今鏡〜平安時代の歴史物語
〜概要『今鏡』は歴史物語に属し、「四鏡」の一つで、作者は藤原()であると考えられている。為経はとも交流のあった歌人で、出家後は兄弟の(寂念)・(寂然)とともに、いわゆる常盤(大原)三寂と呼ばれていた。成立は2年(1170)から承安4年(1174)ごろ、書名は「語り手」がかつて「今鏡とやいはまし」と言われたのによる。『白氏文集』の「」の1節、「をみてを鑑ず」をふまえたものである。内容作品の舞台は、嘉応2年3月10日すぎ、長谷詣でのついでに大和で寺巡りをしていた筆者は、かつて紫式部に仕えていたことがあり、150歳を越えているという老女あやめに出会う。あやめは実は『大鏡』の語り手大宅世継の孫で、乞われるままに「その後のこと」を語り始める、という体裁である。構成は、第68代 後一条天皇から第80代高倉天皇までの帝紀である。「すべらぎ」3巻、藤原氏の列伝「藤波」3巻、村上源氏の列伝「村上の源氏」1巻、皇族の列伝「御子たち」1巻、さまざまな説話や評論を集大成した「昔物語」「打聞」各1巻の全10巻で、『大鏡』を受け継いでその後の歴史を物語る、という明確な意識が見られる。紀伝体をとっているのも『大鏡』からの影響と考えられる。解釈・鑑賞『今鏡』の時代は、摂関体制が崩壊し、院政が始まり、保元の乱・平治の乱という2つの動乱を経て、さらに武士が台頭していく、政治的にも社会的にもはげしく変動した時代である。しかし、『今鏡』の文章からは、そのようなざわめきはほとんど伝わってこない。保元の乱・平治の乱ですら、「まことにいひ知らぬのことども出て来て」「あさましき乱れの都の内に出て来にしかば、世も変はりたるやうにて」と語られるのみである。かわりに『今鏡』が繰り返すのは、宮廷を中心とした貴族社会とその文化のすばらしさである。失われつつある「王朝」とその文化を賛美することで『今鏡』の歴史確認は示されるが、たとえばその具体的な例として、「御子たち」の巻で3章を費やして語られる、源有仁にまつわる説話群がある。有仁は後三条天皇の第3皇子親王の子で、17歳で源氏姓を賜って臣籍に降下した。皇子の数が少なくなっていた当時、皇族の臣籍降下はきわめて珍しく、小一条院(道長の圧力で東宮位を退いた、三条天皇の皇子親王)の子源(奇しくも輔仁親王の母、後三条天皇の女御基子の父)以来、実に100年ぶりのことである。輔仁親王は、父の後三条天皇にたいへん可愛がられ、白河天皇の東宮だった兄の実仁親王が即位したらその東宮に、と目せられていた。ところが実仁親王の死後、白河天皇は輔仁親王ではなく自分の息子親王(堀河天皇)を東宮に立て、2人は「御なからひはよくもおはしまさざりし」という間柄となる。その後、帝位は堀河天皇から後鳥羽天皇へと受け継がれていくが、輔仁親王とその子有仁王は、白河院にとって、つねに自分の血統による皇位の継承を脅かす危険な存在であった。有仁の臣籍降下の直前、鳥羽天皇に第1皇子顕仁親王(崇徳天皇)が誕生したが、実はその父は白河院であるといわれている。臣籍降下は有仁の皇位継承の可能性を完全に絶つものであり、その直後の輔仁親王の死去とあわせて、白河院の血統が皇統として確立されたのである。しかし、『今鏡』では、皇位の継承をめぐるそのような政治的状況は、いっさい言及されない。有仁は、何事もすぐれたる人にて、御心ばへもあてにおはして、昔はかかる人もやおはしけむ、この世にはいとめづらかに、かくわざと物語などに作り出したらむやう・・・・。と賛美されるが、それはあくまでも「文化人」としての賞賛である。「光源氏なども、かかる人をこそ申さまほしくおぼえ給ひしか」と賛嘆される有仁だが、光源氏が誰よりもすぐれた才能の持ち主でありながら、臣籍への降下によって皇位継承の可能性を閉ざされた皇子であったことを考えあわせると、『今鏡』の歴史認識の皮相性がほの見えよう。『今鏡』は唯一『大鏡』の紀伝体のスタイルを踏襲し、『大鏡』後の歴史を物語る、という姿勢を見せてはいるが、『大鏡』のもつ確固たる歴史認識や歴史観などを受け継いでいるとは言いがたい。むしろ、そこに描かれているのは、失われつつある貴族社会とその文化に対する懐古であり、である。激動する時代の変転には関わりをもたず、あくまでもき良き「王朝」の文化のすばらしさを賛美しているところにこそ、『今鏡』の特色があるといえよう。