌日、夕方にこちらに参上なさった。御息所が、里にいらっしゃると思うと、ますます緊張して、  「朝廷が忘れずに加えてくださった昇進の喜びなどは、特に何とも思いません。私事で思い通りにならない嘆きばかりが、年月とともに積もり重な って、晴らしようもございません」  と、涙を拭うのも、わざとらしい。二十七、八歳のほどで、とても男盛りで、華やかな容貌をしていらっしゃった。  「困った息子たちの、世の中を思いのままになると思って、官位を何とも思わず、過ごしていらっしゃる。故殿が生きていらっしゃったら、自分の家 の子供たちも、このようなのんきな遊び事に、心を奪われたでしょうに」  とお泣きになる。右兵衛督や、右大弁になったが、皆非参議でいるのを嘆かわしいことと思っていた。侍従と言われていたらしい人は、この頃、頭 中将と呼ばれているようである。年齢から言えば、不十分ではないが、人に後れたと嘆いていらっしゃった。宰相は、何やかやとうまいことを言って 来て。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 7/9/2000 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)    橋姫 薫君の宰相中将時代二十二歳秋から十月までの物語 第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮 1.八の宮の家系と家族---その頃、世間から忘れられていらっしゃった古宮がおいでになった 2.八の宮と娘たちの生活---「年月を過すにつけても、まことに暮らしにくく 3.八の宮の仏道精進の生活---そうは言っても、広く優雅なお邸の、池、築山などの 4.ある春の日の生活---春のうららかな日の光に、池の水鳥たちが 5.八の宮の半生と宇治へ移住---父帝にも母女御にも、早く先立たれなさって 第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ 1.八の宮、阿闍梨に師事---ますます、山また山を隔てたお住まいに、訪問する人もいない 2.冷泉院にて阿闍梨と薫語る---この阿闍梨は、冷泉院にも親しく伺候して 3.阿闍梨、八の宮に薫を語る---中将の君は、かえって、親王が悟り澄ましていらっしゃるお心づかいを 4.薫、八の宮と親交を結ぶ---なるほど、聞いていたよりもいたわしく、お暮らしになっている様子をはじめとして 第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る 1.晩秋に薫、宇治へ赴く---秋の末方に、四季毎に当ててなさるお念仏を 2.宿直人、薫を招き入れる---暫く聞いていたいので、隠れていらしたが、お気配をはっきりと 3.薫、姉妹を垣間見る---あちらに通じているらしい透垣の戸を、少し押し開けて 4.薫、大君と御簾を隔てて対面---このように見られただろうかとはお考えにもならず 5.老女房の弁が応対---たとえようもなく出しゃばって、「まあ、恐れ多いこと 6.老女房の弁の昔語り---この老人は泣き出した。「出過ぎた者とのお咎めもあるやと 7.薫、大君と和歌を詠み交して帰京---峰の幾重にも重なった雲の、思いやるにも隔てが多く、心痛むが 8.薫、宇治へ手紙を書く---老人の話が、気にかかって思い出される 9.薫、匂宮に宇治の姉妹を語る---君は、姫君のお返事が、とてもよく整っていておおようなのを 第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る 1.十月初旬、薫宇治へ赴く---十月になって、五、六日の間に、宇治へ参られる 2.薫、八の宮の娘たちの後見を承引---「このあたりに、思いがけなく、時々かすかに弾く 3.薫、弁の君の昔語りの続きを聞く---そうして、払暁の、宮がご勤行をなさる時に 4.薫、父柏木の最期を聞く---「お亡くなりになりました騷ぎで、母でございました者は 5.薫、形見の手紙を得る---小さく固く巻き合わせた反故類で、黴臭いのを 6.薫、父柏木の遺文を読む---お帰りになって、さっそくこの袋を御覧になると、唐の浮線綾を   第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮  [第一段 八の宮の家系と家族]  その頃、世間から忘れられていらっしゃった古宮がおいでになった。母の里方なども、立派な家柄でいらっしゃって、特別の地位につくべき評判な どがおありであったが、時勢が変わって、世間から冷たく扱われなさった騷ぎに、かえってその声望も衰え、ご後見の人びとなども何となく恨めしい 思いをして、それぞれの理由で、政界から退き去り退き去りして、公私ともに頼る人がなくなり、孤立していらっしゃるようである。  北の方も、昔の大臣の姫君であったが、しみじみと心細く、両親がお考えになっていらっしゃっした事などを思い出しなさると、譬えようもない悲し いことが多いが、深いご親密な夫婦仲の又とないのだけを、憂世の慰めとして、お互いにこの上なく頼り合っていらっしゃった。  幾年もたったのに、お子がお出来にならなくて気がかりだったので、所在ない寂しい慰めに、「何とかして、かわいらしい子が欲しいものだ」と、宮 が時々お思いになりおっしゃっていたところ、珍しく、女君でとてもかわいらしい子がお生まれになった。  この子をこの上なくかわいいと思って大切にお育て申していらっしゃったところに、また続いて妊娠なさって、「今度は男の子であって欲しい」など とお思いになったが、同じく女の子で、無事には出産なさったが、とてもひどく産後の肥立ちが悪くてお亡くなりになってしまった。宮は、驚き途方に 暮れなさる。  [第二段 八の宮と娘たちの生活]  「年月を過すにつけても、まことに暮らしにくく、堪え難いことが多い世の中だが、見捨てることのできないいとしい人たちのご様子、人柄に、心を 引き止められて、過ごして来たのだが、独り残って、ますます味気ない感じがするな。幼い子供たちをも、独りで育てるには、身分格式のある身な ので、まことに愚からしく、体裁の悪いことであろう」  とご決心なさって、出家も遂げたくお思いになったが、見譲る人もなくて残して行くのを、ひどくおためらいになりながら、年月がたつと、それぞれ 成長なさっていく様子、器量が、美しく素晴らしいので、朝夕のお慰めとして、いつしか年月をお過ごしになる。  後からお生まれになった姫君を、お仕えする女房たちも、「まあ、悪い時にお生まれになって」などと、ぶつぶつ呟いては、身を入れてお世話申し 上げなかったが、臨終の床で、何お分りにならない時ながら、この子をとてもお気の毒にと思って、  「ただ、この姫君をわたしの形見とお思いになって、かわいがってください」  とだけ、わずか一言、宮にご遺言申し上げなさったので、前世からの約束も辛い時だが、「そうなるはずの運命だったのだろうと、ご臨終と見えた 時まで、とてもかわいそうにと思って、気がかりにおっしゃったことよ」と、お思い出しになりながら、この姫君を特に、とてもかわいがり申し上げなさ る。器量は本当にとてもかわいらしく、不吉なまで美しくいらっしゃった。  姫君は、気立てはもの静かで優雅な方で、外見も態度も、気高く奥ゆかしい様子でいらっしゃる。大切にしたい高貴な血筋は勝っていて、姉妹ど ちらも、それぞれに大切にお育て申し上げなさるが、思い通りに行かないことが多く、年月とともに、宮邸の内も何となく段々と寂しくばかりなって行 く。  仕えていた女房も、頼りにならない気がするので、辛抱することができず、次々と辞めて去って行き、若君の御乳母も、あのような騒動に、しっか りした人を、選ぶことがお出来になれなかったので、身分相応の浅はかさで、幼い君をお見捨て申し上げてしまったので、ただ宮がお育てなさる。  [第三段 八の宮の仏道精進の生活]  そうは言っても、広く優雅なお邸の、池、築山などの様子だけは昔と変わらないで、たいそうひどく荒れて行くのを、所在なく眺めていらっしゃる。  家司なども、しっかりとした人もいないままに、草が青々と茂って、軒の忍草が、わがもの顔に一面に青みわたっている。四季折々の花や紅葉 の、色や香を、同じ気持ちでご賞美なさったことで、慰められることも多かったが、ますます寂しく、頼みとする人もないままに、持仏のお飾りだけ を、特別におさせになって、明け暮れお勤めなさる。  このような足手まといたちにかかずらっているのでさえ、心外で残念で、「自分ながらも思うに任せない運命であった」と思われるが、まして、「どう して、世間の人並みに今更再婚などを」とばかり、年月とともに、世の中をお離れになり、心だけはすっかり聖におなりになって、故君がお亡くなり になって以後は、普通の人のような気持ちなどは、冗談にもお思い出しならなかった。  「どうして、そんなにまで。死別の悲しみは、二つと世に例のないようにばかり、思われるようだが、時がたてば、そんなでばかりいられようか。や はり、普通の人と同じようなお心づかいをなさって、とてもこのような見苦しく、頼りない宮邸の内も、自然と整って行くこともあるかも知れません」  と、人は非難申し上げて、何やかやと、もっともらしく申し上げることも、縁故をたどって多かったが、お聞き入れにならなかった。  御念誦の合間合間には、この姫君たちを相手にし、だんだん成長なさると、琴を習わせ、碁を打ち、偏つぎなどの、とりとめない遊びにつけても、 二人の気立てを拝見なさると、姫君は、才気があり、落ち着いて重々しくお見えになる。若君は、おっとりとかわいらしい様子をして、はにかんでい る様子に、とてもかわいらしく、それぞれでいらっしゃる。  [第四段 ある春の日の生活]  春のうららかな日の光に、池の水鳥たちが、互いに羽を交わしながら、めいめいに囀っている声などを、いつもは、何でもないことと御覧になって いたが、つがいの離れずにいるのを羨ましく眺めなさって、姫君たちに、お琴類をお教え申し上げなさる。とてもかわいらしげで、小さいお年で、そ れぞれ掻き鳴らしなさる楽の音色は、しみじみとおもしろく聞こえるので、涙を浮かべなさって、  「見捨てて去って行ったつがいでいた水鳥の雁は   はかないこの世に子供を残して行ったのだろうか  気苦労の絶えないことだ」  と、目を拭いなさる。容貌がとても美しくいらっしゃる宮である。長年のご勤行のために痩せ細りなさったが、それでも気品があって優美で、姫君 たちをお世話なさるお気持ちから、直衣の柔らかくなったのをお召しになって、つくろわないご様子、とても恥ずかしくなるほど立派である。  姫君、お硯を静かに引き寄せて、手習いのように書き加えなさるのを、  「これにお書きなさい。硯には書き付けるものでありません」  とおっしゃって、紙を差し上げなさると、恥じらってお書きになる。  「どうしてこのように大きくなったのだろうと思うにも   水鳥のような辛い運命が思い知られます」  よい歌ではないが、その状況は、とてもしみじみと心打たれるのであった。筆跡は、将来性が見えるが、まだ上手にお書き綴りにならないお年で ある。  「若君もお書きなさい」  とおっしゃると、もう少し幼そうに、長くかかってお書きになった。  「泣きながらも羽を着せかけてくださるお父上がいらっしゃらなかったら   わたしは大きくなることはできなかったでしょうに」  お召し物など皺になって、御前に他に女房もなく、とても寂しく所在なさそうなので、それぞれたいそうかわいらしくいらっしゃるのを、不憫でいたわ しいと、どうして思わないことがあろうか。お経を片手に持ちなさって、一方では読経しながら唱歌もなさる。  姫君に琵琶、若君に箏のお琴を、まだ幼いけれど、いつも合奏しながらお習いになっているので、聞きにくいこともなく、たいそう美しく聞こえる。  [第五段 八の宮の半生と宇治へ移住]  父帝にも母女御にも、早く先立たれなさって、しっかりしたご後見人が、取り立てていらっしゃらなかったので、学問なども深くお習いになることが できず、まして、世の中に生きていくお心構えは、どうしてご存知でいらっしゃったであろうか。身分の高い人と申す中でも、あきれるくらい上品でお っとりした、女性のようでいらっしゃるので、古い世からのご宝物や、祖父大臣のご遺産や、何やかやと尽きないほどあったが、行方もなくあっけな く無くなってしまって、ご調度類などだけが、特別にきちんとして多くあった。  参上してご機嫌伺いしたり、好意をお寄せ申し上げる人もいない。所在ないのにまかせて、雅楽寮の楽師などのような、優れた人を召し寄せ召し 寄せなさっては、とりとめない音楽の遊びに心を入れて、成人なさったので、その方面では、たいそう素晴らしく優れていらっしゃった。  源氏の大殿の御弟君でいらっしゃったが、冷泉院が春宮でいらっしゃった時に、朱雀院の大后が、あるまじき企みをご計画になって、この宮を、 帝位をお継ぎになるように、ご威勢の盛んな時、ご支援申し上げなさった騒動で、つまらなく、あちら方とのお付き合いからは、遠ざけられておしま いになったので、ますますあちら方のご子孫の御世となってしまった世の中では、交際することもお出来になれない。また、ここ数年、このような聖 にすっかりなってしまって、今はこれまでと、万事をお諦めになっていた。  こうしているうちに、お住まいになっていた宮邸が焼けてしまった。不幸続きの人生の上に、あきれるほどがっかりして、お移り住みなさるような適 当な所が、適当な所もなかったので、宇治という所に、風情のある山荘をお持ちになっていたのでお移りになる。お捨てになった世の中だが、今は 最後と住み離れることを悲しく思わずにはいらっしゃれない。  網代の様子が近く、耳もとにうるさい川の辺りで、静かな思いに相応しくない点もあるが、どうすることもできない。花や紅葉や、川の流れにつけ ても、心を慰めるよすがとして、いよいよ物思いに耽るより他のことがない。こうして世間から隔絶して籠もってしまった野山の果てでも、「亡き北の 方が生きていらっしゃったら」と、お思い申し上げなさらない時はなかった。  「北の方も邸も煙となってしまったが   どうしてわが身だけがこの世に生き残っているのだろう」  生きている効もないほど、恋い焦がれていらっしゃるよ。   第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ  [第一段 八の宮、阿闍梨に師事]  ますます、山また山を隔てたお住まいに、訪問する人もいない。賤しい下衆など、田舎びた山住みの者たちだけが、まれに親しくお仕え申し上げ る。峰の朝霧が晴れる時の間もなくて、明かし暮らしなさっているが、この宇治山に、聖めいた阿闍梨が住んでいた。  学問がたいそうできて、世人の評判も低くはなかったが、めったに朝廷の法要にも出仕せず、籠もっていたところに、この宮が、このように近い所 にお住みになって、寂しいご様子で、尊い仏事をあそばしながら、経文を読み習っていらっしゃるので、尊敬申し上げて、常に参上する。  長年学んでお知りになった事柄などで、深い意味をお説き申し上げて、ますますこの世が仮の世で、無意味なことをお教え申し上げるので、  「心だけは蓮の上に乗って、きっと濁りのない池にも住むだろうことを、とてもこのように小さい姫君たちを見捨てる気がかりさだけに、一途に僧形 になることもできないのだ」  などと、隔意なくお話なさる。  [第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る]  この阿闍梨は、冷泉院にも親しく伺候して、御経などお教え申し上げる僧なのであった。京に出た折に参上して、いつものように、しかるべき教典 などを御覧になって、ご下問あそばすことがある折に、  「八の宮が、たいそうご聰明で、教典のご学問にも深く通じていらっしゃいますなあ。そのようになるはずの方として、お生まれになったのでいらっ しゃる方なのでしょうか。お考えが深く悟り澄ましていらっしゃるほどは、本当の聖の心構えのようにお見えになります」と申し上げる。  「まだ姿は変えていらっしゃらないのか。俗聖とか、ここの若い人達が名付けたというのは、殊勝なことだ」などと仰せになる。  宰相中将も、御前に伺候なさって、「自分こそは、世の中を実に面白くなく悟っていながら、その行いなどを、人目につくほどは勤めず、残念に過 ごして来てしまった」と、人知れず反省しながら、「在俗のまま聖におなりになる心構えとはどのようなものか」と、耳を止めてお聞きになる。  「出家の本願は、もともとお持ちでいらっしゃったが、つまらないことに心がにぶり、今となっては、お気の毒な姫君たちのお身の上を、お見捨てに なることができないと、嘆いておられます」と奏す。  そうは言っても、音楽は賞美する阿闍梨なので、  「なるほど、また、この姫君たちが、琴を合奏なさって楽しんでいらっしゃるのが、川波と競って聞こえますのは、たいそう興趣あって、極楽もかく やと想像されますね」  と、古風に誉めるので、院の帝はほほ笑みなさって、  「そのような聖の近くにお育ちになって、この世の方面のことは、暗かろうと想像されるが、興趣あることだね。気がかりで見捨てることができず、 苦にしていらっしゃるだろうことが、もし、少しでも後に自分が生き残っているようであったら、後見役をお譲りなさらないだろうか」  などと仰せになる。この院の帝は、第十の皇子でいらっしゃるのであった。朱雀院が、故六条院にお預け申し上げなさった入道宮のご先例をお思 い出しになって、「あの姫君たちを欲しいものだ。所在ない遊び相手として」などとお思いになるのであった。  [第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る]  中将の君は、かえって、親王が悟り澄ましていらっしゃるお心づかいを、「お目にかかって、お伺いしたいものだ」と思う気持ちが深くなった。そうし て阿闍梨が山に帰ていくときにも、  「きっと参って、お教えて戴けるよう、まずは内々にでも、ご意向を伺ってください」  などとお頼みになる。  院の帝が、御使者を介して、「お気の毒な御生活を、人伝てに聞きまして」など申し上げなさって、  「世を厭う気持ちは宇治山に通じておりますが   幾重にも雲であなたが隔てていらっしゃるのでしょうか」  阿闍梨は、この御使者を先に立てて、あちらの宮に参上した。並々の身分で、訪問してよい人の使いでさえまれな山蔭なので、実に珍しく、お待 ち喜びになって、場所に相応しい御馳走などを用意して、山里らしい持てなしをなさる。お返事は、  「世を捨てて悟り澄ましているのではありませんが   世を辛いものと思い宇治山に暮らしております」  仏道修業の方面については謙遜して申し上げなさっていたので、「やはり、この世に恨みが残っていたな」と、いたわしく御覧になる。  阿闍梨は、中将の君が、道心深くいらっしゃることなどを、お話し申し上げて、  「経文などの真意を会得したい希望が、幼い時から深く思いながら、やむをえず世にあるうちに、公私に忙しく日を過ごし、わざわざ部屋に閉じ籠 もって経を読み習い、だいたいが大して役にも立たない身として、世の中に背き顔をしているのも、遠慮することではないが、自然と修業も怠って、 俗事に紛れて過ごして来たが、たいそうご立派なご様子を承ってから、このように心にかけて、お頼み申し上げるのです、などと、熱心に申し上げ なさいました」などとお話し申し上げる。  宮は、  「世の中を仮の世界と思い悟り、厭わしい心がつき始めたことも、自分自身に不幸がある時、大方の世も恨めしく思い知るきっかけがあって、道 心も起こることのようですが、年若く、世の中も思い通りに行き、何事も満足しないことはないと思われる身分で、そのようにまた、来世までを、考え ていらっしゃるのが立派です。  わたしは、そうなるべき運命なのか、ただ厭い離れよと、格別に仏などのお勧めになるような状態で、自然と、静かな思いが適って行きましたが、 余命少ない気がするのに、ろくに悟りもしないで、過ぎてしまいそうなのを、過去も未来も、全然悟るところがなく思われるが、かえって、恥入るよう な仏法の友の方で、いらっしゃいますね」  などおっしゃって、お互いにお手紙を交わし、自分自身でも参上なさる。  [第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ]  なるほど、聞いていたよりもいたわしく、お暮らしになっている様子をはじめとして、まことに仮の粗末な庵で、そう思うせいか、簡素に見えた。同じ 山里と言っても、それなりに興味惹かれそうな、のんびりとしたところもあるのだが、実に荒々しい水の音、波の響きに、物思いを忘れたり、夜など は、気を許して夢をさえ見る間もなさそうに、風がものすごく吹き払っていた。  「仏道修業者めいた人のためには、このようなことも、気にならないことなのであろうが、女君たちは、どのような気持ちで過ごしていらっしゃるの だろう。世間一般の女性らしく優しいところは、少ないのではなかろうか」と推量されるご様子である。  仏間との間に、襖障子だけを隔てていらっしゃるようである。好色心ある人は、気のあるそぶりをして、姫君のお気持ちを見たく、やはりどのような ものかと、興味惹かれるご様子である。  けれども、「そのような方面を思い離れた願いで、山深くお尋ね申した目的もなく、好色がましいいいかげんなことを口に出してふざけるのも、主旨 と違うのではないか」などと反省して、宮のご様子のまことにいたわしいのを、丁重にお見舞い申し上げなさり、度々参上しては、思っていたよう に、在俗のまま山に籠もり修業する深い意義、経文などを、特に賢ぶることなく、まことよくお聞かせになる。  聖めいた人、学問のできる法師などは、世の中に多くいるが、あまりに堅苦しく、よそよそしい徳の高い僧都、僧正の身分は、世間的に忙しくそっ けなくて、物事の道理を問いただすにも、仰々しく思われなさる。  また、これといったこともない仏の弟子で、戒律を守っているだけの尊さはあるが、雰囲気が賤しく言葉がなまって、不作法に馴れ馴れしいのは、 とても不愉快で、昼は、公事に忙しくなどしながら、ひっそりとした宵のころに、側近くの枕許などに召し入れてお話しなさるにつけても、まことにや はりむさ苦しい感じばかりがするが、たいそう気品高く、いたいたしい感じで、おっしゃる言葉も、同じ仏のお教えも、分りやすい譬えをまぜて、たい そうこの上なく深いお悟りというわけではないが、身分の高い方は、物事の道理を悟りなさる方法が、特別でいらっしゃったので、だんだんとお親し み申し上げなさる度毎に、いつもお目にかかっていたく思って、忙しくなどして日を過ごしている時は、恋しく思われなさる。  この君が、このように尊敬申し上げなさるので、冷泉院からも、常にお手紙などがあって、長年、噂にもまったくお聞きなされず、ひどく寂しそうで あったお住まいに、だんだん来訪の人影を見る時々がある。何かの時に、お見舞い申し上げなさること、大したもので、この君も、まず適当なことに かこつけては、風流な面でも、経済的な面でも、好意をお寄せ申し上げなさること、三年ほどになった。   第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る  [第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く]  秋の末方に、四季毎に当ててなさるお念仏を、この川辺では、網代の波も、このころは一段と耳うるさく静かでないので、と言って、あの阿闍梨が 住む寺の堂にお移りになって、七日程度勤行なさる。姫君たちは、たいそう心細く、何もすることのない日が増えて物思いに耽っていらっしゃるこ ろ、中将の君が、久しく参らなかったなと、お思い出し申されるままに、有明の月が、まだ夜深く差し出たころに出立して、たいそうこっそりと、お供 に人などもなく、質素にしておいでになった。  川のこちら側なので、舟なども煩わさず、御馬でいらっしゃったのであった。山に入って行くにつれて、霧で塞がって、道も見えない生い茂った木 の中を分け入って行かれると、とても荒々しく吹き競う風に、ほろほろと散り乱れる木の葉の露が散りかかるのも、たいそう冷たくて、自分から求め てひどく濡れておしまいになった。このような外歩きなども、あまり御経験ないお気持ちには、心細く興味深く思われなさった。  「山颪の風に堪えない木の葉の露よりも   妙にもろく流れるわたしの涙よ」  山賤が目を覚ますのも厄介だと思って、随身の声もおさせにならない。柴の籬を分けて、どことなく流れる水の流れを踏みつける馬の足音も、や はり、人目につかないようにと気をつけていらっしゃったのに、隠すことのできない御匂いが、風に漂って、どなたの香かと目を覚ます家々があるの であった。  近くなるころに、何の琴とも聞き分けることができない楽器の音色が、たいそうもの寂しく聞こえる。「いつもこのように遊んでいらっしゃると聞いた が、その機会がなくて、親王の御琴の音色の評判高いのも、聞くことができないでいた。ちょうど良い機会だろう」と思いながらお入りになると、琵 琶の音の響きであった。「黄鐘調」に調律して、普通の掻き合わせだが、場所柄か、耳馴れない気がして、掻き返す撥の音も、何となく清らかで美 しい。箏の琴は、しみじみと優美な音がして、途切れ途切れに聞こえる。  [第二段 宿直人、薫を招き入れる]  暫く聞いていたいので、隠れていらしたが、お気配をはっきりと聞きつけて、宿直人らしい男で、何か愚直そうなのが、出て来た。  「いかじかの理由で籠もっていらっしゃいます。お手紙を差し上げましょう」と申す。  「なに、その必要はない。そのように日数を限った御勤行のところを、お邪魔申し上げるのもいけない。このように濡れながらわざわざ参って、むな しく帰る嘆きを、姫君の御方に申し上げて、お気の毒にとおっしゃっていただけたら、慰められるでしょう」  とおっしゃると、醜い顔がにこっとして、  「申し上げさせていただきましょう」と言って立つのを、  「ちょっと待て」と召し寄せて、  「長年、人伝てにばかり聞いて、聞きたく思っていたお琴の音を、嬉しい時だよ。暫くの間、少し隠れて聞くのに適当な物蔭はないか。不適切にも 出過ぎて参上したりする間に、皆が琴をお止めになっては、まことに残念であろう」  とおっしゃる。そのお振る舞い、容姿容貌が、そのようなつまらない男の考えでも、実に立派に恐れ多く見えたので、  「誰も聞かない時には、明け暮れこのようにお弾きになりますが、下人であっても、都の方面から参って、加わっている人がある時は、お弾かせな さりません。だいたい、こうして女君たちがいらっしゃることをお隠しになり、世間の人にお知らせ申すまいと、お考えになりおっしゃっているのです」  と申し上げるので、ほほ笑みなさって、  「つまらないお隠しだてだ。そのようにお隠しになるというが、誰も皆、類まれな例として、聞き出すに違いないだろうに」とおっしゃって、「やはり、 案内せよ。わたしは好色がましい心などは、持っていないのだ。こうしていらっしゃるご様子が、不思議で、なるほど、並々には思えないのだ」  と懇切におっしゃると、  「ああ、恐れ多い。物をわきまえぬ奴と、後から言われることがありましょう」  と言って、あちらのお庭先は、竹の透垣を立てめぐらして、すべて別の塀になっているのを、教えてご案内申し上げた。お供の人は、西の廊に呼 び止めて、この宿直人が相手をする。  [第三段 薫、姉妹を垣間見る]  あちらに通じているらしい透垣の戸を、少し押し開けて御覧になると、月が美しい具合に霧がかかっているのを眺めて、簾を短く巻き上げて、女房 たちが座っている。簀子に、たいそう寒そうに、痩せてみすぼらしい着物の女童一人と、同じ姿をした大人などが座っていた。内側にいる人一人、 柱に少し隠れて、琵琶を前に置いて、撥をもてあそびながら座っていたところ、雲に隠れていた月が、急にぱあっと明るく差し出たので、  「扇でなくて、これでもっても、月は招き寄せられそうだわ」  と言って、外を覗いている顔、たいそうかわいらしくつやつやしているのであろう。  添い臥している姫君は、琴の上に身をもたれかけて、  「入り日を戻す撥というのはありますが、変わったことを思いつきなさるお方ですこと」  と言って、ちょっとほほ笑んでいる様子、もう少し落ち着いて優雅な感じがした。  「そこまでできなくても、これも月に縁のないものではないわ」  などと、とりとめもないことを、気を許して言い合っていらっしゃる二人の様子、まったく見ないで想像していたのとは違って、とても可憐で親しみが 持て感じがよい。  「昔物語などに語り伝えて、若い女房などが読むのを聞くにも、必ずこのようなことを言っていたが、そのようなことはないだろう」と、想像していた のに、「なるほど、人の心を打つような隠れたことがある世の中だったのだな」と、心が惹かれて行きそうである。  霧が深いので、はっきりと見ることもできない。再び、月が出て欲しいとお思いになっていた時に、奥の方から、「お客様です」と申し上げた人がい たのであろうか、簾を下ろして皆入ってしまった。驚いたふうでもなく、ものやわらかに振る舞って、静かに隠れた方々の様子、衣擦れの音もせず、 とても柔らかくなっておいたわしい感じで、ひどく上品で優雅なのを、しみじみとお思いなさる。  静かに出て、京に、お車を引いて参るよう、人を走らせた。先ほどの男に、  「具合悪い時に参ってしまいましたが、かえって嬉しく、思いが少し慰められました。このように参った旨を申し上げよ。ひどく露に濡れた愚痴も申 し上げたい」  とおっしゃると、参上して申し上げる。  [第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面]  このように見られただろうかとはお考えにもならず、気を許して話していたことを、お聞きになったろうかと、実にたいそう恥ずかしい。不思議と、香 ばしく匂う風が吹いていたのを、思いかけない時なので、「気がつかなかった迂闊さよ」と、気も動転して、恥ずかしがっていらっしゃる。  ご挨拶などを伝える人も、とても物馴れていない人のようなので、「時と場合によって、何事も臨機応変に」とお思いになって、まだ霧でよく見えな い時なので、先ほどの御簾の前に歩み出て、お座りになる。  山里めいた若い女房たちは、お答えする言葉も分からず、お敷物を差し出す恰好も、たどたどしそうである。  「この御簾の前では、きまり悪うございますよ。一時の軽い気持ちぐらいでは、こんなにも尋ねて参れないような難しい険しい山路と存じておりま したが、これは変わったお扱いで。このように露に濡れ濡れ何度も参ったら、いくらなんでも、ご存知でいらっしゃろうと、頼もしく存じております」  と、とてもまじめにおっしゃる。  若い女房たちが、すらすらと何か申し上げることもできず、正体もないほど恥ずかしがっているのも、見ていられないので、年配の女房で奥に寝て いる者を起こし出している間、ひまどって、わざとらしいのも気の毒になって、  「何事も存じませんわたくしどもで、知ったふうに、どうして、お答え申し上げられましょうか」  と、たいそう優雅で、上品な声をして、引っ込みながらかすかにおっしゃる。  「実は分かっておいでなのに、辛さを知らないふりをするのも、世の習いと存じておりますが、ほかならぬあなたが、あまりにそらぞらしいおっしゃ りようをなさるのは、残念に存じます。めったになく、何事につけ悟り澄ましていらっしゃるご生活などに、ご一緒申されておいでのご心中は、万事 涼しく推量されますから、やはり、このように秘めきれない気持ちの深さ浅さも、お分かりいただけることは、効がございましょう。  世の常の好色がましいこととは、違ってお考えいただけませんか。そのようなことは、ことさら勧める人がありましても、言う通りにはならない決心 の強さです。  自然とお聞き及びになることもございましょう。所在なくばかり過ごしております世間話も、聞いていただくお相手として頼み申し上げ、またこのよ うに、世間から離れて、物思いあそばしていられるお心の気紛らわしには、そちらからそうと、話しかけてくださるほどに親しくさせていただけました ら、どんなにか嬉しいことでございましょう」  などと、たくさんおっしゃると、遠慮されて、答えにくくて、起こした老人が出て来たので、お任せになる。  [第五段 老女房の弁が応対]  たとえようもなく出しゃばって、  「まあ、恐れ多いこと。失礼なご座所でございますこと。御簾の中にどうぞ。若い女房たちは、物の道理を知らないようでございます」  などと、ずけずけと言う声が年寄じみているのも、きまり悪く姫君たちはお思いになる。  「まことに妙に、世の中に暮らしていらっしゃる方のお仲間入りもなさらないご様子で、当然訪問してよい方々でさえ、人並み扱いにご訪問申され る方々も、お見かけ申さないようにばかりなって行くようですので、もったいないお志のほどを、人数にも入らないわたしでも、意外なとまでお思い申 し上げさせていただいておりますが、若い姫君たちもご存知でありながら、お申し上げなさりにくいのでございましょうか」  と、まことに遠慮なく馴れ馴れしいのも、小憎らしい一方で、感じはたいそうひとかどの人物らしく、教養のある声なので、  「まこと取りつく島もない気がしていたが、嬉しいおっしゃりようです。何事も、なるほど、ご存知であった頼もしさは、この上ないことです」  とおっしゃって、寄り掛かって座っていらっしゃるのを、几帳の側から見ると、曙の、だんだん物の色が見えてくる中で、なるほど、質素にしていらっ しゃると見える狩衣姿が、たいそう露に濡れて湿っているのが、「何と、この世以外の匂いか」と、不思議なまで薫り満ちていた。  [第六段 老女房の弁の昔語り]  この老人は泣き出した。  「出過ぎた者とのお咎めもあるやと、存じて控えておりますが、しみじみとした昔のお話の、どのような機会にお話申し上げ、その一部分を、ちらっ とお耳に入れたいと、長年念誦の折にも、祈り続けてまいった効があってでしょうか、嬉しい機会でございますが、まだのうちから涙が込み上げて 来て、申し上げることができませんわ」  と、震えている様子、ほんとうにひどく悲しいと思っていた。  だいたい、年老いた人は、涙もろいものとは見聞きなさっていたが、とてもこんなにまで思っているのも、不思議にお思いになって、  「ここに、このように参ることは、度重なったが、このように物のあわれをご存知の方がいなくて、露っぽい道中で、一人だけ濡れました。嬉しい機 会のようですので、すっかりおっしゃってください」とおっしゃると、  「このような機会は、ございますまい。また、ございましても、明日をも知らない寿命を、当てにできません。それでは、ただ、このような老人が、世 の中におったとだけ、ご存知いただきたい。  三条の宮におりました小侍従、亡くなってしまったと、ちらっと聞きました。その昔、親しく存じておりました同じ年配の者は、多く亡くなりました晩 年に、遠い田舎から縁故を頼って上京して来て、この五、六年のほど、ここにこのようにしてお仕えております。  ご存知ではないでしょう、最近、藤大納言と申すお方の御兄君で、右衛門督でお亡くなりになった方は、何かの機会にか、あのお方の事として、 お伝え聞きなさっていることはございましょう。  お亡くなりになって、まだいかほども経っていないような気ばかりがします。その時の悲しさも、まだ袖が乾く時の間もなく存じられますが、このよ うに大きくおなりあそばしたお年のほども、夢のような思われます。  あの故権大納言の御乳母でございました人は、弁の母でございました。朝夕に身近にお仕えいたしましたところ、物の数にも入らない身ですが、 誰にも知らせず、お心にあまったことを、時々ちらっとお漏らしになりましたが、いよいよお最期とおなりになったご病気の末頃に、呼び寄せて、わず かにご遺言なさったことがございましたが、ぜひお耳に入れなければならない子細が、一つございますけれども、これだけ申し上げましたので、さら に続きをとお思いになるお考えがございましたら、改めてごゆっくり、すっかりお話し申し上げましょう。若い女房たちも、みっともなく、出過ぎた者 と、非難するのも、もっともなことですから」  と言って、さすがに最後まで言わずに終わった。  不思議な、夢語り、巫女などのような者が、問わず語りをしているように、珍しい話と思わずにはいらっしゃれないが、しみじみと本当のことが知り たいと思い続けて来た方面のことを申し上げたので、ひどく先が知りたいが、なるほど、人目も多いし、不意に昔話にかかわって、夜を明かしてしま うのも、無作法であるから、  「はっきりと思い当たるふしは、ないものの、昔のことと聞きますのも、心をうちます。それでは、きっとこの続きをお聞かせください。霧が晴れてい ったら、見苦しいやつした姿を、無礼のお咎めを受けるに違いない姿なので、思っておりますように行かず、残念でなりません」  とおっしゃって、お立ちになると、あのいらっしゃる寺の鐘の音が、かすかに聞こえて、霧がたいそう深く立ち込めていた。  [第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京]  峰の幾重にも重なった雲の、思いやるにも隔てが多く、心痛むが、やはり、この姫君たちのご心中もおいたわしく、「物思いのありたけを尽くして いられよう。あのように、とても引っ込みがちでいらっしゃるのも、もっともなことだ」などと思われる。  「夜も明けて行きますが帰る家路も見えません   尋ねて来た槙の尾山は霧が立ち込めていますので  心細いことですね」  と、引き返して立ち去りがたくしていらっしゃる様子を、都の人で見慣れた人でさえ、やはり、たいそう格別にお思い申し上げているのに、まして、 どんなにか珍しく思わないことあろうか。お返事を申し上げにくそうに思っているので、いつものように、たいそう慎ましそうにして、  「雲のかかっている山路を秋霧が   ますます隔てているこの頃です」  少し嘆いていらっしゃる様子、並々ならず胸を打つ。  何ほども風情の見えない辺りだが、なるほど、おいたわしいことが多くある中にも、明るくなって行くと、いくら何でも直接顔を合わせる感じがして、  「なまじお言葉を聞いたために、途中までしか聞けなかった思いの多くの残りは、もう少しお親しみになってから、恨み言も申し上げさせていただ きましょう。一方では、このように世間の人並みに、お扱いなさることは、意外にもお分かりにならない方だと、恨めしくて」  と言って、宿直人が準備した西面にいらっしゃって、眺めなさる。  「網代では、人が騒いでいるようだ。けれど、氷魚も寄って来ないのだろうか。景気の悪そうな様子だ」  と、お供の人々は見知っていて言う。  「粗末な幾隻もの舟に、柴を刈り積んで、それぞれ何ということもない生活に、上り下りしている様子に、はかない水の上に浮かんでいるが、誰も 皆考えてみれば同じことである、無常の世だ。自分は水に浮かぶような様でなく、玉の台に落ち着いている身だと、思える世だろうか」と思い続け られずにはいられない。  硯を召して、あちらに申し上げなさる。  「姫君たちのお寂しい心をお察しして   浅瀬を漕ぐ舟の棹の、涙で袖が濡れました  物思いに沈んでいらっしゃることでしょう」  と言って、宿直人にお持たせになった。たいそう寒そうに、鳥肌の立つ顔して持って上る。お返事は、紙の香などが、いいかげんな物では恥ずか しいが、早いのだけをこのような場合は取柄としよう、と思って、  「棹さして何度も行き来する宇治川の渡し守は朝夕の雫に   濡れてすっかり袖を朽ちさせていることでしょう  身まで浮かんで」  と、実に美しくお書きになっていらっしゃた。「申し分なく感じの良い方だ」と、心が惹かれたが、  「お車を牽いて参りました」  と、供人が騒がしく申し上げるので、宿直人だけを召し寄せて、  「お帰りあそばしたころに、きっと参りましょう」  などとおっしゃる。濡れたお召し物は、皆この人に脱ぎ与えなさって、取りにやったお直衣にお召し替えになった。  [第八段 薫、宇治へ手紙を書く]  老人の話が、気にかかって思い出される。思っていたよりは、この上なく優れていて、立派だったご様子が、面影にちらついて、「やはり、思い離 れがたいこの世だ」と、心弱く思い知らされる。  お手紙を差し上げなさる。懸想文めいてではなく、白い色紙で厚ぼったい紙に、筆は念入りに選んで、墨つきも見事にお書きになる。  「ぶしつけなようではないかと、むやみに差し控えまして、話し残したことが多いのも辛いことです。一部お話し申し上げておいたように、今から は、御簾の前も、気安くお許しくださいますように。お山籠もりが済みます日を伺っておきまして、霧に閉ざされた迷いも、晴れることでしょう」  などと、たいそう生真面目にお書きになっている。左近将監である人を、お使いとして、  「あの老人を訪ねて、手紙を渡すように」  とおっしゃる。宿直人が寒そうにしてうろうろしていたのなど、気の毒にお思いやりになって、大きな桧破子のようなものを、たくさん届けさせなさ る。  翌日、あちらのお寺にも差し上げなさる。「山籠もりの僧たち、近頃の嵐には、とても心細く辛いだろうに、そうして籠もっていらっしゃる間のお布施 を、なさらねばならないだろう」とご想像になって、絹、綿など多かった。  ご勤行が終わって、下山なさる朝だったので、修行者たちに、綿、絹、袈裟、法衣など、総じて一領ずつ、いるすべての大徳たちにお与えになる。  宿直人は、お脱ぎ捨てになった、優艷で立派な狩のお召物の、何ともいえない白い綾織物の、柔らかでいいようもなく匂っているのを、そのまま 身に着けて、身は変えることのできないものなので、似つかわしくない袖の香を、会う人ごとに怪しまれたり、褒められたりするのが、かえって身の 置きどころがないのであった。  思いのままに、身を気軽に振る舞うこともきず、とても気持ち悪いまでに、人が驚く匂いを、無くしたいものだと思うが、大層な方の御移り香なの で、洗い捨てることもできないのが、困ったものであるよ。  [第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る]  君は、姫君のお返事が、とてもよく整っていておおようなのを、風情があると御覧になる。父宮にも、「このようにお手紙がありました」などと、女房 たちが申し上げ、御覧に入れると、  「いや、なに。懸想めいてお扱いなさるのも、かえって嫌なことであろう。普通の若い人に似ないご性格のようだから、亡くなった後もなどと、一言 ほのめかしておいたので、そのような気持ちで、心にかけているのだろう」  などとおっしゃるのであった。ご自身も、さまざまなお見舞い品が、山寺にあふれたことなどをおっしゃっているころに、参ろうとお思いになって、 「三の宮が、このように奥まった所に住む女が、会えば見まさりするのは、おもしろいことだろうと、せいぜい想像するだけでおっしゃっているのも、 羨ましがらせて、お気持ちを揉ませ申そう」とお考えになって、のんびりした夕暮に参上なさった。  いつもものように、いろいろなお話をおとり交わしなさる折に、宇治の宮のことを話し出して、見た早朝の様子などを、詳しく申し上げなさると、宮 は、切に興味深くお思いになった。  やはり予想通りであったと、お顔色を見て、ますますお心が動くように話し続けなさる。  「ところで、その来たお返事は、どうしてお見せ下さらなかったのですか。わたしだったなら」とお恨みになる。  「そうです。実にいろいろと御覧になるような一部分さえ、お見せ下さらない。あのあたりは、このようにとても陰気くさい男が、独占していてよい人 とも思えませんので、きっと御覧に入れたい、と存じますが、どうしてお訪ねなさることができましょう。気軽な身分の者こそ、浮気がしたければ、い くらでも相手のいる世の中でございます。人目につかない所では多いようですね。  それ相応に魅力のある女で、物思いして、こっそり住んでいる家々が、山里めいた隠れ処などに、自然といるようでございます。この申し上げるあ たりは、たいそう世間離れした聖ふうで、ごつごつしたようであろうと、長い間、軽蔑しておりまして、耳をさえ、止めませんでした。  ほのかな月光の下で見た通りの器量であったら、十分なものでしょうよ。感じや態度は、それはまた、あの程度なのを、理想的な女とは、思うべ きでしょう」  などと申し上げなさる。  しまいには、本気になってとても憎らしく、「並大抵の女に心を移しそうにない人が、このように深く思っているのを、いい加減なことではないだろ う」と、興味をお持ちになることは、この上なく高まった。  「さらに、またまた、よく様子を探って下さい」  と、相手を勧めなさって、制約あるご身分の高さを、疎ましいまでに、いらだたしく思っていらっしゃるので、おもしろくなって、  「いや、つまらないことでございます。暫くの間も、世の中に執着心を持つまい思っておりますこの身で、ほんの遊びの色恋沙汰も気が引けます が、我ながら抑えかねる気持ちが起こったら、大いに思惑違いのことも、起こりましょう」  と申し上げなさると、  「いや、まあ、大げさな。例によって、物々しい修行者みたいな言葉を、最後まで見てみたいものだ」  と言ってお笑いになる。心の中では、あの老人がちらっと言った話などが、ますます心を騒がせて、何となく物思いがちなのに、心をとめかすこと も、美しいと聞く人のことも、どれほども心に止まらないのだった。   第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る  [第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く]  十月になって、五、六日の間に、宇治へ参られる。  「網代を、この頃は御覧なさい」と、申し上げる人びとがいるが、  「どうして、その蜉蝣とはかなさを争うような身で、網代の側に行こうか」  と、お省きなさって、例によって、たいそうひっそりと出立なさる。気軽に網代車で、かとりの直衣指貫を仕立てさせて、ことさらお召しになってい た。  宮は、お待ち喜びになって、場所に相応しい饗応など、興趣深くなさる。日が暮れたので、大殿油を近くに寄せて、前々から読みかけていらした 経文類の深い意味などを、阿闍梨も下山してもらい、釈義などを言わせなさる。  少しもうとうととなさらずに、川風がたいそう荒々しいうえに、木の葉が散り交う音、水の響きなど、しみじみとした情感なども通り越して、何となく 恐ろしく心細い場所の様子である。  明け方近くになったろうと思う時に、先日の夜明けの様子が思い出されて、琴の音がしみじみと身にしみるという話のきっかけを作り出して、  「前回の、霧に迷わされた夜明けに、たいそう珍しい楽の音を、ちょっと拝聴した残りが、かえっていっそう聞きたく、物足りなく思っております」な どと申し上げなさる。  「美しい色や香も捨ててしまった後は、昔聞いたこともみな忘れてしまいました」  とおっしゃるが、人を召して、琴を取り寄せて、  「まことに似合わなくなってしまった。先導してくれる音に付けて、思い出されようかしら」  と言って、琵琶を召して、客人にお勧めなさる。手に取って調子を合わせなさる。  「まったく、かすかに聞きましたものと同じ楽器とは思われません。お琴の響きからかと、存じられました」  と言って、気を許してお弾きにならない。  「何と、まあ、口の悪い。そのようにお耳にとまるほどの弾き方などは、どこからここまで伝わって来ましょう。ありえない事です」  と言って、琴を掻き鳴らしなさる、実にしみじみとぞっとする程である。一方では、峰の松風が引き立てるのであろう。たいそうおぼつかなく不確か なようにお弾きになって、趣きがある。曲目を一つだけでお止めになった。  [第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引]  「このあたりに、思いがけなく、時々かすかに弾く箏の琴の音は、会得しているのか、と聞くこともございますが、気をつけて聴くことなどもなく、久 しくなってしまったな。気の向くままに、それぞれ掻き鳴らすらしいのは、川波だけが合奏するのでしょう。もちろん、きちんとした拍子なども、身につ いてない、と存じます」と言って、「お弾きなさい」  と、あちらに向かって申し上げなさるが、「思いもかけなかった独り琴を、お聞きになった方さえあるのを、とても未熟だろう」と言って引き籠もって は、すっかりお聞きにならない。何度もお勧め申し上げなさるが、何かと言い逃れなさって、終わってしまったようなので、とても残念に思われる。  この機会にも、このように妙に、世間離れしたように思われて暮らしている様子が、不本意なことだと、恥ずかしくお思いになっていた。  「誰にも何とかして知らせまいと、育てて来たが、今日明日とも知れない寿命の残り少なさに、何といっても、将来長い二人が、落ちぶれて流浪 すること、これだけが、なるほど、この世を離れる際の妨げです」  と、お話しなさるので、おいたわしく拝見なさる。  「特別のお後見、はっきりした形ではございませんでも、他人行儀でなくお思いくださっていただきたく存じます。少しでも長く生きております間 は、一言でも、このようにお引き受け申し上げた旨に、背きますまいと存じます」  などと申し上げなさると、「とても嬉しいこと」と、お思いになりおっしゃる。  [第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く]  そうして、払暁の、宮がご勤行をなさる時に、あの老女を召し出して、お会いになった。  姫君のご後見として伺候させなさっている、弁の君と言った人である。年も六十に少し届かない年齢だが、優雅で教養ある感じがして、話など申 し上げる。  故大納言の君が、いつもずっと物思いに沈み、病気になって、お亡くなりになった様子を、お話し申し上げて泣く様子はこの上ない。  「なるほど、他人の身の上話として聞くのでさえ、しみじみとした昔話を、それ以上に、長年気がかりで、知りたく、どのようなことの始まりだったの かと、仏にも、このことをはっきりとお知らせ下さいと、祈って来た効があってか、このように夢のようなしみじみとした昔話を、思いがけない機会に 聞き付けたのだろう」とお思いになると、涙を止めることができなかった。  「それにしても、このように、その当時の事情を知っている人が生き残っていらっしゃったよ。驚きもし恥ずかしくも思われる話について、やはり、こ のように伝え知っている人が、他にもいるだろうか。長年、少しも聞き及ばなかったが」とおっしゃると、  「小侍従と弁を除いて、他に知る人はございませんでしょう。一言でも、また他人には話しておりません。このように頼りなく、一人前でもない身分 でございますが、昼も夜もあの方のお側に、お付き申し上げておりましたので、自然と事の経緯をも拝見致しましたので、お胸に納めかねていらっ しゃった時々、ただ二人の間で、たまのお手紙のやりとりがございました。恐れ多いことですので、詳しくは存じ上げません。  ご臨終におなりになって、わずかにご遺言がございましたが、このような身には、処置に窮しまして、気がかりに存じ続けながら、どのようにして お伝え申し上げたらよいかと、おぼつかない念誦の折にも、祈っておりましたが、仏はこの世にいらっしゃったのだ、と存じられました。  御覧入れたい物がございます。もう必要がない、いっそ、焼き捨ててしまいましょうか。このように朝夕の露のようにいつ消えてしまうかも分からな い身の上で、放っておきましたら、他人の目にも触れようかと、とても気がかりに存じておりましたが、この邸辺りにも、時々、お立ち寄りになるの を、お待ち申し上げるようになりましてからは、少し頼もしく、このような機会もあろうかと、祈っておりました効が出て参りました。まったく、これは、 この世だけの事ではございません」  と、泣く泣く、こまごまと、お生まれになった時の事も、よく思い出しながら申し上げる。  [第四段 薫、父柏木の最期を聞く]  「お亡くなりになりました騷ぎで、母でございました者は、そのまま病気になって、まもなく亡くなってしまいましたので、ますますがっかり致し、喪 服を重ね重ね着て、悲しい思いを致しておりましたところ、長年、大して身分の良くない男で思いを懸けておりました人が、わたしをだまして、西海 の果てまで連れて行きましたので、京のことまでが分からなくなってしまって、その人もあちらで死んでしまいました後、十年余りたって、まるで別 世界に来た心地で、上京致しましたが、こちらの宮は、父方の関係で、子供の時からお出入りした縁故がございましたので、今はこのように世間づ きあいできる身分でもございませんが、冷泉院の女御様のお邸などは、昔、よくお噂をうかがっていた所で、参上すべく思いましたが、体裁悪く思 われまして、参ることができず、深山奥深くの老木のようになってしまったのです。  小侍従は、いつか亡くなったのでございましょう。その昔の、若い盛りに見えました人は、数少なくなってしまった晩年に、たくさんの人に先立た れた運命を、悲しく存じられながら、それでもやはり生き永らえております」  などと申し上げているうちに、いつものように、夜がすっかり明けた。  「もうよい、それでは、この昔語りは尽きないようだ。また、他人が聞いていない安心な所で聞こう。侍従と言った人は、かすかに覚えているの は、五、六歳の時であったろうか、急に胸を病んで亡くなったと聞いている。このような対面がなくては、罪障の重い身で終わるところであった」など とおっしゃる。  [第五段 薫、形見の手紙を得る]  小さく固く巻き合わせた反故類で、黴臭いのを袋に縫い込んであるのを、取り出して差し上げる。  「あなた様のお手でご処分なさいませ。『わたしは、もう生きていられそうもなくなった』と仰せになって、このお手紙を取り集めて、お下げ渡しにな ったので、小侍従に、再びお会いしました機会に、確かに差し上げてもらおう、と存じておりましたのに、そのまま別れてしまいましたのも、私事な がら、いつまでも悲しく存じられます」  と申し上げる。さりげないふうに、これはお隠しになった。  「このような老人は、問わず語りにも、不思議な話の例として言い出すのだろう」とつらくお思いになるが、「繰り返し繰り返し、他言をしない旨を誓 ったのを、信じてよいか」と、再び心が乱れなさる。  お粥や、強飯などをお召し上がりになる。「昨日は、休日であったが、今日は、内裏の御物忌も明けたろう。冷泉院の女一の宮が、御病気でいら っしゃるお見舞いに、必ず伺わなければならないので、あれこれ暇がございませんが、改めてこの時期を過ごして、山の紅葉が散らない前に参る」 旨を、申し上げなさる。  「このように、しばしばお立ち寄り下さるお蔭で、山の隠居所も、少し明るくなった心地がします」  などと、お礼を申し上げなさる。  [第六段 薫、父柏木の遺文を読む]  お帰りになって、さっそくこの袋を御覧になると、唐の浮線綾を縫って、「上」という文字を表に書いてあった。細い組紐で、口の方を結んである所 に、あのお名前の封が付いていた。開けるのも恐ろしく思われなさる。  色とりどりの紙で、たまに通わしたお手紙の返事が、五、六通ある。それには、あの方のご筆跡で、病が重く臨終になったので、再び短いお便り を差し上げることも難しくなってしまったが、会いたいと思う気持ちが増して、お姿もお変わりになったというのが、それぞれに悲しいことを、陸奥国 紙五、六枚に、ぽつりぽつりと、奇妙な鳥の足跡のように書いて、  「目の前にこの世をお背きになるあなたよりも   お目にかかれずに死んで行くわたしの魂のほうが悲しいのです」  また、端のほうに、  「めでたく聞いております子供の事も、気がかりに存じられることはありませんが、   生きていられたら、それをわが子だと見ましょうが   誰も知らない岩根に残した松の成長ぶりを」  書きさしたように、たいそう乱れた書き方で、「小侍従の君に」と表には書き付けてあった。  紙魚という虫の棲み処になって、古くさく黴臭いけれど、筆跡は消えず、まるで今書いたものとも違わない言葉が、詳細で具体的に書いてあるの を御覧になると、「なるほど、人目に触れでもしたら大変だった」と、不安で、おいたわしい事どもなのである。  「このような事が、この世に二つとあるだろうか」と、胸一つにますます煩悶が広がって、内裏に参ろうとお思いになっていたが、お出かけになるこ とができない。母宮の御前に参上なさると、まったく無心に、若々しいご様子で、読経していらっしゃったが、恥ずかしがって、身をお隠しになった。 「どうして、秘密を知ってしまったと、お気づかせ申そう」などと、胸の中に秘めて、あれこれと考え込んでいらっしゃった。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 注釈 Last updated 7/19/2000 渋谷栄一訳(C)    椎本 薫君の宰相中将時代二十三歳春二月から二十四歳夏までの物語 第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る 1.匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る---二月の二十日ころに、兵部卿宮、初瀬にお参りになる 2.匂宮と八の宮、和歌を詠み交す---土地に相応しい、ご設営などを興趣深く整えて 3.薫、迎えに八の宮邸に来る---中将はお伺いなさる。遊びに夢中になっている公達を誘って 4.匂宮と中の君、和歌を詠み交す---あの宮は、それ以上に気軽に動けないご身分までをも 5.八の宮、娘たちへの心配---宮は、重く身を慎むべきお年なのであった 第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す 1.秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問---宰相中将は、その年の秋に、中納言におなりになった 2.薫、八の宮と昔語りをする---まだ夜明けには遠い月が明るく差し出して、山の端が近い感じがするので 3.薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京---こちらで、あの問わず語りの老女を召し出して 4.八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る---秋が深まって行くにつれて、宮は、ひどく何となく心細く 5.八月二十日、八の宮、山寺で死去---あの勤行なさる念仏三昧は、今日終わることだろうと 6.阿闍梨による法事と薫の弔問---阿闍梨は、長年お約束なさっていたことに従って 第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち 1.九月、忌中の姫君たち---夜の明けない心地のまま、九月になった 2.匂宮からの弔問の手紙---御忌中も終わった。限りがあるので、涙も絶え間があろうかと 3.匂宮の使者、帰邸---お使いは、木幡の山の辺りも、雨降りでとても恐ろしそうだが 4.薫、宇治を訪問---中納言殿へのお返事だけは、あちらからも 5.薫、大君と和歌を詠み交す---お気持ちも、そうはいっても、だんだんと落ち着いて 6.薫、弁の君と語る---引き止めてよい場合でもないので、心残りにいたわしくお思いになる 7.薫、日暮れて帰京---今は泊まるのも落ち着かない気がして、お帰りなさるにも 8.姫君たちの傷心---兵部卿宮に対面なさる時は、まずこの姫君たちの御事を 第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち 1.歳末の宇治の姫君たち---雪や霰が降りしくころは、どこもこのような風の音であるが 2.薫、歳末に宇治を訪問---中納言の君は、「新年は、少しも訪問することができないだろう 3.薫、匂宮について語る---「匂宮が、たいそう不思議とお恨みになることがございましたね 4.薫と大君、和歌を詠み交す---「必ずしもご自身のこととしてお考えになることとも 5.薫、人びとを励まして帰京---「すっかり暮れてしまうと、雪がますます空まで塞いでしまいそうでございます 第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる 1.新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る---年が変わったので、空の様子がうららかになって 2.花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答---花盛りのころ、宮は、「かざし」の和歌を思い出して 3.その後の匂宮と薫---お胸に抑えきれなくなって、ただ中納言を 4.夏、薫、宇治を訪問---その年は、例年よりも暑さを人がこぼすので 5.障子の向こう側の様子---まず、一人が立って出て来て、几帳から覗いて   第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る  [第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る]  二月の二十日ころに、兵部卿宮、初瀬にお参りになる。昔立てた御願のお礼参りであったが、お思い立ちにもならないで数年になってしまったの を、宇治の辺りのご休息宿の興味で、大半の理由は出かける気になられたのであろう。恨めしいと言う人もあった里の名が、総じて慕わしくお思い なされる理由もたわいないことであるよ。上達部がとても大勢お供なさる。殿上人などはさらに言うまでもない、世に残る人はほとんどなくお供申し た。  六条院から伝領して、右の大殿が所有していらっしゃる邸は、川の向こうで、たいそう広々と興趣深く造ってあるので、ご準備をさせなさった。大 臣も、帰途のお迎えに参るおつもりであったが、急の御物忌で、厳重に慎みなさるよう申したというので、参上できない旨のお詫びを申された。  宮は、いささか興をそがれた思いがしたが、宰相中将が、今日のお迎えに参上なさっていたので、かえって気が楽で、あの辺りの様子も聞き伝 えることができようと、ご満足なさった。大臣には、気楽にお会いしがたく、気のおける方とお思い申し上げていらっしゃった。  ご子息の公達の、右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐などは、みなお供なさる。帝、后も特別におかわいがり申されていらっしゃ る宮なので、世間一般のご信望もたいそう限りなく、それ以上に六条院のご縁者方は、次々の人も、みな私的なご主君として、親身にお仕え申し 上げていらっしゃる。  [第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す]  土地に相応しい、ご設営などを興趣深く整えて、碁、双六、弾棊の盤類などを取り出して、思い思いに遊びに一日をお過ごしなさる。宮は、お馴 れにならない御遠出に、疲れをお感じになって、ここに泊まろうとのお考えが強いので、ちょっとご休憩なさって、夕方は、お琴などを取り寄せてお 遊びになる。  例によって、このような世間離れした所は、水の音も引立て役となって、楽の音色もひときわ澄む気がして、あの聖の宮にも、ただ棹一さしで漕ぎ 渡れる距離なので、追い風に乗って来る響きをお聞きになると、昔の事が自然と思い出されて、  「笛がたいそう美しく聞こえてくるなあ。誰であろう。昔の六条院のお笛の音を聞いたのは、それは実に興趣深げな愛嬌ある音色にお吹きになっ たものだ。これは澄み上って、大げさな感じが加わっているのは、致仕の大臣のご一族の笛の音に似ているな」などと、独り言をおっしゃる。  「ああ、何と昔になってしまったことよ。このような遊びもしないで、生きているともいえない状態で過ごしてきた年月が、それでも多く積もったと は、ふがいないことよ」  などとおっしゃる折にも、姫君たちのご様子がもったいなく、「このような山中に引き止めたままにはしたくないものだ」とついお思い続けになられ る。「宰相の君が、同じことなら近い縁者としたい方だが、そのようには考えるわけには行かないようだ。まして近頃の思慮の浅いような人を、どうし て考えられようか」などとお考え悩まれ、所在なく物思いに耽っていらっしゃる所は、春の夜もたいへん長く感じられるが、打ち興じていらっしゃる旅 寝の宿は、酔いの紛れにとても早く夜が明けてしまう気がして、物足りなく帰ることを、宮はお思いになる。  はるばると霞わたっている空に、散る桜があると思うと今咲き始めるのなどもあり、色とりどりに見渡されるところに、川沿いの柳が風に起き臥し 靡いて水に映っている影などが、並々ならず美しいので、見慣れない方は、たいそう珍しく見捨てがたいとお思いになる。  宰相は、「このような機会を逃さず、あの宮に伺いたい」とお思いになるが、「大勢の人目を避けて独り舟を漕ぎ出しなさるのも軽率ではないか」と 躊躇していらっしゃるところに、あちらからお手紙がある。  「山風に乗って霞を吹き分ける笛の音は聞こえますが   隔てて見えますそちらの白波です」  草仮名でたいそう美しくお書きなっていた。宮、「ご関心の所からの」と御覧になると、たいそう興味深くお思いになって、「このお返事はわたしが しよう」と言って、  「そちらとこちらの汀に波は隔てていても   やはり吹き通いなさい宇治の川風よ」  [第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る]  中将はお伺いなさる。遊びに夢中になっている公達を誘って、棹さしてお渡りになるとき、「酣酔楽」を合奏して、水に臨んだ廊に造りつけてある階 段の趣向などは、その方面ではたいそう風流で、由緒ある宮邸なので、人びとは気をつけて舟からお下りになる。  ここはまた、趣が違って、山里めいた網代屏風などで、格別に簡略にして、風雅なお部屋のしつらいを、そのような気持ちで掃除し、たいそう心づ かいして整えていらっしゃった。昔の、楽の音などまことにまたとない弦楽器類を、特別に用意したようにではなく、次々と弾き出しなさって、壱越調 に変えて、「桜人」を演奏なさる。  主人の宮の、お琴をこのような機会にと、人びとはお思いになるが、箏の琴を、さりげなく、時々掻き鳴らしなさる。耳馴れないせいであろうか、 「たいそう趣深く素晴らしい」と若い人たちは感じ入っていた。  土地柄に相応しい饗応を、たいそう風流になさって、はたから想像していた以上に、かすかに皇族の血筋を引くといった素性卑しからぬ人びとが 大勢、王族で、四位の年とった人たちなどが、このように大勢客人が見える時にはと、以前からご同情申し上げていたせいか、適当な方々が皆参 上し合って、瓶子を取る人もこざっぱりしていて、それはそれとして古風で、風雅にお持てなしなさった。客人たちは、宮の姫君たちが住んでいらっ しゃるご様子、想像しながら、関心を持つ人もいるであろう。  [第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す]  あの宮は、それ以上に気軽に動けないご身分までをも、窮屈にお思いであるが、せめてこのような機会にでもと、たまらなくお思いになって、美し い花の枝を折らせなさって、お供に控えている殿上童でかわいい子を使いにして差し上げなさる。  「山桜が美しく咲いている辺りにやって来て   同じこの地の美しい桜を插頭しに手折ったことです  野が睦まじいので」  とでもあったのであろうか。「お返事は、とてもできない」などと、差し上げにくく当惑していらっしゃる。  「このような時のお返事は、特別なふうに考えて、時間をかけ過ぎるのも、かえって憎らしいことでございます」  などと、老女房たちが申し上げるので、中の君にお書かせ申し上げなさる。  「插頭の花を手折るついでに、山里の家は   通り過ぎてしまう春の旅人なのでしょう  わざわざ野を分けてまでもありますまい」  と、たいそう美しく、上手にお書きになっていた。  なるほど、川風も隔て心をおかずに吹き通う楽の音を、面白く合奏なさる。お迎えに、藤大納言が、勅命によって参上なさった。人びとが大勢参集 して、何かと騒がしくして先を争ってお帰りになる。若い人たちは、物足りなく、ついつい後を振り返ってばかりいた。宮は、「また何かの機会に」と お思いになる。  花盛りで、四方の霞も眺めやる見所があるので、漢詩や和歌も、作品が多く作られたが、わずらわしいので詳しく尋ねもしないのである。  何かと騒々しくて、思うようにも意を尽くして言いやることもできずじまいだったことを、残念に宮はお思いになって、手引なしでもお手紙は常にある のだった。宮も、  「やはり、お返事は差し上げなさい。ことさら懸想文のようには扱うまい。かえって心をときめかさせることになってしまいましょう。たいそう好色の 親王なので、このような姫がいる、とお聞きになると、放っておけないと思うだけの戯れ事なのでしょう」  と、お促しなさる時々、中の君がお返事申し上げなさる。姫君は、このようなことは、冗談事にもご関心のないご思慮深さである。  いつとなく心細いご様子で、春の日長の所在なさは、ますます過ごしがたく物思いに耽っていらっしゃる。ご成長なさったご容姿器量も、ますます 優れ、申し分なく美しいのにつけても、かえっておいたわしく、「不器量であったら、もったいなく、惜しいなどの思いは少なかったろうに」などと、明 け暮れお悩みになる。  姉君は二十五歳、中の君は二十三歳におなりであった。  [第五段 八の宮、娘たちへの心配]  宮は、重く身を慎むべきお年なのであった。何となく心細くお思いになって、ご勤行を例年よりも弛みなくなさる。この世に執着なさっていないの で、死出の旅立ちの用意ばかりをお考えなので、極楽往生も間違いないお方だが、ただこの姫君たちの事に、たいそうお気の毒で、この上ない道 心の強さだが、「かならず、今が最期とお見捨てなさる時のお気持ちは、きっと乱れるだろう」と、拝する女房もご推察申し上げるが、お思いの通り ではなくても、並に、それでも人聞きの悪くなく、世間から認めてもらえる身分の人で、真実に後見申し上げよう、などと、思ってくれる方がいたら、 知らぬ顔をして黙認しよう、一人一人が人並みに結婚する縁があったら、その人に譲って安心もできようが、そこまで深い心で言い寄る人はいな い。  時たまちょっとしたきっかけで、懸想めいたことを言う人は、まだ年若い人の遊び心で、物詣での中宿りや、その往来の慰み事に、それらしいこと を言っても、やはり、このように落ちぶれた様子などを想像して、軽んじて扱うのは、心外なので、なおざりの返事をさえおさせにならない。三の宮 は、やはりお会いしないではいられないとのお思いが深いのであった。前世からの約束事でいらしたのであろうか。   第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す  [第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問]  宰相中将は、その年の秋に、中納言におなりになった。ますますご立派におなりになる。公務が多忙になるにつけても、お悩みになることが多か った。どのような事かと、気がかりに思い続けてきた往年よりも、おいたわしくお亡くなりになったという故人の様子が思いやられるので、罪障が軽 くおなりになる程の、勤行もしたく思う。あの老女をもお気の毒な人とお思いになって、目立ってではなく、何かと紛らわし紛らわししては、好意を寄 せお見舞いなさる。  宇治に参らず久しくなってしまったのを、思い出してご訪問なさった。七月ごろになってしまったのだ。都ではまだ訪れない秋の気配を、音羽山近 くの、風の音もたいそう冷やかで、槙の山辺もわずかに色づき初めて、やはり山路に入ると、趣深く珍しく思われるが、宮はそれ以上に、いつもより お待ち喜び申し上げなさって、今回は、心細そうな話を、たいそう多く申し上げなさる。  「亡くなった後、この姫君たちを、何かの機会にはお尋ね下さり、お見捨てにならない中にお数え下さい」  などと、意中をそれとなく申し上げなさると、  「一言なりとも先に承っておりましたので、決して疎かには致しません。現世に執着しまいと、係累を持たないでおります身なので、何事も頼りが いのなく将来性のない身でございますが、そのようなふうでしても生き永らえておりますうちは、変わらない気持ちを御覧になっていただこうと存じ ます」  などと申し上げなさると、嬉しくお思いになった。  [第二段 薫、八の宮と昔語りをする]  まだ夜明けには遠い月が明るく差し出して、山の端が近い感じがするので、念誦をたいそうしみじみと唱えなさって、昔話をなさる。  「最近の世の中は、どのようになったのでしょうか。宮中などでは、このような秋の月の夜に、御前での管弦の御遊の時に伺候する人達の中で、 楽器の名人と思われる人びとばかりが、それぞれ得意の楽器を合奏しあった調子などは、仰々しいのよりも、嗜みがあると評判の女御、更衣の御 局々が、それぞれは張り合っていて、表面的な付き合いはしているようで、夜更けたころの辺りが静まった時分に、悩み深い風情に掻き調べ、か すかに流れ出た楽の音色などが、聞きどころのあるのが多かったな。  何事につけても、女性というのは、慰み事の相手にちょうどよく、何となく頼りないものの、人の心を動かす種であるのでしょう。それだから、罪が 深いのでしょうか。子を思う道の闇を思いやるにも、男の子は、それほども親の心を乱さないであろうか。女の子は、運命があって、何とも言いよう がないと諦めてしまうような場合でも、やはり、とても気にかかるもののようです」  などと、一般論としておっしゃるが、どうしてそのようにお思いにならないことがあろうか、おいたわしく推察される宮のご心中である。  「すべて、ほんとうに、先程申し上げましたようにすべてこの世の事は執着を捨ててしまったせいでしょうか、自分自身のことは、どのようなこととも 深く分かりませんが、なるほどつまらないことですが、音楽を愛する心だけは、捨てることができません。賢く修業する迦葉も、そうですから、立って 舞ったのでございましょう」  などと申し上げて、名残惜しく聞いたお琴の音を、切にご希望なさるので、親しくなるきっかけにでもとお思いになってか、ご自身はあちらにお入り になって、切にお勧め申し上げなさる。箏の琴を、とてもかすかに掻き鳴らしてお止めになった。常にもまして人の気配もなくひっそりとして、しみじ みとした空の様子、場所柄から、ことさらでない音楽の遊びが心にしみて興趣深く思われるが、気を許してどうして合奏なさろうか。  「自然とこれくらい引き合わせた後は、若い者同士にお任せ申そう」 Last updated 11/8/98 渋谷栄一訳(C)   総角 薫君の中納言時代24歳秋から歳末までの物語 1 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ 1.秋、八の宮の一周忌の準備---何年も耳馴れなさった川風も、今年の秋は 2.薫、大君に恋心を訴える---御願文を作り、経や仏の供養なさる心づもりなどを 3.薫、弁を呼び出して語る---てきぱきと一人前に振る舞っても、どうして賢くことをお決めになれようかと 4.薫、弁を呼び出して語る(続き)---「もともと、このように人と違っていらっしゃるお二方のご性格 5.薫、大君の寝所に迫る---今夜はお泊まりになって、お話などをのんびりと 6.薫、大君をかき口説く---このように心細くひどいお住まいで、好色の男は 7.実事なく朝を迎える---いつのまにか夜明け方になってしまった。お供の人びとが起きて 8.大君、妹の中の君を薫にと思う---姫宮は、女房がどう思っているだろうかと気が引けるので 2 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる 1.一周忌終り、薫、宇治を訪問---御服喪などが終わって、お脱ぎ捨てになったのにつけても 2.大君、妹の中の君に薫を勧める---姫宮、その様子を深くご存知ないが 3.薫は帰らず、大君、苦悩す---日が暮れて行くのに、客人はお帰りにならない。姫宮は、とても困ったことだとお思いになる 4.大君、弁と相談する---姫宮、お困りになって、弁が参ったのでおっしゃる 5.大君、中の君を残して逃れる---中の宮も、ひとごとながらおいたわしいご様子だわと 6.薫、相手を中の君と知る---中納言は、独り臥していらっしゃるのを、そのつもりでいたのかと 7.翌朝、それぞれの思い---弁が参って、「ほんとうに不思議に、中の宮は、どこに 8.薫と大君、和歌を詠み交す---姫宮も、「どうしたことだ、もしいい加減な気持ちが 3 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚 1.薫、匂宮を訪問---三条宮邸が焼けた後は、六条院に移っていらっしゃったので 2.彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う---二十八日が、彼岸の終わりの日で、吉日だったので 3.薫、中の君を匂宮にと企む---「これこれです」と申し上げると、「そうであったか、思いが変わったのだわ 4.薫、大君の寝所に迫る---「今はもう言ってもしかたありません。お詫びの言い訳は、何度 5.薫、再び実事なく夜を明かす---いつもの、明けゆく様子に、鐘の音などが聞こえる 6.匂宮、中の君へ後朝の文を書く---宮は、早々と後朝のお手紙を差し上げなさる 7.匂宮と中の君、結婚第二夜---その夜も、あの道案内をお誘いになったが、「冷泉院に 8.匂宮と中の君、結婚第三夜---「三日に当たる夜は、餅を召し上がるものです」と女房たちが申し上げるので 4 中の君の物語 匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る 1.明石中宮、匂宮の外出を諌める---宮は、その夜、内裏に参りなさって 2.薫、明石中宮に対面---中宮の御方に参上なさると、「宮はお出かけになったそうな 3.女房たちと大君の思い---あちらでは、中納言殿が仰々しく 4.匂宮と中の君、朝ぼらけの宇治川を見る---匂宮は、めったにないお暇のほどを 5.匂宮と中の君和歌を詠み交して別れる---お供の者たちがひどく咳払いをしてお促し申し上げるので 6.9月10日、薫と匂宮、宇治へ行く---九月十日のころなので、野山の様子も 7.薫、大君に対面、実事なく朝を迎える---宮を、場所柄によって、とても特別に丁重にお迎え入れ 8.匂宮、中の君を重んじる---無理を押してお越しになって、長くもいずにお帰りになるのが 5 大君の物語 匂宮たちの紅葉狩り 1.10月1日頃、匂宮、宇治に紅葉狩り---十月上旬ごろ、網代もおもしろい時期だろうと 2.一行、和歌を唱和する---今日は、このままとお思いになるが、また、宮の大夫 3.大君と中の君の思い---あちらでは、お素通りになってしまった様子を、遠くなるまで 4.大君の思い---「わたしも生き永らえたら、このようなことをきっと経験する 5.匂宮の禁足、薫の後悔---宮は、すぐその後、いつものように人目に隠れてとご出立なさったが 6.時雨降る日、匂宮宇治の中の宮を思う---時雨がひどく降ってのんびりとした日 6 大君の物語 大君の病気と薫の看護 1.薫、大君の病気を知る---お待ち申し上げていらっしゃる所では、長く訪れのない気がして 2.大君、匂宮と六の君の婚約を知る---翌朝、「少しはよくなりましたか 3.中の君、昼寝の夢から覚める---夕暮の空の様子がひどくぞっとするほど時雨がして 4.10月の晦、匂宮から手紙が届く---たいそう暗くなったころに、宮からお使いが来る 5.薫、大君を見舞う---中納言も、「思ったよりは軽いお心だな 6.薫、大君を看護する---暮れたので、「いつもの、あちらの部屋に」と申し上げて 7.阿闍梨、八の宮の夢を語る---不断の読経の、明け方に交替する声がたいそう尊いので 8.豊明の夜、薫と大君、京を思う---宮が夢に現れなさった様子をお考えになると 9.薫、大君に寄り添う---ただ、こうしておいでになるのを頼みに、皆がお思い申し上げていた 7 大君の物語 大君の死と薫の悲嘆 1.大君、もの隠れゆくように死す---「とうとう捨てて逝っておしまいになったら、この世に少しも 2.大君の火葬と薫の忌籠もり---中納言の君は、そうはいっても、まさかこんなことにはなるまい 3.七日毎の法事と薫の悲嘆---とりとめもなく幾日も過ぎてゆく。七日毎の法事も 4.雪の降る日、薫、大君を思う---雪が烈しく降る日、一日中物思いに沈んで 5.匂宮、雪の中、宇治へ弔問---「自分のせいで、つまらない心配をおかけ 6.匂宮と中の君、和歌を詠み交す---夜の様子は、ますます烈しい風の音に、自分のせいで 7.歳暮に薫、宇治から帰京---年の暮方では、こんな山里でなくても、空の模様が   1 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ  [1-1 秋、八の宮の一周忌の準備]  何年も耳馴れなさった川風も、今年の秋はとても身の置き所もなく悲しくて、一周忌の法要をご準備なさる。一通りの必要なことどもは、中納言殿 と、阿闍梨などがご奉仕なさったのであった。こちらでは法服のこと、経の飾りや、こまごまとしたお仕事を、女房が申し上げるのに従ってご準備な さるのも、まことに頼りなさそうにお気の毒で、「このような他人のお世話がなかったら」と見えた。  ご自身でも参上なさって、今日を限りに喪服をお脱ぎになるときのお見舞いを、丁重に申し上げなさる。阿闍梨もここちらに参上していた。名香の 糸を引き散らして、「こうして過ごして来たことよ」などと、お話しなさっている時であった。結び上げた糸繰り台が、御簾の端から、几帳の隙間を通し て見えたので、そのことだと察して、「わたしの涙を玉にして糸に通して下さい」と口ずさんでいらっしゃるのは、伊勢の御もこうであったろうと、興深 くお思い申し上げるにつけても、内側の人は、知ったかぶりにお返事申し上げなさるようなのも遠慮されて、「糸ではないのに」とか、「貫之が生き ていての別れでさえ、心細いものとして詠んだというのも」などと、なるほど古歌は、人の心を晴らすよすがであったのをお思い出しなさる。  [1-2 薫、大君に恋心を訴える]  御願文を作り、経や仏の供養なさる心づもりなどをお書き出しなさる筆のついでに、客人が、  「総角に末長い契りを結びこめて   一緒になって会いたいものです」  と書いて、お見せ申し上げなさると、いつもの、と煩わしいが、  「貫き止めることもできないもろい涙の玉の緒に   末長い契りをどうして結ぶことができましょう」  とあるので、「一緒になれなかったら生きている甲斐もありません」と、恨めしそうに物思いにお耽りになる。  ご自身のお身の上については、このように何とはなしに話をそらせて相手をなさらないので、すらすらと意中を申し上げることもできず、宮のご執 心を真面目に申し上げなさる。  「それ程までご執心でないことを、このようなことに少し積極的でいらっしゃるご性格で、一度申し出されては後に引かない意地からかと、あれや これやと、十分にお気持ちをお探り申し上げております。ほんとうに不安なようではありませんので、どうしてこのようにむやみに、お避けになるの でしょう。  男女の仲の様子などを、ご存知でないようには拝見しませんのに、いやに、よそよそしくばかりおあしらいなさるので、これほど心から信頼申し上 げている気持ちと違って、恨めしい気がします。どのようにお考えになっているのかなどを、はっきりとお聞き致したいものですね」  と、たいそう真面目になって申し上げなさるので、  「お気持ちに背くまいとの気持ちなればこそ、こうしてまでおかしな世間の例にもなる状態で、隔てなくお相手しているのでございます。それをお 分かりにならなかったことこそ、浅い気持ちがあるような気がします。おっしゃるように、このような住まいなどに、情けの深い人は、ありたけの物思 いをし尽くすでしょうが、何事にも後れて育ちましたので、このおっしゃるような方面は、故人も、一向に何一つ、こういう場合にはああいう場合には などと、将来のことを予想して、おっしゃっておくこともなかったので、やはり、このような状態で、世間並みの生活を諦めるようお考え置きであった、 と思い合わされますので、何ともお答え申し上げようがなくて。一方では、少し生い先長い年頃で、山奥暮らしはお気の毒にお見えになるお身の上 を、まことにこのように枯木にはさせたくないものだと、人知れず面倒見ずにはいられなく思っているのですが、どのようになる縁なのでしょうか」  と、嘆息して途方に暮れていらっしゃったときの様子、たいそうおいたわしく感じられる。  [1-3 薫、弁を呼び出して語る]  てきぱきと一人前に振る舞っても、どうして賢くことをお決めになれようかと、もっともに思われて、いつものように、老女を召し出して相談なさる。  「今までは、ただ来世の事を願う気持ちで参っておりましたが、何となく心細そうにお思いであったようなご晩年に、この姫君たちのことを、考え通 りにお世話申し上げるようにおっしゃり約束したのですが、お考え置き申されたご様子とは違って、お二人の気持ちが、とてもとても困ったことに強 情なのは、どのようにお考え置きになっていた人が別であったのかと、疑わしくまで思われます。  自然とお聞き及びになっていることもありましょう。とても妙な性質で、世の中に執着することはなかったが、前世からの因縁でしょうか、こんなに までお親しみ申したのでしょう。世間の人もだんだんと噂するらしくもあるから、同じことなら故人のご遺言にお背き申さず、わたしも姫君も、世間の 普通の男女のように心をお交わし申したい、と思い寄りましたのは、不似合いなことであっても、そのような例もないわけではありません」  などとおっしゃり続けて、  「宮のお身の上を、このように申し上げるのに、不安でないと、気をお許しにならないご様子なのは、内々で、やはり他にお考えの人がいるのでし ょうか。さあ、どうなのですか、どうなのですか」  と嘆きながらおっしゃるので、いつもの、良くない女房連中などは、このようなことには、憎らしいおせっかいを言って、調子を合わせたりなどするよ うであるが、まったくそうではなく、心の中では、「理想的なお二人方の縁談だわ」と思うが、  [1-4 薫、弁を呼び出して語る(続き)]  「もともと、このように人と違っていらっしゃるお二方のご性格のせいでしょうか、どうしてもどうしても、世間の普通の人のように、何やかやと世間 並みの結婚を、お考えになっていらっしゃるご様子でございません。  こうして、仕えております誰彼も、今まででさえ、何の頼りになる庇護もございませんでした。身を捨てがたく思う者たちだけは、身分身分に応じて 暇をもらって離れ去り、昔からの古い縁故の人も、多くはお見限り申した邸に、まして今では、立ち止まりがたそうに困り合っておりまして、ご在世 中にこそ、格式もあって、不釣合なご結婚は、お気の毒だわなどと、昔気質の律儀さから、おためらいになっていました。  今では、このように、他に頼りのいないお身の上の方たちで、どのようにもどのようにも、成り行き次第に身を任せなさるのを、むやみに悪口を申 し上げるような人は、かえって物の道理を知らず、言いようもないことでしょう。どのような人が、まことにこうして一生をお送りなさることができましょ うか。  松の葉を食べて修業する山伏でさえ、生きている身の捨て難いことによって、仏のお教えも、それぞれの流派をつくって行っている、などというよ うな、よくないことをご忠告申し上げ、若いお二方のお気持ちがお迷いになることが多くございますようですが、志操を曲げようともなさらず、中の宮 を、何とか一人前にして差し上げたい、とお思い申し上げていらっしゃるようでございます。  このように山奥にお訪ね申し上げなさるようなお志の、幾年もお世話していただくご行為に対しても、親しくお思い申し上げなさって、今ではあれ やこれやと、こまごまとした方面のこともご相談申し上げていらっしゃるようで、あの御方を、おっしゃるようお望み申してくださるならば、とお思いの ようです。  宮のお手紙などがございますようなのは、全然真剣な気持ちからではあるまい、とお考えのようです」  と申し上げると、  「おいたわしいご遺言を聞きおき、露の世に生きている限りは、お付き合いを願いたいとの気持ちなので、どちらの方とご一緒になっても、同じこと になるでしょうが、そのようにまで、お考えになっているというのは、まことに嬉しいことですが、心の惹かれる方は、これほど捨て切った世なのです が、やはり執着してしまうものなので、今さらそのようには考え改められません。世間並みのあだっぽい恋ではないのですよ。  ただこのような物を隔てて、言い残した状態でなく、差し向かいで、とにもかくにも無常の世の話を、隔て心なく申し上げて、お隠しになるお心の中 をすっかり打ち明けてお相手してくださるなら、兄弟などのように親しい人もなくて、とても淋しいので、世の中の思うことの、しみじみとしたこと、お もしろいこと、悲しいことも、その時々の思いを、胸一つに収めて過ごしてきた身の上なので、何と言っても頼りなく思われるので、親しくお頼み申し 上げるのです。  后の宮は、親しく、そのように何ということなく思いのままのこまごまとしたことを、申し上げられる方ではありません。三条の宮は、母親と申し上 げるほどでもないお若々しさですが、分限がありますので、気安くお親しみ申し上げることはできません。その他の女性は、すべてたいそう疎々し く、気が引けて恐ろしく思われて、自ら求めて結婚相手もなく心細いのです。  いい加減な好き心からも、懸想めいたことは、とても気恥ずかしくて性に合わず、体裁悪い不器用さで、まして心に思い詰めている方のことは、口 に出すのも難しくて、恨めしくも鬱陶しくもお思い申し上げる様子をさえ見ていただけないのは、自分ながらこの上なく愚かしいことだ。宮のお事を も、悪くお計らい申し上げまいと、お任せ下さいませんか」  などとおっしゃっていた。老女は、老女で、これほど心細いので、理想的なご様子を、とても切に、そうして差し上げたいと思うが、どちらも気恥ず かしいご様子の方々なので、思いのままには申し上げられない。  [1-5 薫、大君の寝所に迫る]  今夜はお泊まりになって、お話などをのんびりと申し上げたくて、ぐずぐずして日をお暮らしになった。はっきりとではないが、何か恨みがましいご 様子、だんだんと無性に昂じて行くので、厄介になって、気を許してお話し申し上げることも、ますますつらいけれど、全体的にはめったにいない親 切なご性格の方なので、ひどくすげないお扱いもできなくて、面会なさる。  仏のいらっしゃる間の中の戸を開けて、御燈明の光を明るく照らさせて、簾に屏風を添えておいでになる。外の間にも大殿油を差し上げるが、「疲 れて無作法なので。丸見えでは」などと制止して、横に臥せっていらっしゃった。果物などを、特別なふうにではなく整えて差し上げさせなさった。  お供の人びとにも、風流なお肴などをお出させなさった。廊のような所に集まって、こちらの御前は人の気配を遠ざけて、しみじみとお話申し上げ なさる。気をお許しになるはずもないものの、優しそうに愛嬌がおありで、物をおっしゃる様子が、一方ならず心に染みいって、胸が切なくなるのもた わいない。  このように何でもない隔て物だけを障害にして、もどかしく思っては過ごしてきた不器用さが、「あまりにも馬鹿らしいな」と思い続けられるが、さり げなく平静を装って、世間一般の事柄を、しみじみと興味を惹くように、いろいろとおもしろくたくさんお話し申し上げなさる。  内側では、「女房たち、近くに」などとおっしゃっておいたが、「そんなにも、よそよそしくなさらないで欲しい」と思っているようなので、たいしてお守 り申さず、尻ごみ尻ごみしながら、皆寄り臥して、仏の御燈明を明るくする人もいない。何となく気づまりで、こっそりと人をお呼びになるが、目を覚 まさない。  「気分が悪く、苦しうございますので、少し休んで、明け方に再びお話し申し上げましょう」  と言って、お入りになろうとする様子である。  「山路を分け入って来ましたわたしは、あなた以上にとても苦しいのですが、このようにお話し申し上げたりお聞きしたりすることによって慰められ ております。わたしを捨ててお入りになったら、たいそう心細いでしょう」  と言って、屏風を静かに押し開けてお入りになった。たいそう気味悪くて、半分程お入りになったところ、引き止められて、ひどく悔しく気にくわない ので、  「隔てなくとは、このようなことを言うのでしょうか。変なことですね」  と、非難なさる様子が、ますます魅力的なので、  「隔てない心を全然お分かりでないので、お教え申し上げましょうとね。変なことだとも、どのようなことに、お考えなのでしょうか。仏の御前で誓言 も立てましょう。嫌な、お恐がりなさるな。お気持ちを損ねまいと初めから思っておりますので。他人はこのようにも推量して思うまいでしょうが、世 間の人と違った馬鹿正直者で通しておりますからね」  と言って、奥ゆかしいほどの火影で、御髪がこぼれかかっているのを、掻きやりながら御覧になると、姫君のご様子は、申し分なくつやつやと美し い。  [1-6 薫、大君をかき口説く]  このように心細くひどいお住まいで、好色の男は邪魔者もないのだが、「自分以外に訪ねて来る人もあったら、そのままにしておくだろうか。どん なに残念なことだろうに」と、将来はもちろんのこと今までの優柔不断さまで、不安に思われなさるが、言いようもなくつらいと思ってお泣きになるご 様子が、たいそうおいたわしいので、「このようにではなく、自然と心がとけてこられる時もきっとあるだろう」と思い続ける。  無理やり迫るのも気の毒なので、体裁よくおなだめ申し上げなさる。  「このようなお気持ちとは思いよらず、不思議なほど親しくさせて頂いたことを、不吉な喪服の色など、見ておしまいになられる思いやりの浅さに、 また自分自身の言いようのなさも思い知らされるので、あれこれと気の慰めようもありません」  と恨んで、何の用意もなく質素な喪服でいらっしゃる墨染の火影を、とても体裁悪くつらいと困惑していらっしゃった。  「まことにこのようにまでお嫌いになるわけもあるのかと、恥ずかしくて、申し上げようもありません。喪服の色を理由になさるのも、もっともなことで すが、長年お親しみなさったお気持ちの表れとしては、そのような憚らねばならないような、今始まったような事のようにお思いなさってよいものでし ょうか。かえってなさらなくてもよいご分別です」  と言って、あの琴の音を聴いた有明の月の光をはじめとして、季節折々の思う心の堪えがたくなってゆく有様を、たいそうたくさん申し上げなさる と、「気恥ずかしいことだわ」と疎ましく思って、「このような気持ちでありながら何喰わぬ顔で真面目顔していらっしゃっのだわ」と、お聞きになること が多かった。  お側にある低い几帳を、仏の方に立てて隔てとして、形ばかり添い臥しなさった。名香がたいそう香ばしく匂って、樒がとても強く薫っている様子 につけても、人よりは格別に仏を信仰申し上げていらっしゃるお心なので、気が咎めて、服喪中の今、折もあろうに堪え性もないようで、軽率にも、 当初の気持ちと違ってしまいそうなので、このような喪中が明けたころに、姫君のお気持ちも、「そうはいっても少しはお緩みになるだろう」などと、 つとめて気長に思いなしなさる。  秋の夜の様子は、このような場所でなくてさえ、自然としみじみとしたことが多いのに、まして峰の嵐も籬の虫の音も、心細そうにばかり聞きわた される。無常の世のお話に、時々お返事なさる様子、実に見ごたえのある点が多く無難である。眠たそうにしていた女房たちは、「こうなったのだ わ」と、様子を察して皆下がってしまった。  父宮がご遺言なさったことなどをお思い出しなさると、「なるほど、生き永らえると、意外なこのようなとんでもない目に遭うものだわ」と、何もかも 悲しくて、水の音に流れ添う心地がなさる。  [1-7 実事なく朝を迎える]  いつのまにか夜明け方になってしまった。お供の人びとが起きて合図をし、馬どもが嘶く声も、旅の宿の様子など供人が話していたのを、ご想像 されて、おもしろくお思いになる。光が見えた方面の障子を押し開けなさって、空のしみじみとした様子を一緒に御覧になる。女も少しいざり出でな さったが、奥行きのない軒の近さなので、忍草の露もだんだんと光が見えて行く。お互いに実に優美な姿態、容貌を、  「何というのではなくて、ただこのように月や花を、同じような気持ちで愛で、無常の世の有様を話し合って、過ごしたいものですね」  と、たいそう親しい感じでお語らい申されると、だんだんと恐ろしさも慰められて、  「このように面と向かっての体裁の悪い恰好でなく、何か物を隔ててなどしてお答え申し上げるならば、ほんとうに心の隔てはまったくないのです が」  とお答えなさる。  明るくなってゆき、群鳥が飛び立ち交う羽風が近くに聞こえる。まだ暗いうちの朝の鐘の音がかすかに響く。「今は、とても見苦しいですから」と、 とても無性に恥ずかしそうにお思いになっていた。  「事あり顔に朝露を分けて帰ることはできません。また、人はどのように推量申し上げましょうか。いつものように穏便にお振る舞いになって、ただ 世間一般と違った問題として、今から後も、ただこのようにしてくださいませ。まったく不安なことはないとお思いください。これほど一途に思い詰め る心のうちを、いじらしいとお分かりくださらないのは効ないことです」  と言って、お帰りなるような様子もない。あきれて、見苦しいことと思って、  「今から後は、そのようなことなので、仰せの通りにいたしましょう。今朝は、またお願い申し上げていることを聞いてくださいませ」  と言って、ほんとうに困ったとお思いなので、  「ああ、つらい。暁の別れだ。まだ経験のないことなので、なるほど、迷ってしまいそうだ」  と嘆きがちである。鶏も、どこのであろうか、かすかに鳴き声がするので、京が自然と思い出される。  「山里の情趣が思い知られます鳥の声々に   あれこれと思いがいっぱいになる朝け方ですね」  女君、  「鳥の声も聞こえない山里と思っていましたが   人の世の辛さは後を追って来るものですね」  障子口までお送り申し上げなさって、昨夜入った戸口から出て、お臥せりになったが、眠ることはできない。名残惜しくて、「ほんとにこのようにせ つなく思うのだったら、幾月も今までのんびりと構えていられなかったろうに」などと、帰ることを億劫に思われなさる。  [1-8 大君、妹の中の君を薫にと思う]  姫宮は、女房がどう思っているだろうかと気が引けるので、すぐには横におなりになれず、頼みにする親もなくて世の中を生きてゆく身の上のつら さを、仕えている女房連中も、つまらない縁談の事を何やかやと、次々に従って言い出すようだから、「望みもしない結婚になってしまいそうだ」と思 案なさる一方で、  「この人のご様子や態度が、疎ましくはなさそうだし、故宮も、そのような気持ちがあったらと、時々おっしゃりお考えのようだったが、自分自身 は、やはりこのように独身で過ごそう。自分よりは容姿も容貌も盛りで惜しい感じの中の宮を、人並みに結婚させたほうが嬉しいだろう。妹の身の 上のことなら、心の及ぶ限り後見しよう。自分の身の世話は、他に誰が見てくれようか。  この人のお振舞が、いい加減ででたらめならば、このように親しんできた年月のせいで、気を緩める気持ちもありそうなのだが、立派すぎて近づき がたい感じなのも、かえってひどく気後れするので、自分の人生はこうして独身で終えよう」  と思い続けて、つい声を立てて泣き泣き夜を明かしなさったが、そのため気分がとても悪いので、中の宮が臥していらっしゃった奥の方に添ってお 臥せりになる。  いつもと違って、女房がささやいている様子が変だと、この宮はお思いになりながら寝ていらっしゃったが、こうしていらっしゃったので、嬉しくて、 御衣を引き掛けて差し上げなさると、御移り香が隠れようもなく、薫ってくる感じがするので、宿直人がもてあましていたことが思い合わされて、「ほ んとうなのだろう」と、お気の毒に思って、眠ってしまったようにして何もおっしゃらない。  客人は、弁のおもとを呼び出しなさって、こまごまと頼みこんで、ご挨拶をしかつめらしく申し上げおいてお出になった。総角の歌を戯れの冗談に とりなしても、自分から、「一尋ほどの隔てはあったにしてもお会いしたものと、この君もお思いだろう」と、ひどく恥ずかしいので、気分が悪いといっ て、一日中横になっていらっしゃった。女房たちは、  「法事までの日数が少なくなりました。しっかりと、ちょっとしたことでさえも、他にお世話いたす人もいないので、あいにくのご病気ですこと」  と申し上げる。中の宮は、組紐など作り終えなさって、  「心葉などを、どうしてよいか分かりません」  と、無理におせがみ申し上げなさるので、暗くなったのに紛れてお起きになって、一緒に結んだりなどなさる。中納言殿からお手紙があるが、  「今朝からとても気分が悪くて」  と言って、人を介してお返事申し上げなさる。  「いかにも、見苦しく、子供っぽくいらっしゃいます」  と、女房たちはぶつぶつ申し上げる。   2 大君の物語 大君、中の君を残して逃れる  [2-1 一周忌終り、薫、宇治を訪問]  御服喪などが終わって、お脱ぎ捨てになったのにつけても、片時の間も生き永らえようとは思わなかったが、あっけなく過ぎてしまった月日の間を お思いなると、ひどく思ってもいなかった身のつらさと、泣き沈んでいらっしゃるお二方のご様子が、まことにお気の毒である。  幾月も黒い喪服を着馴れていらしたお姿が、薄鈍色になって、たいそう優美なので、中の宮は、なるほど女盛りで、可憐な感じが勝っていらっしゃ った。御髪などを洗い清めさせて整わせて拝見なさると、この世の憂いが忘れる気がして素晴らしいので、心中密かに、「近づいて見劣りがするこ とはないだろう」と、頼もしく嬉しくて、今は他に見譲る人もいなくて、親代わりになって大切にお世話申し上げなさる。  あの方は、ご遠慮申し上げなさった服喪期間中もお改まりになっていような九月も、待ちきれず、再びおいでになった。「いつものようにお会い申 したい」と、またご挨拶があるので、気分が悪くなって、厄介に思われるので、何かと言い訳申し上げてお会いなさらない。  「意外に冷たいお心ですね。女房たちもどのように思うでしょう」  と、お手紙で申し上げなさった。  「今を限りと脱ぎ捨てました時の悲しみに、かえって前より塞ぎこんでおりまして、お返事申し上げられません」  とある。  恨みのやりばがなくて、いつもの女房を召して、いろいろとおっしゃる。世にまたとない心細さの慰めとしては、この君だけをお頼み申し上げてい た女房たちなので、思い通りに結婚なさって、世間並の住まいにお移りなどなさるのを、とてもおめでたいことと話し合って、「ただお入れ申そう」 と、皆しめし合わせているのであった。  [2-2 大君、妹の中の君に薫を勧める]  姫宮、その様子を深くご存知ないが、「このように特別に一人前に親しくしているらしいので、気を許して、気がかりな考えがあるかもしれない。昔 物語にも、自分から、とかく事件が起こることはあろうか。気を許してはならない女房の心であるようだ」と思い至りなさって、  「せめて恨みが深いなら、この妹君を押し出そう。たとえ見劣りする相手でも、そのように見初めては、いい加減には扱わないお心のようだから、 わたし以上に、少しでも見初めたらきっと慰むことであろう。言葉に表しては、どうして、急に乗り換える人があろうか。希望通りでないと、承知する 様子のないらしいのは、一つには、こちらの思うことを、筋違いに浅い思慮ではないかなどと、遠慮なさるだろう」  とご計画なさるが、「そのそぶりさえお知らせなさらなかったら、恨みを受けよう」と、我が身につまされてお気の毒なので、いろいろとお話になっ て、  「故人のご意向も、世の中をこのように心細く終えようとも、かえって物笑いに、軽々しい考えをするな、などと遺言なさったが、在世中の御足手ま といで、勤行のお心を乱した罪でさえ大変であったのに、今はの際に、せめてそのようにおっしゃった一言だけでも違えまい、と思いますので、心細 いなどとも格別思わないが、この女房たちが、妙に強情者のように憎んでいるらしいのは、ほんとに訳が分かりません。  女房の言うように、私と同じように独身でお過しになるのも、明け暮れの月日がたつにつけても、あなたのお身の上ばかりが、惜しくおいたわしく 悲しい身の上とお思い申し上げていますが、せめてあなただけでも世間並みに結婚なさって、このようなわが身の有様も面目が立って、慰められる ようお世話申し上げたい」  と申し上げなさると、どのようにお考えなのかと、情けなくなって、  「お一人だけが、そのように独身で終えなさいとは、申されたでしょうか。頼りないわが身の不安さは、よけいあるように、お思いのようでした。心 細さの慰めには、このように朝夕にお目にかかるより他に、どのような手段がありましょうか」  と、何やら恨めしそうに思っていらっしゃるので、なるほどと、お気の毒になって、  「やはり、誰も彼もが困った強情者のように言い思っているらしいのにつけても、途方に暮れておりますよ」  と、言いかけてお止めになった。  [2-3 薫は帰らず、大君、苦悩す]  日が暮れて行くのに、客人はお帰りにならない。姫宮は、とても困ったことだとお思いになる。弁が参って、ご挨拶などをもお伝え申し上げて、お 恨みになるのもごもっともなことを、こまごまと申し上げると、お返事もなさらず、お嘆きになって、  「どのように振る舞ったらよいものか。どちらかの親が生きていらっしゃったら、どうなるにせよ、親からお世話され申して、運命というものにつけて も、思い通りにならない世の中なので、すべてよくあることとして、物笑いの非難も隠れるというもの。仕えている女房は皆年をとり、賢そうに自分自 身では思いながら、いい気になって、お似合いのご縁だと言い聞かせるが、これが、しっかりしたことだろうか。一人前でもない考えで、ただ勝手に 言っているばかりだ」  とお考えになると、引き動かさんばかりにお勧め申し上げ合うのも、まことにつらく嫌な感じがして、従う気になれない。同じ気持ちで何事もご相談 申し上げなさる中の宮は、このような結婚に関する話題には、もう少しご存知なくおっとりして、何ともお分かりでないので、「変わった身の上だわ」 と、ただ奥の方に向いていらっしゃるので、  「いつもの服装にお召し替えなさいませ」  などと、お勧め申し上げながら、皆、お目にかからせようという考えのようなので、あきれて、「なるほど、何の支障があるだろうか。手狭な所で、 このようなご生活の仕方ない、山梨の花」、逃げることもできないのであった。  客人は、こうあからさまに、誰それにも口を出させず、「こっそりと、いつから始まったともなく運びたい」と初めからお考えになっていたことなので、  「お許しくださらないならば、いつもいつも、このようにして過ごそう」  とお考えになりおっしゃるが、この老女が、それぞれと相談しあって、あからさまにささやき、そうは言っても、浅はかで老いのひがみからか、お気 の毒に見える。  [2-4 大君、弁と相談する]  姫宮、お困りになって、弁が参ったのでおっしゃる。  「長年、世間の人と違ったご好意とばかりおっしゃっていたのを聞いており、今となっては、何でもすっかりお頼み申して、不思議なほど親しくして いたのですが、思っていたのと違ったお気持ちがおありで、お恨みになるらしいのは困ったことです。世間の人のように夫を持ちたい身の上なら ば、このような縁談も、どうしてお断りなどしましょう。  けれども、昔から思い捨てていた考えなので、とてもつらいことです。この妹君が盛りをお過ぎになるのも残念です。なるほど、このような住まい も、ただこの君のためにも不都合にばかり思われますが、ほんとうに亡き宮をお思い出し申し上げるお気持ちならば、同じようにお考えになってくだ さい。身を分けた妹に心の中はすべて譲って、お世話申し上げたい気がするのです。やはり、このようによろしく申し上げてくださいね」  と、恥ずかしがっているが、望んでいることをおっしゃり続けたので、まことにおいたわしいと拝する。  「そのようにばかりは、以前にもご様子を拝見しておりますので、とてもよく申し上げましたが、そのようにはお考え改めることはできず、兵部卿宮 のお恨みの、深さが増すようなので、またそれはそれで、とても十分にご後見申し上げたい、と申されています。それも願ってもないことです。ご両 親がお揃いで、特別に、たいそうお心をこめてお育て申し上げなさるにしましても、とても、このようにめったにないご縁談ばかりも、続いて来ないで しょう。  恐れ多いことですが、このようにとても頼りなさそうなご様子を拝見すると、果てはどのようにおなりあそばすのだろうかと、不安で悲しくばかり拝 見していますが、将来のお心は分かりませんけれど、お二方ともご立派で素晴らしいご運勢でいらっしゃったのだと、何はともあれお思い申し上げ ます。  故宮のご遺言に背くまいとお考えあそばすのはごもっともなことですが、それは、婿にふさわしい方がいらっしゃらず、身分の不釣合なことがおあ りだろうとお考えになって、ご忠告申し上げなさったようなのではございませんか。  この殿の、そのようなお気持ちがおありでしたら、お一方を安心してお残し申せて、どんなに嬉しいことだろうと、時々おっしゃっていました。身分 相応に、愛する人に先立たれなさった人は、身分の高い人も低い人も、思いの他に、とんでもない姿でさすらう例さえ多くあるようです。  それはみな憂き世の常のようですので、非難する人もございません。まして、これほどに、特別に誂えたような方のご様子で、ご愛情も深くめった にないように求婚申し上げなさるのを、むやみに振り切りなさって、お考えおいていたように、出家の本願をお遂げなさったとしても、そうかといって 雲や霞を食べて生きらえましょうか」  などと、総じて言葉数多く申し上げ続けると、とても憎く気にくわないとお思いになって、うつ伏しておしまいになった。  [2-5 大君、中の君を残して逃れる]  中の宮も、ひとごとながらおいたわしいご様子だわと、拝見なさって、一緒にいつものようにお寝みになった。気がかりで、どのように対処しよう か、と思われなさるが、わざとらしく引き籠もって身をお隠しになる物蔭さえないお住まいなので、柔らかく美しい御衣を、上にお掛け申し上げなさっ て、まだ暑いころなので、少し寝返りして臥せっていらっしゃった。  弁は、おっしゃったことを客人に申し上げる。「どうして、ほんとにこのように結婚を思い断っていらっしゃるのだろう。聖めいていらした方の側にい て、無常をお悟りになったのか」とお思いになると、ますます自分の心と似通っていると思われるので、利口ぶった憎い女とも思われない。  「それでは、物越しに会うのでも、今はとんでもないこととお考えなのですね。今夜だけは、お寝みになっている所に、こっそりと手引きせよ」  とおっしゃるので、気をつけて、他の女房を早く寝静めたりして、事情を知っている者同志は手筈をととのえる。  宵を少し過ぎたころに、風の音が荒々しく吹くと、「頼りない邸の蔀などは、きしきしと鳴る紛らわしい音に、人がこっそり入っていらっしゃる音は、 お聞きつけになるまい」と思って、静かに手引きして入れる。  同じ所にお寝みなっているのを、不安だと思うが、いつものことなので、「別々にとはどうして申し上げられよう。ご様子も、はっきりとお見知り申し ていらっしゃるだろう」と思ったが、少しもお眠りになることもできないので、ふと足音を聞きつけなさって、そっと起き出しておしまいになった。とても 素早く這ってお隠れになった。  無心に寝ていらっしゃるのを、とてもお気の毒に、どのようにするのかと、胸がどきりとして、一緒に隠れたいと思うが、そのように立ち戻ることもで きず、震えながら御覧になると、灯火がほのかに明るい中に、袿姿で、いかにも馴れ馴れしく、几帳の帷子を引き上げて中に入ったのを、ひどくお いたわしくて、「どのようにお思いになっているだろう」と思いながら、粗末な壁の面に、屏風を立てた背後の、むさ苦しい所にお座りになった。  「将来の心積もりとして話しただけでも、つらいと思っていらっしゃったのを、まして、どんなに心外にお疎みになるだろう」と、とてもおいたわしく思 うにつけても、すべてしっかりした後見もいなくて、落ちぶれている二人の身の上の悲しさを思い続けなさると、今を限りと山寺にお入りになった父 宮の夕方のお姿などが、まるで今のような心地がして、ひどく恋しく悲しく思われなさる。  [2-6 薫、相手を中の君と知る]  中納言は、独り臥していらっしゃるのを、そのつもりでいたのかと嬉しくなって、心をときめかしなさると、だんだんと違った人であったと分かる。「も う少し美しくかわいらしい感じが勝っていようか」と思われる。  驚いてあきれていらっしゃるのを、「なるほど、事情を知らなかったのだ」と見えるので、とてもお気の毒でもあり、また思い返しては、隠れていらっ しゃる方の冷淡さが、ほんとうに情けなく悔しいので、この人をも他人のものにはしたくないが、やはりもともとの気持ちと違ったのが、残念で、  「一時の浅い気持ちだったとは思われ申すまい。この場は、やはりこのまま過ごして、結局、運命から逃れられなかったら、こちらの宮と結ばれる のも、どうしてまったくの他人でもないし」  と気を静めて、例によって、風情ある優しい感じでお話して夜をお明かしになった。  老女連中は、十分にうまくいったと思って、  「中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう。不思議なことだわ」  と、探し合っていた。  「いくら何でも、どこかにいらっしゃるだろう」  などと言う。  「総じていつも、拝見すると皺の延びる気がして、素晴らしく立派でいつまでも拝見していたいご器量や態度を、どうして、とてもよそよそしくお相 手申し上げていらっしゃるのだろう。何ですか、これは世間の人が言うような、恐ろしい神様が、お憑き申しているのでしょうか」  と、歯は抜けて、憎たらしく言う女房がいる。また、  「まあ、縁起でもない。どんな魔物がお憑きになっているものですか。ただ、世間離れして、お育ちになったようですから、このようなことでも、ふさ わしくとりなして差し上げなさる人もなくていらっしゃるので、体裁悪く思わずにはいらっしゃれないのでしょう。そのうち自然と拝しお馴れなさったら、 きっとお慕い申し上げなさるでしょう」  などと話して、  「すぐにうちとけて、理想的な生活におなりになってほしい」  と言いながら寝入って、いびきなどを、きまり悪いくらいにする者もいる。  逢いたい人と過ごしたのではない秋の夜であるが、間もなく明けてしまう気がして、どちらとも区別することもできない優美なご様子を、自分自身 でも物足りない気がして、  「あなたも愛してください。とても情けなくつらいお方のご様子を、真似なさいますな」  などと、後の逢瀬を約束してお出になる。自分ながら妙に夢のように思われるが、やはり冷たい方のお気持ちを、もう一度見極めたいとの気で、 気持ちを落ち着けながら、いつものように、出て来てお臥せりになった。  [2-7 翌朝、それぞれの思い]  弁が参って、  「ほんとうに不思議に、中の宮は、どこにいらっしゃるのだろう」  と言うのを、とても恥ずかしく思いがけないお気持ちで、「どうしたことであったのか」と思いながら横になっていらっしゃった。昨日おっしゃったこと をお思い出しになって、姫宮をひどい方だとお思い申し上げなさる。  すっかり明けた光を頼りにして、壁の中のこおろぎすが這い出しなさった。恨んでいらっしゃるだろうことがとてもお気の毒なので、お互いに何もお っしゃれない。  「奥ゆかしげもなく、情けないことだわ。今から後は、油断できないものだわ」  と思い乱れていらっしゃった。  弁はあちらに参って、あきれはてたお気の強さをすっかり聞いて、「まことにあまりにも思慮が深く、かわいげがないこと」と、気の毒に思い呆然と していた。  「今までのつらさは、まだ望みの持てる気がして、いろいろと慰めていたが、昨夜は、ほんとうに恥ずかしく、身を投げてしまいたい気がする。お見 捨てがたい気持ちで遺していかれたおいたわしさをお察し申し上げるのは、また、一途に、わが身を捨てることもできません。好色がましい気持ち は、どちらにもお思い申していません。悲しさも苦しさも、それぞれお忘れになられたくなく思います。  宮などが、立派にお手紙を差し上げなさるようですが、同じことなら気位高く、という考えが別におありなのだろう、と納得がいきましたので、まこ とにごもっともで恥ずかしくて。再び参上して、あなた方にお目にかかることもしゃくでね。よし、このように馬鹿らしい身の上を、また他人にお漏らし なさいますな」  と、恨み言をいって、いつもより急いでお出になった。「どなたにとってもお気の毒で」と、ささやき合っていた。  [2-8 薫と大君、和歌を詠み交す]  姫君も、「どうしたことだ、もしいい加減な気持ちがおありだったら」と、胸が締めつけられるように苦しいので、何もかも、考えの違う女房のおせっ かいを、憎らしいとお思いになる。いろいろとお考えになっているところに、お手紙がある。いつもより嬉しく思われなさるのも、一方ではおかしなこと である。秋の様子も知らないふりして、青い枝で、片一方はたいそう色濃く紅葉したのを、  「同じ枝を分けて染めた山姫を   どちらが深い色と尋ねましょうか」  あれほど恨んでいた様子も、言葉少なく簡略にして、包んでいらっしゃるが、「何ともなしにうやむやにして済ますようだ」と御覧になるのも、心騷 ぎして見る。  やかましく、「お返事を」と言うので、「差し上げなさい」と譲るのも、嫌な気がして、そうは言え書きにくく思い乱れなさる。  「山姫が染め分ける心はわかりませんが   色変わりしたほうに深い思いを寄せているのでしょう」  さりげなくお書きになっていたが、おもしろく見えたので、やはり恨みきれず思われる。  「身を分けてなどと、お譲りになる様子は、度々見えたが、承知しないのに困って企てなさったようだ。その効もなく、このように何の変化ないのも お気の毒で、情けない人と思われて、ますます当初からの思いがかないがたいだろう。  あれこれと仲立ちなどするような老女が思うところも軽々しく、結局のところ思慕したことさえ後悔され、このような世の中を思い捨てようとの考え に、自分自身もかなわなかったことよ」  と、体裁悪く思い知られるのに、それ以上に、  「世間にありふれた好色者の真似して、同じ人を繰り返し付きまとわるのも、まことに物笑いな棚無し小舟みたいだろう」  などと、一晩中思いながら夜を明かしなさって、まだ有明の空も風情あるころに、兵部卿宮のお邸に参上なさる。   3 中の君の物語 中の君と匂宮との結婚  [3-1 薫、匂宮を訪問]  三条宮邸が焼けた後は、六条院に移っていらっしゃったので、近くていつも参上なさる。宮も、お望みどおりの思いでいらっしゃるのであった。雑 事にかまけることもなく理想的なお住まいなので、お庭先の前栽が、他の所のとは違って、同じ花の恰好も、木や草の枝ぶりも、格別に思われて、 遣水に澄んで映る月の光までが、絵に描いたようなところに、予想どおりに起きておいでになった。  風に乗って吹いてくる匂いが、たいそうはっきりと薫っているので、ふとその人と気がついて、お直衣をお召しになり、きちんとした姿に整えてお出 ましになる。  階を昇り終えず、かしこまりなさっていると、「どうぞ、上に」などともおっしゃらず、高欄に寄りかかりなさって、世間話をし合いなさる。あの辺りのこ とも、何かの機会にはお思い出しになって、「いろいろとお恨みになるのも無理な話である。自分自身の思いさえかないがたいのに」と思いながら、 「そうなってくれればいい」と思うようなことがあるので、いつもよりは真面目に、打つべき手などを申し上げなさる。  明け方の薄暗いころ、折悪く霧がたちこめて、空の感じも冷え冷えと感じられ、月は霧に隔てられて、木の下も暗く優美な感じである。山里のしみ じみとした様子をお思い出しになったのであろうか、  「近々のうちに、必ず置いておきなさるな」  とお頼みなさるのを、相変わらず、うるさがりそうにするので、  「女郎花が咲いている大野に人を入れまいと   どうして心狭く縄を張り廻らしなさるのか」  と冗談をおっしゃる。  「霧の深い朝の原の女郎花は   深い心を寄せて知る人だけが見るのです  並の人には」  などと、悔しがらせなさると、  「ああ、うるさいことだ」  と、ついにはご立腹なさった。  長年このようにおっしゃるが、どのような方か気がかりに思っていたが、「器量などもがっかりなさることもないと推量されるが、気立てが思ったほ どでないかも知れない」などと、ずっと心配に思っていたが、「何事も失望させるようなところはおありでないようだ」と思うと、あの、おいたわしくも、 胸の中にお計らいになった様子と違うようなのも、思いやりがないようだが、そうかといって、そのようにまた考えを改めがたく思われるので、お譲り 申し上げて、「どちらの恨みも負うまい」などと、心の底に思っている考えをご存知なくて、心狭いとおとりになるのも面白いけれど、  「いつもの、軽々しいご気性で、物思いをさせるのは、気の毒なことでしょう」  などと、親代わりになって申し上げなさる。  「よし、御覧ください。これほど心にとまったことは、まだなかった」  などと、実に真面目におっしゃるので、  「あのお二方の心には、それならと承知したような様子には見えませんでした。お仕えしにくい宮仕えでございます」  と言って、お出ましになる時の注意などを、こまごまと申し上げなさる。  [3-2 彼岸の果ての日、薫、匂宮を宇治に伴う]  二十八日が、彼岸の終わりの日で、吉日だったので、こっそりと準備して、ひどく忍んでお連れ申し上げる。后宮などがお聞きあそばしては、この ようなお忍び歩きを厳しくお禁じ申し上げなさっているので、まことに厄介であるが、たってのお望みのことなので、気づかれないようにとお世話する のも、大変なことである。  舟で渡ったりするのも大げさなので、仰々しいお邸なども、お借りなさらず、その辺りの特に近い御庄の人の家に、たいそうこっそりと、宮をお下ろ し申し上げなさって、いらっしゃた。お気づき申すような人もいないが、宿直人は形ばかり外に出て来るにつけても、様子を知らせまいというのであ ろう。  「いつもの、中納言殿がおいでです」と準備に回る。姫君たちは何となくわずらわしくお聞きになるが、「心を変えていただくように言っておいたか ら」と、姫宮はお思いになる。中の宮は、「思う相手はわたしではないようだから、いくら何でも」と思いながら、嫌な事があってから後は、今までの ように姉宮をお信じ申し上げなさらず、用心していらっしゃる。  何やかやとご挨拶ばかりを差し上げなさって、どのようになることかと、女房たちも気の毒がっている。  宮には、お馬で、闇に紛れてお出ましいただいて、弁を召し出して、  「こちらに、ただ一言申し上げねばならないことがございますが、お嫌いなさった様子を拝見してしまったので、まことに恥ずかしいが、いつまでも 引き籠もっていられそうにないので、もう暫く夜が更けてから、以前のように手引きしてくださいませんか」  などと、率直にお頼みになると、「どちらであっても同じことだから」などと思って参上した。  [3-3 薫、中の君を匂宮にと企む]  「これこれです」と申し上げると、「そうであったか、思いが変わったのだわ」と、嬉しくなって心が落ち着き、あのお入りになる道ではない廂の障子 を、しっかりと施錠して、お会いなさった。 Last updated 11/16/98 渋谷栄一訳(C)   早蕨 薫君の中納言時代25歳春の物語 1 中の君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活 1.宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く---薮だからといって分け隔てして日光は差すものでないので、春の光を御覧になるにつけても 2.中の君、阿闍梨に返事を書く---大事と思って詠み出したのだろう、とお思いになると 3.1月下旬、薫、匂宮を訪問---内宴など、何かと忙しい時期を過ごして 4.匂宮、薫に中の君を京に迎えることを言う---空の様子もまた、なるほど心を知っているかのように霞わたっていた 5.中の君、姉大君の服喪が明ける---あちらでも、器量の良い若い女房や童女などを雇って、女房たちは 6.薫、中の君が宇治を出立する前日に訪問---ご自身は、お移りになることが明日という日の 7.中の君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す---お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので 8.薫、弁の尼と対面---弁は、「このようなお供にも、思いもかけず長生きが 9.弁の尼、中の君と語る---お悲しみなっておっしゃっていたご様子を話して、弁は 2 中の君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる 1.中の君、京へ向けて宇治を出発---すっかり掃除し、何もかも始末して、お車を何台も寄せて 2.中の君、京の二条院に到着---宵が少し過ぎてお着きになった。見たこともない様子で 3.夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す---右の大殿は、六の君を宮に差し上げなさることを 4.薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中の君と語る---花盛りのころ、二条院の桜を御覧になると 5.匂宮、中の君と薫に疑心を抱く---女房たちも、「世間一般の人のように、仰々しくお扱い申し上げなさいますな   1 中の君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活  [1-1 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く]  薮だからといって分け隔てして日光は差すものでないので、春の光を御覧になるにつけても、「どうしてこう生き永らえてきた月日なのだろう」と、 夢のようにばかり思われなさる。  去っては迎える時節時節にしたがって、花や鳥の色をも声をも、同じ気持ちで起き臥し見ては、ちょっとした和歌を詠むことでも、上の句と下の句 とをそれぞれ付け交わして、心細いこの世の悲しさも辛さも、語り合ってきたからこそ、慰むこともあったが、おもしろいことや、しみじみとしたことを、 聞き知る人がいないままに、すべてまっくら闇で、心一つに思い悩んで、父宮がお亡くなりになった悲しさよりも、もう少しまさって恋しくわびしいの で、どうしたらよいかと、明けるのも暮れるのも分からず茫然としていらっしゃるが、世に生きている間は、定めがあることだったので、死ぬことがで きないのもあきれたことだ。  阿闍梨のもとから、  「新年になってからは、いかがお過ごしでしょうか。ご祈祷は、怠りなくお勤めいたしております。今は、お一方の事を、ご無事にと祈念いたしてお ります」  などと申し上げて、蕨、土筆を、風流な籠に入れて、「これは、童たちが献じましたお初穂です」といって、差し上げた。筆跡は、とても悪筆で、和 歌は、わざとらしく放ち書きにしてあった。  「わが君にと思って毎年毎年の春に摘みましたので   今年も例年どおりの初蕨です  御前でお詠み申し上げてください」  とある。  [1-2 中の君、阿闍梨に返事を書く]  大事と思って詠み出したのだろう、とお思いになると、歌の気持ちもまことにしみじみとして、いい加減で、そうたいしてお思いでないように見える 言葉を、素晴らしく好ましそうにお書き尽くしなさる方のお手紙よりも、この上なく目が止まって、涙も自然とこぼれてくるので、返事を、お書かせに なる。  「今年の春は誰にお見せしましょうか   亡きお方の形見として摘んだ峰の早蕨を」  使者に禄を与えさせなさる。  まことに盛りではなやいでいらっしゃる方で、いろいろなお悲しみに、少し面痩せしていらっしゃるのが、とても上品で優美な感じがまさって、故人 にも似ていらっしゃった。お揃いでいらっしゃったときは、それぞれ素晴らしく、全然似ていらっしゃるとも見えなかったが、ふと忘れては、その人かと 思われるまで似ていらっしゃるのを、  「中納言殿が亡骸だけでも残って拝見できるものであったらと、朝夕にお慕い申し上げていらっしゃるようだが、同じことなら、結ばれなさるご運命 でなかったことよ」  と、拝する女房たちは残念がっている。  あの御あたりの人が通って来る便りに、ご様子は常にお互いにお聞きなさっていたのであった。いつまでもぼうっとしていらして、「新年になっても 相変わらず、悲しそうな涙顔に、なっていらっしゃる」とお聞きになっても、「なるほど、一時の浮ついたお心ではいらっしゃらなかったのだ」と、ます ます今となって愛情も深かったのだと、思い知られる。  宮は、お越しになることがまことに自由に振る舞えず機会がないので、「京にお移し申そう」とご決意なさっていた。  [1-3 1月下旬、薫、匂宮を訪問]  内宴など、何かと忙しい時期を過ごして、中納言の君が、「心におさめかねていることを、また他に誰に話せようか」とお思い余って、兵部卿宮の 御方に参上なさった。  しんみりとした夕暮なので、宮は物思いに耽っておいでになって、端近くにいらっしゃった。箏のお琴を掻き鳴らしながら、いつものように、お気に 入りの梅の香を賞美しておいでになる、その下枝を手折って参上なさったが、匂いがたいそう優雅で素晴らしいのを、折柄興あることにお思いにな って、  「折る人の心に通っている花なのだろうか   表には現さないで内に匂いを含んでいる」  とおっしゃるので、  「見る人に言いがかりをつけられる花の枝は   注意して折るべきでした  迷惑なことです」  と冗談を言い交わしなさっているが、実にも仲好いお二方である。  こまごまとしたお話になってからは、あの山里の御事を、まずはどうしているかと、宮はお尋ね申し上げなさる。中納言も、亡くなった方のことが諦 めようもなく悲しいことを、その当時から今日までの思いの断ち切れないことを、四季折々につけて、悲しいことや風流なことを、悲喜こもごもとか言 うように、申し上げなさると、それ以上にあれほど色っぽく涙もろいご性癖は、人のお身の上のことでさえ、袖をしぼるほどになって、話しがいがある ようにお答えなさっているようである。  [1-4 匂宮、薫に中の君を京に迎えることを言う]  空の様子もまた、なるほど心を知っているかのように霞わたっていた。夜になって烈しく吹き出した風の様子、まだ冬らしくてまこと寒そうで、大殿 油も消え消えし、闇は梅の香を隠せず匂っているが、互いにそのままお話をやめることもなさらず、尽きないお話を心ゆくまでお話しきれないで、夜 もたいそう更けてしまった。  世にも稀な二人の仲のよさを、「さあ、そうはいっても、とてもそんなばかりではなかったでしょう」と、隠しているものがあるようにお尋ねになるの は、理不尽なご性癖のせいである。そうは言っても、物事をよくお分かりになって、悲しい心の中を晴れるように、一方では慰めもし、また悲しみを 忘れさせ、いろいろとお語らいになる、そのご様子の魅力にお引かれ申して、なるほど、心に余るほどに鬱積していたことがらを、少しずつお話し申 し上げなさるのは、この上なく心が晴れ晴れする気がなさる。  宮も、あの方を近々お移し申そうとすることについて、ご相談申し上げなさるのを、  「まことに嬉しいことでございますね。不本意ながら、わたしの過失と存じておりました諦め切れない故人の縁者を、また他に訪ねるべき人もござ いませんので、後見一般としては、どのようなことでも、お世話申し上げるべき人と存じておりますが、もし不都合なこととお思いになりましょうか」  と言って、あの、「他人とお思いくださるな」と、お譲りになったお心向けをも、少しお話し申し上げなさるが、岩瀬の森の呼子鳥めいた夜のことは、 話さずにいたのであった。心の中では、「このように慰めがたい形見にも、なるほど、おっしゃったように、このようにお世話申し上げるべきであった」 と、悔しさがだんだんと高じてゆくが、今では甲斐のないゆえに、「常にこのようにばかり思っていたら、とんでもない料簡が出て来るかもしれない。 誰にとってもつまらなく、馬鹿らしいことだろう」と思い諦める。「それにしても、お移りになるにしても、ほんとうにご後見申し上げる人は、わたし以外 に誰がいようか」とお思いになるので、お引越しの準備を用意おさせになる。  [1-5 中の君、姉大君の服喪が明ける]  あちらでも、器量の良い若い女房や童女などを雇って、女房たちは満足げに準備しているが、今を最後とこの伏見ならぬ宇治を荒らしてしまうの も、たいそう心細いので、お嘆きになること尽きないが、だからといって、また気負い立って強情を張って、閉じ籠もっていてもどうしようもなく、「浅く ない縁が、絶え果ててしまいそうなお住まいなのに、どういうおつもりですか」とばかり、お恨み申し上げなさるのも、少しは道理なので、どうしたら よいだろう、と思案なさっていた。  二月の上旬頃にというので、間近になるにつれて、花の木の蕾みがふくらんでくるのもその後が気になって、「峰に霞が立つのを見捨てて行くこ とも、自分の常住の住まいでさえない旅寝のようで、どんなに体裁悪く物笑いになっては」などと、万事に気がひけて、一人思案に暮れて過ごして いらっしゃる。  御服喪も、期限があることなので、脱ぎ捨てなさるのに、禊も浅い気がする。母親は、お顔を存じ上げていないので、恋しいとも思われない。その お代わりにも、今回の喪服の色を濃く染めようと、心にお思いになりおっしゃりもしたが、はやり、そのような理由もないことなので、物足りなく悲し いことは限りがない。  中納言殿から、お車や、御前の供人や、博士などを差し向けなさった。  「早いものですね、霞の衣を作ったばかりなのに   もう花が綻ぶ季節となりました」  なるほど、色とりどりにたいそう美しくして差し上げなさった。お引越しの時のお心づけなど、仰々しくない物で、それぞれの身分に応じていろいろ と考えて、とても多かった。  「何かにつけて、忘れず気のつくご好意をありがたく、兄弟などでさえ、とてもこうまではいらっしゃらないことだ」  などと、女房たちはお教え申し上げる。ぱっとしない老女房連中の考えとしては、このような点を身にしみて申し上げる。若い女房は、時々拝見し 馴れているので、今を限りに縁遠くおなりになるのを、物足りなく、「どんなに恋しくお思いなされるでしょう」とお噂し合っていた。  [1-6 薫、中の君が宇治を出立する前日に訪問]  ご自身は、お移りになることが明日という日の、まだ早朝においでになった。いつものように、客人席にお通りになるにつけても、今は、だんだん 何にも馴れて、「自分こそ、誰よりも先に、このように思っていたのだ」などと、生前のご様子や、おっしゃったお気持ちをお思い出しになって、「それ でも、よそよそしく、思いの外になどとは、おあしらいなさらなかったが、自分のほうから、妙に他人で終わることになってしまったな」と、胸痛くお思 い続けなさる。  垣間見した襖障子の穴も思い出されるので、近寄って御覧になるが、部屋の中が閉めきってあるので、何にもならない。  部屋の中でも、女房たちはお思い出し申し上げながら涙ぐんでいた。中の宮は、女房たち以上に、催される涙の川で、明日の引っ越しもお考えに なれず、茫然として物思いに沈んで臥せっておいでになるので、  「幾月ものご無沙汰の間に積もりましたお話も、何ということございませんが、鬱々としておりましたので、少しでもお晴らし申し上げて、気を紛ら わせたく存じます。いつものように、きまり悪く他人行儀なさらないでください。ますます知らない世界に来た気が致します」  と申し上げなさると、  「体裁が悪いとお思い申されようとは思いませんが、それでも、気分もいつものようでなく、心も乱れ乱れて、ますますはきはきしない失礼を申し 上げてはと、気がひけまして」  などと、つらそうにお思いになっているが、「お気の毒です」などと、あれこれ女房が申し上げるので、中の襖障子口でお会いなさった。  たいそうこちらが気恥ずかしくなるほど優美で、また「今度は、一段と立派におなりになった」と、目も驚くほどはなやかに美しく、「誰にも似ない心 ばせなど、何とも、素晴らしい方だ」とばかりお見えになるのを、姫宮は、面影の離れない方の御事までお思い出し申し上げなさると、まことにしみ じみとお会い申し上げなさる。  「つきないお話なども、今日は言忌みしましょうね」  などと言いさして、  「お移りになるはずの所の近くに、もう幾日かして移ることになっていますので、夜中も早朝もと、親しい間柄の人が言いますように、どのような機 会にも、親しくお考えくださりおっしゃっていただければ、この世に生きております限りは、申し上げもし承りもして過ごしとうございますが、どのよう にお考えでしょうか。人の考えはいろいろでございます世の中なので、かえって迷惑かなどと、独り決めもしかねるのです」  と申し上げなさると、  「邸を離れまいと思う考えは強うございますが、近くに、などとおっしゃって下さるにつけても、いろいろと思い乱れまして、お返事の申し上げようも なくて」  などと、言葉とぎれとぎれに言って、ひどく心に感じ入っていらっしゃる様子など、ひどくよく似ていらっしゃるのを、「自分から他人の妻にしてしまっ た」と思うと、とても悔しく思っていらっしゃるが、言っても効ないので、あの夜のことは何も言わず、忘れてしまったのかと見えるまで、きれいさっぱ りと振る舞っていらっしゃった。  [1-7 中の君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す]  お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので、鴬でさえ見過ごしがたそうに鳴いて飛び移るようなので、まして、「春や昔の」と心を惑わしなさるど うしのお話に、折からしみじみと心を打つのである。風がさっと吹いて入ってくると、花の香も客人のお匂いも、橘ではないが、昔が思い出されるよ すがである。「所在ない気の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、  「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、嵐に吹き乱れる山里に   昔を思い出させる花の香が匂って来ます」  言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、  「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが   根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」  止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数多くもなく、  「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」  などと、申し上げおいてお立ちになった。  お引越しに必要な支度を、人びとにお指図おきなさる。この邸の留守番役として、あの鬚がちの宿直人などが仕えることになっているので、この 近辺の御荘園の者どもなどに、そのことをお命じになるなど、生活面の事まで定めおきなさる。  [1-8 薫、弁の尼と対面]  弁は、  「このようなお供にも、思いもかけず長生きがつらく思われますが、人も不吉に見たり思ったりするにちがいないでしょうから、今は世に生きている 者とも人に知られますまい」  と言って、出家をしていたのを、しいて召し出して、まことにしみじみと御覧になる。いつものように、昔の思い出話などをおさせになって、  「ここには、やはり、時々参りましょうが、まことに頼りなく心細いので、こうしてお残りになるのは、まことにしみじみとありがたく嬉しいことです」  などと、最後まで言い終わらずにお泣きになる。  「厭わしく思えば思うほど長生きをする寿命がつらく、またどう生きよといって、先に逝っておしまいになったのか、と恨めしく、この世のすべてを情 けなく思っておりますので、罪もどんなにか深い事でございましょう」  と、思っていたことをお訴え申し上げるのも、愚痴っぽいが、とてもよく言い慰めなさる。  たいそう年をとっているが、昔、美しかった名残の黒髪を削ぎ落としたので、額の具合、変わった感じに少し若くなって、その方面の身としては優 美である。  「思いあぐねた果てに、どうしてこのような尼姿にして差し上げなかったのだろう。それによって寿命が延びるようなこともあったろうに。そうして、ど んなに親密に語らい申し上げられたろうに」  などと、一方ならず思われなさると、この人までが羨ましいので、隠れている几帳を少し引いて、こまやかに語らいなさる。なるほど、すっかり悲し みに暮れている様子だが、何か言う態度、心づかいは、並々でなく、嗜みのあった女房の面影が残っていると見えた。  「先に立つ涙の川に身を投げたら   死に後れしなかったでしょうに」  と、泣き顔になって申し上げる。  「それもとても罪深いことです。彼岸に辿り着くことは、どうしてできようか。それ以外のことであってさえも、深い悲しみの底に沈んで生きてゆくの もつまらない。すべて、皆無常だと悟るべき世の中なのです」  などとおっしゃる。  「身を投げるという涙の川に沈んでも   恋しい折々を忘れることはできまい  いつになったら、少しは思いが慰むことがあろうか」  と、終わりのない気がなさる。  帰る気にもなれず物思いに沈んで、日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも、人が咎めることであろうかと、仕方ないので、お帰りになっ た。  [1-9 弁の尼、中の君と語る]  お悲しみなっておっしゃっていたご様子を話して、弁は、ますます慰めがたく悲しみに暮れていた。女房たちは満足そうな様子で、衣類を縫い用 意しながら、年老いた容貌も気にせず、身づくろいにうろうろしている中で、ますます質素にして、  「人びとは皆準備に忙しく繕い物をしているようですが   一人藻塩を垂れて涙に暮れている尼の私です」  と訴え申し上げると、  「藻塩を垂れて涙に暮れるあなたと同じです   浮いた波に涙を流しているわたしは  結婚生活に入ることも、とてもできそうにないことと思われるので、事情によっては、ここを荒れはてさせまいと思うが、そうしたらお会いすることも ありましょうが、暫くの間も、心細くお残りになるのを見ていると、ますます気が進みません。このような尼姿の人も、必ずしも引き籠もってばかりい ないもののようですので、やはり世間一般の人のように考えて、時々会いに来てください」  などと、とてもやさしくお話しになる。亡き姉君がお使いになったしかるべきご調度類などは、みなこの尼にお残しになって、  「このように、誰よりも深く悲しんでおいでなのを見ると、前世からも、特別の約束がおありだっただろうかと思うのまでが、慕わしくしみじみ思われ ます」  とおっしゃると、ますます子供が親を慕って泣くように、気持ちを抑えることができず涙に沈んでいた。   2 中の君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる  [2-1 中の君、京へ向けて宇治を出発]  すっかり掃除し、何もかも始末して、お車を何台も寄せて、ご前駆の供人は、四位五位がたいそう多かった。ご自身でも、ひどくおいでになりたか ったが、仰々しくなって、かえって不都合なことになるので、ただ内密に計らって、気がかりにお思いになる。  中納言殿からも、ご前駆の供人を、数多く差し上げなさっていた。だいたいのことは、宮からの指示があったようだが、こまごまとした内々のお世 話は、ただこの殿から、気のつかないことのなくお計らい申し上げなさる。  日が暮れてしまいそうだと、内からも外からも、お促し申し上げるので、気ぜわしく、京はどちらの方角だろうと思うにも、まことに頼りなく悲しいと ばかり思われなさる時に、お車に同乗する大輔の君という女房が言うには、  「生きていたので嬉しい事に出合いました   身を厭いて宇治川に投げてしまいましたら」  ほほ笑んでいるのを、「弁の尼の気持ちと比べて、何という違いだろうか」と、気にくわなく御覧になる。もう一人の女房が、  「亡くなった方を恋しく思う気持ちは忘れませんが   今日は何をさしおいてもまず嬉しく存じられます」  どちらも年老いた女房たちで、みな亡くなった方に、好意をお寄せ申し上げていたようなのに、今はこのように気持ちが変わって言忌するのも、 「世の中は薄情な」と思われなさると、何もおっしゃる気になれない。  道中は、遠く険しい山道の様子を御覧になると、つらくばかり恨まれた方のお通いを、「しかたのない途絶えであった」と、少しは理解されなさっ た。七日の月が明るく照り出した光が、美しく霞んでいるのを御覧になりながら、たいそう遠いので、馴れないことでつらいので、つい物思いなさっ て、  「考えると山から出て昇って行く月も   この世が住みにくくて山に帰って行くのだろう」  生活が変わって、結局はどのようになるのだろうかとばかり、不安で、将来が気になるにつけても、今までの物思いは何を思っていたのだろうと、 昔を取り返したい思いであるよ。  [2-2 中の君、京の二条院に到着]  宵が少し過ぎてお着きになった。見たこともない様子で、光り輝くような殿造りで、三棟四棟と建ち並んだ邸内にお車を引き入れて、宮は、早く早 くとお待ちになっていたので、お車の側に、ご自身お寄りあそばしてお下ろし申し上げなさる。  お部屋飾りなども、善美を尽くして、女房の部屋部屋まで、お心配りなさっていらしたことがはっきりと窺えて、まことに理想的である。どの程度の 待遇を受けるのかとお考えになっていたご様子が、急にこのようにお定まりになったので、「並々ならないご愛情なのだろう」と、世間の人びともど のような人かと驚いているのであった。  中納言は、三条宮邸に、今月の二十日過ぎにお移りになろうとして、最近は毎日いらっしゃっては御覧になっているが、この院が近い距離なの で、様子も聞こうとして、夜の更けるまでいらっしゃったが、差し向けなさっていた御前の人々が帰参して、有様などをお話し申し上げる。  ひどくお気に召して大切にしていらっしゃるというのをお聞きになるにつけても、一方では嬉しく思われるが、やはり、自分の考えながら馬鹿らし く、胸がどきどきして、「取り返したいものだ」と、繰り返し独り言が出てきて、  「しなてる琵琶湖の湖に漕ぐ舟のように   まともではないが一夜会ったこともあったのに」  とけちをつけたくもなる。  [2-3 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す]  右の大殿は、六の君を宮に差し上げなさることを、今月にとお決めになっていたのに、このように意外な人を、婚儀より先にと言わんばかりに大事 にお迎えになって、寄りつかずにいらっしゃるので、「たいそうご不快でおいでだ」とお聞きになるのも、お気の毒なので、お手紙は時々差し上げな さる。  御裳着の儀式を、世間の評判になるほど盛大に準備なさっているのを、延期なさるのも物笑いになるにちがいないので、二十日過ぎにお着せ申 し上げなさる。  同じ一族で変わりばえがしないが、この中納言を他人に譲るのが残念なので、  「婿君としようか。長年人知れず恋い慕っていた人を亡くして、何となく心細く物思いに沈んでいらっしゃるというから」  などとお考えつきになって、しかるべき人を介して様子を窺わせなさったが、  「世の無常を目の前に見たので、まことに気が塞いで、身も不吉に思われますので、何としても何としても、そのようなことは気が進みません」  と、その気のない旨をお聞きになって、  「どうして、この君までが、真剣になって申し出る言葉を、気乗りしなくあしらってよいものか」  と恨みなさったが、親しいお間柄ながらも、人柄がたいそう気のおける方なので、無理にお勧め申し上げなさることができなかった。  [2-4 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中の君と語る]  花盛りのころ、二条院の桜を御覧になると、主人のいない山荘がさっそく思いやられなさるので、「気兼ねもなく散るのではないか」などと、独り口 ずさみ思い余って、宮のお側に参上なさった。  こちらにばかりおいでになって、たいそうよく住みなれていらっしゃるので、「安心ことだ」と拝見するものの、例によって、どうかと思われる心が混 じるのは、妙なことであるよ。けれども、本当のお気持ちは、とてもうれしく安心なことだとお思い申し上げなさるのであった。  何やかやとお話を申し上げなさって、夕方、宮は宮中へ参内なさろうして、お車の設えをさせて、お供の人びとが大勢集まって来たりなどしたの で、お出になって、対の御方へ参上なさった。  山里の様子とは、うって変わって、御簾の中で奥ゆかしく暮らして、かわいらしい童女の、透影がちらっと見えた子を介して、ご挨拶申し上げなさ ると、お褥を差し出して、昔の事情を知っている人なのであろう、出て来てお返事を申し上げる。  「朝夕の区別もなくお訪ねできそうに存じられます近さですが、特に用事もなくてお邪魔いたすのも、かえってなれなれしいという非難を受けよう かと、遠慮しておりましたところ、世の中が変わってしまった気ばかりがしますよ。お庭先の梢も霞を隔てて見えますので、胸の一杯になることが多 いですね」  と申し上げて、物思いに耽っていらっしゃる様子、お気の毒なのを、  「おっしゃるとおり、生きていらしたら、何の気兼ねもなく行き来して、お互いに花の色や、鳥の声を、季節折々につけては、少し心をやって過すこ とができたのに」  などと、お思い出しなさるにつけて、一途に引き籠もって生活していらした心細さよりも、ひたすら悲しく、残念なことが、いっそうつのるのであっ た。  [2-5 匂宮、中の君と薫に疑心を抱く]  女房たちも、  「世間一般の人のように、仰々しくお扱い申し上げなさいますな。この上ないご好意を、今こそ、拝見しご存知あそばしている様子を、お見せ申し 上げる時です」  などと申し上げるが、人を介してではなく、直にお話し申し上げることは、やはり気が引けるので、ためらっていらっしゃるところに、宮が、お出かけ になろうとして、お暇乞いの挨拶にお渡りになった。たいそう美しく身づくろいし化粧なさって、見栄えのするお姿である。  中納言はこちらに来ているのであった、と御覧になって、  「どうして、無愛想に遠ざけて、外にお座らせになっているのか。あなたには、あまりにどうかと思われるまでに、行き届いたお世話ぶりでしたの Last updated 12/21/98 渋谷栄一訳(C)   宿木 薫君の中、大納言時代24歳夏から26歳夏4月頃までの物語 1 薫と匂宮の物語 女二の宮や六の君との結婚話 1.藤壷女御と女二の宮---その当時、藤壷と申し上げた方は、故左大臣殿の女御で 2.藤壷女御の死去と女二の宮の将来---十四歳におなりになる年、御裳着の式をして差し上げようとして 3.帝、女二の宮を薫に降嫁させようと考える---お庭先の菊がすっかり変色して盛んなころ 4.帝、女二の宮や薫と碁を打つ---御碁などをお打ちあそばす。暮れて行くにしたがって 5.夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う---このようなことを、右大殿がちらっとお聞きになって 2 中の君の物語 中の君の不安な思いと薫の同情 1.匂宮の婚約と中の君の不安な心境---女二の宮も、御服喪が終わったので 2.中の君、匂宮の子を懐妊---宮は、いつもよりしみじみとやさしく、起きても臥せっても 3.薫、中の君に同情しつつ恋慕す---中納言殿も、「まことにお気の毒なことだな」と 4.薫、亡き大君を追憶す---あの方をお亡くし申しなさってから後 5.薫、二条院の中の君を訪問--- 人を呼んで、「北の院に参ろうと思うが、仰々しくない 6.薫、中の君と語らう---もともと、感じがてきぱきと男らしく 7.薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶---「秋の空は、いま一つ物思いばかりまさります 8.薫と中の君の故里の宇治を思う---「世の中のつらさよりはなどと、昔の人は言ったが 9.薫、二条院を退出して帰宅---日が昇って、人びとが参集して来るので 3 中の君の物語 匂宮と六の君の婚儀 1.匂宮と六の君の婚儀---右の大殿邸では、六条院の東の御殿を磨き飾って 2.中の君の不安な心境---「幼いころから心細く哀れな姉妹で 3.匂宮、六の君に後朝の文を書く---宮は、たいそうお気の毒にお思いになりながら 4.匂宮、中の君を慰める---けれど、向き合っていらっしゃる間は変わった変化もないのであろうか 5.後朝の使者と中の君の諦観---素晴らしく衣装を肩に被いて埋もれているのを 6.匂宮と六の君の結婚第二夜---宮は、いつもよりも愛情深く、心を許した様子に 7.匂宮と六の君の結婚第三夜の宴---その日は、后の宮が悩ましそうでいらっしゃると聞いて 4 薫の物語 中の君に同情しながら恋慕の情高まる 1.薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる---中納言殿の御前駆の中に、あまり待遇がよくなかったのか 2.薫と按察使の君、匂宮と六の君---いつものように、寝覚めがちな何もすることのないころなので、按察使の君といって 3.中の君と薫、手紙を書き交す---こうして後は、二条院に、気安くお渡りになれない 4.薫、中の君を訪問して慰める---そうして、翌日の夕方にお渡りになった 5.中の君、薫に宇治への同行を願う---女君は、宮の恨めしさなどは、口に出して申し上げなさる 6.薫、中の君に迫る---女は、「やはり、そうだった、ああ嫌な」と思うが、何を言うことができようか 7.薫、自制して退出する---近くに伺候している女房が二人ほどいるが、何の関係のない男が 5 中の君の物語 中の君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す 1.翌朝、薫、中の君に手紙を書く---昔よりは少し痩せ細って、上品でかわいらしかった 2.匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く---宮は、何日もご無沙汰しているのは、自分自身でさえ 3.匂宮、中の君の素晴しさを改めて認識---翌日も、ゆっくりとお起きになって 4.薫、中の君に衣料を贈る---中納言の君は、このように宮が籠もっておいでになるのを聞くにも 5.薫、中の君をよく後見す---誰が、何事をも後見申し上げる人があるだろうか 6.薫と中の君の、それぞれの苦悩---「こうして、やはり、何とか安心で分別のある後見人として終えよう 6 薫の物語 中の君から異母妹の浮舟の存在を聞く 1.薫、二条院の中の君を訪問---男君も、無理をして困って、いつものように、しっとりした夕方 2.薫、亡き大君追慕の情を訴える---どのような事柄につけても、故君の御事をどこまでも思っていらっしゃった 3.薫、故大君に似た人形を望む---外の方を眺めていると、だんだんと暗くなっていったので 4.中の君、異母妹の浮舟を語る---「今までは、この世にいるとも知らなかった人が 5.薫、なお中の君を恋慕す---「何気なくて、このようにうるさい心を何とか言ってやめさせる 7 薫の物語 宇治を訪問して弁の尼から浮舟の詳細について聞く 1.9月20日過ぎ、薫、宇治を訪れる---宇治の宮邸を久しく訪問なさらないころは 2.薫、宇治の阿闍梨と面談す---阿闍梨を呼んで、いつものように、故姫君の御命日のお経や仏像のこと 3.薫、弁の尼と語る---「今回こそは見よう」とお思いになって、立ってぐるりと 4.薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる---そうして、何かのきっかけで、あの形代のことを 5.薫、二条院の中の君に宇治訪問の報告---夜が明けたのでお帰りになろうとして 6.匂宮、中の君の前で琵琶を弾く---枯れ枯れになった前栽の中に、尾花が 7.夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る---いろいろのお琴をお教え申し上げなどして 8 薫の物語 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁 1.新年、薫権大納言右大将に昇進---正月晦日方から、ふだんと違ってお苦しみになるのを 2.中の君に男子誕生---やっとのこと、その早朝に、男の子でお生まれになったのを 3.2月20日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す---こうして、その月の二十日過ぎに 4.中の君の男御子、五十日の祝い---宮の若君が五十日におなりになる日を数えて 5.薫、中の君の若君を見る---若君を切に拝見したがりなさるので 6.藤壷にて藤の花の宴催される---「夏になったら、三条宮邸は宮中から塞がった方角になろう 7.女二の宮、三条宮邸に渡御す---按察使大納言は、「自分こそはこのような目に会いたい思ったが 9 薫の物語 宇治で浮舟に出逢う 1.4月20日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅---賀茂の祭などの、忙しいころを過ごして 2.薫、浮舟を垣間見る---若い女房がいるが、まず降りて、簾を上げるようである 3.浮舟、弁の尼と対面---尼君は、この殿の御方にも、ご挨拶申し上げ出したが 4.薫、弁の尼に仲立を依頼---日が暮れてゆくので、君もそっと出て   1 薫と匂宮の物語 女二の宮や六の君との結婚話  [1-1 藤壷女御と女二の宮]  その当時、藤壷と申し上げた方は、故左大臣殿の女御でいらっしゃった。が、まだ東宮と申し上げあそばしたとき、誰よりも先に入内なさっていた ので、親しく情け深い御愛情は、格別でいらっしゃったらしいが、その甲斐があったと見えることもなくて長年お過ぎになるうちに、中宮におかれて は、宮たちまでが大勢、成長なさっているらしいのに、そのようなことも少なくて、ただ女宮をお一方お持ち申し上げていらっしゃるのだった。  自分の実に無念に、他人に圧倒され申した運命、嘆かしく思っている代わりに、「せめてこの宮だけでも、何とか将来に心も慰められるようにして 差し上げたい」と、大切にお世話申し上げること並々でない。ご器量もとても美しくおいでなので、帝もかわいいとお思い申し上げあそばしていらし た。  女一の宮を、世に類のないほど大切にお世話申し上げあそばすので、世間一般の評判こそ及ぶべくもないが、内々の御待遇は、少しも劣らな い。父大臣のご威勢が、盛んであったころの名残が、たいして衰えてはいないので、特に心細いことなどはなくて、伺候する女房たちの服装や姿を はじめとして、気を抜くことなく、季節季節に応じて、仕立て好み、はなやかで趣味豊かにお暮らしになっていた。  [1-2 藤壷女御の死去と女二の宮の将来]  十四歳におなりになる年、御裳着の式をして差し上げようとして、春から準備して、余念なく御準備して、何事も普通でない様子にとお考えにな る。  昔から伝わっていた宝物類、この機会にと、探し出しては探し出しては、大変な準備をなさっていらっしゃったが、女御が、夏頃に、物の怪に患い なさって、まことにあっけなくお亡くなりになってしまった。言いようもなく残念なことと、帝におかせられてもお嘆きになる。  お心も情け深く、やさしいところがおありだった御方なので、殿上人たちも、「この上なく寂しくなってしまうことだなあ」と、惜しみ申し上げる。一般 の特に関係ない身分の女官などまでが、お偲び申し上げない者はいない。  宮は、それ以上に若いお気持ちとて、心細く悲しみに沈んでいらっしゃるのを、お耳にあそばして、おいたわしくかわいそうにお思いあそばすの で、御四十九日忌が過ぎると、早速に人目につかぬよう参内させなさった。毎日、お渡りあそばしてお会い申し上げなさる。  黒い御喪服で質素にしていらっしゃる様子は、ますますかわいらしく上品な感じがまさっていらっしゃった。お考えもすっかり一人前におなりになっ て、母女御よりも少し落ち着いて、重々しいところはまさっていらっしゃるのを、危なげのないお方だと御拝見あそばすが、実質的方面では、御母方 といっても、後見役をお頼みなさるはずの叔父などといったようなしっかりとした人がいない。わずかに大蔵卿、修理大夫などという人びとは、女御 にとっても異母兄弟なのであった。  特に世間の声望も重くなく、高貴な身分でもない人びとを後見人にしていらっしゃるので、「女性はつらいことが多くあるだろうことがお気の毒であ る」などと、お一人で御心配なさっているのも、大変なことであった。  [1-3 帝、女二の宮を薫に降嫁させようと考える]  お庭先の菊がすっかり変色して盛んなころ、空模様が胸打つようにちょっと時雨するにつけても、まずこの御方にお渡りあそばして、故人のことな どをお話し申し上げあそばすと、お返事なども、おっとりしたものの、幼くはなく少しお答え申し上げるなさるのを、かわいらしいとお思い申し上げあ そばす。  このようなご様子が分かるような人が、慈しみ申し上げるというのも、何の不都合があろうかと、朱雀院の姫宮を、六条院にお譲り申し上げなさっ た時の御評定などをお思い出しあそばすと、  「暫くの間は、どんなものかしら、物足りないことだ。降嫁などなさらなくてもよかったろうに、と申し上げる意見もあったが、源中納言が、誰よりも 孝養ある様子で、いろいろとご後見申し上げているから、その当時のご威勢も衰えず、高貴な身分の生活でいらっしゃるのだ。そうでなかったら、 ご心外なことがらが出てきて、自然と人から軽んじられなさることもあったろうに」  などと、お思い続けて、「いずれにせよ、在位中に決定しようかしら」とお考えになると、そのまま、順序に従って、この中納言より他に、適当な人 は、またいないのであった。  「宮たちの伴侶となったとして、何につけても目障りなことはあるまいよ。もともと心寄せる人があっても、聞き苦しい噂は聞くこともなさそうだし、ま た、もしいても、結局は結婚しないこともあるまい。本妻を持つ前に、それとなく当たってみよう」  などと、時々お考えになっているのであった。  [1-4 帝、女二の宮や薫と碁を打つ]  御碁などをお打ちあそばす。暮れて行くにしたがって、時雨が趣きあって、花の色も夕日に映えて美しいのを御覧になって、人を召して、  「ただ今、殿上間には誰々がいるか」  とお問いあそばすと、  「中務親王、上野親王、中納言源朝臣が伺候しております」  と奏上する。  「中納言の朝臣こちらへ」  と仰せ言があって参上なさった。なるほど、このように特別に召し出すかいもあって、遠くから薫ってくる匂いをはじめとして、人と違った様子をして いらっしゃった。  「今日の時雨は、いつもより格別にのんびりとしているが、音楽などは具合が悪い所なので、まことに所在ないが、何となく日を送る遊び事とし て、これがよいだろう」  と仰せになって、碁盤を召し出して、御碁の相手に召し寄せる。いつもこのように、お身近に親しくお召しになるのが習慣になっているので、「今日 もそうだろう」と思うと、  「ちょうどよい賭物はありそうだが、軽々しくは与えることができないので、何がよかろう」  などと仰せになるご様子は、どのように見えたのであろう、ますます緊張して控えていらっしゃる。  そうして、お打ちあそばすうちに、三番勝負に一つお負け越しあそばした。  「悔しいことだ」とおっしゃって、「まず、今日は、この花一枝を許す」  と仰せになったので、お返事を申し上げずに、降りて美しい枝を手折って持って昇がった。  「世間一般の家の垣根に咲いている花ならば   思いのままに手折って賞美すことができましょうものを」  と奏上なさる、心づかいは浅くなく見える。  「霜に堪えかねて枯れてしまった園の菊であるが   残りの色は褪せていないな」  と仰せになる。  このように、ときどき結婚をおほのめかしあそばす御様子を、人伝てでなく承りながら、例の性癖なので、急ごうとは思わない。  「いや、本意ではない。いろいろと心苦しい人びとのご縁談を、うまく聞き流して年を過ごしてきたのに、今さら出家僧が、還俗したような気がする だろう」  と思うのも、また妙なものだ。  「特別に恋い焦がれている人さえあるというのに」とは思う一方で、「后腹の姫宮でいらっしゃったら」と思う心の中は、あまりに大それた考えであ った。  [1-5 夕霧、匂宮を六の君の婿にと願う]  このようなことを、右大殿がちらっとお聞きになって、  「六の君は、そうはいってもこの君にこそ縁づけたいものだ。しぶしぶであっても、一生懸命に頼みこめば、結局は、断ることはできまい」  とお思いになったが、「意外なことが出てきたようだ」と、悔しくお思いになったので、兵部卿宮が、わざわざではないが、何かの時にそれに応じ て、風流なお手紙を差し上げなさることが続いているので、  「ままよ、いい加減な浮気心であっても、何かの縁で、お心が止まるようなことがどうしてないことがあろうか。水も漏らさない男性を思い定めてい ても、並の身分の男に縁づけるのは、また体裁が悪く、不満な気がするだろう」  などとお考えになっていた。  「女の子が心配に思われる末世なので、帝でさえ婿をお探しになる世で、まして、臣下の娘が盛りを過ぎては困ったものだ」  などと、陰口を申すようにおっしゃって、中宮をも本気になってお恨み申し上げなさることが、度重なったので、お聞きあそばしになり困って、  「お気の毒にも、このように一生懸命にお思いなさってから何年にもおなりになったので、不義理なまでにお断り申し上げなさるのも、薄情なよう でしょう。親王たちは、ご後見によって、ともかくもなるものです。  主上が、御在位も終わりに近いとばかりお思いになりおっしゃっていますようなので、臣下の者は、本妻がお決まりになると、他に心を分けること は難しいようです。それでさえ、あの大臣が誠実に、こちらの本妻とあちらの宮とに恨まれないように待遇していらっしゃるではありませんか。まし て、あなたは、お考え申していることが叶ったら、大勢伺候させても構わないのですよ」  などと、いつもと違って言葉数多く話して、道理をお説き申し上げなさるのを、  「ご自身でも、もともとまったく嫌とは、お思いにならないことなので、無理やりに、どうしてとんでもないこととお思い申し上げなさろう。ただ、万事 格式ばった邸に閉じ籠められて、自由気ままになさっていらした状態が窮屈になることを、何となく苦しくお思いになるのが嫌なのだが、なるほど、 この大臣から、あまり恨まれてしまうのも困ったことだろう」  などと、だんだんお弱りになったのであろう。浮気なお心癖なので、あの按察大納言の、紅梅の御方をも、依然としてお思い捨てにならず、花や 紅葉につけてはお歌をお贈りなさって、どちらの方にもご関心がおありであった。けれども、その年は過ぎた。   2 中の君の物語 中の君の不安な思いと薫の同情  [2-1 匂宮の婚約と中の君の不安な心境]  女二の宮も、御服喪が終わったので、「ますます何事を遠慮なさろう。そのようにお願い申し出るならば」とお考えあそばしている御様子などを、 お告げ申し上げる人びともいるが、「あまり知らない顔をしているのもひねくれているようで悪いことだ」などとご決心して、結婚をほのめかし申しあ そばす時々があるので、「体裁悪いようには、どうしてあしらうことがあろうか。婚儀を何日にとお定めになった」と伝え聞く、自分自身でも御内意を 承ったが、心の中では、やはり惜しくも亡くなっ方の悲しみばかりが、忘れる時もなく思われるので、「嫌な、このような宿縁が深くおありであった方 が、どうしてか、それでもやはり他人のまま亡くなってしまったのか」と理解しがたく思い出される。  「卑しい身分であるとも、あのご様子に少しでも似ているような人なら、きっと心も引かれるだろう。昔あったという反魂香の煙によってでも、もう一 度お会いしたものだな」とばかり思われて、高貴な方と、早く婚儀を上げたいなどと急ぐ気もしない。  右大殿ではお急ぎになって、「八月頃に」と申し上げなさったのであった。二条院の対の御方では、お聞きになると、  「やはりそうであったか。どうしてか、一人前でもない様子のようなので、必ず物笑いになる嫌な事が出て来るだろうことは、思いながら過ごしてき たことだ。浮気なお心癖とずっと聞いていたが、頼りがいなく思いながらも、面と向かっては、特につらそうなことも見えず、愛情深い約束ばかりなさ っていらっしゃるので、急にお変わりになるのは、どうして平気でいられようか。臣下の夫婦仲のように、すっかり縁が切れてしまうことなどはなくて も、どんなにか安からぬことが多いだろう。やはり、まことに情けない身の上のようなので、結局は、山里へ帰ったほうがよいようだ」  とお思いになるにつけても、「このまま姿を隠すよりは、山里の人が待ち迎え思うことも物笑いになる。返す返すも、父宮が遺言なさっていたことに 背いて、山荘を出てしまった軽率さ」を、恥ずかしくもつらくもお思い知りになる。  「亡き姉君が、たいそうとりとめもなく、頼りなさそうにばかり、何事もお考えになりおっしゃっていたが、心の底が慎重であったところは、この上な くいらしたことだ。中納言の君が、今でも忘れることなくお悲しみになっていらっしゃるようだが、もし生きていらっしゃったら、またこのようにお悩みに なることがあったかも知れない。  それを、たいそう深く、どうしてそんなことはあるまい、と深くお思いになって、あれやこれやと、離れることをお考えになって、出家してしまいたいと なさったのだ。きっとそうなさったにちがいないだろう。  今思うと、どんなに重々しいお考えだったことだろう。亡き父宮や姉君も、わたしをどんなにかこの上ない軽率者と御覧になることだろう」  と恥ずかしく悲しくお思いになるが、「どうしても、仕方のないことだから、このような様子をお見せ申し上げようか」と我慢して、聞かないふりをして お過ごしになる。  [2-2 中の君、匂宮の子を懐妊]  宮は、いつもよりしみじみとやさしく、起きても臥せっても語らいながら、この世だけでなく、長い将来のことをお約束申し上げなさる。  一方では、今年の五月頃から、普段と違ってお苦しみになることがあるのだった。ひどくお苦しみにはならないが、いつもより食事を上がることこと がますますなく、臥せってばかりいらっしゃるので、まだそのような人の様子を、よくご存知ないので、「ただ暑いころなので、こうしていらっしゃるの だろう」とお思いになっていた。  そうはいっても変だとお気づきになることがあって、「もしや、なにしたのではないか。そうした人はこのように苦しむというが」などと、おっしゃる時 もあるが、とても恥ずかしがりなさって、さりげなくばかり振る舞っていらっしゃるのを、差し出て申し上げる女房もいないので、はっきりとはご存知に なれない。  八月になったので、何日などと、外からお伝え聞きになる。宮は、隠しだてをしようというのではないのだが、言い出すことがお気の毒でおいたわ しくお思いになって、そうとおっしゃらないのを、女君は、それさえつらくお思いになる。隠れたことでもなく、世間の人がみな知っていることを、何日 などとさえおっしゃらないことだと思うと、どんなにか恨めしくないことがあろうか。  このようにお移りになってから後は、特別の事がないと、宮中に参内なさっても、夜泊まることは特になさらず、あちらこちらに外泊することなども なかったが、急にどのようにお悲しみだろうと、お気の毒なことにしないために、最近は、時々御宿直といって参内などなさっては、前もって独り寝を お馴らし申し上げなさるのをも、ただつらいことにばかりお思いになるのだろう。  [2-3 薫、中の君に同情しつつ恋慕す]  中納言殿も、「まことにお気の毒なことだな」とお聞きになる。「花心でいらっしゃる宮なので、いとしいとお思いになっても、新しい方にきっとお心 移りしてしまうだろう。女方も、とてもしっかりした家の方で、お放しなくお付きまといなさったら、この幾月、夜離れにお馴れにならないで、待ってい る夜を多くお過ごしになることは、おいたわしいことだ」  などとお思いよりになるにつけても、  「つまらないことをした、自分だな。どうしてお譲り申し上げたのだろう。亡き姫君に思いを寄せてから後は、世間一般から思い捨てて悟りきってい た心も濁りはじめてしまったので、ただあの方の御事ばかりがあれやこれやと思いながら、やはり相手が許さないのに無理を通すことは、初めから 思っていた本心に背くだろう」  と遠慮しながら、「ただ何とかして、少しでも好意を寄せてもらって、うちとけなさった様子を見よう」と、将来の心づもりばかりを思い続けていたが、 相手は同じ考えではないなさり方で、とはいえ、むげに突き放すことはできまいとお思いになる気休めから、同じ姉妹だといって、望んでいない方を お勧めになったのが悔しく恨めしかったので、「まず、その考えを変えさせようと、急いでやったことなのだ」などと、やむにやまれず男らしくもなく気 違いじみて宮をお連れして、おだまし申し上げた時のことを思い出すにつけても、「まことにけしからぬ心であったよ」と、返す返す悔しい。  「宮も、そうはいっても、その当時の様子をお思い出しになったら、わたしの聞くところも少しはご遠慮なさらないはずもあるまい」と思うが、「さあ、 今は、その当時のことなど、少しもお口に出さないようだ。やはり、浮気な方面に進んで、移り気な人は、女のためのみならず、頼りなく軽々しいこ とがきっと出てくるにちがいない」  などと、憎くお思い申し上げなさる。自分のほんとうにお一方にばかり執着した経験から、他人がまことにこの上もなくはがゆく思われるのであろ う。  [2-4 薫、亡き大君を追憶す]  あの方をお亡くし申しなさってから後、思うことには、帝が皇女を下さるとお考えおいていることも、嬉しくなく、この君を得たならばと思われる心 が、月日とともにつのるのも、ただ、あの方のご血縁と思うと、思い離れがたいのである。  「姉妹という間でも、この上なく睦み合っていらしたものを、ご臨終となった最期にも、『遺る人を私と同じように思って下さい』と言って、『何もかも 不満に思うこともありません。ただ、あの考えていたこととをお違いになった点が残念で恨めしいこととして、この世に残るでしょう』とおっしゃった が、魂が天翔っても、このようなことにつけて、ますますつらいと御覧になるだろう」  などと、つくづくと他人のせいでない独り寝をなさる夜々は、ちょっとした風の音にも目ばかり覚ましては、過ぎ去ったことこれからのこと、人の身 の上まで、無常な世をいろいろとお考えになる。  一時の慰めとして情けもかけ、身近に使い馴れていらっしゃる女房の中には、自然と憎からずお思いになる者もいるはずだが、真実に心をおとめ にならないのは、さっぱりしたものだ。  その一方では、あの姫君たちの身分に劣らない身分の人びとも、時勢にしたがって衰えて、心細そうな生活をしているのなどを、探し求めては邸 においていらっしゃる人などが、たいそう多いが、「今は世を捨てて出家しようとするとき、この人だけはと、特別に心とまる妨げになる程度のことは なくて過ごそう」と思う考えが深かったが、「さあ、さも体裁悪く、自分ながら、ひねくれていることだな」  などと、いつもよりも、そのまま眠らず夜を明かしなさった朝に、霧の立ちこめた籬から、花が色とりどりに美しく一面に見える中で、朝顔の花が頼 りなさそうに混じって咲いているのを、やはり特に目がとまる気がなさる。「朝の間咲いて」とか、無常の世に似ているのが、身につまされるのだろ う。  格子も上げたまま、ほんのかりそめに横になって夜をお明かしになったので、この花が咲く間を、ただ独りで御覧になったのであった。  [2-5 薫、二条院の中の君を訪問]  人を呼んで、  「北の院に参ろうと思うが、仰々しくない車を出しなさい」  とおっしゃると、  「宮は、昨日から宮中においでになると言います。昨夜、お車を引いて帰って来ました」  と申し上げる。  「それはそれでよい、あの対の御方がお苦しみであるという、お見舞い申そう。今日は宮中に参内しなければならない日なので、日が高くならな い前に」  とおっしゃって、お召し替えなさる。お出かけになるとき、降りて花の中に入っていらっしゃる姿、格別に艶やかに風流っぽくお振る舞いにはならな いが、不思議と、ただちょっと見ただけで優美で気恥ずかしい感じがして、ひどく気取った好色連中などととても比較することができない、自然と身 にそなわった美しさがおありになるのだった。朝顔を引き寄せなさると、露がたいそうこぼれる。  「今朝の間の色を賞美しようか、置いた露が   消えずに残っているわずかの間に咲く花と思いながら  はかないな」  と独り言をいって、折ってお持ちになった。女郎花には、目もくれずにお出になった。  明るくなるにしたがって、霧が立ちこめこめている空が美しいので、  「女たちは、しどけなく朝寝していらっしゃるだろう。格子や妻戸などを叩き咳払いするのは、不慣れな感じがする。朝早いのにもう来てしまった」  と思いながら、人を召して、中門の開いている所から覗き見させなさると、  「御格子は上げてあるらしい。女房のいる様子もしていました」  と申すので、下りて、霧の紛れに体裁よくお歩みになっているのを、「宮が隠れて通う所からお帰りになったのか」と見ると、露に湿っていらっしゃ る香りが、例によって、格別に匂って来るので、  「やはり、目が覚める思いがする方ですこと。控え目でいらっしゃることが憎らしいこと」  などと、勝手に、若い女房たちは、お噂申し上げていた。  驚いたふうでもなく、体裁よく衣ずれの音をさせて、お敷物を差し出す態度も、まことに無難である。  「ここに控えよとお許しいただけることは、一人前扱いの気がしますが、やはりこのような御簾の前に放っておいでになるのは情けない気がし、頻 繁にお伺いできません」  とおっしゃるので、  「それでは、どう致しましょう」  などと申し上げる。  「北面などの目立たない所ですね。このような古なじみなどが控えているのに適当な休憩場所は。それも、また、お気持ち次第なので、不満を申 し上げるべきことでもない」  と言って、長押に寄り掛かっていらっしゃると、例によって、女房たちが、  「やはり、あそこまで」  などと、お促し申し上げる。  [2-6 薫、中の君と語らう]  もともと、感じがてきぱきと男らしくはいらっしゃらないご性格であるが、ますますしっとりと静かにしていらっしゃるので、今は、自分からお話し申し 上げなさることも、だんだんと嫌で遠慮された気持ちも、少しずつ薄らいでお馴れになっていった。  つらそうにしていらっしゃる様子も、「どうしたのですか」などとお尋ね申し上げなさったが、はっきりともお答え申し上げず、いつもよりも沈んでいら っしゃる様子がおいたわしいのが、お気の毒に思われなさって、情愛こまやかに、夫婦仲のあるべき様子などを、兄妹である者のように、お教え慰 め申し上げなさる。  声なども、特に似ていらっしゃるとは思われなかったが、不思議なまでにあの方そっくりに思われるので、人目が見苦しくないならば、簾を引き上 げて差し向かいでお話し申し上げたく、苦しくしていらっしゃる容貌が見たく思われなさるのも、「やはり、恋の物思いに悩まない人は、いないので はないか」と自然と思い知られなさる。  「人並に出世して派手な方面はございませんが、心に思うことがあり、嘆かわしく身を悩ますことはなくて過ごせるはずの現世だと、自分自身思っ ておりましたが、心の底から、悲しいことも、馬鹿らしく悔しい物思いをも、それぞれに休まる時もなく思い悩んでいますことは、つまらないことです。 官位などといって、大事にしているらしい、もっともな愁えにつけて嘆き思う人よりも、自分の場合は、もう少し罪の深さが勝るだろう」  などと言いながら、手折りなさった花を、扇に置いてじっと見ていらっしゃったが、だんだんと赤く変色してゆくのが、かえって色のあわいが風情深 く見えるので、そっと差し入れて、  「あなたを姉君と思って自分のものにしておくべきでした   白露が約束しておいた朝顔の花ですから」  ことさらそうしたのではなかったが、「露を落とさないで持ってきたことよ」と、興趣深く思えたが、露の置いたまま枯れてゆく様子なので、  「露の消えない間に枯れてしまう花のはかなさよりも   後に残る露はもっとはかないことです  何にすがって生きてゆけばよいのでしょう」  と、たいそう低い声で言葉も途切れがちに、慎ましく否定なさったところは、「やはり、とてもよく似ていらっしゃるなあ」と思うと、何につけ悲しい。  [2-7 薫、源氏の死を語り、亡き大君を追憶]  「秋の空は、いま一つ物思いばかりまさります。所在ない紛らしにと思って、最近、宇治へ行きました。庭も籬もほんとうにますます荒れはてまし たので、堪えがたいことが多くございました。  故院がお亡くなりになって後、二、三年ほど前に、出家なさった嵯峨院でも、六条院でも、ちょっと立ち寄る人は、感慨に咽ばない者はございませ んでした。木や草の色につけても、涙にくれてばかり帰ったものでございました。あちらの殿にお仕えしていた人たちは、身分の上下を問わず心の 浅い人はございませんでした。  あちこちに集まっていられた方々も、みなそれぞれに退出してゆき、おのおのこの世を捨てた生活をしていらしたようですが、しがない身分の女房 などは、それ以上に悲しい思いを収めることもないままに、わけも分からない考えにまかせて、山林に入って、つまらない田舎人になりさがったりな どして、かわいそうにうろうろと散ってゆく者が多うございました。  そうして、かえってすっかり荒らしはて、忘れ草が生えて後、この右大臣も移り住み、宮たちなども何方もおいでになったので、昔に返ったようでご ざいます。その当時、世に類のない悲しみと拝見しましたことも、年月がたてば、悲しみの冷める時も出てくるものだ、と経験しましたが、なるほど、 物には限りがあるものだった、と思われます。  このように申し上げさせていただきながらも、あの昔の悲しみは、まだ幼かった時のことで、とてもそんなに深く感じなかったのでございましょう。 やはり、この最近の夢こそ、覚ますことができなく存じられますのは、同じように、世の無常の悲しみであるが、罪深いほうでは勝っていましょうか と、そのことまでがつろうございます」  と言って、お泣きになるところ、まことに心深そうである。  亡くなった方を、たいしてお思い申し上げない人でさえ、この方が悲しんでいらっしゃる様子を見ると、つい同情してもらい泣きしないではいられな いが、それ以上に、自分も何となく心細くお思い乱れなさるにつけては、ますますいつもよりも、面影に浮かんで恋しく悲しくお思い申し上げなさる 気分なので、いまいちだんと涙があふれて、何も申し上げることがおできになれず、躊躇なさっている様子を、お互いにまことに悲しいと思い交わし なさる。  [2-8 薫と中の君の故里の宇治を思う]  「世の中のつらさよりはなどと、昔の人は言ったが、そのように比較する考えも特になくて、何年も過ごしてきましたが、今やっと、やはり何とか静 かな所で過ごしたく存じますが、何といっても思い通りにならないようなので、弁の尼が羨ましうございます。  今月の二十日過ぎには、あの山荘に近いお寺の鐘の音も耳にしたく思われますので、こっそりと宇治へ連れて行ってくださいませんか、と申し上 げたく思っておりました」  とおっしゃるので、  「荒らすまいとお考えになっても、どうしてそのようなことができましょう。気軽な男でさえ、往復の道が荒々しい山道でございますので、思いなが ら幾月もご無沙汰しています。故宮のご命日には、あの阿闍梨に、しかるべき事柄をみな言いつけておきました。あちらは、やはり仏にお譲りなさ いませ。時々御覧になるにつけても、迷いが生じるのも困ったことですから、罪を滅したい、と存じますが、他にどのようにお考えでしょうか。  どのようにお考えなさることにも従おう、と存じております。ご希望どおりにおっしゃいませ。どのようなことも親しく承るのが、望むところでございま す」  などと、実務面のことをも申し上げなさる。経や仏など、この上さらに御供養なさるようである。このような機会にかこつけて、そっと籠もりたい、な どとお思いになっている様子なので、  「実にとんでもないことです。やはり、どのようなことでもゆったりとお考えなさいませ」  とお諭し申し上げなさる。  [2-9 薫、二条院を退出して帰宅]  日が昇って、人びとが参集して来るので、あまり長居するのも何かわけがありそうにとられるので、お出になろうとして、  「どこでも、御簾の外は馴れておりませんので、体裁の悪い気がしました。いずれまた、このようにお伺いしましょう」  と言ってお立ちになった。「宮が、どうして不在の折に来たのだろう」ときっと想像するにちがいないご性質なのもやっかいなので、侍所の別当で ある右京大夫を呼んで、  「昨夜退出あそばしたと承って参上したが、まだであったので残念であった。内裏に参ったほうがよかったろうか」  とおっしゃると、  「今日は、退出あそばしましょう」  と申し上げるので、  「それでは、夕方にでも」  と言って、お出になった。  やはり、この方のお感じやご様子をお聞きになるたびごとに、どうして亡くなった姫君のお考えに背いて、考えもなく譲ってしまったのだろうと、後 悔する気持ちばかりがつのって、忘れられないのもうっとうしいので、「どうして、自ら求めて悩まねばならない性格なのだろう」と反省なさる。その まままだ精進生活で、ますますただひたすら勤行ばかりなさっては、日をお過ごしになる。  母宮が、依然としてとても若くおっとりして、はきはきしないお方でも、このようなご様子を、まことに危なく不吉であるとお思いになって、  「もう先が長くないので、お目にかかっている間は、やはり嬉しい姿を見せてください。世の中をお捨てになるのも、このような出家の身では、反対 申し上げるべきことではないが、この世が話にもならない気がしましょう、その心迷いに、ますます罪を得ようかと思われます」  とおっしゃるのが、もったいなくおいたわしいので、何もかも思いを忘れては、御前では物思いのない態度を作りなさる。   3 中の君の物語 匂宮と六の君の婚儀  [3-1 匂宮と六の君の婚儀]  右の大殿邸では、六条院の東の御殿を磨き飾って、この上なく万事を整えてお待ち申し上げなさるが、十六日の月がだんだん高く昇るまで見え ないので、たいしてお気に入りでもない結婚なので、どうなのだろうと、ご心配になって、様子を探って御覧になると、  「この夕方、宮中から退出なさって、二条院にいらっしゃるという」  と、人が申す。お気に入りの人がおありなのでと、おもしろくないけれども、今夜が過ぎてしまうのも物笑いになるだろうから、ご子息の頭中将を 使いとして申し上げなさった。  「大空の月でさえ宿るわたしの邸にお待ちする   宵が過ぎてもまだお見えにならないあなたですね」  宮は、「かえって今日が結婚式だと知らせまい、お気の毒だ」とお思いになって、内裏にいらっしゃった。お手紙を差し上げたお返事はどうあった のだろうか、やはりとてもかわいそうに思われなさったので、こっそりとお渡りになったのであった。かわいらしい様子を、見捨ててお出かけになる 気もせず、いとおしいので、いろいろと将来を約束し慰めて、ご一緒に月を眺めていらっしゃるところであった。  女君は、日頃もいろいろとお悩みになることが多かったが、何とかして表情に表すまいと我慢なさっては、さりげなく心静めていらっしゃることなの で、特にお耳に入れないふうに、おっとりと振る舞っていらっしゃる様子は、まことにおいたわしい。  中将が参上なさったのをお聞きになって、そうはいってもあちらもお気の毒なので、お出かけになろうとして、  「今、直ぐに帰って来ます。独りで月を御覧なさいますな。上の空の思いでとても辛い」  と申し上げおきなさって、やはり見ていられないので、物蔭を通って寝殿へお渡りになる、その後ろ姿を見送るにつけ、あれこれ思わないが、ただ 枕が浮いてしまいそうな気がするので、「嫌なものは人の心であった」と、自分のことながら思い知られる。  [3-2 中の君の不安な心境]  「幼いころから心細く哀れな姉妹で、世の中に執着などお持ちでなかった父宮お一方をお頼り申し上げて、あのような山里に何年も過ごしてきた が、いつとなく所在なく寂しい生活ではあったが、とてもこのように心にしみてこの世が嫌なものだと思わなかったが、引き続いて思いがけない肉親 の死に遭って悲しんだ時は、この世にまた生き遺って片時も生き続けようとは思えず、悲しく恋しいことの例はあるまいと思ったが、命長く今まで生 き永らえていたので、皆が思っていたほどよりは、人並みになったような有様が、長く続くこととは思わないが、一緒にいる限りは憎めないご愛情 やお扱いであるが、だんだんと悩むことが薄らいできていたが、この度の身のつらさは、言いようもなく、最後だと思われることであった。  跡形もなくすっかりお亡くなりになってしまった方々よりは、いくらなんでも、宮とは時々でも何でお会いできないことがないだろうかと思ってもよい のだが、今夜このように見捨ててお出かけになるつらさが、過去も未来も、すべて分からなくなって、心細く悲しいのが、自分の心ながらも晴らしよ うもなく、嫌なことだわ。自然と生き永らえていればまた」  などと慰めることを思うと、さらに姨捨山の月が澄み昇って、夜が更けて行くにつれて千々に心が乱れなさる。松風が吹いて来る音も、荒々しかっ た山下ろしに思い比べると、とてものんびりとやさしく、感じのよいお住まいであるが、今夜はそのようには思われず、椎の葉の音には劣った感じが する。  「山里の松の蔭でもこれほどに   身にこたえる秋の風は経験しなかった」  過去のつらかったことを忘れたのであろうか。  老女連中などは、  「もう、お入りなさいませ。月を見ることは忌むと言いますから。あきれてまあ、ちょっとした果物でさえお見向きもなさらないので、どのようにおなり あそばすのでしょう」と。「ああ、見苦しいこと。不吉にも思い出されることがございますが、まことに困ったこと」  と溜息をついて、  「いえね、今度の殿の事ですよ。いくらなんでも、このままいい加減なお扱いで終わることはなされますまい。そうは言っても、もともと深い愛情で 結ばれた仲は、すっかり切れてしまうものでございません」  などと言い合っているのも、あれこれと聞きにくくて、「今はもう、どうあろうとも口に出して言うまい、ただ黙って見ていよう」とお思いなさるのは、 人には言わせないで、自分独りお恨み申そうというのであろうか。「いえね、中納言殿が、あれほど親身なご親切でしたのに」などと、その当時か らの女房たちは言い合って、「人のご運命のあやにくなことよ」と言い合っていた。  [3-3 匂宮、六の君に後朝の文を書く]  宮は、たいそうお気の毒にお思いになりながら、派手好きなご性格は、何とか立派な婿殿と期待されようと、気取って、何ともいえず素晴らしい香 をたきしめなさったご様子は、申し分がない。お待ち申し上げていらっしゃるところの様子も、まことに素晴らしかった。身体つきは、小柄で華奢とい ったふうではなく、ちょうどよいほどに成人していらっしゃるのを、  「どんなものかしら。もったいぶって気が強くて、気立ても柔らかいところがなく、何となく高慢な感じであろうか。それであったら、嫌な感じがする だろう」  などとお思いになるが、そのようなご様子ではないのであろうか、ご執心はいい加減にはお思いなされなかった。秋の夜だが、更けてから行かれ たからであろうか、まもなく明けてしまった。  お帰りになっても、対の屋へはすぐにはお渡りなることができず、しばらくお寝みになって、起きてからお手紙をお書きになる。  「ご様子は悪くはないようだわ」  と御前の人びとがつつき合う。  「対の御方はお気の毒だわ。どんなに広いお心であっても、自然と圧倒されることがきっとあるでしょう」  などと、平気でいられず、みな親しくお仕えしている人びとなので、穏やかならず言う者もいて、総じて、やはり妬ましいことであった。お返事も、 「こちらで」とお思いになったが、「夜の間の気がかりさも、いつものご無沙汰よりもどんなものか」と、気にかかるので、急いでお渡りになる。  寝起き姿のご容貌が、たいそう立派で見所があって、お入りになったので、臥せっているのも嫌なので、少し起き上がっていらっしゃると、ちょっと 赤らんでいらっしゃる顔の美しさなどが、今朝は特にいつもより格別に美しさが増してお見えになるので、無性に涙ぐまれて、暫くの間じっとお見つ め申していらっしゃると、恥ずかしくお思いになってうつ伏せなさっている、髪のかかり具合、かっこうなどが、やはりまことに見事である。  宮も、何か体裁悪いので、こまごまとしたことなどは、ちっともおっしゃらない照れ隠しであろうか、  「どうしてこうしてばかり苦しそうなご様子なのでしょう。暑いころのゆえとか、おっしゃっていたので、早く涼しいころになればと待っていたのに、依 然として気分が良くならないのは、困ったことですわ。いろいろとさせていたことも、不思議に効果がない気がする。そうはいっても、修法はまた延 長してよいだろう。効験のある僧はいないだろうか。何某僧都を、夜居に伺候させればよかった」  など、といったような実際的なことをおっしゃるので、このような方面でも調子のよい話は、気にくわなく思われなさるが、全然お返事申し上げない のもいつもと違うので、  「昔も、人と違った体質で、このようなことはありましたが、自然と良くなったものです」  とおっしゃるので、  「とてもよくまあ、さっぱりしたものですね」  とにっこりして、「やさしくかわいらしい点ではこ、の人に並ぶ者はいない」とは思いながら、やはりまた、早く逢いたい方への焦りの気持ちもお加 わりになっているのは、ご愛情も並々ではないのであろうよ。  [3-4 匂宮、中の君を慰める]  けれど、向き合っていらっしゃる間は変わった変化もないのであろうか、来世まで誓いなさることの尽きないのを聞くにつけても、なるほど、この世 は短い寿命を待つ間も、つらいお気持ちは表れるにきまっているので、「来世の約束も違わないことがあろうか」と思うと、やはり性懲りもなく、また 頼らずにはいられないと思って、ひどく祈るようであるが、我慢することができなかったのか、今日は泣いておしまいになった。  日頃も、「何とかこう悩んでいたと見られ申すまい」と、いろいろと紛らわしていたが、あれやこれやと思うことが多いので、そうばかりも隠していら れなかったのか、涙がこぼれ出しては、すぐには止められないのを、とても恥ずかしくわびしいと思って、かたくなに横を向いていらっしゃるので、無 理に前にお向けになって、  「申し上げるままに、いとしいお方と思っていたのに、やはりよそよそしいお心がおありなのですね。そうでなければ、夜の間にお変わりになった のですか」  と言って、ご自分のお袖で涙をお拭いになると、  「夜の間の心変わりとは、そうおっしゃることによって、想像されました」  と言って、少しにっこりした。  「なるほど、あなたは、子供っぽいおっしゃりようですよ。けれどほんとうのところは、心に隠し隔てがないので、とても気楽だ。ひどくもっともらしく 申し上げたところで、とてもはっきりと分かってしまうものです。まるきり夫婦の仲というものをご存知ないのは、かわいらしいものの困ったもので す。よし、自分の身になって考えてください。この身を思うにまかせない状態です。もし、思うとおりにできる時がきたら、誰にもまさる愛情のほどを、 お知らせ申し上げることが一つあるのです。簡単に口に出すべきことでないので、寿命があったら」  などとおっしゃるうちに、あちらに差し上げなさったお使いが、ひどく酔い過ぎたので、少し遠慮すべきことも忘れて、おおっぴらにこの対の南面に 参上した。  [3-5 後朝の使者と中の君の諦観]  素晴らしく衣装を肩に被いて埋もれているのを、「そうらしい」と、女房たちは見る。いつの間に急いでお書きになったのだろうと見るのも、おもしろ くなかったであろうよ。宮も、無理に隠すべきことでもないが、いきなり見せるのはやはりお気の毒なので、少しは気をつけてほしかったと、はらはら したが、もうしかたがないので、女房をしてお手紙を受け取らせなさる。  「同じことなら、すべて隠し隔てないようにしよう」とお思いになって、お開きになると、「継母の宮のご筆跡のようだ」と見えるので、少しは安心して お置きになった。代筆でも、気がかりなことであるよ。  「さし出でますことは、きまりが悪いので、お勧めしましたが、とても悩ましそうでしたので。   女郎花が一段と萎れています   朝露がどのように置いていったせいなのでしょうか」  上品で美しくお書きになっていた。  「恨みがましい歌なのも厄介だね。ほんとうは、気楽に当分暮らしていようと思っていたのに、意外なことになったものだ」  などとはおっしゃるが、  「また他に二人となくて、そのような仲に馴れている臣下の夫婦仲は、このようなことの恨めしさなども、見る人は気の毒にも思うが、思えばこの 宮はとても難しい。結局はこのようになることである。宮様方と申し上げる中でも、将来を特に世間の人がお思い申し上げているので、幾人も幾人 もお持ちになることも、非難されるべきことでないので、誰も、この方をお気の毒だなどと思わないのであろう。これほど重々しく大切にお住まわせ になって、おいたわしくお思いになること、並々でなくお思いでいるのを、幸いでいらっしゃった」  とお噂申し上げるようだ。自分自身の気持ちでも、あまり大事にしていてくださって、急に具合が悪くなるのが嘆かわしいのだろう。  「このような夫婦の問題を、どうして大問題扱いを人はするのだろうと、昔物語などを見るにつけても、人の身の上でも、不思議に聞いて思ってい たのは、なるほど大変なことなのであった」  と、自分の身になって、何事も理解されるのであった。  [3-6 匂宮と六の君の結婚第二夜]  宮は、いつもよりも愛情深く、心を許した様子にお扱いをなさって、  「まったく食事をなさらないのは、とてもよくないことです」  と言って、結構な果物を持って来させて、また、しかるべき料理人を召して、特別に料理させなどして、お勧め申し上げなさるが、まるで手をお出 しにならないので、「見ていられないことだ」とご心配申し上げなさっているうちに、日が暮れたので、夕方、寝殿へお渡りになった。  風が涼しく、いったいの空も趣きのあるころなので、派手好みでいらっしゃるご性分なので、ますます浮き浮きした気になって、物思いをしている 方のご心中は、何事につけ堪え難いことばかりが多かったのである。蜩のなく声に、山里ばかりが恋しくて、  「宇治にいたら何気なく聞いただろうに   蜩の声が恨めしい秋の暮だこと」  今夜はまだ更けないうちにお出かけになるようである。御前駆の声が遠くなるにつれて、海人が釣するくらいなるのも、「自分ながら憎い心だわ」 と、思いながら聞き臥せっていらっしゃった。はじめから物思いをおさせになった頃のことなどを思い出すにつけても、疎ましいまでに思われる。  「この悩ましいことも、どのようになるのであろう。たいそう短命な一族なので、このような折にでもと、亡くなってしまうのであろうか」  と思うと、「惜しくはないが、悲しくもあり、またとても罪深いことであるというが」などと、眠れないままに夜を明かしなさる。  [3-7 匂宮と六の君の結婚第三夜の宴]  その日は、后の宮が悩ましそうでいらっしゃると聞いて、皆が皆、参内なさったが、お風邪でいらっしゃったので、格別のことはおありでないと聞い て、大臣は昼に退出なさったのであった。中納言の君をお誘い申されて、一台に相乗りしてお下がりになった。  「今夜の儀式を、どのようにしよう。善美を尽くそう」と思っていらっしゃるらしいが、限度があるだろうよ。この君も、気が置ける方であるが、親しい 人と思われる点では、自分の一族にまたそのような人もいらっしゃらず、祝宴の引き立て役にするには、また心格別でいらっしゃる方だからであろ う。いつもと違って急いで参上なさって、人の身の上のことを残念だとも思わずに、何やかやと心を合わせてご協力なさるのを、大臣は、人には知ら れず憎らしいとお思いになるのであった。  宵が少し過ぎたころにおいでになった。寝殿の南の廂間の、東に寄った所にご座所を差し上げた。御台八つ、通例のお皿など、きちんと美しくて、 また、小さい台二つに、華足の皿の類を、新しく準備させなさって、餅を差し上げなさった。珍しくもないことを書き置くのも気が利かないこと。  大臣がお渡りになって、「夜がたいそう更けてしまった」と、女房を介して祝宴につくことをお促し申し上げなさるが、まことにしどけないお振る舞い で、すぐには出ていらっしゃらない。北の方のご兄弟の左衛門督や、藤宰相などばかりが伺候なさる。  やっとお出になったご様子は、まことに見る効のある気がする。主人の頭中将が、盃をささげてお膳をお勧めする。次々にお盃を、二度、三度とお 召し上がりになる。中納言がたいそうお勧めになるので、宮は少し苦笑なさった。  「やっかいな所だ」  と、自分には不適当な所だと思って言ったのを、お思い出しになったようである。けれど、知らないふりして、たいそうまじめくさっている。  東の対にお出になって、お供の人々を歓待なさる。評判のよい殿上人連中もたいそう多かった。  四位の六人には、女の装束に細長を添えて、五位の十人には、三重襲の唐衣、裳の腰もすべて差異があるようである。六位の四人には、綾の 細長、袴など。一方では、限度のあることを物足りなくお思いになったので、色合いや、仕立てなどに、善美をお尽くしになったのであった。  召次や、舎人などの中には、度を越すと思うほど立派であった。なるほど、このように派手で華美なことは、見る効あるので、物語などにも、さっそ く言い立てたのであろうか。けれど、詳しくはとても数え上げられなかったとか。   4 薫の物語 中の君に同情しながら恋慕の情高まる  [4-1 薫、匂宮の結婚につけわが身を顧みる]  中納言殿の御前駆の中に、あまり待遇がよくなかったのか、暗い物蔭に立ち交じっていたのだろうか、帰って来て嘆いて、  「わが殿は、どうしておとなしくて、この殿の婿におなりあそばさないのだろう。つまらない独身生活だよ」  と、中門の側でぶつぶつ言っていたのをお聞きつけになって、おかしくお思いになるのであった。夜が更けて眠たいのに、あの歓待されている人 びとは、気持ちよさそうに酔い乱れて寄り臥せってしまったのだろうと、羨ましいようである。  君は、部屋に入ってお臥せりになって、  「きまりの悪いことだなあ。仰々しい父親が出て来て座って、縁遠くはない仲だが、あちこちに、火を明るく掲げて、お勧め申した盃事などを、とて も体裁よくお振る舞いになったな」  と、宮のお振舞を、無難であったとお思い出し申し上げなさる。  「なるほど、自分でも、良いと思う女の子を持っていたら、この宮をお措き申しては、宮中にさえ入内させないだろう」と思うと、「誰も彼もが、宮に 差し上げたいと志していらっしゃる娘は、やはり源中納言にこそと、それぞれ言っているらしいことは、自分の評判がつまらないものではないのだ な。実のところは、あまり結婚に関心もなく、ぱっとしないのに」などと、大きな気持ちにおなりになる。  「帝の御内意のあることが、本当に御決意なさったら、このようにばかり何となく億劫にばかり思っていたら、どうしたものだろう。面目がましいこと ではあるが、どんなものだろうか。どうかな、亡くなった姫君にとてもよく似ていらっしゃったら、嬉しいことだろう」と自然と思い寄るのは、やはりまっ たく関心がないではないのであろうよ。  [4-2 薫と按察使の君、匂宮と六の君]  いつものように、寝覚めがちな何もすることのないころなので、按察使の君といって、他の女房よりは少し気に入っていらっしゃる者の部屋にいら して、その夜は明かしなさった。夜の明け過ぎても、誰も非難するはずもないのに、つらそうに急いで起きなさるので、平気ではいられないようであ る。  「いったいに世間から認められない仲なのに   お逢いし続けているという評判が立つのが辛うございます」  気の毒なので、  「深くないように表面は見えますが   心の底では愛情の絶えることはありません」  深いと、おっしゃるだけでも頼りないのを、これ以上の浅さは、ますますつらく嫌に思われるであろうよ。妻戸を押し開けて、  「ほんとうは、この空を御覧なさい。どうしてこれを知らない顔で夜を明かそうかよ。風流人を気取るのではないが、ますます明かしがたくなってゆ く、夜々の寝覚めには、この世やあの世まで思い馳せられて、しんみりする」  などと、言い紛らわしてお出になる。特に趣きのある言葉の数々は尽くさないが、態度が優美に見えるせいであろうか、情けのない人のようには 誰からも思われなさらない。ちょっとした冗談を言いかけなさった女房で、お側近くに拝見したい、とばかりお思い申しているのか、強引に、出家な さった宮の御方に、縁故を頼っては頼って参集して仕えているのも、気の毒なことが、身分に応じて多いのであろう。  宮は、女君のご様子、昼間に拝見なさると、ますますお気持ちが深くなるのであった。背恰好も程よい人で、姿態はたいそう美しくて、髪のさがり 具合、頭の恰好などは、人より格別にすぐれて、まあ素晴らしい、とお見えになるのであった。色艶があまりにもつやつやとして、堂々とした気品の ある顔で、目もとがとてもこちらが恥ずかしくなるほど美しくかわいらしく、何から何まで揃っていて、器量のよい人というのに、足りないところがな い。  二十歳を一、二歳越えていらっしゃった。幼い年ではないので、不十分で足りないところはなく、華やかで、花盛りのようにお見えになっていた。こ の上なく大事にお世話なさっていたので、不十分なところがない。なるほど、親としては、夢中になるのも無理からぬことであった。  ただ、もの柔らかで魅力的でかわいらしい点では、あの対の御方がまっさきにお心に浮かぶのであった。何かおっしゃるお返事なども、恥じらって いらっしゃるが、また、あまりにはっきりしないことはなく、総じて実にとりえが多くて、才気がありそうである。  器量のよい若い女房連中を三十人ほど、童女を六人、整っていないのはなく、装束なども、例によって格式ばったことは、目馴れてお思いになる だろうから、変わって、いかがと思われるまで趣向をお凝らしになっていた。三条殿腹の大君を、東宮に参内させなさった時よりも、この儀式を、特 別にお考えおきなさっていたのも、宮のご評判や様子からのようである。  [4-3 中の君と薫、手紙を書き交す]  こうして後は、二条院に、気安くお渡りになれない。軽々しいご身分でないので、お考えのままに、昼間の時間もお出になることができないので、 そのまま同じ六条院の南の町に、以前に住んでいたようにおいでになって、暮れると、再び、この君を避けてあちらへお渡りになることもできないな どして、待ち遠しい時々があるが、  「このようなことになるとは思っていたが、当面すると、まるっきり変わってしまうものであろうか。なるほど、思慮深い人は、物の数にも入らない身 分で、結婚すべきではなかった」  と、繰り返し山里を出て来た当座のことを、現実とも思われず悔しく悲しいので、  「やはり、何とかしてこっそりと帰りたい。まるっきり縁が切れるというのでなくとも、暫く気を休めたいものだ。憎らしそうに振る舞ったら、嫌なこと であろう」  などと、胸一つに思いあまって、恥ずかしいが、中納言殿に手紙を差し上げなさる。  「先日の御事は、阿闍梨が伝えてくれたので、詳しくお聞きしました。このようなご親切がなかったら、どんなにかおいたわしいことかと存じられま すにつけても、深く感謝申し上げております。できますことなら、親しくお礼を」  と申し上げなさった。  陸奥紙に、しゃれないできちんとお書きになっているのが、実に美しい。宮のご命日に、例の法事をとても尊くおさせになったのを、喜んでいらっし ゃる様子が、仰々しくはないが、なるほど、お分かりになったようである。いつもは、こちらから差し上げるお返事でさえ、遠慮深そうにお思いになっ て、てきぱきともお書きにならないのに、「親しくお礼を」とまでおっしゃったのが、珍しく嬉しいので、心ときめきするにちがいない。  宮が新しい女性に関心を寄せていらっしゃる時なので、疎かにお扱いになっていたのも、なるほどおいたわしく推察されるので、たいそう気の毒に なって、風流なこともないお手紙を、下にも置かず、繰り返し繰り返し御覧になっていた。お返事は、  「承知いたしました。先日は、修行者のような恰好で、わざとこっそり参りましたが、そのように考えますような事情がございましたときですので。 引き続いてとおっしゃってくださるのは、わたしの気持ちが少し薄くなったようだからかと、恨めしく存じられます。何もかも伺いましてから。恐惶謹 言」  と、きまじめに、白い色紙でごわごわとしたのに書いてある。  [4-4 薫、中の君を訪問して慰める]  そうして、翌日の夕方にお渡りになった。人知れず思う気持ちがあるので、無性に気づかいがされて、柔らかなお召し物類を、ますます匂わしなさ っているのは、あまりに大げさなまでにあるので、丁子染の扇の、お持ちつけになっている移り香などまでが、譬えようもなく素晴らしい。  女君も、不思議な事であった夜のことなどを、お思い出しになる折々がないではないので、誠実で情け深いお気持ちが、誰とも違っていらっしゃる のを見るにつけても、「この人と一緒になればよかった」とお思いになるのだろう。  幼いお年でもいらっしゃらないので、恨めしい方のご様子を比較すると、何事もますますこの上なく思い知られなさるのか、いつも隔てが多いのも お気の毒で、「物の道理を弁えないとお思いなさるだろう」などとお思いになって、今日は、御簾の内側にお入れ申し上げなさって、母屋の御簾に 几帳を添えて、自分は少し奥に入ってお会いなさった。  「特にお呼びということではございませんでしたが、いつもと違ってお許しあそばしたお礼に、すぐにも参上したく思いましたが、宮がお渡りあそば すとお聞きいたしましたので、折が悪くてはと思って、今日にいたしました。一方では、長年の誠意もだんだん分かっていただけましたのか、隔て が少し薄らぎました御簾の内ですね。珍しいことですね」  とおっしゃるが、やはりとても恥ずかしくて、言い出す言葉もない気がするが、  「先日、嬉しく聞きました心の中を、いつものように、ただ仕舞い込んだまま過ごしてしまったら、感謝の気持ちの一部分だけでも、何とかして知っ てもらえようかと、口惜しいので」  と、いかにも慎ましそうにおっしゃるのが、たいそう奥の方に身を引いて、途切れ途切れにかすかに申し上げるので、もどかしく思って、  「とても遠くでございますね。心からお話し申し上げ、またお聞き致したい世間話もございますので」  とおっしゃると、なるほど、とお思いになって、少しいざり出てお近寄りになる様子をお聞きなさるにつけても、胸がどきりとするが、平静を装います ます冷静な態度をして、宮のご愛情が、意外にも浅くおいでであったとお思いで、一方では批判したり、また一方では慰めたりして、それぞれにつ いて落ち着いて申し上げていらっしゃる。  [4-5 中の君、薫に宇治への同行を願う]  女君は、宮の恨めしさなどは、口に出して申し上げなさるようなことでもないので、ただ、自分だけがつらいように思わせて、言葉少なに紛らわし ては、山里にこっそりとお連れくださいとのお思いで、たいそう熱心に申し上げなさる。  「そのことは、わたしの一存では、お世話できないことです。やはり、宮にただ素直にお話し申し上げなさって、あの方のご様子に従うのがよいこ とです。そうでなかったら、少しでも行き違いが生じて、軽率だなどとお考えになるだろうから、大変悪いことになりましょう。そういう心配さえなけれ ば、道中のお送りや迎えも、自らお世話申しても、何の遠慮がございましょう。安心で人と違った性分は、宮もみなご存知でいらっしゃいました」  などと言いながら、時々は、過ぎ去った昔の悔しさが忘れる折もなく、できることなら昔を今に取り戻したいと、ほのめかしながら、だんだん暗くな って行くまでおいでになるので、とてもわずらわしくなって、  「それでは、気分も悪くなるばかりですので、また、よおろしくなった折に、どのような事でも」  と言って、お入りになってしまった様子なのが、とても残念なので、  「それでは、いつごろにお立ちになるつもりですか。たいそう茂っていた道の草も、少し刈り払わせましょう」  と機嫌を取って申し上げなさると、少し奥に入りかけて、  「今月は終わってしまいそうなので、来月の朔日頃にも、と思っております。ただ、とても人目に立たないのがよいでしょう。どうして、夫の許可な ど仰々しく必要でしょう」  とおっしゃる声が、「何ともかわいらしいな」と、いつもより亡き大君が思い出されるので、堪えきれないで、寄り掛かっていらっしゃった柱の側の簾 の下から、そっと手を伸ばして、お袖を捉えた。  [4-6 薫、中の君に迫る]  女は、「やはり、そうだった、ああ嫌な」と思うが、何を言うことができようか、何も言わないで、ますます奥にお入りになるので、その後についてと ても物馴れた態度で、半分は御簾の内に入って添い臥せりなさった。  「そうではありません。人目に立たないようにとはよいことをお考えになったことが嬉しく思えたのは、聞き違いでしょうか、それを伺おうと思いまし て。よそよそしくお思いになるべき問題でもないのでに、情けない待遇ですね」  とお恨みになると、お返事できる気もなくて、意外にも憎く思う気になるのを、無理に落ち着いて、  「意外なお気持ちですね。女房たちがどう思いましょう。あきれたこと」  と軽蔑して、泣いてしまいそうな様子なのは、少しは無理もないことなので、お気の毒とは思うが、  「これは非難されるほどのことでしょうか。この程度の面会は、昔を思い出してくださいな。亡くなった姉君のお許しもあったのに。とても疎々しくお 思いになっていらっしゃるとは、かえって嫌な気がします。好色がましい目障りな気持ちはないと、安心してください」  と言って、たいそう穏やかに振る舞っていらっしゃるが、幾月もずっと後悔していた心中が、堪え難く苦しいまでになって行く様子を、つくづくと話し 続けなさって、袖を放しそうな様子もないので、どうしようもなく、大変だと言ったのでは月並な表現である。かえって、まったく気持ちを知らない人よ りも、恥ずかしく気にくわなくて、泣いてしまわれたのを、  「これは、どうしましたか。何とも、幼げない」  とは言いながらも、何とも言えずかわいらしく、お気の毒に思う一方で、心配りが深くこちらが恥ずかしくなるような態度などが、以前に一夜を共に した当時よりも、すっかり成人なさったのを見ると、「自分から他人に譲って、このようにつらい思いをすることよ」と悔しいのにつけても、また自然泣 かれるのであった。  [4-7 薫、自制して退出する]  近くに伺候している女房が二人ほどいるが、何の関係のない男が入って来たのならば、これはどうしたことかと、近寄り集まろうが、親しくご相談 し合っている仲のようなので、何か子細があるのだろうと思うと、側にいずらいので、知らない顔をしてそっと離れて行ったのは、お気の毒なことだ。  男君は、昔を後悔する心の堪えがたさなども、とても静め難いようであるが、昔でさえめったになかったお心配りなので、やはりとても思いのまま にも無体な振る舞いはなさらないのだった。このような場面は、詳細に語り続けることはできないのであった。不本意ながら、人目の悪いことを思う と、あれやこれやと思い返してお出になった。  まだ宵とは思っていたが、暁近くになったのを、見咎める人もあろうかと、厄介なのも、女方の御ためにはお気の毒である。  「身体が悪そうだと聞いていたご気分は、もっともなことであった。とても恥ずかしいとお思いでいらした腰の帯を見て、大部分はお気の毒に思わ れてやめてしまったなあ。いつもの馬鹿らしい心だ」と思うが、「情けのない振る舞いは、やはり不本意なことだろう。また、一時の自分の心の乱れ にまかせて、むやみな考えをしでかして後、気安くなくなってしまうものの、無理をして忍びを重ねるのも苦労が多いし、女方があれこれ思い悩まれ ることであろう」  などと、冷静に考えても抑えきれず、今の間も恋しいのは困ったことであった。ぜひとも会わなくては生きていられないように思われなさるのも、重 ね重ねどうにもならない恋心であるよ。   5 中の君の物語 中の君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す  [5-1 翌朝、薫、中の君に手紙を書く]  昔よりは少し痩せ細って、上品でかわいらしかった様子などは、今離れている気もせず、わが身に添っている感じがして、まったく他の事は考え られなくなっていた。  宇治にたいそう行きたくお思いであったようなのを、「そのように、行かせてあげようか」などと思うが、「どうして宮がお許しになろうか。そうかとい って、こっそりとお連れしたのでは、また不都合があろう。どのようにして、人目にも見苦しくなく、思い通りにゆくだろう」と、気も茫然として物思いに 耽っていらっしゃった。  まだたいそう朝早くにお手紙がある。いつものように、表面はきっぱりした立文で、  「無駄に歩きました道の露が多いので   昔が思い出されます秋の空模様ですね  お振る舞いの情けないことは、わけの分からないつらさです。申し上げようもありません」  とある。お返事がないのも、女房が、いつもと違うと注意するだろうから、とても苦しいので、  「拝見しました。とても気分が悪くて、お返事申し上げられません」  とだけお書きつけになっているのを、「あまりに言葉が少ないな」と物足りなく思って、美しかったご様子ばかりが恋しく思い出される。  少しは男女の仲をご存知になったのだろうか、あれほどあきれてひどいとお思いになっていたが、一途に厭わしくはなく、たいそう立派にこちらが 恥ずかしくなるような感じも加わって、はやり何といってもやさしく言いなだめなどして、お帰りになったときの心づかいを思い出すと、悔しく悲しく、い ろいろと心にかかって、侘しく思われる。何事も、昔よりもたいそうたくさん立派になったと思い出される。  「何かまうものか。この宮が離れておしまいになったならば、わたしを頼りとする人になさるにちがいなかろう。そうなったとしても、公然と気安く会 うことはできないだろうが、忍ぶ仲ながらまたこの人以上の人はいない、最後の人となるであろう」  などと、ただこのことばかりを、じっと考え続けていらっしゃるのは、よくない心であるよ。あれほど思慮深そうに賢人ぶっていらっしゃるが、男性と いうものは嫌なものであることよ。亡くなった人のお悲しみは、言ってもはじまらないことで、とてもこうまで苦しいことではなかった。今度のことは、 あれこれと思案なさるのであった。  「今日は、宮がお渡りあそばしました」  などと、人が言うのを聞くにつけても、後見人の考えは消えて、胸のつぶれる思いで、羨ましく思われる。  [5-2 匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く]  宮は、何日もご無沙汰しているのは、自分自身でさえ恨めしく思われなさって、急にお渡りになったのであった。  「何とか、心に隔てをおいているようにはお見せ申すまい。山里にと思い立つにつけても、頼りにしている人も、嫌な心がおありだったのだわ」  とお思いになると、世の中がとても身の置き所なく思わずにはいられなくなって、「やはり嫌な身の上であった」と、「ただ死なない間は、生きてい るのにまかせて、おおらかにしていよう」と思いあきらめて、とてもかわいらしそうに美しく振る舞っていらっしゃるので、ますますいとしく嬉しくお思い になって、何日ものご無沙汰など、この上なくおっしゃる。  お腹も少しふっくらとなっていたので、あのお恥じらいになるしるしの腹帯が結ばれているところなど、たいそういじらしく、まだこのような人を近くに 御覧になったことがないので、珍しくまでお思いになっていた。気の置けるところに居続けなさって、万事が、気安く懐かしくお思いになるままに、 並々ならぬことを、尽きせず約束なさるのを聞くにつけても、こうして口先ばかり上手なのではないかと、無理なことを迫った方のご様子も思い出さ れて、長年親切な気持ちと思い続けていたが、このようなことでは、あの方も許せないと思うと、この方の将来の約束は、どうかしら、と思いながら も、少しは耳がとまるのであった。  「それにしても、あきれるくらいに油断させておいて、入って来たことよ。亡くなった姉君と関係なく終わってしまったことなどお話になった気持ち は、なるほど立派であったと、やはり気を許すことはあってはならないのだった」  などと、ますます心配りがされるにつけても、久しくご無沙汰が続きなさることは、とても何となく恐ろしいように思われなさるので、口に出して言 わないが、今までよりは、少し引きつけるように振る舞っていらっしゃるのを、宮はますますこの上なくいとしいとお思いになっていらっしゃると、あの 方の御移り香が、たいそう深く染みていらっしゃるのが、世の常の香をたきしめたのと違って、はっきりとした薫りなのを、その道の達人でいらっしゃ るので、妙だと不審をいだきなさって、どうしたことかと、様子を伺いなさるので、見当外れのことでもないので、言いようもなく困って、ほんとうにつ らいとお思いになっていらっしゃるのを、  「そうであったか。きっとそのようなことはあるにちがいない。よもや、平気でいられるはずがない、とずっと思っていたことだ」  とお心が騒ぐのだった。その実、単衣のお召し物類は、脱ぎ替えなさっていたが、不思議と意外にも身にしみついていたのであった。  「こんなに薫っていては、何もかも許したのであろう」  と、すべてに聞きにくくおっしゃり続けるので、情けなくて、身の置き所もない。  「お愛し申し上げているのは格別なのに、捨てられるなら自分から先になどと、このように裏切るのは身分の低い者のすることです。また隔て心を お置きになるほどご無沙汰をしたでしょうか。意外にもつらいお心ですね」  と、何から何まで語り伝えることができないくらい、とてもお気の毒な申し上げようをなさるが、何ともお返事申し上げなさらないのまでが、まことに 憎らしくて、  「他の人に親しんだ袖の移り香か   わが身にとって深く恨めしいことだ」  女方は、ひどいおっしゃりようが続くので、何ともお返事できないでいるが、黙っているのもどうかしら、と思って、  「親しみ信頼してきた夫婦の仲も   この程度の薫りで切れてしまうのでしょうか」  と言って、お泣きになる様子が、この上なくかわいそうなのを見るにつけても、「これだからこそ」と、ますますいらいらして、自分もぽろぽろと涙を 流しなさるのは、色っぽいお心だこと。ほんとうに大変な過ちがあったとしても、一途には疎みきれない、かわいらしくおいたわしい様子をしていらっ しゃるので、最後まで恨むこともおできになれず、途中で言いさしなさっては、その一方ではお宥めすかしなさる。  [5-3 匂宮、中の君の素晴しさを改めて認識]  翌日も、ゆっくりとお起きになって、御手水や、お粥などをこちらの部屋で召し上がる。お部屋飾りなども、あれほど輝くほどの、高麗や、唐土の錦 綾を何枚も重ねているのを見た目には、世間普通の気がして、女房たちの姿も、糊気のとれたのが混じったりなどして、たいそうひっそりとした感じ に見回される。  女君は、柔らかな薄紫の袿に、撫子の細長を襲着して、寛いでいらっしゃるご様子が、何事もたいそう凛々しく、仰々しいまでに盛りの方の装い が、何かと比較されるが、劣っているようにも思われず、親しみがあり美しいのも、愛情が並々でないために劣るところがないのであろう。まるまる とかわいらしく太った方が、少し細やかになっているが、肌色はますます白くなって、上品で魅力的である。  このような移り香などがはっきりしない時でさえ、愛嬌があってかわいらしいところなどが、やはり誰よりも多くまさってお思いになるので、  「この人を兄弟などでない人が、身近で話を交わして、何かにつけて、自然と声や気配を聞いたり見たりしつけると、どうして平気でいられよう。き っと心を動かすことであろうよ」  と、自分のたいそう気の回るご性分からお思い知られるので、常に気をつけて、「はっきりと分かるような手紙などがあるか」と、近くの御厨子や、 唐櫃などのような物までを、さりげない様子をしてお探しになるが、そのような物はない。ただ、たいそうきっぱりした言葉少なで、平凡な手紙など が、わざわざというのではないが、何かと一緒になってあるのを、「妙だ。やはり、とてもこれだけではあるまい」と疑われるので、ますます今日は平 気でいられないのも、もっともなことである。  「あの人の様子も、情趣を解する女が、素晴らしいと思うにちがいないので、どうしてか、心外な人と思って放っておこう。ちょうど似合いの二人な ので、お互いに思いを交わし合うことだろう」  と想像すると、侘しく腹立たしく悔しいのであった。やはり、とても安心していられなかったので、その日もお出かけになることができない。六条院 には、お手紙を二度三度差し上げなさるが、  「いつのまに積もるお言葉なのだろう」  とぶつぶつ言う老女連中もいる。  [5-4 薫、中の君に衣料を贈る]  中納言の君は、このように宮が籠もっておいでになるのを聞くにも、癪に思われるが、  「しかたのないことだ。これは自分の心が馬鹿らしく悪いことだ。安心な後見人としてお世話し始めた方のことを、このように思ってよいことだろう か」  と無理に反省して、「そうは言ってもお捨てにはならないようだ」と、嬉しくもあり、「女房たちの様子などが、やさしい感じに着古した感じのようだ」 と思いやりなさって、母宮の御方にお渡りになって、  「適当な出来合いの衣類はございませんか。使いたいことが」  などと申し上げなさると、  「例の、来月の御法事の布施に、白い物はありましょう。染めた物などは、今は特別に置いておかないので、急いで作らせましょう」  とおっしゃるので、  「構いません。仰々しい用事でもございません。ありあわせで結構です」  と言って、御匣殿などにお問い合わせになって、女の装束類を何領もに、細長類も、ありあわせで、染色してない絹や綾などをお揃えになる。ご 本人のお召し物と思われるのは、自分のお召し物にあった紅の砧の擣目の美しいものに、幾重もの白い綾など、たくさんお重ねになったが、袴の 付属品はなかったので、どういうふうにしたのか、腰紐が一本あったのを、結びつけなさって、  「結んだ契りの相手が違うので   今さらどうして一途に恨んだりしようか」  大輔の君といって、年配の者で、親しそうな者におやりになる。  「とりあえず見苦しい点を、適当にお隠しください」  などとおっしゃって、主人のお召し物は、こっそりとではあるが、箱に入れて包みも格別である。御覧にならないが、以前からも、このようなお心配 りは、いつものことで見慣れているので、わざとらしくお返ししたりなど、固辞すべきことでないので、どうしたものかと思案せず、女房たちに配り分 けなどしたので、それぞれ縫い物などする。  若い女房たちで、御前近くにお仕えする者などは、特別に着飾らせるつもりなのであろう。下仕え連中が、ひどくよれよれになった姿などに、白い 袷などを着て、派手でないのがかえって無難であった。  [5-5 薫、中の君をよく後見す]  誰が、何事をも後見申し上げる人があるだろうか。宮は、並々でない愛情で、「万事不自由がないように」とお考えおきになっているが、こまごま とした内々の事までは、どうしてお考え及ぼう。この上もなく大切にされてこられたのに馴れていらっしゃるので、生活が思うにまかせず心細いこと は、どのようなものかともご存知ないのは、もっともなことである。  風流を好みぞくぞくと、心にしみる花の露を賞美して世の中は送るべきものとお考えのこと以外は、愛する人のためなら、自然と季節季節に応じ て、実際的なことまでお世話なさるのは、もったいなくもめったにないことなので、「どんなものかしら」などと、非難がましく申し上げる御乳母なども いるのであった。  童女などの、身なりのぱっとしないのが、時々混じったりしているのを、女君は、たいそう恥ずかしく、「かえって立派過ぎて困ったお邸だ」などと、 人知れずお思いになることがないわけでないが、まして最近は、世に鳴り響いた方のご様子の華やかさに、一方では、「宮付きの女房が見たり思 ったりすることも、見すぼらしいこと」と、お悩みになることも加わって嘆かわしいのを、中納言の君は、実によくご推察申し上げなさるので、親しくな い相手だったら、見苦しくごたごたするにちがいない心配りの様子も、軽蔑するというのではないが、「どうして、大げさにいかにも目につくようなの も、かえって疑う人があろうか」と、お思いになるのであった。  今はまた、いつもの無難な贈り物などお整えさせなさって、御小袿を織らせ、綾の素材を下さったりなさった。この君は、宮にもお負けになさらず、 特に大事に育てられて、不体裁なまでに気位高くもあり、世の中を悟り澄まして、上品な気持ちはこの上ないけれど、故親王の奥山生活を御覧に なって以来、「寂しい所のお気の毒さは格別であった」と、おいたわしく思われなさって、世間一般のこともいろいろと考えるようになり、深い同情を 持つようになったのであった。おかわいそうな方の影響だ、とのことである。  [5-6 薫と中の君の、それぞれの苦悩]  「こうして、やはり、何とか安心で分別のある後見人として終えよう」と思うにつけても、意志とは逆に、心にかかって苦しいので、お手紙などを、 以前よりはこまやかに書いて、ともすれば、抑えきれない気持ちを見せながら申し上げなさるのを、女君は、たいそうつらいことが加わった身だとお 嘆きになる。  「まったく知らない人なら、何と気違いじみていると、体裁の悪い思いをさせ放っておくのも気楽なことだが、昔から特別に信頼して来た人として、 今さら仲悪くするのも、かえって人目に変だろう。そうはいってもやはり、浅くはないお気持ちやご好意の、ありがたさを分からないわけでない。そう かといって、相手の気持ちを受け入れたように振る舞うのも、まことに慎まれることだし、どうしたらよいだろう」  と、あれこれとお悩みになる。  伺候する女房たちも、少し相談のしがいのあるはずの若い女房は、みな新しく、見慣れている者としては、あの山里の老女連中である。悩んでい る気持ちを、同じ立場で親しく相談できる人がいないままに、故姫君をお思い出し申し上げない時はない。  「生きていらっしゃったら、この人もこのようなお悩みをお持ちになったろうか」  と、とても悲しく、宮が冷淡におなりになる嘆きよりも、このことがたいそう苦しく思われる。   6 薫の物語 中の君から異母妹の浮舟の存在を聞く  [6-1 薫、二条院の中の君を訪問]  男君も、無理をして困って、いつものように、しっとりした夕方おいでになった。そのまま端にお褥を差し出させなさって、「とても苦しい時でして、お 相手申し上げることができません」と、女房を介して申し上げさせなさったのを聞くと、ひどくつらくて、涙が落ちてしまいそうなのを、人目にかくして、 無理に紛らわして、  「お悩みでいらっしゃる時は、知らない僧なども近くに参り寄るものですよ。医師などと同じように、御簾の内に伺候することはできませんか。この ような人を介してのご挨拶は、効のない気がします」  とおっしゃって、とても不愉快なご様子なのを、先夜お二人の様子を見ていた女房たちは、  「なるほど、とても見苦しくございますようです」  と言って、母屋の御簾を下ろして、夜居の僧の座所にお入れ申すのを、女君は、ほんとうに気分も実に苦しいが、女房がこのように言うので、はっ きり拒むのも、またどんなものかしら、と遠慮されるので、嫌な気分ながら少しいざり出て、お会いなさった。  とてもかすかに、時々何かおっしゃるご様子が、亡くなった姫君が病気におなり始めになったころが、まずは思い出されるのも、不吉で悲しくて、 まっくらな気持ちにおなりになると、すぐには何も言うことができず、躊躇して申し上げなさる。  この上なく奥のほうにいらっしゃるのがとてもつらくて、御簾の下から几帳を少し押し入れて、いつものように、馴れ馴れしくお近づき寄りなさるの が、とても苦しいので、困ったことだとお思いになって、少将と言った女房を近くに呼び寄せて、  「胸が痛い。暫く押さえていてほしい」  とおっしゃるのを聞いて、  「胸を押さえたら、とても苦しくなるものです」  と溜息をついて、居ずまいを直しなさる時も、なるほど内心穏やかならない気がする。  「どうして、このようにいつもお苦しみでいらっしゃるのだろう。人に尋ねましたら、暫くの間は気分が悪いが、そうしてまた、良くなる時がある、など と教えました。あまりに子供っぽくお振る舞いになっていらっしゃるようです」  とおっしゃると、とても恥ずかしくて、  「胸は、いつとなくこのようでございます。故人もこのようなふうでいらっしゃいました。長生きできない人がかかる病気とか、人も言っているようで ございます」  とおっしゃる。「なるほど、誰も千年も生きる松ではないこの世を」と思うと、まことにお気の毒でかわいそうなので、この召し寄せた人が聞くだろう ことも憚らず、側で聞くとはらはらするようなことは言わないが、昔からお思い申し上げていた様子などを、あの方一人だけには分かるようにしなが ら、少将には変に聞こえないように、体裁よくおっしゃるのを、「なるほど、世に稀なお気持ちだ」と聞いているのであった。  [6-2 薫、亡き大君追慕の情を訴える]  どのような事柄につけても、故君の御事をどこまでも思っていらっしゃった。  「幼かったころから、世の中を捨てて一生を終わりたい気持ちばかりを持ち続けていましたが、その結果であったのでしょうか、親密な関係ではな いながら並々でない思いをおかけ申すようになった一事で、あの本来の念願は、そうはいっても背いてしまったのだろうか。  慰め程度に、あちらこちらと行きかかずらって、他人の様子を見るにつけても、紛れることがあろうかなど、と思い寄る時々はございましたが、まっ たく他の女性には気持ちを向けることもございませんでした。  万事困りまして、心惹かれる方も特にいなかったので、好色がましいようにお思いであろうと、恥ずかしいけれど、とんでもない心が、万が一あっ ては目障りなことでしょうが、ただこの程度のことで、時々思っていることを申し上げたり承ったりなどして、隔意なくお話し交わしなさるのを、誰が咎 め立てしましょうか。世間の人と違った心のほどは、みな誰からも非難さるはずはないのでございすから、やはりご安心なさいませ」  などと、恨んだり泣いたりしながら申し上げなさる。  「気がかりにお思い申し上げたら、このように変だと人が見たり思ったりするにちがいないまで申し上げましょうか。長年、あれこれのことにつけ て、分かってまいりましたことがございましたので、血縁者でもない後見人に、今ではわたしのほうからお願い申し上げておりますのです」  とおっしゃるので、  「そのような時があったとも覚えておりませんので、まことに利口なこととお考えおいておっしゃるのでしょうか。この山里へのご出立の準備には、 かろうじてお召し使わせていただきましょう。それも仰せのように、見込んでくれてこそだと、いい加減には思いません」  などとおっしゃって、やはりたいそうどことなく恨めしそうであるが、聞いている人がいるので、思うままにどうしてお話し続けられようか。  [6-3 薫、故大君に似た人形を望む]  外の方を眺めていると、だんだんと暗くなっていったので、虫の声だけが紛れなくて、築山の方は小暗く、何の区別も見えないので、とてもひっそ りとして寄りかかっていらっしゃるのも、厄介だとばかり心の中にはお思いなさる。  「恋しさにも限りがあるので」  などと、こっそりと口ずさんで、  「困り果てております。音無の里を尋ねて行きたいが、あの山里の辺りに、特に寺などはなくても、故人が偲ばれる人形を作ったり、絵にも描いた りして、勤行いたしたいと、存じるようになりました」  とおっしゃると、  「しみじみとした御本願に、また嫌な御手洗川に近い気がする人形は、想像するとお気の毒でございます。黄金を求める絵師がいたらなどと、気 がかりでございませんか」  とおっしゃるので、  「そうですよ。その彫刻師も絵師も、どうして心に叶う物ができましょうか。最近に蓮華を降らせた彫刻師もございましたが、そのような変化の人も いてくれたらなあ」  と、あれやこれやと忘れることのない旨を、お嘆きになる様子が、深く思いつめているようなのもお気の毒で、もう少し近くにいざり寄って、  「人形のついでに、とても不思議と思いもつかないことを、思い出しました」  とおっしゃる感じが、少しやさしいのもとても、嬉しくありがたくて、  「どのようなことですか」  と言いながら、几帳の下から手をお掴みになると、とてもわずらわしく思われるが、「何とかして、このような心をやめさせて、穏やかな交際をした い」と思うので、この近くにいる少将の君の思うことも困るので、さりげなく振る舞っていらっしゃった。  [6-4 中の君、異母妹の浮舟を語る]  「今までは、この世にいるとも知らなかった人が、今年の夏頃、遠い所から出てきて尋ねて来たのですが、よそよそしくは思うことのできない人で すが、また急に、そのようにどうして親しくすることもあるまい、と思っておりましたが、最近来た時は、不思議なまでに、故人のご様子に似ていた ので、しみじみと胸を打たれました。  形見などと、あのようにお考えになりおっしゃるようなのは、かえって何もかも、あきれるくらい似ていないようだと、知っている女房たちは言ってお りましたが、とてもそうでもないはずの人が、どうして、そんなに似ているのでしょう」  とおっしゃるのを、夢語りか、とまで聞く。  「そのような因縁があればこそ、そのようにもお親しみ申すのでしょう。どうして今まで、少しも話してくださらなかったのですか」  とおっしゃると、  「さあ、その理由も、どのようなことであったかも分かりません。頼りなさそうな状態で、この世に落ちぶれさすらうことだろうこと、とばかり、不安そ うにお思いであったことを、ただ一人で何から何まで経験させられますので、またつまらないことまでが加わって、人が聞き伝えることも、とてもお気 の毒なことでしょう」  とおっしゃる様子を見ると、「宮が密かに情けをおかけになった女が、子を生んでおいたのだろう」と理解した。  似ているとおっしゃる縁者に耳がとまって、  「それだけでは。同じことなら最後までおっしゃってください」  と、聞きたがりなさるが、やはり何といっても憚られて、詳細を申し上げることはおできになれない。  「尋ねたいと思いなさるお気持ちでしたら、どこそこと申し上げましょうが、詳しいことは分かりませんよ。また、あまり言ったら、期待外れもしましょ うから」  とおっしゃるので、  「男女の仲を、海の中までも、魂のありかを求めては、思う存分進んで行きましょうが、とてもそこまでは思うことはないが、とてもこのように慰めよ うのないのよりは、と存じます人形の願いぐらいには、どうして、山里の本尊に対しても思ってはいけないのでしょうか。やはり、はっきりおっしゃっ てください」  と、急にお責め申し上げなさる。  「さあ、父宮のお許しもなかったことを、こんなにまでお洩らし申し上げるのも、とても口が軽いが、変化の彫刻師をお探しになるお気の毒さに、こ んなにまで」と言って、「とても遠い所に長年過ごしていたが、母である人が遺憾に思って、無理に尋ねて来たのですが、体裁悪くもお返事できず におりましたところ、参ったのです。ちらっと会ったためにか、何事も想像していたよりは見苦しくなく見えました。この娘をどのように扱おうかと困っ ていたようでしたが、仏になるのは、まことにこの上ないことでありましょうが、そこまではどうかしら」  などと申し上げなさる。  [6-5 薫、なお中の君を恋慕す]  「何気なくて、このようにうるさい心を何とか言ってやめさせる方法もないものか、と思っていらっしゃる」と見るのはつらいけれど、やはり心動かさ れる。あってはならないこととは深く思っていらしゃるものの、あからさまに体裁の悪い扱いは、おできになれないのを、「ご存知でいらっしゃるのだ」 と思うと胸がどきどきして、夜もたいそう更けてゆくのを、御簾の内側では人目がたいそう具合が悪く思われなさって、すきを見て、奥にお入りにな ってしまったので、男君は、道理とは繰り返し思うが、やはりまことに恨めしく口惜しいので、思い静める方もない気がして、涙がこぼれるのも体裁 が悪いので、あれこれと思い乱れるが、一途に軽率な振る舞いをしたら、またやはりとても嫌な、自分にとってもよくないことなので、思い返して、い つもより嘆きがちにお出になった。  「こうばかり思っていては、どうしたらよいだろう。苦しいことだろうなあ。何とかして、世間一般からは非難されないようにして、しかも思う気持ちが 叶うことができようか」  などと、自ら経験していない人柄からであろうか、自分のためにも相手のためにも、心穏やかでないことを、むやみに悩み明かすと、「似ていると おっしゃった人も、どうして本当かどうか見ることができよう。その程度の身分なので、思いよるに難しくはないが、相手が願いどおりでなかったら、 やっかいなことであろう」などと、やはりそちらの方には気が向かない。   7 薫の物語 宇治を訪問して弁の尼から浮舟の詳細について聞く  [7-1 9月20日過ぎ、薫、宇治を訪れる]  宇治の宮邸を久しく訪問なさらないころは、ますます故人の面影が遠くなった気がして、何となく心細いので、九月二十日過ぎ頃にいらっしゃっ た。  ますます風が吹き払って、ぞっとするほど荒々しい水の音ばかりが宿守で、人影も特に見えない。見ると、まっさきに真暗になり、悲しいことばか りが限りない。弁の尼を呼び出すと、襖障子の口に、青鈍の几帳をさし出して参った。  「とても恐れ多いことが、以前以上にとても醜くございますので、憚られまして」  と、直接には出てこない。  「どのように物思いされていることだろうと想像すると、同じ気持ちの人もいない話を申し上げようと思って来ました。とりとめもなく過ぎ去ってゆく 歳月ですね」  と言って、涙を目にいっぱい浮かべていらっしゃると、老女はますますそれ以上に涙をとどめることができない。  「妹宮の事で、なさらなくてもよいご心配をなさったころと同じ季節だ、と思い出しますと、常に悲しい季節の中でも、秋の風は身にしみてつらく思 われまして、なるほどあの方がご心配になったとおりの夫婦仲のご様子を、ちらっと耳にいたしますのも、それぞれにお気の毒で」  と申し上げると、  「ああなったこともこうなったことも、長生きをすると、良くなるようなこともあるので、つまらないことと思いつめていらしたのは、自分の過失であっ たように、やはり悲しい。最近のご様子は、どうして、それこそ世の常のことです。けれど、不安そうにはお見え申さないようだ。言っても言っても効 ない、むなしい空に昇ってしまった煙だけは、誰も逃れることはできない運命ながらも、後になったり先立ったりする間は、やはり何とも言いようのな いことです」  と言って、またお泣きになる。  [7-2 薫、宇治の阿闍梨と面談す]  阿闍梨を呼んで、いつものように、故姫君の御命日のお経や仏像のことなどをおっしゃる。  「ところで、ここに時々参るにつけても、しかたのないことがいつまでも思い出されるのが、とてもつまらないことなので、この寝殿を壊して、あの山 寺の傍らにお堂を建てよう、と思うが、同じことなら早く始めたい」  とおっしゃって、お堂を幾塔、渡廊の類や、僧坊などを、必要なことを書き出したりおっしゃったりおさせになるので、  「まことにご立派な功徳だ」  とお教え申す。  「故人が、風流なお住まいとしてお造りになった所を、取り壊すのは、薄情なようだが、宮のお気持ちも功徳を積むことを望んでいらっしゃったよう だが、後にお残りになる姫君たちをお思いやって、そのようにはおできになれなかったのではなかろうか。  今は、兵部卿宮の北の方が、所有していらっしゃるはずですから、あの宮のご料地と言ってもよいようになっている。だから、ここをそのまま寺に することは、不都合であろう。思いどおりにすることはできない。場所柄もあまりに川岸に近くて、人目にもつくので、やはり寝殿を壊して、別の所に 造り変える考えです」  とおっしゃるので、  「あれやこれやと、まことに立派な尊いお心です。昔、別れを悲しんで、骨を包んで幾年も頚に懸けておりました人も、仏の方便で、あの骨の袋を 捨てて、とうとう仏の道に入ったのでした。この寝殿を御覧になるにつけても、お心がお動きになりますのは、一つには良くないことです。また、来 世への勧めともなるものでございます。急いでお仕え申しましょう。暦の博士に相談申して吉日を承って、建築に詳しい工匠を二、三人賜って、こま ごまとしたことは、仏のお教えに従ってお仕えさせ申しましょう」  と申す。あれこれとおっしゃり決めて、ご荘園の人びとを呼んで、この度のことや、阿闍梨の言うとおりにするべきことなどをお命じになる。いつの 間にか日が暮れたので、その夜はお泊まりになった。  [7-3 薫、弁の尼と語る]  「今回こそは見よう」とお思いになって、立ってぐるりと御覧になると、仏像もすべてあのお寺に移してしまったので、尼君の勤行の道具だけがあ る。たいそう頼りなさそうに住んでいるのを、しみじみと、「どのようにして暮らしているのだろう」と御覧になる。  「この寝殿は、造り変えることになりました。完成するまで、あちらの渡廊に住まいなさい。京の宮邸にお移ししたらよい物があったら、荘園の人を 呼んで、適当にはからってください」  などと、事務的なことを相談なさる。他では、これほど年とった者を、何かとお世話なさるはずもないが、夜も近くに寝させて、昔話などをおさせに なる。故大納言の君のご様子を、聞く人もないので気安くて、たいそう詳細に申し上げる。  「ご臨終となった時に、お生まれになったばかりのご様子を、御覧になりたくお思いになっていたご様子などが思い出されると、このように思いも かけませんでした晩年に、こうしてお目にかかれますのは、ご生前に親しくお仕え申した効が自然と現れたのでしょうと、嬉しくも悲しくも存じられま す。情けない長生きで、さまざまなことを拝見してき、理解してまいりましたが、とても恥ずかしくつらく思っております。  宮からも、時々は参上してお会い申せ、すっかりご無沙汰しているのは、まるきり他人のようだなどと、おっしゃっる時々がございますが、忌まわ しい身の上で、阿彌陀仏の以外には、お目にかかりたい人はなくなっております」  などと申し上げる。故姫君の御事を、尽きせず、長年のご様子などを話して、何の時に何とおっしゃり、桜や紅葉の美しさを見ても、ちょっとお詠み になった歌の話などを、この場にふさわしく、震え声であったが、おっとりして言葉数少なかったが、風雅であった姫君のご性質であったなあとばか り、ますますお聞きしてお思いになる。  「宮の御方は、もう少し華やかだが、心を許さない男性に対しては、体裁の悪い思いをさせなさるようであったが、わたしにはとても思慮深く情愛 があるように見えて、何とかこのまま付き合って行きたい、とお思いのようであった」  などと、心の中で比較なさる。  [7-4 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる]  そうして、何かのきっかけで、あの形代のことを言い出しなさった。  「京に、近ごろ、おりますかどうかは存じません。人づてにお聞きしたことの話でしょう。故宮が、まだこのような山里生活もなさらず、故北の方が お亡くなりになって間近かったころ、中将の君と言ってお仕えしていた上臈で、気立てなども悪くはなかったが、たいそうこっそりと、ちょっと情けをお 交わしになったが、知る人もございませんでしたが、女の子を産みましたのを、あるいはご自分のお子であろうか、とお思いになることがありました ので、つまらなく厄介で嫌なようにお思いになって、二度とお逢いになることもありませんでした。  つまらなくそのことにお懲りになって、そのままだいたい聖におなりあそばしたので、とりつくしまもなく思って、宮仕えをやめてしまったが、陸奥国 の守の妻となったところ、先年上京して、その姫君も無事でいらっしゃる旨を、ここにもちらっと申して来ましたが、お聞きつけになって、全然そのよ うな挨拶は無関係であると無視なさったので、その効なく嘆いていました。  そうして再び、常陸の国司になって下りましたが、ここ数年、何ともおっしゃってきませんでしたが、この春上京して、あちらの宮には尋ねて参った と、かすかに聞きました。  あの君の年齢は、二十歳くらいにおなりになったでしょう。とてもかわいらしくお育ちになったのがいとおしいなどと、近頃は、手紙にまで書き綴っ てございましたとか」  と申し上げる。  詳しく聞き知りなさって、「それでは、ほんとうであったのだ。会ってみたいものだ」と思う気持ちが出てきた。  「故姫君のご様子に、少しでも似ているような人は、知らない国までも探し求めたい気持ちであるが、お子とお認めにならなかったが、姉妹である のだ。わざわざというのでなくても、この近辺に便りを寄せる機会があった時には、こう言っていた、とお伝えください」  などとだけおっしゃっておく。  「母君は、故北の方の姪です。弁も縁続きの間柄でございますが、その当時は別の所におりまして、詳しくは存じませんでした。  最近、京から、大輔のもとから申してよこしたことには、あの姫君が、何とか父宮のお墓にだけでも詣でたいと、おっしゃっているという、そのよう なおつもりでいなさい、などとございましたが、まだここには、特に便りはないようです。今、そうなったら、そのような機会に、この仰せ言を伝えまし ょう」  と申し上げる。  [7-5 薫、二条院の中の君に宇治訪問の報告]  夜が明けたのでお帰りになろうとして、昨夜、供人が後れて持ってまいった絹や綿などのような物を、阿闍梨に贈らせなさる。尼君にもお与えに なる。法師たちや、尼君の下仕え連中の料として、布などという物までを、呼んでお与えになる。心細い生活であるが、このようなお見舞いが引き 続きあるので、身分に比較してたいそう無難で、ひっそりと勤行しているのであった。  木枯しが堪え難いまでに吹き抜けるので、梢の葉も残らず散って敷きつめた紅葉を、踏み分けた跡も見えないのを見渡して、すぐにはお出になれ ない。たいそう風情ある深山木にからみついている蔦の色がまだ残っていた。せめてこの蔦だけでもと少し引き取らせなさって、宮へとお思いらし く、持たせなさる。  「宿木の昔泊まった家と思い出さなかったら   木の下の旅寝もどんなにか寂しかったことでしょう」  と独り言をおっしゃるのを聞いて、尼君、  「荒れ果てた朽木のもとを昔の泊まった家と   思っていてくださるのが悲しいことです」  どこまでも古風であるが、教養がなくはないのを、わずかの慰めとお思いになった。  宮に紅葉を差し上げなさると、夫宮がいらっしゃるところだった。  「南の宮邸から」  と言って、何の気なしに持って参ったのを、女君は、「いつものようにうるさいことを言ってきたらどうしようか」と苦しくお思いになるが、どうして隠す ことができようか。宮は、  「美しい蔦ですね」  と、穏やかならずおっしゃって、呼び寄せて御覧になる。お手紙には、  「このごろは、いかがお過ごしでしょうか。山里に参りまして、ますます峰の朝霧に迷いましたお話も、お目にかかって。あちらの寝殿を、お堂に造 ることを、阿闍梨に命じました。お許しを得てから、他の場所に移すこともいたしましょう。弁の尼に、しかるべきお指図をなさってください」  などとある。  「よくもまあ、平静をよそおってお書きになった手紙だな。自分がいると聞いたのだろう」  とおっしゃるのも、少しは、なるほどそうであったであろう。女君は、特別に何も書いてないのを嬉しいとお思いになるが、むやみにこのようにおっし ゃるのを、困ったことだとお思いになって、恨んでいらっしゃるご様子は、すべての欠点も許したくなるような美しさである。  「お返事をお書きなさい。見ないでいますよ」  と、よそをお向きになった。甘えて書かないのも変なので、  「山里へのご外出が羨ましゅうございます。あちらでは、おっしゃるとおりにするのがよい、と存じておりましたが、特別にまた山奥に住処を求める よりは、荒らしきってしまいたくなく思っておりますので、どのようにでも適当な状態になさってくれたら、ありがたく存じます」  と申し上げなさる。「このように憎い様子もないご交際のようだ」と御覧になる一方で、自分のご性質から、ただではあるまいとお思いになるのが、 落ち着いてもいられないのであろう。  [7-6 匂宮、中の君の前で琵琶を弾く]  枯れ枯れになった前栽の中に、尾花が、他の草とは違って手を差し出して招いているのが面白く見えるので、まだ穂に出かかったのも、露を貫き 止める玉の緒は、頼りなさそうに靡いているのなど、普通のことであるが、夕方の風がやはりしみじみと感じられるころなのであろう。  「外に現さないないが、物思いをしているらしいですね   篠薄が招くので、袂の露がいっぱいですね」  着なれたお召し物類に、お直衣だけをお召しになって、琵琶を弾いていらっしゃった。黄鐘調の合奏を、たいそうしみじみとお弾きになるので、女 君も嗜んでいらっしゃるので、物恨みもなさらずに、小さい御几帳の端から、脇息に寄り掛かって、わずかにお出しになった顔は、まことにもっと見 たいほどかわいらしい。  「秋が終わる野辺の景色も   篠薄がわずかに揺れている風によって知られます  自分一人の秋ではありませんが」  と言って自然と涙ぐまれるが、そうはいっても恥ずかしいので、扇で隠していらっしゃる心中も、かわいらしく想像されるが、「こうだからこそ、相手 も諦められないのだろう」と、疑わしいのが普通でなく、恨めしいようである。  菊が、まだすっかり変色もしないで、特につくろわせなさっているのは、かえって遅いのに、どのような一本であろうか、たいそう見所があって変色 しているのを、特別に折らせなさって、  「花の中で特別に」  と口ずさみなさって、  「何某の親王が、この花を賞美した夕方です。昔、天人が飛翔して、琵琶の曲を教えたのは。何事も浅薄になった世の中は、嫌なことだ」  と言って、お琴をお置きになるのを、残念だとお思いになって、  「心は浅くなったでしょうが、昔から伝えられたことまでは、どうしてそのようなことがありましょうか」  と言って、まだよく知らない曲などを聞きたくお思いになっているので、  「それならば、一人で弾く琴は寂しいから、お相手なさい」  と言って、女房を呼んで、箏の琴を取り寄せさせて、お弾かせ申し上げなさるが、  「昔なら、習う人もいらっしゃったが、ちゃんと習得もせずになってしまいましたものを」  と、遠慮深そうにして手もお触れにならないので、  「これくらいのことも、心置いていらっしゃるのが情けない。近頃、結婚した人は、まだたいして心打ち解けるようになっていませんが、まだ未熟な 習い事をも隠さずにいます。総じて女性というものは、柔らかで心が素直なのが良いことだと、あの中納言も決めているようです。あの君には、ま た、このようにはお隠しになるまい。この上なく親密な仲のようなので」  などと、本気になって恨み事を言われたので、溜息をついて少しお弾きになる。絃が緩めてあったので、盤渉調に合わせなさなさる。合奏など の、爪音が美しく聞こえる。「伊勢の海」をお謡いになるお声が上品で美しいのを、女房たちが、物の背後に近寄って、にっこりして座っていた。  「二心がおありなのはつらいけれども、それも仕方のないことなので、やはりわたしのご主人を、幸福人と申し上げましょう。このようなご様子でお 付き合いなされそうにもなかった所のご生活を、また宇治に帰りたそうにお思いになって、おっしゃるのは、とても情けない」  などと、ずけずけと言うので、若い女房たちは、  「おだまり」  などと止める。  [7-7 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る]  いろいろのお琴をお教え申し上げなどして、三、四日籠もっておいでになって、御物忌などにかこつけなさるのを、あちらの殿におかれては恨めし くお思いになって、大臣は、宮中からお出になってそのまま、こちらに参上なさったので、宮は、  「仰々しい様子をして、何のためにいらっしゃったのだろう」  と、不快にお思いになるが、寝殿にお渡りになって、お会いなさる。  「特別なことがない間は、この院を見ないで長くなりましたのも、しみじみと感慨深い」  などと、昔のいろいろなお話を少し申し上げなさって、そのままお連れ申し上げなさってお出になった。ご子息の殿方や、その他の上達部、殿上 人なども、たいそう大勢引き連れていらっしゃる威勢が、大変なのを見ると、並びようもないのが、がっかりした。女房たちが覗いて拝見して、  「まあ、美しくいらっしゃる大臣ですこと。あれほど、どなたも皆、若く男盛りで美しくいらっしゃるご子息たちで、似ていらっしゃる方もありません ね。何と、立派なこと」  という者もいる。また、  「あれほど重々しいご様子で、わざわざお迎えに参上なさるのは憎らしい。安心できないご夫婦仲ですこと」  などと、嘆息する者もいるようだ。ご自身も、過去を思い出すのをはじめとして、あのはなやかなご夫婦の生活に肩を並べやってゆけそうにもなく、 存在感の薄い身の上をと、ますます心細いので、「やはり気楽に山里に籠もっているのが無難であろう」などと、ますます思われなさる。とりとめも なく年が暮れた。   8 薫の物語 女二の宮、薫の三条宮邸に降嫁  [8-1 新年、薫権大納言右大将に昇進]  正月晦日方から、ふだんと違ってお苦しみになるのを、宮は、まだご経験のないことなので、どうなることだろうと、お嘆きになって、御修法など を、あちこちの寺にたくさんおさせになるが、またまたお加え始めさせなさる。たいそうひどく患いなさるので、后の宮からもお見舞いがある。  結婚して三年になったが、お一方のお気持ちは並々でないが、世間一般に対しては、重々しくおもてなし申し上げなさらなかったので、この時 に、どこもかしこもお聞きになって驚いて、お見舞い申し上げになるのであった。  中納言の君は、宮がお騷ぎになるのに負けず、どうおなりになることだろうかとご心配になって、お気の毒に気がかりにお思いになるが、一通り のお見舞いはするが、あまり参上することはできないので、こっそりとご祈祷などをおさせになるのだった。  その一方では、女二の宮の御裳着が、ちょうどこのころとなって、世間で大評判となっている。万事が、帝のお心一つみたいに御準備なさるの で、御後見がいないのも、かえって立派に見えるのであった。  女御が生前に準備しておかれたことはいうまでもなく、作物所や、しかるべき受領連中などが、それぞれにお仕え申し上げることは、とても際限 がない。  そのままその時から、通い始めさせなさることになっていたので、男の方も気をおつかいになるころであるが、例の性格なので、その方面には気 が進まず、このご懐妊のことばかりお気の毒に嘆かずにいられない。  二月の初めころに、直物とかいうことで、権大納言におなりになって、右大将を兼官なさった。右の大殿が、左大将でいらっしゃったが、お辞めに なったものであった。  お礼言上に諸所をお回りになって、こちらの宮にも参上なさった。たいそう苦しそうでいらっしゃるので、こちらにいらっしゃるときであったので、そ のまま参上なさった。僧などが伺候していて不都合なところで、と驚きなさって、派手なお直衣に、御下襲などをお召し替えになって、身づくろいな さって、下りて拝舞の礼をなさるお二方のお姿は、それぞれに立派で、  「このまま今晩、近衛府の人に禄を与える宴会の所にどうぞ」  と、お招き申し上げなさるが、お具合の悪い人のために、躊躇なさっているようである。右大臣殿がなさった例に従ってと、六条院で催されるので あった。  お相伴の親王方や上達部たちは、大饗に負けないほど、あまり騒がし過ぎるほど参集なさった。この宮もお渡りになって、落ち着いていられない ので、まだ宴会が終わらないうちに急いでお帰りになったのを、大殿の御方では、  「とても物足りなく癪にさわる」  とおっしゃる。負けるほどでもないご身分なのを、ただ今の威勢が立派なのにおごって、いばっていらっしゃるのであろうよ。  [8-2 中の君に男子誕生]  やっとのこと、その早朝に、男の子でお生まれになったのを、宮もたいそうその効あって嬉しくお思いになった。大将殿も、昇進の喜びに加えて、 嬉しくお思いになる。昨夜おいでになったお礼言上に、そのまま、このお祝いを合わせて、立ったままで参上なさった。こうして籠もっていらっしゃる ので、お祝いに参上しない人はいない。  御産養は、三日は、例によってただ宮の私的祝い事として、五日の夜は、大将殿から屯食五十具、碁手の銭、椀飯などは、普通通りにして、子 持ちの御前の衝重三十、稚児の御産着五重襲に、御襁褓などは、仰々しくないようにこっそりとなさったが、詳細に見ると、特別に珍しい趣向が凝 らしてあったのであった。  宮の御前にも浅香の折敷や、高坏類に、粉熟を差し上げなさった。女房の御前には、衝重はもちろんのこと、桧破子三十、いろいろと手を尽くし たご馳走類がある。人目につくような大げさには、わざとなさらない。  七日の夜は、后の宮の御産養なので、参上なさる人びとが多い。中宮大夫をはじめとして、殿上人、上達部が、数知れず参上なさった。主上に おかれてもお耳にあそばして、  「宮がはじめて一人前におなりになったというのに、どうして放っておけようか」  と仰せになって、御佩刀を差し上げなさった。  九日も、大殿からお世話申し上げなさった。おもしろくなくお思いになるところだが、宮がお思いになることもあるので、ご子息の公達が参上なさっ て、万事につけたいそう心配事もなさそうにおめでたいので、ご自身でも、ここ幾月も物思いによって気分が悪いのにつけても、心細くお思い続けて いたが、このように面目がましいはなやかな事が多いので、少し慰みなさったことであろうか。  大将殿は、「このようにすっかり大人になってしまわれたので、ますます自分のほうには縁遠くなってしまうだろう。また、宮のお気持ちもけっして 並々ではあるまい」と思うのは残念であるが、また、初めからの心づもりを考えてみると、たいそう嬉しくもある。  [8-3 2月20日過ぎ、女二の宮、薫に降嫁す]  こうして、その月の二十日過ぎに、藤壷の宮の御裳着の儀式があって、翌日、大将が参上なさった。その夜のことは内々のことである。世間に評 判なほど大切にかしずかれた姫宮なのに、臣下がご結婚申し上げなさるのは、やはり物足りなくお気の毒に見える。  「そのようなお許しはあったとしても、ただ今、このようにお急ぎあそばすことでもあるまい」  と、非難がましく思いおっしゃる人もいるのだったが、ご決意なさったことを、すらすらとなさるご性格なので、過去に例がないほど同じことならお扱 いなさろうと、お考えおいたようである。帝の御婿になる人は、昔も今も多いが、このように全盛の御世に、臣下のように、婿を急いでお迎えなさる 例は少なかったのではなかろうか。右大臣も、  「珍しいご信任、運勢だ。故院でさえ、朱雀院の晩年におなりあそばして、今は出家されようとなさった時に、あの母宮を頂戴なさったのだ。自分 はまして、誰も許さなかったのを拾ったものだ」  とおっしゃり出すので、宮は、その通りとお思いになると、恥ずかしくてお返事もおできになれない。  三日の夜は、大蔵卿をはじめとして、あの御方のお世話役をなさっていた人びとや、家司にご命令なさって、人目に立たないようにではあるが、 婿殿の御前駆や随身、車副、舎人まで禄をお与えになる。その時の事柄は、私事のようであった。  こうして後は、忍び忍びに参上なさる。心の中では、やはり忘れることのできない故人のことばかりが思われて、昼は実邸に起き臥し物思いの生 活をして、暮れると気の進まないままに急いで参内なさるのを、なれない気持ちには億劫で苦しくて、「ご退出させ申し上げよう」とお考えになった のであった。  母宮は、とても嬉しいこととお思いになっていらっしゃった。お住まいになっている寝殿をお譲り申し上げようとおっしゃるが、  「まことに恐れ多いことです」  と言って、御念誦堂との間に、渡廊を続けてお造らせになる。西面にお移りになるようである。東の対なども、焼失して後は、立派に新しく理想的 なのを、ますます磨き加え加えして、こまごまとしつらわせなさる。  このようなお心づかいを、帝におかせられてもお耳にあそばして、月日も経ずに気安く引き取られなさるのを、どんなものかとお思いであった。帝と 申し上げても、子を思う心の闇は同じことでおありだった。  母宮の御もとに、お使いがあったお手紙にも、ただこのことばかりを申し上げなさった。故朱雀院が、特別に、この尼宮の御事をお頼み申し上げて いたので、このように出家なさっているが、衰えず、何事も昔通りで、奏上させなさることなどは、必ずお聞き入れなさって、お心配りが深いのであ った。  このように、重々しいお二方に、互いにこの上なく大切にされていらっしゃる面目も、どのようなものであろうか、心中では特に嬉しくも思われず、 やはり、ともすれば物思いに耽りながら、宇治の寺の造営を急がせなさる。  [8-4 中の君の男御子、五十日の祝い]  宮の若君が五十日におなりになる日を数えて、その餅の準備を熱心にして、籠物や桧破子などまで御覧になりながら、世間一般の平凡なものに はしまいとお考え向きになって、沈、紫檀、銀、黄金など、それぞれの専門の工匠をたいそう大勢呼び集めさせなさるので、自分こそは負けまい と、いろいろのものを作り出すようである。  ご自身も、いつものように、宮がいらっしゃらない間においでになった。気のせいであろうか、もう一段と重々しく立派な感じが加わったと見える。 「今は、そうはいっても、わずらわしかった懸想事などは忘れなさったろう」と思うと、安心なので、お会いなさった。けれど、以前のままの様子で、 まっさきに涙ぐんで、  「気の進まない結婚は、たいそう心外なものだと、世の中を思い悩みますことは、今まで以上です」  と、何の遠慮もなく訴えなさる。  「まあ何というお事を。他人が自然と漏れ聞いたら大変ですよ」  などとおっしゃるが、これほどめでたい幾つものことにも心が晴れず、「忘れがたく思っていらっしゃるのだろう愛情の深さは」としみじみお察し申し 上げなさると、並々でない愛情だとお分かりになる。「生きていらっしゃったら」と、残念にお思い出し申し上げなさるが、「そうしても、自分と同じよう になって、姉妹で恨みっこなしに恨むのがおちであろう。何事も、落ちぶれた身の上では、一人前らしいこともありえないのだ」と思われると、ますま す、姉君の結婚しないで通そうと思っていらっしゃった考えは、やはり、とても重々しく思い出されなさる。  [8-5 薫、中の君の若君を見る]  若君を切に拝見したがりなさるので、恥ずかしいけれど、「どうしてよそよそしくしていられよう、無理なこと一つで恨まれるより以外には、何とかこ の人のお心に背くまい」と思うので、ご自身はあれこれお答え申し上げなさらないで、乳母を介して差し出させなさった。  当然のことながら、どうして憎らしいところがあろう。不吉なまでに白くかわいらしくて、大きい声で何か言っており、にっこりなどなさる顔を見ると、 自分の子として見ていたく羨ましいのも、この世を離れにくくなったのであろうか。けれど、「亡くなってしまった方が、普通に結婚して、このようなお 子を残しておいて下さったら」とばかり思われて、最近面目をほどこすあたりには、はやく子ができないかなどとは考えもつかないのは、あまり仕方 のないこの君のお心のようだ。このように女々しくひねくれて、語り伝えるのもお気の毒である。  そんなによくない方を、帝が特別お側にお置きになって、親しみなさることもあるまいに、「生活面でのご思慮などは、無難でいらっしゃったのだろ う」と推量すべきであろう。  なるほど、まことにこのように幼い子をお見せなさるのもありがたいことなので、いつもよりはお話などをこまやかに申し上げなさるうちに、日も暮 れたので、気楽に夜を更かすわけにもゆかないのを、つらく思われるので、嘆息しながらお出になった。  「結構なお匂いの方ですこと。梅を折ったなら、とか言うように、鴬も求めて来ましょうね」  などと、やっかいがる若い女房もいる。  [8-6 藤壷にて藤の花の宴催される]  「夏になったら、三条宮邸は宮中から塞がった方角になろう」と判定して、四月初めころの、節分とかいうことは、まだのうちにお移し申し上げなさ る。  明日引っ越しという日に、藤壷に主上がお渡りあそばして、藤の花の宴をお催しあそばす。南の廂の御簾を上げて、椅子を立ててある。公の催事 で、主人の宮がお催しなさることではない。上達部や、殿上人の饗応などは、内蔵寮からご奉仕した。  右大臣や、按察大納言、藤中納言、左兵衛督。親王方では、三の宮、常陸宮などが伺候なさる。南の庭の藤の花の下に、殿上人の座席は設け た。後涼殿の東に、楽所の人びとを召して、暮れ行くころに、双調に吹いて、主上の御遊に、宮の御方から、絃楽器や管楽器などをお出させなさっ たので、大臣をおはじめ申して、御前に取り次いで差し上げなさる。  故六条院がご自身でお書きになって、入道の宮に差し上げなさった琴の譜二巻、五葉の枝に付けたのを、大臣がお取りになって奏上なさる。  次々に、箏のお琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物であった。笛は、あの夢で伝えた故人の形見のを、「二つとない素晴らしい音色だ」とお誉めあ そばしたので、「今回の善美を尽くした宴の他に、再びいつ名誉なことがあろうか」とお思いになって、取り出しなさったようだ。  大臣に和琴、三の宮に琵琶など、それぞれにお与えになる。大将のお笛は、今日は、またとない音色の限りをお立てになったのだった。殿上人 の中にも、唱歌に堪能な人たちは、召し出して、風雅に合奏する。  宮の御方から、粉熟を差し上げなさった。沈の折敷四つ、紫檀の高坏、藤の村濃の打敷に、折枝を縫ってある。銀の容器、瑠璃のお盃、瓶子は 紺瑠璃である。兵衛督が、お給仕をお勤めなさる。  お盃をいただきなさる時に、大臣は、自分だけしきりにいただくのは不都合であろう、宮様方の中には、またそのような方もいらっしゃらないので、 大将にお譲り申し上げなさるのを、遠慮してご辞退申し上げなさるが、帝の御意向もどうあったのだろうか、お盃を捧げて、「おし」とおっしゃる声や 態度までが、いつもの公事であるが、他の人と違って見えるのも、今日はますます帝の婿君と思って見るせいであろうか。さし返しの盃にいただい て、庭に下りて拝舞なさるところは、実にまたとない。  上席の親王方や、大臣などが戴きなさるのでさえめでたいことなのに、これはそれ以上に帝の婿君としてもてはやされ申されていらっしゃる、そ の御信任が、並々でなく例のないことだが、身分に限度があるので、下の座席にお帰りになってお座りになるところは、お気の毒なまでに見えた。  [8-7 女二の宮、三条宮邸に渡御す]  按察使大納言は、「自分こそはこのような目に会いたい思ったが、妬ましいことだ」と思っていらっしゃった。この宮の御母女御を、昔、思いをお懸 け申し上げていらっしゃったが、入内なさった後も、やはり思いが離れないふうにお手紙を差し上げたりなさって、終いには宮を得たいとの考えがあ ったので、ご後見を希望する様子をお漏らし申し上げたが、お聞き入れさえなさらなかったので、たいそう悔しく思って、  「人柄は、なるほど前世の因縁による格別の生まれであろうが、どうして、時の帝が大仰なまでに婿を大切になさることだろう。他に例はないだろ う。宮中の内で、お常御殿に近い所に、臣下が寛いで出入りして、最後は宴や何やとちやほやされることよ」  などと、ひどく悪口をぶつぶつ申し上げなさったが、やはり盛儀を見たかったので、参内して、心中では腹を立てていらっしゃるのだった。  紙燭を灯して何首もの和歌を献上する。文台のもとに寄りながら置く時の態度は、それぞれ得意顔であったが、例によって、「どんなにかおかしげ で古めかしかったろう」と想像されるので、むやみに全部は探して書かない。上等の部も、身分が高いからといって、詠みぶりは、格別なことは見 えないようだが、しるしばかりにと思って、一、二首聞いておいた。この歌は、大将の君が、庭に下りて帝の冠に挿す藤の花を折って参上なさった 時のものとか。  「帝の插頭に折ろうとして藤の花を   わたしの及ばない袖にかけてしまいました」  いい気になっているのが、憎らしいこと。  「万世を変わらず咲き匂う花であるから   今日も見飽きない花の色として見ます」  「主君のため折った插頭の花は   紫の雲にも劣らない花の様子です」  「世間一般の花の色とも見えません   宮中まで立ち上った藤の花は」  「これがこの腹を立てた大納言のであった」と見える。一部は、聞き違いであったかも知れない。このように、格別に風雅な点もない歌ばかりであ った。  夜の更けるにしたがって、管弦の御遊はたいそう興趣深い。大将の君が、「安名尊」を謡いなさった声は、この上なく素晴しかった。按察使大納 言も、若い時にすぐれていらっしゃったお声が残っていて、今でもたいそう堂々としていて、合唱なさった。右の大殿の七郎君が、子供で笙の笛を吹 く。たいそうかわいらしかったので、御衣を御下賜になる。大臣が庭に下りて拝舞なさる。  暁が近くなってお帰りあそばした。禄などを、上達部や、親王方には、主上から御下賜になる。殿上人や、楽所の人びとには、宮の御方から身分 に応じてお与えになった。  その夜に、宮をご退出させなさった。その儀式はまことに格別である。主上つきの女房全員にお供をおさせになった。廂のお車で、廂のない糸毛 車三台、黄金造りの車六台、普通の檳榔毛の車二十台、網代車二台、童女と、下仕人を八人ずつ伺候させたが、一方お迎えの出車に、本邸の女 房たちを乗せてあった。お送りの上達部、殿上人、六位など、何ともいいようなく善美を尽くさせていらっしゃった。  こうして、寛いで拝見なさると、まことに立派でいらっしゃる。小柄で上品でしっとりとして、ここがいけないと見えるところもなくいらっしゃるので、 「運命も悪くはなかった」と、心中得意にならずにいらないが、亡くなった姫君が忘れられればよいのだが、やはり気持ちの紛れる時なく、そればか りが恋しく思い出されるので、  「この世では慰めきれないことのようである。仏の悟りを得てこそ、不思議でつらかった二人の運命を、何の報いであったのかとはっきり知って諦 めよう」  と思いながら、寺の造営にばかり心を注いでいらっしゃった。   9 薫の物語 宇治で浮舟に出逢う  [9-1 4月20日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅]  賀茂の祭などの、忙しいころを過ごして、二十日過ぎに、いつものように、宇治へお出かけになった。  造らせなさっている御堂を御覧になって、なすべき事などをお命じになって、そうして、いつものように、弁のもとを素通りいたすのも、やはり気の 毒なので、そちらにお出でになると、女車が仰々しい様子ではないのが一台、荒々しい東男が腰に刀を付けた者を、大勢従えて、下人も数多く頼 もしそうな様子で、橋を今渡って来るのが見える。  「田舎者だなあ」と御覧になりながら、殿は先にお入りになって、お供の連中は、まだ立ち騒いでいるところに、「この車もこの宮を目指して来るの だ」と分かる。御随身たちも、がやがやと言うのを制止なさって、  「誰であろうか」  と尋ねさせなさると、言葉の訛った者が、  「常陸前司殿の姫君が、初瀬のお寺に参詣してお帰りになったのです。最初もここにお泊まりになりました」  と申すので、  「おや、そうだ、聞いたことのある人だ」  とお思い出しになって、供人たちを別の場所にお隠しになって、  「早く、お車を入れなさい。ここには、別に泊まっている人がいらっしゃるが、北面のほうにおいでです」  と言わせなさる。  お供の人も、みな狩衣姿で、大げさでない姿ではあるが、やはり高貴な感じがはっきりしているのであろう、わずらわしそうに思って、馬どもを遠ざ けて、控えていた。車は入れて、渡廊の西の端に寄せる。この寝殿はまだ人目を遮る調度類が入れてなくて、簾も掛けていない。格子を下ろしこめ た中の二間に立てて仕切ってある襖障子の穴から覗きなさる。  お召し物の音がするので、脱ぎ置いて、直衣に指貫だけを着ていらっしゃる。すぐには下りないで、尼君に挨拶をして、このように高貴そうな方が いらっしゃるのを、「どなたですか」などと尋ねているのであろう。君は、車をその人とお聞きになってから、  「けっして、その人にわたしがいるとおっしゃるな」  と、まっさきに口止めなさっていたので、みなそのように心得て、  「早くお降りなさい。客人はいらしゃるが、別の部屋です」  と言い出した。  [9-2 薫、浮舟を垣間見る]  若い女房がいるが、まず降りて、簾を上げるようである。御前駆の様子よりは、この女房は物馴れていて見苦しくない。また、年とった女房がもう 一人降りて、「早く」と言うと、  「妙に丸見えのような気がします」  という声は、かすかではあるが上品に聞こえる。  「いつものおことです。こちらは、以前にも格子を下ろしきってございました。それでは、どこがまた丸見えでしょうか」  と、安心しきって言う。遠慮深そうに降りるのを見ると、まず、頭の恰好、身体つき、細くて上品な感じは、たいそうよく亡き姫君を思い出されよう。 扇でぴったりと顔を隠しているので、顔の見えないところは見たくて、胸をどきどきさせながら御覧になる。  車は高くて、降りる所が低くなっていたが、この女房たちは楽々と降りたが、たいそうつらそうに困りきって、長いことかかって降りて、お部屋にい ざって入る。濃い紅の袿に、撫子襲と思われる細長、若苗色の小袿を着ていた。  四尺の屏風を、この襖障子に添えて立ててあるが、上から見える穴なので、丸見えである。こちらを不安そうに思って、あちらを向いて物に寄り臥 した。  「何とも、お疲れのようですね。泉川の舟渡りも、ほんとうに、今日はとても恐ろしかったわ。この二月には、水が浅かったのでよかったのですが」  「いやなに、出歩くことは、東国の旅を思えば、どこが恐ろしいことがありましょう」  などと、二人でつらいとも思わず言っているのに、主人は音も立てずに臥せっていた。腕をさし出しているのが、まるまるとかわいらしいのを、常陸 殿の娘とも思えない、まことに上品である。  だんだんと腰が痛くなるまで腰をかがめていらっしゃったが、人の来る感じがしないと思って、依然として動かずに御覧になると、若い女房が、  「まあ、いい香りのすること。たいそうな香の匂いがしますわ。尼君が焚いていらっしゃるのかしら」  老女房は、  「ほんとうに何とも素晴らしい香でしょう。京の人は、やはりとても優雅で華やかでいらっしゃる。北の方さまが当地で一番だと自惚れていらした が、東国ではこのような薫物の香は、とても合わせることができなかった。この尼君は、住まいはこのようにひっそりしていらっしゃるが、衣装が素 晴らしく、鈍色や青鈍と言っても、とても美しいですね」  などと、誉めていた。あちらの簀子から童女が来て、  「お薬湯などお召し上がりなさいませ」  と言って、いくつもの折敷に次から次へとさし入れる。果物を取り寄せなどして、  「もしもし、これを」  などと言って起こすが、起きないので、二人して、栗などのようなものか、ほろほろと音を立てて食べるのも、聞いたこともない感じなので、見てい られなくて退きなさったが、再び見たくなっては、やはり立ち寄り立ち寄り御覧になる。  この人より上の身分の人びとを、后宮をはじめとして、あちらこちらに、器量のよい人や気立てが上品な人をも、大勢飽きるほど御覧になったが、 いいかげんな女では、目も心も止まらず、あまり人から非難されるまでまじめでいらっしゃるお気持ちには、ただ今のようなのは、どれほども素晴ら しく見えることもない女であるが、このように立ち去りにくく、むやみに見ていたいのも、実に妙な心である。  [9-3 浮舟、弁の尼と対面]  尼君は、この殿の御方にも、ご挨拶申し上げ出したが、  「ご気分が悪いと言って、今休んでいらっしゃるのです」  と、お供の人びとが心づかいして言ったので、「この君を探し出したくおっしゃっていたので、このような機会に話し出そう」とお思いになって、「日 暮れを待っていらっしゃったのか」と思って、このように覗いているとは知らない。  いつものように、御荘園の管理人連中が参上しているが、破子や何やかやと、こちらにも差し入れているのを、東国の連中にも食べさせたりな ど、いろいろ済ませて、身づくろいして、客人の方に来た。誉めていた衣装は、なるほどとてもこざっぱりとしていて、顔つきもやはり上品で美しかっ た。  「昨日お着きになるとお待ち申し上げていましたが、どうして、今日もこんなに日が高くなってから」  と言うようなので、この老女房は、  「とても妙につらそうにばかりなさっているので、昨日はこの泉川のあたりで、今朝もずうっとご気分が悪かったものですから」  と答えて、起こすと、今ようやく起きて座った。尼君に恥ずかしがって、横から見た姿は、こちらからは実によく見える。ほんとうにたいそう気品の ある目もとや、髪の生え際のあたりが、亡くなった姫君を、詳細につくづくとは御覧にならなかったお顔であるが、この人を見るにつけて、まるでそ の人と思い出されるので、例によって、涙が落ちた。  尼君への応対する声、感じは、宮の御方にもとてもよく似ているような聞こえる。  「何というなつかしい人であろう。このような人を、今まで探し出しもしないで過ごして来たとは。この人よりつまらないような身分の故姫宮に縁の ある女でさえあったならば、これほど似通い申している人を手に入れてはいいかげんに思わない気がするが、まして、この人は、父宮に認知してい ただかなかったが、ほんとうに故宮のご息女だったのだ」  とお分かりになっては、この上なく嬉しく思われなさる。ただ今にでも、側に這い寄って、「この世にいらっしゃったのですね」と言って慰めたい。蓬 莱山まで探し求めて、釵だけを手に入れて御覧になったという帝は、やはり、物足りない気がしたろう。「この人は別の人であるが、慰められるとこ ろがありそうな様子だ」と思われるのは、この人と前世からの縁があったのであろうか。  尼君は、お話を少しして、すぐに中に入ってしまった。女房たちが気がついた香りを、「近くから覗いていらっしゃるらしい」と分かったので、寛いだ 話も話さずになったのであろう。  [9-4 薫、弁の尼に仲立を依頼]  日が暮れてゆくので、君もそっと出て、ご衣装などをお召しになって、いつも呼び出す襖障子口に、尼君を呼んで、様子などをお尋ねなさる。  「ちょうどよい時に来合わせたものだな。どうでしたか、あの申し上げておいたことは」  とおっしゃると、  「そのように、仰せ言がございました後は、適当な機会がありましたら、と待っておりましたが、去年は過ぎて、今年の二月に、初瀬に参詣する機 会に初めて対面しました。  あの母君に、お考えの向きは、ちらっとお話しておきましたので、とても身の置き所もなく、もったいないお話でございます、などと申しておりまし たが、その当時は、お忙しいころと承っておりましたので、機会がなく不都合に思って遠慮して、これこれです、とも申し上げませんでしたが、また 今月にも参詣して、今日お帰りになったような次第です。  行き帰りの宿泊所として、このように親しくされるのも、ただお亡くなりになった父君の跡をお尋ね申し上げる理由からでございましょう。あの母君 は、支障があって、今回は、お独りで参詣なさるようなので、このようにいらっしゃっても、特に、申し上げることもないと思いまして」  と申し上げる。  「田舎者めいた連中に、人目につかないようにやつしている姿を見られまいと、口固めしているが、どんなものであろう。下衆連中は隠すことはで きまい。さて、どうしたものだろうか。独り身でいらっしゃるのは、かえって気楽だ。このように前世からの約束があって、巡り合わせたのだ、とお伝 えください」  とおっしゃると、  「急に、いつの間にできたお約束ですか」  と、苦笑して、  「それでは、そのようにお伝えしましょう」  と言って、中に入るときに、  「かお鳥の声も昔聞いた声に似ているかしらと   草の茂みを分け入って今日尋ねてきたのだ」  ただ口ずさみのようにおっしゃるのを、中に入って語るのであった。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 Last updated 1/3/99 渋谷栄一訳(C)   東屋 薫君の大納言時代26歳秋8月から9月までの物語 1 浮舟の物語 左近少将との縁談とその破綻 1.浮舟の母、娘の良縁を願う---筑波山を分け入ってみたいお気持ちはあるが 2.継父常陸介と求婚者左近少将---常陸介も卑しい人ではなかったのだ 3.左近少将、浮舟が継子だと知る---こうして、あの少将は、約束した月を待たないで 4.左近少将、常陸介の実娘を所望す---この仲人は、人に追従する嫌なところのある性質の人なので 5.常陸介、左近少将に満足す---この仲人は、妹がこの西の御方に仕えているのをつてにして 6.仲人、左近少将を絶賛す---うまく行きそうだと、嬉しく思う 7.左近少将、浮舟から常陸介の実娘にのり換える---「ただ今のご収入などが少ないことなどは 8.浮舟の縁談、破綻す---北の方は、誰にも知られず準備して、女房たちの衣装を新調させ 2 浮舟の物語 京に上り、匂宮夫妻と左近少将を見比べる 1.浮舟の母と乳母の嘆き---こちらに来てみると、たいそうかわいらしい様子で 2.継父常陸介、実娘の結婚の準備---介は急いで準備して、「女房など、こちらに無難な者が 3.浮舟の母、京の中の君に手紙を贈る---母君や、御方の乳母は、たいそうあきれて思う 4.母、浮舟を匂宮邸に連れ出す---常陸介は、少将の新婚のもてなしを、どんなにか立派なふうにしようと思うが 5.浮舟の母、匂宮と中の君夫妻を垣間見る---宮がお越しになる。見たくて物の間から見ると 6.浮舟の母、左近少将を垣間見て失望---宮は、日が高くなってからお起きになって、「后の宮が、例によって 3 浮舟の物語 浮舟の母、中の君に娘の浮舟を託す 1.浮舟の母、中の君と談話す---女君の御前に出て来て、たいそうお誉め申し上げると 2.浮舟の母、娘の不運を訴える---こまごまとではないが、女房も聞いて知っていると思うので 3.浮舟の母、薫を見て感嘆す---器量も気立ても、憎むことができないほどかわいらしい 4.中の君、薫に浮舟を勧める---いつものように、お話をとても親しく申し上げなさる 5.浮舟の母、娘に貴人の婿を願う---「それでは、その客人に、このような願いを何年も持っていたので 6.浮舟の母、中の君に娘を託す---女君は、こっそりとおっしゃった話を、それとなくおっしゃる 4 浮舟と匂宮の物語 浮舟、匂宮に見つかり言い寄られる 1.匂宮、二条院に帰邸---車を引き出すときの、少し明るくなったころに、宮が 2.匂宮、浮舟に言い寄る---夕方、宮がこちらにお渡りあそばすと 3.浮舟の乳母、困惑、右近、中の君に急報---乳母は、人の気配がいつもと違うのを、変だと思って 4.宮中から使者が来て、浮舟、危機を脱出---「上達部が大勢参上なさっている日なので 5.乳母、浮舟を慰める---恐ろしい夢から覚めたような気がして、汗にびっしょり濡れて 6.匂宮、宮中へ出向く---宮は、急いでお出かけになる様子である。内裏に近い方からであろうか 7.中の君、浮舟を慰める---この君は、ほんとうに気分も悪くなっていたが 8.浮舟と中の君、物語絵を見ながら語らう---絵などを取り出させて、右近に詞書を読ませて 5 浮舟の物語 浮舟、三条の隠れ家に身を寄せる 1.乳母の急報に浮舟の母、動転す---乳母は、車を頼んで、常陸殿邸へ行った。北の方に 2.浮舟の母、娘を三条の隠れ家に移す---このような方違えの場所と思って、小さい家 3.母、左近少将と和歌を贈答す---少将の待遇を、常陸介は、この上ないものに思って準備し 4.母、薫のことを思う---「故宮の御事を聞いているらしい」と思うと 5.浮舟の三条のわび住まい---旅の宿は、所在なくて、庭の草もうっとうしい気が 6 浮舟と薫の物語 薫、浮舟を伴って宇治へ行く 1.薫、宇治の御堂を見に出かける---あの大将殿は、いつものように、秋が深まってゆくころ 2.薫、弁の尼に依頼して出る---「どうしてそんなことが。どうするにせよ、誰かが伝え聞いて言うならともかく 3.弁の尼、三条の隠れ家を訪ねる---お約束になった日のまだ早朝に、腹心の家来とお思いになる下臈の侍 4.薫、三条の隠れ家の浮舟と逢う---宵を少し過ぎたころに、「宇治から参った者です」と言って 5.薫と浮舟、宇治へ出発---まもなく夜が明けてしまう気がするのに、鶏などは鳴かないで 6.薫と浮舟の宇治への道行き---「近い所にか」と思うと、宇治へいらっしゃるのであった 7.宇治に到着、薫、京に手紙を書く---宇治にお着きになって、「ああ、亡き方の魂がとどまって 8.薫、浮舟の今後を思案す---くつろいでいらっしゃるご様子で、いま一段と魅力的になって 9.薫と浮舟、琴を調べて語らう---ここにあった琴や、箏の琴を召し出して   1 浮舟の物語 左近少将との縁談とその破綻  [1-1 浮舟の母、娘の良縁を願う]  筑波山を分け入ってみたいお気持ちはあるが、そんな端山の茂みにまで無理に熱中するようなのも、たいそう人聞きが軽々しく、確かに体裁の 悪いことなので、お差し控えになって、お手紙をさえお伝えさせになることができない。  あの尼君のもとから、母北の方におっしゃったことなどを、何度もそれとなく言ってよこすが、本気でお心がとまるように思われないので、ただ、そ んなにまでお探してご存知になったこと、というぐらいにおもしろく思って、ご身分が今の世ではめったにないようなのにつけても、人並みの身分で あったら、などといろいろと思うのであった。  常陸介の子供は、母親が亡くなった者など、大勢いて、今の母腹にも、姫君と名づけて大切にする者があり、まだ幼い者など、次々に五、六人い たので、いろいろと子供の世話をしながら、連れ子と思い隔てる気持ちがあったので、いつもとてもつらいと介を恨みながら、「何とかすぐれて、晴 れがましいところに縁づけたい」と、明け暮れ、この母君は思い世話をしていたのであった。  容姿や器量が、並々で、他の娘たちと同じようなのであったら、とてもこんなにまでどうして苦しいまでに悩んだりしよう、皆と同じように思わせて もよいものを、誰にも似ず、何とももったいなくもお生まれになったので、もったいなくおいたわしい人と思っていた。  娘が多いと聞いて、なまじ公達めいた人びとも、恋文を送り言い寄るのが、たいそう大勢いるのであった。先妻の腹の二、三人は、皆それぞれに 縁づけて、一人前にさせていた。今は自分の姫君を、「思い通りにお世話申したい」と、朝から晩まで気をつけて、大切にお世話することこの上な い。  [1-2 継父常陸介と求婚者左近少将]  常陸介も卑しい人ではなかったのだ。上達部の血筋を引いて、一門の人びとも見苦しい人でなく、財力など大変に有ったので、身分相応に気位 高くて、邸の内も輝くように美しく、こざっぱりと生活し、風流を好むわりには、妙に荒々しく田舎人めいた性情もついていたのであった。  若くから、そのような東国の方の、遥か遠い世界に埋もれて長年過ごしてきたせいか、声などもほとんど田舎風になって、何か言うと、すこし訛り があるようで、権勢家のあたりを恐ろしく厄介なものと気兼ねし恐がって、すべての面で実に抜け目ない心がある。  風雅な方面の琴や笛の芸道には疎遠で、弓をたいそう上手に引くのであった。身分の低い家柄を問題にせず、財力につられて、よい若い女房連 中が、衣装や身なりは素晴らしく整えて、下手な歌合せや、物語、庚申待ちをし、まぶしいほど見苦しく、遊び事に風流めかしているのを、この懸想 の公達は、  「才たけているにちがいない。器量も大変なものらしい」  などと、素晴らしいように言い作って、恋心を尽くしあっている中で、左近少将といって、年は二十二、三歳くらいで、性格が落ち着いていて、学問 があるという点では、誰からも認められていたが、きらきらしく派手にはしていなかったのか、通っていた妻とも縁が切れて、たいそう熱心に言い寄 って来るのであった。  この母君は、大勢このようなことを言って来る人びとの中で、  「この君は、人柄も無難である。思慮もしっかりしていて分別がありそうだし、人品も卑しくないな。この人以上の、立派な身分の人はまた、このよ うなあたりを、そうはいっても、探し求めて来るまい」  と思って、この御方に取り次いで、適当な折々には、結構なように返事などをおさせ申し上げる。自分独りで心用意する。  「常陸介はいいかげんに思うとも、自分は命に代えて大切に世話し、容姿器量の素晴らしいのを見たならば、そうはいっても、いいかげんにまど は、けっして思う人はいまい」  と決心して、八月ぐらいにと約束して、調度を準備し、ちょっとした遊び道具を作らせても、恰好は格別に美しく、蒔絵、螺鈿のこまやかな趣向がす ぐれて見える物を、この御方のために隠し置いて、劣った物を、  「これが結構です」  と言って見せると、常陸介はよくも分からず、これといった価値のない物どもで、世間でいう調度類という調度は、すべて集めて部屋中いっぱいに 並べ据えて、目をわずかに覗かせるくらいで、琴、琵琶の師匠として、内教坊のあたりから迎え迎えして習わせる。  一曲習得すると、師匠を立ったり座ったり拝んでお礼申し上げ、謝礼を与えることは、それで埋まるほどに大騒ぎする。調子の早い曲などを教え て、師匠と一緒に、美しい夕暮時などに、合奏して遊ぶときは、涙も隠さず、馬鹿馬鹿しいまでに、それほど感動していた。このようなことを、母君 は、少しは物事を知っていて、とても見苦しいと思うので、特に相手にしないのを、  「わが娘を、馬鹿にしておられる」  と、いつも恨んでいるのであった。  [1-3 左近少将、浮舟が継子だと知る]  こうして、あの少将は、約束した月を待たないで、「同じことなら早く」と催促したので、自分の考え一つで、このように急ぐのも、たいそう気がひけ て、相手の心の知りにくいことを思って、初めから取り次いだ人が来たので、近くに呼んで相談する。  「いろいろと気兼ねすることがありますが、何か月もこのようにおっしゃって月日がたったが、平凡な身分の方でもいらっしゃらないので、もったい なくお気の毒で。このように決心しましたが、父親などもいらっしゃらない娘なので、自分一人の考えのようで、はた目にも見苦しく、行き届かない 点がありましょうかと、今から心配しています。  若い娘たちは大勢いますが、世話する父親がいる者は、自然と何とかなろうと任せる気になりまして、この姫君のことばかりが、はかないこの世 を見るにつけても、不安でたまらないので、物の情理を弁えるお方と聞いて、このようにいろいろと遠慮を忘れてしまいそうなのも、もし意外なお気 持ちが見えたら、物笑いにになって悲しいことでしょう」  と言ったのを、少将の君のもとに参って、  「これこれしかじかでした」  と申したところ、機嫌が悪くなった。  「初めから、全然、介の娘でないということを聞かなかった。同じ結婚であるが、人聞きも劣った気がして、出入りするにも良くないことであろう。詳 しく調べもしないで、いいかげんなことを伝えて」  とおっしゃるので、困りきって、  「詳しくは存じませんでした。女房連中の知り合いのつてで、お願いを伝え始めたのでしたが、娘たちの中で大切にお世話している娘とばかり聞 きましたので、介の娘であろうと存じました。他人の娘を連れておいでだったとは、尋ねませんでした。  器量や、気立てもすぐれていらっしゃることは、母上がかわいがっていらっしゃって、晴れがましく面目のたつようにしようと、大切にお育てしてい ると聞いておりましたので、何とかあの介の家と縁組を取り持ってくれる人がいないものか、とおっしゃいましたので、あるつてを存じておりますと、 申し上げたのです。まったく、いいかげんなという非難を、受けることはございませんはずです」  と、腹黒く口数の多い者で、こう申すので、少将の君は、大して上品でない様子で、  「あのような受領ふぜいの家に通って行くのは、誰も良いことだとは認めないことだが、当節よくあることで、咎めもあるまいし、婿を大切に世話す るので、欠点を隠している例もあるようだが、実の娘と同じように内々では思っても、世間の思惑は、追従しているように人は言うであろう。  源少納言や、讃岐守などが、威張った感じで出入りするのに、常陸介からも少しも認められずに婿入りするのは、実に不面目であろう」  とおっしゃる。  [1-4 左近少将、常陸介の実娘を所望す]  この仲人は、人に追従する嫌なところのある性質の人なので、これをとても残念に、相手方とこちら方とに思ったので、  「実の介の娘をとお思いならば、まだ若くていらっしゃるが、そのようにお伝え申しましょう。妹にあたる娘を、姫君として、常陸介は、たいそうかわ いがっていらっしゃるそうです」  と申し上げる。  「さあね。初めからあのように申し込んでいたことをおいて、別の娘に申し込むのも嫌な気がする。けれど、自分の願いは、あの常陸介の、人柄も 堂々として、老成している人なので、後見人ともしたく、考えるところがあって思い始めたことなのだ。もっぱら器量や、容姿のすぐれている女の希 望もない。上品で優美な女を望むなら、簡単に得られよう。  けれど、物寂しく不如意でいて、風雅を好む人の最後は、みすぼらしい暮らしで、人から人とも思われないのを見ると、少し人から馬鹿にされよう とも、平穏に世の中を過ごしたいと願うのである。介に、このように話して、そのように認める様子があったら、何の、かまうものか」  とおっしゃる。  [1-5 常陸介、左近少将に満足す]  この仲人は、妹がこの西の御方に仕えているのをつてにして、このようなお手紙なども取り次ぎ始めたが、常陸介からは詳しく知られていない者 なのであった。ただずかずかと、介の座っている前に出て行って、  「申し上げねばならないことがあります」  などと言わせる。介は、  「この家に時々出入りしているとは聞くが、前には呼び出さない人が、何事を言うのであろうか」  と、どこか荒々しい様子であるが、  「左近少将殿からのお手紙でございます」  と言わせたので、会った。話し出しにくそうな顔をして、近くに座り寄って、  「ここ幾月も、御内儀の御方にお便りを差し上げなさっていましたが、お許しがあって、今月にとお約束申し上げなさったことがございましたが、吉 日を選んで、早くとお考えのうちに、ある人が申したことには、  『確かに北の方のご計画ではあるが、常陸介様の御娘さまではいらっしゃらない。良家のご子息がお通いになるには、世間の評判も追従してい るようであろう。受領の婿殿におなりになるこのような公達は、ただ私的な主君のように大切にされて、手に持った玉のように、大事にご後見申さ れることによって、そのような縁組を結びなさる人びともいらっしゃるようですが、やはりその願いは無理なようなので、少しも婿として承知していた だけず、劣った扱いでお通いになることは、不都合なこと』  だと、しきりに申す人びとが大勢ございますようなので、ただ今お困りになっています。  『初めからただ威勢がよく、後見者としてお頼り申すのに、十分でいらっしゃるご評判をお選び申して、求婚しは始めたのです。まったく、他人の娘 がいらっしゃるということは知らなかったので、最初の希望通りに、まだ幼い娘も大勢いらっしゃるというのを、お許しくださったら、ますます嬉しい。 ご機嫌を伺って来るように』  と命じられましたので」  と言うと、介は、  「まったく、そのようなお便りがございますこと、詳しく存じませんでした。ほんとうに実の娘と同じように存じている人ですが、よろしくない娘どもが 大勢おりまして、大したことでもないわが身で、いろいろとお世話申し上げて来たところ、母にあたる者も、わたしがこの娘を自分の娘と分け隔てし ていると、僻んで言うことがありまして、何とも口出しさせない人のことでございましたので、ちらっと、そのようにおっしゃったということは聞きました が、わたしを期待してお思いになっていたお心がありましたとは、存じませんでした。  それは、実に嬉しく存じられることでございます。たいそうかわいいと思う幼い娘は、大勢の娘たちの中で、この子を命に代えてもよいと思っており ます。求婚なさる方々はいるが、今の世の中の人の心は、頼りないと聞いておりますので、かえって胸を痛めることになろうかと遠慮され、決心す ることもございませんでした。  何とか安心な状態にしておきたいと、明け暮れかわいく存じておりましたが、少将殿におかれましては、亡き大将殿にも、若い時からお仕えして まいりました。家来として拝見しましたが、たいそう人物が立派なので、お仕え申したいと、お慕い申し上げて来ましたが、遠国に、引き続いて過ご して来ました何年もの間に、お会いするのも恥ずかしく思われまして、参上してお仕えしませんでしたが、このようなお気持ちがございましたとは。  返し返すも、仰せの通り差し上げますことはたやすいことですが、今までのお考えに背いたように、わが妻が、思いますことが、気がかりに存じら れるのです」  と、たいそうこまごまと言う。  [1-6 仲人、左近少将を絶賛す]  うまく行きそうだと、嬉しく思う。  「何やかやと気づかいなさることはございません。あの方のお気持ちは、ただあなたお一方のお許しがございますことを願っておいでで、『子供っ ぽくまだ幼くいらっしゃっても、実の娘で大切に思っていらっしゃる娘こそが、希望に叶うように思うのです。まったくあのような回りの話には乗るべき でない』と、おっしゃいました。  人柄はたいそう立派で、評判は大した方でいらっしゃる公達です。若い公達といっても、好色がましく上品ぶっていらっしゃらず、世間の実情もよく ご存知でいらっしゃいます。所有するご荘園もたいそうたくさんあります。今はまだ大したご威勢でないようですが、自然と高貴な人の雰囲気が備 わっているように、普通の人の莫大な財産というような威勢には、まさっていらっしゃいます。来年は、四位におなりになろう。今度の蔵人頭への任 官は疑いなく、帝が直におっしゃったものです。  『何事にわたって申し分なく結構な朝臣が、妻を持っていないという。早く適当な人を選んで、後見人を設けなさい。上達部には、わたしがいるの で、今日明日にでもして上げよう』と仰せになったと言います。どのような事も、ただこの君は、帝にも親しくお仕え申し上げていらっしゃると言いま す。  お考えはまた、たいそう立派で、重々しくいらっしゃるようです。もったいなくも立派な婿殿よ。このようにお聞きになるうちに、ご決心なさるのがよ いことでしょう。あの殿には、われもわれもと婿にお迎え申したいと、あちこちに話がございますので、こちらで渋っているご様子があったら、他のと ころにお決まりになりましょう。わたしは、ただ安心な縁談を申し上げるだけです」  と、たいそう言葉多く、うまそうに言い続けるので、まことにあきれるほど田舎人めいた介なので、にっこりして聞いていた。  [1-7 左近少将、浮舟から常陸介の実娘にのり換える]  「ただ今のご収入などが少ないことなどは、おっしゃいますな。わたしが生きている間は、頭上にも戴き申し上げよう。気がかりに、何を不足とお 思いになることがあろう。たとい寿命が尽きて中途でお仕えすることができなくなってしまったとしても、遺産の財宝や、所有していている領地など、 一つとして他に争う者はいません。  子供は多くいますが、この娘は特別にかわいがっていた者でございます。ただ誠意をもってお情けをかけてくださいましたら、大臣の地位を手に 入れようとお考えになって、世にない財宝を使い尽くそうとなさっても、無い物はございません。  今上の帝が、あのように引き立てなさるというのであれば、ご後見は不安なことはあるまい。この縁談は、あの方のためにも、わたしの娘のため にも、幸福なことになるかも知れません」  と、結構なように言うときに、実に嬉しくなって、仲人の妹にもこのような話があったとは話さず、あちらにも寄りつかないで、常陸介の言ったこと を、「まことにたいそう結構な話だ」と思って申し上げるので、少将の君は、「少し田舎者めいている」とお聞きになったが、憎くは思わず、ほほ笑ん で聞いていらっしゃった。大臣になるための物資を調達するなどと、あまりに大げさなことだと、耳が止まるのだった。  「ところで、あの北の方には、このようになったとを伝えましたか。格別熱心に思い始めなさったので、変えたりするのは、間違った筋の通らないこ とのように取り沙汰する人もいるだろう。どんなものかしら」  と躊躇なさっているのを、  「どうしてそのようなことがありましょうか。北の方も、あの姫君を、たいそう大切にお世話申し上げていらっしゃるのです。ただ、姉妹の中で最年 長で、年齢も成人していらっしゃるのを、気の毒に思って、結婚をと考えて申されるのです」  と申し上げる。今までは、並々ならず大切にお世話していると言ったものの、急にこのように言うのもどんなものかしらと思うが、「やはり、一度は つらいと恨まれ、人からも少しは非難されようとも、長い目で見れば頼りになることこそ大切だ」と、実に抜け目ないしっかりした方なので、決心して しまったので、その日まで変えずに、約束した夕方に、お通い始めなさったのだった。  [1-8 浮舟の縁談、破綻す]  北の方は、誰にも知られず準備して、女房たちの衣装を新調させ、飾りつけなど風流になさる。御方にも、髪を洗わせ、身繕いさせて見ると、少将 などという程度の人に結婚させるのも、惜しくもったいないようなのを、  「お気の毒に。父親に認知していただいてお育ちになったならば、お亡くなりになったとしても、大将殿がおっしゃるようにも、分不相応だが、どうし て思い立たないことがあろうか。けれども、内心ではこう思っても、世間の評判では、常陸介の娘と区別せずに、また、真実を知った人でも、かえっ て認知してもらえなかったゆえに見下すであろうことが悲しい」  などと、思い続ける。  「どうしたらよかろう。女盛りをお過ぎになるのもつまらない。身分の低くない、無難な人が、このように熱心に求婚なさっているようだから」  などと、自分の考え一つで決めてしまうのも、仲人のこのような言葉巧みに大変なものだから、女はそれ以上にだまされたのだろうか。婚儀が明 日明後日と思うと、心が落ち着かず気がせくので、こちらでものんびりとしていられず、そわそわと歩いていると、常陸介が外から入って来て、長々 と、つかえるところもなく話し続けて、  「わたしを分け隔てして、わたしの実の娘のお婿殿を横取りしようとなさったのが、分不相応なあさはかなことだ。立派そうなあなたの娘を、お求 あそばす公達はいらっしゃるまい。身分低くみっともないわたくしめの娘を、かりそめにも求婚なさるようだ。結構に計画立てられたが、全然その気 がないと、他家の婿になろうとお考えになってしまうようなので、同じことならと思って、それでは実娘を、とお許し申したのです」  などと、妙に無頓着で、相手の気持ちも考えない人で、言いまくっていた。  北の方は、驚きあきれて何も言うことができないで、しばらく思い沈んでいたが、つらさが次から次へと浮かんで来て、涙もこぼれ落ちそうに思い 続けて、そっと立った。   2 浮舟の物語 京に上り、匂宮夫妻と左近少将を見比べる  [2-1 浮舟の母と乳母の嘆き]  こちらに来てみると、たいそうかわいらしい様子で座っていらっしゃるので、「不縁になったとはいっても、誰にもお負けになるまい」と気持ちを慰め る。乳母と二人で、  「いやなものは人の心ですこと。わたくしは、同じようにお世話していても、この姫君が婿殿と思うお方のためには、命に代えてもと思っても、父親 がいないと聞いて馬鹿にし、まだ十分に成人していない妹を、姉をさしおいて、このように言うものでしょうか。  こんなに情けない、同じ家の中で見まい聞くまいと思っていたが、介がこのように面目がましいことと思って、承知して騒いでいるようなので、どち らもお似合いの様子なので、いっさいこの話には口を入れまいと思います。何とかここではない所で、しばらく暮らしたいものだ」  と泣きながら言う。乳母もひどく腹が立って、「自分の主人をこのように見下していること」と思うと、  「なあに、これもご幸運なことで破談になったのかも知れません。あのように情けない方でいらっしゃるのだから、もったいない姫君の美しいご様 子をご存知ないのでしょう。大事な姫君は、思慮もあり、道理の分かる方にこそ、差し上げたいものです。  大将殿のお姿や器量を、ちらっと拝見しましたが、ほんとうに寿命が延びるような気持ちしましたね。嬉しいことにお世話申し上げたいとおっしゃっ ています。ご運勢にまかせて、そのようにお決めなさいまし」  と言うと、  「まあ、恐ろしいこと。人の言うことを聞くと、長年、並大抵の女とは結婚しまいとおっしゃって、右の大殿や按察使大納言、式部卿宮などが、とて も熱心にお申し込みなさったが、聞き流して、帝が大切にしている姫宮を得なさった君は、どれほどの人を熱心にお思いになりましょうか。  あの母宮などのお側におかせて、時々は会おうとはお思いになろうが、それもまた、なるほど結構なお所ですが、とても胸の痛いことです。宮の 上が、このように幸い人と申し上げるようだが、物思いがちにいらっしゃるのを見ると、いかにもいかにも、二心のない人だけが、安心で信頼できる ことでしょう。自分の体験でも分かりました。  故宮のご様子は、とても情愛があって、素晴らしく好感が持てるお方でしたが、人並みにもお思いくださらなかったので、どんなにかつらい思いを したことか。この介はまことに取るに足らない、情けない、不恰好な人ですが、一途で二心のないのを見ると、気を揉むこともなく何年も過ごしてき たのです。  折々の仕打ちが、あのように癪な思いやりのないのが憎らしいが、嘆かわしく恨めしいこともなく、お互いに言い合っても、納得できないことはは っきりさせました。上達部や、親王方で、優雅で心恥ずかしい方の所といっても、わたしのように一人前でない身分では詮のないことでしょう。  万事が、わが身分からであった思うと、何もかも悲しく拝見される。何とかして、物笑いにならないようにして差し上げよう」  と相談する。  [2-2 継父常陸介、実娘の結婚の準備]  介は急いで準備して、  「女房など、こちらに無難な者が大勢いるので、当座の間、回してください。そのまま、帳台なども新調されたようなのをも、事情が急に変わったよ うなので、引っ越したり、あれこれ模様変えもしないことにしよう」  と言って、西の対に来て、立ったり座ったりして、あれこれと準備に騒いでいる。体裁のよい様子にさっぱりとさせ、あちらこちらに必要な準備をす べて整えてあるところに、利口ぶって屏風類を持って来て、狭苦しいまでに立て並べて、厨子や二階棚など、妙なまで増やして、得意になって準備 するので、北の方は見苦しいと思うが、口出しすまいと言ったので、ただ見聞きしている。御方は、北面に座っていた。  「あなたのお気持ちは、すっかり分かりました。全く同じ娘なのだから、そうは言っても、まるでこんなには放っておかれまいと思っていました。ま あよい、世間に母親のない子は、いないのだから」  と言って、娘を、昼から乳母と二人で、念入りに装い立てたので、憎らしいところもなく、十五、六歳の年齢で、たいそう小柄でふっくらとした人で、 髪は美しく小袿の長さで、裾はとてもふさやかである。この娘を実に素晴らしいと思って、念入りに装っている。  「何も、北の方があちらにと思っていた人をよりによって横取りしなくても、と思うが、少将の人柄がもったいなく、すぐれていらっしゃる公達なの で、われもわれもと、婿に迎えたい人が多いらしいので、人に取られるのも残念である」  と、あの仲人にだまされて言うのもほんとうに愚かである。男君も、「今般の待遇が豪勢で申し分ないこと」と、何の支障もないように思って、その 夜も改めず通い始めた。  [2-3 浮舟の母、京の中の君に手紙を贈る]  母君や、御方の乳母は、たいそうあきれて思う。ひがんでいるようなので、あれこれと婿の世話をするのも気にいらないので、宮の北の方の御も とに、お手紙を差し上げる。  「特別のご用事がございませんでは、ご無礼かとご遠慮申しまして、思うままにはお便り差し上げませんでしたが、慎まねばならないことがござ いまして、暫く場所を変えさせたいと存じていましたが、とても人目につかないでいられる所がございましたら、とてもとても嬉しく存じます。人数に も入らないわが身一つでは庇護することもできず、気の毒なことばかりが多い世の中ですので、頼りになるお方にまずお願い申し上げました」  と、泣きながら書いた手紙を、しみじみと御覧になったが、「亡き父宮が、あれほどお許しにならずに終わった人を、自分一人が生き残って、親しく 世話するのもたいそう気がひけるし、またみっともない恰好で世の中に落ちぶれているのを知らない顔をしているのも、いたわしいことだろう。特別 なこともなくて、互いに散り散りになっているようなのも、亡き父宮のためにもみっともない事だ」と思案に暮れなさる。  大輔のもとにも、とても気がかりそうに書いてやったので、  「何か事情がございますのでしょう。人を恨んで体裁悪く、おっしゃいますな。このような母親の卑しい人が、ご姉妹の中にいらっしゃるということ も、世間にはよくあることです」  などと申し上げて、  「それでは、あの西の対に、人目につかない所を用意して、とてもむさ苦しいようですが、そうしてお過ごしになってはいかがですか、暫くの間を」  と言い送った。とても嬉しく思って、人に知られないようにして出発する。御方も、あの方と親しく交際申したいと思う考えなので、かえって、このよ うなことが出て来たのを、嬉しく思う。  [2-4 母、浮舟を匂宮邸に連れ出す]  常陸介は、少将の新婚のもてなしを、どんなにか立派なふうにしようと思うが、その豪華にする方法も知らないので、ただ、粗末な東絹類を、おし 丸めて投げ出した。食べ物も、あたり狭しと運び出して大騒ぎした。  下衆などは、それをたいそうありがたいお心づかいだと思ったので、君も、「とても理想的な、賢明な縁組をしたものだ」と思うのだった。北の方 は、「この間の事を見捨てて知らないふうをするのもひねくれているようだろう」と思い堪えて、ただするままに任せて見ていた。  お客人のお座敷や、お供の部屋と準備に騒ぐので、家は広いけれど、源少納言が、東の対に住み、男の子などが多いので、場所もない。こちら のお部屋にお客人が住みつくようになると、渡廊などの端の方にお住まわせ申すのも、どんなにかお気の毒に思われて、あれこれと思案するうち に、宮の邸にと思うのであった。  「この御方には、人並みに扱ってくださる人がいないので、馬鹿にしているのだろう」と思うと、特に認めていただけなかった所だが、無理に参上さ せる。乳母や、若い女房二、三人ほどして、西の廂の北側寄りで、人気の遠い所に部屋を用意した。  長年、このように頼りなく過ごして来たが、よそよそしくお思いになれない方なので、参上した時には姿を隠したりなさらず、とても理想的に、感じ がまるで違って、若君のお世話をしていらっしゃるご様子を、羨ましく思われるのも感慨無量である。  「自分も、亡くなった北の方とは、縁のない人ではない。女房としてお仕えしたために、人並みに扱ってもらえず、残念なことに、このように人から 馬鹿にされるのだ」  と思うと、このように無理してお親しみ申すのもつまらない。こちらには、御物忌と言ったので、誰も来ない。二、三日ほど母君もいた。今度は、の んびりとこちらのご様子を見る。  [2-5 浮舟の母、匂宮と中の君夫妻を垣間見る]  宮がお越しになる。見たくて物の間から見ると、たいそう美しく、桜を手折ったような姿をして、自分が頼りにする人と思い、恨めしいけれど、気持 ちには背くまいと思っている常陸介よりも、容姿や器量も人品も、この上なく見える五位や四位の人が、一斉にひざまずいて控えて、あれやこれや と、あれこれの事務を、家司連中が申し上げる。  また若々しい五位の人で、顔も知らない人たちも多かった。自分の継子の式部丞で蔵人なのが、帝のお使いとして参上したが、お側近くにも参る ことができない。この上なく高貴なご様子を、  「まあ、この方はいったいどのようなお方か。このようなお方の所にいらっしゃる幸運なことよ。遠くで考えている時は、素晴らしい方々と申し上げ ても、つらい思いをさせなさったらと、嫌なお方とお思い申し上げていたのはあさはかな考えであったことよ。この方のご様子や器量を見ると、七夕 のように年に一度の逢瀬でも、このようにお目にかかれてお通いいただけるのは、とてもありがたいことだわ」  と思うと、若君を抱いてかわいがっていらっしゃる。女君は、短い几帳を隔てておいでになるが、押しやって、お話し申し上げなさる。そのお二方の ご器量は、実に美しく似合っている。亡き父宮が寂しくいらっしゃった時のご様子を思い比べると、「宮様と申し上げても、とてもこの上なくいらっしゃ るのだ」と思われる。  几帳の中にお入りになったので、若君は、若い女房や、乳母などがお相手申し上げる。官人たちが参集したが、気分が悪いと言って、お休みに なって一日中を過ごされた。食膳をこちらで差し上げる。万事が気高くて、格別に見えるので、自分がどんなに善美を尽くしたと思っても、「普通の 身分のすることは、たかが知れている」と悟ったので、「自分の娘も、このような立派な方の側に並べて見ても、不体裁ではあるまい。財力を頼ん で、父親が、后にもしようと思っている娘たちは、同じわが子ながらも、感じがまるで違うのを思うと、やはり今後は理想は高く持つべきであるわ」 と、一晩中将来の事を思い続けられる。  [2-6 浮舟の母、左近少将を垣間見て失望]  宮は、日が高くなってからお起きになって、  「后の宮が、相変わらず、お具合が悪くいらっしゃるので、参内しよう」  と言って、ご装束などをお召しになっていらっしゃる。興味をもって覗くと、きちんと身づくろいなさったのが、また、似る者がいないほど気高く魅力 的で美しくて、若君をお放しになることができず遊んでいらっしゃる。お粥や、強飯などを召し上がって、こちらからお出かけになる。  今朝方から参上して、侍所の方に控えていた供人たちは、今しも御前に参上して何か申し上げている中で、めかしこんで、何ということもない人 でつまらない顔をして、直衣を着て太刀を佩いている人がいる。御前では何とも見えないが、  「あの人が、この常陸介の婿の少将ですよ。初めはこの御方にと決めていたが、介の実の娘を得てこそ大切にされたい、などと言って、痩せっぽ っちの女の子を得たと言います」  「いえ、こちらの女房たちはそんな噂は全然しません。あの君の方からは、よく聞く話ですよ」  などと、めいめい言っている。聞いているとも知らないで、女房がこのように言っているのにつけても、胸がどきりとして、少将を無難だと思ってい た考えも残念で、「なるほど、格別なことはなかったのだ」と思って、ますます馬鹿らしく思った。  若君が這いだして来て、御簾の端から顔を出していらっしゃるのを、ちょっと御覧になって、後戻りなさった。  「ご気分がよくお見えでしたら、そのまま帰って来ましょう。やはりお悪いようでいらしたら、今夜は宿直します。今は、一晩でも会わないのは気が かりでつらいことだ」  と言って、暫くご機嫌をおとりになって、お出かけになった様子が、繰り返し見ても、どこまでも満ち足りていて、華やかにお美しいので、お出かけ になった後の気持ちが、物足りなく物思いに沈んでしまう。   3 浮舟の物語 浮舟の母、中の君に娘の浮舟を託す  [3-1 浮舟の母、中の君と談話す]  女君の御前に出て来て、たいそうお誉め申し上げると、田舎人めいている、とお思いになってお笑いになる。  「故母上がお亡くなりになったときは、何ともお話にならないほど小さいころで、どんなにおなりにあそばすのかと、お世話申し上げる人も、亡き父 宮もお嘆きになったが、この上ないご運勢でいらっしゃったので、あの山里の中でも、ご立派に成人あそばしたのです。残念なことに、亡くなった姫 君がいらっしゃらなくなったのが、惜しまれることです」  などと、泣きながら申し上げる。君もお泣きになって、  「世の中が恨めしく心細い時々も、またこのように生きていると、少しでも思いが慰められるときがあるのを、昔お頼り申し上げていた肉親たちに 先立たれ申したときは、かえって世間一般の事と諦めもついて、お顔も存じ上げずになってしまったのを、それなのに、やはりこの姉君のご逝去 は、いつまでも悲しいことです。大将が、何にも心が移らないことを愁えながら、深く変わらないご愛情を見るにつけても、まことに残念です」  とおっしゃると、  「大将殿は、あれほど世の中に例がないまでに、帝が大切になさっているといいますが、得意でいらっしゃるでしょう。姉君が生きていらっしゃった ら、このご降嫁のことは、おやめにもならなかったでしょうか」  などと申し上げる。  「さあね、姉妹同じような運命だと、物笑いになる気がしましょうも、かえってつらい思いをしたことでしょう。途中で亡くなられたので、奥ゆかしくも ある仲だ、と思いますが、あの君は、どういうわけでしょうか、不思議なまでに忘れないで、故父宮の亡き後の追善供養までを、深く考えてお世話 してくださるようです」  などと、素直にお話しなさる。  「あの亡くなった姉君の代わりに捜し出して会いたいと、この物の数にも入らない娘までを、あの弁の尼君にはおっしゃったのでした。ではそのよ うにと、考えるわけではございませんが、ゆかりの者だからかと、恐れ多いことですが、しみじみとありがたく思われますお気持ちの深さですこと」  などと言うついでに、この姫君の身の振りに困っていることを、泣きながら話す。  [3-2 浮舟の母、娘の不運を訴える]  こまごまとではないが、女房も聞いて知っていると思うので、少将が馬鹿にしたことなどちらっと話して、  「生きています限りは、何とか、朝夕の話相手として暮らせましょう。先立ってしまった後は、不本意な身の上となって落ちぶれてさまようのが悲 しいので、尼にして、深い山中にでも生活させて、そのような考えで世の中を諦めようなどと、思いあぐねました末には、そのように思っています」  などと言う。  「おっしゃるように、お気の毒なご様子のようですが、どうして、人に馬鹿にされるご様子は、このように父親のいない人の常です。そうかといっ て、それもできる事でないので、一途にその方面にと父宮が考えていらっしゃったわたしの身の上でさえ、このように心ならずも生きながらえていま すので、それ以上にとんでもない御事です。髪を落としなさるのも、おいたわしいほどのご器量です」  などと、とても大人ぶっておっしゃると、母君は、たいそう嬉しく思った。ふけて見える姿だが、品がなくもない姿で小ぎれいである。ひどく太り過ぎ ているのが、常陸殿といった感じである。  「故宮が、つらく情けなくお見捨てになったので、ますます一人前らしくなく、人からも馬鹿にされなさると拝見しましたが、このようにお話し申し上 げさせてただき、このようにお目にかからせていただけるにつけて、昔のつらさも晴れます」  などと、長年の話や、浮島の美しい景色のことなどを申し上げる。  「自分一人だけがつらい思いをと、話し合う相手もいない筑波山での暮らしぶりも、このように胸が晴れるように申し上げて、いつも、まことにこの ように伺候していたく存じなりましたが、あちらには出来の悪い卑しい娘たちが、どんなに騒いで捜していることでしょう。やはり落ち着かない気が いたします。このような受領の妻に身を落としているのは、情けないことでございましたと、身にしみて思い知られるのですが、この姫君は、ひたす らお任せ申し上げて、わたしは構いますまい」  などと、お願い申し上げるようにするので、「なるほど、よい結婚をしてほしいものだ」と御覧になる。  [3-3 浮舟の母、薫を見て感嘆す]  器量も気立ても、憎むことができないほどかわいらしい。はにかみようも大げさでなく、よい具合におっとりしているものの、才気がないでなく、近く に仕えている女房たちに対しても、たいそうよく隠れていらっしゃる。何か言っているのも、亡くなった姉君のご様子に不思議なまでにお似申してい ることよ。あの人形を捜していらっしゃる方にお見せ申し上げたいと、ふと思い出しなさった折しも、  「大将殿が参っておられます」  と、女房が申し上げるので、いつものように、御几帳を整えて注意をする。この客人の母君は、  「それでは、拝見させていただきましょう。ちらっと拝見した人が、大変にお誉め申していたが、宮のご様子には、とてもお並びになることはできま い」  と言うと、御前に伺候する女房たちは、  「さあね、とてもお定め申し上げることができません」  と申し上げ合っている。  「どれほどの人が、宮をお負かせ申せましょうか」  などと言っているうちに、「今、車から降りなさっている」と聞く間、うるさいほど先払いの声がして、すぐにはお現れにならない。お待たされになっ ているうちに、歩いてお入りになる様子を見ると、なるほど、何ともご立派で、色めかしい風情とは見えないが、優雅で上品に美しい。  何となく対面するのも遠慮されて、額髪などもついつくろって、気がひけるほど嗜み深い態度で、この上ない様子をしていらっしゃった。内裏から参 上なさったのであろう、ご前駆の様子が大勢いて、  「昨夜、后の宮がご病気でいらっしゃる旨を承って参内しましたら、宮様方が伺候していらっしゃらなかったので、お気の毒に拝見して、宮のお代 わりに今まで伺候しておりました。今朝もとても怠けて参内あそばしたのを、失礼ながら、あなたのご過失とお察し申し上げまして」  と申し上げなさると、  「なるほど、大変なこと、行き届いたお心遣いをいただきまして」  とだけお答え申し上げなさる。宮は内裏にお泊まりになったのを見届けて、思うところがあっていらっしゃったようである。  [3-4 中の君、薫に浮舟を勧める]  いつものように、お話をとても親しく申し上げなさる。何につけても、ただ亡き姫君が忘れられず、世の中がますますつまらなくなっていくことを、は っきりとは言わないで、それとなく訴えなさる。  「そんなにまで深く、どうして、いつまでも忘れられずばかりいらっしゃるのだろう。やはり、深く思っているように言い出したことだから、忘れられた と思われたくないのだろうか」などと、しいてお思いになるが、相手のご様子ははっきりとしているので、見ているうちに、しみじみとしたお気持ちを、 岩木ではないから、お分かりになる。  お恨み申し上げることが多いので、たいそう困って嘆息して、このようなお気持ちを無くす禊をおさせ申し上げたくお思いになったのであろうか、あ の人形のことをお話し出しになって、  「とても人目を忍んでこの辺りにいます」  と、それとなく申し上げなさると、相手も平気な気持ちではいられず、興味をもったが、急に心移りする気はしない。  「さあ、そのご本尊が、願いをお満たしくださったら尊いことでしょうが、時々、悩ましく思うようでは、かえって悟りも濁ってしまいましょう」  とおっしゃると、最後は、  「困ったご道心ですこと」  と、かすかにお笑いになるのも、おもしろく聞こえる。  「さあ、それでは、すっかりお伝えになってください。このお逃れの言葉も、思い出すと不吉な気がします」  とおっしゃって、再び涙ぐんだ。  「亡き姫君の形見ならば、いつも側において   恋しい折々の気持ちを移して流す撫物としよう」  と、いつものように、冗談のように言って、紛らわしなさる。  「禊河の瀬々に流し出す撫物を   いつまでも側に置いておくと誰が期待しましょう  引く手あまたで、とか言います。不憫でございますわ」  とおっしゃると、  「最後の寄る瀬は、言うまでもありませんよ。たいそういまいましいような水の泡にも負けないようでございますね。捨てられて流される撫物は、い やもう、まったくその通りです。どうして慰められることができましょうか」  などと言っているうちに、暗くなってくるのもやっかいなので、一時的に泊まっている人も、変だと思うのも気がひけて、  「今夜は、やはり、早くお帰りなさいませ」  と、機嫌をおとりになる。  [3-5 浮舟の母、娘に貴人の婿を願う]  「それでは、その客人に、このような願いを何年も持っていたので、急になど、浅く考えないようにおっしゃってお知らせなさって、みっともない目に あわないように願います。とても不慣れでございますわが身には、何事も愚かしいほど不調法で」  と、約束申してお出になったので、この母君、  「とても立派で、理想的な様子ですこと」  と誉めて、乳母がひょいと思いついて、度々言ったことを、とんでもないことに言ったが、このご様子を見ては、「天の川を渡ってでも、このような彦 星の光を待ち受けさせたいもの。自分の娘は、平凡な人と結婚させるのは惜しい様子を、東国の田舎者ばかり見馴れていて、少将を立派な人と思 っていた」のを、後悔されるのだった。  寄り掛かっていらした真木柱にも茵にも、そのまま残っている匂いや移り香が、言うとわざとらしいまでに素晴らしい。時々拝見する女房でさえ、 その度ごとにお誉め申し上げる。  「お経などを読んで、功徳のすぐれたことがあるようなのにつけても、香の芳しいのをこの上ないこととして、仏さまが説いておおきになったのも、 もっともなことですわ。薬王品などに、特別に説かれている牛頭栴檀とかは、大げさな物の名前だが、まずあの大将殿が近くで身動きなさると、仏 さまがほんとうにおっしゃったのだ、と思われます。子供でいらした時から、勤行も熱心になさっていたからですよ」  などと言う者もいる。また、  「前世が知りたいご様子ですこと」  などと、口々に誉めることを、思わずにっこりして聞いていた。  [3-6 浮舟の母、中の君に娘を託す]  女君は、こっそりとおっしゃった話を、それとなくおっしゃる。  「思いはじめたことは、執念深いまでに軽々しくなくいらっしゃるようなのを、なるほど、ただ今の様子などを思うと、やっかいな気持ちがしましょう が、あの出家をしても、などとお考えになるのも、同じこととお思いになって、お試しなさいませ」  とおっしゃると、  「つらい目にあわず、誰からも馬鹿にされまいとの考えで、鳥の声が聞こえないような深山での生活まで考えておりました。おっしゃるように、殿 のご様子や態度などを拝見して存じますことは、下仕えの身分などであっても、このような方のご身辺で、親しくしていただけるのは、生き甲斐の あることでしょう。まして若い女は、きっと心をお寄せ申し上げるにちがいないでしょうが、物の数にも入らない身で、物思いの種をますます蒔かせる ことになりましょうか。  身分の高い者も低い者も、女というものは、このような男女の仲のことで、現世と、来世まで、苦しい身になるものです、と存じておりますので、か わいそうに存じております。その話もただお気持ちに任せます。ともかくも、お見捨てにならず、お世話くださいませ」  と申し上げるので、たいそうやっかいになって、  「さあね。過去の思いやり深さに気を許しても、将来の様子は分からないことです」  とためいきをついて、他には何もおっしゃらずになった。  夜が明けたので、車などを引き出して来て、介の手紙などが、とても立腹した文面で脅かしていたので、  「恐れ多いことですが、万事お頼み申し上げます。やはり、もうしばらくお隠しになって、巌の中なりとも、どこなりとも、思案いたします間は、人並 みの者でございませんが、お見捨てなく、何事もお教えくださいませ」  などと申し上げておいて、この御方も、たいそう心細く、初めてのことで、別れることを心配するが、はなやかで美しく見える所で、しばらくの間もお 親しみ申せると思うと、そうはいっても嬉しく思われるのだった。   4 浮舟と匂宮の物語 浮舟、匂宮に見つかり言い寄られる  [4-1 匂宮、二条院に帰邸]  車を引き出すときの、少し明るくなったころに、宮が、内裏から退出なさる。若君が気がかりに思われなさったので、人目につかないようにして、 車などもいつもと違った物でお帰りになるのに出くわして、止めて立ち止まっていると、渡廊にお車を寄せて降りなさる。  「誰の車か。暗いうちに急に出ようとするのは」  と目をお止めあそばす。「このように、忍んで通う女のもとから出る者か」と、ご自身の経験からお考えになるのも、嫌なことだ。  「常陸殿が退出あそばします」  と申し上げる。若い御前駆たちは、  「殿というのは、大げさな」  と、笑い合っているのを聞くと、「おっしゃるとおり、笑われてもしかたない身分だ」と悲しく思う。ただ、この御方のことを思うために、自分も人並み になりたいと思うのだった。それ以上に、ご本人を身分の低い男と結婚させるのは、ひどく惜しいと思った。宮が、お入りになって、  「常陸殿という人を、こちらに通わせているのですか。意味ありげな朝ぼらけに、急いで出た車の供揃いが、特別に見えました」  などと、やはりお疑いになっておっしゃる。「聞きにくく回りの者がどう思うか」とお思いになって、  「大輔などが若かったころ、友人であった人ですわ。特にしゃれた人には見えないようだったが、わけがありそうにおっしゃいますね。人聞きの悪 そうなことばかりを、いつもおっしゃいますが、無実の罪を着せないでください」  と、横を向きなさるのも、かわいらしく美しい。  夜の明けるのも知らずにお休みになっていると、人びとが大勢参上なさったので、寝殿にお渡りになった。后の宮は、仰々しいご病気でなく平癒 なさったので、気分よさそうで、右の大殿の公達などは、碁を打ったり韻塞ぎなどをしてお遊びになる。  [4-2 匂宮、浮舟に言い寄る]  夕方、宮がこちらにお渡りあそばすと、女君は、ご洗髪の時であった。女房たちもそれぞれ休んだりしていて、御前には女房もいない。小さい童 女がいたのをつかって、  「折悪くご洗髪の時とは、困りましたね。手持ち無沙汰で、ぼんやりしていようかな」  と、申し上げなさると、  「仰せのとおり、いらっしゃらない合間に、いつもは済ませます。妙に近頃は億劫になられまして、今日を過ごしたら、今月は吉日もありません。九 月、十月は、とてもと思われまして、いたしておりますが」  と、大輔はお気の毒がる。  若君もお寝みになっていたので、そちらに女房の皆がいるときで、宮はぶらぶらお歩きになって、西の方にいつもとちがった童女が見えたのを、 「新参者か」などとお思いになって、お覗きになる。中程にある襖障子が、細めに開いている所から御覧になると、障子の向こうに、一尺ほど離れ て、屏風が立っていた。その端に、几帳を、御簾に添って立ててある。  帷子一枚を横木にひっ懸けて、紫苑色の華やかな袿に、女郎花の織物と見える表着が重なって、袖口が出ている。屏風の一枚が畳まれている 間から、「意外にも見えるようだ。新参者でかなりの身分の女房のようだ」とお思いになって、この廂に通じている障子を、たいそう密かに押し開け なさって、静かに歩み寄りなさるのも、誰も気がつかない。  こちらの渡廊の中の壷前栽が、たいそう美しく色とりどりに咲き乱れているところに、遣水のあたりの、石が高くなっているところが、実に風情があ るので、端近くに添い臥して眺めているのであった。開いている障子を、もう少し押し開けて、屏風の端からお覗きなさると、宮とは思いもかけず、 「いつもこちらに来馴れている女房であろうか」と思って、起き上がった姿形は、たいそう美しく見えるので、いつもの好色のお癖はお堪えになれ ず、衣の裾を捉えなさって、こちらの障子は引き閉めなさって、屏風の隙間に座りなさった。  変だと思って、扇で顔を隠して振り返った様子、実に美しい。扇をお持になったまま掴えなさって、  「どなたですか。名前が、ぜひ聞きたい」  とおっしゃると、気持ち悪くなった。そうした物の際で、顔を外向けに隠して、とてもたいそうお忍びになっているので、「あの一方ならず思いを寄せ ていらっしゃるらしい大将であろうか、香ばしい様子などもそれらしく」思われるので、とても恥ずかしくどうしてよいか分からない。  [4-3 浮舟の乳母、困惑、右近、中の君に急報]  乳母は、人の気配がいつもと違うのを、変だと思って、あちらにある屏風を押し開けて来た。  「これは、どうしたことでございましょう。変な事でございます」  と申し上げるが、遠慮なさるべきのことでもない。このような突然のなさりようだが、口上手なご性分なので、何やかやとおっしゃるうちに、すっか り暮れてしまったが、  「誰それと名前を聞かないうちは許しません」  と言って、なれなれしく臥せりなさるので、「宮であったのだ」と思い当たって、乳母は、何とも言いようがなく驚きあきれていた。  大殿油は燈籠に入れて、「まもなくお帰りあそばしましょう」と女房たちが言っている声がする。御前以外の御格子を下ろす音がする。こちらは離 れた所であって、高い棚厨子を一具ほど立て、屏風が袋に入れてあるのを、あちこちに立て掛けて、何やかやと雑然とした様子に散らかしている。 このように人がいらっしゃるからといって、通り道の障子を一間ほど開けてあるのを、右近といって、大輔の娘で仕えている者が来て、格子を下ろし てこちらに近寄って来る音がする。  「まあ、暗いわ。まだ大殿油もお灯けになっていないのですね。御格子を、苦労して、急いで下ろして、暗闇にまごつきますこと」  と言って、引き上げるので、宮も、「ちょっと困ったな」とお聞きになる。乳母は、乳母で、まことに困ったことだと思って、遠慮せずせっかちで気の 強い人なので、  「申し上げます。こちらに、とても怪しからんことがございまして、扱いあぐねて、身動きもとれずにおります」  「どうしたことですか」  と言って、手探りで近づくと、袿姿の男が、とてもよい匂いで寄り添っていらっしゃるのを、「いつもの困ったお振る舞いだ」と気づくのだった。「女が 同意なさるはずがない」と察せられるので、  「なるほど、とても見苦しいことでございますね。右近めは、何とも申し上げられません。早速参上して、ご主人にこっそりと申し上げましょう」  と言って立つのを、とんでもなく不体裁なことと、誰も彼もが思うが、宮はびくともなさらない。  「驚くほどに上品で美しい人だな。やはり、どのような人なのであろうか。右近が言った様子からも、とても並の新参者ではないようだ」  納得がゆかず思われなさって、ああ言いこう言い、恨みなさる。嫌がる素振りでもないが、ただひどく死ぬほどつらく思っているのが気の毒なの で、思いやりをこめて慰めなさる。  右近は、主人に、  「これこれしかじかでいらっしゃいます。お気の毒で、どんなに困っていらっしゃることでしょうか」  と申し上げると、  「いつもの、情けないお振る舞いですこと。あの母親も、どんなにか軽率で、困ったこととお思いになることだろう。安心にと、繰り返し言っていたも のを」  と、お気の毒にお思いになるが、「何と申し上げられよう。仕えている女房たちでも、少し若くて結構な女は、お見捨てになることのない、不思議な ご性分の人なので、どのようにしてお気づきになったのだろう」とあきれて、何ともおっしゃれない。  [4-4 宮中から使者が来て、浮舟、危機を脱出]  「上達部が大勢参上なさっている日なので、遊びに興じなさっては、いつも、このようなときには遅くお渡りになるので、みな気を許してお休みにな っているのです。それにしても、どうしたらよいことでしょう。あの乳母は、気が強かった。ぴったりと付き添ってお守り申して、引っ張って放しかねな いほどに思っていました」  と、少将と二人で気の毒がっているところに、内裏から使者が参上して、大宮が今日の夕方からお胸を苦しがりあそばしていたが、ただ今ひどく 重態におなりあそばした旨を申し上げる。右近は、  「折悪いご病気だわ。申し上げましょう」  と言って立つ。少将は、  「さあ、でも、今からでは、手遅れであろうから、馬鹿らしくあまり脅かしなさいますな」  と言うと、  「いや、まだそこまではいってないでしょう」  と、ひそひそとささやき合うのを、上は、「とても聞きずらいご性分の人のようだわ。少し考えのある人なら、わたしのことまでを軽蔑するだろう」と お思いになる。  参上して、ご使者が申したのよりも、もう少し急なように申し上げると、動じそうもないご様子で、  「誰が参ったか。いつものように、大げさに脅かしている」  とおっしゃるので、  「中宮職の侍者で、平重経と名乗りました」  と申し上げる。お出かけになることがとても心残りで残念なので、人目も構っていられないので、右近が現れ出て、このご使者を西表で尋ねると、 取り次いだ女房も近寄って来て、  「中務宮が、いらっしゃいました。中宮大夫は、ただ今、参ります途中で、お車を引き出しているのを、拝見しました」  と申し上げるので、「なるほど、急に時々お苦しみになる折々もあるが」とお思いになるが、人がどう思うかも体裁悪くなって、たいそう恨んだり約 束なさったりしてお出になった。  [4-5 乳母、浮舟を慰める]  恐ろしい夢から覚めたような気がして、汗にびっしょり濡れてお臥せりになっていた。乳母が、扇いだりなどして、  「このようなお住まいは、何かにつけて、遠慮されて不都合であった。このように一度お会いなさっては、今後、良いことはございますまい。ああ、 恐ろしい。この上ない方と申し上げても、穏やかならぬお振る舞いは、まことに困ったことです。  他人で縁故のないような人なら、良いとも悪いとも思っていただきましょうが、外聞も体裁悪いこと、と存じられて、降魔の相をして、じっと睨み続 け申したところ、とても気持ち悪く、下衆っぽい女とお思いになって、手をひどくおつねりになったのは、普通の人の懸想めいて、とてもおかしくも思 われました。  あの殿では、今日もひどく喧嘩をなさいました。「ただお一方のお身の上をお世話するといって、自分の娘を放りっぱなしになさって、客人がおい でになっている時のご外泊は見苦しい」と、荒々しいまでに非難申し上げなさっていました。下人までが聞きずらく思っていました。  ぜんたいが、この少将の君がとても愛嬌ない方と思われなさいます。あの事がございませんでしたら、内輪で穏やかでない厄介な事が、時々ご ざいましても、穏便に、今までの状態でいらっしゃることができましたものを」  などと、嘆息しながら言う。  君は、ただ今は何もかも考えることができず、ただひどくいたたまれず、これまでに経験したこともないような目に遭った上に、「どのようにお思い になっているだろう」と思うと、つらいので、うつ臥してお泣きになる。とてもおいたわしいとなだめかねて、  「どうして、こんなにお嘆きになります。母親がいらっしゃらない人こそ、頼りなく悲しいことでしょう。世間から見ると、父親のいない人はとても残念 ですが、意地悪な継母に憎まれるよりは、この方がとても気が楽です。何とかして差し上げましょう。くよくよなさいますな。  そうはいっても、初瀬の観音がいらっしゃるので、お気の毒とお思い申し上げなさるでしょう。旅馴れないお身の上なのに、度々参詣なさること は、人がこのように侮りがちにお思い申し上げているのを、こんなであったのだ、と思うほどのご幸運がありますように、と念じております。わが姫 君さまは、物笑いになって、終わりなさるでしょうか」  と、何の心配もないように言っていた。  [4-6 匂宮、宮中へ出向く]  宮は、急いでお出かけになる様子である。内裏に近い方からであろうか、こちらの御門からお出になるので、何かお命じになるお声が聞こえる。 たいそう上品でこの上ないお声に聞こえて、風情のある古歌などを口ずさみなさってお過ぎになるところ、何となくやっかいに思われる。予備の馬を 牽き出して、宿直に伺候する人を、十人ほど連れて参内なさる。  上は、お気の毒に、嫌な気がしているだろうと思って、知らないそぶりして、  「大宮がご病気だとて参内なさってしまったので、今夜はお帰りになりますまい。洗髪したせいか、気分もさえなくて起きておりますので、いらっし ゃいませ。お寂しくいらっしゃいましょう」  と申し上げなさった。  「気分がとても悪うございますので、おさまりましてから」  と、乳母を使って申し上げなさる。  「どのようなご気分ですか」  と、折り返してお見舞いなさるので、  「どこが悪いとも分かりませんが、ただとても苦しうございます」  と申し上げなさるので、少将と、右近は目くばせをして、  「きまり悪くお思いでしょう」  と言うのも、誰も知らないよりはお気の毒である。  「とても残念でお気の毒なこと。大将が関心のあるようにおっしゃっているようであったが、どんなにか軽薄な女とさげすむであろう。こうばかり好 色がましくいらっしゃる方は、聞くに堪えなく、事実でないことをもひねくり出し、また実際不都合なことがあっても、さすがに大目に見る方でいらっし ゃるようだ。  この君は、表面には出さないで心中に思っていることは、とてもこちらが恥ずかしいほど心深く立派だが、不本意にも心配事が加わった身の上の ようだ。長年見ず知らずであった身の上の人であるが、気立てや器量を見ると、放っておくことができず、かわいらしくおいたわしいので、世の中は 生きにくく難しいものだなあ。  わが身のありさまは、物足りないところが多くある気持ちがするが、このように人並みにも扱われないはずであった 身の上が、そのようには、落ちぶれなかったのは、なるほど、結構なことであった。今はただ、あの憎い懸想心がおありの方が、平穏になって離れ てたら、まったく何もくよくよすることはなくなるだろう」  とお思いになる。とても多い御髪なので、すぐには乾かすことができず、起きていらっしゃるのもつらい。白い御衣を一襲だけお召しになっているの は、ほっそりと美しい。  [4-7 中の君、浮舟を慰める]  この君は、ほんとうに気分も悪くなっていたが、乳母が、  「とてもみっともありません。何かあったようにお思いになられましょうよ。ただおっとりとお目にかかりなさいませ。右近の君などには、事のありさ まを、初めからお話しましょう」  と、無理に促して、こちらの障子のもとで、  「右近の君にお話し申し上げたい」  と言うと、立って出て来たので、  「とてもおかしなことのございましたせいで、熱がお出になって、ほんとうに苦しそうにお見えなさるのを、気の毒に拝見しています。御前で慰めて いただきたい、と思いまして。過失もおありでない身で、とてもきまり悪そうに困っていらっしゃるのも、少しでも男女関係を経験した者ならともかく、 とてもとてもそう平気でいらっしゃれまいと、ご無理もない、お気の毒なことと存じあげます」  と言って、起こしたててお連れ申し上げる。  正体もなく、皆が想像しているだろうことも恥ずかしいけれど、たいそう素直でおっとりし過ぎていらっしゃる姫君で、押し出されて座っていらしゃっ た。額髪などが、ひどく濡れているのを。ちょっと隠して、燈火の方に背を向けていらっしゃる姿は、上をこの上なく美しいと拝見しているのと、劣ると も見えず、上品で美しい。  「この人にご執心なさったら、不愉快なことがきっと起ころう。これほど美しくない人でさえ、珍しい人に、ご興味をお持ちになるご性分だから」  と、二人ばかりが、御前のこととて恥ずかしがっていらっしゃれないので、見ていた。お話をとてもやさしくなさって、  「馴れない気の置ける所などと、お思いなさいますな。故姫君がお亡くなりになって後、忘れる時もなくひどく悲しく、身も恨めしく、例のないような 気持ちで過ごして来ましたが、とてもよく似ていらっしゃるご様子を見ると、慰められる気がして感慨深いです。大切に思ってくれる肉親もない身な ので、故人のお気持ちのようにお思いくださったら、とても嬉しいです」  などとお話しになるが、とても遠慮されて、また田舎者めいた気持ちで、お答え申し上げる言葉も浮かばなくて、  「長年、とても遥か遠くにばかりお思い申し上げていましたので、このようにお目にかからせていただきますのは、すべてが思い慰められるような 気がいたしております」  とだけ、とても若々しい声で言う。  [4-8 浮舟と中の君、物語絵を見ながら語らう]  絵などを取り出させて、右近に詞書を読ませて御覧になると、向かい合って恥ずかしがっていることもおできになれず、熱心に御覧になっている 燈火の姿、まったくこれという欠点もなく、繊細で美しい。額の具合、目もとがほんのりと匂うような感じがして、とてもおっとりとした上品さは、まる で亡くなった姫君かとばかり思い出されるので、絵は特に目もお止めにならず、  「とてもよく似た器量の人だわ。どうしてこんなにも似ているのであろう。亡き父宮にとてもよくお似申していらっしゃるようだ。亡き姫君は、父宮の 御方に、わたしは母上にお似申していたと、老女連中は言っていたようだ。なるほど、似た人はひどく懐かしいものであった」  とお比べになると、涙ぐんで御覧になる。  「姉君は、この上なく上品で気高い感じがする一方で、やさしく柔らかく、度が過ぎるくらいなよなよともの柔らかくいらっしゃった。  この妹君は、まだ態度が初々しくて万事を遠慮がちにばかり思っているせいか、見栄えのする優雅さという点で劣っている。重々しい雰囲気だけ でもついたならば、大将が結婚なさるにも、全然不都合ではあるまい」  などと、姉心にお世話がやかれなさる。  お話などなさって、暁方になってお寝みになる。横に寝せなさって、故父宮のお話や、生前のご様子などを、ぽつりぽつりとお話しになる。とても 会いたく、お目にかかれずに終わってしまったことを、「たいそう残念に悲しい」と思っていた。昨夜の事情を知っている女房たちは、  「どうしたのでしょうね。とてもかわいらしいご様子でしたが。どんなにおかわいがりになっても、その効がないでしょうね。かわいそうなこと」  と言うと、右近が、  「そうでも、ありません。あの乳母が、わたしをつかまえてとりとめもなく愚痴をこぼした様子では、何もなかったと言っていました。宮も、会っても 会わないような意味の古歌を、口ずさんでいらっしゃいました」  「さあね。わざとそう言ったのかも。それは、知りませんわ」  「昨夜の燈火の姿がとてもおっとりしていたのも、何かあったようにはお見えになりませんでした」  などと、ひそひそ言って気の毒がる。   5 浮舟の物語 浮舟、三条の隠れ家に身を寄せる  [5-1 乳母の急報に浮舟の母、動転す]  乳母は、車を頼んで、常陸殿邸へ行った。北の方にこれこれでしたと言うと、驚きあわてて、「女房が怪しからんことのように言ったり思ったりする だろう。ご本人もどのようにお思いであろう。このようなことでの嫉妬は、高貴な方も変わりないものだ」と、自分の経験からじっとしてしていられなく なって、夕方参上した。  宮がいらっしゃらないので安心して、  「妙に子供じみた娘を置いていただき、安心してお頼み申し上げていましたが、鼬がおりますような気がしますので、ろくでもない家の者たちに、 憎まれたり恨まれたりしております」  と申し上げる。  「とてもそう言うような子供ではないと思いますが。心配そうに疑っていらっしゃるお口ぶりが、気になりますこと」  と言って笑っていらっしゃるのが、気おくれするようなお目もとを見ると、内心気が咎める。「どのように思っていらっしゃるだろう」と思うと、何も申し 上げることができない。  「こうしてお側に置かせていただけるなら、長年の願いが叶う気持ちがして、誰が漏れ聞きましても体裁よく、面目がましくことに存じられますが、 やはり気兼ねされることでございました。出家の本願は、固く守って変わらぬものでございますものを」  と言って、泣くのもとても気の毒で、  「こちらでは、どのようなことを不安に思われるでしょうか。どうなるにせよ、よそよそしく見放しているのならともかく、けしからぬ気を起こして困った 方が、時々いらっしゃるようだが、その性質を誰もが知っているので、気をつけて、不都合なお扱いはいたすまいと思うのですが、どのようにお思い なのでしょうか」  おっしゃる。  「まったく、お心隔てがあるとは存じ上げておりません。お恥ずかしいことに認知していただけなかったことは、どうして今さら申し上げましょう。そ のことでなくても、離れない縁がございますのを、よりどころとしてお頼み申し上げています」  などと、並々ならずお頼み申し上げて、  「明日明後日に、固い物忌みがございますので、厳重な所で過ごして、改めて参上させましょう」  と申し上げて、連れて行く。「お気の毒に不本意なことだわ」とお思いになるが、引き止めなさることもできない。思いがけない不祥事に驚き騒い でいたので、ろくろく挨拶も申し上げないで出発した。  [5-2 浮舟の母、娘を三条の隠れ家に移す]  このような方違えの場所と思って、小さい家を準備していたのであった。三条近辺に、しゃれた家が、まだ造りかけのところなので、これといった 設備もできていなかった。  「ああ、この方一人を、いろいろと持て余し申し上げることよ。思い通りにいかない世の中では、長生きなんかするものではない。自分一人は、平 凡にまったくの身分もなく人並みでない、ただ受領の後妻として引っ込んで過ごせもしよう。こちらのご親戚筋は、つらいとお思い申し上げた方を、 お親しみ申し上げて、不都合なことが出てきたら、実に物笑いなことでしょう。つまらないことだ。粗末な家であるけれども、この家を誰にも知らせ ず、こっそりといらっしゃいませ。そのうち何とかうまくして上げましょう」  と言い置いて、自分自身は帰ろうとする。姫君は、ちょっと泣いて、「生きているのも肩身の狭い思いだ」と、沈んでいらっしゃる様子、とても気の 毒である。母親は母親で、それ以上に惜しくも残念なので、何の支障もなくて思う通りに縁づけてやりたいと思い、あのいたたまれない事件によっ て、人からいかにも軽薄に思われたり言われたりするのが、気になってならないのであった。  思慮が浅いというのではない人で、やや腹を立てやすくて、気持ちのままに行動するところが少しあったのだった。あの家でも隠して置けたであ ろうが、そのように引っ込ませておくのを気の毒に思って、このようにお世話するので、長年側を離れず、毎日一緒にいたので、互いに心細く堪え 難く思っていた。  「ここは、まだこうして造作が整っていず、危なっかしい所のようです。用心しなさい。あちこちの部屋にある道具類を、持ち出してお使いなさい。宿 直人のことなどを言いつけてありますのも、とても気がかりですが、あちらに怒られ恨まれるのが、とても困るので」  と、ちょっと泣いて帰る。  [5-3 母、左近少将と和歌を贈答す]  少将の待遇を、常陸介は、この上ないものに思って準備し、「一緒に、ぶざまにも、世話をしてくれない」と恨むのであった。とても億劫で、「この人 のために、このような厄介事が起こったのだ」と、この上もなく大事な娘がこのようなことになったので、つらく情けなくて、少しも世話をしない。  あの宮の御前で、たいそう貧相に見えたので、たぶんに軽蔑してしまっていたので、「秘蔵の婿にとお世話申し上げたい」などと、思った気持ちも なくなってしまった。「ここでは、どのように見えるであろうか。まだ気を許した姿は見えないが」と思って、くつろいでいらした昼頃、こちらの対に来 て、物蔭から覗く。  白い綾の柔らかい感じの下着に、紅梅色の打ち目なども美しいのを着て、端の方に前栽を見ようとして座っているのは、「どこが劣ろうか。とても 美しいようだ」と見える。娘は、とてもまだ幼なそうで、無心な様子で添い臥していた。宮の上が並んでいらしたご様子を思い出すと、「物足りない二 人だわ」と見える。  前にいる御達に、何か冗談を言って、くつろいでいるのは、とても見たように、見栄えがしなく貧相には見えないのは、「あの宮にいた時とは、まる で別の少将だなあ」と思ったとたんに、こう言うではないか。  「兵部卿宮の萩が、やはり格別に美しかったなあ。どのようにして、あのような種ができたのであろうか。同じ萩ながら枝ぶりが実に優美であった よ。先日参上して、お出かけになるところだったので、折ることができずになってしまった。『色が褪せることさえ惜しいのに』と、宮が口ずさみなさっ たのを、若い女房たちに見せたならば」  と言って、自分でも歌を詠んでいた。  「どんなものかしら。気持ちのほどを思うと、人並みにも思えず、人前に出ては普段より見劣りがしていたのだが。どのように詠むのであろうか」  とぶつぶつ言いたくなるが、大して物の分からない様子には、そうはいっても見えないので、どのように詠むかと、試しに、  「囲いをしていた小萩の上葉は乱れもしないのに   どうした露で色が変わった下葉なのでしょう」  と言うと、捨て難く思って、  「宮城野の小萩のもとと知っていたならば   露は少しも心を分け隔てしなかったでしょうに  何とか自分自身で申し開きしたいものです」  言っていた。  [5-4 母、薫のことを思う]  「故宮の御事を聞いているらしい」と思うと、「ますます何とかして人並みな結婚を」とばかり心にかかる。筋ちがいながら、大将殿のご様子や器 量が、恋しく面影に現れる。同じく素晴らしい方と拝見したが、宮は問題にもなさらず、念頭にも思ってくださらない。侮って無理に入り込みなさった のを、思うにつけても悔しい。  「この君は、何と言っても言い寄ろうとするお気持ちがありながら、急にはおっしゃらず、平気を装っていらっしゃるのは大したものだ、なにごとにつ けても思い出されるので、若い娘は、わたし以上に、このようにお思い申し上げていらっしゃるだろう。自分の婿にしようと、このような憎い男を思っ たのこそ、見苦しいことであった」  などと、ただ気になって、物思いばかりがされて、ああしたらこうしたらと、万事に良い将来の事を思い続けるが、とても実現は難しい。  「高貴なご身分や、ご風采、ご結婚申し上げなさった方は、もう一段優れた方であるから、どのような人であったらお心を止めてくださるだろうか。 世間の人のありさまを見たり聞いたりすると、優劣は、身分の高低や、出自の尊卑によって、器量も気立ても決まるものであった。  自分の娘たちを見ても、この姫君に似た者がいようか。少将を、この家の内でまたとない人のように思っているが、宮とご比較申しては、まったく 話にもならないほどに推察される。今上帝の御秘蔵の娘をいただきなさったような方のお目から見れば、とてもとても恥ずかしく、気が引けるにちが いないな」  と思うと、何となく気分もうわの空になってしまった。  [5-5 浮舟の三条のわび住まい]  旅の宿は、所在なくて、庭の草もうっとうしい気がするので、卑しい東国の声をした連中ばかりが出入りして、慰めとして見ることのできる前栽の 花もない。未完成の所で、気分も晴れないまま明かし暮らすので、宮の上のご様子を思い出すと、若い気持ちに恋しかった。困ったことをなさった 方のご様子も、やはり思い出されて、  「何と言ったのだろうか。とてもたくさんしみじみとおっしゃったなあ」  立ち去った後の御移り香が、まだ残っている気がして、恐ろしかったことも思い出される。  母君が、どうしているだろうかと、とてもしみじみとした手紙を書いてお寄こしになる。並々ならずおいたわしく気づかってくださるようなのに、「世話 していただく効もないようなこと」とつい泣けてきて、  「どのように所在なく落ち着かない気がなさっていることでしょう。しばらく隠れてお過ごしなさい」  とあるのに対する返事に、  「所在なさが何でしょう。この方が気楽です。   一途に嬉しいことでしょう  ここが世の中で別の世界だと思えるならば」  と、子供っぽく詠んだのを見ながら、ほろほろと泣いて、「このように行方も定めずふらふらさせていること」と、ひどく悲しいので、  「憂き世ではない所を尋ねてでも   あなたの盛りの世を見たいものです」  と、素直な思いのままに詠み交わして、心情を吐露するのであった。   6 浮舟と薫の物語 薫、浮舟を伴って宇治へ行く  [6-1 薫、宇治の御堂を見に出かける]  あの大将殿は、いつものように、秋が深まってゆくころ、習慣になっている事なので、夜の寝覚めごとに忘れず、しみじみとばかり思われなさった ので、「宇治の御堂を造り終わった」と聞きなさると、ご自身でお出かけになった。  久しく御覧にならなかったので、山の紅葉も珍しく思われる。解体した寝殿は、今度は立派に造り変えなさった。昔とても簡略にして、僧坊めいて いらした住まいを思い出すと、この宮邸も恋しく思い出されなさって、様変りさせてしまったのも、残念なまでに、いつもより眺めていらっしゃる。  もとからあったご設備は、たいへん尊重して、もう一方を女性向きにこまやかに整えるなどして、一様ではなかったが、網代屏風や何やらの粗末 な物などは、あの御堂の僧坊の道具として、特別に役立たせなさった。山里めいた道具類を、特別に作らせなさって、ひどく簡略にせず、たいそう 美しく奥ゆかしく作らせてあった。  遣水の辺にある岩にお座りになって、  「涸れてしまわないこの清水にどうして亡くなった人の   面影だけでもとどめておかなかったのだろう」  涙を拭いながら、弁の尼君の方にお立ち寄りになると、とても悲しいと拝見すると、ただべそをかくばかりである。長押にちょっとお座りになって、 簾の端を引き上げて、お話なさる。几帳に隠れて座っていた。話のついでに、  「あの人は、最近宮邸にいると聞いたが、やはりきまり悪く思われて、尋ねていません。やはり、こちらからすっかりお伝え下さい」  とおっしゃると、  「先日、あの母君の手紙がございました。物忌みの方違えするといって、あちらこちらと移っていらしたようです。最近も、粗末な小家に隠れていら っしゃるらしいのも気の毒で、少し近い所であったら、そこに移して安心でしょうが、荒々しい山道で、簡単には思い立つことができないで、とござい ました」  と申し上げる。  「人びとがこのように恐ろしがっているような山道を、自分は相変わらず分け入って来るのだ。どれほどの前世からの約束事があってかと思うと、 感慨無量です」  と言って、いつものように、涙ぐんでいらっしゃった。  「それでは、その気楽な隠れ家に、お便りしてください。ご自身で、あちらに出向いてくださいませんか」  とおっしゃると、  「お言葉をお伝えしますことは簡単です。今さら京に出ますことは億劫で、宮邸にさえ参りませんのに」  と申し上げる。  [6-2 薫、弁の尼に依頼して出る]  「どうしてそんなことが。どうするにせよ、誰かが伝え聞いて言うならともかく、愛宕の聖でさえ、場合によっては出ないことがあろうか。固い誓いを 破って、人の願いをお満たしになるのが尊いことです」  とおっしゃると、  「衆生済度の徳もございませんのに、聞き苦しい噂も、出て来ましょう」  と言って、困ったことに思っていたが、  「やはり、ちょうどよい機会だから」  と、いつもと違って無理強いして、  「明後日ぐらいに、車を差し向けましょう。その仮住まいの家を調べておいてください。けっして馬鹿げたまちがいはしませんから」  と、にっこりしておっしゃるので、やっかいで、「どのようにお考えなのだろう」と思うが、「浅薄で軽々しくないご性質なので、自然とご自分のため にも、外聞はお慎みになっていらっしゃるだろう」と思って、  「それでは、承知いたしました。お近くですから。お手紙などをおやりくださいませ。わざわざ利口ぶって、取り持ちを買って出たようにとられますの も、今さら伊賀専女のようではないかしら、と気がひけます」  と申し上げる。  「手紙は、簡単でしょうが、人の噂が、とてもうるさいものですから、右大将は、常陸介の娘に求婚しているそうだなどとも、取り沙汰しようから。そ の介の殿は、とても荒々しい人のようですね」  とおっしゃると、ふと笑って、お気の毒にと思う。  暗くなったのでお出になる。木の下草が美しい花々や、紅葉などを折らせなさって、宮に御覧にお入れなさる。ご結婚の効がなくはなくいらっしゃ るようだが、畏れ敬っているような感じで、たいそうお親しみ申し上げずにいるようである。帝から、普通の親のように、入道の宮にもお頼み申し上 げなさっているので、たいそう重々しい点では、この上なくお思い申し上げていらっしゃった。あちらからもこちらからも、大切にされなさるお世話に加 えて、やっかいな執心が加わったのが、つらいことであった。  [6-3 弁の尼、三条の隠れ家を訪ねる]  お約束になった日のまだ早朝に、腹心の家来とお思いになる下臈の侍を一人、顔を知られていない牛飼童を用意して遣わす。  「荘園の連中で田舎者じみたのを召し出して、付き添わせよ」  とおっしゃる。必ず京に出て来るようにとおっしゃっていたので、とても気がひけてつらいけれど、ちょっと化粧をして車に乗った。野山の様子を見る につけても、若いころからの古い出来事が自然と思い出されて、物思いに耽りながら着いたのであった。とてもひっそりとして人の出入りもない所な ので、車を引き入れて、  「これこれで、参りました」  と、案内の男を介して言わせると、初瀬のお供をした若い女房が、出てきて車から降ろす。粗末な家で物思いに耽りながら明かし暮らしていたの で、昔話もできる人が来たので、嬉しくなって呼び入れなさって、父親と申し上げた方のご身辺の人と思うと、慕わしくなるのであろう。  「しみじみと、人知れずお目にかかりまして後は、お思い出し申し上げない時はありませんが、世の中をこのように捨てた身なので、あちらの宮邸 にさえ参りませんが、この大将殿が、不思議なまでにお頼みになるので、思い起こして参りました」  と申し上げる。姫君も乳母も、素晴らしいお方と拝見していたお方のご様子なので、忘れないふうにおっしゃるというのも、嬉しいが、急にこのよう にご計画なさるとは、思い寄らなかった。  [6-4 薫、三条の隠れ家の浮舟と逢う]  宵を少し過ぎたころに、「宇治から参った者です」と言って、門をそっと叩く。「そうかしら」と思うが、弁が開けさせると、車を引き入れる。妙だと思う と、  「尼君に、お目にかかりたい」  と言って、その近くの荘園の支配人の名を名乗らせなさったので、戸口にいざり出た。雨が少し降りそそいで、風がとても冷やかに吹きこんで、何 ともいえない良い匂いが漂ってくるので、「そうであったのか」と、皆が皆心をときめかせるにちがいないご様子が結構なので、心づもりもなくむさく るしいうえに、まだ予想もしていなかった時なので、気が動転して、  「どうしたことであろうか」  と言い合っていた。  「気楽な所で、いく月もの間の抑えきれない思いを申し上げたいと思いまして」  と言わせなさった。  「どのように申し上げたらよいものか」と思って、君はつらそうに思っていらしたので、乳母が見苦しがって、  「このようにいらっしゃったのを、お座りもいただかず、このままお帰し申し上げることができましょうか。あちらの殿にも、これこれです、とそっと申し 上げましょう。近い所ですから」  と言う。  「気がきかないことを。どうして、そうすることがありましょう。若い方どうしがお話し申し上げなさるのに、急に深い仲になるものでもありますまい。 不思議なまでに気長で、慎重でいらっしゃる君なので、けっして相手の許しがなくては、気をお許しになりますまい」  などと言っているうちに、雨が次第に降って来たので、空はたいそう暗い。宿直人で変な声をした者が、夜警をして、  「家の辰巳の隅の崩れが、とても危険だ。こちらの、客のお車は入れるものなら、引き入れてご門を閉めよ。この客人の供人は、気がきかない」  などと言い合っているのも、気持ち悪く聞き馴れない気がなさる。  「佐野の辺りに家もないのに」  などと口ずさんで、田舎めいた簀子の端の方に座っていらっしゃった。  「戸口を閉ざすほど葎が茂っているためか   東屋であまりに待たされ雨に濡れることよ」  と、露を払っていらっしゃる、その追い風が、とても尋常でないほど匂うので、東国の田舎者も驚くにちがいない。  あれやこれやと言い逃れるすべもないので、南の廂にお座席を設けて、お入れ申し上げる。気安くお会いなさらないのを、誰彼らが押し出した。 遣戸という物を錠をかけて、少し開けてあったので、  「飛騨の大工までが恨めしい仕切りですね。このような物の外には、まだ座ったことがありません」  とお嘆きになって、どのようになさったのか、お入りになってしまった。あの人形の願いもおしゃっらず、ただ、  「思いがけず、何かの間から覗き見して以来、何となく恋しいこと。そのような運命であったのか、不思議なまでにお思い申し上げています」  とお口説きになるのであろう。女の様子は、とてもかわいらしくおっとりしているので、見劣りもせず、とてもしみじみとお思いになった。  [6-5 薫と浮舟、宇治へ出発]  まもなく夜が明けてしまう気がするのに、鶏などは鳴かないで、大路に近い所で間のびした声で、何とも聞いたことのない物売りの呼び上げる声 がして、連れ立って行くのなどが聞こえる。このような朝ぼらけに見ると、品物を頭の上に乗せている姿が、「鬼のような恰好だ」とお聞きになってい るのも、このような蓬生の宿でごろ寝をした経験もおありでないので、興味深くもあった。  宿直人も門を開けて出る音がする。それぞれ中に入って横になる音などをお聞きになって、人を呼んで、車を妻戸に寄せさせなさる。抱き上げて お乗せになった。誰も彼もが、おかしな、どうしようもないことだとあわてて、  「九月でもありますのに。情けないことです。どうなさるのですか」  と嘆くと、尼君も、とてもお気の毒になって、意外なことだったが、  「自然とお考えのことがあるのでしょう。不安にお思いなさるな。九月は、明日が節分だと聞きました」  と言って慰める。今日は、十三日であった。尼君は、  「今回は、同行できません。宮の上が、お聞きになることもありましょうから、こっそりと行ったり来たりいたしますのも、まことに具合が悪うござい ます」  と申し上げるが、早々にこの事をお聞かせ申し上げるのも、恥ずかしく思われなさって、  「それは、後からお詫び申してもお済みになることでしょう。あちらでも案内する人がいなくては、頼りない所ですから」  とお責めになる。  「誰か一人、お供しなさい」  とおっしゃると、この君に付き添っている侍従と乗った。乳母は、尼君の供をして来た童女などもとり残されて、まことに何が何やら分からぬ気持 ちでいた。  [6-6 薫と浮舟の宇治への道行き]  「近い所にか」と思うと、宇治へいらっしゃるのであった。牛なども取り替える準備をなさっていた。加茂の河原を過ぎ、法性寺の付近をお通りにな るころに、夜はすっかり明けた。  若い女房は、とてもかすかに拝見して、お誉め申して、何となくお慕い申し上げるので、世間の思惑も何とも思わない。女君はとても驚いて、何も 考えられずうつ伏しているのを、  「大きな石のある道は、つらいものだ」  と言って、抱いていらっしゃった。薄物の細長を、車の中に垂れて仕切っていたので、明るく照り出した朝日に、尼君はとても恥ずかしく思われる につけて、「故姫君のお供をして、このように拝見したかったものだ。生き永らえると、思いもかけないことにあうものだ」と、悲しく思われて、抑えよ うとするが、つい顔がゆがんで泣くのを、侍従はとても憎らしく、ご結婚早々に尼姿で乗り添っているだけでも不吉に思うのに、「何で、こうしてめそ めそするのか」と、憎らしく愚かにも思う。年老いた人は、何となく涙もろいものだ、と簡単に考えるのであった。  君も、相手の女は憎くないが、空の様子につけても、故人への恋しさがつのって、山深く入って行くにしたがって、霧が立ち渡ってくる気がなさる。 物思いに耽って寄り掛かっていらっしゃる袖が、重なりながら長々と外に出ているのが、川霧に濡れて、お召し物が紅色なところに、お直衣の花が 大変に色変わりしているのを、急坂の下る所で見つけて、引き入れなさる。  「故姫君の形見だと思って見るにつけ   朝露がしとどに置くように涙に濡れることだ」  と、心にもなく独り言をおっしゃるのを聞いて、ますます袖をしぼるほどに、尼君の袖も泣き濡れているのを、若い女房は、「妙な見苦しいことだ」。 嬉しいはずの道中に、とてもやっかいな事が、加わった気持ちがする。堪えきれない鼻水をすする音をお聞きになって、自分もこっそりと鼻をかん で、「どのように思っているだろうか」とお気の毒なので、  「長年、この道をいく度も行き来したことを思うと、何となく感慨無量な気持ちがします。少し起き上がって、この山の景色を御覧なさい。とてもふさ ぎこんでいらっしゃいませんか」  と、無理に起こしなさると、美しい感じに、ちょっと隠して、遠慮深そうに外を見い出しなさっている目もとなどは、とてもよく似て思い出されるが、お だやかであまりにおっとりとし過ぎているのが、不安な気がする。「とてもたいそう子供っぽくいらしたが、思慮深くいらっしゃったな」と、やはり癒さ れない悲しみは、空しい大空いっぱいにもなってしまいそうである。  [6-7 宇治に到着、薫、京に手紙を書く]  宇治にお着きになって、  「ああ、亡き方の魂がとどまって御覧になっていようか。誰のために、このようにあてもなく彷徨い歩こうというのか」  と思い続けられなさって、降りてからは少し気をきかせて、側を立ち去りなさった。女は、母君がどうお思いになるかが、とても気がかりであるが、 優雅な態度で、愛情深くしみじみとお話なさるので、慰められて降りた。  尼君は、こちらで特に降りないで、渡廊の方に寄せたのを、「わざわざ気をつかうべき住まいでもないのに、心づかいが過ぎる」と御覧になる。御 荘園から、いつものように、人びとが騒がしいほど参集する。女のお食事は、尼君の方から差し上げる。道中は草が茂っていたが、こちらの様子 は、たいそう晴れ晴れとしている。  川の様子も山の景色も、上手に取り入れた建物の造りを眺めやって、日頃の鬱陶しい思いが慰められた気がするが、「どのようになさるおつもり か」と、不安で変な感じがする。  殿は、京にお手紙をお書きになる。  「まだ完成しない仏像のお飾りなどを拝見しておりましたが、今日が吉日なので、急いで参りまして、気分が良くないうえに、物忌であったのを思 い出しまして、今日明日はこちらで慎んでおります」  などと、母宮にも姫宮にも申し上げなさる。  [6-8 薫、浮舟の今後を思案す]  くつろいでいらっしゃるご様子で、いま一段と魅力的になって入っていらっしゃったのも恥ずかしい気がするが、身を隠すわけにもいかず座っていら っしゃった。女の装束などは、色とりどりに美しくと思って襲着していたが、少し田舎風なところが混じっていて、故人がとても柔らかくなったお召し 物のお姿で、上品に優美であったことばかりが思い出されたが、  「髪の裾の美しさなどは、たっぷりと上品である。宮の御髪がたいそう素晴らしかったのにも劣らないようだ」  と御覧になる。一方では、  「この人をどのように扱ったらよいのだろう。今すぐに、重々しくあの自邸に迎え入れるのも、外聞がよくないだろう。そうかといって、大勢いる女房 と同列にして、いい加減に暮らさせるのは望ましくないだろう。しばらくの間は、ここに隠しておこう」  と思うのも、会わなかったら寂しくかわいそうに思われなさるので、並々ならず一日中お話なさる。故宮の御事もお話し出して、昔話を興趣深く情 をこめて冗談もおっしゃるが、ただとても遠慮深そうにして、ひたすら恥ずかしがっているのを、物足りないとお思いになる。  「間違っても、このように頼りないのはとてもよい。教えながら世話をしよう。田舎風のしゃれ気があって、品が悪く、軽はずみだったならば、身代 わりにならなかったろうに」  と思い直しなさる。  [6-9 薫と浮舟、琴を調べて語らう]  ここにあった琴や、箏の琴を召し出して、「このような事は、またいっそうできないだろう」と、残念なので、独りで調べて、  「宮がお亡くなりになって以後、ここでこのような物に、実に久しく手を触れなかった」  と、珍しく自分ながら思われて、たいそうやさしく弄びながら物思いに耽っていらっしゃると、月が出た。  「宮のお琴の音色が、仰々しくはなくて、とても美しくしみじみとお弾きになったなあ」  とお思い出しになって、  「昔、皆が生きていらっしゃった時に、ここで大きくおなりになったら、もう一段と感慨は深かったでしょうに。親王のご様 子は、他人でさえ、しみじみと恋しく思い出され申します。どうして、そのような場所に、長年いられたのですか」  とおっしゃると、とても恥ずかしくて、白い扇を弄びながら、添い臥していらっしゃる横顔は、とてもどこからどこまで色白で、優美な額髪の間など は、まことによく思い出されて感慨深い。それ以上に、「このような音楽の技芸もふさわしく教えたい」とお思いになって、  「これは、少しお弾きになったことがありますか。ああ、吾が妻という和琴は、いくらなんでもお手を触れたことがありましょう」  などとお尋ねになる。  「その和歌でさえ、聞きつけずにいましたのに、まして、和琴などは」  と言う。まったく見苦しく気がきかないようには見えない。ここに置いて、思い通りに通って来られないことをお思いになるのが、今からつらいの は、並一通りにはお思いでないのだろう。琴は押しやって、  「楚王の台の上の夜の琴の声」  と朗誦なさるのも、あの弓ばかりを引く所に住み馴れて、「とても素晴らしく、理想的である」と、侍従も聞いているのであった。一方では、扇の色 も心を配らねばならない閨の故事を知らないので、一途にお誉め申し上げているのは、教養のないことである。「事もあろうに、変なことを、言ってそ まったなあ」とお思いになる。  尼君のもとから、果物を差し上げた。箱の蓋に、紅葉や、蔦などを折り敷いて、風流にとりまぜて、敷いてある紙に、不器用に書いてあるものが、 明るい月の光にふと見えたので、目を止めなさっていると、果物を欲しがっているように見えた。  「宿木は色が変わってしまった秋ですが   昔が思い出される澄んだ月ですね」  と古風に書いてあるのを、恥ずかしくもしみじみともお思いになって、  「里の名もわたしも昔のままですが   昔の人が面変わりしたかと思われる閨の月光です」  特に返歌というわけではなくおっしゃったのを、侍従が伝えたとか。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 Last updated 1/15/99 渋谷栄一訳(C)   浮舟 薫君の大納言時代26歳12月から27歳の春雨の降り続く3月頃までの物語 1 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る 1.匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む---宮は、今もなお、あのちらっと御覧になった夕方をお忘れになる時とてない 2.薫、浮舟を宇治に放置---あの方は、たとえようもなくのんびりと構えていらっしゃって 3.薫と中君の仲---少し暇がないようにおなりになったが 4.正月、宇治から京の中君への文---正月の上旬が過ぎたころにお越しになって 5.匂宮、手紙の主を浮舟と察知す---特に才気があるようには見えないが 6.匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る---ご自分のお部屋にお帰りになって、「不思議なことであったな 7.匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ---「とても嬉しいことを聞いたなあ」とお思いになって 2 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む 1.匂宮、宇治行きを大内記に相談---ただそのことを、最近は考え込んでいらっしゃった 2.匂宮、馬で宇治へ赴く---お供に、昔もあちらの様子を知っている者、二、三人と 3.匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る---静かに昇って、格子の隙間があるのを見つけて 4.匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む---「どの程度の親族であろうか 5.翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る---夜は、どんどん明けて行く。お供の人が来て咳払いをする 6.右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す---右近が出て来て、この声を出した人に 7.右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる---日が高くなったので、格子などを上げて 8.匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす---いつもは時間のたつのも長く感じられ、霞んでいる山際を 9.翌朝、匂宮、京へ帰る---夜になって、京へ遣わした大夫が帰参して、右近に会った 3 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す 1.匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める---二条の院にお着きになって、女君が 2.明石中宮からと薫の見舞い---内裏から大宮のお手紙が来たので、驚きなさって 3.二月上旬、薫、宇治へ行く---月が替わった。このようにお分かりになるが、お出かけになることは 4.薫と浮舟、それぞれの思い---「造らせている所は、だんだんと出来上がって来た 5.薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す---山の方は霞が隔てて、寒い洲崎に立っている鵲の姿も 4 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す 1.二月十日、宮中の詩会催される---二月の十日ころに、内裏で作文会を開催あそばすということで 2.匂宮、雪の山道の宇治へ行く---あの方のご様子からも、ますますはっとなさったので 3.匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す---夜のうちにお帰りになるのも 4.匂宮、浮舟に心奪われる--日が差し出て、軒の氷柱が光り合っていて 5.匂宮、浮舟と一日を過ごす---人目も絶えて、気楽に話し合って一日お過ごしになる 6.匂宮、京へ帰り立つ---御物忌を、二日とおだましになっていたので、のんびりとしたまま 7.匂宮、二条院に帰邸後、病に臥す---このような時の帰りは、やはり二条院においでになる 5 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う 1.春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く---雨が降り止まないで、日数が重なるころ 2.その同じ頃、薫からも手紙が届く---あれこれと見るのも嫌な気がするので 3.匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る---女宮にお話などを申し上げた機会に 4.浮舟の母、京から宇治に来る---大将殿は、四月の十日とお決めになっていた 5.浮舟の母、弁の尼君と語る---日が暮れて月がたいそう明るい。有明の空を思い出すと 6.浮舟、母と尼の話から、入水を思う---「まあ、嫌らしいこと。帝のお姫様をお持ちに 7.浮舟の母、帰京す---悩ましそうに臥せっていらっしゃるのを、乳母にも言って 6 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う 1.薫と匂宮の使者同士出くわす---殿のお手紙は今日もある。気分が悪いと申し上げていたので 2.薫、匂宮が女からの文を読んでいるのを見る---才覚のある者なので、供に連れている童を 3.薫、随身から匂宮と浮舟の関係を知らされる---夜が更けて、みな退出なさった。大臣は、宮を先にお立て 4.薫、帰邸の道中、思い乱れる---帰途、「やはり、実に油断のならない、抜け目なくいらっしゃる宮であるよ 5.薫、宇治へ随身を遣わす---「自分が、嫌気がさしたといって、見捨てたら 6.右近と侍従、右近の姉の悲話を語る---正面きってではないが、それとなくおっしゃった様子を 7.浮舟、右近の姉の悲話から死を願う---「さあね。右近は、どちらにしても、ご無事に 7 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す 1.内舎人、薫の伝言を右近に伝える---殿からは、あの先日の返事をさえおっしゃらずに 2.浮舟、死を決意して、文を処分す---女君は、「なるほど、今はまことに悪くなってしまった身の上のようだ 3.三月二十日過ぎ、浮舟、匂宮を思い泣く---二十日過ぎにもなった。あの家の主人が 4.匂宮、宇治へ行く---宮は、「こうしてばかり、依然として承知する様子もなくて 5.匂宮、浮舟に逢えず帰京す---宮は、御馬で少し遠くに立っていらっしゃったが 6.浮舟の今生の思い---右近が、きっぱり断った旨を言っていると 7.京から母の手紙が届く---宮は、たいそうな恨み言をおっしゃっていた 8.浮舟、母への告別の和歌を詠み残す---寺へ使者をやった間に、返事を書く   1 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る  [1-1 匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む]  宮は、今もなお、あのちらっと御覧になった夕方をお忘れになる時とてない。「たいした身分ではけっしてなさそうであったが、人柄が誠実で魅力 的であったなあ」と、とても浮気なご性分にとっては、「残念なところで終わってしまったことだ」と、悔しく思われなさるままに、女君に対しても、  「あのように、ちょっとしたことぐらいで、むやみに、このような方面の嫉妬をなさるなあ。思いがけなく情けない」  と、悪口言って恨み申し上げなさる時々は、とてもつらくて、「ありのままに申し上げてしまおうかしら」とお思いになるが、  「重々しい様子にはお扱いなさらないようだが、いいかげんでない扱いに、心とめて人が隠していらっしゃる女を、おしゃべりに申し上げてしまうよ うなのも、そのまま聞き流しなさるようなご性分の方ではいらっしゃらないようだ。  仕えている女房の中でも、ちょっと何かおっしゃり関係を持とうとお思いになった者にはすべて、身分柄あってはならない実家までお尋ねあそばす ご体裁の良くないご性分なので、あれほど月日を経ても、お思い込んでいらっしゃるあたりの女は、女房の場合以上にきっと見苦しいことを引き起 こしなさるだろう。他から伝え聞きなさるのはどうすることもできない。  どちらにとってもお気の毒ではあっても、それを防げる方のご性分でないので、他人の場合よりは聞きにくいなどとばかりに思われるだろう。どう なるにせよ、自分からの過失にはするまい」  と思い返しなさっては、お気の毒には思うが申し上げなさらず、嘘をついてもっともらしく言いつくろうことは、おできになれないので、黙りとおして 嫉妬する、世の常の女になっていらっしゃった。  [1-2 薫、浮舟を宇治に放置]  あの方は、たとえようもなくのんびりと構えていらっしゃって、「待ち遠しいと思っているだろう」と、お気の毒にはお思いやりになりながら、窮屈な 身の上を、適当な機会がなくては、たやすくお通いになれる道ではないので、神が禁じている以上に困っている。けれども、  「いずれはたいそうよく扱ってやろう、と思う。山里の慰めと思っていた考えがあるが、少し日数のかかりそうな事柄を作り出して、のんびりと出か けて行って逢おう。そうして、しばらくの間は誰も知らない住処で、だんだんとそのようなことで、あの女の気持ちも馴れさせて、自分にとっても、他 人から非難されないように、目立たぬようにするのがよいだろう。  急に迎えて、誰だろう、いつからだろう、などと取り沙汰されるのも、何となく煩わしく、当初の考えと違ってこよう。また、宮の御方がお聞きになっ てご心配になることも、もとの場所をきっぱりと離れて連れ出し、昔を忘れてしまったような顔なのも、まことに不本意だ」  などと冷静に考えなさるのも、例によって、のんびりと構え過ぎた性分からであろう。引っ越しさせる所をお考えおいて、こっそりと造らせなさるの であった。  [1-3 薫と中君の仲]  少し暇がないようにおなりになったが、宮の御方に対しては、やはりたゆまずお心寄せ申し上げなさることは以前と同じようである。拝見する女房 も不思議なまでに思っているが、世の中をだんだんとお分かりになってきて、他人の様子を見たり聞いたりなさるにつけて、「この人こそは本当に昔 を忘れない心長さが、引き続いて浅くない例のようだ」と、感慨も少なくない。  成人なさっていくにつれて、人柄も評判も、格別でいらっしゃるので、宮のお気持ちがあまりに頼りなさそうな時には、  「思いもかけなかった運命であったわ。亡き姉君がお考えおいたとおりでもなく、このように悩みの多い結婚をしてしまったことよ」  とお思いになる時々も多かった。けれども、お会いなさることは難しい。  年月もあまりに昔から遠ざかってきて、内々のご事情を深く知らない女房は、普通の身分の人なら、これくらいの縁者を求めて親交を忘れないの も、ふさわしいが、かえって、このように高い身分では、一般と違った交際も、気がひけるので、宮が絶えずお疑いになっているのも、ますますつらく ご遠慮なさりながら、自然と疎遠になってゆくのを、それでも絶えず、同じ気持ちがお変わりにならないのであった。  宮も、浮気っぽいご性質は、厭わしいところも混じっているが、若君がとてもかわいらしく成長なさってゆくにつれて、「他にはこのような子も生ま れないのではないかしら」と、格別大事にお思いになって、気のおけぬ親しい夫人としては、正室にまさってご待遇なさるので、以前よりは少し悩 み事も落ち着いて過ごしていらっしゃる。  [1-4 正月、宇治から京の中君への文]  正月の上旬が過ぎたころにお越しになって、若君が一つ年齢をおとりになったのを、相手にしてかわいがっていらっしゃる昼ころ、小さい童女が、 緑の薄様の包紙で大きいのに、小さい鬚籠を小松に結びつけてあるのや、また、きちんとした立文とを持って、無邪気に走って参る。女君に差し上 げると、宮は、  「それは、どこからのですか」  とおっしゃる。  「宇治から大輔のおとどにと言ったが、いないので困っていましたのを、いつものように、御前様が御覧になるだろうと思って、受け取りました」  と言うのも、とても落ち着きのないふうなので、  「この籠は、金属で作って色を付けた籠でしたのだわ。松もとてもよく本物に似せて作ってある枝ですよ」  と、笑顔で言い続けるので、宮もにっこりなさって、  「それでは、わたしも鑑賞しようかね」  とお取り寄せになると、女君は、とても見ていられない気持ちがなさって、  「手紙は、大輔のもとにやりなさい」  とおっしゃる。お顔が赤くなっているので、宮は、「大将がさりげなくよこした手紙であろうか、宇治からと名乗るのもいかにもらしい」とお思いつき になって、この手紙をお取りになった。  とはいえ、「もし本当にそれであったら」とお思いになると、たいそう気がひけて、  「開けてみますよ。お恨みになりますか」  とおっしゃると、  「みっともありません。どうして、女房どうしの間でやりとりしている気を許した手紙を、御覧になるのでしょう」  とおしゃるが、あわてない様子なので、  「それでは、見ますよ。女性の手紙とは、どんなものかな」  と言ってお開けになると、とても若々しい筆跡で、  「ご無沙汰のまま、年も暮れてしまいました。山里の憂鬱さは、峰の霞も絶え間がなくて」  とあって、端の方に、  「これも若宮様の御前に。不出来でございますが」  と書いてある。  [1-5 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す]  特に才気があるようには見えないが、心当たりがないので、お目を凝らして、この立文を御覧になると、なるほど女性の筆跡で、  「年が改まりましたが、いかがお過しでしょうか。あなた様ご自身におかれましても、どんなに楽しくお喜びが多いことでございましょう。  こちらでは、とても結構なお住まいで行き届いておりますが、やはり、不似合いに存じております。こうしてばかり、つくづくと物思いにお耽りあそ ばすより他には、時々そちらにお伺いなさって、お気持ちをお慰めあそばしませ、と存じておりますが、気がねして恐ろしい所とお思いになって、嫌 なこととお嘆きになっているようです。  若宮の御前にと思って、卯槌をお贈り申し上げなさいます。ご主人様が御覧にならない時に御覧下さいませ、とのことでございます」  と、こまごまと言忌もできずに、もの悲しい様子が見苦しいのにつけても、繰り返し繰り返し、変だと御覧になって、  「今はもう、おっしゃいなさい。誰からのですか」  とお尋ねになると、  「昔、あの山里に仕えておりました女の娘が、ある事情があって、最近あちらにいると聞きました」  と申し上げなさると、普通にお仕えする女とは見えない書き方を心得ていらっしゃるので、あの厄介なことがあると書いてあったのでお察しになっ た。  卯槌が見事な出来で、所在ない人が作った物だと見えた。松の二股になったところに、山橘を作って、それを貫き通した枝に、  「まだ古木にはなっておりませんが、若君様のご成長を   心から深くご期待申し上げております」  と、特にたいした歌でないなので、「あのずっと思い続けている女のか」とお思いになると、お目が止まって、  「お返事をなさい。返事しなくては情愛がない。隠さなければならない手紙でもあるまいに。どうして、ご機嫌が悪いのですか。去りましょうよ」  と言って、お立ちになった。女君は、少将などに向かって、  「お気の毒なことになってしまいましたね。幼い童女が受け取ったのを、他の女房はどうして気づかなかったのでしょう」  などと、小声でおっしゃる。  「拝見しましたら、どうして、こちらへお届けしたりしましょうか。ぜんたい、この子は思慮が浅く出過ぎています。将来性がうかがえて、女の子は、 おっとりとしているのが好ましいものです」  などと叱るので、  「お静かに。幼い子を、叱りなさいますな」  とおっしゃる。去年の冬、ある人が奉公させた童女で、顔がとてもかわいらしかったので、宮もとてもかわいがっていらっしゃるのだった。  [1-6 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る]  ご自分のお部屋にお帰りになって、  「不思議なことであったな。宇治に大将がお通いになることは、何年も続いていると聞いていた中でも、こっそりと夜お泊まりになる時もある、と人 が言ったが、実にあまりな故人の思い出の土地だからとて、とんでもない所に旅寝なさるのだろうこと、と思ったのは、あのような女を隠して置きな さったからなのだろう」  と合点なさることもあって、ご学問のことでお使いになる大内記である者で、あちらの邸に親しい縁者がいる者を思い出しなさって、御前にお召し になる。参上した。  「韻塞をしたいのだが、詩集などを選び出して、こちらにある厨子に積むように」  などとお命じになって、  「右大将が宇治へ行かれることは、相変わらず続いていますか。寺を、とても立派に造ったと言うね。何とか見られないかね」  とおっしゃると、  「寺をたいそう立派に、荘厳にお造りになって、不断の三昧堂など、大変に尊くお命じになった、と聞いております。お通いになることは、去年の秋 ごろからは、以前よりも、頻繁に行かれると言います。  下々の人びとがこっそりと申した話では、『女を隠し据えていらっしゃり、憎からずお思いになっている女なのでしょう。あの近辺に所領なさる所々 の人が、皆ご命令に従ってお仕えしております。宿直を担当させたりしては、京からもたいそうこっそりと、しかるべき事などお尋ねになります。どの ような幸い人で、幸せながらも心細くおいでなのでしょう』と、ちょうどこの十二月のころに申していた、とお聞き致しました」  と申し上げる。  [1-7 匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ]  「とても嬉しいことを聞いたなあ」とお思いになって、  「はっきりと名前を、言わなかったか。あちらに以前から住んでいた尼を、お訪ねになると聞いていたが」  「尼は、渡廊に住んでおりますと言います。この女は、今度建てられた所に、こぎれいな女房なども大勢して、結構な具合で住んでおります」  と申し上げる。  「興味深いことだね。どのような考えがあって、どのような女を、そのように据えていらしゃるのだろうか。やはり、とても好色なところがあって、普 通の人と似ていないお心なのだろうか。  右大臣などが、『この人があまりに仏道に進んで、山寺に、夜までややもすればお泊まりになるというが、軽々しい行為だ』と非難なさると聞いた が、なるほど、どうしてそんなにも仏道にこっそり行かれるのだろう。やはり、あの思い出の地に心を惹かれていると聞いたが、このようなわけがあ ったのだ。  どうだ、誰よりも真面目だと分別顔をする人の方がかえって、ことさら誰も考えつかないようなところがあるものだよ」  とおっしゃって、たいそうおもしろいとお思いになった。この人は、あちらの邸でたいそう親しくお仕えしている家司の婿であったので、隠していらっ しゃることも聞いたのであろう。  ご心中では、「何とかして、この女を、前に会ったことのある女かどうか確かめたい。あの君が、あのように据えているのは、平凡で普通の女では あるまい。こちらでは、どうして親しくしているのだろう。しめし合わせて隠していらっしゃったというのも、とても悔しい」と思われる。   2 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む  [2-1 匂宮、宇治行きを大内記に相談]  ただそのことを、最近は考え込んでいらっしゃった。賭弓や、内宴などが過ぎて、のんびりとした時に、司召などといって、皆が夢中になっているこ とは、何ともお思いにならないで、宇治へこっそりとお出かけになることばかりをご思案なさる。この大内記は、期待するところがあって、昼夜、何と かお気に入ってもらおうと思っているとき、いつもよりは親しく召し使って、  「たいへん難しいことではあるが、わたしの言うことを、何とかしてくれないか」  などとおっしゃる。恐縮して承る。  「たいそう不都合なことだが、あの宇治に住んでいるらしい人は、早くにちらっと会った女で、行く方が分からなくなったのが、大将に捜し出された 人と、思い当たるところがあるのだ。はっきりとは知る手立てもないが、ただ、物の隙間から覗き見して、その女か違うかと確かめたい、と思う。まっ たく誰にも知られない方法は、どうしたらよいだろうか」  とおっしゃるので、「何と、やっかいな」と思うが、  「お出かけになることは、たいへん険しい山越えでございますが、格別遠くはございません。夕方お出かけあそばして、亥子の刻にはお着きにな るでしょう。そうして、早朝にはお帰りあそばせましょう。誰か気づくとすれば、ただお供する者だけでございしょう。それも、深い事情はどうして分か りましょう」  と申し上げる。  「そうだ。昔も一、二度は、通ったことのある道だ。軽々しいと非難されるのが、その評判が気になるのだ」  と言って、繰り返しとんでもないことだと、自分自身反省なさるが、このようにまでお口に出されたので、お思い止めなさることはできない。  [2-2 宮、馬で宇治へ赴く]  お供に、昔もあちらの様子を知っている者、二、三人と、この内記、その他には乳母子で蔵人から五位になった若い者で、親しい者ばかりをお選 びになって、「大将の、今日明日はよもやいらっしゃるまい」などと、内記によく調べさせなさって、ご出立なさるにつけても、昔を思い出す。  「不思議なまでに心を合わせて連れて行ってくれた人に対して、後ろめたいことをするなあ」と、お思い出しになることもいろいろであるが、京の中 でさえ、まるきり人の知らないお忍び歩きは、そうはいっても、おできになれないご身分でいて、粗末な恰好に身をやつして、お馬でお出かけになる 気持ちも、何となく恐ろしく気が咎めるが、知りたい気持ちは強いご性質なので、山深く入って行くにつれて、「早く着きたい、どうであろうか、確か めることもなくて帰るようでは、物足りなく変なものであろう」とお思いになると、気が気でない思いがなさる。  法性寺の付近まではお車で、そこから先はお馬にお乗りになったのであった。急いで、宵を過ぎたころにお着きになった。大内記が、様子をよく知 っているあの邸の人に尋ねて知っていたので、宿直人がいる方には寄らないで、葦垣をめぐらした西面を、静かにすこし壊してお入りになった。  大内記自身も何といってもまだ見たことのないお住まいなので、不案内であるが、女房なども多くはいないので、寝殿の南面に燈火がちらちらと ほの暗く見えて、そよそよと衣ずれの音がする。戻って参って、  「まだ、人は起きているようでございます。直接、ここからお入りください」  と、案内してお入れ申し上げる。  [2-3 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る]  静かに昇って、格子の隙間があるのを見つけて近寄りなさると、伊予簾はさらさらと鳴るのが気が引ける。新しくこぎれいに造ってあるが、やはり 荒っぽい造りで隙間があったが、誰も来て覗き見はしまいかと、気を許して、穴も塞がず、几帳の帷子をうち懸けて押しやっていた。  燈火を明るく照らして、何か縫物をしている女房が、三、四人座っていた。童女でかわいらしいのが、糸を縒っている。この子の顔は、まずあの燈 火で御覧になった顔であった。とっさの見間違いかと、まだ疑われたが、右近と名乗った若い女房もいる。女主人は、腕を枕にして、燈火を眺めて いる目もとや、髪のこぼれかかっている額つき、たいそう上品に優美で、対の御方にとてもよく似ていた。  この右近が、衣類を折り畳もうとして、  「こうしてお出かけあそばしたら、すぐにはお帰りあそばすわけにはいきませんが、殿は、『今度の司召の間が終わって、朔日ころにはきっといらっ しゃる』と、昨日のお使いも申していました。お手紙には、どのように申し上げなさいましたのでしょうか」  と言うが、返事もせずに、たいそう物思いに沈んでいる様子である。  「来訪の折しも、身を隠していらっしゃるようなのは、困ったことです」  と言うと、向かいにいた女房が、  「それでは、このようにお出かけになったと、お手紙を差し上げなさるのがよいでしょう。軽々しく、どうして、何も言わずに、お隠れあそばせましょ う。ご参詣の後は、そのままこちらにお帰りあそばしませ。こうして心細いようですが、思い通りに気楽なお暮らしに馴れて、かえって本邸の方が旅 心地がするのではないでしょうか」  などと言う。また他の女房は、  「やはり、しばらくの間、こうしてお待ち申し上げなさるのが、落ち着いていて体裁がよいでしょう。京へなどとお迎え申されてから後、ゆっくりとし て母君にもお会い申されませ。あの乳母が、とてもせっかちでいられて、急にこのような話を申し上げなさるのでしょうよ。昔も今も、我慢してのんび りとしている人が、しまいには幸福になるということです」  などと言うようである。右近は、  「どうして、この乳母をお止め申さずになってしまったのでしょう。年老いた人は、やっかいな性質があるものですから」  と憎むのは、乳母のような女房を悪く言うようである。「なるほど、憎らしい女房がいた」とお思い出しになるのも、夢のような気がする。側で聞いて いられないほど、うちとけた話をして、  「宮の上は、とてもめでたくご幸福でいらっしゃる。右の大殿が、あれほど素晴らしいご威勢で、仰々しく大騒ぎなさるようだが、若君がお生まれに なって後は、この上なくいらっしゃるようです。このような出しゃばり者がいらっしゃらなくて、お心ものんびりと、賢明に振る舞っていらっしゃることで ありましょう」  と言う。  「せめて殿さえ、真実愛してくださるお気持ちが変わらなかったら、負けることがありましょうか」  と言うのを、女君は、少し起き上がって、  「とても聞きにくいこと。他人であったら、負けまいとも何とも思いましょうが、あのお方のことは口に出してはいけません。漏れ聞こえるようなこと があったら、申し訳ありません」  などと言う。  [2-4 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む]  「どの程度の親族であろうか。とてもよく似ている様子だな」と思い比べると、「恥ずかしくなるほどの上品なところは、あの君はとてもこの上ない。 この人はただかわいらしくきめこまやかな顔だちがとても魅力的だ」。普通程度の、不十分なところを見つけたような場合でさえも、あれほど会いた いとお思い続けてきた人を、その人だと見つけて、そのままお止めになるようなご性分でないので、その上すっかり御覧になったので、「何とかして この女を自分のものにしたい」と、心もうわの空におなりになって、依然として見つめていらっしゃると、右近が、  「とても眠い。昨夜も何となしに夜明かししてしまった。明朝早くにも、これは縫ってしまおう。お急ぎあそばしても、お車は日が高くなってから来る でしょう」  と言って、作りかけていた縫物を持って、几帳に懸けたりなどして、うたた寝の状態で寄り臥した。女君も少し奥に入って臥す。右近は北面に行っ て、しばらくして再び来た。女君の後ろ近くに臥した。  眠たいと思っていたので、とても早く寝入ってしまった様子を御覧になって、他にどうしようもないので、こっそりとこの格子を叩きなさる。右近が聞 きつけて、  「どなたですか」  と言う。咳払いをなさったので、高貴な方の咳払いと気づいて、「殿がいらっしゃったのか」と思って、起きて出た。  「とりあえず、ここを開けなさい」  とおっしゃるので、  「変ですわ。思いがけない時刻でございますこと。夜はたいそう更けましたものを」  と言う。  「どこそこへ外出なさる予定であると、仲信が言ったので、驚いてすぐ出て来て。まことに困ったことであった。とりあえず開けなさい」  とおっしゃる声、たいそうよくお似せになって、ひっそりと言うので、別人とは思いも寄らず、格子を開けた。  「途中で、とてもひどい目に遭ったので、みっともない姿になっている。燈火を暗くしなさい」  とおっしゃるので、  「まあ、大変」  とあわて騒いで、燈火は隠した。  「わたしを、他の人には見せるな。来たからと言って、誰も起こすな」  と、とてもたくみなお方なので、もともとわずかに似ているお声を、まったくあの方のご様子に似せてお入りになる。「ひどい目に遭った姿だとおっ しゃったが、どのようなお姿なのだろう」とお気の毒で、自分も隠れて拝見する。  とてもほっそりとなよなよと装束をお召しになって、香の芳しいことも劣らない。近くによって、お召物を脱ぎ、馴れた顔でお臥せりになったので、  「いつものご座所に」  などと言うが、何もおっしゃらない。寝具を差し上て、寝ていた女房たちを起こして、少し下がって皆眠った。お供の人などは、いつものように、こち らでは構わない慣例になっているので、  「お志の深い、夜のご訪問ですこと」  「このようなご様子を、ご存知ないのよ」  などと、利口ぶる女房もいるが、  「お静かに。夜の声は、ささやく声が、かえってうるさいのです」  などと言いながら眠った。  女君は、「違う人だわ」と思うと、びっくりし大変だと思うが、声も出させないようになさる。とても憚られる所でさえ、理不尽であったお心なので、何 ともいいようがない仕儀だ。初めから別人だと知っていたら、何とかあしらうすべもあったろうが、夢のような気がするので、だんだんと、あの時のつ らかった、いく年月もの間を思い続けていた有様をおっしゃるので、その宮だと分かった。  ますます恥ずかしくなって、あの上の御ことなどを思うと、またどうすることもできないので、限りなく泣く。宮も、なまじ逢ったのがかえってつらく、 たやすく逢えそうにないことをお思いになって、お泣きになる。  [2-5 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る]  夜は、どんどん明けて行く。お供の人が来て咳払いをする。右近が聞いて参上した。お出になる気持ちもなく、心からいとしく思われて、再びいら っしゃることも難しいので、「京では捜し求めて大騒ぎしようとも、今日一日だけはこうしていたい。何事も生きている間だけのことなのだ」。今すぐに お出になることは、本当に死んでしまいそうにお思いになるので、この右近を呼び寄せて、  「まことに無分別と思われようが、今日はとても出て行くことができそうにない。男たちは、この近辺の近い所に、適当に隠し控させなさい。時方 は、京へ行って、『山寺に人目を忍んで行っている』とつじつまが合うように、返事などさせよ」  とおっしゃるので、とても驚きあきれて、気づかなかった昨夜の過失を思うと、気も動転してしまいそうなのを、落ち着けて、  「今となっては、どのようにあたふた騒いだところで、効ないし、また失礼である。困った時にも、たいそう深く愛してくださったのも、このような逃れ がたかったご運命なのであろう。誰がしたということでない」  と思い慰めて、  「今日、お迎えにとございましたが、どのようにあそばす御ことでしょうか。このように逃れることがおできになれないご運命は、まことに申し上げよ うもございません。あいにく日が悪うございます。やはり、今日はお帰りあそばして、ご愛情がございましたら、改めてごゆっくりと」  と申し上げる。「生意気なことを言うな」とお思いになって、  「わたしは、いく月も物思いしたので、すっかり呆然としてしまって、人が非難するのも注意することも分別できず、一途に思いつめているのだ。少 しでも身の上を憚るような人が、このような出歩きは思い立ちましょうか。お返事には、『今日は物忌です』などと言いなさい。人に知られてはならな いことを、誰のためにも思いなさい。他のことは問題でない」  とおっしゃって、この人が、世にも稀なくらいかわいく思われなさるままに、どのような非難もお忘れになったのであろう。  [2-6 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す]  右近が出て来て、この声を出した人に、  「これこれとおっしゃっていますが、やはり、とても見苦しいなさりようです、と申し上げてください。驚くほど目にもあまるようなお振る舞いは、どん なにお思いになっても、あなた方お供の人びとの考えでどうにでもなりましょう。どうして、こう無分別にも宮をお連れ申し上げなさったのですか。無 礼な行ないを致す山賊などが途中で現れましたら、どうなりましょう」  と言う。内記は、「なるほど、とてもやっかいなことであるなあ」と思って立っている。  「時方とおっしゃる方は、どなたですか。これこれとおっしゃっています」  と伝える。笑って、  「お叱りなさることが恐ろしいので、ご命令がなくても逃げ出しましょう。本当のところを申し上げますと、並々でないご愛情を拝見しますと、皆が 皆、身を捨てて参ったのです。よいよい、宿直人も、皆起きたようです」  と言って急いで出て行った。  右近は、「人に知られないようにするには、どうだましたらよいものか」と困りきっている。女房たちが起きたので、  「殿は、ある理由があって、ひどくこっそりといらっしゃっています様子を拝見しますと、道中で大変なことがあったようです。お召物などを、夜にな ってこっそりと持参するように、お命じになっています」  などと言う。御達は、  「まあ、気味が悪い。木幡山は、とても恐ろしいという山ですよ。いつものように、お先も払わせなさらず、身を簡略にしていらっしゃったので、ま あ、大変なこと」  と言うので、  「お静かに、お静かに。下衆どもが、少しでも聞きつけたら、とても大変なことになりましょう」  と言っているが、嘘をつくのが恐ろしい。具合悪く、殿のお使いが来た時にはどのように言おうと、  「初瀬の観音様、今日一日がご無事で暮らせますように」  と、大願を立てるのであった。  石山寺に今日参詣させようとして、母君が迎えに来るのであった。この邸の女房たちも皆精進潔斎をし、身を清めていたが、  「それでは、今日は、お出かけあそばすわけにはゆかないでしょう。とても残念なこと」  と言う。  [2-7 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる]  日が高くなったので、格子などを上げて、右近は近くにお仕えしていた。母屋の簾はみな下ろして、「物忌」などと書かせて貼っておいた。母君も ご自身でお出でになるかも知れないと思って、「夢見が悪かったので」と理由をつけるのであった。御手水などを差し上げる様子は、いつものようで あるが、介添えを不満にお思いになって、  「あなたが先にお洗いあそばしたら」  とおっしゃる。女は、たいそう体裁よく奥ゆかしい人を見慣れていたので、束の間も逢わないでいると死んでしまいそうだと恋い焦がれている宮 を、「ご愛情が深いとは、このような方を言うのであるろうか」と思い知られるにつけても、「不思議な運命だわ。皆が、噂をきいたら、どのようにお思 いになるだろう」と、まずはあの宮の上のお気持ちを思い出し申し上げるが、素性を知らないので、  「返す返すもとても情けない。やはり、ありのままにおっしゃってください。ひどく身分の低い人だと言っても、ますますいとおしく思われましょう」  と、無理やりにお尋ねになるが、そのお返事は全然しない。他のことでは、とてもかわいらしく親しみやすい様子にお返事申し上げたりなどして、 言うままになるのを、とてもこの上なくかわいらしいとばかり御覧になる。  日が高くなったころに、迎えの人が来た。車二台、乗馬の人びとが、いつものように、荒々しい者が七、八人。男連中が大勢、例によって、下品な 感じで、ぺちゃくちゃしゃべりながら入って来たので、女房たちは体裁悪がりながら、  「あちらに隠れなさい」  と言わせたりする。右近は、「どうしよう。殿がおいでになっている、と言った時、京にはそれほどの身分の方がいらっしゃる、いらっしゃらないとい うのは、自然と知られていて、隠せないことかも知れない」と思って、この女房たちにも、特に相談せずに、返事を書く。  「昨夜から穢れなさって、とても残念なこととお嘆きになっていらっしゃったのですが、昨夜、悪い夢を御覧あそばしたので、今日一日はお慎みな さいと言って、物忌をいたしております。返す返すも、残念で、悪夢が邪魔しているように拝見いたしております」  と書いて、人びとに食事をさせてやった。尼君にも、  「今日は物忌で、お出かけなさいません」  と言わせた。  [2-8 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす]  いつもは時間のたつのも長く感じられ、霞んでいる山際を眺めながら物思いに耽っていたのに、日の暮れて行くのが侘しいとばかり思い焦がれて いらっしゃる方に惹かれ申して、まことにあっけなく暮れてしまった。誰に妨げられることのない長い春の日を、いくら見てもいて見飽きず、どこがと 思われる欠点もなく、愛嬌があって、慕わしく魅力的である。  その実は、あの対の御方には見劣りがするのである。大殿の姫君の女盛りで美しくいらっしゃる方に比べたら、お話にもならないほどの女なの に、二人といないと思っていらっしゃる時なので、「こんなによい女は他に知らない」とばかり思っていらっしゃる。  女はまた一方、大将殿を、とても美しそうで他にこのような方がいるだろうかと思っていたが、「情愛こまやかで輝くような美しさは、この上なくいら っしゃるなあ」と思う。  硯を引き寄せて、手習などをなさる。たいそう美しそうに書き遊んで、絵などを上手にたくさんお描きになるので、若い女心には、愛情も移ることで あろう。  「思うにまかせず、お逢いになれない時は、この絵を御覧なさい」  と言って、とても美しそうな男と女が、一緒に添い臥している絵を描きなさって、  「いつもこうしていたいですね」  などとおっしゃるのにも、涙が落ちた。  「末長い仲を約束してもやはり悲しいのは   ただ明日を知らない命であるよ  まことにこのように思うのは、縁起でもないことだ。思いのままに訪ねることがまったくできず、万策めぐらすうちに、ほんとうに死んでしまいそうに 思われる。つらかったご様子を、かえってどうして探し出したりしたのだろうか」  などとおっしゃる。女は、濡らしていらっしゃる筆を取って、  「心変わりなど嘆いたりしないでしょう   命だけが定めないこの世と思うのでしたら」  とあるのを、「心変わりするのを恨めしく思うようだ」と御覧になるにつけても、まことにかわいらしい。  「どのような人の心変わりを見てなのか」  などと、にっこりして、大将がここに連れて来なさった当時のことを、繰り返し知りたくなって、お尋ねになるのを、つらく思って、  「申し上げられませんことを、このようにお尋ねになるとは」  と、恨んでいる様子も、若々しい。自然とそれは聞き出そう、とお思いになる一方で、言わせたく思うのも困ったことだ。  [2-9 翌朝、匂宮、京へ帰る]  夜になって、京へ遣わした大夫が帰参して、右近に会った。  「后の宮からもご使者が参って、右の大殿もご不満を申されて、『誰にも知らせあそばさぬお忍び歩きは、まことに軽々しく、無礼な行為に遭うこと もあるのを、総じて、帝などがお耳にあそばすことも、わが身にとってもまことにつらい』とひどくおっしゃっていました。東山に聖僧にお会に行った と、皆には申しておきました」  などと話して、  「女というものは罪深くいらっしゃるものです。何でもない家来までうろうろさせなさって、嘘までつかせなさるよ」  と言うと、  「聖と呼んでくださったのは、とても結構な。あなた個人の嘘をついた罪も、その功徳で帳消しなさりましょう。ほんとうに、とても困ったご性質で、 おっしゃるとおり、いったいどうしてそのような癖がおつきになったのでしょう。前々からこのようにいらっしゃると聞いておりましたら、とても恐れ多い ことですから、うまくお取り計らい申し上げましたでしょうに。無分別なご外出ですこと」  と、お困り申す。  帰参して、「これこれです」と申し上げると、「なるほど、どんなに騒いでいるだろう」と、ご想像になって、  「窮屈な身分はつらいものだ。軽い身分の殿上人などで、しばらくいたいものだ。どうしたらよいだろうか。このように慎むべき外聞も、構ってはい られない。  大将もどのように思うであろうか。親しくて当然と言ってよいながら、不思議なまでに昔から親しい仲で、このような秘密が知られた時は、恥ずか しく、またどんなであろうか。  世のたとえに言うこともあるので、待ち遠しがらせている自分の怠慢を顧みずに、あなたが恨まれなさるだろうとまで心配になります。まったく誰 にも知られぬ状態で、ここではない所にお連れ申し上げよう」  とおっしゃる。今日までもここにじっとしていらっしゃるわけにはいかないので、お出になろうとするにも、魂は女の袖の中にお残しになって行くので あろう。  すっかり明けない前にと、供人たちは咳払いをしてお促し申す。妻戸まで一緒に連れてお出でになって、とても外にお出になれない。  「いったいどうしてよいか分からない   先に立つ涙が道を真暗にするので」  女も、限りなく悲しいと思った。  「涙も狭い袖では抑えかねますので   どのように別れを止めることができましょうか」  風の音もとても荒々しく、霜の深い早朝に、お互いの衣装も冷たくなった気がして、お馬にお乗りになるとき、引き返す気持ちのようで驚くほどつら いが、お供の人々が、「まったく冗談ではない」と思って、ひたすら急がして出発させたので、魂の抜けた思いでお出になった。  この五位の二人が、お馬の口取りとして仕えた。険しい山道をすっかり越えて、それぞれの馬に乗る。水際の氷を踏みならす馬の足音までが、 心細く何となく悲しい。以前もこの道だけは、このような山歩きもなさったので、「不思議な宿縁の山里だなあ」とお思いになる。   3 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す  [3-1 匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める]  二条の院にお着きになって、女君がたいそう水臭くお隠しになっていたことが情けないので、気楽な方の部屋でお寝みになったが、眠ることがお できになれず、とても寂しく物思いがまさるので、心弱く対の屋にお渡りになった。  何があったとも知らずに、とても美しそうにしていらっしゃる。「又となく魅力的だと御覧になった人よりも、またこの人はやはり類稀な様子をしてい らっしゃった」と御覧になる一方で、とてもよく似ているのを思い出しなさるにも、胸が塞がる思いがして、ひどく物思いをなさっている様子で、御帳台 に入ってお寝みになる。女君もお連れ申してお入りになって、  「気分がとても悪い。どうなるのだろうかと、心細い気がする。わたしは、どんなにも深く愛していても先立ってしまったら、お身の上はまことすぐに 変わってしまうでしょうね。人の思いは、きっと通るものですからね」  とおっしゃる。「ひどいことを、真面目になっておっしゃるわ」と思って、  「このように聞きずらいことが漏れ聞こえたら、どのように申し上げたのかと、あちらもお考えになりましょうことが、たまりません。不運の身には、 いい加減な冗談もとてもつらいので」  と言って、横をお向きになった。宮も、真面目になって、  「ほんとうにつらいとお思い申し上げることがあるのは、どのようにお思いになるでしょう。わたしは、あなたにとっていい加減な人でしょうか。誰も が、めったにいない人だなどと、言い立てるくらいです。誰かに比べてこの上なく見下しなさるようだ。誰もそのような運命なのだろうと、自然と理解 されるが、隔てなさるお気持ちの強いのが、とても情けない」  とおっしゃるにつけても、「宿世が並々でなく、探し出したのだ」と思い出されると、自然と涙ぐまれた。真剣なお姿を、「お気の毒で、どのようなこと をお聞きになったのだろう」とはっとさせられるが、お答え申し上げなさる言葉もない。  「ちょっとした関係で結婚なさったので、どんなことも軽い気持ちで推量なさるのであろう。縁故もない人を頼みにして、その好意を受け入れたりし たのが過ちで、軽く扱われる身なのだ」とお思い続けるのも、何かと悲しくて、ますます可憐なご様子である。  「あの人を見つけたことは、しばらくの間はお知らせ申すまい」とお思いなので、「他の事に思わせて恨みなさるのを、ひたすらこの大将の事を真 剣になっておっしゃる」とお思いになると、「誰かが嘘を真実のように申し上げたのだろう」などとお思いになる。事実か否かを確かめない間は、お会 い申すのも恥ずかしい。  [3-2 明石中宮からと薫の見舞い]  内裏から大宮のお手紙が来たので、驚きなさって、やはり釈然としないご様子で、あちらにお渡りになった。  「昨日の心配したことよ。ご気分悪くいらっしゃったそうですが、悪くないようでしたら参内なさい。久しく見えませんこと」  などというように申し上げなさったので、大げさに心配していただくのもつらいけれど、ほんとうにご気分も正気でないようで、その日は参内なさら ない。上達部などが、大勢参上なさったが、御簾の中でその日はお過ごしになる。  夕方、右大将が参上なさった。  「こちらに」  と言って、寛いだ恰好でお会いなさった。  「ご気分がお悪い、ということでございましたので、宮におかれましてもとてもご心配あそばされています。どのようなご病気すか」  とお尋ね申し上げなさる。お会いしただけで、お胸がどきどき高まってくるので、「言葉少なく、聖めいているというが、途方もない山伏心だな。あ れほどかわいい女を、そのままにして置いて、何日も何日も待ちわびさせているとは」とお思いになる。  いつもは、ほんの些細な機会でさえ、自分はまじめ人間だと振る舞い自称していらっしゃるのを、悔しがりなさって、何かと文句をおつけになるの を、このような事を発見したのを、どうしておっしゃっらないだろうか。けれども、そのような冗談もおっしゃらず、とてもつらそうにお見えになるので、  「お気の毒なことです。大したご病気ではなくても、やはり何日も続くのは、とてもよくないことでございます。お風邪を充分ご養生なさいませ」  などと、心からお見舞い申し述べてお出になった。「気のひけるほど立派な人である。わたしの態度を、どのように比較しただろう」などと、いろい ろな事柄につけて、ひたすらあの女を、束の間も忘れずお思い出しになる。  あちらでは、石山詣でも中止になって、まことに何もすることない。お手紙には、とてもつらい思いをたくさんお書きになってお遣りになる。それでさ え気が落ち着かず、「時方」と言って召し出した大夫の従者で、事情を知らない者をして遣わしたのであった。  「私め右近が古くから知っていた人で、殿のお供で訪ねて来まして、昔に縒りを戻して懇意になろうとするのです」  と、女房仲間には言い聞かせていた。何かと右近は、嘘をつくことになったのであった。  [3-3 二月上旬、薫、宇治へ行く]  月が替わった。このようにお分かりになるが、お出かけになることはとても無理である。「こうして物思いばかりしていたら、生きてもいられないよう なわが身だ」と、心細さが加わってお嘆きになる。  大将殿は、少しのんびりしたころ、いつものように、人目を忍んでお出でになった。寺で仏などを拝みなさる。御誦経をおさせになる僧に、お布施を 与えたりして、夕方に、こちらには人目を忍んでだが、この人はひどく身を簡略になさるでもない。烏帽子に直衣姿が、たいそう理想的で美しそう で、歩んでお入りになるなり、こちらが恥ずかしくなりそうで、心づかいが格別である。  女は、どうしてお会いできようかと、空にまで目があって恐ろしく思われるので、激しく一途であった方のご様子が、自然と思い出されると、一方 で、この方にお会いすることを想像すると、ひどくつらい。  「『私は今まで何年も会っていた女の思いが、皆あなたに移ってしまいそうだ』とおっしゃったのを、なるほど、その後はご気分が悪いと言って、ど の方にもどの方にも、いつものようなご様子ではなく、御修法などと言って騒いでいるというのを聞くと、また、どのようにお聞きになってどのように お思いになるだろうか」と、思うにつけてまことにつらい。  この方はこの方で、たいそう感じが格別で、愛情深く、優美な態度で、久しく会わなかったご無沙汰のお詫びをおっしゃるのも、言葉数多くなく、 恋しい愛しいと直接には言わないが、いつも一緒にいられない恋の苦しい気持ちを、体裁よくおっしゃるのが、ひどく言葉を尽くして言うよりもまさっ て、たいそうしみじみと誰もが思うにちがいないような感じを身につけていらっしゃる人柄である。やさしく美しい方面は無論のこと、将来末長く信頼 できる性格などが、この上なくまさっていらっしゃった。  「心外なと思われる様子の気持ちなどが、漏れてお耳に入った時は、とても大変なことになるであろう。不思議なほど正気もなく恋い焦がれてい る方を、恋しいと思うのも、それはとてもとんでもなく軽率なことだわ。この方に嫌だと思われて、お忘れになるってしまう」心細さは、とても深くしみ こんでいたので、思い乱れている様子を、「途絶えていたこの幾月間に、すっかり男女の情理をわきまえ、成長したものだ。何もすることのない住処 にいる間に、あらゆる物思いの限りを尽くしたのだろうよ」と御覧になるにつけても、気の毒なので、いつもより心をこめてお語らいになる。  [3-4 薫と浮舟、それぞれの思い]  「造らせている所は、だんだんと出来上がって来た。先日、見に行ったが、ここよりはやさしい感じの川があって、花も御覧になれましょう。三条宮 邸も近い所です。毎日会わないでいる不安も、自然と消えましょうから、この春のころに、差し支えなければお連れしよう」  と思っておっしゃるのにつけても、「あの方が、のんびりとした所を考えついたと、昨日もおっしゃっていたが、このようなことをご存知なくて、そのよ うにお考えになっていることよ」と、心が痛みながらも、「そちらに靡くべきではないのだ」と思うその一方で、先日のお姿が、面影に現れるので、 「自分ながらも嫌な情けない身の上だわ」と、思い続けて泣いた。  「お気持ちが、このようでなくおっとりとしていたのが、のんびりと嬉しかった。誰かが何か言い聞かせたことがあるのですか。少しでも並々の愛情 であったら、こうしてわざわざやって来ることができる身分ではないし、道中でもないのですよ」  などと言って、初旬ころの夕月夜に、少し端に近い所に臥して外を眺めていらっしゃった。男は、亡くなった姫君のことを思い出しなさって、女は、 今から加わった身のつらさを嘆いて、お互いに物思いする。  [3-5 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す]  山の方は霞が隔てて、寒い洲崎に立っている鵲の姿も、場所柄かとても興趣深く見えるが、宇治橋がはるばると見渡されるところに、柴積み舟 Last updated 2/1/99 渋谷栄一訳(C)   蜻蛉 薫君の大納言時代27歳3月末頃から秋頃までの物語 1 浮舟の物語 浮舟失踪後の人びとの動転 1.宇治の浮舟失踪---あちらでは、女房たちが、いらっしゃらないのを探して大騷ぎするが 2.匂宮から宇治へ使者派遣---宮にも、まことにいつもと違った様子であったお返事に 3.時方、宇治に到着---身分の軽い者は、すぐに行き着いた。雨が少し降り止んだが 4.乳母、悲嘆に暮れる---内側でも泣く声ばかりがして、乳母であろう 5.浮舟の母、宇治に到着---雨がひどく降ったのに隠れて、母君もお越しになった 6.侍従ら浮舟の葬儀を営む---侍従などは、日頃のご様子を思い出して 7.侍従ら真相を隠す---大夫や、内舎人など、脅迫申し上げた者どもが参って 2 浮舟の物語 浮舟失踪と薫、匂宮 1.薫、石山寺で浮舟失踪の報に接す---大将殿は、母入道の宮がお悩みになったので 2.薫の後悔---殿は、やはり、実にあっけなく悲しいとお聞きなるにも 3.匂宮悲しみに籠もる---あの宮はまた宮で、彼以上に、二、三日は何も考えることができず 4.薫、匂宮を訪問---宮のお見舞いに、毎日参上なさらない方はなく 5.薫、匂宮と語り合う---だんだんと世間の話を申し上げなさると、「とても隠しておくことも 6.人は非情の者に非ず---「ひどくご執心であったな。まことにあっけなかったが 3 匂宮の物語 匂宮、侍従を迎えて語り合う 1.四月、薫と匂宮、和歌を贈答---月が変わって、「今日が引き取る日であったのに」と思い出し 2.匂宮、右近を迎えに時方派遣---まことに夢のようにばかり、やはり、「どうして 3.時方、侍従と語る---大夫も泣いて、「まったく、お二方の事は 4.侍従、京の匂宮邸へ---黒い衣装類を着て、化粧をした容貌も 5.侍従、宇治へ帰る---何程の者ともお考えでなかった侍従も、親しく 4 薫の物語 薫、浮舟の法事を営む 1.薫、宇治を訪問---大将殿も、同じように、まことに不審でしょうがないので 2.薫、真相を聞きただす---驚き呆れて、思いもかけなかったことなので、一言も暫くの間は 3.薫、匂宮と浮舟の関係を知る---「わたしは思いどおりに振る舞うこともできず、何事も目立ってしまう 4.薫、宇治の過去を追懐す--「宮の上が、おっしゃり始めた、人形と名付けた 5.薫、浮舟の母に手紙す---あの母君は、京で子を産む予定の娘のことによって 6.浮舟の母からの返書---たいそう厳重に慎まなくてもよい穢れなので、「大して穢れに触れて 7.常陸介、浮舟の死を悼む---あちらでは、常陸介が、やって来て立ったままで 8.浮舟四十九日忌の法事---四十九日の法事などもおさせになるにつけても、「いったいどういう 5 薫の物語 明石中宮の女宮たち 1.薫と小宰相の君の関係---后の宮が、御軽服の間は、やはり里下がりしていらっしゃるうちに 2.六条院の法華八講---蓮の花の盛りに、法華八講が催される。六条院の御ため 3.小宰相の君、氷を弄ぶ---無理して割って、それぞれの手に持っていた。頭の上に置いたり 4.薫と女二宮との夫婦仲---翌朝、起きなさった女宮の御器量が 5.薫、明石中宮に対面---その日は過ごして、翌朝に大宮に参上なさる 6.明石中宮、薫と小宰相の君の関係を聞く---姫宮は、あちらにお渡りあそばした 7.明石中宮、薫の三角関係を知る---「とても不思議な事を聞きました 6 薫の物語 薫、断腸の秋の思い 1.女一の宮から妹二の宮への手紙---その後、姫宮の御方から、二の宮にお便りがあったのだった 2.侍従、明石中宮に出仕す---悠長で、自制心が強くいらっしゃる人でさえ、このような方面には 3.匂宮、宮の君を浮舟によそえて思う---今年の春お亡くなりになった式部卿宮の御娘を 4.侍従、薫と匂宮を覗く---涼しくなったといって、后宮は、内裏に帰参なさろうと 5.薫、弁の御許らと和歌を詠み合う---東の渡殿に、開いている戸口に 6.薫、断腸の秋の思い---東の高欄に寄り掛かって、夕日の影るにつれて、花が咲き乱れている 7.薫と中将の御許、遊仙窟の問答---例によって、西の渡殿を、先日に真似て 8.薫、宮の君を訪ねる---宮の君は、こちらの西の対にお部屋を持っていた 9.薫、宇治の三姉妹の運命を思う---「世間並の扱いのようで、失礼ではないか」と   1 浮舟の物語 浮舟失踪後の人びとの動転  [1-1 宇治の浮舟失踪]  あちらでは、女房たちが、いらっしゃらないのを探して大騷ぎするが、その効がない。物語の姫君が、誰かに盗まれたような朝のようなので、詳し くは話し続けない。京から、先日の使者が帰れなくなってしまったので、気がかりに思って、再び使者をよこした。  「まだ、鶏が鳴く時刻に、出立させなさった」  と使者が言うと、どのように申し上げようと、乳母をはじめとして、あわてふためることこの上ない。推量しても見当がつかず、ただ大騷ぎし合って いるのを、あの事情を知っている者どうしは、ひどく物思いなさっていた様子を思い出すと、「身を投げなさったのか」と思い寄るのであった。  泣きながらこの手紙を開くと、  「とても気がかりなので、眠れませんでしたせいでしょうか、今夜は夢でさえゆっくりと見えません。悪夢にうなされうなされして、気分も普段と違っ て悪うございますよ。やはりとても恐ろしく、あちらにお移りになる日は近くなったが、その前後に、こちらにお迎え申しましょう。今日は雨が降りそう でございますので」  などとある。昨夜のお返事を開いて見て、右近はひどく泣く。  「そうであったか。心細いことを申し上げなさっていたのだ。わたしに、どうして少しもおしゃってくださらなかったのだろう。幼かった時から、少しも 分け隔て申し上げることもなく、塵ほども隠しだてすることなくやって来たのに、最期の別れ路の時に、わたしを後に残して、そのそぶりさえお見せ にならなかったのがつらいことだ」  と思うと、足摺りということをして泣く有様は、若い子供のようである。ひどくお悩みのご様子は、ずっと拝見して来たが、まったく、このように普通 の人と違って大それたこと、お思いつくとは見えなかった方のお気持ちを、「やはり、どうなさったことか」と分からず悲しい。  乳母は、かえって何も分からなくなって、ただ、「どうしよう。どうしよう」と言うだけであった。  [1-2 匂宮から宇治へ使者派遣]  宮にも、まことにいつもと違った様子であったお返事に、「どのように思っているのだろう。わたしを、そうはいっても愛している様子でいながら、浮 気な心だとばかり、深く疑っていたので、他へ身を隠したのであろうか」とお慌てになって、お使者がある。  居合わせた者たちが泣き騒いでいるところに来て、お手紙も差し上げられない。  「どうしたことか」  と下衆女に尋ねると、  「ご主人様が、今夜、急にお亡くなりになったので、何もかも分からなくいらっしゃいます。頼りになる方もいらっしゃらない時なので、お仕えなさっ ている方々は、ただ物に突き当たっておろおろなさっています」  と言う。事情を深く知らない男なので、詳しくは尋ねないで帰参した。  「こうこうでした」と申し上げさせたところ、夢のように思われて、  「まことに変だ。ひどく患っていたとも聞いてない。日頃、気分が悪いとばかりあったが、昨日の返事は変わったこともなくて、いつものよりも興趣 があったものを」  と、ご想像もおつきにならないので、  「時方、行って様子を見て、はっきりとしたことを尋ね出せ」  とおっしゃると、  「あの大将殿は、どのようなことか、お聞きになっていることがございましたのでしょう、宿直をする者が怠慢である、などと訓戒なさったと言って、 下人が退出するのさえ、注意して調べると言いますので、口実もなくて、時方が参ったのを、事が漏れたりしましたら、お気づきになることがござい ましょう。そうして、急に人のお亡くなりになった所は、言うまでもなく騒がしく、人目が多くございましょうから」と申し上げる。  「そうかといって、まことに気がかりなままでいられようか。やはり、何か適当に計らって、いつものように、事情を知っている侍従などに会って、ど うしたわけでこのように言うのか、と尋ねよ。下衆も間違ったことを言うものだ」  とおっしゃるので、お気の毒なご様子も恐れ多くて、夕方に行く。  [1-3 時方、宇治に到着]  身分の軽い者は、すぐに行き着いた。雨が少し降り止んだが、難儀な山道を身を簡略にして、下衆の恰好で来たところ、人が大勢立ち騒いで、  「今夜、このままご葬送申し上げるのです」  などと言うのを聞く気分も、驚き呆れて思われる。右近に案内を乞うたが、会うことはできない。  「ただ今は、何も分かりません。起き上がる気持ちもしません。それにしても、今夜を最後に、このようにお立ち寄りになるのでしょうが、お話しで きませんことが」  と言わせた。  「そうは言っても、このようにはっきり分かりませんでは、どうして帰参できましょう。せめてもうお一方にでも」  と切に言ったので、侍従が会ったのであった。  「まことに呆れたことです。ご自身も思いがけない様子でお亡くなりになったので、悲しいと言っても言い足りず、夢のようで、誰も彼もが途方に暮 れています旨を申し上げてくださいませ。少しでも気分が落ち着きましたら、日頃、物思いなさっていた様子や、先夜、ほんとうに申し訳なくお思い 申し上げていらした有様などを、お聞かせ申し上げましょう。この穢など、世間の人が忌む期間が過ぎてから、もう一度お立ち寄りくださいませ」  と言って、泣く様子はまことに大変である。  [1-4 乳母、悲嘆に暮れる]  内側でも泣く声ばかりがして、乳母であろう、  「わが姫君は、どこに行かれてしまったのか。お帰りください。むなしい亡骸をさえ拝見しないのが、効なく悲しいことよ。毎日拝見しても物足りなく お思い申し、早く立派なご様子を拝見しようと、朝夕にお頼み申し上げていたので、寿命も延びました。お見捨てになって、このように行く方もお知 らせにならないこと。  鬼神も、わが姫君をお取り申すことはできまい。皆がたいそう惜しむ人を、帝釈天もお返しになるという。姫君をお取り申し上げたのは、人であれ 鬼であれ、お返し申し上げてください。御亡骸を拝見したい」  と言い続けるが、合点の行かないことがあるのを、変だと思って、  「やはり、おっしゃってください。もしや、誰かがお隠し申し上げなさったのか。確かな事をお聞きなさろうとして、ご自身の代わりに出立させなさっ たお使いです。今は、何にしても効のないことですが、後にお聞き合わせになることがございましょうが、違ったことがございましたら、聞いて参った お使いの落度になるでしょう。  また、そのようなことはあるまいとご信頼あそばして、『あなた方にお会いせよ』と仰せになったお気持ちを、もったいないとはお思いになりません か。女の道に迷いなさることは、異国の朝廷にも、古い幾つもの例があったが、またこのようなことは、この世にない、と拝見しています」  と言うのでr、「おっしゃるとおり、まことに恐れ多いお使いだ。隠そうとしても、こうして珍しい事件の様子は、自然とお耳に入ろう」と思って、  「どうして、少しでも、誰かがお隠し申し上げなさったのだろう、と思い寄るようなことがあったら、こんなにも皆が泣き騒ぐことがございましょうか。 日頃、とてもひどく物を思いつめているようでしたので、あの殿が、厄介なことに、ちらっとおっしゃってくることなどもありました。  お母上でいらっしゃる方も、このように大騷ぎする乳母なども、初めから知り合った方のほうにお引っ越しなさろう、と準備し出して、宮とのご関係 を、誰にも知られない状態にばかり、恐れ多くもったいないとお思い申し上げていらっしゃいましたので、お気持ちも乱れたのでしょう。驚き呆れます が、ご自分から身をお亡くしになったようなので、このように心の迷いに、愚痴っぽく言い続けてしまうのでしょう」  と、そうはいっても、ありのままにではなく暗示する。合点が行かず思われて、  「それでは、落ち着いてから参りましょう。立ちながら話しますのも、まことに簡略なようです。いずれ、宮ご自身でもお出でになりましょう」  と言うと、  「まあ、恐れ多い。今さら、人がお知り申すのも、亡きお方のためには、かえって名誉なご運勢と見えることですが、お隠しになっていた事なの で、またお漏らしあそばさないで、終わりなさることが、お気持ちに従うことでしょう」  こちらでは、このように異常な形でお亡くなりになった旨を、人に聞かせまいと、いろいろと紛らわしているが、「自然と事件の子細も分かってしま うのでは」と思うと、このように勧めて帰らせた。  [1-5 浮舟の母、宇治に到着]  雨がひどく降ったのに隠れて、母君もお越しになった。まったく何とも言いようなく、  「目の前で亡くなった悲しさは、どんなに悲しくあっても、世の中の常で、いくらでもあることだ。これは、いったいどうしたことか」  とうろうろする。このような込み入った事件があって、ひどく物思いなさっていたとは知らないので、身を投げなさったとは思いも寄らず、  「鬼が喰ったのか。狐のような魔物が連れさらったのか。まことに昔物語の妙な事件の例にか、そのような事も言っていた」  と思い出す。  「それとも、あの恐ろしいとお思い申し上げる方の所で、意地悪な乳母のような者が、このようにお迎えになる予定と聞いて、目障りに思って、誘 拐を企んだ人でもあろうか」  と、下衆などを疑って、  「新参者で、気心の知れない者はいないか」  と尋ねるが、  「とても世間離れした所だといって、住み馴れない新参者は、こちらではちょっとしたこともできず、又すぐに参上しましょう、と言っては、皆、その 引っ越しの準備の物などを持っては、京に帰ってしまいました」  と言って、元からいる女房でさえ、半分はいなくなって、まことに人数少ないときであった。  [1-6 侍従ら浮舟の葬儀を営む]  侍従などは、日頃のご様子を思い出して、「死んでしまいたい」などと、泣き入っていらした時々の様子、書き置きなさった手紙を見ると、「亡くなっ た後形に」と書き散らしていらっしゃったものが、硯の下にあったのを見つけて、川の方角を見やりながら、ごうごうと轟いて流れている川の音を聞く につけても、気味悪く悲しいと思いながら、  「こうして、お亡くなりになった方を、あれこれと噂し合って、どなたもどなたも、どのようなふうにお亡くなりになったのか、とお疑いになるのも、お 気の毒なこと」  と相談し合って、  「秘密の事とは言っても、ご自身から引き起こした事ではない。母親の身として、後に聞き合わせなさったとしても、別に恥ずかしい相手ではない のを、ありのままに申し上げて、このようにひどく気がかりなことまで加わって、あれこれ思い迷っていらっしゃる様子は、少しは合点の行くようにし て上げよう。お亡くなりになった方としても、亡骸を安置し弔うのが、世間一般であるが、世間の例と変わった様子で幾日もたったら、まったく隠しお おせないだろう。やはり、申し上げて、今は世間の噂だけでも取り繕いましょう」  と相談し合って、こっそりと生前の状態を申し上げると、言う人も正気を失って、言葉も続かず、聞く気持ちも乱れて、「それでは、このとても荒々し い川に、身を投じて亡くなったのだ」と思うと、ますます自分も落ち込んでしまいそうな気がして、  「流れて行かれた方角を探して、せめて亡骸だけでもちゃんと葬儀したい」  とおっしゃるが、  「全然何の効もありません。行く方も知れない大海原にいらっしゃったでしょう。それなのに、人が言い伝えることは、とても聞きにくい」  と申し上げるので、あれやこれやと思うと、胸がこみ上げてくる気がして、どうにもこうにもなすすべもなく思われなさるが、この女房たち二人で、 車を寄せさせて、ご座所や、身近にお使いになったご調度類など、みなそのままそっくり脱いで置かれた御衾などのようなものを詰めこんで、乳母 子の大徳や、その叔父の阿闍梨、その弟子の親しい者など、昔から知っていた老法師など、御忌中に籠もる者だけで、人が亡くなった時の例にま ねて、出立させたのを、乳母や、母君は、まことにひどく不吉だと倒れ転ぶ。  [1-7 侍従ら真相を隠す]  大夫や、内舎人など、脅迫申し上げた者どもが参って、  「ご葬送の事は、殿に事情を申し上げさせなさって、日程を決められて、厳かにお勤め申し上げるのがよいでしょう」  などと言ったが、  「特別に、今夜のうちに行いたいのです。たいそうこっそりにと思っているところがありますので」  と言って、この車を、向かいの山の前の野原に行かせて、人も近くに寄せず、この事情を知っている法師たちだけで火葬させる。まことにあっけな くて、煙は消えた。田舎者どもは、かえって、このようなことを仰々しくして、言忌などを深くするものだったので、  「まことに変なこと。きまりの作法などが、あることもなさらずに、いかにも下衆のように、あっけなくなさったことよ」  と非難すると、  「兄弟などのいらっしゃる方は、わざとこのように、京の方はなさる」  などと、いろいろと感心しないことを言うのであった。  「このような者どもが言ったり思ったりするだけでも憚れるのに、それ以上に、噂が漏れて広がる世の中では、大将殿あたりで、亡骸もなくお亡く なりになった、とお聞きになったら、きっとお疑いになることがあろうが、宮もまた、親しいお間柄であるから、そのような人がいらっしゃるかいらっし ゃらないかは、しばらくの間は隠していると疑っても、いつかは明らかになるであろう。  また一方、きっと宮だけをお疑い申し上げることはなさらないだろう。どのような人が連れて行って隠したのだろうなどと、お考え寄りになるだろう。 生きていらした間のご運勢は、とても高くいらした方が、なるほど亡くなって後は、たいへんな疑いをお受けになるのだろうか」  と思うと、この家にいる下人どもにも、今朝の慌ただしかった騒動に、「その様子を見たり聞いたりした者には口止めをし、事情を知らない者には 聞かせまい」などとごまかしたのであった。  「年月が経ったら、どちらにも、静かに、生前のご様子を申し上げよう。ただ今は、悲しみも覚めるようなことを、ふと人伝てにお聞きなさると、やは りとてもお気の毒なことになるであろう」  と、この人ら二人は、深く良心が咎めるので、隠すのであった。   2 浮舟の物語 浮舟失踪と薫、匂宮  [2-1 薫、石山寺で浮舟失踪の報に接す]  大将殿は、母入道の宮がお悩みになったので、石山寺に参籠なさって、おとりこみの最中であった。そうして、ますますあちらを気がかりにお思い になったが、はっきりと、「こうだ」と言う人がいなかったので、このような大変な事件にも、まっさきにご使者がないのを、世間体もつらいと思うが、 御荘園の者が参上して、「これこれしかじかです」とご報告申し上げさせたので、驚き呆れた気がなさって、ご使者が、その翌日のまだ早朝に参上 した。  「ご一大事は、聞くなりすぐに自分が駆けつけるべきところ、このようにご病気でいらっしゃる御事のために、身を清めて、このような所に日数を決 めて参籠しておりますので。昨夜の事は、どうして、こちらに連絡して、日を延期してでもそういうことはするべきものを、たいそう簡略な様子で、急 いでなさったのか。どのようにしたところで、同じく言っても始まらないことだが、最後の葬儀さえ、山賤の非難を受けるのが、わたしにとってもつら い」  などと、あの信任厚い大蔵大輔を使者としておっしゃった。お使いが来たことにつけても、ますます悲しいので、何とも申し上げようのないことなの で、ただ涙にくれているだけを口実にして、はっきりともお答え申し上げずに終わった。  [2-2 薫の後悔]  殿は、やはり、実にあっけなく悲しいとお聞きなるにも、  「何という嫌な土地であろう。鬼などが住んでいるのだろうか。どうして、今までそのような所に置いておいたのだろう。思いがけない方面からの過 ちがあったようなのも、こうして放っておいたので、気楽さから、宮も言い寄りなさったのだろう」  と思うにつけても、自分の迂闊で世間離れした心ばかりが悔やまれて、お胸が痛く思われなさる。お患いあそばしているところで、このような事件 でご困惑なさるのも不都合なことなので、京にお帰りになった。  宮の御方にもお渡りにならず、  「大したことではございませんが、不吉な事を身近に聞きましたので、気持ちが静まらない間は縁起でもないので」  などと申し上げなさって、どこまでもはかなく無常の世をお嘆きになる。生前の容姿、まことに魅力的で、かわいらしかった雰囲気などが、たいそう 恋しく悲しいので、  「現世には、どうしてこのようにも夢中にならず、のんびりと過ごしていたのだろう。今では、まったく気持ちを静めるすべもないままに、後悔される ことが数知れない。このような方面の事につけて、ひどく物思いをする運命なのだ。世人と異なって道心を身上とした人生なのに、思いの外に、こ のように普通の人のように生き永らえているのを、仏などが憎いと御覧になるのではなかろうか。人に道心を起こさせようとして、仏がなさる方便 は、慈悲をも隠して、このようになさるのであろうか」  と思い続けなさりながら、勤行ばかりをなさる。  [2-3 匂宮悲しみに籠もる]  あの宮はまた宮で、彼以上に、二、三日は何も考えることができず、正気もない状態で、「どのような御物の怪であろうか」などと騒ぐうち、だんだ んと涙も流し尽くして、お気持ちが静まって、生前のご様子が恋しく悲しく思い出されなさるのであった。周囲の人には、ただご病気が篤い様子ば かりに見せて、「このような無性に涙顔でいる様子を知らせまい」と、気強く隠そうとお思いになったが、自然とはっきりしていたので、  「どのような事にこんなにご困惑なさり、お命も危ないまでに嘆き沈んでいらっしゃるのだろう」  と、言う人もいたので、あちらの殿におかれても、とてもよくこのご様子をお聞きになると、「そうであったか。やはり、単なる文通だけではなかった のだ。御覧になっては、きっとそのように熱中なさるはずの女である。もし生きていたら、他人の関係以上に、自分にとって馬鹿らしい事が出て来る ところだった」とお思いになると、恋い焦がれる気持ちも少しは冷める気がなさった。  [2-4 薫、匂宮を訪問]  宮のお見舞いに、毎日参上なさらない方はなく、世間の騷ぎとなっているころ、「大した身分でもない女のために閉じ籠もって、参上しないのも変 だろう」とお思いになって参上なさる。  そのころ、式部卿宮と申し上げた方もお亡くなりになったので、御叔父の服喪で薄鈍でいるのも、心中しみじみと思いよそえられて、ふさわしく見 える。少し顔が痩せて、ますます優美さがまさっていらっしゃる。お見舞い客が退出して、ひっそりとした夕暮である。  宮は、臥せって沈んでばかりいられないお気持ちなので、疎遠な客にはお会いにならないが、御簾の内側にもいつもお入りになる方には、お会 いなさらないことできもない。顔をお見せになるのも何となく気がひける。お会いなさるにつけても、ますます涙が止めがたいのをお思いになるが、 冷静になって、  「大した病気ではございませんが、誰もが、用心しなければならない病状だ、とばかり言うので、帝におかれても母宮におかれても、御心配なさる のがとてもつらくて、なるほど、世の中の無常を、心細く思っております」  とおっしゃって、押し拭ってお隠しになろうとする涙が、そのまま防ぎようもなく流れ落ちたので、たいそう体裁が悪いが、「必ずしもどうして気がつ こうか。ただ女々しく心弱い者のように見るだろう」とお思いになるが、「そうであったのか。ただこの事だけをお悲しみになっていたのだ。いつから 始まったのだろうか。自分を、どんなにも滑稽に物笑いなさるお気持ちで、この幾月もお思い続けていらしたのだろう」  と思うと、この君は、悲しみはお忘れになったが、  「何とまあ、薄情な方であろうか。物を切に思う時は、ほんとこのような事でない時でさえ、空を飛ぶ鳥が鳴き渡って行くのにつけても、涙が催され て悲しいのだ。わたしがこのように何となく心弱くなっているのにつけても、もし真相を知っても、それほど人の悲しみを分からない人ではない。世の 中の無常を身にしみて思っている人は冷淡でいられることよ」  と、羨ましくも立派だともお思いなさる一方で、女のゆかりと思うとなつかしい。この人に向かい合っている様子をご想像になると、「形見ではない か」と、じっと見つめていらっしゃる。  [2-5 薫、匂宮と語り合う]  だんだんと世間の話を申し上げなさると、「とても隠しておくこともあるまい」とお思いになって、  「昔から、胸のうちに秘めて少しも申し上げなかったことを残しております間は、ひどくうっとうしくばかり存じられましたが、今は、かえって身分も高 くなりました。わたくし以上に、お暇もないご様子で、のんびりとしていらっしゃる時もございませんので、宿直などにも、特に用事がなくては伺候す ることもできず、何となく過ごしておりました。  昔、御覧になった山里に、あっけなく亡くなった方の、同じ姉妹に当たる人が、意外な所に住んでいると聞きつけまして、時々逢いもしようか、と存 じておりましたが、不都合にも世間の人の非難もきっとあるような時でしたので、あの山里に置いておきましたところ、あまり行って逢うこともなく、 また一方、女も、わたくし一人を頼りにする気持ちも特になかったのであろうか、と拝見しましたが、れっきとした重々しい扱いをいたす夫人ならとも かく、世話するのには、格別の落度もございませんのに、気楽でかわいらしいと存じておりました女が、まことにあっけなく亡くなってしまいました。 すべて世の中の有様を思い続けますと、悲しいことだ。お聞き及びのこともございましょう」  と言って、今初めてお泣きになる。  この方も、「まこと涙顔はお見せ申すまい。馬鹿らしい」と思ったが、いったん流れ出しては止めがたい。態度がやや取り乱しているようなので、 「いつもと違っている、気の毒だ」とお思いになるが、平静を装って、  「まことにお気の毒なことを。昨日ちらっと聞きました。どのようにお悔やみ申し上げようかと存じながら、特に世間にお知らせなさらないことと、聞 きましたので」  と、さりげなくおっしゃるが、とても我慢できないので、言葉少なくいらっしゃる。  「適当なお方としてお目にかけたい、と存じておりました女でした。自然とそのようなこともございましたでしょうか、お邸にも出入りする縁故もござ いましたので」  などと、少しずつ当てこすって、  「ご気分がすぐれないうちは、つまらない世間話をお聞きになって、驚きなさるのも、つまらないことです。どうぞ大事になさってください」  などと、申し上げ置いて、お帰りになった。  [2-6 人は非情の者に非ず]  「ひどくご執心であったな。まことにあっけなかったが、やはりよい運勢の女であった。今上の帝や、后が、あれほど大切になさっていらっしゃる親 王で、顔かたちをはじめとして、今の世の中には他にいらっしゃらないようだ。寵愛なさる夫人でも、並一通りでなく、それぞれにつけて、この上ない 方をさしおいて、この女にお気持ちを尽くし、世間の人が大騒ぎして、修法、読経、祈祷、祓いと、それぞれ専門に騒ぐのは、この女に執着したため の、ご病気であったのだ。  自分も、これほどの身分で、今上の帝の内親王をいただきながら、この女がいじらしく思えたのは、宮に負けていようか。それ以上に、今は亡き 人かと思うと、心の静めようがない。とはいえ、愚かしいことだ。そうはすまい」  と我慢するが、いろいろと思い乱れて、  「人は木や石ではないので、みな感情をもっている」  と、口ずさみなさって臥せっていらっしゃった。  後の葬送なども、まことに簡略にしてしまったのを、「宮におかれてもどのようにお聞きになろうか」と、お気の毒で張り合いがないので、「母が普 通の身分で、兄弟のある人はなどと、そのような人は言うことがあるというのを思って、簡略にするのであったろう」などと、気にくわなくお思いにな る。  気がかりさも限りがないので、その時の実際の様子を自分でも聞きたくお思いになるが、「長い忌籠もりなさるのも不都合である。行くには行って もすぐ帰るのは心苦しい」などと、ご思案なさる。   3 匂宮の物語 匂宮、侍従を迎えて語り合う  [3-1 四月、薫と匂宮、和歌を贈答]  月が変わって、「今日が引き取る日であったのに」と思い出しなさった夕暮、まことにもの悲しい。御前近くの橘の香がやさしい感じのところに、ほ ととぎすが二声ほど鳴いて飛んで行く。「亡くなった人の所に行くなら」と独り言をおっしゃっても物足りないので、北の宮邸に、そこにお渡りになる 日であったので、橘を折らせて申し上げなさる。  「忍び音にほととぎすが鳴いていますが、あなた様も泣いていらっしゃいましょうか   いくら泣いても効のない方にお心寄せならば」  宮は、女君のご様子がとてもよく似ているのを、しみじみとお思いになって、お二方で物思いに耽っていらっしゃるところであった。「意味のありそ うな手紙だ」と御覧になって、  「橘が薫っているところは、ほととぎすよ   気をつけて鳴くものですよ  迷惑なことを」  とお書きになる。  女君は、この事件の経緯は、みなご存知なのであった。「しみじみと言いようもないほどあっけなかった、あれこれにつけて感慨深い中で、自分一 人が物思いを知らないので、今まで生き永らえていたのであろうか。それもいつまで続くやら」と心細くお思いになる。宮も、隠すことのできないもの から、分け隔てなさるのもとてもお気の毒なので、生前の様子などを、少し取り繕いながらお話し申し上げなさる。  「隠していらっしゃったのがつらかった」  などと、泣いたり笑ったりしながら申し上げなさるにつけても、他の人よりは親しみを感じ胸を打つ。大げさに格式ばって、ご病気の件でも、大騒ぎ をなさる所では、お見舞い客が多くて、父大臣や、兄の公達がひっきりなしなのも、とてもうるさいが、ここはたいそう気楽で、慕わしい感じにお思い なさるのであった。  [3-2 匂宮、右近を迎えに時方派遣]  まことに夢のようにばかり、やはり、「どうして、とても急なことであったのか」とばかり気が晴れないので、いつもの人びとを召して、右近を迎えに やる。母君も、まったくこの川の音や感じを聞くと、自分もころがり込んでしまいそうで、悲しく嫌なことが休まる間もないので、とても侘しくてお帰り になったのであった。  念仏の僧どもを頼りとする人として、たいそうひっそりとしているところにやって来たので、厳重に、急に警戒していた宿直人どもも、見咎めない。 「皮肉にも、最期の折にお入れ申し上げることができずに終わってしまったことよ」と、思い出すのもおいたわしい。  「とんでもないことをご執着なさったことよ」と、見苦しく拝見したが、こちらに来ては、お越しになった夜々の有様や、お抱かれなさって、舟にお乗 りになった感じが、上品でかわいらしかったことなどを思い出すと、気丈な人などもなくしみじみとなる。右近が会って、ひどく泣くのも道理である。  「このようにおっしゃるので、お使いに来ました」  と言うと、  「今さら、皆が変だと言い思うのも気がひけまして、参上しても、はきはきとご納得の行くようには、何か申し上げられそうな気がしません。このご 忌中が終わって、ちょっとどこそこにと人に言っても、少しふさわしいころになってから、思いの他に生きていましたら、少し気持ちが静まったような 時に、ご命令がなくても参上して、おっしゃるようにとても夢のようだった事柄を、お話し申し上げとう存じます」  と言って、今日は動きそうにもない。  [3-3 時方、侍従と語る]  大夫も泣いて、  「まったく、お二方の事は、詳しくは存じ上げません。物の道理もわきまえていませんが、無類のご寵愛を拝見しましたので、あなた方を、どうして 急いでお近づき申し上げよう。いずれはお仕えなさるはずの方だ、と存じていましたが、何とも言いようもなく悲しいお事の後は、わたし個人として も、かえって悲しみの深さがまさりまして」  と懇切に言う。  「わざわざお車などをお考えめぐらされて、差し向けなさったのを、空っぽで帰るのは、まことにお気の毒です。もうお一方でも参上なさい」  と言うので、侍従の君を呼び出して、  「それでは、参上なさい」  と言うと、  「あなた以上に何を申し上げることができましょう。それにしても、やはり、このご忌中の間にはどうして。お厭いあそばさないのでしょうか」  と言うと、  「ご病気で大騒ぎをして、いろいろなお慎みがございますようですが、忌明けをお待ち切れになれないようなご様子です。また、このように深いご 宿縁では、忌籠もりあそばすのでいらっしゃいましょう。忌明けまでの日も幾日でもない。やはりお一方参上なさい」  と責めるので、侍従が、以前のご様子もとても恋しく思い出し申し上げるので、「いつの世にかお目にかかることができようか、この機会に」と思っ て参上するのであった。  [3-4 侍従、京の匂宮邸へ]  黒い衣装類を着て、化粧をした容貌もとても美しそうである。裳は、今後は自分より目上の人はいないとうっかりして、色も染め変えなかったの で、薄い紫色のを持たせて参上する。  「生きていらっしゃったら、この道を人目を忍んでお出になるはずだったのに。人知れずお心寄せ申し上げていたのに」などと思うにつけ悲しい。道 中泣きながらやって来た。  宮は、この人が参った、とお耳にあそばすにつけてもお胸が迫る。女君には、あまりに憚れるので、申し上げなさらない。寝殿にお出でになって、 渡殿に降ろさせなさった。生前の様子などを詳しくお尋ねあそばすと、日頃お嘆きになっていた様子や、その夜にお泣きになった様子を、  「不思議なまでに言葉少なく、ぼんやりとばかりしていらっしゃって、大変だとお思いになることも、他人にお話しになることはめったになく、遠慮ば かりなさったせいでしょうか、言い残しなさることもございません。夢にも、このような心強いことをお覚悟だったとは、存じませんでした」  などと、詳しく申し上げると、ひとしお実に悲しく思われて、「前世からの因縁で、病死などすることなどよりも、どんなに覚悟なさって、そのような 川の中に溺死したのだろう」とお思いやりなさると、「その場を見つけてお止めできたら」と、煮えかえる気持ちがなさるが、どうしようもない。  「お手紙をお焼き捨てになったことなどに、どうして不審に思わなかったのでございましょう」  などと、一晩中お聞きなさるので、お話し申し上げて夜が明ける。あの巻数にお書きつけになった、母君の返事などを申し上げる。  [3-5 侍従、宇治へ帰る]  何程の者ともお考えでなかった侍従も、親しくしみじみと思われなさるので、  「わたしの側にいなさい。あちらにも縁がないではない」  とおっしゃると、  「そのようにして、お仕えしますにつけても、何となく悲しく存じられますので、もう暫くこの御忌みなどを済ませましてから」  と申し上げる。「再び参るように」などと、この人までも、別れがたくお思いになる。  早朝に帰る時に、あの方の御料にと思って準備なさっていた櫛の箱一具、衣箱一具を、贈物にお遣わしになる。いろいろとお整えさせになったこ とは多かったが、仰々しくなってしまいそうなので、ただ、この人に与えるのに相応な程度であった。  「何も考えなく参上して、このようなことがあったのを、女房はどのように見るだろうか。何となく厄介なことだわ」  と困るが、どうして辞退申し上げられよう。  右近と二人で、こっそりと見ながら、所在ないままに、精巧で今風に仕立ててあるのを見ても、ひどく泣く。装束もたいそう立派に仕立て上げられ たものばかりなので、  「このような服喪期間中なので、これをどう隠したものか」  などと、困るのであった。   4 薫の物語 薫、浮舟の法事を営む  [4-1 薫、宇治を訪問]  大将殿も、同じように、まことに不審でしょうがないので、思い余りなさってお出でになった。道中から、昔の事を一つ一つ思い出して、  「どのような縁で、この父親王のお側に来初めたのだろう。このように思いもかけなかった人の最期まで世話をし、この一族のことにつけては、物 思いばかりすることよ。たいそう尊くおいでになった所で、仏のお導きによって、来世ばかりを祈願していたのに、心汚い末路の思惑違いによって、 世の無常を思い知らせるようだ」  と思われなさる。右近を召し出して、  「生前の様子もはっきりとは聞かず、やはり、尽きせず呆れて、あっけないので、忌中期間も少なくなった。過ぎてから、と思っていたが、抑えきれ ずにやって来たのです。どのような気持ちで、お亡くなりになったのですか」  とお尋ねなさると、「尼君なども、経緯は知ってしまったので、結局はお聞き合わせになるであろうから、なまじ隠しだてしても、話がくいちがって 聞かれるのも、具合の悪いことになろう。変な話には、嘘を考えて何度も言ってきたが、このような真面目な態度のお前に対座申し上げては、前も って、ああ言おう、こう言おうと、用意していた言葉も忘れ、困ること」と思われたので、生前の様子のあれこれを申し上げた。  [4-2 薫、真相を聞きただす]  驚き呆れて、思いもかけなかったことなので、一言も暫くの間はおっしゃれない。  「難とも信じがたいと思われることだ。普通誰でもが思ったり言ったりすることも、この上なく言葉少なく、おっとりしていた人が、どうしてそのような 恐ろしいことを思い立ったのだろう。どのような様子のために、この人びとは、取り繕って言うのであろうか」  とお気持ちもいっそう困惑なさるが、「宮もお嘆きになっていた様子、まことにはっきりしていたし、事の成り行きも、そんなそ知らぬふりを装った態 度は、自然と分かってしまうものだから、このようにお出でになったにつけても、悲しくてやりきれないことを、身分の上下の人が皆集まって泣き騒 いでいるのだから」と、お聞きになると、  「お供をしていなくなった人はいないか。さらに、その時の状況をはっきり言いなさい。わたしを薄情だと思ってお裏切になることは、決してないと 思う。どのような、急に、わけの分からないことがあってか、そのようなことをなさったのだろう。わたしは信じることができない」  とおっしゃるので、「一段として、心配していたとおりであったよ」と厄介なことに思って、  「自然とお耳に入っておりましょう。初めから不如意な境遇でお育ちになりました方で、人里離れたお住まいで暮らした後は、いつとなく物思いば かりをなさっていたようでしたが、たまにこのようにお越しになりますのを、お待ち申し上げなさることで、もともとのお身の上の不幸までをお慰めに なりながら、のんびりとした状態で、時々お逢い申し上げなされるように、早く早くとばかり、言葉に出してはおっしゃいませんが、ずっとお思いでい らしたらしいのを、そのご念願が叶うように承ったことがございましたのに、こうしてお仕えする者どもも、嬉しいことと存じて準備致し、あの筑波山の 母君も、やっとのことで念願が叶ったような様子で、お移りになることをご準備なさっていたのに、納得できないお手紙がございましたので、ここの 宿直などに仕える者どもも、女房たちがふしだらなようだ、などと、厳しくご命令なさったことなどを申して、物の情理をわきまえない荒々しいのは田 舎者どもの、間違いでもあったかのように取り扱い申すことがございましたが、その後、長らくお手紙などもございませんでしたので、情けない身の 上だとばかり、幼かった時から思い知っていたが、何とか一人前にしようとばかり、いろいろとお世話なさっていた母君が、なまじその事によって、 世間の物笑いになったら、どんなに嘆くだろう、などと悪いほうに考えて、いつも嘆いていらっしゃいました。  その方面より他に、何があろうかと、考えめぐらして見ますに、思い当たることはございません。鬼などがお隠し申したとしても、少しは残るものが ございますと聞いておりますものを」  と言って、泣く様子もたいそうなので、「どのようなことでか」とお疑いになっていた気持ちも消えて、お涙が抑えがたい。  [4-3 薫、匂宮と浮舟の関係を知る]  「わたしは思いどおりに振る舞うこともできず、何事も目立ってしまう身分であるから、気がかりだと思う時にも、いずれ近くに迎えて、何の不満足 もなく、世間体もよく持てなして、将来末長く添い遂げよう、とはやる心を抑えながら過ごして来たが、冷淡だとおとりになったのは、かえって他に分 ける心がおありだったのだろう、と思われます。  今さら、こんなことは言うまいと思うが、他に人が聞いているのならともかくだが。宮のお事ですよ。いつから始まったのでしょうか。そのようなこと が原因でか、まことに不都合にも、女の心を迷わしなさる宮だから、いつもお逢いできない嘆きで、身をなきものにされたのか、と思う。ぜひ、言え。 わたしには、少しも隠すな」  とおっしゃると、「確かな事をお聞きになっているのだ」と、とても困ってしまって、  「まことに情けないことをお聞きになったようでございます。右近めもお側に伺候していません折はございませんでしたものを」  と物思いにふけりためらって、  「自然とお聞き及びになったことでございましょう。この宮の上のお所に、こっそりとお行きになったとき、呆れたことに思いがけない間に、お入りに なって来ましたが、たいそう手厳しいことを申し上げまして、お出になりました。その事に恐がりなさって、あの見苦しうございました隠れ家にお移り になったのです。  その後は、噂としてでも知られまい、とお思いになって終わったのを、どうしてお耳にあそばしたのでしょうか。ちょうど、この二月頃から、お便りを 頂戴するようになりましたのでしょう。お手紙は、とても頻繁にございましたようですが、御覧になることもございませんでした。まことに恐れ多く、失 礼な事になりましょうと、右近めなどが申し上げましたので、一度か二度はお返事申し上げましたでしょうか。それ以外の事は存じません」  と申し上げる。  「このように言うに決まっていることなのだ。無理に問い質すのも気の毒だから」と、つくづくと物思いに耽りながら、  「宮をめったにないいとしい方と思い申し上げても、自分のほうをやはりいい加減には思っていなかったために、どうしたらよいか分からなくなっ て、頼りない考えで、この川に近いのを手だてにして、思いついたのであろう。自分がここに放って置かなかったら、たいそうつらい生活であっても、 どうして、必ず深い谷を探して身投げをしなかっただろうに」  と、「ひどく嫌な川の名の縁であるよ」と、この川が疎ましく思われなさること、甚だしい。長年、恋しいと思われなさっていた所で、荒々しい山路を 行き来したのも、今では、また情けなくて、この里の名を聞くのさえ耐えがたい気がなさる。  [4-4 薫、宇治の過去を追懐す]  「宮の上が、おっしゃり始めた、人形と名付けたのまでが不吉で、ただ、自分の過失によって亡くした人である」と考え続けて行くと、「母親がやは り身分が軽いので、葬送もとても風変わりに、簡略にしたのであろう」と合点が行かず思っていたが、詳しくお聞きになると、  「どのように思っているだろう。あの程度の身分の子としては、まことに結構であった人を、秘密の事は必ずしも知らないで、自分との縁でどのよう なことがあったのであろう、と思っているであろう」  などと、いろいろとお気の毒にお思いになる。穢れということはないであろうが、お供の人の目もあるので、お上がりにならず、お車の榻を召して、 妻戸の前で座っていたのも、見苦しいので、たいそう茂った樹の下で、苔をお敷物として、暫くお座りになった。「今ではここに来て見ることさえつら いことであろう」とばかり、まわりを御覧になって、  「わたしもまた、嫌なこの古里を離れて、荒れてしまったら   誰がここの宿の事を思い出すであろうか」  阿闍梨は、今では律師になっていた。呼び寄せて、この法事の事をお命じ置きになる。念仏僧の数を増やしたりなどおさせになる。「罪障のとても 深いことだ」とお思いになると、その軽くなることをするように、七日七日ごとにお経や仏を供養するようになど、こまごまとお命じになって、たいそう 暗くなったのでお帰りになるのも、「もしも生きていたら、今夜のうちに帰ろうか」とばかりである。  尼君にも挨拶をおさせになったが、  「とてもとても不吉な身だとばかり存じられ沈み込んで、ますます何も考えられず、茫然として、臥せっております」  と申し上げて、出て来ないので、無理してはお立ち寄りにならない。  道中、早くお迎えしなかったことが悔しく、川の音が聞こえる間は、心も落ち着きなさらず、「亡骸さえも捜さず、情けないことに終わってしまったな あ。どのような状態で、どこの川底に貝殻とともにいるのであろうか」などと、やるせなくお思いになる。  [4-5 薫、浮舟の母に手紙す]  あの母君は、京で子を産む予定の娘のことによって、穢れを騒ぐので、いつものわが家にも行かず、心ならずも旅寝ばかり続けて、思い慰む時も ないので、「また、この娘もどうなるのだろうか」と心配するが、無事に出産したのであった。穢れているので、立ち寄ることもできず、残りの家族の ことも考えられず、茫然として過ごしていると、大将殿からお使いがこっそりと来た。何も考えられない気持ちにも、たいそう嬉しく感動した。  「あまりの出来事に、さっそくお見舞い申そうと存じてましたが、気持ちも落ち着かず、目も涙に暮れた心地がして、それ以上にどんなにか心が闇 に暮れていらっしゃるだろうかと、暫く待っていましたうちに、あっという間に幾日もたってしまったこと。世の中の無常も、ますます呑気に構えていら れない気がしますが、案外に生き永らえましたら、亡くなった方の縁者として、きっと何かの時には声をかけてください」  などと、こまごまとお書きになって、お使いには、あの大蔵大輔を差し向けなさった。  「悠長に万事を構えて、幾年もたってしまったので、必ずしも誠意があるようには御覧にならなかったでしょう。けれども、今から後は、何事につけ ても、必ずお忘れ申し上げまい。また、そのように内々にお思いおきください。幼いお子様もいると聞いていますが、朝廷にお仕えなさるにつけて も、必ず力添えしましょう」  などと、口頭でもおっしゃった。  [4-6 浮舟の母からの返書]  たいそう厳重に慎まなくてもよい穢れなので、「大して穢れに触れていません」などと言って、強いて招じ入れた。お返事は、泣きながら書く。  「大変な悲しみにも死ぬことができません命を、情けなく存じ嘆いておりますが、このような仰せ言を拝見するためだったのでしょうか、と思いま す。  長年、心細い様子を拝見しながら、それは一人前でない身のつたなさのせいであると存じましたが、恐れ多いお言葉を、将来末長くご信頼申し 上げておりましたが、何とも言いようのない事になってしまって、里の名の縁もまことに情けなく悲しうございます。  いろいろと嬉しい仰せ言を戴き、寿命も延びまして、もう暫く長生きしましたら、やはり、お頼り申し上げますこと、と存じますにつけても、目の前が 涙に暮れまして、何事も申し上げ切れません」  などと書いた。お使いに、普通の禄では見苦しいときである。不満足な気もするにちがいないので、あの君に差し上げようと用意して持っていた、 立派な斑犀の帯や、太刀の素晴らしいのなどを、袋に入れて、車に乗る時に、  「これは故人のお志です」  と言って、贈らせた。  殿に御覧に入れると、  「今さらしなくてもよいことをしたものだな」  とおっしゃる。口上には、  「ご自身がお会いくださって、ひどく泣きながらいろいろなことをおっしゃって、幼い子のことまでご心配になったのが、まこともったいなくて、また一 人前でもない身分の者にとっては、かえってまことに恥ずかしく、誰にもどのような関係でなどとは知らせませんで、不出来な子供たちをも皆参上さ せまして、お仕えさせましょう、と言っておりました」  と申し上げる。  「なるほど、見栄えのしない親戚付き合いのようだが、帝にも、その程度の身分の人の娘を差し上げなかったことがあろうか。それに、前世からの 因縁で、寵愛なさるのを、人が非難することであろうか。臣下では、また、卑しい女や、いったん結婚した女などをもっている例は多かった。  あの介の娘であったと、人が取り沙汰しても、自分の取り扱いが、そのことで汚点とされるような形で始まったのならともかく、一人の子を亡くして 悲しんでいる親の気持ちを、やはり娘の縁で面目を施すことができた、と分かる程度に、配慮は必ずしてやろう」とお思いになる。  [4-7 常陸介、浮舟の死を悼む]  あちらでは、常陸介が、やって来て立ったままで、「こんな時に、こうしておいでになるとは」と腹を立てる。長年、どこそこにいらっしゃるなどと、事 実を知らせなかったので、「見すぼらしい有様でおいでになろう」と思い言ってもいたが、「京などにお迎えになった後は、名誉なことで、などと知ら せよう」と思っていたうちに、このような事になってしまったので、今は隠すことも意味がなくて、生前の有様を泣きながら話す。  大将殿のお手紙も取り出して見せると、貴人を崇めて、田舎者で、何事にも感心する人なので、びっくりして気後れして、繰り返し繰り返し、  「まことにめでたいご幸運を捨ててお亡くなりになった人だなあ。自分も殿の家来として、参上してお仕えしていたが、近くにお召しになってお使い になることはなく、たいそう気高く思われる殿である。幼い子供たちのことをおっしゃってくださったのは、頼もしいことだ」  などと、喜ぶのを見るにつけても、「それ以上に、生きておいでになったら」と思うと、臥し転んで泣けてくる。  介も今になって泣くのであった。その反面、生きていらした時には、かえって、このような類の人を、お尋ねになるようなことはなかってたのだ。 「自分の過失によって亡くしたのもお気の毒だ。慰めよう」とお思いになったため、「他人の非難は、こまごまと考えまい」とお思いなのであった。  [4-8 浮舟四十九日忌の法事]  四十九日の法事などもおさせになるにつけても、「いったいどういうことになったのか」とお思いになるので、いずれにしても罪になることではない から、たいそうこっそりと、あの律師の寺でおさせになった。六十人の僧のお布施など、大がかりに仰せつけになっていた。母君も来ていて、お布 施を加えた。  宮からは、右近のもとに、白銀の壷に黄金を入れて賜った。人が見咎めるほどの大げさな法事は、おできになれず、右近の志として催したので、 事情を知らない人は、「どうして、このような」などと言った。殿の家来どもで、気心の知れた者ばかり大勢お遣わしになった。  「不思議なこと。噂にも聞かなかった方の法事を、こんなに立派にあそばす。いったい誰であろう」  と、今になって驚く人ばかりが多かったが、常陸介が来て、主人顔でいるので、変だと人びとは見るのだった。少将が子を産ませて、盛大なお祝 いをさせようと大騷ぎし、邸の中にない物は少なく、唐土や新羅の装飾をもしたいのだが、限界があるので、まことにお粗末な有様であった。この 御法事が、人目に立たないようにとお思いであったが、感じが格別であるのを見ると、「もし生きていたらどんなにかと、わが身に比肩できない方の ご運勢であったなあ」と思う。  宮の上も、誦経をなさり、七僧への饗応の事もおさせになった。今になって、「このような人を持っていらしたのだ」と、帝までがお耳にあそばして、 並々ならず大切に思っていた人を、宮にご遠慮申して隠していらしたのを、お気の毒にとお思いになった。  二人のお方のご心中は、いつまでも悲しく、あいにくな横恋慕の最中に亡くなってしまっては、ひどく悲しいが、浮気なお心は、慰められるかなど と、他の女に言い寄りなさることもだんだんとあるのだった。  あの殿は、このようにお心にかけて、何やかやとご心配なさって、残った人をお世話なさっても、やはり、言って効のないことを、忘れがたくお思い になる。   5 薫の物語 明石中宮の女宮たち  [5-1 薫と小宰相の君の関係]  后の宮が、御軽服の間は、やはり里下がりしていらっしゃるうちに、二の宮が式部卿におなりになった。重々しくなって、常には参上なさらない。 この宮は、もの寂しくて何となく悲しい気分のまま、一品の宮のお側を慰め所としていらっしゃる。器量の良い女房の顔で、まだよく御覧にならない 者が、多く残っていた。  大将殿が、やっとのことで、たいそうこっそりと親しくなさっている小宰相の君という女房で、器量なども美しげで、気立ての良い人とお思いであっ た。同じ琴をかき鳴らす、その爪音や、撥の音が、誰にもまさって、手紙を書き、何か言うのも、風流な事が加わっているのだった。  この宮も、長年、とても関心を寄せていらっしゃって、いつものように、悪口おっしゃるが、「どうして、そのようにありふれた女でいようか」と、気強く て従わないのを、真面目人間は、「少しは他の女と違っている」とお思いなのであった。このように物思いに沈んでいらっしゃるのを知っていたの で、思い余って差し上げた。  「お悲しみを知る心は誰にも負けませんが   一人前でもない身では遠慮して消え入らんばかりに過ごしております  亡くなった方と入れ替れるものでたら」  と、由緒ある紙に書いてあった。何となくしみじみとした夕暮で、しんみりした時に、まことによく推察して言って来たのも、気が利いている。  「無常の世を長年見続けて来たわが身でさえ   人が見咎めるまで嘆いてはいないつもりでしたが  このお見舞いのお礼には、悲しい折柄、ひとしお嬉しかった」  などと言いに立ち寄りなさった。たいそう気恥ずかしくなるほど堂々として、普段はこのようにはお立ち寄りなさらず、人柄もご立派なのに、たいそ うささやかな住まいである。局などと言って、狭く何程もない遣戸口に寄っていらっしゃるのは、体裁悪く思われるが、そうは言ってもむやみに卑下 することもなく、とても良い具合にお話など申し上げる。  「亡き人よりも、この人は奥ゆかしい感じが加わっているな。どうして、このように出仕したのだろう。そのような人として、わたしも側に置いたらよ かったものを」  とお思いになる。密やかな心の内は、少しもお見せにならない。  [5-2 六条院の法華八講]  蓮の花の盛りに、法華八講が催される。六条院の御ため、紫の上のなどと、皆それぞれに日をお分けになって、お経や仏などを供養あそばして、 荘厳に、立派に催された。五巻目の日などは、大変な見物だったので、あちらこちら、女房の縁故をたどって、見物に来る人が多かった。  五日という朝座で終わって、御堂の飾りを取り外し、お部屋の飾りつけを改めるので、北の廂も、襖障子なども外してあったので、皆が入り込んで 整えている間、西の渡殿に姫宮はいらっしゃった。お経を聞き疲れて、女房たちもそれぞれの局にいて、御前はたいそう人少なな夕暮に、大将殿 は、直衣に着替えて、今日退出する僧の中に、是非にお話なさらなければならない事があったので、釣殿の方にいらっしゃったが、皆が退出してし まったので、池の方で涼みなさって、人も少ないので、さきほどの小宰相の君などが、仮に几帳などを立てて、ちょっと休むための上局にしていた。  「ここであろうか、衣ずれの音がする」とお思いになって、馬道の方の襖障子が細く開いているところから、そっと御覧になると、いつもそのような 女房がいる感じと違って、広々と整頓されているので、かえって、几帳などがいくつもはすに立ててあって見通されて、丸見えである。  氷を何かの蓋の上に置いて割ろうとして、騒いでいる女房たち、大人三人ほどと、童女とがいた。唐衣も汗衫も着ず、みな打ち解けていたので、 御前とはお思いでないが、白い薄物のお召物を着ていらっしゃる人で、手に氷を持ちながら、このように騒いでいるのを、少しほほ笑んでいらっしゃ るお顔、何とも言いようもなくかわいらしげである。  ひどく暑さの堪えがたい日なので、うるさい御髪が、暑苦しくお思いなされるのであろうか、少しこちら側に靡かして引いている様子、何物にも譬 えようがない。「大勢美しい女性を見て来たが、似ている人は誰もいないなあ」と思われる。御前の女房は、まこと土人形のような気がするのを、冷 静になって見ていると、黄色い生絹の単衣に薄紫色の裳を着ている女で、扇をちょっと使っているところなど、「いかにも嗜みがあるなあ」と、ふと見 えて、  「かえって、氷を扱うのに、とても暑苦しそうです。ただ、そのままで御覧なさい」  と言って、にっこりしている目もと、愛嬌がある。声を聞くと、この目指している女と分かった。  [5-3 小宰相の君、氷を弄ぶ]  無理して割って、それぞれの手に持っていた。頭の上に置いたり、胸に当てたりなど、体裁の悪い恰好をする女もいるのであろう。他の人は、紙 に包んで、御前にもこのようにして差し上げたが、とてもかわいらしいお手を差し出しなさって、拭わせなさる。  「いえ、持てません。雫が嫌です」  とおっしゃるお声、とてもかすかに聞くのも、この上なく嬉しい。「まだとても幼くいらしたときに、わたしも、何も分からず拝見したとき、何とかわいら しい姫宮か、と拝見した。その後は、まったく姫宮のご様子をさえ聞かなかったが、どのような神仏が、このような機会をお見せになったのであろう か。いつもの、心安からず物思いをさせようとするのであろうか」  と、一方では落ち着かず、じっと見つめて佇んでいると、こちらの対の北面に住んでいた下臈の女房が、この襖障子は、急ぎの用事で、開けたま まで下りて来たのを思い出して、「人が見つけて騒いだら大変だ」と思ったので、あわてて入って来る。  この直衣姿を見つけて、「誰だろう」とびっくりして、自分の姿を見られることも構わず、簀子からずんずんやって来たので、ふと立ち去って、「誰と も知られまい。好色なようだ」と思って隠れなさった。  この女房は、  「大変なことだわ。御几帳までを丸見えにしていたことだわ。右の大殿の公達であろうかしら。疎遠な方は、また、ここまでは来るはずがない。何 かの噂が立ったら、誰が襖障子を開けていたのだろうかと、きっと出て来るだろう。単衣も袴も、生絹のように見えた方のお姿なので、誰もお気づき になることができなかっただろう」  と困りきっていた。  あの方は、「だんだんと聖になって来た心を、一度踏み外して、さまざまに物思いを重ねる人となってしまったなあ。その昔に出家遁世してしまっ たら、今は深い山奥に住みついて、このような心を乱すことはないものを」などとお思い続けるにつけても、落ち着かない。「どうして、長年、お顔を 拝見したものだと思っていたのであろう。かえって苦しいだけで、何にもならないことであるのに」と思う。  [5-4 薫と女二宮との夫婦仲]  翌朝、起きなさった女宮の御器量が、「とても美しくいらっしゃるようなのは、この宮よりもきっとまさっていらっしゃるだろうか」と思いながらも、「ま ったく似ていらっしゃらない。驚くほど上品で、何とも言えないほどのご様子だなあ。一つには気のせいか、時節柄か」とお思いになって、  「ひどく暑いね。これより薄いお召し物になさいませ。女性は、変わった物を着ているのが、その時々につけ趣があるものです」と言って、「あちら に参上して、大弍に、薄物の単衣のお召し物を、縫って差し上げよと申せ」  とおっしゃる。御前の女房は、「宮のご器量がたいそう女盛りでいらっしゃるのを、さらに引き立てようとなさる」とおもしろく思っていた。  いつものように、念誦をなさるご自分のお部屋にいらっしゃったりなどして、昼頃にお渡りになると、お命じになっていたお召し物が、御几帳に懸け てあった。  「どうして、これをお召しにならないのか。人が大勢見る時に、透けた物を着るのは、はしたなく思われる。今は構わないでしょう」  と言って、ご自身でお着せなさる。御袴も昨日のと同じ紅色である。御髪の多さや、裾などは負けないが、やはりそれぞれの美しさなのか、似る はずもない。氷を召して、女房たちに割らせなさる。取って一つ差し上げなどなさる、心の中もおもしろい。  「絵に描いて、恋しい人を見る人は、いないだろうか。ましてこの宮は、気持ちを慰めるのに似つかわしからぬご姉妹であると思うが、昨日あのよ うにして、自分があの中に混じっていて、心ゆくまで拝することができたなら」と思うと、われ知らずのうちに溜息が漏れてしまった。  「一品の宮に、お手紙は差し上げなさいましたか」  とお尋ね申し上げなさると、  「内裏にいたとき、主上が、そのようにおっしゃったので差し上げましたが、長いことそういたしてません」  とおっしゃる。  「臣下におなりあそばしたといって、あちらからお便りを下さらないのは、情けないことです。今、大宮の御前に、お恨み申されています、と申し上 げよう」  とおっしゃる。  「どうしてお恨み申していましょう。嫌ですわ」  とおっしゃるので、  「身分が低くなったからといって、軽んじていらっしゃるようだ、と思われるので、お便りも差し上げないのです、と申し上げましょう」  とおっしゃる。  [5-5 薫、明石中宮に対面]  その日は過ごして、翌朝に大宮に参上なさる。いつものように、宮もいらっしゃった。丁子色に深く染めた薄物の単衣を、濃い縹色の直衣の下に 召していらっしゃったのは、たいそう好感がもてる女宮のお姿が素晴らしかったのにも負けず、白く清らかで、やはり以前よりは面痩せなさっている のは、とても見栄えがする。  似ていらっしゃると見るにつけても、まっさきに恋しいのを、まことにけしからぬこと、と抑えるのは、拝見しなかった時よりもつらい。絵をとてもたく さん持たせて参上なさったが、女房を介して、あちらに差し上げなさって、ご自分もお渡りになった。  大将も近くに参り寄りなさって、御八講が立派であったことや、昔の御事を少し申し上げながら、残っている絵を御覧になる折に、  「わたしの里にいらっしゃるこ皇女が、宮中から離れて、思い沈んでいらっしゃるのが、お気の毒に拝されます。姫宮の御方から、お便りもござい ませんのを、このように身分が決定なさったので、お見捨てあそばされたように思って、気の晴れない様子ばかりしておりますが、こうした物を、 時々お見せ下さいませ。わたしが直接持って参りますのも、また、張り合いのないものです」  と申し上げなさると、  「変なこと。どうしてお見捨て申し上げなさいましょう。内裏では、近かったことにつけて、時々手紙のやりとりをなさったようですが、別々におなり になった時から、滞りがちになったのでしょう。これから、お促し申し上げましょう。そちらからもどうして差し上げなさらないのですか」  と申し上げなさる。  「あちらからは、どうしてできましょうか。もともとお心に懸けていただけなかったとしても、こうして親しく伺候します縁にことよせて、お心を懸けてく ださいましたら、嬉しいことでございます。それ以上に、そのように親しくなさっていたのを、今お見捨てになるのは、つらいことでございます」  と申し上げなさるのを、「好色心があるのか」とは思いよりなさらなかった。  お立ちになって、「先夜のお目当ての女に会おう。先日の渡殿も慰めに見よう」とお思いになって、御前を渡って、西の方角にいらっしゃるのを、御 簾の内側の女房は特に緊張する。なるほど、たいそう風采よく、この上ない身のこなしで、渡殿の方では、左の大殿の公達などが座っていて、何 か言っている様子がするので、妻戸の前にお座りになって、  「よく参上はいたしますが、こちらの御方にはお目にかかることも、めったにございませんので、いつのまにか、老人めいた気持ちでございます が、今からは、と気を奮い起こしまして。不似合いな振る舞いだと、若い人たちは思うでしょう」  と、甥の公達の方を御覧になる。  「今からお馴染みになられたら、なるほど若返りなされるでしょう」  などと、とりとめもないことを言う女房たちの様子も、不思議と優雅で、風情のあるこちらの御方のご様子である。特に用事ということはないが、世 間話などをしながら、しんみりと、いつもよりは長居なさった。  [5-6 明石中宮、薫と小宰相の君の関係を聞く]  姫宮は、あちらにお渡りあそばした。大宮が、  「大将がそちらに参ったが」  とお尋ねになる。お供して参った大納言の君が、  「小宰相の君に、何かおっしゃろうとのことで、ございましょう」  と申し上げると、  「いつもの、真面目人間が、やはり女性に心を止めて話をするのは、気のきかない人でしたら困ります。心の底も見透かされるでしょう。小宰相な どは、とても安心です」  とおっしゃって、ご姉弟であるが、この君を、やはり恥ずかしく思い、「女房たちも不注意に応対しないでほしい」とお思いになっていた。  「どの女房よりも心をお寄せになって、局などにお立ち寄りなさるのでしょう。お話を親密になさって、夜が更けてお帰りになる時々もございました が、普通のありふれた色恋沙汰ではないのでしょうか。宮を、とても情けないお方と思って、お返事さえ差し上げないようでございます。恐れ多いこ と」  と言って笑うと、宮もにっこりあそばして、  「ひどく見苦しいご様子を、知っているのがおもしろい。何とかして、あのようなお癖を止めさせ申したいものです。恥ずかしいね、そなたたちの手 前も」  とおっしゃる。  [5-7 明石中宮、薫の三角関係を知る]  「とても不思議な事を聞きました。この大将殿が亡くしなさった人は、宮の二条の北の方のお妹君でした。異腹なのでしょう。常陸の前の介の何 某の妻は、叔母とも母とも言っていますのは、どういうものでしょうか。その女君に、宮が、まことにこっそりとお通いになりました。  大将殿がお聞きつけになったのでしょうか。急遽お迎えなさろうとして、番人を増やしなどして、厳重になさっているところに、宮も、とてもこっそり とお通いになりながら、お入りになることができず、粗末な姿で、お馬に乗って立ったまま、お帰りになりました。  女も、宮をお慕い申し上げていたのでしょうか、急に消えてしまいましたが、身投げしたようだと言って、乳母などの女房は、泣き暮れておりまし た」  と申し上げる。大宮も、「まことに呆れたことだ」とお思いになって、  「誰が、そのようなことを言うのですか。お気の毒な情けないことですね。それほど珍しい事は、自然と噂になろうものを。大将もそのようには言わ ないで、世の中のはかなく無常なこと、このような宇治の宮の一族の短命であったことを、ひどく悲しんでおっしゃっていたが」  とおっしゃる。  「さあ、下衆は、確かでないことも申すものを、と思いますが、あちらに仕えておりました下童が、つい最近、小宰相の君の実家に出て参って、確 かなことのように言いました。このように不思議に亡くなったことは、誰にも聞かせまい。大げさで、気味の悪い話だからといって、ひどく隠していた こととか。そうして、詳しくはお聞かせ申し上げなかったのでしょう」  と申し上げると、  「まったく、このような話は、二度と他人には話さないように、と言わせなさい。このような色恋沙汰で、お身の上を過ち、世人に軽々しく顰蹙をお かいになることになりましょう」  とたいそうご心配になった。   6 薫の物語 薫、断腸の秋の思い  [6-1 女一の宮から妹二の宮への手紙]  その後、姫宮の御方から、二の宮にお便りがあったのだった。ご筆跡などが、たいそうかわいらしそうなのを見るにつけ、実に嬉しく、「こうしてこ そ、もっと早く見るべきであった」とお思いになる。  たくさんの趣のある絵をたくさん、大宮も差し上げあそばした。大将殿は、それ以上に趣のある絵を集めて、差し上げなさる。芹川の大将が遠君 の、女一の宮に懸想をしている秋の夕暮に、思いあまって出かけて行った絵が、趣深く描けているのを、とてもよくわが身に思い当たるのである。 「あれほどまで思い靡いてくださる方があったら」と思うわが身が残念である。  「荻の葉に露が結んでいる上を吹く秋風も   夕方には特に身にしみて感じられる」  と書き添えたく思うが、  「そのようなのを少しの様子にでも漏らしたら、とてもやっかいそうな世の中であるから、ちょっとしたことも、ちらっと出すことができない。このように いろいろと何やかやと、憂愁を重ねた果てに思うことは、亡き大君が生きていらっしゃったら、どうして他の女に心を傾けたりしようか。  今上の帝の内親王を賜うといっても、頂戴はしなかったろうに。また、そのように思う女がいるとお耳にあそばしながら、このようなことはなかった ろうが、やはり情けなく、わたしの心を乱しなさった宇治の橋姫だなあ」  と思い余って、また宮の上に執着して、恋しく切なく、どうにもしようがないのを、馬鹿らしく思うまで悔しい。この方に思い悩んで、その次には、呆 れた恰好で亡くなった人が、とても思慮浅く、思いとどまるところのなかった軽率さを思いながら、やはり大変なことになったと、思いつめていたほど を、わたしの態度がいつもと違っていると、良心の呵責に苛まれて嘆き沈んでいた様子を、お聞きになったことも思い出されて、  「重々しい方としての扱いでなく、ただ気安くかわいらしい愛人としておこう、と思ったわりには、実にかわいらしい人であったよ。思い続けると、宮 をお恨み申すまい。女をもひどいと思うまい。ただわが人生が世間ずれしていない失敗なのだ」  などと、物思いに耽りなさる時々が多かった。  [6-2 侍従、明石中宮に出仕す]  悠長で、自制心が強くいらっしゃる人でさえ、このような方面には、身も苦しいことが自然と出て来るのを、宮は、彼以上に慰めかねながら、あの 形見として、尽きない悲しみをおっしゃる相手さえいないが、対の御方だけは、「かわいそうに」などとおっしゃるが、深く親しんでいらっしゃらなかっ た、短い交際であったので、とても深くはどうしてお思いになろうか。また、お気持ちのままに、「恋しい、悲しい」などとおっしゃるのは、気がひける ので、あちらにいた侍従を、例によって、迎えさせなさった。  皆女房たちは散り散りになって、乳母とこの人ら二人は、特別に目をかけてくださったのも忘れることができず、侍従は身内外の女房であるが、 やはり話相手として暮らしていたが、どこにもないような川の音も、何か嬉しいこともあろうか、と期待していたうちは慰められたが、気持ち悪く大変 に恐ろしくばかり思われて、京で、みすぼらしい所に、最近来ていたのを、捜し出しなさって、  「こうして仕えていなさい」  とおっしゃるが、「お心はお心としてありがたいが、女房たちが噂するのも、そのような方面のことが絡んでいるところでは、聞きにくいこともあろ う」と思うと、お引き受け申さない。「后の宮にお仕えしたい」と希望したので、  「とても結構なことだ。それでは内々に目をかけてやろう」  とおっしゃるのだった。心細く頼りとするところのないのも慰むことがあろうかと、縁故を求めて出仕した。「小ざっぱりとしたまあまあの下臈だ」と 認めて、誰も非難しない。大将殿もいつも参上なさるのを、見るたびごとに、何となくしみじみとする。「とても高貴な大家の姫君ばかりが、大勢いら っしゃる宮邸だ」と女房が言うのを、だんだん目をとめて見るが、「やはりお仕えしていた方に似た美しい姫君はいないものだ」と思っている。  [6-3 匂宮、宮の君を浮舟によそえて思う]  今年の春お亡くなりになった式部卿宮の御娘を、継母の北の方が、特にかわいがらないで、その兄の右馬頭で人柄も格別なところもないのが、 心を寄せているのを、不憫だとも思わずに縁づけている、とお耳にあそばしたことがあって、  「お気の毒に。父宮がたいそう大切になさっていた女君を、つまらないものにしてしまおうとは」  などと仰せになったので、ひどく心細くばかり思い嘆いていらっしゃる有様で、  「やさしく、このようにおっしゃってくださるものを」  などと、ご兄妹の侍従も言って、最近迎え取らせなさった。姫宮のお相手として、まことに最適のご身分の方なので、高い身分の方として特別の 扱いで伺候なさる。決まりがあるので、宮の君などと呼ばれて、裳くらいはお付けになるのが、ひどくおいたわしいことであった。  兵部卿宮は、「この宮くらいは、恋しい人に思いよそえられる様子をしていようか。父親王は兄弟であった」などと、例のお心は、故人を恋い慕い なさるにつけても、女を見たがる癖がやまず、早く見たいとお心にかけていらした。  大将は、「非難がましいことを言いたくなることだ。昨日今日という間に、春宮に差し上げようかなどとお思いになり、わたしにもそのようなご様子 をほのめかされたのだ。このように無常な世の中の衰退を見ると、川の底に身を沈めても、非難されないことだ」などと思いながら、誰よりも同情を お寄せ申し上げなさった。  この院にいらっしゃるのを、内裏よりも広く興趣あって住みよい所として、いつもは伺候していない女房どもも、みな気を許して住みながら、広々と たくさんある対の屋や、渡廊や、渡殿などにいっぱいいる。  左大臣殿は、昔のご様子にも負けず、すべてこの上もなくお世話申し上げていらっしゃる。盛んになったご一族なので、かえって昔以上に、華や かな点ではまさるのであった。  この宮は、いつものお心ならば、幾月かの間に、どのような好色事でもなさっていたところが、すっかり落ち着きなさって、傍目には「少しは大人び てお直りになったなあ」と見えるが、最近は再び、宮の君に、ご本性を現して、まつわりつきなさるのであった。  [6-4 侍従、薫と匂宮を覗く]  涼しくなったといって、后宮は、内裏に帰参なさろうとするので、  「秋の盛りは、紅葉の季節を見ないというのは」  などと、若い女房たちは残念がって、みな参集している時である。池水に親しみ月を賞美して、管弦の遊びがひっきりなしに催され、いつもより華 やかなので、この宮は、このような方面では実にこの上なく賞賛されなさる。朝夕に見慣れていても、やはり今初めて見た初花のようなお姿でして いらっしゃるが、大将の君は、あまりそれほど入り込んだりなさらないので、こちらが恥ずかしくなるような気のおける方だと、みな思っていた。  いつもの、お二方が参上なさって、御前にいらっしゃる間に、あの侍従は、物蔭から覗いて拝すると、  「どちらの方なりとも縁付いて、幸運な運勢に思えたご様子で、この世に生きておいでだったらなあ。あきれるほどあっけなく情けなかったお心で あったよ」  などと、他人には、あの辺のことは少しも知っている顔をして言わないことなので、自分一人で尽きせず胸を痛めている。宮は、内裏のお話など、 こまごまとお話申し上げあそばすので、もうお一方はお立ちになる。「見つけられ申すまい。もう暫くの間は、ご一周忌も待たないで薄情な人だ、と 思われ申すまい」と思うって、隠れた。  [6-5 薫、弁の御許らと和歌を詠み合う]  東の渡殿に、開いている戸口に、女房たちが大勢いて、話などをひっそりとしている所にいらして、  「わたしをこそ、女房は親しみやすくお思いになるべきではありませんか。女でさえこのように気のおけない人はいません。それでもためになるこ とを、教えて上げられることもあります。だんだんとお分かりになりそうですから、とても嬉しいです」  とおっしゃるので、とても答えにくくばかり思っている中で、弁のおもとといって、物馴れている年配の女房が、  「そのようにも親しくすべき理由のない者こそ、気兼ねなく振る舞えるのではないでしょうか。物事はかえってそのようなものです。必ずしもその理 由を知ったうえで、くつろいでお話申し上げるというのでもございませんが、あれほど厚かましさが身についているわたしが引き受けないのも、見て いられませんで」  と申し上げると、  「恥じる理由はあるまい、とお決めになっていらっしゃるのが、残念なことです」  などと、おっしゃりながら見ると、唐衣は脱いで押しやって、くつろいで手習いをしていたのであろう、硯の蓋の上に置いて、頼りなさそうな花の枝 先を手折って、弄んでいた、と見える。ある者は几帳のある所にすべり隠れ、またある者は背を向けて、押し開けてある妻戸の方に、隠れながら座 っている、その頭の恰好を、興趣あると一回り御覧になって、硯を引き寄せて、  「女郎花が咲き乱れている野辺に入り込んでも   露に濡れたという噂をわたしにお立てになれましょうか  どなたも気を許してくださらないので」  と、ちょうどこの襖障子の後向きしていた女房にお見せになると、身動きもせずに、落ち着いて、すぐさま、  「花と申せば名前からして色っぽく聞こえますが   女郎花はそこらの露に靡いたり濡れたりしません」  と書いた筆跡は、ほんの一首ながら、風情があって、だいたいに無難なので、誰なのだろう、とお思いになる。今参上した途中で、道をふさがれ てとどまっていた者らしい、と思う。弁のおもとは、  「まことにはっきりした老人めいたお言葉、憎うございます」と言って、  「旅寝してひとつ試みて御覧なさい   女郎花の盛りの色にお心が移るか移らないか  そうして後に、お決め申し上げましょう」  と言うので、  「お宿をお貸しくださるなら、一夜は泊まってみましょう   そこらの花には心移さないわたしですが」  とあるので、  「どうして、恥をおかかせなさいます。普通にいう野辺のしゃれを申し上げただけです」  と言う。とりとめのないことをほんのちょっとおっしゃっても、女房はその続きを聞きたくばかりお思い申し上げていた。  「うっかりしていました。道を開けますよ。特に意識して、あちらで恥ずかしがっていらやる理由が、きっとありそうな折ですから」  と言って、お立ちになると、「だいたいこのような奥ゆかしいところがないだろう、とご想像なさるもがつらい」と思っている女房もいた。  [6-6 薫、断腸の秋の思い]  東の高欄に寄り掛かって、夕日の影るにつれて、花が咲き乱れている御前の叢をお眺めやりになる。何となくしみじみと思われて、「中んづく腸 の断ち切れる思いがするのは秋の空だ」という詩句を、たいそう密やかに朗誦しながら座っていらっしゃった。先程の衣ずれの音が、はっきり聞こえ る感じがして、母屋の襖障子から通ってあちらに入って行くようである。宮が歩いていらして、  「こちらからあちらへ参ったのは誰か」  とお尋ねになると、  「あちらの御方の中将の君です」  と申し上げるのである。  「やはり、けしからぬ振る舞いだ。誰だろうかと、ちょっとでも関心を持った人に、そのままこのように遠慮なく名前を教えてしまうとは」と、気の毒 で、この宮に、皆が馴れ馴れしくお思い申し上げているようなのも残念だ。  「無遠慮につっこんだお振る舞いに、女はきっとお負け申してしまおう。わたしは、まことに残念なことに、こちらのご一族には、悔しくも残念なこと ばかりだ。何とかして、ここの女房の中にでも、珍しいような女で、例によって熱心に夢中になっていらっしゃる女を口説き落として、自分が経験した ように、穏やかならぬ気持ちを思わせ申し上げたい。ほんとうに物事の分かる女なら、わたしの方に寄って来るはずだ。けれども難しいことだな。人 の心というものは」  と思うにつけても、対の御方の、あのお振る舞いを、身分にふさわしくないものとお思い申し上げて、まことに不都合な関係になって行くのが、そ の世間の評判をつらいと思いながらも、やはりすげなくはできない者とお分かりになってくださるのは、世にもまれな胸をうつことである。  「そのような気立ての方は、大勢の中にいようか。立ち入って深くは知らないので分からないことだ。寝覚めがちに所在ないのを、少しは好色も習 ってみたいものだ」  などと思うが、今はやはりふさわしくない。  [6-7 薫と中将の御許、遊仙窟の問答]  例によって、西の渡殿を、先日に真似て、わざわざいらっしゃったのも変なことだ。姫宮は、夜はあちらにお渡りあそばしたので、女房たちが月を 見ようとして、この渡殿でくつろいで話をしているところであった。箏の琴がたいそうやさしく弾いている爪音が、興趣深く聞こえる。思いがけないとこ ろにお寄りになって、  「どうして、このように人を焦らすようにお弾きになるのですか」  とおっしゃると、皆驚いたにちがいないが、少し巻き上げた簾を下ろしなどもせず、起き上がって、  「似ている兄様が、ございましょうか」  と答える声は、中将のおもととか言った人であった。  「わたしこそが、御母方の叔父ですよ」  と、戯れをおっしゃって、  「いつものように、あちらにいらっしゃるようですね。どのようなことを、この里下がりのご生活の中でなさっておいでですか」  などと、つまらないことをお尋ねになる。  「どちらにいらしても、同じことです。ただ、このような事をしてお過ごしでいらっしゃるようです」  と言うと、「結構なご身分の方だ、と思うと、わけもない溜息を、うっかりしてしまったのも、変だと思い寄る人があっては」と紛らわすために、差し 出した和琴を、ただそのまま掻き鳴らしなさる。律の調べは、不思議と季節に合うと聞こえる音なので、聞き憎くもないが、最後までお弾きにならな いのを、かえって気がもめると、熱心な人は、死ぬほど残念がる。  「わたしの母宮もひけをおとりになる方だろうか。后腹と申し上げる程度の相違だが、それぞれの父帝が大切になさる様子に、違いはないのだ。 がやはり、こちらのご様子は、たいそう格別な感じがするのが不思議なことだ。明石の浦は奥ゆかしい所だ」などと思い続けることの中で、「自分の 宿世は、とてもこの上ないものであった。その上に、並べて頂戴したら」と思うのは、とても難しいことだ。  [6-8 薫、宮の君を訪ねる]  宮の君は、こちらの西の対にお部屋を持っていた。若い女房たちが大勢いる様子で、月を賞美していた。  「まあ、お気の毒に、こちらも同じ皇族の方であるのに」  とお思い出し申し上げて、「父親王が、生前に好意をお寄せになっていたものを」と口実にして、そちらにお出でになった。童女が、かわいらしい宿 直姿で、二、三人出て来てあちこち歩いたりしていた。見つけて入る様子なども、恥ずかしそうだ。これが世間普通のことだと思う。  南面の隅の間に近寄って、ちょっと咳払いをなさると、少し大人めいた女房が出て来た。  「人知れず好意をお寄せ申しておりますので、かえって、誰もが言い古るしてきたような言葉が、馴れない感じで、真似をしているようでございま す。真面目に、言葉以外の表現を探さずにおられません」  とおっしゃると、宮の君にも言い伝えず、利口ぶって、  「まことに思いもかけなかったご境遇につけても、故父宮がお考え申し上げていらっしゃった事などが、思い出されましてなりません。このように、 折々にふれて申し上げてくださるという。蔭ながらのお言葉も、お礼申し上げていらっしゃるようです」  と言う。  [6-9 薫、宇治の三姉妹の運命を思う]  「世間並の扱いのようで、失礼ではないか」と気が進まないので、  「もともと見捨てられない間柄としてよりも、今はそれ以上に、何か必要なことにつけても、お声をかけてくださったら嬉しく存じます。よそよそしく人 を介してなどでしたら、とてもお伺いできません」  とおっしゃるので、「おっしゃるとおりだ」と、あわてて気づいて、宮の君を揺さぶるらしいので、  「松も昔の知る人もいないとばかりに、つい物思いに沈んでしまいますにつけても、もとからの縁などとおっしゃる事は、ほんとうに頼もしく存じられ ます」  と、人を介してというのでなくおっしゃる声、まことに若々しく愛嬌があって、やさしい感じが具わっていた。「ただ普通のこのような局住まいをする 人と思へば、とても趣があるにちがいないが、ただ今では、どうしてほんのわずかでも、人に声を聞かせてよいという立場に馴れておしまいになっ たのだろう」と、何となく気になる。「容貌などもとても優美であろう」と、見たい感じがしているが、「この人は、また例によって、あの方のお心を掻き 乱す種になるにちがいなかろうと、興味深くもあり、めったにいないものだ」とも思っていらっしゃった。  「この方こそは、貴いご身分の父宮が大切にお世話して成人させなさった姫君だ。また、この程度の女なら他にもそう多くいよう。不思議であった ことは、あの聖の近辺に、宇治の山里に育った姫君たちで、難のある方はいなかったことだ。この、頼りないな、軽率だな、などと思われる女も、こ のようにちょっと会った感じでは、たいそう風情があったものだ」  と、何事につけても、ただあのご一族の方をお思い出しなさるのであった。不思議と、またつらい縁であった一つ一つを、つくづくと思い出し物思い にふけっていらっしゃる夕暮に、蜻蛉が頼りなさそうに飛び交っているのを、  「そこにいると見ても、手には取ることのできない   見えたと思うとまた行く方知れず消えてしまった蜻蛉だ  あるのか、ないのか」  と、例によって、独り言をおっしゃった、とか。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 Last updated 2/15/99 渋谷栄一訳(C)   手習 薫君の大納言時代27歳3月末頃から28歳の夏までの物語 1 浮舟の物語 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる 1.横川僧都の母、初瀬詣での帰途に急病---そのころ、横川に、某僧都とか言って 2.僧都、宇治の院の森で妖しい物に出会う---まず、僧都がお越しになる。「とてもひどく荒れて 3.若い女であることを確認し、救出する---変な恰好に、烏帽子を額の上に押し上げて出て来た 4.妹尼、若い女を介抱す---お車を寄せてお下りになる時、ひどくお苦しがりなさると言って 5.若い女生き返るが、死を望む---僧都もちょっと覗いて、「どうですか。何のしわざかと 6.宇治の里人、僧都に葬送のことを語る---二日ほど籠もっていて、二人の女性を祈り 7.尼君ら一行、小野に帰る---尼君がよくおなりになった。方角も開いたので 2 浮舟の物語 浮舟の小野山荘での生活 1.僧都、小野山荘へ下山---ずっとこうしてお世話するうちに、四月、五月も過ぎた 2.もののけ出現---「朝廷のお召しでさえお受けせず、深く籠もっている山を 3.浮舟、意識を回復---ご本人の気分はさわやかになって、少し意識がはっきりして 4.浮舟、五戒を受く---「どうして、このように頼りなさそうにばかりいらっしゃるのですか 5.浮舟、素性を隠す---「夢に見たような人をお世話申し上げることだわ」と尼君は喜んで 6.小野山荘の風情---ここの主人も高貴な方であった。娘の尼君は 7.浮舟、手習して述懐---尼君は、月などの明るい夜は、琴などをお弾きになる 8.浮舟の日常生活---若い女で、このような山里に、もうこれまでと思いを断ち切って籠もるのは 3 浮舟の物語 中将、浮舟に和歌を贈る 1.尼君の亡き娘の婿君、山荘を訪問---尼君の亡き娘の婿の君で、今は中将におなりになっていたが 2.浮舟の思い---供の人びとに水飯などのような物を食べさせ、君にも蓮の実などの 3.中将、浮舟を垣間見る---尼君が奥にお入りになる間に、客人は、雨の様子に困って 4.中将、横川の僧都と語る---お庭先の女郎花を手折って、「どうしてここにいらっしゃるのだろう」と口ずさんで 5.中将、帰途に浮舟に和歌を贈る---翌日、お帰りになる時、「素通りできにくくて」 6.中将、三度山荘を訪問---手紙などをわざわざやるのは、何といっても不慣れな感じで 7.尼君、中将を引き留める---そうはいっても、このような古風な気質とは不似合いに 8.母尼君、琴を弾く---「お婆は、昔は、東琴を、簡単に弾きましたが 9.翌朝、中将から和歌が贈られる---これによってすっかり興醒めして、お帰りになる途中も 4 浮舟の物語 浮舟、尼君留守中に出家す 1.9月、尼君、再度初瀬に詣でる---九月になって、この尼君は、初瀬に参詣する 2.浮舟、少将の尼と碁を打つ---皆が出立したのを見送って、わが身のやりきれなさを 3.中将来訪、浮舟別室に逃げ込む---月が出て美しいころに、昼に手紙のあった中将が 4.老尼君たちのいびき---姫君は、「とても気味悪い」とばかり聞いている老人の所に 5.浮舟、悲運のわが身を思う---昔からのことを、眠れないままに、いつもよりも 6.僧都、宮中へ行く途中に立ち寄る---身分の低いらしい法師どもなどが大勢来て 7.浮舟、僧都に出家を懇願---立ってこちらにいらして、「ここに 8.浮舟、出家す---「不思議な、このような器量とお姿なのに、どうして身を 5 浮舟の物語 浮舟、出家後の物語 1.少将の尼、浮舟の出家に気も動転---このような間に、少将の尼は、兄の阿闍梨が 2.浮舟、手習に心を託す---僧都一行の人びとが出て行って静かになった。夜の風の音に、この人びとは 3.中将からの和歌に返歌す---同じような内容を、あれこれ気の向くまま書いていらっしゃるところに 4.僧都、女一宮に伺候---一品の宮のご病気は、なるほど、あの弟子が言っていたとおりに 5.僧都、女一宮に宇治の出来事を語る---御物の怪の執念深いことや、いろいろと 6.僧都、山荘に立ち寄り山へ帰る---姫宮がすっかりよくおなりになったので、僧都も帰山 7.中将、小野山荘に来訪---今日は、一日中吹いている風の音もとても心細いうえに 8.中将、浮舟に和歌を贈って帰る---「これほどの器量をした人を失って 6 浮舟の物語 薫、浮舟生存を聞き知る 1.新年、浮舟と尼君、和歌を詠み交す---年が改まった。春の兆しも見えず、氷が張りつめた 2.大尼君の孫、紀伊守、山荘に来訪---大尼君の孫で紀伊守であった者が、このころ上京し 3.浮舟、薫の噂など漏れ聞く---「あの方の親しい人であった」と見るにつけても 4.浮舟、尼君と語り交す---「お忘れになっていないのだ」としみじみと思うが 5.薫、明石中宮のもとに参上---大将は、この一周忌の法事なをおさせにになって 6.小宰相、薫に僧都の話を語る---立ち寄ってお話などなさるついでに 7.薫、明石中宮に対面し、横川に赴く---「思いがけないことで、亡くなってしまったと存じておりました女が   1 浮舟の物語 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる  [1-1 横川僧都の母、初瀬詣での帰途に急病]  そのころ、横川に、某僧都とか言って、たいそう尊い人が住んでいた。八十歳過ぎの母と、五十歳ほどの妹とがいたのであった。昔からの願があ って、初瀬に詣でたのであった。  親しく重んじている弟子の阿闍梨を連れて、仏やお経を供養することを行うのであった。いろいろなことをたくさんして帰る道中で、奈良坂という山 を越えたころから、この母の尼君が、気分が悪くなったので、「こんなでは、どうして帰りの道を行きつけようか」と大騒ぎして、宇治の辺りに知って いた人の家があったので、そこにとどめて、今日一日お休め申したが、依然としてひどく苦しがっているので、横川に消息を出した。  山籠もりの本願が強く、今年は下山しまいと思っていたが、「晩年の状態の母親が、道中で亡くなるのだろうか」と驚いて、急いでいらっしゃった。 惜しむほどでもない年齢の人だが、自分自身でも、弟子の中でも効験のある者をして、加持し大騒ぎするのを、家の主人が聞いて、  「御嶽精進をしたが、たいそう高齢でおいでの方が、重病でいらっしゃるのは、どうしたものか」  と不安そうに思って言ったので、そうも言うにちがいないことを、気の毒に思って、ひどく狭くむさ苦しい所なので、だんだんお連れ申せるほどにな ったが、中神の方角が塞がって、いつも住んでいらっしゃる所は避けなければならなかったので、「故朱雀院の御領で、宇治院といった所が、この 近辺だろう」と思い出して、院守を、僧都は知っていらっしゃったので、「一、二日泊まりたい」と言いにおやりになったところ、  「初瀬に、昨日皆詣でてしまいました」  と言って、ひどくみすぼらしい宿守の老人を呼んで連れて来た。  「いらっしゃるなら、早いほうがよい。誰も使っていない院の寝殿でございますようです。物詣での方は、いつもお泊まりになります」  と言うので、  「実に結構なことだ。公の建物だが、誰もいなくて気楽な所だから」  と言って、様子を見におやりになる。この老人、いつもこのように泊まる人を見慣れていたので、簡略な設営などをして戻って来た。  [1-2 僧都、宇治の院の森で妖しい物に出会う]  まず、僧都がお越しになる。「とてもひどく荒れて、恐ろしそうな所だな」と御覧になる。  「大徳たち、読経せよ」  などとおっしゃる。この初瀬に付いていった阿闍梨と同じような者が、何事があったのか、お供するにふさわしい下臈の法師に、松明を灯させて、 人も近寄らない建物の後ろの方に行った。森かと見える木の下を、「気持ち悪い所だ」と見ていると、白い物が広がっているのが見える。  「あれは、何だ」  と、立ち止まって、松明を明るくして見ると、何かが座っているような格好である。  「狐が化けた物だ。憎い。正体を暴いてやろう」  と言って、一人はもう少し近寄る。もう一人は、  「まあ、よしなさい。よくない物であろう」  と言って、そのような物が引き下がるような印を作りながら、そうは言ってもやはり見つめている。頭の髪があったら太くなりそうな気がするが、こ の松明を灯した大徳は、恐れもせず、深い考えもなく様子で、近寄ってその様子を見ると、髪は長く艶々として、大きな木の根がとても荒々しくある 所に寄りかかって、ひどく泣いている。  「珍しいことでございますな。僧都の御坊に御覧に入れましょう」  と言うと、  「なるほど、不思議な事だ」  と言って、一人は参上して、「これこれしかじかです」と申し上げる。  「狐が人に化けるということは昔から聞いたが、まだ見たことがないものだ」  と言って、わざわざ下りていらっしゃる。  あちらにお越しになろうとしたところで、下衆どもで、役に立ちそうな者は皆、御厨子所などで、準備すべきことをいろいろと、こちらではかかりきり でいたので、ひっそりしていたので、わずか四、五人で、ここにいる物を見るが、変化する様子も見えない。  不思議に思って、一時の移るまで見る。「早く夜も明けてほしい。人か何物か、正体を暴こう」と、心中でしかるべき真言を読み、印を作って試みる と、はっきり見極めがついたのであろうか、  「これは、人である。まったく異常なけしからぬ物ではない。近寄って問え。死んでいる人ではないようだ。もしや死んだ人を捨てたのが、生き返っ たのだろうか」  と言う。  「どうして、そのような人を、この院の邸内に捨てましょうか。たとい、ほんとうに人であったとしても、狐や木霊のようなものが、たぶらかして連れ て来たのでございましょうと、不都合なことでございますなあ。穢れのある所のようでございます」  と言って、先程の宿守の男を呼ぶ。山彦が答えるのも、まことに恐ろしい。  [1-3 若い女であることを確認し、救出する]  変な恰好に、烏帽子を額の上に押し上げて出て来た。  「ここには、若い女などが住んでいるのか。このようなことがある」  と言って見せると、  「狐がしたことだ。この木の下に、時々変なことをします。一昨年の秋も、ここに住んでいました人の子で、二歳ほどになったのを、さらって参った が、驚きもしませんでした」  「それでは、その子は死んでしまったのか」  と問うと、  「生きております。狐は、そのように人を脅かすが、何ということもないやつです」  と言う態度は、とても物慣れたさまである。あちらの深夜に食事の準備している所に、気を取られているのであろう。僧都は、  「それでは、そのような物がしたことかどうか。やはり、よく見よ」  と言って、この恐いもの知らずの法師を近づけると、  「鬼か神か狐か木霊か。これほどの天下第一の験者がいらっしゃるのには、隠れ申すことはできまい。正体を名のりなさい。正体を名のりなさい」  と、衣を取って引くと、顔を隠してますます泣く。  「さてもまあ、何と、たちの悪い木霊の鬼だ。正体を隠しきれようか」  と言いながら、顔を見ようとすると、「昔いたという目も鼻もなかった女鬼であろうか」と、気味悪いが、頼もしく威勢のよいところを人に見せようと思 って、衣を脱がせようとすると、うつ臥して声を立てるほどに泣く。  「何にあれ、このような不思議なことは、普通、世間にはない」  と言って、見極めようと思っていると、  「雨がひどく降って来そうだ。こうしておいたら、死んでしまいましょう。築地塀の外に出しましょう」  と言う。僧都は、  「ほんとうに人の姿だ。その命が今にも絶えてしまいそうなのを見ながら放っておくことは、もっての外のことだ。池で泳ぐ魚、山で鳴く鹿でさえ、 人に捕えられて死にそうなのを見て、助けないのは、まことに悲しいことだろう。人の命は長くはないものだが、残りの命の、一、二日を惜しまない ものはない。鬼にもあれ神にもあれ、取り憑かれたり、人に追出されたり、人に騙されたりしても、これらは横死をするにちがいないものだが、仏が 必ずお救いになるはずの人である。  やはり、試みに、しばらく薬湯を飲ませたりして、助けてみよう。結局、死んでしまったら、しかたのないことだ」  とおっしゃって、この大徳に抱いて中に入れさせなさるのを、弟子どもは、  「不都合なことだなあ。ひどく患っていらっしゃる方のお側近くに、よくないものを近づけて、穢れがきっと出て来よう」  と、非難する者もいる。また、  「変化の物であれ、目前に見ながら、生きている人を、このような雨に打たれ死なせるのは、よくないことなので」  などと、思い思いに言う。下衆などは、たいそう騒がしく、口さがなく言い立てるものなので、人の大勢いない隠れた所に寝かせたのであった。  [1-4 妹尼、若い女を介抱す]  お車を寄せてお下りになる時、ひどくお苦しがりなさると言って、大騒ぎする。少し静まって、僧都が、  「先程の人は、どのようになった」  とお尋ねになる。  「なよなよとして何も言わず、息もしません。いやなに、魔性の物に正体を抜かれた者でしょう」  と言うのを、妹の尼君がお聞きになって、  「何事ですか」  と尋ねる。  「これこれしかじかの事を、六十歳を過ぎた年齢になって、珍しい物を拝見しました」  とおっしゃる。それを聞くなり、  「わたしが寺で見た夢がありました。どのような人ですか。早速その様子を見たい」  と泣いておっしゃる。  「ちょうどこの東の遣戸の所におります。早く御覧なさい」  と言うので、急いで行って見ると、誰も側近くにおらずに、放置してあった。とても若くかわいらしげな女で、白い綾の衣一襲に、紅の袴を着てい る。香はたいそう芳ばしくて、上品な感じがこの上ない。  「まるで、わたしが恋い悲しんでいた娘が、帰っていらしたようだ」  と言って、泣きながら年配の女房たちを使って、抱き入れさせる。どうしたことかとも、事情を知らない人は、恐がらずに抱き入れた。生きているよ うでもなく、それでも目をわずかに開けたので、  「何かおっしゃいなさい。どのようなお人か、こうして、いらっしゃるのは」  と尋ねるが、何も分からない様子である。薬湯を取って、ご自身ですくって飲ませなどするが、ただ弱って死にそうだったので、  「かえって大変な事になりました」と言って、「この人は死にそうです。加持をしなさい」  と、験者の阿闍梨に言う。  「それだから言ったのに。つまらないお世話です」  とは言うが、神などの御ためにお経を読みながら祈る。  [1-5 若い女生き返るが、死を望む]  僧都もちょっと覗いて、  「どうですか。何のしわざかと、よく調伏して問え」  とおっしゃるが、ひどく弱そうに死んで行きそうなので、  「生きられそうにない。思いがけない穢れに籠もって、厄介なことになりますこと」  「そうは言っても、とても高貴な方でございましょう。死んだとしても、普通の人のようにはお捨て置きになることはできまい。面倒なことになった な」  と言い合っていた。  「お静かに。人に聞かせるな。厄介なことでも起こったら大変です」  などと口封じしながら、尼君は、親が患っていらっしゃるのよりも、この人を生き返らせてみたく惜しんで、もうすっかりこちらに付きっきりになってい た。知らない人であるが、顔容姿がこの上なく美しいので、死なせまいと、見る人びとも皆でお世話した。そうは言っても、時々、目を開けたりなどし て、涙が止まらず流れるのを、  「まあ、お気の毒な。たいそう悲しいと思う娘の代わりに、仏がお導きなさったとお思い申し上げていたのに。亡くなってしまわれたら、かえって悲 しい思いが加わることでしょう。こうなるはずの宿縁で、こうしてお会い申したのでしょう。ぜひ、少しは何とかおっしゃってください」  と言い続けるが、やっとのことで、  「生き返ったとしても、つまらない無用の者です。誰にも見せないで、夜にこの川に投げ込んでくださいまし」  と、息の下に言う。  「やっとのこと何かおっしゃるのを嬉しいと思ったら、まあ、大変な。どうして、そのようなことをおっしゃるのですか。なぜ、あのような所にいらっしゃ ったのですか」  と尋ねるが、何もおっしゃらなくなってしまった。「身体にもしやおかしなところなどがあろうか」と思って見たが、これと思える所はなくかわいらしい ので、驚き呆れて悲しく、「ほんとうに、人の心を惑わそうとして出て来た仮の姿をした変化の物か」と疑う。  [1-6 宇治の里人、僧都に葬送のことを語る]  二日ほど籠もっていて、二人の女性を祈り加持する声がひっきりなしで、不思議な事件だと思ってあれこれ言う。その近辺の下衆などで、僧都に お仕え申していた者が、こうしてお出でになっていると聞いて、挨拶に出て来たが、世間話などして言うのを聞くと、  「故八の宮の姫君で、右大将殿がお通いになっていた方が、特にご病気になったということもなくて、急にお亡くなりになったと言って、大騒ぎして おります。そのご葬送の雑事類にお仕え致しますために、昨日は参上することができませんでした」  と言う。「そのような人の魂を、鬼が取って持って来たのであろうか」と思うにも、一方では見ながら、「生きている人とも思えず、危なっかしく恐ろし い」とお思いになる。人びとは、  「昨夜見やられた火は、そのように大げさなふうには見えませんでしたが」  と言う。  「格別に簡略にして、盛大ではございませんでした」  と言う。死穢に触れた人だからというので、立ったままで帰らせた。  「大将殿は、宮の姫君をお持ちになっていたのは、お亡くなりになって、何年にもなったが、誰を言うのでしょうか。姫宮をさし置き申しては、まさか 浮気心はおありでない」  などと言う。  [1-7 尼君ら一行、小野に帰る]  尼君がよくおなりになった。方角も開いたので、「このような嫌な所に長く逗留されるのも不都合である」と言って帰る。  「この人は、依然としてとても弱々しそうだ。道中もいかがでいらっしゃろうかと、おいたわしいこと」  と話し合っていた。車二台で、老人がお乗りになったのには、お仕えする尼が二人、次のにはこの人を寝かせて、側にもう一人付き添って、道中 もはかどらず、車を止めて薬湯などを飲ませなさる。  比叡の坂本で、小野という所にお住みになっていた。そこにお着きになるまで、まことに遠い。  「休憩所を準備すべきであった」  などと言って、夜が更けてお着きになった。  僧都は、母親を世話し、娘の尼君は、この知らない女を介抱して、みな抱いて降ろし降ろしして休む。老人の病気はいつということもないが、苦し いと思っていた遠路のせいで、少しお疲れになったが、だんだんとよくおなりになったので、僧都は山にお登りになった。  「このような女を連れて来た」などと、法師の間ではよくないことなので、知らなかった人には事情を話さない。尼君も、みな口封じをさせたが、「も しや探しに来る人もいようか」と思うと、気が落ち着かない。「何とか、そのような田舎者の住む辺りに、このような方がさまよっていたのだろうか。 物詣でなどした人で、気分が悪くなったのを、継母などのような人が、だまして置いていったのであろうか」と推測してみるのだった。  「川に流してください」と言った一言以外に、何もまったくおっしゃらないので、とても分からなく思って、「はやく人並みの健康にしよう」と思うと、ぐ ったりとして起き上がる時もなく、まことに心配な容態ばかりしていらっしゃるので、「結局は生きられない人であろうか」と思いながら、放っておくの もお気の毒でたまらない。夢の話もし出しては、最初から祈祷させた阿闍梨にも、こっそりと芥子を焼くことをおさせになる。   2 浮舟の物語 浮舟の小野山荘での生活  [2-1 僧都、小野山荘へ下山]  ずっとこうしてお世話するうちに、四月、五月も過ぎた。まことに心細く看護の効のないことに困りはてて、僧都のもとに、  「もう一度下山してください。この人を、助けてください。何といっても今日まで生きていたのは、死ぬはずのない運命の人に、取り憑いて離れない 物の怪が去らないのにちがいありません。どうかあなた様、京にお出になるのは無理でしょうが、ここまでは来てください」  などと、切なる気持ちを書き綴って、差し上げなさると、  「まことに不思議なことだな。こんなにまで生きている人の命を、そのまま見捨ててしまったら。そうなるはずの縁があって、わたしが見つけたので あろう。ためしに最後まで助けてやろう。それでだめなら、命数が尽きたのだと思おう」  と思って、下山なさった。  喜んで拝して、いく月日の間の様子を話す。  「このように長い間患っている人は、見苦しい感じが、自然と出て来るものですが、少しも衰弱せず、とても美しげで、ひねくれたところもなくいらっ しゃって、最期と見えながらも、こうして生きていることです」  などと、本気になって泣きながらおっしゃるので、  「見つけた時から、めったにいないご様子の方であったな。さあ」  と言って、さし覗いて御覧になって、  「なるほど、まことに優れたご容貌の方であるなあ。功徳の報恩で、このような器量にお生まれになったのであろう。どのような行き違いで、ひど いことにおなりになったのであろう。もしや、それか、と思い当たるような噂を聞いたことはありませんか」  と尋ねなさる。  「まったく聞いたことありません。何の、初瀬の観音が授けてくださった人です」  とおっしゃるので、  「いや何。宿縁によってお導きくださったものでしょう。因縁のないことはどうして起ころうか」  などと、おっしゃるのが、不思議がりなさって、修法を始めた。  [2-2 もののけ出現]  「朝廷のお召しでさえお受けせず、深く籠もっている山をお出になって、わけもなくこのような人のために修法をなさっていると、噂が聞こえた時に は、まことに聞きにくいことであろう」とお思いになり、弟子どももそう意見して、「人に聞かせまい」と隠す。僧都、  「まあ、お静かに。大徳たち。わたしは破戒無慚の法師で、戒律の中で、破った戒律は多かろうが、女の方面ではまだ非難されたことなく、過っ たこともない。年齢も六十を過ぎて、今さら人の非難を受けるのは、前世の因縁なのであろう」  とおっしゃると、  「口さがない連中が、何か不都合な事にとりなして言いました時には、仏法の恥となりますことです」  と、不機嫌に思って言う。  「この修法によって効験が現れなかったら」  と、非常な決意をなさって、夜一晩中、加持なさった翌早朝に、人に乗り移らせて、「どのような物の怪がこのように人を惑わしていたのであろう」 と、様子だけでも言わせたくて、弟子の阿闍梨が、交替で加持なさる。何か月もの間、少しも現れなかった物の怪が、調伏されて、  「自分は、ここまで参って、このように調伏され申すべき身ではない。生前は、修業に励んだ法師で、わずかにこの世に恨みを残して、中有にさま よっていたときに、よい女が大勢住んでいられた辺りに住み着いて、一人は失わせたが、この人は、自分から世を恨みなさって、自分は何とかして 死にたい、ということを、昼夜おっしゃっていたのを手がかりと得て、まことに暗い夜に、一人でいらした時に奪ったのである。けれども、観音があれ やこれやと加護なさったので、この僧都にお負け申してしまった。今は、立ち去ろう」  と声を立てる。  「こう言うのは、何者だ」  と問うが、乗り移らせた人が、力のないせいか、はっきりとも言わない。  [2-3 浮舟、意識を回復]  ご本人の気分はさわやかになって、少し意識がはっきりして見回すと、一人も見たことのある顔はなくて、皆、老法師か腰の曲がった者ばかり多 いので、知らない国に来たような気がして、実に悲しい。  以前のことを思い出すが、住んでいた所、何という名前であったかさえ、確かにはっきりとも思い出せない。ただ、  「自分は、最期と思って身を投げた者である。どこに来たのか」と無理に思い出すと、  「とてもつらいことよと、悲しい思いを抱いて、皆が寝静まったときに、妻戸を開けて外に出たが、風が烈しく、川波も荒々しく聞こえたが、独りぼっ ちで恐かったので、過去や将来も分からず、簀子の端に足をさし下ろしながら、行くはずの所も迷って、引き返すのも中途半端で、気強くこの世から 消えようと決心したが、『馬鹿らしく人に見つけられるよりは鬼でも何でも喰って亡くしてくれよ』と言いながら、つくづくと座っていたが、とても美しそ うな男が近寄って来て、『さあ、いらっしゃい。わたしの所へ』と言って、抱く気がしたが、宮様と申し上げた方がなさる、と思われた時から、意識が はっきりしなくなったようだ。知らない所に置いて、この男は消えてしまった、と見えたが、とうとうこのように目的も果たせずになってしまった、と思 いながら、ひどく泣いている、と思ったときから、その後のことはまったく、何もかも覚えていない。  人が言うのを聞くと、たくさんの日数を経てしまった。どのように嫌な様子を、知らない人にお世話されたのであろう、と恥ずかしく、とうとうこうして 生き返ってしまったのか」  と思うのも残念なので、ひどく悲しく思われて、かえって、沈んでいらした日ごろは、正気もない様子で、何か食物も少し召し上がることもあった が、露ほどの薬湯でさえお飲みにならない。  [2-4 浮舟、五戒を受く]  「どうして、このように頼りなさそうにばかりいらっしゃるのですか。ずっと熱がおありだったのは下がりなさって、さわやかにお見えになるので、嬉 しくお思い申し上げていましたのに」  と、泣きながら、気を緩めることなく付き添ってお世話申し上げなさる。仕える女房たちも、惜しいお姿や容貌を見ると、誠心誠意惜しんで看病した のであった。内心では、「やはり何とかして死にたい」と思い続けていらしたが、あれほどの状態で、生き返った人の命なので、とてもねばり強くて、 だんだんと頭もお上げになったので、食物を召し上がりなさるが、かえって容貌もひきしまって行く。はやく好くなってほしいと嬉しくお思い申し上げ ていたところ、  「尼にしてください。そうしたら生きて行くようもありましょう」  とおっしゃるので、  「あたら惜しいお身を。どうして、そのように致せましょう」  と言って、ただ頂の髪だけを削いで、五戒だけを受けさせ申し上げる。不安であるが、もともとはきはきしない性分で、さし出て強くもおっしゃらな い。僧都は、  「今はもう、このくらいにしておいて、看病して差し上げなさい」  と言い置いて、山へ登っておしまいになった。  [2-5 浮舟、素性を隠す]  「夢に見たような人をお世話申し上げることだわ」と尼君は喜んで、無理に起こして座らせながら、お髪をご自身でお梳かしになる。あのように驚き あきれ、結んでおいたが、ひどくは乱れず、解き放ってみると、つやつやとして美しい。白髪の人の多い所なので、目もあざやかに、美しい天人が 地上に下りたのを見たように思うのも、不安な気がするが、  「どうして、とても情けなく、こんなにたいそうお世話申し上げていますのに、強情をはっていらっしゃるのですか。どこの誰と申し上げた方が、その ような所にどうしておいでになったのですか」  と、しいて尋ねるのを、とても恥ずかしいと思って、  「意識を失っている間に、すっかり忘れてしまったのでしょうか、以前の様子などもまったく覚えておりません。ただ、かすかに思い出すこととして は、ただ、何とかしてこの世から消えたいと思いながら、夕暮になると端近くで物思いをしていたときに、前の近くにある大きな木があった下から、 人が出て来て、連れて行く気がしました。それ以外のことは、自分自身でも、誰とも思い出すことができません」  と、とてもかわいらしげに言って、  「この世に、やはり生きていたと、何とか人に知られたくない。聞きつける人がいたら、とても悲しい」  と言ってお泣きになる。あまり尋ねるのを、つらいとお思いなので、尋ねることもできない。かぐや姫を見つけた竹取の翁よりも、珍しい気がするの で、「どのような何かの機会に姿が消え失せてしまうのか」と、落ち着かない気持ちでいた。  [2-6 小野山荘の風情]  ここの主人も高貴な方であった。娘の尼君は、上達部の北の方であったが、その方がお亡くなりになって後、娘をただ一人大切にお世話して、立 派な公達を婿に迎えて大切にしていたが、その娘が亡くなってしまったので、情けない、悲しい、と思いつめて、尼姿になって、このような山里に住 み始めたのであった。  「歳月とともに恋い慕っていた娘の形見にでも、せめて思いよそえられるような人を見つけたい」と、所在ない心細い思いで嘆いていたところ、この ように、思いがけない人で、器量や感じも優っているような人を得たので、現実のこととも思われず、不思議な気がしながらも、嬉しいと思う。年は 召しているが、とても美しそうで嗜みがあり、態度も上品である。  昔の山里よりは、川の音も物やわらかである。家の造りは、風流な所の、木立も趣があり、前栽なども興趣あり、風流をし尽くしている。秋になっ て行くと、空の様子もしみじみとしている。門田の稲を刈ろうとして、その土地の者の真似をしては、若い女房たちが、民謡を謡いながらおもしろが っていた。引板を鳴らす音もおもしろく、かつて見た東国のことなども思い出されて。  あの夕霧の御息所がおいでになった山里よりは、もう少し奥に入って、山の斜面に建ててある家なので、松の木蔭が鬱蒼として、風の音もまこと に心細いので、することもなく勤行ばかりして、いつとなくひっそりとしている。  [2-7 浮舟、手習して述懐]  尼君は、月などの明るい夜は、琴などをお弾きになる。少将の尼君などという女房は、琵琶を弾いたりして遊ぶ。  「このようなことはなさいますか。何もすることがないので」  などと言う。昔も、賤しかった身の上で、のんびりと、「そのようなことをする境遇でもなかったので、少しも風流なところもなく成長したことよ」と、こ のように盛りを過ぎた人が、心を晴らしているような時々につけては、思い出すが、「何とも言いようのない身の上であった」と、自分ながら残念なの で、手習いに、  「涙ながらに身を投げたあの川の早い流れを   堰き止めて誰がわたしを救い上げたのでしょう」  思いがけないことに情けないので、将来も不安で、疎ましいまでに思われる。  月の明るい夜毎に、老人たちは優雅に和歌を詠み、昔を思い出しながら、いろいろな話などをするが、答えることもできないので、つくづくと物思 いに沈んで、  「わたしがこのように嫌なこの世に生きているとも   誰が知ろうか、あの月が照らしている都の人で」  今を最期と思い切ったときは、恋しい人が多かったが、その他の人びとはそれほども思い出されず、ただ、  「母親がどんなにお嘆きになったろう。乳母が、いろいろと、何とか一人前にしようと一生懸命であったが、どんなにがっかりしたろう。どこにいるの だろう。わたしが、生きていようとはどうして知ろう」  同じ気持ちの人もいなかったが、何事も隠すことなく相談し親しくしていた右近なども、時々は思い出される。  [2-8 浮舟の日常生活]  若い女で、このような山里に、もうこれまでと思いを断ち切って籠もるのは、難しいことなので、ただひどく年をとった尼、七、八人が、いつも仕えて いた人であった。その人たちの娘や孫のような者たちで、京で宮仕えするものや、結婚している者が、時々行き来するのであった。  「このような人がいることにつけて、以前見た近辺に出入りして、自然と、生きていたとどちら様にも聞かれ申すことは、ひどく恥ずかしいことであ ろう。どのような様子でさすらっていていたのだろう」  などと、想像されて並外れたみすぼらしい有様を思うにちがいないのを思うと、このような人びとに、少しも姿を見せない。ただ、侍従と、こもきとい って、尼君が私的に使っている二人だけを、この御方に特別に言って分けておいたのだった。容貌も気立ても、昔見た都人に似た者はいない。何 事につけても、「世の中で身を隠す所はここであろうか」と、一方では思われるのであった。  こうしてばかり、人には知られまいと隠れていらっしゃるので、「ほんとうに厄介な理由のある人でいらっしゃるのだろう」と思って、詳しいことは、 仕えている女房にも知らせない。   3 浮舟の物語 中将、浮舟に和歌を贈る  [3-1 尼君の亡き娘の婿君、山荘を訪問]  尼君の亡き娘の婿の君で、今は中将におなりになっていたが、その弟の禅師の君は、僧都のお側にいらっしゃったが、その山籠もりなさっている のを尋ねるために、兄弟の公達がよく山に登るのであった。  横川に通じる道のついでにかこつけて、中将がここにいらした。前駆が先払いして、身分高そうな男が入ってくるのを見出して、ひっそりとしていら したあの方のご様子が、くっきりと思い出される。  ここもまことに心細い住まいの所在なさであるが、住み馴れた人びとは、どことなくこぎれいに興趣深くして、垣根に植えた撫子が美しく、女郎花 や、桔梗などが咲き初めたところに、色とりどりの狩衣姿の男どもの若い人が大勢して、君も同じ装束で、南面に迎えて座らせたので、あたりを眺 めていた。年齢は二十七、八歳くらいで、すっかり立派になって、嗜みのなくはない態度が身についていた。  尼君、襖障子口に几帳を立てて、お会いなさる。何より先に泣き出して、  「何年にもなりますと、過ぎ去った当時がますます遠くなるばかりでございますが、山里の光栄としてやはりお待ち申し上げております気持ちが、 忘れず続いておりますのが、一方では不思議に存じられます」  とおっしゃると、  「心の中ではしみじみと、過ぎ去った当時のことが、思い出されないことはないが、ひたすら俗世を離れたご生活なので、ついご遠慮申し上げまし て。山籠もり生活も羨ましく、よく出かけてきますので、同じことならなどと、同行したがる人びとに、邪魔されるような恰好でおりました。今日は、す っかり断って参りました」  とおっしゃる。  「山籠もり生活のご羨望は、かえって当世風の物真似のようです。故人をお忘れにならないお気持ちも、世間の風潮にお染まりにならなかった と、一方ならず厚く存じられます折がたびたびです」  などと言う。  [3-2 浮舟の思い]  供の人びとに水飯などのような物を食べさせ、君にも蓮の実などのような物を出したので、昵懇の所なので、そのようなことにも遠慮のいらない気 がして、村雨が降り出したのに引き止められて、お話をひっそりとなさる。  「亡くなってしまった娘のことよりも、この婿君のお気持ちなどが、実に申し分なかったので、他人と思うのが、とても悲しい。どうして、せめて子供 だけでもお残しにならなかったのだろう」  と、恋い偲ぶ気持ちなので、たまたまこのようにお越しになったのにつけても、珍しくしみじみと思われるような問わず語りもしてしまいそうであ る。  姫君は、わたしはわたしと、思い出されることが多くて、外を眺めていらっしゃる様子、とても美しい。白い単衣で、とても風情もなくさっぱりとしたも のに、袴も桧皮色に見倣ったのか、色艶も見えない黒いのをお着せ申していたので、「このようなことなども、昔と違って不思議なことだ」と思いな がらも、ごわごわとした肌触りのよくないのを何枚も着重ねていらっしゃるのが、実に風情ある姿なのである。御前の女房たちも、  「亡き姫君が生き返りなさった気ばかりがしますので、中将殿までを拝見すると、とても感慨無量です。同じことなら、昔のようにおいで願いたいも のですね。とてもお似合いのご夫婦でしょう」  と話し合っているのを、  「まあ、大変な。生き残って、どのようなことがあっても、男性と結婚するようなことは。それにつけても昔のことが思い出されよう。そのようなこと は、すっかり断ち切って忘れよう」と思う。  [3-3 中将、浮舟を垣間見る]  尼君が奥にお入りになる間に、客人は、雨の様子に困って、少将といった女房の声を聞き知って、呼び寄せなさった。  「昔見た女房たちは、みなここにいられようか、と思いながらも、このようにやって参ることも難しくなってしまったのを、薄情なように、皆がお思い になりましょう」  などとおっしゃる。親しくお世話してくれた女房なので、恋しかった当時のことが思い出される折に、  「あの渡廊の端の所で、風が烈しかった騷ぎに、簾の隙間から、並々の器量ではなかった人で、打ち垂れ髪が見えたのは、出家なさった家に、 いったい誰なのかと驚かされました」  とおっしゃる。「姫君が立って出て行かれた後ろ姿を、御覧になったようだ」と思って、「これ以上に詳細に見せたら、きっとお心がお止まりになろ う。故人は、とても格段に劣っていらっしゃったのさえ、今だに忘れがたく思っていらっしゃるようだから」と、独り決めにして、  「亡くなったお方のことを忘れがたく、慰めかねていらっしゃるようだったころ、思いがけない女性をお手に入れ申されて、明け暮れの慰めにお思い 申し上げていらっしゃったようですが、寛いでいらっしゃるご様子を、どうして御覧になったのでしょうか」  と言う。「このようなことがあるものだ」と興味深くて、「どのような人なのだろう。なるほど、実に美しかった」と、ちらっと垣間見たのを、かえって思 い出す。詳しく尋ねるが、すっかりとは答えず、  「自然とお分かりになりましょう」  とばかり言うので、急に詮索するのも、体裁の悪い気がして、  「雨も止んだ。日も暮れそうだ」  と言うのに促されて、お帰りになる。  [3-4 中将、横川の僧都と語る]  お庭先の女郎花を手折って、「どうしてここにいらっしゃるのだろう」と口ずさんで、独り言をいって立っていた。  「人の噂を、さすがに気になさるとは」  などと、古風な老人たちは、誉めあっていた。  「とても美しげで、理想的にご成人なさったことよ。同じことなら、昔のようにお世話したいものだ」と思って、  「藤中納言のお所には、今も通っていらっしゃるようだが、ご執心でもなく、親の邸にいらっしゃりがちだと言っているようだが」  と、尼君もおっしゃって、  「情けなく、よそよそしくしてばかりいらっしゃるのが、とてもつらい。今はもう、やはり、これも宿縁だとお思いになって、気を晴れやかになさってく ださい。この五年、六年、束の間も忘れず、恋しく悲しいと思っていた娘のことも、こうしてお目にかかって後は、すっかり悲しみも忘れております。 ご心配申し上げなさる方々がいらっしゃっても、今はもう亡くなったのだと、だんだんお諦めになりましょう。どのような事でも、その当座のようには、 必ずしも思わないものです」  と言うにつけても、ますます涙ぐんで、  「よそよそしくお思い申し上げる気持ちは、ございませんが、不思議に生き返ったうちに、すべての事が夢のようにはっきり分からなくなりまして。 違った世界に生まれた人は、このような気がするものだろうか、と思われておりますので、今は、知っている人がこの世に生きていようとも思い出さ れません。ひたすらに、慕わしく存じ上げております」  とおっしゃる様子も、なるほど、無心でかわいらしく、にっこりとして見つめていらっしゃった。  中将は、山にお着きになって、僧都も珍しく思って、世間の話をなさる。その夜は泊まって、声の尊い僧たちに読経などさせて、一晩中、管弦の 遊びをなさる。禅師の君が、うちとけた話をした折に、  「小野に立ち寄って、しみじみと感慨深いことがあったね。世を捨てているが、やはり、あれほど嗜みの深い方は、めったにいらっしゃらないもの だ」  などとおっしゃるついでに、  「風が吹き上げた御簾の隙間から、髪がたいそう長く、美しそうな女性が見えた。人目につくと思ったのだろうか、立ってあちらに入って行く後ろ姿 は、並の女性とは見えなかった。あのような所に、身分のある女性を住まわせておくべきではないでしょう。明け暮れ目にするものは法師だ。自然 と見慣れてそれが普通と思われよう。不都合なことだ」  とおっしゃる。禅師の君は、  「この春、初瀬に参詣して、不思議にも発見した女性だ、と聞きました」  と言って、見てないことなので、詳しくは言わない。  「興味深い話だね。どのような人であろうか。世の中を厭って、そのような所に隠れていたのだろう。昔物語にあったような気がするね」  とおっしゃる。  [3-5 中将、帰途に浮舟に和歌を贈る]  翌日、お帰りになる時、「素通りできにくくて」と言っていらっしゃった。しかるべき用意などしていたので、昔が思い出されるお世話の少将の尼な ども、袖口の色は異なっているが、趣がある。ますます涙がちの目で、尼君はいらっしゃる。話のついでに、  「こっそりと姿を隠していらっしゃるような方は、どなたですか」  とお尋ねになる。厄介なことだが、ちらっと見つけたのを、隠しているようなのも変だと思って、  「忘れかねまして、ますます罪深くばかり思われましたその慰めに、ここ数か月お世話している人です。どのような理由でか、とても悲しみの深い 様子で、この世に生きていると誰からも知られることを、つらいことに思っておいでなので、このような山あいの奥深くまで誰がお尋ね求めよう、と思 っておりましたが、どうしてお聞きつけあそばしたのですか」  と答える。  「一時の物好きな心があってやって来るのでさえ、山深い道の恨み言は申し上げましょう。まして、亡き姫君の代わりとお思いなさっていることで は、まったく関係ないこととお隔てになることでしょうか。どのようなことで、この世を厭いなさる人なのでしょうか。お慰め申し上げたい」  などと、関心深そうにおっしゃる。  お帰りになるに当たって、畳紙に、  「浮気な風に靡くなよ、女郎花   わたしのものとなっておくれ、道は遠いけれども」  と書いて、少将の尼を介して入れた。尼君も御覧になって、  「このお返事をお書きあそばせ。とても奥ゆかしいところのおありの方だから、不安なことはありますまい」  と促すと、  「ひどく醜い筆跡を、どうして」  と言って、まったく承知なさらないので、  「体裁の悪きことです」  と言って、尼君が、  「申し上げましたように、世間知らずで、普通の人とは違っておりますので。   ここに移し植えて困ってしまいました、女郎花です   嫌な世の中を逃れたこの草庵で」  とある。「今回は、きっとそういうことだろう」と大目に見て帰った。  [3-6 中将、三度山荘を訪問]  手紙などをわざわざやるのは、何といっても不慣れな感じで、ちらっと見た様子は忘れず、何を悩んでいるのか知らないが、心を惹かれるので、 八月十日過ぎに、小鷹狩のついでにいらっしゃった。いつものように、尼を呼び出して、  「先日ちらっと見てから、心が落ち着かなくて」  とおっしゃった。お答えなさるはずもないので、尼君は、  「待乳の山の、誰か他に思う人がいるように拝します」  と中から言い出させなさる。お会いなさっても、  「お気の毒な様子でいらっしゃると伺いました方のお身の上が、もっと詳しく知りたく存じます。何事も思った通りにならない気ばかりがしますの で、出家生活をしたい考えはありながら、お許しなさるはずのない方々に妨げられて過ごしております。いかにも屈託なげな今の妻のことは、この ように沈みがちな身の上のせいか、似合わないのです。悩んでいらっしゃるらしい方に、思っている気持ちを申し上げたい」  などと、とてもご執心なさってようにお話なさる。  「もの思わしげな方をとのご希望は、いろいろお話し合いなさるに、不似合いではないように見えますが、普通の人のようにはありたくないと、実 に嫌に思われるくらい世の中を厭っていらっしゃるようなので。残り少ない寿命のわたしでさえ、今を最後と出家します時には、とても何となく心細く 思われましたものを。将来の長い盛りの時では、最後まで出家生活を送れるかどうかと、心配でおります」  と、親ぶって言う。奥に入って行っても、  「思いやりのないこと。やはり、少しでもお返事申し上げなさい。このようなお暮らしは、ちょっとしたつまらないことでも、人の気持ちを汲むのは世 間の常識というものです」  などと、なだめすかして言うが、  「人にものを申し上げるすべも知らず、何事もお話にならないわたしで」  と、とてもそっけなく臥せっていらっしゃった。  客人は、  「どうでしたか。何と、情けない。秋になったらとお約束したのは、おだましになったのですね」  などと、恨みながら、  「松虫の声を尋ねて来ましたが   再び萩原の露に迷ってしまいました」  「まあ、お気の毒な。せめてこのお返事だけでも」  などと責めると、そのような色恋めいた事に返事するのもたいそう嫌で、また一方、いったん返歌をしては、このような折々に責められるのも、厄 介に思われるので、返歌をさえなさらないので、あまりにいいようもなく思い合っていた。尼君は、出家前は当世風の方であった気が残っているの であろう。  「秋の野原の露を分けて来たため濡れた狩衣は   葎の茂ったわが宿のせいになさいますな  と、わずらわしがり申していらっしゃるようです」  と言うのを、簾中でも、やはり「このように思いの外にこの世に生きていると知られ出したのを、とてもつらい」とお思いになる心中を知らないで、男 君のことをも尽きせず思い出しては、恋い慕っている人びとなので、  「このような、ちょっとした機会にも、お話し合い申し上げなさるのも、お気持ちにそむいて、油断ならないことはなさらない方ですから。世間並の色 恋とお思いなさらなくても、人情のわかる程度に、お返事を申し上げなさいませ」  などと、引き動かさんばかりに言う。  [3-7 尼君、中将を引き留める]  そうはいっても、このような古風な気質とは不似合いに、当世風に気取っては、下手な歌を詠みたがって、はしゃいでいる様子は、とても不安に思 われる。  「この上なく嫌な身の上であった、と見極めた命までが、あきれるくらい長くて、どのようなふうにさまよって行くのだろう。ひたすら亡くなった者とし て誰からもすっかり忘れられて終わりたい」  と思って臥せっていらっしゃるのに、中将は、およそ何か物思いの種があるのだろうか。とてもひどく嘆き、ひっそりと笛を吹き鳴らして、  「鹿の鳴く声に」  などと独り言をいう感じは、ほんとうに弁えのない人ではなさそうである。  「過ぎ去った昔が思い出されるにつけても、かえって心尽くしに、今初めて慕わしいと思ってくれるはずの人も、またいそうもないので、つらいこと のない山奥とは思うことができません」  と、恨めしそうにしてお帰りになろうとする時に、尼君が、  「どうして、せっかくの素晴らしい夜を御覧になりませぬ」  と言って、膝行して出ていらっしゃった。  「いえ。あちらのお気持ちも、分かりましたので」  と軽く言って、「あまり好色めいて振る舞うのも、やはり不都合だ。ほんのちらっと見えた姿が、目にとまったほどで、所在ない心の慰めに思い出 したが、あまりによそよそしくて、奥ゆかしい感じ過ぎるのも場所柄にも似合わず興醒めな感じがする」と思ので、帰ろうとするのを、笛の音まで物 足りなく、ますます思われて、  「夜更けの月をしみじみと御覧にならない方が   山の端に近いこの宿にお泊まりになりませんか」  と、どこか整わない歌を、  「このように、申し上げていらっしゃいます」  と言うと、心をときめかして、  「山の端に隠れるまで月を眺ましょう   その効あってお目にかかれようかと」  などと言っていると、この大尼君、笛の音をかすかに聞きつけたので、老齢ではいてもやはり心惹かれて出て来た。  話のあちこちで咳をし、呆れるほどの震え声で、かえって昔のことなどは口にしない。誰であるかも分からないのであろう。  「さあ、その琴の琴をお弾きなさい。横笛は、月にはとても趣深いものです。どこですか、そなたたち。琴を持って参れ」  と言うので、母尼君らしい、と推察して聞くが、「どのような所に、このような老人が、どうして籠もっているのだろう。無常の世だ」と、このことにつ けても感慨無量である。盤渉調をたいそう趣深く吹いて、  「どうですか。さあ」  とおっしゃる。  娘尼君は、この方も相当な風流人なので、  「昔聞きましたときよりも、この上なく素晴らしく思われますのは、山風ばかりを聞き馴れていました耳のせいでしょうか」と言って、「それでは、わ たしのはでたらめになっていましょう」  と言いながら弾く。当世風では、ほとんど普通の人は、今は好まなくなって行くものなので、かえって珍しくしみじみと聞こえる。松風も実によく調 和する。吹き合わせた笛の音に、月も調子を合わせて澄んでいる気がするので、ますます興趣が乗って、眠気も催さず、起きていた。  [3-8 母尼君、琴を弾く]  「お婆は、昔は、東琴を、簡単に弾きましたが、今の世では、変わったのでしょうか。息子の僧都が『聞きにくい。念仏以外のつまらないことはする な』と叱られましたので、それならと、もう弾かないのでございます。それにしても、とてもよい響きの琴もございます」  と言い続けて、とても弾きたく思っているので、たいそうこっそりとほほ笑んで、  「まことに変なことをお制止申し上げなさった僧都ですね。極楽という所には、菩薩なども皆このようなことをして、天人なども舞い遊ぶのが尊いも のだと言います。勤行を怠り、罪を得ることだろうか。今夜はお聞き致したい」  とお世辞を言うと、「とても嬉しい」と思って、  「さあ、主殿の君さん、東琴を取って」  と言うにも、咳は止まらない。女房たちは、見苦しいと思うが、僧都をまで、憎らしく不平を言って聞かせるので、お気の毒なのでそのままにして いた。東琴を取り寄せて、今の笛の調子もおかまいなしに、ただ自分勝手に弾いて、東の調子を爪弾きさわやかに調べる。他の楽器の演奏をみな 止めてしまったので、「これにばかり聞きほれているのだ」と思って、  「たけふ、ちちりちちり、たりたんな」  などと、撥を掻き返し、さっそうと弾いている、その言葉などは、やたらと古めかしい。  「実に素晴らしく、今の世には聞かれぬ歌を、お弾きになりました」  と褒めると、耳も遠くなっているので、側にいる女房に尋ね聞いて、  「今風の若い人は、このようなことをお好きでないね。ここに何か月もいらっしゃる姫君は、容貌はとても美しくいらっしゃるようだが、もっぱら、この ようなつまらない遊びはなさらず、引き籠もっていらっしゃるようです」  と、得意顔に大声で笑って話すのを、尼君などは、聞き苦しいとお思いである。  [3-9 翌朝、中将から和歌が贈られる]  これによってすっかり興醒めして、お帰りになる途中も、山下ろしが吹いて、聞こえて来る笛の音も、とても素晴らしく聞こえて、起き明かしていた 翌朝、  「昨夜は、あれこれと心が乱れましたので、急いで帰りました。   忘れられない昔の人のことやつれない人のことにつけ   声を立てて泣いてしまいました  やはり、もう少し気持ちをご理解いただけるよう説得申し上げてください。堪えきれるものでしたら、好色がましい態度にまで、どうして出ましょう か」  とあるので、ますます困っている尼君は、涙を止めがたい様子で、お書きになる。  「笛の音に昔のことも偲ばれまして   お帰りになった後も袖が濡れました  不思議なことに、人の情けも知らないのではないか、と見えました様子は、年寄の問わず語りで、お聞きあそばしたでしょう」  とある。珍しくもない見栄えのしない気がして、つい読み捨てたことであろう。  荻の葉に秋風が訪れるのに負けないくらい頻繁に便りがあるのが、「とても煩わしいことよ。男の心はむてっぽうなものだ」と分かった時々のこと も、だんだん思い出すにつれて、  「やはり、このような方面のことは、相手にも諦めさせるように、早くしてくださいませ」  と言って、お経を習って読んでいらっしゃる。心中でも祈っていらっしゃった。このように何かにつけて世の中を捨てているので、「若い女だといって も華やかなところも特になく、陰気な性格なのだろう」と思う。器量が見飽きず、かわいらしいので、他の欠点はすべて大目に見て、明け暮れの心 の慰めにしていた。少しにっこりなさるときには、めったになく素晴らしい方だと思っていた。   4 浮舟の物語 浮舟、尼君留守中に出家す  [4-1 9月、尼君、再度初瀬に詣でる]  九月になって、この尼君は、初瀬に参詣する。長年とても心細い身の上で、恋しい娘の身の上も諦めきれなかったが、このように他人とも思われ ない女性を心の慰めに得たので、観音のご霊験が嬉しいと、お礼参りのような具合で、参詣なさるのであった。  「さあ、ご一緒に。誰に知られたりするものですか。同じ仏様ですが、あのような所で勤行するのが、霊験あらたかで、良いことが多いのです」  と言って促すが、「昔、母君や、乳母などが、このように言って聞かせては、たびたび参詣させたが、何にもその効がなかったようだ。死のうと思っ たことも思う通りにならず、又とないひどい目を見るとは」と、ひどく厭わしい心中にも、「知らない人と一緒に、そのような遠出をするとは」と、何とな く恐ろしく思う。  強情なふうにはあえて言わないで、  「気分がとてもすぐれませんので、そのような遠出もどんなものかしらなどと、気がひけまして」  とおっしゃる。「恐がる気持ちは、きっとそうなさるにちがいない方だ」と思って、無理にも誘わない。  「はかないままにこの世につらい思いをして生きているわが身は   あの古川に尋ねて行くことはいたしません、二本の杉のある」  と手習いに混じっているのを、尼君が見つけて、  「二本とは、再びお会い申したいと思っていらっしゃる方がいるのでしょう」  と、冗談に言い当てたので、胸がどきりとして、顔を赤くなさったのも、とても魅力的でかわいらしげである。  「あなたの昔の人のことは存じませんが   わたしはあなたを亡くなった娘と思っております」  格別すぐれたのでもない返歌をすばやく言う。人目を忍んで、と言うが、皆がお供したがって、こちらが人少なにおなりになることを気の毒がって、 気の利いた少将の尼と左衛門という大人の女房と、童女だけを残したのであった。  [4-2 浮舟、少将の尼と碁を打つ]  皆が出立したのを見送って、わが身のやりきれなさを思いながらも、「今さらどうしようもない」と、「頼りに思う人が一人もいらっしゃらないのは、心 細いことだわ」と、とても所在ないところに、中将からのお手紙がある。  「御覧ください」と言うが、聞き入れなさらない。いっそう女房も少なくて、何もするこなく過去や将来を考え沈み込んでいらっしゃる。  「つらいほど物思いに沈んでいらっしゃること。御碁をお打ちなさい」  と言う。  「とても下手でした」  とはおっしゃるが、打とうとお思いになったので、碁盤を取りにやって、自分こそはと思って先手をお打たせ申したが、たいそう強いので、また先手 後手を変えて打つ。  「尼上が早くお帰りあそばしたらよいに。この御碁をお見せ申し上げよう。あの方の御碁は、とても強かったわ。僧都の君は、若い時からたいそう お好みになって、まんざらではないとお思いになっていたが、ほんと碁聖大徳気取りで、『出しゃばって打つ気はないが、あなたの御碁にはお負け しませんでしょうね』と申し上げなさったが、とうとう僧都が二敗なさった。碁聖の碁よりもお強くいらっしゃるようです。まあ、強い」  とおもしろがるので、盛りを過ぎた尼額が見苦しいのに、遊びに熱中するので、「厄介なことに手を出してしまったわ」と思って、「気分が悪い」と言 って横におなりになった。  「時々は、気分が晴々するようにお振る舞いなさいませ。あたら若いお身を。ひどく沈んでおいであそばすのは残念で、玉の瑕のような気がいたし ます」  と言う。夕暮の風の音もしみじみとして、思い出すことが多くて、  「わたしには秋の情趣も分からないが   物思いに耽るわが袖に露がこぼれ落ちる」  [4-3 中将来訪、浮舟別室に逃げ込む]  月が出て美しいころに、昼に手紙のあった中将がおいでになった。「まあ、嫌な。これは、どうしたことか」と思われなさって、奥深いところにお入り になるのを、  「そうなさるとは、あまりのお振る舞いでいらっしゃいますわ。ご厚志も、ひとしお身にしむときでございましょう。ちらっとでも申し上げなさるお言葉 をお聞きなさいませ。それだけでも深い仲になったようにお思いあそばしているとは」  などと言うので、とても不安に思われる。いらっしゃらない旨を言うが、昼の使者が、一人残っていると尋ね聞いたのであろう、とても長々と恨み言 をいって、  「お声も聞かなくて結構です。ただ、お側近くで申し上げることを、聞きにくいとも何なりとも、どうぞご判断くださいませ」  と、あれこれ言いあぐねて、  「まことに情けない。場所に応じてこそ、物のあわれもまさるものです。これではあんまりです」  などと、非難しながら、  「山里の秋の夜更けの情趣を   物思いなさる方はご存知でしょう  自然とお心も通じ合いましょうに」  などと言うので、  「尼君がいらっしゃらないので、うまく取り繕い申し上げる者もいません。とても世間知らずのようでしょう」  と責めるので、  「情けない身の上とも分からずに暮らしているわたしを   物思う人だと他人が分かるのですね」  特に返歌というのでもないのを、聞いてお伝え申し上げると、とても感激して、  「もっと、もう少しだけでもお出でください、とお勧め申せ」  と、この女房たちを困り果てるまで恨み言をおっしゃる。  「変なまでに、冷淡にお見えになることです」  と言って、奥に入って見ると、いつもは少しもお入りにならない老人のお部屋にお入りになっていたのであった。驚きあきれて、「これこれです」と 申し上げると、  「このような所で物思いに耽っていらっしゃる方のご心中がお気の毒で、世間一般の様子などにつけても情けの分からない方ではないはずなの に、まるで情けを分からない人よりも、冷淡なおあしらいなさるようです。それも何かひどい経験をなさってのことだろうか。やはり、どのようなことで 世の中を厭って、いつまでここにいらっしゃる予定の方ですか」  などと、様子を尋ねて、たいそう知りたげにお思いになっているが、詳細なことはどうして申し上げられよう。ただ、  「お世話申し上げなさらねばならない方で、長年、疎遠な関係で過していらっしゃったのを、互いに初瀬に参詣なさって、お探し申し上げなさった のです」  と言う。  [4-4 老尼君たちのいびき]  姫君は、「とても気味悪い」とばかり聞いている老人の所に横になって、眠ることもできない。夕方から眠くなるのは、何とも言えないほど大きな鼾 をしいしい、その前にも、似たような老尼どもが二人横になっていて、負けじ劣らじと鼾をかき合っていた。たいそう恐ろしく、「今夜、この人たちに喰 われてしまうのではないか」と思うのも、惜しい身の上ではないが、いつもの心弱さは、一本橋を危ながって引き返したという者のように、心細く思 われる。  こもきを、供に連れて行かれたが、色気づく年頃で、このめずらしい男性が優雅に振る舞っていらっしゃる方に帰って行ってしまった。「今戻って来 ようか、今戻って来ようか」と待っていらしたが、まことに頼りないお付であるよ。中将は、言いあぐねて帰ってしまったので、  「まことに情けなく、引き籠もっていらっしゃること。あたら惜しいご器量を」  などと悪口を言って、一同一緒に寝た。  「夜半になったか」と思うころに、尼君が咳こんで寝惚けて起き出した。灯火の光で、頭の具合はまっ白い上に、黒いものを被って、この君が横に なっているのを、変に思って、鼬とかいうものが、そのようなことをする、額に手を当てて、  「おや。これは、誰ですか」  と、しつこそうな声で見やっているのが、その上、「今すぐにでも取って喰ってしまおうとする」かのように思われる。鬼が取って連れて来た時は、 何も考えられなかったので、かえって安心であった。「どうするのだろう」と思われる不気味さにも、「みじめな姿で生き返り、人並に戻って、再び以 前のいろいろな嫌なことに悩み、厭わしいとか恐ろしいとか、物思いすることよ。死んでしまっていたら、これよりも恐ろしそうなものの中にいたこと だろうか」と想像される。  [4-5 浮舟、悲運のわが身を思う]  昔からのことを、眠れないままに、いつもよりも思い続けていると、  「とても情けなく、父親と申し上げた方のお顔も拝し上げず、遥か遠い東国で代わる代わる年月を過ごして、たまたま探し求めて、嬉しく頼もしくお 思い申し上げた姉君のお側を、不本意のままに縁が切れてしまい、しかるべき方面にとお考えくださった方によって、だんだんと身の不運から抜け 出そうとした矢先に、驚きあきれたように身を過ったのを考えて行くと、宮を、わずかにいとしいとお思い申し上げた心が、まことに良くないことであっ た。ただ、あの方に巡り合った御縁で流れ流れて来たのだ」  と思うと、「橘の小島の色を例にお誓いなさったのを、どうしてすてきだと思ったのだろう」と、すっかり熱もさめたような気がする。初めから、深い愛 情ではなかったがゆったりとした方のことは、この折あの折になどと、思い出すことは比べものにならなかった。「こうして生きていたのだ」と、お耳 にされ申すときの恥ずかしさは、誰よりも一番であろう。何といっても、「この世では、以前のご様子を他人ながらでもいつかは見ようと、ふと思うの は、やはり、悪い考えだ。それさえ思うまい」などと、自分独りで思い直す。  やっとのことで鶏が鳴くのを聞いて、とても嬉しい。「母親のお声を聞いた時には、それ以上にどんな気がするだろう」と思って夜を明かして、気分 もとても悪い。付人としてあちらに行くはずの人もすぐには来ないので、依然として臥せっていらっしゃると、鼾の老婆は、たいそう早く起きて、粥な ど見向きもしたくない食事を大騒ぎして、  「あなたも、早くお召し上がれ」  などと寄って来て言うが、給仕役もまこと気に入らず、嫌な見知らない気がするので、  「気分が悪いので」  と、さりげなく断りなさるのを、無理に勧めるのもとても気がきかない。  [4-6 僧都、宮中へ行く途中に立ち寄る]  身分の低いらしい法師どもなどが大勢来て、  「僧都が、今日下山あそばしますでしょう」  「どうして急に」  と尋ねるようなので、  「一品の宮が、御物の怪にお悩みあそばしたのを、山の座主が、御修法をして差し上げなさったが、やはり、僧都が参上なさらなくては効験がな いといって、昨日、二度お召しがございました。右大臣殿の四位少将が、昨夜、夜が更けて登山あそばして、后宮のお手紙などがございましたの で、下山あそばすのです」  などと、とても得意になって言う。「恥ずかしくても、お目にかかって、尼にしてください、と言おう。口出しする人も少なくて、ちょうどよい機会だ」と 思うと、起きて、  「気分が悪くばかりいますので、僧都が下山あそばしますときに、受戒をしていただこうと思っておりますが、そのように申し上げてください」  と相談なさると、惚けた感じで、ちょっとうなずく。  いつもの部屋のいらして、髪は尼君だけがお梳きになるのを、他人に手を触れさせるのも嫌に思われるが、自分自身では、できないことなので、 ただわずかに梳きおろして、母親にもう一度こうした姿をお見せすることがなくなってしまうのは、自分から望んだこととはいえ、とても悲しい。ひどく 病んだせいだろうか、髪も少し抜けて細くなってしまった感じがするが、それほども衰えていず、たいそう多くて、六尺ほどある末などは、とても美し かった。髪の毛などもたいそうこまやかで美しそうである。  「こうなれと思って髪の世話はしなかったろうに」  と、独り言をおっしゃっていた。  暮れ方に、僧都がおいでになった。南面を片づけ準備して、丸い頭の恰好が、あちこち行ったり来たりしてがやがやしているのも、いつもと違っ て、とても恐ろしい気がする。母尼のお側に参上なさって、  「いかがですか、このごろは」  などと言う。  「東の御方は物詣でをなさったとか。ここにいらっしゃった方は、今でもおいでになりますか」  などとお尋ねになる。  「ええ。ここに残っています。気分が悪いとおっしゃって、受戒をお授かり申したい、とおっしゃいました」  と話す。  [4-7 浮舟、僧都に出家を懇願]  立ってこちらにいらして、「ここに、いらっしゃいますか」と言って、几帳の側にお座りになると、遠慮されるが、膝行して近寄って、お返事をなさる。  「思いもよらずお目にかかったのも、こうなるはずの前世からの宿縁があったのだ、と存じられまして。御祈祷なども、親身にお仕えいたしました が、法師は、特別の用件もなく、お手紙を差し上げたり頂戴したりするのは不都合なので、自然と御無沙汰が続いてしまいました。実に見苦しい様 子で、出家をなさっている方のお側に、どのようにしておいででしたか」  とおっしゃる。  「この世に生きていまいと決心いたしました身が、とても不思議にも今日まで生きておりましたが、つらいと思います一方で、あれこれとお世話い ただいたご厚志を、何とも申し上げようもないわが身ながら、深く存じられますが、やはり、世間並のようには生きて行けず、とうとうこの世になじめ そうになく存じられますので、尼にしてくださいませ。この世に生きていましても、普通の人のように長生きできない身の上です」  と申し上げなさる。  「まだ、たいそう将来の長いお年なのに、どうして一途にそのように、ご決心なさったのですか。かえって罪を作ることになります。思い立って、決 心なさった時は強くお思いになっても、年月がたつと、女のお身の上というものは、まことに不都合なものなのです」  とおっしゃるので、  「子供の時から、物思いばかりをしているような状態で、母親なども、尼にして育てようか、などと思いおっしゃいました。ましてや、少し物心がつ きまして後は、普通の人と違って、せめて来世だけでも、と思う考えが深かったが、死ぬ時がだんだん近くなりましたのでしょうか、気分がとても心 細くばかりなりましたが、やはり、どうか出家を」  と、泣きながらおっしゃる。  [4-8 浮舟、出家す]  「不思議な、このような器量とお姿なのに、どうして身を厭わしく思い始めなさったのだろうか。物の怪もそのように言っていたようだが」と思い合わ せると、「何か深い事情があるのだろう。今までも生きているはずもなかった人なのだ。悪霊が目をつけ始めたので、とても恐ろしく危険なことだ」と お思いになって、  「ともあれ、かくもあれ、ご決心しておっしゃるのを、三宝がたいそう尊くお誉めになることだ。法師の身として反対申し上げるべきことでない。御受 戒は、実にたやすくお授けいたしましょうが、急ぎの用事で下山したので、今夜は、あちらの宮に参上しなければなりません。明日から、御修法が 始まる予定です。その七日間の修法が終わって帰山する時に、お授け申しましょう」  とおっしゃると、「あの尼君がおいでになったら、きっと反対するだろう」と、とても残念なので、  「あの気分が悪かったときと同じようで、ひどく悪うございますので、重くなったら、受戒を授かってもその効がなくなりましょう。やはり、今日は嬉し い機会だと存じられます」  と言って、ひどくお泣きになるので、聖心にもたいそう気の毒に思って、  「夜が更けてしまいましょう。下山しますことは、昔は何とも存じませんでしたが、年をとるにつれて、つらく思われましたので、ひと休みして内裏 へは参上しよう、と思いましたが、そのようにお急ぎになることならば、今日お授けいたしましょう」  とおっしゃるので、とても嬉しくなった。  鋏を取って、櫛の箱の蓋を差し出すと、  「どこですか、大徳たち。こちらへ」  と呼ぶ。最初にお見つけ申した二人がそのままお供していたので、呼び入れて、  「お髪を下ろし申せ」  と言う。なるほど、あの大変であった方のご様子なので、「普通の人としては、この世に生きていらっしゃるのも嫌なことなのであろう」と、この阿闍 梨も道理と思うので、几帳の帷子の隙間から、お髪を掻き出しなさったのが、たいそう惜しく美しいので、しばらくの間、鋏を持ったまま躊躇するの であった。   5 浮舟の物語 浮舟、出家後の物語  [5-1 少将の尼、浮舟の出家に気も動転]  このような間に、少将の尼は、兄の阿闍梨が来ていたのと会って、下の方にいた。左衛門は、自分の知り合いに応対するということで、このような 所ではと、みなそれぞれに、好意をもっている人たちが久しぶりにやって来たので、簡単なもてなしをし、あれこれ気を配っていたりしたところに、こ もきただ一人が、「これこれです」と少将の尼に知らせたので、驚いて来て見ると、ご自分の法衣や、袈裟などを、形式ばかりとお着せ申して、  「親のいられる方角をお拝み申し上げなされ」  と言うと、どの方角とも分からないので、堪えきれなくなって、泣いてしまわれなさった。  「まあ、何と情けない。どうして、このような早まったことをあそばしたのですか。尼上が、お帰りあそばしたら、何とおっしゃることでしょう」  と言うが、これほど進んでしまったところで、とかく言って迷わせるのもよくないと思って、僧都が制止なさるので、近寄って妨げることもできない。  「流転三界中」  などと言うのにも、「既に断ち切ったものを」と思い出すのも、さすがに悲しいのであった。お髪も削ぎかねて、  「ゆっくりと、尼君たちに、直していただきなさい」  と言う。額髪は僧都がお削ぎになる。  「このようなご器量を剃髪なさって、後悔なさるなよ」  などと、有り難いお言葉を説いて聞かせなさる。「すぐにも許していただけそうもなく、皆が言い利かせていらしたことを、嬉しいことに果たしたこと」 と、このことだけを生きている甲斐があったように思われなさるのであった。  [5-2 浮舟、手習に心を託す]  僧都一行の人びとが出て行って静かになった。夜の風の音に、この人びとは、  「心細いご生活も、もうしばらくの間のことだ。すぐにとても素晴らしい良縁がおありになろう、と期待申していたお身の上を、このようになさって、 生い先長いご将来を、どのようになさろうとするのだろうか。老いて弱った人でさえ、今は最期と思われて、とても悲しい気がするものでございます」  と言って聞かせるが、「やはり、ただ今は、気が楽になって嬉しい。この世に生きて行かねばならないと、考えずにすむようになったことは、とても 結構なことだ」と、胸がほっとした気がなさるのであった。  翌朝は、何といっても人の認めない出家なので、尼姿を見せるのもとても恥ずかしく、髪の裾が、急にばらばらになったように、しかもだらしなく削 がれているのを、「うるさいことを言わないで、繕ってくれる人がいたら」と、何事につけても、気がねされて、あたりをわざと暗くしていらっしゃる。思 っていることを人に詳しく説明するようなことは、もともと上手でない身なのに、まして親しく事の経緯を説明するにふさわしい人さえいないので、た だ硯に向かって、思い余る時は、手習いだけを、精一杯の仕事として、お書きになる。  「死のうとわが身をも人をも思いながら   捨てた世をさらにまた捨てたのだ  今は、こうしてすべてを終わりにしたのだ」  と書いても、やはり、自然としみじみと御覧になる。  「最期と思い決めた世の中を   繰り返し背くことになったわ」  [5-3 中将からの和歌に返歌す]  同じような内容を、あれこれ気の向くまま書いていらっしゃるところに、中将からのお手紙がある。何かと騒がしくあきれて動転しているときなの で、「これこれしかじかの事でした」などと返事したのだった。たいそうがっかりして、  「このような考えが深くあった人だったので、ちょっとした返事も出すまいと、思い離れていたのだなあ。それにしてもがっかりしたなあ。たいそう美 しく見えた髪を、はっきりと見せてくださいと、先夜も頼んだところ、適当な機会に、と言っていたものを」  と、たいそう残念で、すぐ折り返して、  「何とも申し上げようのない気持ちは、   岸から遠くに漕ぎ離れて行く海人舟に   わたしも乗り後れまいと急がれる気がします」  いつもと違って取って御覧になる。何となくしみじみとした時に、これで終わりと思うのも感慨深いが、どのようにお思いなさったのだろう、とても粗 末な紙の端に、  「心は厭わしい世の中を離れたが   その行く方もわからず漂っている海人の浮木です」  と、いつもの、手習いなさっていたのを、包んで差し上げる。  「せめて書き写して」  とおっしゃるが、  「かえって書き損じましょう」  と言って送った。珍しいにつけても、何とも言いようなく悲しく思われるのだった。  物詣での人はお帰りになって、悲しみ驚きなさること、この上ない。  「このような尼の身としては、お勧め申すのこそが本来だ、と思っていますが、将来の長いお身の上を、どのようにお過ごしなさるのでしょうか。わ たしが、この世に生きておりますことは、今日、明日とも分からないのに、何とか安心してお残し申してゆこうと、いろいろと考えまして、仏様にもお 祈り申し上げておりましたのに」  と、泣き臥し倒れながら、ひどく悲しげに思っていらっしゃるので、実の母親が、あのまま亡骸さえないものよと、お嘆き悲しみなさったろうことが推 量されるのが、まっさきにとても悲しかった。いつものように、返事もしないで背を向けていらっしゃる様子、とても若々しくかわいらしいので、「とても 頼りなくいらっしゃるお心だこと」と、泣きながら御法衣のことなど準備なさる。  鈍色の法衣は手馴れたことなので、小袿や、袈裟などを仕立てた。仕えている女房たちも、このような色を縫ってお着せ申し上げるにつけても、 「まことに思いがけず、嬉しい山里の光明だと、明け暮れ拝しておりましたものを、残念なことだわ」  と惜しがりながら、僧都を恨み非難するのであった。  [5-4 僧都、女一宮に伺候]  一品の宮のご病気は、なるほど、あの弟子が言っていたとおりに、はっきりした効験があって、ご平癒あそばしたので、ますますまことに尊い方 だと大騒ぎする。病後も油断ならないとして、御修法を延長させなさったので、すぐにも帰山することができず伺候なさっていたが、雨などが降っ て、ひっそりとした夜、お召しがあって、夜居に伺候させなさる。  何日もの看病に疲れた女房は、みな休みをとって、御前には人少なで、近くに起きている女房も少ないときに、一品の宮と同じ御帳台においであ そばして、  「昔からご信頼申し上げていらっしゃる中でも、今度のことでは、ますます来世もこのように救ってくれるものと、頼もしさが一段と増しました」  などと仰せになる。  「この世に長く生きていられそうにないように、仏もお諭しになっていることどもがございます中で、今年、来年は、過ごしがたいようでございます ので、仏を一心にお祈り申しっましょうと思って、深く籠もっておりましたが、このような仰せ言で、下山して参りました」  などと申し上げなさる。  [5-5 僧都、女一宮に宇治の出来事を語る]  御物の怪の執念深いことや、いろいろと正体を明かすのが恐ろしいことなどをおっしゃるついでに、  「まことに不思議な、珍しいことを拝見しました。この三月に、年老いております母が、願があって初瀬に参詣しましたが、その帰りの休憩所に、 宇治院といいます所に泊まりましたが、あのように、人が住まなくなって何年もたった大きな邸は、けしからぬものが必ず通い住んで、重病の者に とっては不都合なことが、と存じておりましたのも、そのとおりで」  と言って、あの見つけた女のことなどをお話し申し上げなさる。  「なるほど、まことに珍しいこと」  と言って、近くに伺候する女房たちがみな眠っているので、恐ろしくお思いになって、お起こしあそばす。大将が親しくなさっている宰相の君がおり しも、このことを聞いたのであった。目を覚まさせた女房たちは、何の関心も示さない。僧都は、恐がっておいであそばすご様子なので、「つまらな いことを申し上げてしまった」と思って、詳しくその時のことを申し上げることは言い止めた。  「その女人は、今度下山しました機会に、小野におります僧尼たちを訪ねようと思って、立ち寄ったところ、泣く泣く出家の念願の強い旨を、熱心 に頼まれましたので、髪を下ろしてやりました。  わたしの妹は、故衛門督の妻でございました尼で、亡くなった娘の代わりにと、思って喜びまして、随分大切にお世話しましたが、このように出家 してしまったので、恨んでいるのでございます。なるほど、器量はまことによく整って美しくて、勤行のため身をやつすのもお気の毒でございました。 どのような人であったのでしょうか」  と、よくしゃべる僧都なので、話し続けて申し上げなさるので、  「どうして、そのような所に、身分のある人を連れて行ったのでしょうか。いくら何でも、今では素性は知られたでしょう」  などと、この宰相の君が尋ねる。  「分かりません。でもそのように、ひそかに打ち明けているかも知れません。ほんとうに高貴な方ならば、どうして、分からないままでいましょうか。 田舎者の娘も、そのような恰好をした者はございましょう。龍の中から、仏がお生まれにならないことがございましょうか。普通の人としては、まこと に前世の罪障が軽いと思われる人でございました」  などと申し上げなさる。  そのころ、あの近辺で消えていなくなった人をお思い出しになる。この御前に伺候する女房も、姉君の伝聞で、不思議に亡くなった人とは聞いて いたので、「その人であろうか」とは思ったが、はっきりしないことである。僧都も、  「あの人は、この世に生きていると知られまいと、よからぬ敵のような人でもいるようにほのめかして、こっそり隠れておりますのを、事の様子が異 常なので、申し上げたのです」  と、何か隠している様子なので、誰にも話さない。中宮は、  「その人であろうか。大将に聞かせたい」  と、この人におっしゃったが、どちらの方も隠しておきたいはずのことを、確かにそうとも分からないうちに、気恥ずかしい方に、話し出すのも気がひ けて思われなさって、そのままになった。  [5-6 僧都、山荘に立ち寄り山へ帰る]  姫宮がすっかりよくおなりになったので、僧都も帰山なさった。あちらにお寄りになると、ひどく恨んで、  「かえって、このようなお姿になっては、罪障を受くることになりましょうに、ご相談もなさらずじまいだったとは、何ともおかしなこと」  などとおっしゃるが、どうにもならない。  「今はもう、ひたすらお勤めをなさいませ。老人も、若い人も、生死は無常の世です。はかないこの世とお悟りになっているのも、ごもっともなお身 の上ですから」  とおっしゃるにつけても、たいそう恥ずかしく思われるのであった。  「御法服を新しくなさい」  と言って、綾、羅、絹などという物を、差し上げ置きなさる。  「拙僧が生きております間は、お世話いたしましょう。何をご心配なさることがありましょう。この世に生まれ来て、俗世の栄華を願い執着している 限りは、不自由で世を捨てがたく、誰も彼もお思いのことのようです。このような林の中でお勤めなさる身の上は、何事に不満を抱いたり引けめを感 じることがありましょうか。人の寿命は、葉の薄いようなものです」  と説教して、  「松の門に暁となって月が徘徊す」  と、法師であるが、たいそう風流で気恥ずかしい態度におっしゃることどもを、「期待していたとおりにおっしゃってくださることだ」と聞いていた。  [5-7 中将、小野山荘に来訪]  今日は、一日中吹いている風の音もとても心細いうえに、お立ち寄りになった僧都も、  「ああ、山伏は、このような日には、声を出して泣けるということだ」  と言うのを聞いて、「わたしも今では山伏と同じである。もっともなことで涙が止まらないのだ」と思いながら、端の方に立ち出て見ると、遥か遠く軒 端から、狩衣姿が色とりどりに混じって見える。山へ登って行く人だといっても、こちらの道は、行き来する人もたまにしかいないのである。黒谷とか いう方面から歩いて来る法師の道だけが、まれには見られるが、俗世の人の姿を見つけたのは、場違いに珍しいが、あの恨みあぐねていた中将 なのであった。  今さら言ってもはじまらないことを言おうと思ってやって来たのだが、紅葉がたいそう美しく、他の紅葉よりいっそう色染めているのが色鮮やかな ので、入って来るなり感慨深いのであった。「ここに、とても屈託なさそうな人を見つけたら、奇妙な気がするだろう」などと思って、  「暇があって、何もすることのない気がしましたので、紅葉もどのようなものかしらと存じまして。やはり、昔に返って泊まって行きたい紅葉の木の 下ですね」  と言って、外を見やっていらっしゃる。尼君が、例によって、涙もろくて、  「木枯らしが吹いた山の麓では   もう姿を隠す場所さえありません」  とおっしゃると、  「待っている人もいないと思う山里の   梢を見ながらもやはり素通りしにくいのです」  言ってもはじまらないお方のことを、やはり諦めきれずにおっしゃって、  「出家なさった姿を、少し見せよ」  と、少将の尼におっしゃる。  「せめてそれだけでも、以前の約束の証とせよ」  と責めなさるので、入って見ると、わざわざとでも人に見せてやりたいほどの美しいお姿をしていらっしゃる。薄鈍色の綾、その下には萱草など の、澄んだ色を着て、とても小柄な感じで、姿形が美しく、はなやかなお顔だちで、髪は五重の扇を広げたように、豊かな裾である。  こまやかに美しい顔だちで、化粧をたいそうしたように、明るくかがやいていた。お勤めなどをなさるにも、やはり数珠は近くの几帳にちょっと懸け て、お経を一心に読んでいらっしゃる様子は、絵にも描きたいほどである。  ちらっと見るたびに涙が止めがたい気がするのを、「まして懸想をなさっている男は、どのように拝見なさっていようか」と思って、ちょうどよい機会 だったのか、障子の掛金の側に開いている穴を教えて、邪魔になる几帳などを取り除けた。  「とてもこれほど美しい人だとは思わなかった。ひどく物思いに沈んでいるような人であったが」と、自分が出家させた過ちのように、惜しく悔しく悲 しいので、抑えることもできず、気も狂わんばかりの、気持ちを感づかれては困るので、引き下がった。  [5-8 中将、浮舟に和歌を贈って帰る]  「これほどの器量をした人を失って、探さない人があったりしようか。また、誰それの人の娘が、行く方知れずに見えなくなったとか、もしくは何か 恨んで、出家してしまったなど、自然と知れてしまうものだが」などと、不思議と繰り返し思う。  「尼であっても、このような様子をしたような人は嫌な感じもするまい」などと、「かえって一段と見栄えがしてお気の毒なはずが、人目を忍んでい る様子なので、やはり自分の物にしてしまおう」と思うと、真剣に話しかける。  「普通の人の時にはご遠慮なさることもあったでしょうが、このような尼姿におなりになっては、気がねなく申し上げられそうでございます。そのよ うにお諭し申し上げてください。過去のことが忘れがたくて、このようにやって参ったのですが、さらにまた、もう一つの気持ちも加わりまして」  などとおっしゃる。  「まことに将来が心細く、不安な様子でございますので、真剣な態度でお忘れにならずお訪ねくださることは、とても嬉しく、存じておきましょう。亡 くなりました後は、不憫に存じられましょう」  と言って、お泣きになるので、「この尼君も遠縁に当たる人なのであろう。誰なのだろう」と思い当たらない。  「将来のご後見は、寿命も分からず頼りない身ですが、このように申し上げました以上は、けっして変わりません。お探し申し上げなさるはずの方 は、本当にいらっしゃらないのですか。そのようなことがはっきりしませんので、気がねすべきことでもございませんが、やはり水くさい気がしてなり ません」  とおっしゃると、  「人に知られるような恰好で、暮らしていらっしゃったら、もしや探し出す人もございましょう。今は、このような生活を、決意した様子です。気持ちの 向きも、そのようにばかり見えます」  などとお話しになる。  こちらにも言葉をお掛けになった。  「一般の俗世間をお捨てになったあなた様ですが   わたしをお厭いなさるのにつけ、つらく存じられます」  心をこめて親切に申し上げなさることなどを、たくさん取り次ぐ。  「兄弟とお考えください。ちょっとした世間話なども申し上げて、お慰めしましょう」  などと言い続ける。  「むつかしいお話など、分かるはずもないのが残念です」  と答えて、この嫌っているということへの返事はなさらない。「思いもかけなかった情ないことのあった身の上なので、ほんとうに厭わしい。まったく 枯木などのようになって、世間から忘れられて終わりたい」とおあしらいになる。  だから、今まで鬱々とふさぎこんで、物思いばかりしていらしたのも、出家の念願がお叶いになって後は、少し気分が晴れ晴れとして、尼君とちょ っと冗談を言い交わし、碁を打ったりなどして、毎日お暮らしになっている。お勤めも実に熱心に行って、法華経は言うまでもない。他の教典なども、 とてもたくさんお読みになる。雪が深く降り積もって、人目もなくなったころは、ほんとうに心のやりばがなかった。   6 浮舟の物語 薫、浮舟生存を聞き知る  [6-1 新年、浮舟と尼君、和歌を詠み交す]  年が改まった。春の兆しも見えず、氷が張りつめた川の水が音を立てないのまでが心細くて、「あなたに迷っています」とおっしゃった方は、嫌だ とすっかり思い捨てていたが、やはりその当時のことなどは忘れなていない。  「降りしきる野山の雪を眺めていても   昔のことが今日も悲しく思い出される」  などと、いつもの、慰めの手習いを、お勤めの合間になさる。「わたしがいなくなって、年も変わったが、思い出す人もきっといるだろう」などと、思 い出す時も多かった。若菜を粗末な籠に入れて、人が持って来たのを、尼君が見て、  「山里の雪の間に生えた若菜を摘み祝っては   やはりあなたの将来が期待されます」  と言って、こちらに差し上げなさったので、  「雪の深い野辺の若菜も今日からは   あなた様のために長寿を祈って摘みましょう」  とあるのを、「きっとそのようにお思いであろう」と感慨深くなるのも、「これがお世話しがいのあるお姿と思えたら」と、本気でお泣きになる。  寝室の近くの紅梅が色も香も昔と変わらないのを、「春や昔の」と、他の花よりもこの花に愛着を感じるのは、はかなかった宮のことが忘れられな かったからあろうか。後夜に閼伽を奉りなさる。身分の低い尼で少し若いのがいるのを、呼び出して折らせると、恨みがましく散るにつけて、ますま す匂って来るので、  「袖を触れ合った人の姿は見えないが、花の香が   あの人の香と同じように匂って来る、春の夜明けよ」  [6-2 大尼君の孫、紀伊守、山荘に来訪]  大尼君の孫で紀伊守であった者が、このころ上京して来た。三十歳ほどで、容貌も美しげで誇らしい様子をしていた。  「いかがでしたか、去年や、一昨年は」  などとお尋ねになるが、耄碌した様子なので、こちらに来て、  「とてもすっかり、耄碌しておしまいになった。お気の毒なことですね。残り少ないご様子を、拝し上げることもむずかしくて、遠い所で年月を過ごし ておりますことよ。両親がお亡くなりになって以後は、祖母お一方を、親代わりにお思い申し上げておりました。常陸介の北の方は、お便り差し上 げなさいますか」  と言うのは、その妹なのであろう。  「年月のたつにつれて、することもないままに悲しいことばかりが増えて。常陸は、長いことお便り申し上げなさらないようです。お待ち申し上げる こともできないようにお見えになります」  とおっしゃるので、「自分の親の名前だ」と、無関係ながらも耳にとまったが、また言うことには、  「上京して何日にもなりましたが、公務がたいそう忙しくて、面倒なことばかりにかかずらっておりまして。昨日もお伺いしようと存じておりましたの に、右大将殿が宇治へお出かけになるお供にお仕えしまして、故八の宮がお住まいになっていた所にいらして、一日中お過ごしになりました。  故宮の娘にお通いになっていたが、まずお一方は先年お亡くなりになりました。その妹に、再びこっそりと住まわせ申していらしたが、去年の春 またお亡くなりになったので、その一周忌のご法事をあそばしますことを、あの寺の律師に、しかるべき事柄をお命じになって、わたしも、その女装 束一領を、調製しなければならないのですが、こちらで作ってくださいませんでしょうか。織る材料は、急いで準備させましょう」  と言うのを聞くと、どうして胸を打たないことがあろう。「人が変だと見るだろう」と気がひけて、奥の方を向いて座っていた。尼君が、  「あの聖の親王の姫君は、お二方と聞いていたが、兵部卿宮の北の方は、どちらですか」  とおっしゃると、  「この大将殿の二人目の方は、妾腹なのでしょう。特に表立った扱いをしなかったのですが、ひどくお悲しみになっているのです。最初の方は、ま た大変なお悲しみようでした。もう少しのところで出家なさってしまいそうなところでした」  などと話す。  [6-3 浮舟、薫の噂など漏れ聞く]  「あの方の親しい人であった」と見るにつけても、やはり恐ろしい。  「不思議と、二人も同じように、あそこでお亡くなりなったことだ。昨日も、たいそうおいたわしゅうございました。宇治川に近い所で、川の水を覗き 込みなさって、ひどくお泣きになった。上の部屋にお上りになって、柱にお書きつけなさった、   あの人は跡形もとどめず、身を投げたその川の面に   いっしょに落ちるわたしの涙がますます止めがたいことよ  とございました。言葉に現しておっしゃることは少ないが、ただ、態度には、まことにおいたわしいご様子にお見えでした。女は、たいそう賞賛する にちがいないほどでした。若うございました時から、ご立派でいらっしゃるとすっかり拝見していましたので、世の中の第一の権力者のところも、何 とも思いませんで、ただ、この殿だけを信頼申し上げて、過ごして参りました」  と話すので、「特別に深い思慮もなさそうなこのような人でさえ、ご様子はお分かりになったのだ」と思う。尼君は、  「光る君と申し上げた故院のご様子には、お並びになることはできまいと思われますが、ただ今の世で、この一族が賞賛されているそうですね。 右の大殿とはどうですか」  とおっしゃると、  「あの方は、器量もまことに凛々しく美しくて、貫祿があって、身分が格別なようでいらっしゃいます。兵部卿宮が、たいそう美しくいらっしゃいます ね。女の身として親しくお仕えいたしたい、と思われます」  などと、誰かが教えたように言い続ける。感慨深く興味深くも聞くにつけ、わが身の上もこの世のことと思われない。すっかり話しおいて出て行っ た。  [6-4 浮舟、尼君と語り交す]  「お忘れになっていないのだ」としみじみと思うが、ますます母君のご心中が推し量られるが、かえって何とも言いようのない姿をお見せ申し上げ るのは、やはりとても気がひけるのであった。あの人が言ったことなど、衣装の染める準備をするのを見るにつけても、不思議な有りえないような気 がするが、とても口にはお出しになれない。物を裁ったり縫ったりなどするのを、  「これを手伝ってください。とても上手に折り曲げなされるから」  と言って、小袿の単衣をお渡し申すのを、嫌な気がするので、「気分が悪い」と言って、手も触れず横になっていらっしゃった。尼君は、急ぐことを 放って、「どのようなお加減か」などと心配なさる。紅に桜の織物の袿を重ねて、  「御前様には、このような物をお召しになるのがよいでしょうに。あさましい墨染ですこと」  と言う女房もいる。  「尼衣に変わった身の上で、昔の形見として   この華やかな衣装を身につけて、今さら昔を偲ぼうか」  と書いて、「お気の毒に、亡くなった後に、隠し通すこともできない世の中なので、聞き合わせたりなどして、疎ましいまでに隠していた、と思うだ ろうか」などと、いろいろと思いながら、  「過ぎ去ったことは、すっかり忘れてしまいましたので、このようなことをお急ぎになることにつけ、何かしらしみじみと感じられるのです」  とおっとりとおっしゃる。  「そうはおっしゃっても、お思い出しになることは多くありましょうが、いつまでもお隠しになっているのが情けないですわ。わたしは、このような世 俗の人の着る色合いなどは、長いこと忘れてしまったので、平凡にしかできませんので、亡くなった娘が生きていたら、などと思い出されます。そ のようにお世話申し上げなさった母君は、この世においでですか。そのまま、娘を亡くした母でさえ、やはりどこかに生きていようか、その居場所だ けでも尋ね聞きたく思われますのに、その行く方も分からず、ご心配申し上げていらっしゃる方々がございましょう」  とおっしゃるので、  「俗世にいた時は、片親ございました。ここ数か月の間にお亡くなりなったかも知れません」  と言って、涙が落ちるのを紛らわして、  「かえって思い出しますことにつけて、嫌に思われますので、申し上げることができません。隠し事はどうしてございましょうか」  と、言葉少なにおっしゃった。  [6-5 薫、明石中宮のもとに参上]  大将は、この一周忌の法事なをおさせにになって、「あっけなくて、終わってしまったな」としみじみとお思いになる。あの常陸の子どもは、元服し た者は、蔵人にして、ご自分の近衛府の将監に就けたりなど、面倒を見ておやりになった。「童であるが、中に小綺麗なのを、お側近くに召し使お う」とお思いになっていたのであった。  雨などが降ってひっそりとした夜に、后の宮に参上なさった。御前はのんびりとした日なので、お話などを申し上げるついでに、  「辺鄙な山里に、何年も通っておりましたところ、人の非難もございましたが、そのようになるはずの運命であったのでしょう。誰でも気に入った向 きのことは、同じなのだ、と納得させながら、やはり時々逢っておりましたところ、場所柄のせいかと、嫌に思うことがございまして以後は、道のりも 遠くに感じられまして、長いこと通わないでいましたが、最近、ある機会に行きまして、はかないこの世の有様を重ね重ね存じられましたので、こと さらにわが道心を起こすために造っておかれた、聖の住処のように思われました」  と申し上げなさるので、あのことをお思い出しになって、とてもお気の毒なので、  「そこには、恐ろしいものが住んでいるのでしょうか。どのようにして、その方は亡くなったのですか」  とお尋ねあそばすのを、「やはり、引き続いての死去をお考えになってか」と思って、  「そうかも知れません。そのような人里離れた所には、けしからぬものがきっと住みついているのでしょうよ。亡くなった様子も、まことに不思議で ございました」  と言って、詳しくは申し上げなさらない。「やはり、このように隠している事柄を、すっかり聞き出してるのだわ」とお思いなさるようなのが、実に気 の毒にお思いになり、宮が、物思いに沈んで、その当時病気におなりになったのを、思い合わせなさると、やはり何といっても心が痛んで、「どちら の立場からも口出しにくい方の話だ」とおやめになった。  小宰相に、こっそりと、  「大将は、あの人のことを、とてもしみじみと思ってお話になったが、お気の毒で、打ち明けてしまいそうだったが、その人かどうかも分からないか らと、気がひけてね。あなたは、あれこれ聞いていたわね。不都合と思われるようなことは隠して、こういうことがあったと、世間話のついでに、僧都 が言ったことを話しなさい」  と仰せになる。  「御前様でさえ遠慮あそばしているようなことを。まして、他人のわたしにはお話しできません」  申し上げるが、  「時と場合によります。また、わたしには不都合な事情があるのですよ」  と仰せになるが、真意を理解して、素晴らしい心遣いだと拝する。  [6-6 小宰相、薫に僧都の話を語る]  立ち寄ってお話などなさるついでに、言い出した。珍しくも不思議なことだと、どうして驚かないことがあろう。「宮がお尋ねあそばしたことも、この ようなことを、ちらっとお聞きあそばしてのことだったのだ。どうして、すっかり話してくださらなかったのだろう」とつらい思いがするが、  「自分もまた初めからの様子を申し上げなかったのだから、こうして聞いた後にも、やはり馬鹿らしい気がして、他人には全部話さないのを、かえ って他では聞いていることもあろう。現実の人びとの中で隠していることでさえ、隠し通せる世の中だろうか」  などと考え込んで、「この人にも、これこれであった」などと、打ち明けなさることは、やはり話にくい気がして、  「やはり、不思議に思った女の身の上と、似ていた人の様子ですね。ところで、その人は、今も無事でいますか」  とお尋ねになると、  「あの僧都が山から下りた日に、尼にしました。ひどく病んでいた時には、世話する人が惜しんでさせなかったが、ご本人が深い念願だと言って なってしまったのだ、ということでございました」  と言う。場所も違わず、その当時のありさまなどを思い合わせると、違うところがないので、  「本当にその女だと探し出したら、とても嫌な気がするだろうな。どうしたら、確実なことが聞けようか。自分自身で直接訪ねて行くのも、愚かしい などと人が言ったりしようか。また、あの宮が聞きつけなさったら、きっと思い出しなさって、決心なさっていた仏道もお妨げなさることであろう。  そのようなわけで、『そのようなことをおっしゃるな』などと、申し上げおきなさったせいであろうか、わたしには、そのようなことを聞いたと、そのよう な珍しいことをお聞きあそばしながら、仰せにならなかったのであろうか。宮も関係なさっていては、せつなくいとしいと思いながらも、きっぱりと、そ のまま亡くなってしまったものと思い諦めよう。  この世の人として立ち戻ったならば、いつの日にか、黄泉のほとりの話を、自然と話し合える時もきっとあろう。自分の女として取り戻して世話す るような考えは、二度と持つまい」  などと思い乱れて、「やはり、仰せにならないだろう」という気はするが、ご様子が気にかかるので、大宮に、適当な機会を作り出して、申し上げな さる。  [6-7 薫、明石中宮に対面し、横川に赴く]  「思いがけないことで、亡くなってしまったと存じておりました女が、この世に落ちぶれて生きているように、人が話してくれました。どうして、その ようなことがございましょうか、と存じますが、自分から大胆なことをして、離れて行くようなことはしないであろうか、とずっと思い続けていた女の様 子でございますので、人の話してくれたような事情では、そのようなこともございましょうかと、似ているように存じられました」  と言って、もう少し申し上げなさる。宮のお身の上の事を、とても憚りあるように、そうはいっても恨んでいるようにはおっしゃらないで、  「あのことを、またこれこれとお耳になさいましたら、頑固で好色なようにお思いなさるでしょう。まったく、そうして生きていたとしても、知らない顔を して過ごしましょう」  と申し上げなさると、  「僧都が話したことですが、とても気味の悪かった夜のことで、耳も止めなかったことなのです。宮は、どうしてご存知でしょう。何とも申し上げよう のないご料簡だ、と思いますので、ましてその話をお聞きつけなさるのは、まことに困ったことです。このようなことにつけて、まことに軽々しく困った 方だとばかり、世間にお知られになっているようなので、情けなく思っています」  などと仰せになる。「とても慎重なお人柄なので、必ずしも、気安い世間話であっても、誰かがこっそりと申し上げたことを、お漏らしあそばすまい」 などとお思いになる。  「その住んでいるという山里はどの辺であろうか。どのようにして、体裁悪くなく探し出せようか。僧都に会って、確かな様子を聞き合わせたりし て、ともかく訪ねるのがよかろう」などと、ただ、このことばかりを寝ても覚めてもお考えになる。  毎月の八日は、必ず仏事をおさせになるので、薬師仏にご寄進申し上げなさろうとお出かけになるついでに、根本中堂には、時々お参りになっ た。そこからそのまま横川においでになろうとお考えになって、あの弟の童である者を、連れておいでになる。「その人たちには、すぐには知らせま い。その時の状況を見てからにしよう」とお思いになるが、再会した時の夢のような心地の上につけて、しみじみとした感慨を加えようというつもりで あったのだろうか。そうはいっても、「その人だと分かったものの、みすぼらしい姿で、尼姿の人たちの中に暮らしていて、嫌なことを耳にしたりする のは、ひどくつらいことであろう」と、いろいろと道すがら思い乱れなさったことだろうか。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版 Last updated 2/18/99 渋谷栄一訳(C)   夢浮橋 薫君の大納言時代28歳の夏の物語 1 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く 1.薫、横川に出向く---比叡山においでになって、いつもおさせになるように、お経や仏像などを 2.僧都、薫に宇治での出来事を語る---僧都は、「やはりそうであったか。普通の女とは見えなかった 3.薫、僧都に浮舟との面会を依頼---「そうであったのか」と、ちらっと聞いて 4.僧都、浮舟への手紙を書く---あの弟の童を、お供として連れておいでになっていた 5.浮舟、薫らの帰りを見る---小野では、たいそう青々と茂っている青葉の山に向かって 2 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない 1.薫、浮舟のもとに小君を遣わす---あの殿は、「この子をそのまま遣わそう」とお思いになったが 2.小君、小野山荘の浮舟を訪問---不思議に思うが、「これこそは、それでは、確かな 3.浮舟、小君との面会を拒む---疑う余地もなく、はっきりお書きになっているが 4.小君、薫からの手紙を渡す---この子も、そうは聞いていたが、子供なので、唐突に言葉かけるのも 5.浮舟、薫への返事を拒む---このようにこまごまとお書きになっている様子が、紛れようも 6.小君、空しく帰り来る---山里らしい趣のある饗応などをしたが   1 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く  [1-1 薫、横川に出向く]  比叡山においでになって、いつもおさせになるように、お経や仏像などをご供養させになる。翌日は、横川においでになったので、僧都は恐縮し てご挨拶申し上げなさる。  何年も、ご祈祷などお頼みなさっていたが、特別に親密ということはなかったが、先般、一品の宮のご不快の折に伺候なさっていたときに、「格別 すぐれた効験がおありであった」と御覧になってから、この上なく尊敬なさって、もう少し深いご縁をお結びになったので、「重々しくおいでになる殿 が、このようにわざわざ訪ねていらしたこと」と、大仰にお持てなし申し上げなさる。お話など、親密になさっているので、御湯漬などを差し上げなさ る。  少し人びとが静かになったので、  「小野の辺りに、お持ちの家はございませんか」  と、お尋ねになると、  「さようでございます。ひどくみすぼらしい家です。拙僧の母親の老尼がおりますが、京にしっかりした家もございませんうえに、こうして籠もってお ります間は、夜中、暁でも、お見舞いしよう、と存じております」  などと申し上げなさる。  「その近辺には、つい最近まで、人が多く住んでおりましたが、今では、たいそうひっそりとなって行くようですね」  などとおっしゃって、もう少し近寄って、小声で、  「まことにとりとめのない気のする話ですが、また一方、お尋ね申し上げるにつけては、どのようなことでかと、合点が行かず思われなさるでしょう が、どちらにしても、遠慮されますが、あの山里に、世話しなければならない人が隠れていますように聞きましたが。はっきりと確かめてからなら、 どのような様子で、などとお漏らし申し上げましょう、などと考えておりますうちに、お弟子になって、戒律などをお授けになった、と聞きましたのは、 本当ですか。まだ年齢も若く、親などもいた人なので、わたしが死なせてしまったように、恨み言を申す人がおりますので」  などとおっしゃる。  [1-2 僧都、薫に宇治での出来事を語る]  僧都は、「やはりそうであったか。普通の女とは見えなかった様子であった。このようにまでおっしゃるのは、並々にはお思いでいらっしゃらなかっ た人なのであろう」と思うと、「法師の役目とは言いながらも、考えもなく、すぐに尼姿いしてしまったことよ」と、胸がどきりとして、お答え申し上げる ことに思案なさる。  「確かなことを聞いていらっしゃるのだろう。これほどご承知で、お尋ねなさるのに、隠しきれるものでない。なまじ無理に隠そうとするのも、つまら ないことであろう」などと、しばらく考えを決めて、  「どのようなことでございましょうか。ここ何か月か、内々に不審に存じておりました女のお身の上のことでしょうか」と言って、  「あちらにおります尼たちが、初瀬に祈願がございまして、参詣して帰って来た道中で、宇治院という所に泊まりましたところ、母親の尼の疲労が 急に起こって、ひどく患っているという報せを、人が報告して来たので、 下山して出向きましたところに、さっそく不思議なことが」  と声をひそめて、  「母親が今にも死にそうなのは差し置いて、介抱して心配しておりました。この人も、お亡くなりになったような様子ながら、やはり息はしていらっ しゃいましたので、昔物語に、霊殿に置いておいた人の話を思い出して、そのようなことであろうかと、珍しがりまして、弟子の僧の中で効験のある 者どもを呼び寄せては、交替で加持させたりしました。  拙僧は、惜しむほどの年齢ではないが、母親が旅の途上で病気が重いのを助けて、念仏を一心不乱にしようと、仏にお祈り申しておりましたとき なので、その人の様子、詳しくは拝見せずにおりました。事情を推察しますに、天狗や木霊などのようなものが、誑かしてお連れ申したのか、と理 解しておりました。  助けて、京にお連れ申して後も、三か月間は死んだ人のようでいらっしゃいましたが、拙僧の妹で、故衛門督の北の方でございました者が、尼に なっておりますのが、一人持っていた女の子を亡くして後、月日はたくさん過ぎましたが、悲しみを忘れず嘆いておりましたところ、同じ年くらいに見 える人で、このように器量もとても端整で美しい方を発見申して、観音が授けてくださったと喜んで、この人をお死なせ申すまいと、一生懸命になり まして、泣きながら熱心に救ってほしいと懇願申されたので。  後に、あの坂本に拙僧自身で下山して行きまして、護身などを修法いたしましたところ、だんだんと生き返って普通にお戻りになりましたが、『や はり、このとり憑いた物の怪が、身から離れないような気がする。この悪霊の妨げから逃れて、来世を祈りたい』などと、悲しそうにおっしゃることが ございましたので、法師の勤めとしては、お勧め申すべきことと存じまして、本当に出家させ申し上げてしまったのでございます。  まったく、お世話なさるはずの方とは、どうして何もなしに分かりましょう。珍しい事の様子ですので、世間話の種にもなりそうですが、噂になっ て、厄介なことになってはいけないと、この老女どもがあれこれ申して、この何か月間は、黙っておりました」  と申し上げなさると、  [1-3 薫、僧都に浮舟との面会を依頼]  「そうであったのか」と、ちらっと聞いて、ここまで尋ね出しなさったことではあるが、「てっきり死んだ人として思い諦めていた人だが、それでは、本 当は生きていたのだ」とお思いになる、その気持ちは、夢のような気がしてあきれるほどのことなので、抑えることもできずに涙ぐまれなさったのを、 僧都が立派な態度なので、「こんな気弱い態度を見せてよいものか」と反省して、さりげなく振る舞いなさるが、「このようにお愛しになっていたの を、この世では死んだ人と同然にしてしまったことよ」と、過ったことをした気がして、罪障深いので、  「悪霊にとり憑かれていらしたのも、そうなるはずの前世からの因縁なのです。思うに、高貴な家柄の姫君でいらしたのでしょうが、どのような過ち によって、このようにまで身を落としなさったのだろうか」  と、お尋ね申し上げなさると、  「皇族の末裔と申す血筋であったでしょうか。わたしも、初めから特別に正妻にと考えた人ではございません。ちょっとしたことでお世話し始めるよ うになりましたが、また一方で、このようにまで落ちぶれる身分の方とは存じませんでした。珍しく、跡形もなく消えてしまったので、身を投げたのか などと、いろいろとはっきりしないことが多くて、確実なことは、聞くことができませんでした。  罪障を軽くしていらっしゃるならば、とても良いことだと安心して、わたし自身は存じましたが、その母親に当たる人が、ひどく慕って悲しんでいると いうを、このように聞き出したと、知らせてやりたく存じますが、何か月も隠していらっしゃったご趣旨に背くようで、何となく騒々しくなりましょうか。 親子の間の恩愛は絶ち切れず、悲しみを堪えることができずに、きっと尋ねて来ますでしょう」  などとおっしゃって、そうして、  「まことに不都合な案内役とはお思いになりましょうが、あの坂本に下山なさってください。このように聞いて、いい加減に知らないふりのできると は存じません人ですので、夢のようなことも、せめて今なりと話し合おう、と存じております」  とおっしゃる様子が、実にしみじみとお思いになっているので、  「尼姿になり、出家をしたと思っていても、髪や鬢を剃った法師でさえ、けしからぬ欲望に消えない者もいるという。まして、女人の身ではどのよう なものであろうか。お気の毒にも、罪障を作ることになりはしないだろうか」  と、つまらないことを引き受けたものだと心が乱れた。  「下山することは、今日明日は差し支えがあります。来月になって、お手紙を差し上げましょう」  と申し上げなさる。まことに頼りないが、「ぜひ、ぜひ」と、急に焦れったく思うのも、みっともないので、「それでは」と言って、お帰りになる。  [1-4 僧都、浮舟への手紙を書く]  あのご姉弟の童を、お供として連れておいでになっていた。他の兄弟たちよりは、器量も小ざっぱりとしているのを、呼び出しなさって、  「この子が、あの女人の近親なのですが、この子をとりあえず遣わしましょう。お手紙をちょっとお書きください。誰それとはなくて、ただ、お探し申 し上げる人がいる、という程度の気持ちをお知らせください」  とおっしゃると、  「拙僧が、この案内役になって、きっと罪障を負いましょう。事情は、詳しく申し上げました。今は、ご自身でお立ち寄りあそばして、なさるべきこと をなさるのに、何の差し支えがございましょう」  と申し上げなさると、にっこりして、  「罪障を負う案内役とお考えになるのは、気恥ずかしいことです。わたしは、在俗の姿で、今まで過ごして来たのがまことに不思議なくらいです。  幼い時から、出家を願う気持ちは強くございましたが、母三条宮が、心細い様子で、頼りがいもないわが身一人を頼りにお思いになっているの が、逃れられない足手まといに思われまして、世俗にかかずらっておりますうちに、自然と官位なども高くなり、身の処置も思うようにならなくなった りして、出家を願いながら過ごして来て、また断れない事も、次々と多く加わって来て、過ごしておりますが、公私ともに、止むを得ない事情によっ て、こうしていますが、それ以外のところでは、仏がお制止になる方面のことを、少しでもお聞き及びになるようなことは、何とか守り抜こう、身を慎 んで、心中では聖に負けません。  ましてや、ちょっとしたことで、重い罪障を負うようなことは、どうして考えましょうか。まったく有りえないことでございます。お疑いなさいますな。た だ、お気の毒な母親の思いなどを、聞いて晴らしてやろうというほどで、きっと嬉しく気が休まりましょう」  などと、昔から深かった道心をお話しなさる。  僧都も、なるほどと、うなずいて、  「ますます尊いことだ」  などと申し上げなさるうちに、日も暮れてしまったので、  「途中の休憩所としても大変に都合のよいはずだが、考えも決まらないうちに立ち寄るのも、やはり不都合であろう」  と、思いあぐねてお帰りになるときに、この姉弟の童を、僧都が、目を止めておほめになる。  「この子に託して、とりあえずほのめかしてください」  と申し上げなさると、手紙を書いてお与えなさる。  「時々は山においでになって遊んで行きなさいね」と「いわれのないことのようには思われないわけもありのです」  と、お話しなさる。この子は理解できないが、手紙を受け取ってお供して出る。坂本になると、ご前駆の人びとが少し離れ離れになって、「目立た ないように」とおっしゃる。  [1-5 浮舟、薫らの帰りを見る]  小野では、たいそう青々と茂っている青葉の山に向かって、気の紛れることなく、遣水の螢だけを、昔が偲ばれる慰めとして眺めていらっしゃる と、いつものように、遥か遠くに谷の見やられる軒端から、前駆が格別の先払いして、たいそうたくさん灯している火の、あわただしい光が見えると いって、尼君たちも端に出て座っていた。  「どなたがおいでになるのだろう。ご前駆などもとても大勢に見える」  「昼、あちらに引干しを差し上げた返事に、『大将殿がいらして、ご饗応の事が急になったので、ちょうどよい時であった』と、言ったが」  「大将殿とは、今上の女二の宮の夫君のことでいらっしゃろうか」  などと言うのも、とてもこの世から隔絶して、田舎じみたことよ。ほんとうにそうであろうか。時々、このような山路を分けていらしたとき、とてもはっ きりしていた随身の声も、ふと中に混じって聞こえる。  月日の過ぎ行くままに、昔のことがこのように忘れられないでいるのも、「今さらどうなることでもない」と嫌な気持ちになるので、阿弥陀仏に思い を紛らわして、ますます無口になっていた。横川に行き来する人だけが、この近辺では身近な人なのであった。   2 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない  [2-1 薫、浮舟のもとに小君を遣わす]  あの殿は、「この子をそのまま遣わそう」とお思いになったが、人目が多くて不都合なので、殿にお帰りになって、翌日、特別に出発させなさる。 親しくお思いになる人で、大した身分でない者を二、三人、付けて、昔もいつも使者としていた随身をお加えになった。人が聞いていない間にお呼 び寄せになって、  「そなたの亡くなった姉の顔は、覚えているか。今はこの世にいない人と諦めていたが、まことに確かに、生きていらっしゃると言うのだ。他人に は聞かせまいと思うので、行って確かめよ。母にも、まだ言ってはならない。かえって驚いて大騒ぎするうちに、知ってはならない人まで知ってしま おう。その母親のお嘆きがおいたわしいので、このようにして確かめるのだ」  と、今からもう厳重に口封じなさるのを、子供心にも、姉弟は多いが、この姉君の器量を、他に似る者がないと思い込んでいたので、お亡くなりに なったと聞いて、とても悲しいと思い続けていたが、このようにおっしゃるので、嬉しさに涙が落ちるのを、恥ずかしいと思って、  「はい、はい」  とぶっきらぼうに申し上げた。  あちらでは、まだ早朝に、僧都の御もとから、  「昨夜、大将殿のお使いで、小君が参られたでしょうか。事情をお聞き致しまして、困ったことで、かえって気後れしておりますと、姫君に申し上げ てください。拙僧自身で申し上げなければならないことも多いが、今日明日が過ぎてから伺いましょう」  と書いていらっしゃった。「これはどうしたことか」と尼君は驚いて、こちらに持って来てお見せ申し上げなさると、顔が赤くなって、「世間に知られた のではないか」とつらく、「隠し事をしていた」と恨まれることを思い続けると、答えようもなくてじっとしていらっしゃると、  「やはり、おっしゃってください。情けなく他人行儀ですこと」  と、ひどく恨んで、事情を知らないので、慌てるばかりの騷ぎのところに、  「山から、僧都のお手紙といって、参上した人が来ました」  と申し入れた。  [2-2 君、小野山荘の浮舟を訪問]  不思議に思うが、「これこそは、それでは、確かなお手紙であろう」と思って、  「こちらに」  と言わせなさると、とても小ぎれいでしなやかな童で、何とも言えないような着飾った者が、歩いて来た。円座を差し出すと、簾の側にちょこんと座 って、  「このような形では、お持てなしを受けることはないと、僧都は、おっしゃっていました」  と言うので、尼君が、お返事などなさる。手紙を中に受け取って見ると、  「入道の姫君の御方へ、山から」  とあって、署名なさっていた。人違いだ、などと否定することもできない。  とても体裁悪く思えて、ますます後ずさりされて、誰にも顔を見せない。  「いつも控え目でいらっしゃる人柄だが、とても嫌な、情ない方」  などと言って、僧都の手紙を見ると、  「今朝、こちらに大将殿がおいでになって、ご事情をお尋ねになるので、初めからの有様を詳しく申し上げてしまいました。ご愛情の深いお二方の 仲を背きなさって、賤しい山家の中で出家なさったことは、かえって、仏のお叱りを受けるはずのことを、うかがって驚いています。  しようがありません。もともとのご宿縁を間違いなさらず、愛執の罪をお晴らし申し上げなさって、一日の出家の功徳は、無量のものですから、や はりご期待なさいませと。詳細は、拙僧自身お目にかかって申し上げましょう。とりあえず、この小君が申し上げなさることでしょう」  と書いてあった。  [2-3 浮舟、小君との面会を拒む]  疑う余地もなく、はっきりお書きになっているが、他の人には事情が分からない。  「この君は、どなたでいらっしゃのだろう。やはり、とても情けない。今になってさえ、このようにひたすらお隠しになっている」  と責められて、少し外の方を向いて御覧になると、この子は、これが最期と思った夕暮れにも、とても恋しいと思った人なのであった。一緒の所に 住んでいたときは、とても意地悪で、妙に生意気で憎らしかったが、母親がとてもかわいがって、宇治にも時々連れておいでになったので、少し大 きくなってからは、お互いに仲好くしていた。  子供心を思い出すにつけても、夢のようである。真先に、母親の様子を、とても尋ねたく、「その他の人びとについては自然とだんだん聞くが、母 親がどうしていらっしゃるかは、少しも聞くことができない」と、なまじこの子を見たばかりに、とても悲しくなって、ぽろぽろと涙がこぼれた。  たいそう可憐で、少し似ていらっしゃるところがあるように思われるので、  「ご姉弟でいらっしゃるようだ。お話し申し上げたくお思いでいることもあろう。内にお入れ申そう」  と言うのを、「どうして、今はもう生きている者と思っていないのに、尼姿に身を変えて、急に会うのも気がひける」と思うと、しばらくためらって、  「おっしゃるとおり、隠し事があると、お思いになるのがつらくて、何も申すことができません。情けなかった姿は、珍しいことだと御覧になったでし ょうが、正気も失い、魂などと申すものも、以前とは違ったものになってしまったのでしょうか、何ともかとも、過ぎ去った昔のことを、自分ながら全然 思い出すことができないところに、紀伊守とかいった人が、世間話をした中で、知っていた方のことかと、わずかに思い出される気がしました。  その後は、あれやこれやと考え続けましたが、いっこうにはっきりと思い出されませんが、ただ一人おいでになった方の、何とか幸福にと並々なら ず思っていらしたような母親が、まだ生きておいでかと、そのことばかりが脳裏を離れず、悲しい時々がございますので、今日見ると、この童の顔 は、小さい時に見たことのある気がするのにつけても、とても堪えがたい気がするが、今さら、このような人に、生きていると知られないで終わりた いと、存じております。  あの母親が、もしこの世に生きておいででしたら、その方お一人だけには、お目にかかりたく存じております。この僧都が、おっしゃっている方な どには、まったく知られ申すまいと、存じております。何とか工夫して、間違いであると申し上げて、隠してくださいませ」  とおっしゃるので、  「まことに難しいことですね。僧都のお考えは、聖と申すなかでも、あまりにに正直一途の方でいらっしゃいますから、まさに何も残さずに申し上げ なさったことでしょう。後で分かってしまいましょう。いい加減な軽々しいご身分でもいらっしゃらないし」  などと言い騒いで、  「見たこともないほど強情でいらっしゃること」  と、皆で話し合って、母屋の際に几帳を立てて入れた。  [2-4 小君、薫からの手紙を渡す]  この子も、そうは聞いていたが、子供なので、唐突に言葉かけるのも気がひけるが、  「もう一通ございますお手紙を、ぜひ差し上げたい。僧都のお導きは、確かなことでしたのに、このようにはっきりしませんとは」  と、伏目になって言うと、  「それそれ。まあ、かわいらしい」  などと言って、  「お手紙を御覧になるはずの人は、ここにいらっしゃるようです。はたの者は、どのようなことかと分からずにおりますが、さらにおっしゃってくださ い。幼いご年齢ですが、このようなお使いをお任せになる理由もあるのでしょう」  などと言うので、  「よそよそしくなさって、はっきりしないお持てなしをなさるのでは、何を申し上げられましょう。他人のようにお思いになっていたら、申し上げること もございません。ただ、このお手紙を、人を介してではなく差し上げなさい、とございましたので、ぜひとも差し上げたい」  と言うと、  「まことにごもっともです。やはり、とてもこのように情けなくいらっしゃらないで。いくら何でも気味悪いほどのお方ですこと」  とお促し申して、几帳の側に押し寄せ申したので、人心地もなく座っていらっしゃるその感じは、他人ではない気がするので、すぐそこに近寄って 差し上げた。  「お返事を早く頂戴して、帰りましょう」  と、このようにすげない態度を、つらいと思って急ぐ。  尼君は、お手紙を開いて、お見せ申し上げる。以前と同じようなご筆跡で、紙の香なども、いつもの、世にないまで染み込んでいた。ちらっと見 て、例によって、何にでも感心するでしゃばり者は、ほんとめったになく素晴らしいと思うであろう。  「まったく申し上げようもなく、いろいろと罪障の深いお身の上を、僧都に免じてお許し申し上げて、今は何とかして、驚きあきれたような当時の夢 のような思い出話なりとも、せめてと、せかれる気持ちが、自分ながらもどかしく思われることです。まして、傍目にはどんなに見られることでしょう か」  と、お心を書き尽くしきれない。  「仏法の師と思って尋ねて来た道ですが、それを道標としていたのに   思いがけない山道に迷い込んでしまったことよ  この子は、お忘れになったでしょうか。わたしは、行方不明になったあなたのお形見として見ているのです」  などと、とても愛情がこもっている。  [2-5 浮舟、薫への返事を拒む]  このようにこまごまとお書きになっている様子が、紛れようもないので、そうかといって、昔の自分とも違う姿を、意外にも見つけられ申したときの、 体裁の悪さなどを思い乱れて、今まで以上に晴れ晴れしくない気持ちは、何ともいいようがない。  そうはいってもふと涙がこぼれて、臥せりなさったので、「まことに世間知らずのなさりようだ」と、扱いかねた。  「どのように申し上げましょう」  などと責められて、  「気分がとても苦しゅうございますのを、おさまりましてから、やがて差し上げましょう。昔のことを思い出しても、まったく思い当たることがなく、不 思議で、どのような夢であったのかとばかり、分かりません。少し気分が静まったら、このお手紙なども、分かるようなこともありましょうか。今日 は、やはりお持ち帰りください。人違いであったら、とても体裁悪いでしょうから」  と言って、広げたまま、尼君にお渡しになったので、  「とても見苦しいなさりようですこと。あまり不作法なのは、世話している者どもも、咎を免れないことでしょう」  などと言って騒ぐのも、嫌で聞いていられなく思われるので、顔を引き入れてお臥せりになった。  主人の尼が、この君にお話を少し申し上げて、  「物の怪のせいでしょうか。いつもの様子にお見えになる時もなく、ずっと患っていらっしゃって、お姿も尼姿におなりになったが、お探し申し上げな さる方がいたら、とても厄介なことになりましょうことよと、拝見し嘆いておりましたのも、その通りに、このようにまことにおいたわしく、胸打つご事情 がございましたのを、今は、まことに恐れ多く存じております。  常日頃も、ずっとご病気がちでいらしたようなのを、ますますこのようなお手紙にお思い乱れなさったのか、いつも以上に分別がなくおいでです」  と申し上げる。  [2-6 小君、空しく帰り来る]  山里らしい趣のある饗応などをしたが、子供心には、どことなくいたたまれないような気がして、  「わざわざお遣わしあそばされたそのしるしに、何とお返事申し上げたらよいのでしょう。ただ一言でもおっしゃってください」  などと言うと、  「ほんとうですこと」  などと言って、これこれです、とそのまま伝えるが、何もおっしゃらないので、しかたなくて、  「ただ、あのように、はっきりしないご様子を申し上げなさるのがよいのでしょう。雲が遥かに遠く隔たった場所でもないようでございますので、山 の風が吹いても、またきっとお立ち寄りなさいまし」  と言うので、用もないのに日暮れまでいるのも妙な具合なので、帰ろうとする。心ひそかにお会いしたいご様子なのに、会うこともできずに終わっ たのを、気がかりで残念で、不満足のまま帰参した。  早く早くとお待ちになっていたが、このようにはっきりしないまま帰って来たので、期待が外れて、「かえって遣らないほうがましだった」と、お思い になることがいろいろで、「誰かが隠し置いているのであろうか」と、ご自分の想像の限りを尽くして、放ってお置きになった経験からも、と本にござ いますようです。 源氏物語の世界ヘ 本文 ローマ字版