2000.10.23入力〜2005.07.08

35、 『義経記』判官びいき。[192頁]

中世⇒「牛若丸像の裏に」「大の弁慶あやまった」「紅涙をしぼる切腹場面

牛若丸像の裏に」戦前世代に懐かしまれる小学唱歌には、「牛若丸」が二種類ある。一つは比較的のちまで歌われた明治四十四年版尋常小学唱歌「京の五条の橋の上……」であり、もう一つはその十年前につくられた石原和三郎作詞のものだ。「父は尾張の露と消え、母は平家にとらえられ、兄は伊豆に流されて、おのれ一人は鞍馬山」

 明治のこのころのといえば、義経イコール成吉思汗(ジンギスかん)説が俗受けしていたのだが、むろん文部省の採用するところとはならなかった。それはともかく石原作詞の「牛若丸」は六節に分れており、源氏再興を志した牛若が鞍馬山で武芸を磨き、弁慶を従者にし、金売吉次の手引きで奥州に下る途中で元服、名を義経と改め、平泉の藤原秀衡に保護され、やがて頼朝の挙兵に応じて木曽義仲を滅ぼし、さらに「ひよどりごえの坂おとし、八島の海の弓ながし、壇の浦では八艘飛び、ながくほまれをのこしけり」――というぐあいに、義経伝説の最も華やかな部分をたくみに要約している。だが、義経伝説には、こうした明るい陽画(ポジ)の部分と重なり合うように、暗く悲惨な陰画(ネガ)の部分がある。.周知のように、義経は平家覆滅の大功を立てた後、後白河法皇の策に乗ぜられて兄頼朝と離反し、反逆者として各地を放浪し、再び秀衡を頼ったが、頼朝の圧力に抗し切れぬ泰衡(秀衡の子)により衣川の館を襲われ、妻子を道連れにして自殺した。

 古代から中世への歴史の大転換に、一個の立役者として登場しながら、非情な政治の波に呑まれ、急転直下“悲運の英雄”になりさがる。その浮沈のはげしい生涯に、人々は無常を感じとり、一掬の涙をそそぐ。いや、全面的に同情してしまう。いわゆる判官びいきという特殊な感情は、ここから生まれた。

 義経は後白河法皇から左衛門少尉および検非違使に任官された。令下の官である検非違使の尉を、判官と称する。これが普通名詞を超えて、義経本人の代名詞となったのであるから、人気のほどは推して知るべしだ。義経に対する同情は室町時代ごろから高くなり、近世にかけては謡曲、浄瑠璃、御伽草子、浮世草子その他に、かぞえきれぬほどの“判官もの”を輩出した.。このプロセス中で判官びいきは、いよいよはっきりした形をとるようになる。現在、それは一種の弱者びいきと解されているが、はたして単純な弱者への同情といえるのかどうか。

大の弁慶あやまった」「御曹司も思ひきり給ふ。弁慶も思ひ切つてぞ討ち合ひける。弁慶少し討ちはづすところを御曹司走りかゝつて切り給へば、弁慶が弓手の脇の下に切先を打ち込まれて、ひるむところを太刀の脊(むね)にて、散々に討ちひしぎ……」。これは女装束の牛若が、弁慶と清水寺の舞台で渡り合う場面だが、むろんフィクッョンである。

 義経は時の支配体制に反逆した人物だから、伝記的には不明なところが多い。たとえば鞍馬山の修行時代や、頼朝とすごした鎌倉での三年間の消息、さらには四年間の逃避の過程など、かんじんのところがぼやけている。弁慶の生涯も、史料にあとづけることのできる部分はごくわずかである。

 だが、南北朝から室町期にかけての語り芸人や義経シンパにとって、史実が不明であるということなど、どうでもよかった。不明な箇所は創作すればよい。いや、不明なだけ、想像力が無限にふくらんでくるのをいかんともしがたい。同情が理想像をつくりあげ、それが史実と矛盾すれば史実のほうが切り捨てられる。こうして伝説としての義経像が形づくられた。室町時代の初期ないしは中期に書かれたという『義経記』は、それまでの義経伝説の集大成である。

 義経を神秘化するために、別の伝説とこじつける作業も行なわれた。その一例は、鞍馬を脱出した義経が、はるばる奥州の秀衡のもとにたどりつきながら、再びあっさりと引返して、京の一条の堀川に住む陰陽師鬼一法眼の邸に押し入り、周の太公望の撰とされた兵法秘伝書『六韜』を盗むという話がある。これがいかにもとってつけたようであるのは、早くから柳田国男により指摘された。

「法眼齒噛をして申しけるは、『洛中にこれ程の狼藉者を誰が計らひとして門より内へ入れけるぞ』と言ふ。御曹司思召しけるは、『憎い奴かな。望をかくる六韜こそ見せざらめ。剰へ荒言葉を言ふこそ不思議なれ。何の用に帯きたる太刀ぞ。しやつ切つてくればや』と思召しけるが……」法眼の怒りはもっともだが、この伝説上の人物は、名の通り「鬼」に見立てられており、義経は宝物を奪いに出かけたのである。これに似た「御曹司島渡り説話」というものが、ほかにもいくつか知られている。

 語り芸人たちは、このような伝説部分を得意とし、肝心の平家討伐のヤマ場などは拍子抜けするほどあっさりしている。

「鵯鳥越とて鳥獣も通ひがたき巖石を無勢にて落し、平家を終に追落し給ふことは凡夫の業ならず。今度八嶋の軍に大風にて浪おびたゝしくて、船の通ふべき様もなかりしを、たゞ船五艘にて馳せわたし、わづかに五十余騎にて、憚るところなく八嶋の城へ押寄せて、平家数万騎を追落し、壇の浦の詰軍までも終に弱げを見せ給はず」

 解説的に処理して、ここまでが『義経記』全体の約三分の一。のこりの大部分は主人公没落と、それを必死に支えようとする弁慶の活躍が語られる。作者は義経が悲運の武將であることを、強調したかったのである。

紅涙をしぼる切腹場面」そこで、衣川での最期の箇所は、一章分以上があてられて悲壮感を高揚している。まず、弁慶の立ち往生――。

「弁慶今は一人なり。……きつと踏張り立つて、敵入れば寄せ合せて、はたとは斬り、ふつとは斬り、馬の太腹前膝はらり/\と切りつけ、馬より落つるところは長刀の先にて首を刎ね落し……鎧に矢の立つ事数を知らず。折り掛け/\したりければ、簑を逆様に著たる様にぞありける。黒羽、白羽、染羽、色々の矢ども風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の秋風に吹きなびかるゝに異ならず」

 このとき弁慶はすでにこと切れており、傍らを通った馬にふれて、どうと倒れる。進退きわまった義経は、幼少の頃より所持していた守り刀をもって「左の乳の下より刀を立て、後へ透れと掻切って、疵の口を三方へ掻破り、腸を繰出し、刀を衣の袖にて押拭い、衣引掛け、脇息してぞおはしましける」

 それから妻に向かって故郷へ帰れというが、「早々自らをば御手にかけさせ給へ」とすがりつかれる。もはや力尽きた義経は、妻の傅(めのと)、十郎兼房に命じて殺させる。そのとき五歳になる子どもが何も知らずに入ってくるのを、両親とも死出の山へ旅立たれなさったと言いきかせるや、「死出の山とかやに早々参らん。兼房急ぎ連れて参れ」とせかす。このあたりの泣かせ所は、当時の人々に絶大な感銘を与えたとみえ、東北方言で綴った抜粋版、いわゆる「奥州本」が伝わっているほどだ。

義経記』の集成者は、儒教を信ずる一都会人としか推定できぬようだ。古い形のものには『よしつね物語』『義経双紙』『ほう官物語』というタイトルもあり、写本は天理図書館、慶応大学図書館その他に完本ないしは欠本の形で伝わっている。もう一つは近世初期の刋本の系列で、木活字本と整版本(板木を刷ったもの)の二種に大別される。木活字本の一例は東洋文庫に所蔵されており、元和から寛永ごろの刊行。十二行詰で朱(丹)と緑彩色の挿絵があるところから、「丹緑絵入十二行本」という。全八冊、大木さ縦二六・八p×横十八・五p、表紙朱色、本文は楮紙に裏打ちがされており、本文計四百三丁、挿絵は計六十六葉である。

 義経は三十一歳で死んだ。短くして燃えた生涯であり、そこに後世の興味が集中した。なによりも彼は強者であった。ただ運が悪かっただけである。――と人々は考えた。判官びいきは強者への同情である。人は弱者に夢を託すことはできぬ。

 

[補遺]電子インターネット上での『義経記』の公開資料について

義経伝説」⇒『義経記』の構造

(展観目録第66号)「源義経」に関する図書展目録《東北大学附属図書館会議室》

日本名文鑑賞講座 第3号(第一部・古典編『義経記』

昔話シリーズ「義経と弁慶

      源義経北行伝説 八戸の源義経北行伝説

源氏の歴史<NHK大河ドラマ「義経」をもっと面白く見るために ...

 

資料編

蔵書 佐野文庫の世界』⇒『義経記』(表紙のみ紹介)

京都大学附属図書館所蔵 貴重書 『義経記』(全資料公開)

電子版「霞亭文庫」⇒『義経記』(全資料公開)