2003.07.13〜2006.12.02更新
手塚治虫作『火の鳥(角川文庫刊)乱世編7・8覚書き
萩原 義雄
 
仏教用語
明雲「南無(なむ) 光明(こうみょう)遍照(へんじょう) 十方(じっぽう)世界(せかい) 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう) 摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ) 血気(けっき)にはやる者(もの)の 暴挙(ぼうきょ)をしずめ 都(みやこ)を頽廃(たいはい)から救(すく)いたまわれ」「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘(かね)の音(おと) 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひび)きあり 沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(じょうしゃひっすい) 奢者(しやしや)不久(ふきゅう) 天下(てんか)乱兆(らんちょう) 庶民(しょみん)憂苦(ゆうく)も み仏(ほとけ)の御意(ぎょい)のままに 冥加懲罰(みょうがちょうばつ)をあたえたまわれ」《『火の鳥』乱世編7・269頁》
※「光明(こうみょう)遍照(へんじょう) 十方(じっぽう)世界(せかい) 念仏衆生(ねんぶつしゅじょう) 摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)」の出典は『観無量寿経』(現代語訳版)であり、「仏の慈悲の光りは、漏るることなく世界を照らし、その仏の名を呼ぶ者を、決して見捨てはしない」という。
 
おぶう「なむ帰命頂礼(きみょうちょうらい)梵天帝釈(ぼんてんたいしゃく) なにとぞ……命(いのち)を守(まも)らせたまえ」《『火の鳥』乱世編7・269頁》
※「きみょうちょうらい【帰命頂礼】(1)仏の足を自分の頭に戴き,礼拝すること。仏教の最敬礼。(2)仏に祈念する時,その初めに唱える語。
 
歴史用語
やすらいおどり【やすらい踊り】民俗舞踊。五穀(ごこく)を祈(いの)り豊作(ほうさく)を願(ねが)う踊(おど)り。「花や さきたる やすらい花や や とみくさの花や やすらい花や や とみおおせば なまへ 夜須礼花(やすらいばな)や」《『火の鳥』乱世編7・55頁》
※「やすらい踊り」。
 
にえふ【○】不明。薬商人(くすりあきんど)「この病(やまい)は高麗(こうらい)の秘薬(ひやく)にえふを湯()にとかして飲()むのが一ばんじゃが」「だがにえふは高価(こうか)な薬(くすり)じゃでまあおまえらには手がとどかんのう」《『火の鳥』乱世編7・75頁》※
 
トイレ【便所】瓢箪継ぎ「一説(いっせつ)によると 平安朝(へいあんちょう)の頃(ころ)は王侯貴族(おうこうきぞく)といっても家にトイレがなくって ほとんど庭(にわ)にタレ流(なが)しで そのために庭先(にわさき)はくさくてたまらなかったといいます」《『火の鳥』乱世編7・92頁》
 
チョウジュウギガ【鳥獣戯画】明雲「これかな?これは……つまり世の中の人間をな けものや鳥になぞらえてかいてみたマンガですわい」《『火の鳥』乱世編7120頁》「フッフッ これはな坊主(ぼうず)をからかったもんじゃ」「いまの坊主はおふせをごっそりとってカエルのご本尊(ほんぞん)をおがんでいるようなもんだというわけじゃ」「わしはこういいたかった 世()の中はいま堕落(だらく)しておる」「人間のやることなすことはけだものや鳥とまったく変()わらん なぜ人間が万物(ばんぶつ)の霊長(れいちょう)なのか? ばかばかしい思いあがりじゃと」〔中略〕「鳥羽(とば)覺猷(かくゆう)僧正(そうじょう)作画(さくが)鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)』として…………」「のちの世()まで残(のこ)ってくれればありがたい」《『火の鳥』乱世編7121頁》
※「鳥獣戯画」→密教圖像と鳥獣戯画かえる新聞贋作鳥獣戯画
 
キョウチョウ【凶兆】清盛「おれの栗毛(くりげ)のシッポにネズミが巣()を作ったことがあったな あれも明らかに凶兆(きょうちょう)!」「異変(いへん)の予兆(よちょう)なのだ!」《『火の鳥』乱世編7・166頁》
 
タモり【田茂理】〔人名〕学者。清盛{宋(そう)の国に不老不死(ふろうふし)の仙鳥(せんちょう)“火(かえんちょう)”がいるという話だ その生き血()()めば……}「千歳(せんさい)の齢(よわい)を得()ると田茂理(たもり)という学者(がくしゃ)がかいておる」《『火の鳥』乱世編7・175頁》
 
おにはぎ【鬼はぎ】〔名〕植物・草木の名称。弁太「オイラが木こりの頃(ころ)()どめ薬(くすり)によう使(つか)った」「(おに)はぎの葉()っぱだあ」《『火の鳥』乱世編8104頁》
 
サンショウダユウ【山椒太夫】〔人名〕ヒノエ「あたい来年になると人買いに売られるんだァ」「売れ残(のこ)りの女は丹波(たんば)山椒太夫(さんしょうだゆう)さまのところへ売られるならわしだよオ」《『火の鳥』乱世編835頁》
山椒大夫考国道178号家族物語としての山椒大夫
 
ゴクモン【獄門】義経「そいつの首をはねろ」「太刀(たち)盗人(ぬすつと)獄門(ごくもん)なんだ」《『火の鳥』乱世編841頁》
 
とりづか【鳥塚】木曾義仲の伯父志田三郎(しだのさぶろう)義教(よしのり){もともと清盛(きよもり)が宋(そう)からとりよせたその行方(ゆくえ)が長いことわからなかったのだ わしが河内信貴山(しんきさん)朝護(ちょうご)孫子寺(そんしじ)をとおりかかったとき鳥塚(とりづか)というものがあると聞き… 住職(じゅうしょく)にたずねると天台座主(てんだいざす)明雲(みょううん)がきて ある鳥の死()がいを埋()めて霊(れい)をとむらったというではないか ほりだしてみるとまさしくさがし求(もと)めておる火?鳥(かえんちょう)であった!}《『火の鳥』乱世編8・109頁》
信貴山
 
手書きの「戦勝報告」と「院宣」の立て札について
 Tは、西國壇ノ浦での源平合戰は、源氏総大將源義経の勝利となり、やがて、その知らせが鎌倉公方源頼朝の許に届く。Uは、上皇から都の検非違使左衛門少尉の任を受けた九郎判官義経が上皇に追放命令の院宣が出される。これらの内容文面をここでは、手塚自らが手書きにして記載する方法を取っているのである。この記載状況そのものが、直筆の箇所となっていることにまず注目したい。これは現代の書記者としての手塚治虫が、作品のために蒐集した歴史情報は基より、書き手の書記文字形態など多くの特徴を茲に示していて、文献資料を研究するからのアプローチにとっては絶好な資料となっている。
次にこれを翻刻して示す。
 
  戦 勝 報 告
 一、 先帝 海底ニ没シタマフ
 一、 海ニ入ル人人
    二位尼上   門脇中納言教盛  新中納言知盛
    平宰相経盛  新三位中将資盛  小松少将有盛
    左馬頭行盛
 一、 若宮ナラビニ建礼門院 無爲ニコレ
   ヲ取リ奉ル
 一、 生虜ノ人人
    前内大臣平宗盛  平大納言時忠  右衛門督清宗
    前内藏頭信基疵ヲカウムル
    左中将時実 上ニ同ジ   兵部少輔尹明  内府子息
 
《『火の鳥』乱世編8・206頁》
  院  宣
 源九郎判官義経        義経がこれを読む
  右ノ者 サキニ平家追討ノ     「さきに平家追討(へいけついとう)
  功労ニヨリ 恩賞ヲ與エシ者    功労(こうろう)により恩賞(おんしょう)を与(あた)えし者(もの)
  ナルモ 尚不服トシ理不尽ナ    なるも 尚(なお) 不服(ふふく)とし 理不尽(りふじん)
  ル要求ヲナシ 粗暴ナル振舞   る要求(ようきゅう)をなし…………」ムムーッ「粗暴(そぼう)なる振舞(ふるまい)
  多ク 政権進止ノ謀叛ノウタ    多く 政権進止(せいけんしんし)(支配(しはい))の謀叛(むほん)のうた
  ガイアリ ヨツテ官位ノ一切     がいあり…?」
  ヲ剥奪シ 洛外ニ追放ニ処ス
  ルモノナリ右相異ナシ
《『火の鳥』乱世編8、233頁》
 
※語彙の検証
センテイ【先帝】安徳天皇。女院の生んだ皇子。「先帝の御乳母、大納言佐殿とぞ申ける。三位中將一谷で生捕にせられ給ひし後も、先帝に附まゐらせておはせしが、壇浦にて海にいらせ給ひしかば、武士の荒氣なきにとらはれて、舊里に歸り姉の大夫三位に同宿して、日野と云所におはしけり。」
カイテイ【海底】「雲上(うんしやう)の龍(れう)くだ(ッ)て、海底(かいてい)の魚(うを)となり給ふ。」〔『平家物語』卷第十一先帝身投・大系下337九〕
にゐのあま【二位尼】清盛の妻。「二位殿(にゐどの)は此有樣を御覽じて日比思食設けたる事なれば、にぶ色の二衣打覆き、練袴の傍高く挾み、神璽(しんし)を脇に挾み、寶劔(ほうけん)を腰(こし)にさし、主上(しゆしやう)を抱奉て、「我身()は女(をうな)なりとも、敵(かたき)の手()にはかゝるまじ。君(きみ)の御供に參る也。御志思ひ參せ給はん人々は、急ぎ續き給へ」とて舟端へ歩み出られけり。」〔『平家物語』卷第十一先帝身投・大系下336一〕
とももり【知盛】「新中納言(しんちゅうなごん)知盛(とももり)卿、小船(こぶね)に乘て、御所(ごしょ)の御船(おんふね)に參り、「世()の中はいまはかうと見えて候。見()苦しからん物(もの)共皆海(うみ)へ入させ給へ。」とて艫舳(ともへ)に走り廻り、掃いたり拭うたり、塵(ちり)拾ひ、手づから掃除(さうぢ)せられけり。」〔『平家物語』卷第十一先帝身投・大系下335十二〕
のりもり【教盛】・つねもり【経盛】〔人名〕清盛の弟。「さる程(ほど)門脇中納言教盛(のりもり)卿、修理大夫經盛(つねもり)、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取組んで海へぞ入給ひける。」〔『平家物語』卷第十一、能登殿最期・大系下338十〕
すけもり【資盛】・ありもり【有盛】〔人名〕重盛の子。ゆきもり【行盛】従兄弟。「小松の新三位中將(ちうじやう)資盛(すけもり)、同少將(せうしやう)有盛(ありもり)、從弟左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、手に手を取組んで一所に沈み給ひけり。」〔『平家物語』卷第十一、能登殿最期・大系下338十一〜十二〕
ケンレイモンヰン【建礼門院】徳子、清盛の娘。「建禮門院(けんれいもんゐん)は、東山(ひがしやま)の麓(ふもと)、吉田(よしだ)の邊(へん)なる所(ところ)にぞ、立(たち)入せ給(たま)ひける。」〔『平家物語』卷第十二、女院出家・大系下423七〕「女院(にようゐん)は十五にて女御(にょうご)の宣旨(せんじ)を下され、十六にて后妃(こうひ)の位(くらゐ)にそなはり、君王(くんわう)の側(かたはら)に候はせ給ひて、朝(あした)には朝政(あさまつりごと)を勸(すゝ)め、夜(よる)は夜()を專(もつぱら)にし給へり。二十二にて皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)有て、皇太子(くはうたいし)に立ち、位(くらゐ)につかせ給しかば、院號(ゐんがう)(かうぶ)らせ給ひて、建禮門院(けんれいもんゐん)とぞ申ける。入道相國(にうだうしやうこく)の御娘(むすめ)なる上、天下(てんが)の國母(こくぼ)にてましましければ世()の重(おもう)し奉(たてまつ)る事(こと)(なのめ)ならず。今年(ことし)は二十九にぞならせ給ふ。」〔『平家物語』卷第十二、女院出家・大系下424十〕
ブヰ【無爲】」無事平穏なこと。
いけどり【生虜】「生捕(いけどり)には、前内大臣(さきのないだいじん)宗盛(むねもり)(こう)平大納言(へいだいなごん)時忠(ときたゞ)右衞門督(うゑもんのかみ)清宗(きよむね)内藏頭(くらのかみ)信基(のぶもと)讃岐中將(さぬきのちゅうじょう)時實(ときざね)兵部少輔(ひやうぶのせう)雅明(まさあきら)大臣殿(おほいとの)の八歳(さい)になり給ふ若公(わかぎみ)、僧(そう)には二位僧都(にゐのそうづ)專親(せんしん)、法勝寺執行(ほつせうじのしゆぎやう)能圓(のうえん)、中納言律師(ちゅうなごんのりつし)仲快(ちうくわい)、經誦坊阿闍梨(きゃうじゆばうのあじやり)融圓(ゆうゑん)、侍(さぶらひ)には源大夫判官(げんだゆふのはんぐわん)季貞(すゑさだ)、攝津判官(つのはんぐわん)盛澄(もりずみ)、橘内左衞門(きつないざへもん)季康(すゑやす)、藤内左衞門(とうないざへもん)信康(のぶやす)、阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)父子(ふし)、以上(いじやう)三十八人(にん)也。」〔『平家物語』卷第十一、内侍所都入・大系下342十二〜十六〕
きずをかうむる【疵を蒙る】〔句〕「内藏頭(くらのかみ)信基(のぶもと)は、疵(きず)を蒙(かうぶり)たりしかば閑道(かんだう)より入(いり)にけり。」〔『平家物語』卷第十一、一門大路渡・大系下350五〕
ナイフ【内府】シソク【子息】内大臣宗盛の子ども、幼名副将。「大臣殿(おほいとの)の八歳(さい)になり給ふ若公(わかぎみ)」〔『平家物語』卷第十一、内侍所都入・大系下342十二〜十六〕
とあって、検証語彙にて見るに、手塚は『平家物語』の卷第十一を許にしてこの文書を作成したことが確認できる。そして、題目は「戦勝報告」と四字熟語で記載する。ここで、「告」の文字表記に注目するに、彼の「告」の字の表記は、三画目の縦棒が次の下の口の文字にかかるまで貫いていることが見て取れるのである。この表記は、「告」には古き文書などに見受けられるものである。Uの立て札にも「政権」の「ケン」の字を「木」偏に「又」の旁字で略字をもって表記している。次に表記から見たとき、通知文書類にはあまり用いられない漢字片カナ混じりによる表記法が採用されていることである。文書形態を左程意識していなかったというより、漢字だけの表記では記述が旨くできないといった、歴史史料の取り扱いそのものに馴染みが薄いことがこのところから伺われよう(腰越状など)。そうしたなかにあって、二例の畳語表記「人人」や「時実 上ニ同ジ」という割書き記載は、あくまでその体裁を似せて見せようとする意識が感ぜられ、手塚がこの書記記述の作法を何らかの文書類から引用しているところかと推定されるところである。
 次に、語彙の点からみると、「戦勝報告」という熟語が当時は用いられていた経緯はないので、これは時代考証からすれば、近現代語の作品流入ということになろう。どのように時代設定をしても、その時代性の用語まではなかなか目利きが行き届かないのが現状でもあるし、かつ、当代の用語で表記しても逆に注記が必要となる特殊用語ということでは、作品の読解をスムーズに進めることを阻むことになりかねない。
 であるからして、手塚は敢えて近現代語の用語を積極的に意識して場面内に組みこもうとしている姿勢が随所に見えている。山法師「なんだとサルの惑星(わくせい)ども」〔七62頁〕、俊寛「一方(いっぽう) 革命軍(かくめいぐん)は六波羅探題(ろくはらたんだい)放送局(ほうそうきょく)と東京駅(とうきょうえき)を占拠(せんきょ)し 清盛邸(きよもりてい)を包囲(ほうい)する予定(よてい)になっています」〔七248頁〕、宗盛「あれはつまり円高(えんだか)がはげしために……」〔143頁〕、義経「しかし こう暗くちゃー道をまちがえてホンコンへ出てしまうかもしれんな」家臣梶原「それとも ワシントンへ出てしまうかもしれません」〔150頁〕義経「天気予報(てんきよほう)は?」家臣「はあ……NHKによれば明晩から明後日にかけて大しけとなりますな……」「海どころか山までも雨と霧のため荒れます」〔171頁〕雑兵A「動(うご)かざること山のごとし」雑兵B「それァ武田信玄(たけだしんげん)のセリフだよ 時代(じだい)がちがうよ」「おい弁太(べんた)顔を出すとあぶないぞ」〔187頁〕侍從「主上(しゅじょう)鎌倉(かまくら)からお電話でございます」〔221頁〕主上「タワケものめ なんの用か知らんが電話とは失礼(しつれい)なやつだ 手紙を送れと申せ」〔222頁〕公家A「義経どの自己紹介いたす それがしは エー」公家B「これが私の名刺(めいし)です」公家C「どうぞこれをご縁(えん)におつきあいを」公家D「紳士用品(しんしようひん)の烏丸(からすま)()でして……」〔225頁〕商人「おすまいなら嵐山(あらしやま)都心(としん)から便利(べんり)お邸(やしき)嵐山建設(あらしやまけんせつ)!」〔225頁〕
 それとは反対に古典としての鎌倉時代のことば(書記言語)の雰囲気を少しでも醸し出そうとするのが「無爲」「疵ヲカウムル」といったことばである。これらが旨い具合に混交して、相反するが故に矛盾を矛盾と感じさせないストーリ性を生み出しているのかも知れない。このような体裁を『火の鳥』乱世編にも表示しているといえよう。
 
《補注》『千載和歌集』に、天台座主明雲、天王寺にまゐりて遺身舍利を禮してよめる「つねならぬ例は夜半の煙にて消えぬ名殘を見るぞ嬉しき」
 
《HP資料による補注》
天台座主明雲平家物語新聞平家物語卷第二座主流1。座主流2。明雲僧正伊豆へ鹿ヶ谷の陰謀愛想人の世界<法住寺・身代不動尊>木曾殿弓を引く平家物語関連年表栄西と明雲。『下山御消息』。 COM版「乱世編」
 
止め