2001.09.26〜2005.06.28更新
21、 『平家物語』貴族の挽歌。[紀田順一郎著作集(1998)111頁]。
中世⇒「人生の“星の時”」「生臭い人間のドラマ」「めくら法師の台本」
「人生の“星の時”」
平忠盛の七男――といっても、ピンとこないだろう。一の谷の合戦で死んだといっても、あの戦いで死んだ平家の武将はほかにもたくさんいる。
しかし、薩摩守(さつまのかみ)といえば、、ああ忠度(ただのり)かと、だれにもわかることになっている。薩摩守=ただ乗りという洒落はずいぶん古くからあったと見え、能狂言にもこれを題材にした『薩摩守』というのがある。
無学の僧が住吉天王寺へ参詣の途中、のどがかわいて茶屋に立ち寄るが、一文の銭の持ち合わせもない。茶屋の亭主は、それでは代金はいらないが、この先の渡し場で困るだろう、さいわい渡し守が洒落を解する男だから、船賃を請求されたらば、「平家の君達、薩摩守忠度」と言いなさい――こう親切に教える。
ところが、この坊さん、単純な洒落の意味さえわからぬボンクラで、いざ船賃を請求されるや「薩摩守」と言ったまではよかったが、そのあとを忘れてしまった。なんでもノリということばがついていたからと、でまかせに「青海苔の引き干し」とやってしまい、船頭に愛想をつかされてしまう。
「薩摩守」が無賃乗車を意味する隠語であることは、どんな小さな辞書にも書いてある。つまり、忠度は語呂合わせのたぐいで国民的に知られた人物なのだが、むろんそれは当人の関知するところではあるまい。だが、もう一つ、死して歌を残すことは、彼の最後の願いであった。
「薩摩守忠度は、いづくよりやかへられたりけん」で始まるエピソードは、くだくだしく説明の要はあるまい。昔から中学の国語の教材にもなっている。あわただしい都落ちの途中から引き返し、自作の歌を勅撰集の選者俊成に托し、「前途程遠し、思ひを雁山の夕の雲にはす」と吟じながら去る。私の中学時代には、受験勉強などが捗らないとき、一人が「前途程遠し」と溜息をつくと、他の者が「思ひを雁山の……」と直ちに応じたものである。
ツワイクではないが、人生には“星のとき”がある。自作の歌集一巻をのこし、一門と運命を共にすべく都落ちしてゆく忠度の心境は、その三年前の北陸大遠征のときより、遥かに昂揚していたにちがいない。驕(おご)れる者の座から、いっきょにみじめな落武者の境遇に転落したとき、彼の姿は滅び行く者のみがもつ栄光に包まれていた――。
「生臭い人間のドラマ」
さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
俊成は、この歌に感傷よりも、なにかしら不易なるものを感じとったのだろう。そして、作者が“勅勘の身”であることを考慮し、「詠み人しらず」として採用した。そのことだけで、忠度の名は後世にのこることになった。
ところで、忠度は一の谷で坂東武者の一人、岡部六弥太忠純という者に討ち取られる。このとき、敵も味方も「あないとほし、武芸にも歌道にもすぐれて、よき大将軍にておはしつる人を」と惜しんだ。勝った忠純はかえって面目を失ったような感じである。
もう一人、猪俣小平太という武者も、同じ一の谷で平家方の鬼神とされた前司盛俊を討ち取るが、騙(だま)し討ちだったため、評判はよくなかった。功名によって武藏に所領をもらうが、悪政を布いて領民に憎まれる。いまでも土地の人人はよく言わない。人はおのれの器量以上のことはできぬものらしい。
一の谷で先人を争い、敦盛を討った熊谷直実にしても、じっさいは鼻もちならぬところがあったらしい。先陣争いの常習といえば、勇敢さより売名的な動機が感じられる。十七歳の敦盛の命を、いったんは救おうとしたのは美談だが、目撃者がいなかったではないか。戦後、自分の手柄を熊谷郷あたりで喋(しゃべ)りまくったという話しも伝わっている。やはり、器量人ではない。
もともと彼は、数十歩の領地しか持たぬ貧乏領主であり、所領の拡大のほかはいっさい念頭にない。いわゆる“一所”懸命というやつだ。先陣を争い、若武者であろうが、何であろうが、とにかく首の数をかせぐ。平家方に属していた彼が、旗色悪しと見て寝返ったのも、こうした考えからは当然なのである。直実ばかりではない。源平時代の武士は、後世のようなキレイごとの武士道など、これぽっちも持ち合わせていなかったのだ。木の葉が沈み、石の浮かぶ革命の時代こそ、彼らにとって千載一遇のチャンスだった。
『平家物語』の作者は、しかし、そうした武士社会の現実には直接触れることをしない。考えてみれば栄枯盛衰の理のなかで、人間のあくせくとした営みのごときは、「ただ春の夜の夢のごとし」でしかないのである。
ただ、そうした小さな人間にも、それぞれの星のときがある。誰にも必ず一度は訪れる星のときを丹念に拾い集めれば、そこには壮大な夜空の広がりが生まれよう。嵐が何度も吹き、そして過ぎても、星星の輝きは永遠に失われることがない。
夜空のなかでもひときわ輝く星。それはいうまでもなく盛者必衰のシンボル平清盛である。作者は成り上がり者の權勢家である平清盛には同情的ではないが、悪役でもスターには変わりない。
清盛における人生の絶頂とは何だったろうか。たぶん高倉天皇の中宮となった、彼の次女徳子の御産によって、皇室の外戚となった瞬間だったろう。
「めくら法師の台本」
長びく陣痛にやきもきする清盛のもとに、「御産平安、皇子御誕生候ふぞ」の知らせが入る。「入道相国、嬉(うれ)しさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。悦(よろこ)び泣きとはこれをいふべきにや」。一介の武士が最高権力への足がかりを磅(つか)んだことの感激というだけではあるまい。白河法皇の落胤(らくいん)といわれた身が、ようやく本来のところを得ることができたという無限の安堵(あんど)がある。
この三年後、生まれた男子は安徳天皇として即位し、翌年栄華の絶頂にて清盛六十四歳で死去。愛宕(あたご)の火葬場で灰となり、骨は兵庫北浜の経ケ島に納められた。同時に一門の没落がはじまる。そのプロセスはあまりにも儚(はかな)い。清盛のいた八条梅小路の邸(やしき)跡は、いま貨物列車の操車場となっており、まさに栄枯の象徴をあらわしている。
だが、私はここでのちの秀吉にまつわる一つの挿話を思い出す。豪奢(ごうしゃ)をきわめた聚楽第(じゅらくだい)が竣工(しゅんこう)したとき、何者かが、
「奢(おご)るもの久しからず」
と落書をした。これを見た秀吉はさらさらと返書をしたためたという。
「奢らずとても久しからず」
――無常感よりも、この旺盛(おうせい)な生活意欲のほうが庶民にとって実感がある。『平家物語』に親しんだ鎌倉以降の人々は、語り手の意図とは別のところで感銘をうけていたかもしれない。
とにかく、この物語は、抹香(まっこう)臭い人生観を裏切るように、生臭い人間のドラマに満ちている。清盛の事蹟を追うだけでも、殿上の闇(やみ)討ちから清水炎上、俊寛の島流し、後白河法皇の追放というぐあいで、その間に横笛と滝口の悲恋など副次的な、しかし印象深いエピソードがからむ。全十二卷、原稿用紙にして八百枚。鎌倉時代の初期、比叡山に寄寓(きぐう)していた下野(しもつけ)前司行長という役人あがりの僧が、ある琵琶(びわ)法師の求めに応じて書いたというが、これだけの長編を一人で書いたとは思えない。おそらく、各地を漂白する琵琶法師の口伝が集められ、そのうえに鎌倉期の知識人による考証が加えられて、今日見るところの十二卷本に成長したのだろう。いずれにせよ、王朝文化の流れを汲(く)む人々の手が加わっているだけに、登場人物にしても貴族的な嗜(たしな)みのある忠度のような存在は好意的に描かれている。
琵琶を伴奏に盲目の法師によって語られたため、『平家物語』は百二、三十種におよぶ数多くの異本を生んだ。そのうちの最大のものは『源平盛衰記』で、全四十八卷に達している。写本のなかでは、播磨(はりま)の書写山の僧だった覺一という検校が筆録させた、いわゆる覺一本の系統がすぐれており、現在龍谷大学や寂光院その他に伝わっている。龍谷大学図書館藏のものは原本に最も近いため、今日底本として使用されることが多く、判型二十八・九×二十二・三p、全十二冊、丁数全一千三十五丁、各卷の丁数は最大百十丁、最小六十六丁である。本文は、八行二十字詰となっている。卷十二の巻末には、「応安三年(一三七〇)十一月廿九日、仏子有阿書」とある。
《関連資料HP一覧》『平家納経』
現代語訳『平家物語』 高松『平家物語』歴史館 平家物語絵巻 『平家物語』人名辞典