2003.02.17更新
八百八町の表裏『江戸繁盛記』
〜太平の実戦場・人情の機微をうがつ・“無用の人”として〜
〔太平の実戦場〕
火事と喧嘩は江戸の華。まさ喧嘩の数はかぞえられぬが、大火は九百回に近く、とりわけ明暦三年(千六百五十七)に焼死者十万七千余りを出した振袖火事を筆頭に、元禄の中堂火事、水戸様火事、安政の地震火事など枚挙にいとまない。このほかにも天和ニ年(千六八ニ)にお七火事というのがあり、芭蕉が深川を焼け出されているが、じつはお七の放火はボヤで消し止められ、別の一件が大火となったのである。
金沢や長崎の大火も有名だが、江戸は民家が密集しているため大火に発展しやすく、そのたびに六万から十万戸の家屋が焼失。『江戸繁昌記』に「人戸稠密(ちうみつ)、四里間の竈烟(さうえん)無慮数百万、油を煎り、燭を焼き、一日の薪炭の用ふる所、秦山を童にし(茂った山をハゲにし)ケ林を?にす(林を焼け野原にしてしまう)とある通りだ。
これに対して幕府は消防力の充実につとめ、旗本を動因した定下消、特定の大名に大手・桜田などの重要地区を守らせる大名火消、それに民家の町火消(鳶)(とび)という三本立ての体制をしいていた。「一把火(いっぱくわ)起こるや、西鼓東鐘(東西の鐘や太鼓)一斉に撞撃(たうげき)し、火を報じ、方を呼ぶ。喊声(ときのこえ)天に震ふ。早く見る吏人(定火消)の火所に走るを。・・・・記旗(まとひ)(町火消の組印)を肩にする者、竿燈」(たかはり)(高張提灯)(ぢょうちん)を手にする者、梯子(はしご)を荷(にな)ふ者、竜骨車(竜吐水という手押しポンプ)を担ふ者、呼号し、狂奔し、火馳(は)し、星飛す」あたかも廻り灯籠「どうろう」をせわしくなく廻したような光景である。この混乱に拍車をかけるのが、にげまどう群衆の姿―。「火を避くる者狼狽(らうばい)し、宝器を遺(わす)れて燈檠(とうけい)(燭台)を提げ、飯?(はんら)(飯櫃)(めしびつ)を抱いて什具(家具)を棄つ。夫妻派赤体(はだか)にして褌(フンドシ)も亦(また)着くるに及ばず」
町火消はここが働きの見せ所と、意気地を競う。太平の世に唯一の実戦場である。「必々剥々、(はち/\)刮々刺々、(グワラ/\)霹靂(へきれき)震ひ、山壑(さんがく)裂く。衆猶(な)烟を冒し火を突き、烈火中に雄入するは、真に是(こ)れ一面の小戦場なり。且夫(そ)れ坊役(マチビケシ)の火を把(は)して極(ヤネ)に聚(あつま)るものは、頭を焦し脚を爛(ただ)らし、顛墜(てんつい)するも、甦(よみがえ)りて復(ま)た上る」
一番纏(まとい)の者は一歩も後にひけない。組頭は「降りろ、降りろ」というが、それは「我慢せい、我慢せい」という意味だったという。
〔人情の機微をうがつ〕
もっとも、作者寺門静軒は、鳶の者の意気地を讃(たた)えてばかりいるのではない。「但し、其を売り候を貪(むさぼ)る、故(ことさ)らに余燼(よじん)を弄(ろう)し(燃え残りをいじくり)、誤りて火勢を延き、或は収拾すべからずに到る」と批判している。火事につきものの野次馬に対しても、「人の情無き、観望指点して以(も)つて楽しを取る」と嘆く。
このような目くばりのよさで天保初年、繁栄末期の江戸風俗を活写し、ユーモラスな狂体漢文で世態人情の機微をうがった本書は、一種の暴露的な興味も手伝って当時のベストセラーとなった。
その代表的な一例は「吉原」で客をたらしこむ娼妓(しょうぎ)の手管が巧みに描かれている。
女「三千世界誰有りてか、ひとり妾を悦ばん(この世にわちきを可愛がってくれる人は一人もありません)、且つ人を悦ぶは、妾も亦敢てせず(そのかわり、わちきからも惚れた男は一人もありいせん)、然(さ)れども恃(たよ)り一人有り(いや、たった一人ありんすわいな)」
男「羨(うらや)む可(べ)きかな、願はくばその苗字を聴かん」
女「是れ別人ならず、即ち君のみ(だれでもない、ぬしでありんす)」
男(胸悸(ドキドキ)して)「妙に人を騙(あやな)す(人をバカにするんでないよ)」
女「決して偽り無し。然れども妾が如き者、豈(あ)に願りにみんや」
男「謙することを休めよ、君が如きは当世の佳人なり(へりくだるのはよせやい。おめえは廓(くるわ)きっての美人じゃねえか)」
女「唯々(ハイハイ)、十分に調弄せよ(オナプリナンシ)」
男はいよいよ苛立って「請ふ、誓言(せいごん)せん(誓紙をかわしてもいい)」と口説く。しめたと思った女は「仮と雖ども(ウソデモ)猶ほ喜ぶ可し」と接近、男は「試みん(じゃ試してみるか)」とさっそく片足を引いて、他の双藕股間(そうぐうこかん)に挿(はさ)み入る。女いわく「冷脚悪(にく)む可し(まあ、なんと冷たい足。いやでありんす)」と。
――このほか静軒は江戸名物として相撲、劇場(しばい)、千人会(とみ)(富籤)(とみくじ)、両国花火、混堂(銭湯)、浅草寺、日本橋魚市といった情景をとりあげているが、表面はなやかな風物ばかりでなく、社会の吹きだまりである裏店(うらだな)(長屋)などの情景にも目をそそいでいる。もっとも、ここでは庶民の最底辺を描くのが主目的ではなく、一人の浪人者の悲憤慷慨(こうがい)を記述するのが狙いでえある。この浪人は当代の明君とされている某候に仕官しようと、再三にわたって上書を送るのだが、黙殺されてしまう。むろん、当座の糊口(ここう)をしのぐためなら何とか就職先もあるのだが、「鳥すら猶(なほ)木を択(えら)んで棲(す)む。人にして択ばずば、斯(こ)れ理に戻り情に反(そむ)く」という調子で、プライドは高い。相手から黙殺されると、「前日書を上(たてまつ)りし後、命を待つの日の永きこと、一刻信(まこと)に三秋の思を為(な)す。然(しか)るに今に三十日、猶未(いま)だ宜(よろ)しく得べきの命を得ず。・・・願(おも)ふに、執事の意、時猶不可なりと為すか。今は則(すなは)ち朝廷廃れたるをも興し、絶えざるを継ぎ、将(まさ)に為有らむとするの秋(とき)なり。豈(あに)不可と謂(い)つて可ならむや」と、オクターブが高くなってくる。
この部分、ほかの文章のような、軽妙さがなく、ひたすら深刻なのは静軒自身の心境が投影されているからである。
〔゛無用の人゛として〕
彼は天保元年(一八三〇)、三十五歳のとき、当時の知識人の一人として体制改革の志を抱き、亡き父の仕官していた水戸藩に儒者として入藩する懇願書を出した。しかし、おりから藩政の危機に直面していた同藩では、人減らしならともかく、新たに人材を登用する余裕などなかったのである。
下級武士の子であった彼は、義理の兄が水戸藩を出奔し、暮らしに困っているのを見て、亡父の唯一の遺産である御家人の株を売ってしまい、自らは儒教として生計を立てようとした。むろん、名もなき貧乏儒者といえば、寺小屋の師匠あたりがせいぜいである。一方では水戸っぽの血をうけ、勤皇尚古の志を抱いていた彼は一生を貧儒で終わる気持ちはさらさらなかった。上書の返事を千秋の思いで待ったというのも、あながち誇張ではあるまい。
そして仕官の道は絶たれた。『江戸繁昌記』の序文には「天保二年5月、予偶々微恙(よたまたまびやう)に嬰(かか)り」とあるが、どうやら鬱(うつ)病らしい。そのブラブラした状態の中で考えたことは、経済不安の今日、自分のようなものが「生きていけるのは、「如天(広大)の徳ざ沢に浴するの致す所」という皮肉な思いであった。かつ、暇をもてあましていた彼は、これを機に府下の繁昌を思い、幼時の記憶に遡(さかのぼ)って、このドキュメントとも戯作(げさく)ともつかぬ文章を綴(つづ)ったのである。
天保三年に初篇が刊行された。全五篇。表紙は黄色で、初篇のみ四十三丁、大きさは二二×一四・七センチで、一見味も姐ソッ気もない本だが、読書階級の好みに投じた。続篇として『江戸繁昌記・青楼之巻』一巻三十丁、『新潟繁昌記』一巻二十四丁がある。
だが、四篇は敗俗の書≠ニして絶板を命じられ、さらに天保一二年には例の改革で風俗描写や儒家諷刺(ふうし)の条が罪に問われ、「武家奉構(かまい)」すなわち今後武家に仕官することはまかりならぬということになった。これは必然的に、彼の願いであった一流の儒者への道も閉ざされたことになる。
以後、彼はいささかの文名をもとに、揮毫(きごう)などしながら各地を遍歴し、学習塾も経営している。出張教授もやった。門弟の家で麦とろを食べ、帰りに古本屋をひやかすのが習いであった。その早飯は有名だったという。
彼は慶応四年(一八六八)、七十三歳で死んだ。幕末激動の時代、青雲の志と豊かな才能をおしつぶされ、みずから「無用の人」として長い余生を終えたのであった。
《補遺HP》
812116.森 知世さん入力