2003.02.15(土)
北国の情念『北越雪譜』
―三十年をかけて刊行・人と熊のみ冬ごもり・一念のこもった書物―
三十年をかけて刊行
越後の人、鈴木牧之(ぼくし)は、いつのころからか彼の生れ育った塩沢を中心とする雪国の風俗を、広く世間に紹介したいと思うようになっていた。
現在の塩沢はスキー場で知られるが、塩沢紬(つむぎ)、越後縮(ちぢみ)など織物産地としての伝統をもち、江戸時代には三国(みくに)街道の宿場町でもあった。しかし、なによりも牧之が強調したかったのは、この地が一年の八ヵ月は雪にとじこめられるという全国一の豪雪地帯で、そのため暖かい地方の人々には想像もおよばぬ生活上の困難や、珍しい風俗が存在するということだった。今日で言えば、地誌、民族誌の発想である。
父親の家業を継いで、縮布の仲買と質屋を営んでいた彼は、一方では詩歌俳諧(はいかい)や日本画に習熟し、江戸の戯作者や画家とも交流のある、ひとかどの地方文人でもあった。越後民族誌のプランにあたって、彼がそうした人脈を利用しようと思いついたのは自然である。ベストセラー作家に材料を提供し、その筆で料理してもらえば、大いに普及することは疑いない―。
だが、この計画は裏目に出た。最初に依頼した山東京伝は、引きうけてくれたものの、多忙で手が回らないうちに病没してしまった。材料も紛失というしまつ。やむなく、今度は滝沢馬琴に再度書き直した草稿を送って依頼したが、これも『八犬伝』に追われて、なかなか御輿をあげてくれない。牧之はとほうにくれた。
このとき現れた救いの神が、京伝の弟京山であった。「亡兄が依頼された因縁もあるので、引きうけましょう」というのである。牧之も心動いたが、馬琴はつむじ曲りだから、へたに断るとあとがこわい。そこで京山から、あれこれ入知恵されながら、相手を刺激せぬよう断わり状を書いたのだが、心配していたとおり、馬琴は材料を返してこなかった。
仕方がない。牧之は三たび草稿を書き直して、これを京山に送った。雪国を見たことのない京山は、こまかな疑問は手紙で訊(たず)ねたり、奉公人に越後出身者を雇い入れるなどの苦心を払いつつ、決定稿に仕上げた。その書簡の数だけで三百通に達している。
天保七年(一八三六)、初篇刊行。牧之が志を立ててから、じつに三十年以上の年月が過ぎていた。
人と熊のみ冬ごもり
牧之の生れた南魚沼(みなみうおぬま)郡は、東南に波濤(はとう)のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間(やまあい)の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八〜三メートル)に達する。
「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨(うらやま)ざらんや」
彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調している。江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁(うつばり)や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲(く)み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶(おけ)に入れたりする。「其外(そのほか)雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」
現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものだった。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とした。「漸(やうやく)雪の止(やみ)たる時、雪を掘(ほり)て僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生(うまれ)たるこ>ちなり」
鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。
もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。
けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。
一念のこもった書物
冬ごもりの熊は飢えているし、いきなり人間が入りこんでくれば、おどろいて襲いかかるであろう。けれども、老人の話を一概にウソとはきめつけられない。真相は、春先になって熊が脱け出たあとの穴へ迷いこんだのかもしれぬが、そうした体験の上に、熊の霊に対する信仰や言いつたえの尾ひれがつけられ、一場の奇談が成立したのだろう。長い冬ごもりは、人の想像力を育(はぐく)む機会となる。
じっと坐って物を思う。そこに情念が凝る。坐仕事をしている場合も同様である。縮布を織る女たちは、一反を織りあげるのに、牧之の計算では二万四千八十四度(たび)も手を動かさねばならないのだが、その糸の一本一本に思いがこもる。
ある織婦(はたおりおんな)は、はじめて上等の縮布の注文があったので大いによろこび、腕の見せどころと丹精こめて見事に織りあげたが、晒(さら)し出した布が戻ってきたとき、銭ほどの大きさの黒い汚点(しみ)がつけられているのを見て、発狂してしまった。「母(か>)さまいかにせんかなしやと縮(ち>゛み)を顔にあて>哭(なき)倒れけるが、これより発狂(きちがひ)となりさま\/゛の浪言(らうげん)をの>しりて家内を狂ひはしるを見て、両親(ふたおや)娘が丹精したる心の内をおもひやりて哭にけり」
牧之がこの本を出すため、中央の作家の粗略な扱いに耐えながら三度も草稿を書き直し、三十年間待ったというのも、そうした北国の人の情念をしらなければ理解しにくい。「雪を掃(はら)ふ」という一章の中で、彼は言う。「此雪いくばくの力をつひやし、いくばくの銭を費(つひや)し、終日ほりたる跡へその夜大雪降り夜明(あけ)て見れば元のごとし。か>る時は主人(あるじ)さらなり、下人(しもべ)も頭を低(たれ)て歎息(たんそく)をつくのみなり」―徒労のにがい味を搶(かみ)しめながら、ただひたすらに耐える。やがて、春は必ずやってくるのである。
『北越雪譜』。初篇上中下三巻、天保七年刊、書肆(しょし)大坂河内屋茂兵衛、江戸丁字屋平兵衛、判型二六・一×一八・一センチ。二篇春夏秋冬四巻、天保十三年刊、書肆右に同じ、判型二六・三×一八・二センチ。表紙、初篇は上部が墨色、下部が薄青の地に、赤の細い縞模様および赤白二色で雪の結晶を描く。二篇は同じ地色の上に、雪の結晶状の簡素な模様をのせている。
本文中の挿絵五十五図のほとんどは、牧之の指示に従って京山の息子京水が描いた。ちなみに、京山がこの共著作業で得た報酬は、わずかに五両であった。
国文科 812153 竹沢 未来さん記