藤原道長
平安中期の公卿。法成寺殿と称した。法号は行覚。従一位。摂関・兼家と藤原中正の娘・時姫の3男。強弓の人とか、肝だめしで2人の兄(道隆、道兼)に勝ったといった豪胆ぶりを伝える話などは有名。寛和2(986)年、父・兼家が一条天皇の摂政になると、翌年に道長は従四位から一気に従三位に。正暦2(991)年、権大納言に任じられたが、この間に2人の妻を得ている。一人は左大臣・源雅信の娘・倫子りんし(987年に結婚)。道長の人物を見込んだ倫子の母(藤原穆子ぼくし)が、反対する夫を説得して成立したらしい。もう一人は、姉・詮子せんし(東三条院で一条天皇の母)の元に預けられていた左大臣・源高明の娘、明子。この結婚(988年)は姉の勧めによる。賜姓源氏の娘を2人も妻にしたのは、その貴種性と財力を狙ったものと思われる。長徳1(995)年、疫病が流行し、関白を務めていた2人の兄が死去すると、その後継者の地位をめぐって兄・道隆の息子、伊周これちかと激しく争い、姉の詮子の強力なバックアップによって同年5月、内覧(摂政、関白に準じる職)となる。そして、ひと月後に右大臣かつ氏長者(全藤原氏の頂点的立場)、翌2年には左大臣となって政界の頂点に立ち、以後、持ち前の政治力を発揮して政界を牛耳った。しかし、一条、三条天皇時代(986
?1015、共に甥に当たる)には左大臣(966)、内覧として過ごし、外孫である後一条天皇の即位(1016)の時に1年ほど摂政になっただけで子の頼通に譲り、ついに関白は経験しなかった。外孫の即位に至る執念には凄まじいものがあったようで、長女の彰子を強引に一条天皇の中宮とし、産まれた二人の孫を天皇に立てると、彰子の同母妹をそれぞれに入内だせた。その結果、威子が後一条天皇の中宮となり、「一家に三后」という未曾有の事を成し遂げている。「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思へば」という有名な歌は威子立后(1018)の夜の宴席で酔いにまかせて歌ったものとされている。なお、後一条天皇の即位は再三にわたって三条天皇に譲位を迫って実現したもので、その際に天皇との約束から第1皇子の敦明あつあきら親王を東宮としたが、三条天皇が崩御するやいなや敦明を辞退に追いやって、外孫で後一条天皇の弟の敦良親王(後の後朱雀天皇)を立太子させた。平安京内の数カ所に豪邸を構えたが、中でも栄華の舞台となったのは土御門殿である。出産の為にこの邸へ里下がりした中宮・彰子についてきた女房の紫式部は、邸の美しさや道長の勇姿、皇子誕生の喜びに沸く様子、帝の行幸などを『紫式部日記』に描写している。土御門殿の東の京外に造営したのが阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺、すなわち「御堂」であり、道長の「御堂」「御堂関白」との呼称はこれによる。木幡(宇治市)の累代の墓地に浄明寺を建立した。『源氏物語』の主人公の光源氏に投影され、『栄花物語』では理想的な人間として描かれている。後世に『御堂関白記』と命名される日記の自筆本14巻が京都の陽明文庫にあり現存の自筆日記としては最古のものである。藤原道長……
生没年:966-1027 父:太政大臣 藤原兼家 権大納言内覧左大臣左大将 中宮大夫 准三后 摂政太政大臣 従一位 妻:源倫子(父:従一位左大臣 源雅信) 988-1074 彰子(一条天皇中宮) 992-1074 頼通 995-1065 能信 996-1075 教通 妻:源明子(父:正二位左大臣源高明) 993-1065 頼宗(保留) 994-1027 従二位 妍子(三条天皇中宮)右馬頭 顕信 999-1036 従二位 威子(後一条天皇中宮) 1007-1025 従三位 嬉子(後朱雀天皇女御)盛子(三条天皇女御) 寛子(小一条院女御) 尊子(源師房 室、子:顕房)妻:(父:盛明親王)1014-1072 東寺法務僧正 長信 1015-1064 長家 女:(父:太政大臣従一位 藤原為光)