2000.05.06入力2002.05.23更新

8、伊勢物語王朝の色好み[52頁]

古代⇒「もう一つの『伊勢物語』」「胸しめつけられる叙情」「女心に灯火を……

もう一つの『伊勢物語』

「むかし、おとこありけり」

 世に知られた『伊勢物語』の書き出しであるが、もう一つの“伊勢物語”も、やはり同じ書き出しではじめねばなるまい。

 むかし、おとこ、片田舎に住みけり――。三十数年前、山梨県のある名主の家に生まれた中学生が、自家の土蔵に収められていた古文書の山を見て、古い書物への関心を植え付けられたうえ、ちょうどそのころ学校で『伊勢物語』の「東下り」の場面を習い、「千年も昔の日本に、こんなすばらしい作品があったのか」と、すっかり感激した。この瞬間、少年の人生は決定したのである。

 大学に入った彼は、東京の神田や本郷で古本あさりに熱中した。戦後四、五年目で貴重書の流出が多く、それに値も安かった。ある日、東大前の古本屋で『伊勢物語』の古写本を見つけたが、重要文化財級のものが七点でわずか三千円。彼はためらうことなく、その本をしっかり胸に抱いた。

 同じ大学で、彼は一人の女性に出会う。知り初めて間もなく、彼女は胸を病んで転地したが、退屈しのぎに読むものをと訴えたので、彼は絵入りの『伊勢物語』写本を贈った。こうして恋人もまた、この古典の世界に惹きこまれてしまった。

「むかし、おとこ女、いとかしこく思いかはして、異(こと)心なかりけり」。卒業後結ばれた二人の話題は、いつも『伊勢物語』であった。古本屋をめぐり、入札会に出かけ、およそ伊勢と名のつくものは絵巻、屏風(びょうぶ)やカルタにいたるまで、手当たり次第に収集した。鉄工会社の経営者となった多忙な夫にかわり、妻は九州まで出かけるなどして協力した。夫が海外出張中に出物があったときには、代金を工面して買ったこともある。世に古書収集家は多いが、夫婦共同のコレクターはほとんど例がなく、しかも、一つの書物が絆(きずな)となっているのは珍しい。

 いらい、二十数年、集めた古写本二百数十点、版本百八十点、注釈本八十余点は、その他の収集品とともに鉄筋の書庫に収容され、鉄心斎文庫と名付けられている。むろん、日本一のコレクションだ。なかには、後醍醐(ごだいご)天皇の宸筆(しんぴつ)といわれる写本や、古活字版として最高の評価を受けている嵯峨(さが)本〔時価百数十万円〕も含まれており、国文学者からも注目されている。

 鉄心斎文庫は、いま小田原市の郊外、新屋という田園地帯にある。先年まで東京都心にあったが、震災を恐れて疎開したのだ。芦沢新二夫妻の夢は、将来「伊勢物語館」を造ることにある。最近、結婚二十周年を記念して、所蔵本の一点を復刻した。もう一つ貴重な本がある。夫人が「お恥ずかしいものですが」と、私に見せてくれたのは、水茎のあともすがすがしい豪華な写本。「名家の筆に似せて、私が写しました」という。昭和版の『伊勢物語』として、後世に珍重されるようになるかもしれない。

胸しめつけられる叙情」 井戸のまわりでたけくらべしながら育った幼馴じみの男女がある。男は「この女をこそ得め」と思って歌う。

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹(いも)見ざる間に

 女の返歌。

くらべこし 振分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき

 筒井戸の井筒に及ばなかった男の背丈は、いまや成年に達して大きく伸びた。女の振分け髪も伸びて肩を越した。「あなたのほか、だれがこの髪を撫でいつくしんでくださる方がありましょうか」というのである。

 やがて、二人は望み適って夫婦となるが、何年か立つうち男は行商の旅先に女ができる。けれども、女が少しも嫌な顔をせず、男を出してやるので、男はかえって女に愛人ができたのかと疑い、旅に出るふりをして庭の植え込みの蔭に隠れていると、女は美しく化粧して、気がかりそうに夫の去った跡を見ながら、

風吹けば 沖つ白浪 たつた山 夜半(よは)にや君が ひとり越ゆらん

 あの険しい竜田山を、わが夫は夜中に一人越えていくのでしょうか、と歌った。男は限りなく悲しく思って、もはや新しい女のもとに行かなくなってしまった――。

「悲し」というのは、女に対するあわれ心、いとしいと思う気持ちであろう。男はおそらく物蔭(ものかげ)から飛び出して、妻をかきいだいたにちがいない。筒井筒のむかしの思いが蘇(よみがえ)り、奔流のように男の胸を浸す。この純粋な愛情世界の描出こそ、『伊勢物語』の真骨頂なのである。

 収められた歌は二百首余り。在原業平(なりひら)の一代記という構成をとっており、歌も業平のものが多い。平安朝の貴族で、藤原摂関家体制から疎外され、ひたすら“色好み”の世界へと逃避した。死後のある人物評には「容貌閑麗、女性関係は放縦、正統な学問を嫌い、和歌の道に精進した」とされている。生涯に関係した女性は、二條后(にじょうのきさき)高子(たかいこ)ほか三千七百三十三人といい、千人斬り程度で喜んでいる手合いの比ではないが、むろんこれは“白髪三千丈”流の誇張であろう。

 ただ業平の色好みが、そうした体制の不満分子の代償的な行為であり、それだけにいっそう狂おしいものだったことは想像に難くはない。世が世であれば、政治の中枢に座を占めることだって可能だったのである。それが飼い殺し同然の閑職しか与えられず、やむなく風流の道に生涯を蕩尽(とうじん)したということになる。

女心に灯火を……」 こうした業平のドンファン的イメージは、男の眼から見ればさして同情に値するものでもない。女性遍歴によって、人間的に成長したふしも見られない。臨終に詠んだという、

つゐに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

という歌など、いかにも人間的で、ドンファン的な俗物のイメージにも見合っているのだが、一流の人物としては、聊か頼りない心境ということも言える。

 最も、彼は何よりも“歌い手”なのだ。人生の一つの瞬間を三十一文字に託し、一気に情感を奔出させる。恋はやがてうつろい、かつての情熱は色あせ、喜びは人生の残骸(ざんがい)のなかに消えていく。だが、歌はのこる。刹那(せつな)の歓喜と哀愁を永遠に定着した歌はのこる。

名にし負はば、 いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

 佐藤春夫は中学時代、神田の古本屋で、『伊勢物語』の注釈本を五銭で買って読み、大いに感動した。のちに毎週土曜日の夜、学生を集めて『伊勢物語』の講習会を開いたり、写本を豪華装にして、生涯愛読したという。彼によれば、この本は歌書というより、恋愛教科書であるが、江戸時代にも表向きは歌書、実際は恋愛の手引きとして読まれていたらしい。

 ただし、これほど一般的な書物が、いつ何者によって作られたのか、なぜ『伊勢物語』と称するのかという点になると、どうもはっきりしない。たしかに歌は業平を中心に大伴家持小野小町などのものが収められているが、付随する物語は創作が多い。『古今和歌集』(908または913年成立)以後、業平に共感する者が一人または複数でつくりあげていったものという見方もある。

 いま、伝わっている写本にも、朱雀院の塗籠に入っていたという塗籠(ぬりごめ)本や、藤原定家が孫に書き与えたという天福本、その他の系統がある。天福本とは、天福二年(1234)正月、藤原定家が孫娘に与えたもので、奥書きにその日時と「連日風雪之中……、此の書写を遂ぐ。鍾愛(しょうあい)の孫女に授くるため也、云云」とある。のち宮中に献上され、後花園院を経て三条西家に伝わり、現在は、学習院大学にある。判型縦15.8×横15.6センチ、列帖装、表紙は本文〔90丁〕と共紙で、『伊勢物語』の題字がある。江戸時代、大名の子女は嫁入りのさい、『伊勢物語の歌留多などを持っていった。『源氏物語』とともに、最も親しまれた古典だったといえるが、その紫式部にしても、『伊勢物語』がなくては出現しなかったであろう。いや、清少納言以下の女流文学の旗手もそうだ。業平はたしかに、女の心に赫々(かっかく)たる灯をともすことのできる、稀代(きだい)の色男であった。

補遺》「三十一文字」佐竹昭弘さんが東洋文庫創立80周年記念講演で、「三十一字」と題する講演を行った。

この女人「三千七百三十三人」という数字は、『和歌知顕集』に依拠するものか?

[書名論]

 鎌倉時代の『和歌知顕集』(宮内庁書陵部藏、他に島原松平文庫本が知られる)に、

むかし、推古天皇の御代に、日向の国に佐伯経基(さいきのつねもと)といふ者が居り、伊勢の国に文屋吉員(ぶんやのよしかず)といふ者が居った。この二人は、同時同年月日に四十歳で亡くなったが、つねもとは定業(じょうごう)、よしかずは非業(ひごう)の死であった。それで、地獄の閻魔王はよしかずを「娑婆へ帰すべし」との沙汰を受けるが、時既に遅く躯が火葬されてない。そこで、つねもとの躯に魂を入れたのである。蘇生したよしかずは、身体はつねもとで、心だけがよしかずであった。このため、両方の妻子と共に暮らすことになった。これ以来、真実のことも一見虚偽のように思われることを「伊勢や日向のこと」と言うようになった。

といった内容で、「伊勢は僻」という“ことはざ【諺】”が生まれ、『伊勢物語』は嘘ではないが、始めにあるべきものを終わりに置き、今のことを昔といい、昔の詞に今の詞を加え、今の歌に昔の歌を加えるなど前後不同に書いてあるから、「伊勢や日向の物語」の意味で命名されたというのである。この話しは『女郎花物語』(古典文庫)や『雑々集』(古典文庫)にも同類譚が収載されている。

池田亀鑑博士は、朱雀院本(「春日野の若紫の」の歌ではじまり、「つひに行くの」の歌で終る)と小式部内侍本(「君やこし」の歌ではじまり、「忘るなよ」の歌で終る)といった対立する二系統に着目し、「初冠」の本が『在五が物語』『在五中將の日記』であって、「狩の使」の本が『伊勢物語』と呼ばれていたのが、いつしか混同されて一緒に取り扱われるようになったと考察している。

[作者論]

 在原業平自記説に端を発し、伊勢紀貫之、在原一門の作などと定まることを知らない。諸本のなかから、原本『伊勢物語』の体裁を掴み、その文体表現や文字表記などを丹念に比較検証することで擬することが可能になるかもしれない。

在原業平は、『三代実録』に「元慶四年五月二十八日辛巳、従四位上右近衛權中將兼美濃權守在原朝臣業平卒、時年五十六」とある。

[諸本について]

朱雀院塗籠本→伝民部卿局筆本(酒田本間美術館藏)、天福本(学習院大学図書館藏)、伝爲家筆本(天理図書館藏)、別本として武者小路本・伝兼好筆本・通具本(堀川大納言通具)、真字本(一二五段二〇八首から成り、四辻善成河海抄』に記事が見えていることから成立は南北朝頃か)などが知られている。古活字版では、嵯峨本がある。

[後世の受容] 写本をめぐるエピソードとして、『甲陽軍鑑』(十一卷)に、「先年当城に饗宴の時、信玄酒狂に託し、京極黄門定家卿筆蹟の伊勢物語携へ甲陽に帰る」とあって、駿河今川家秘蔵の定家筆『伊勢物語』を、酒を過ごしての座興の躰にして奪い取ったという記事が見えている。『武徳編年集成』に、永禄十一年二月十六日のこととする。

HP参考》奈良女子大学図書館データベース『伊勢物語の世界』 九州大学図書館藏・細川文庫『伊勢物語』奈良絵本『伊勢物語

伊勢物語異本表示の試み 伊勢物語(古典研究情報)