2003.01.16
怨念の書 『曾我物語』
 
   水に流せぬ話
 かれこれ十年ほどまえのことになる。兵庫県宝塚市のある小学校で、放火騒ぎがあった。犯人はまもなく捕らえられたが、その六十六歳という高齢もさることながら、動機もきわめて異常なことに、関係者は一驚した。
 自供によると、明治四十二年、丹波の山奥からこの学校に転勤してきた彼は、付近の福地山線を走る蒸気機関車に魅せられ、学校をサボっては一日中汽車を眺めて過した。このため先生にニラまれ、たまたま発生した盗難事件の犯人にされたことから、すっかりグレてしまい、以後長い人生の三分の一を刑務所で送ることになった。放火は、その怨みをはらすためだったというのである。昭和四十年のことだから、通算五十六年になる。個人の宿怨の記録だろう。
 江戸時代の仇討ちでは、寛政年間に山伏の妻子が、五十三年間もかかって母親の仇を討ったという例がある。人間の寿命からいっても、このへんが限度だろうが、怨みというものは子々孫々にいたるまでうけつがれることもある。有名な赤穂浪士の一件にしても、元禄十五年(一七〇二)の仇討ちで一件落着となったわけではない。その後、赤穂、吉良両地方の住民間に烈しい対立感情がのこり、ようやく昭和三十三年になつて手打式≠ェ行われ、二百六十五年間におよぶ宿怨の歴史にピリオドを打っている。
 万延元年(一八六〇)、桜田門外の変における当事者、彦根藩士と水戸藩士の子孫の対立もすさまじい。「水戸っぽが彦根に来ると雨がふる」などという悪口があるほどで、昭和三十五年、彦根市が水戸市と合同で慰霊碑を建てようとしたときも、地元の古老連中から「先祖の胸中も察せず、カタキと同じ墓におさめるとはなにごとか」と猛反対をうけた。その後昭和四十三年、彦根城の井伊大老銅像のまえで、両市の市長が握手して、百八年間におよぶ宿怨記録に終止符を打っている。
 このはか、戊辰戦争における薩摩連合軍の合言葉に「関が原の怨みを忘れるな!」というのがあった。ニ百六十八年間である。日本人は一般に水に流す≠アとが好きな人種といわれるが、必ずしもそうばかりとはいえないようだ。ねちねちした西洋流の復讐心とはニュアンスが異なるとしても、これでなかなか怨≠フエネルギーを秘めた国民なのである。その典型的な例を、以上の例よりいささか古いが曾我兄弟に求めてみよう。
 
   人間の不気味さ
 いったい、わずか二十年の生涯を、ただ敵討ち一筋に、復讐鬼としてのみ生きるというのは、どういう心理なのだろう。戦後の観念では、これは親孝行という枠組で説明づけることができた。小学校の教師にとって、曾我兄弟の物語は楠正成の千早城防戦とならんで、国史や修身の時間のハイライトだった。大正初年生まれの私の父なども、曾我兄弟がいよいよ工藤祐経の屋台に忍びこむくだりで「あとは来週」ということになり、待ち遠しくてたまらなっかたという。
 しかし、曾我物語の伝える仇討ちの場面の凄惨さとブッラク・ユーモアは、どう見ても小学生向きではない。
 兄弟はまず、祐経の枕もとに迫る。眠っている者を斬るのは、死人を切るのと同じというので、太刀の切先を敵の胸元にあてて「起きろ」という。祐経が太刀に手をのばすところを、十郎が「左手の肩より右手の脇の下、板敷までもとおれこそは、きりつけけれ。五郎も、『えたりや、おふ』とののしりて、腰の上手をさしあげて、畳板敷きり通し、下持ち(根太掛け)までぞうちいれたる。……『我幼少よりねがひしも、是ぞかし。妄念はらへや、時致(五郎の名)。わすれよや、五郎』とて、心のゆくゆく三太刀づつこそきりたりけれ。無慙なりし有様なり」
 同宿の祐経の客人王籐内も、ついでのことに血祭りにあげられる。まったくのとばっちりである。彼としては、その日の宵、祐経に対して「貧しい武士と鉄はあなどることができぬ」と警告しただけあるが、それを立聞きした兄弟から「貧しい武士とはけしからん」と、逆恨みを受けたのである。
 這うようにして逃れようとする王籐内を、「十郎……左の肩より右の乳の下にかけて、二つにきりて、おしのけたり。五郎はしりより、左右の高股二つにきりて、おしのけたり。四十あまりの男がなりしが、時の間に、四つになりてぞ、うせにける。……五郎、王籐内が果てを見て、一首とりあえずよみたりける。
 馬はほえ牛はいななくさかさまに四十の男四つになりけり」
 馬や牛がじたばたするように、四十男が四つに斬られたというのである。十郎は弟の歌に満足して、「歌集に入るかもしれん」などと高笑いする。フィクションには違いないが、人間性の不気味さが感じられる。
 『曾我物語』を支配するのは、この不気味さである。それは一つには封建的土地所有のあり方が生みだした。ゆがんだ人間関係からきている。そもそもの発端は、兄弟の先祖にあたる工藤祐隆が、所領の一部を庶子の祐継にゆずったことからはじまる。この処置に不満をもった正系の嫡孫祐新は、祈祷師を雇って祐継を調伏してしまう。
 その祐継の子が、問題の祐経である。彼は叔父の不正を怨み、家来に暗殺を命じる。家来は伊豆の狩場で祐新を狙ったが、たまたま通りあわせたその子祐泰を殺してしまう。祐泰の子が一万と箱王、すなわち十郎、五郎というわけだ。
 
   盲ご女が原作者
 ややこしい話だが、要するに兄弟は血を血で洗う所領争いの犠牲者である。しかも以上のいきさつから、父の仇を報ずることは、もはや所領の回復とは無関係で、純粋に心情的な意味しかのこっていない。このことが、周囲の利害打算に生きる武士たちには、すがすがしいものに映じたのだろう。兄弟の行動を、陰に陽にたすけたのも、そのためである。とりわけ、頼朝に殺されそうになった兄弟のために、畠山重忠ら数人の武将が必死に命乞いにつとめるエピソードは、武士道の理想を示していて興味ぶかい。
 それはともかく、弱冠二十歳前後の若者が、怨念一筋の生涯を貫いて、時の権力者を利害したという事件は、当時の人々には感心すべきことというより、薄気味の悪いことだった。仇討ちの現場である富士の裾野には、兄弟の霊魂をめぐる怪異伝説が生まれた。
「のこる物とては兄弟の瞋恚執心、ある時は十郎祐成となのり、ある時は五郎時致とよばはり、昼夜たたかふ音たえず。おもはず通りあはする者、このよそほひを聞き、たちまちに死する者もあり、やうやう生きたる者は狂人となりて、兄弟のことばをうつし、『苦悩はなれがたし』となげくもみなり」
 号労は御霊に通じる、という感覚があったようだ。やがて、伊豆箱根地方を根城とするご女たちが、御霊の消息を語るという形で、『曾我物語』の原型をつくっていた。このへんは平家物語に似て、陰々滅々たる仏教的色あいが出ている。はじま漢文の本となり、のちに比叡山あたりの僧によって仮名まじりの流布本がつくられた。そのあいだに故事伝説や武士道的な解釈がつけ加えられている。単に仇討ち物語ではなく、おそらく足利初期までの文化がはんえいされた書物である。
 写本は数多くのこっているが、その一つに妙本寺本というものがある。天文十五年(一五四六)、日蓮宗の日助という坊さんが書写して、安房国吉浜(千葉県安房郡鋸南町)の妙本寺に寄進した。それが祐経の子孫にあたる飫肥(日南市)の伊藤家に伝わっている。昭和六年に発見されたこの写本は、表示が濃い藍色地で、中央に白く葡萄の模様を浮き出させており、全十巻のの巻揃いである。
 伝本で多いのは、近世に武士の教養書としてさかんに読まれたからであろう。曾我兄弟の父祐泰の遠孫が所持していた写本を、徳川光圀や当時の将軍が写させ、幕府の書庫におさめたという話ものこっている。
 
《補遺》
『曾我物語物語にみる外道』  『江戸大絵図』  『市川氏』  『長野氏』  『曾我物語 巻七』  『祟り』  『曾我の仇討ち』  
『浮世絵に見る曾我物語』  『夜討曾我』  『曾我兄弟の仇討ち』 
 
『曽根崎心中』における助詞「が」と「の」PDF版
 812161 吉野沙織 入力