2003.04.21〜2003.07.25更新
近代への架け橋『航米日録』
−ミイラの赤毛布・タテ型社会への批判・パック旅行第一号−
ミイラの赤毛布
日本の船として、はじめて太平洋を横断したのは、周知の通り勝海舟を船将とする咸臨丸であるが、これは幕府の第一回遣米使節をのせたポーハタン号の護衛船として、航海が許されたのである。
その発端は、日米通商条約締結の任を果したハリスが幕府に対して、批准交換のため、日本より使節を派遣したらどうかと提案したことによる。迎えの船は米国から出すから、その到着までに日本側は人数をきめてもらいたいー。
井伊の大老はさっそく人選に着手したが、目付、用心、見習までふくめると、八十人もの大世帯になってしまい、これにはさすがのハリスも呆れかえって「外国の風儀を以て相考(あひかんがへ)候得ば、(正使)は御壱人にても足り候」と異議を唱えている。
役人の派遣に随行者が多いのは、いまも昔も変わりはない。けっきょく人数の削減は不可能で、急遽(きゆうきよ)日本船を加えることになり、かくて咸臨丸が浮上したのである。
この使節の正使は新見(しんみ)豊前守、副使は村垣淡路守、監察は小栗豊後守(上野介)、そして咸臨丸の軍艦奉行は木村摂津守ということにきまった。鎖国日本というミイラの棺からとびだした彼らが、いきなり近代文明に接触して何を感じたか、いまに伝わる手記や回想録のたぐいをよんでも、その甚大な衝撃が手にとるようにつたわってくる。
咸臨丸に便乗した福沢諭吉が、米国で初めて馬車を見たとき、それがはしりだすまで乗物とは気づかなかったというエピソードは有名である。村垣淡路守は汽車の速さにおどろいて、「雲に浮ぶ仙人もかくいかつち(雷)の車はしらし岡越の道」などという狂歌を詠んだり、歓迎式典があまり賑やかなので、「江戸の市店などに鳶人足などいへるもの、酒もりせるはかくもあるべしと思はる」といった珍妙な感想を述べている。
この村垣という人はユーモア・センスのある人で、ハワイ国王に謁見したさいの感想、「御亭主はたすきがけなり奥さんは大はだぬぎて珍客に逢ふ」などは、幕末珍談として今に名高い。
それはともかく、このポーハタン号に乗組んだ正使の給人役の一人が、十年後奥羽戦争で悲劇的な最期をとげた玉虫左太夫誼茂(やすしげ)(1823−69)であった。渡米当時は三十七歳である。仙台藩士で、学識、文章力ともに一頭地を抜いており、現在に伝わる『航米日録』八巻は、遣米使節の記録としては白眉のものに属する。
タテ型社会への批判
いまのように海外旅行など日常茶飯事という時代ではない。使節第一号といえば、「本邦剖判(ほうはん)以来の快事、有志者誰レカ陪扈ヲ欲セザランヤ」と左太夫自身も胸をときめかしたほどだ。彼は仙台を脱藩した人間だから、本来なら同行の資格はないのだが、蝦夷地の紀行などをものした実力が、外国奉行堀利煕(としひろ)らに認められ、幸運にも随行を許された。
彼の日録は、万延元年一月十八日から九月二十八日までの八ケ月余にわたっているが、一日の欠落もなく、訪問した都市についてはその形勢、風俗、気候、生物、貨幣などについて、精細に見聞を記している。
″新約(ニユーヨーク)″滞在中の記事を一つ例にとろう。「午後市中ヲ徘徊ス。昨日ト路ヲ同フス。市店ノ巨大都(すべ)テ我国ノ大寺院ノ唖院(あいん)ヘ行ク。其談ヲ聞クニ、旅館ヨリ五六里行キ、フツクレエン<村名>ト云処ニ唖院ヲ造ル、弟子三百人許、七八歳ヨリ二十歳ノ者多シ。皆手容(手まね)ヲ以テ教ユ。譬ヒバa字ハ大指ヲ折リb字ハ食指ヲ折ルガ如シ。……今日我国人来(きたり)シヲ訳スベシト師タル者手示スレバ、即チ卓子上ニテ各其条ヲ書シ来ル、其速(すみやか)ナルコト瞬息ノ間ナリト云フ。是ヲ聞キ、始テ花旗国(米国)ノ人ヲ捨ザルヲ知ル」
記録魔の彼が最も感銘をうけたのは、近代的なヒューマニズムと、人間関係の風通しのよさであった。しかし、これをあからさまに記すことは体制批判となるので、日録の巻八を「秘書」として、自分だけの心覚えにした。
その冒頭には、日本を出て最初に出会った荒天のさい、外国人船長が水夫とともに危難を冒して活躍したことへの感動が記されている。働きのよかった部下への恩賞が速かだったことにも、大いに感じるところがあった。「彼ハ固(もと)ヨリ礼譲ニ薄ケレド、辛苦難関・吉凶禍福衆ト同じ(おなじ)クシ、更ニ彼此上下ノ別ナク、況ヤ褒賞ノ速ナル此(カク)ノ如シ。是(これを)以テ緩急ノ節ハ各力ヲ尽シテ身ヲ忘ル。其国盛(さかん)ナルモ亦故(ゆゑ)アル哉。長官タル者宜シク心ヲ用ユベシ」
この礼譲に薄いということは、たとえば船長の前を通るとき、ただ帽子をとるだけで「礼拝」しないということである。封建的身分意識から脱し切れぬ左太夫には、大いに抵抗があったようだが、さすがに彼は形骸化した礼法の弊害を見抜いた「我国ニテハ礼法愈(いよいよ)厳ニシテ、従臣ト雖ドモ容易ニ御奉行ニ拝謁スルヲ得ズ、其威鬼神ノ如シ。是ニ従テ、其下少シク位アル者ニ至ルマデ大ニ威潴(いえん)ヲ張リ、各其下々ノ者ヲ蔑視(べつし)ス。其規格ハ如何ニモ厳ナレドモ、情交日ニ薄、縦(たと)ヒ凶事ナドアレバ外面ニテ悲嘆スルノミ。上下ノ間此ノ如シ、万一緩急アラバ、誰レカ力ヲ尽スベキヤ。是昇平(しょうへい、泰平)長ク続キタル幣ナラン歟(か)、慨嘆スベシ」
彼の柔軟かつ明敏な頭脳には、封建的な身分関係、いわゆるタテ型社会に対する根本的な懐疑の念が根ざしつつあった。それは福沢諭吉の「封建の門閥制度は親の敵(かたき)」という認識に、正確に重なり合うものであった。
パック旅行第一号
いまから見ると、この当時の海外使節は、日本人の団体パック旅行の第一号で、すでにあらゆるパターンが露呈している。徒党を組んで出かけていく、買物に夢中になる。のちの遺仏使節となると、悪所を訪れる者も出てくる。
ただ、外交使節として上座に位する者が、米大統領列席の批准交換式に出席しても、いささかの気遅れも示さず、「えみし(夷)らもあふぎてぞ見よ東なる我日本(ひのもと)の国の光を」(村垣淡路守)などと詠じているのは、必ずしも夜郎自大とばかりはいいきれないだろう。
一方、左太夫は船中で米人士官から書を乞われ、「一王千古是神州」の一句を示したところ、そのあとで正使の用人(秘書役)から「彼ハ共和政治ノ国ナルニ、一王千古ノ句ヲ書シ遣ハスハ、彼ノ気ニ逆(さから)ヒ、大患ノ生ズル端緒トナルベシ」と譴責され、始末書まで取られている。左太夫は悲憤の涙にくれ、「縦エ彼強国ト雖ドモ、何事モ之ヲ貴重セバ、益(ますます)跋扈(ばつこ)シテ我ヲ蔑視スルニ至ラン」と「秘書」に記している。ナショナリズム云々というよりも、当時の開明的指導者層は、このような緊張感の中で先進文明と対峙していたことを思うべきである。その後、こうした緊張感は内外の情勢について、奇怪な肥大現象を起こしたり、一挙に衰微したりという変化を経た。これが近代百年の歴史である。
―遣米使節関係者の記録は二十数種、明治に入ってからの文献を含めるとその倍量にも達しようが、玉虫左太夫の『航米日録』は量的にも原稿用紙にして四百八十枚に達する一大ドキュメントである。写本は四十種近く残っているが、原本は左太夫の孫玉虫誼氏の所蔵にかかり、本来八冊のうち巻三がかけている。大きさは判紙本で、巻七のみ縱17センチb×横12センチbの横綴じとなっている。すでに記したように、巻八は「秘書」であるから、写本としては伝わっていない。内閣文庫、東大、国会図書館、宮内庁書陵部、東北大その他に伝わっているのは、すべて七冊本である、
それにしても、これだけ多くの写本があるのは、遣米使節の日録じたいが貴重な海外情報として、争い読まれたということが考えられる.それに、左太夫の記録が最も客観的かつ豊富であることが認められたせいでもあろう。当時の人が気がついたかどうかはしらぬが、彼には″文明″を見るのでなく、″文化″を見る眼があった。
ともあれ、彼をはじめとする多くの逸材によって、近代の水門は切って落とされた。彼自身は日本の近代化を見ずに死んだが、福沢諭吉らは、国民としての自立性を保ちつつ、西欧の文化に追いつくという重い課題を背負わなくてはならなかった。さして、彼らの著した書物もまた、知識源、認識の具として、新しい時代に迎えられ、さまざまな影響をのこしていくのである。