2000.05.03入力
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『更級日記』女性愛書家の生涯[82頁]古代⇒「
書物を求めての旅」「后の位も何にかはせむ」「三重の箱に保存」「
書物を求めての旅」 本が読みたくて――死ぬほど読みたくて、神にまで祈るというような気持ちは、出版物のあふれている現代にあっては想像もできまい。だが、菅原孝標
(たかすえ)の女(むすめ)はそうだった。千年も前の人々は、本が読みたければ伝手(つて)を求めて借りて読むしかなかったのである。十歳のころだったのだろうか。彼女は、この世に物語というものがあるのを知って、どうにかしてそれを見たいものだと思うのだった。そこで、あれこれその筋書きを聞き出そうとするのだが、相手も全部覚えているわけではない。どうにも満ち足りなくなって、ついに等身大の薬師仏をつくり、手を洗い清め、人の見ていないときに、「京にとくあげ給ひて〔京に早く上らせてくださいまして〕、物語のおほく候ふなる、あるかぎり、見せ給へ」と、身を投げ出して額(ぬか)をつき、祈ったという。当時彼女の父は、上総介
(かずさのすけ)をつとめていた。上総は、彼女の表現によれば、「あづまぢ〔東路〕の道のはてよりも、猶(なほ)おく(奥)つかた」に位置する辺境の地である。七百キロも離れた都で評判の『源氏物語』などが入ってくるはずもない。父孝標は、菅原道真(みちざね)五世の嫡孫で、継母は歌人であり、兄の定義は大学頭(だいがくのかみ)文章博士(もんじょうはかせ)であるから、学問や文芸とは縁のある一家である。そうした家筋に生まれたにしても、平安時代に東国にて生活するということは、書物とは無縁の生活を送るということを意味していたのである。『更級日記』を読んで、まず胸が熱くなるのは、この純真なこゝろの女人が物語という書物に寄せる、深く大きな愛情である。十三歳のとき、ようやく父親の任期が満ち、念願かなって京に戻るとき、彼女の胸中にあったのは、むろん京の賑わいや、きらびやかな貴族社会での生活ではなかった。ひたすら、この物語、あの物語、源氏の君の物語であったろう。
寛仁四年
(1020)九月三日、上洛(じょうらく)の途についた一家は、下総(しもうさ)を通って武藏へ出る。紀行文的部分が多いのも本日記の特徴だが、当時の武藏の国は、「蘆(あし)おぎのみ高く生いて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで〔馬上の弓の先端、弭(ゆはず)が見えないほど〕、高く生い茂りて……」という状態であったらしい。それから、こわごわと足柄山を越えて富士川を渡り、遠江(とおとうみ)を経て、ついに憧れの京の都に入ったのは十二月の二日である。丸々三ヶ月、物語という書物を見たいという思いを募らせながらの長旅であった。「
后の位も何にかはせむ」 三条の宮の西にあるわが家にたどり着くや否や、まだ人々が引越しの荷物の整理などに追われているあいだでも、「物語もとめて見せよ、/\」と継母にせがむ。やむなく継母は、三条の宮に女官として宮仕えしている親戚に手紙をやる。女官は、久しぶりに会えるのを喜んで、姫君の所蔵にかかる草子類を拝領して、持参してきてくれた。うれしくてうれしくて、夜昼その草子を眺めているうちに、なおのこと読書欲をかきたてられるのだが、知人がいないのでどうしょうもなかった。このとき、彼女の身辺を二つの不幸が襲う。継母との離別、乳母の死である。ふさぎがちの彼女の姿を見て、実母が『源氏物語』の紫の巻を与えてくれた。はたして、うっとうしい気分は吹き飛んでしまい、再び読書欲が燃え盛る。「この源氏の物語、一の巻よりしてみな見せ給へ」と心の内に祈る。母親と太秦
(うずまさ)の広隆寺〔京都市右京区〕に参籠したときも、ほかのことはどうでもよい、ひたすら源氏の物語五十四帖のすべてを我に与えたまえとのみ祈った。彼女の願いはかなえられる。たまたま叔母が田舎から上京したので訪問したところ、帰り際に、貴女の好きなものをあげましょうと、『源氏物語』五十餘巻を櫃に入れたものをはじめ、さまざまな物語の類いを彼女に与えてくれたのである。その嬉しさは、たとえようもなく、「はしる/\、わづかに見つゝ〔いままで胸をときめかせながら部分的に読んでいたので〕、木ちやう〔几帳
(きちょう)〕の内にうち臥してひき出(い)でつゝ見る心地、后のくらひ〔位〕も何(なに)にかはせむ」男なら王侯の位も何にかはせむということだろう。西洋には、書物への熱烈な愛を語った古典作品として、英国人リチャード・ド・ベリーの『フィロビブロン』
(1345)があるが、それに先立って、日本にはこの『更級日記』(1960頃)がある。「后のくらひも何にかはせむ」――愛書家のはしくれとして、私はこの一節に目が吸いつけられてしまう。世間知らずの、夢ばかり追い求める文学少女の姿といえばそれまでだろう。しかし、『更級日記』にはその先がある。彼女は長じて宮仕えの身となり、さらに結婚して子どもをもうけるなど、人生の実相に触れていくにつれ、ごく平凡な、生活第一主義の主婦に変貌
(へんぼう)してしまう。もはや、彼女は書物のために祈ったりはしない。ひたすら、平凡な夫と子どもと、それにわが身の幸福をのみ願って物詣
(ものもうで)をする。「今はひとへに、ゆたかなるいきほひになりて〔夫が栄達をとげて〕、ふたばの人〔幼児〕をも、……後の世までのことをも思はむと思ひはげみて……」という心境。ささやかな希望にすがった生活ながら、「なにごとも心にかなはぬこともなきまゝに」という自足の念。このあたりは、女人の本質をリアルに表白している点で、トルストイの『戦争と平和』におけるヒロイン、ナターシャを想起させる。華奢な夢多き少女が、最後の章で突如、肥えて肩幅の広い、逞しい主婦となって登場するときのおどろき。女人を洞察した作者への驚嘆
(きょうたん)――。「
三重の箱に保存」 だが、『更級日記』の作者の夫橘俊通は、信濃守となったところで世を去り、再び現世は幻と化してしまう。そして、すでに五十一歳の彼女は、もう一度夢の世界へ――といっても、このたびは信仰の世界へと沈潜していく。「さすがに命は憂きにも絶えず、ながらふめれど〔さすが人の命は憂さにも絶えず永らえるものだが〕、のちの世も、思ふにかなはずあらむかしとぞ、うしろめたきに〔後生も極楽往生などかなうまいと不安だが〕、頼むこと一つぞありける〔心強いことが一つある〕」
これは夫の死の三年ほど前、ある夜の夢に、「金色に光り輝き給」うた阿弥陀如来
(あみだにょらい)を見たことである。「さは、この度(たび)は帰りて、後に迎へに来む」と、仏はいったという。――菅原孝標の女。その名は知られず、没年も不明である。現世を夢と観じ、夜の夢をこそまことと信じた彼女は、おそらく、燦然
(さんぜん)たる金色の阿弥陀如来の腕に抱かれて昇天したのであろう。若き日の憧れ、光源氏に抱かれたような、エクスタシーの瞬間であったにちがいない。『更級日記』の最古の写本は、藤原定家の自筆になるもので、作者の死後百七十年目に成立した。いまは皇室の御物で、京都御所内の文庫にある。表紙は、古代紫色の鳥の子紙に金銀泥(でい)で雲を描き、裏表紙は銀泥の波の上に千鳥が舞っている図案である。銀はすでに銅色に変質している。表紙中央から左よりに定家の筆跡で『更級日記』とある。ちなみにこの書名は、本文中に作者が老残の身を「をばすて」と自嘲する歌があり、「をばすて山」が夫の任地信濃の国「さらしな」にあるところから、この縁語でつけたといわれる。
本の大きさは、縦16.3×横14.8センチの胡蝶装で、紙数は百二枚。本文は薄手の鳥の子紙を用いているが、後世の何者かが誤って綴じ直したため、順序が狂い、これをもととした巷間(こうかん)の写本は、すべて“乱丁”ということになってしまった。もっとも、そのおかげで各写本の原本が、すべてこの定家本に基づくものであることが一目瞭然となり、校本の研究上便利となったのは皮肉である。
いまこの写本は、日本の書物のなかでも、もっとも大切に保存されている。というのは、黒漆塗りの外箱に白木印籠蓋(いんろうぶた)の中箱と、さらに、唐物緞子袋に収められた内箱という、三重、四重の“防禦(ぼうぎょ)”をこらしてあるのだ。箱は、近世初期のものと思われるが、作者の愛書家精神に感動した者の心やりにちがいない。
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余話] 定家は、この『更級日記』作者自筆本という天下の弧本が、菅原家に伝存することを知った。このとき、菅原家の当主は為長(ためなが)〔『字鏡集』の編者、当時の公卿補人によれば、官位は常に定家の部下の位置にあった。〕であり、定家のぜひ見せてほしいという度重なる所望に根負けしてか、家伝のこの書を定家に渡す。その後、定家は老眼に鞭打って、この書を一気に筆写したのである。だが、その筆者後の原本は、かき消されてしまうのである。原本が存在することは、自筆書写本の価値を低めるからにほかなるまい。また原本は、百七十年という年月を堪えてこの世にあったこともあり、紙の保存状況そのものもはかりしれないものであったのかもしれない。