2001.10.30〜2005.06.03更新
26、 『正法眼蔵』山は是れ山[145頁]。
中世⇒「悟法の境地」「永遠の古仏の道」「水に月のやどる……」
「悟法の境地」
道元は二十四歳のとき宋に渡り、諸山遍歴の後、天童山の如浄和尚(にょじょうおしょう)のもとで修行したのだが、あるとき如浄から次の詩作を示された。
渾身(うんしん)口に似て虚空に掛り、
東西南北の風を問はず、
一等他の為に般若(はんにゃ)を談ず、
滴丁(ていちん)東了(とんりやう)滴丁東(ていちんとん)
“風鈴の頌(しょう)”というのである。最後の一節は、微風に唱和する氣韻をあらわし、「ちちちんとうりやう、ちちちんとう」とも読むようだ。このほうが風鈴らしい。「般若」は宇宙の実相を達観する智慧(ちえ)。全体の意味はおのずから明らかであろう。
道元はこの詩によほど感銘をうけたようだ。『正法眼蔵』のある卷にこの詩を引用し、「これ佛祖嫡々の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり」すなわち、それこそ、佛祖伝来の般若の説法である、佛祖の身心すべてが般若と化し、東西南北あらゆるものを問わず、常にひとしく他の為に般若を説く――との注釈を加えている。
如浄は曹洞(そうとう)宗に属し、厳格な戒律を実行することにより、禅の世俗化に抗していた。坐禅のさい居眠りをする坊さんがいると、「参禅はすべからく身心(しんじん)脱落なるべし、只管(ひたすら)に打睡(だすい)してなにをなすにか堪へん」と叱りつけた。道元はこのことばから悟りの境地を開き、“只管打座(しかんたざ)”ということを教義の中核に置くようになった。文字通り、ひたすら坐り抜くと言う意味だが、これによって、「身心脱落」し、悟法の境に達するのである。脱落と言うことばは、今日俗化して誤解されやすいが、ここでは身心一如となって本来の自己が実現する境地をさす。瞬間的なものだが、その瞬間を日常のものとする訓練がなされる。これもまた、参禅によってのみ可能であるというのが、“只管打座”ということばの内容である。
このような発想をもつ道元の思想は、参禅の経験がない凡俗には十分に理解されないともいわれる。たしかにそうかも知れぬが、もともと宗教書というものは、実践が伴ってこそ読みが深くなるものときまっていて、門外漢をまったく排除するなら、それは偉大な書物とはいえまい。『正法眼蔵』とは、釋尊の正法を証得してこそ得られる透徹した眼力と、一切をおさめる包容力(藏)を指す。その藏の扉は、心を無にして叩(たた)く者には必ず開かれるのである。
「永遠の古仏の道」
「古佛云(いはく)、『山是山(さんぜさん)、水是水(すいぜすい)』。
この道取(どうしゅ)は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを参究すべし、山を参窮すれば山に功夫(くふう)なり。
かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖(しょう)をなすなり」
第二十九「山水經」の卷の結論部分である。大意は、「古佛が『山ハ是れ山、水は是れ水なり』といった真意は、世俗の目から山を単なる山として見るのではなく、悟道者の観点から山ハ山なりといったのである。山を学び究むれば、絶対存在としての山がわかってくる。このようにして、山水がおのずから賢人、聖人として見えてくる」というのである。
ここで道元が、山水を美しいとか、心が洗われるとかいう月並みな観照態度を否定しているのは明らかだが、それでは悟った者の目に、山はどう映じるのか。
道元によれば、山の本質はすでに芙蓉道楷(ふようどうかい)ら先師の述べた「青山常運歩」「東山水上行」などということばに要約される。ともに山が常に動いているという意味である。凡下の先入主からすれば、山は不動のものだが、それは「小児小聞(もん)」のためである。「山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆへに、人間の行歩(ぎょうぶ)におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ」
それでは山はいかに動くか。「進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向(クヱカウ)せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流とし、流山とす」〔六16オC〕――進歩も止(や)まず、退歩も止まず、しかも進歩のときは退歩にそむくということではなく、退歩のときにも進歩に背くということではない。このような運動を山流、流山というのである。
近代合理主義の進歩幻想などにとらわれていると、こうした概念はすんなり理解しぬくいであろうが、ここで読者は実際に山に向かい合うなり、すぐれた山水圖に接するなりして、思念を凝らすがよい。目の薄膜が一枚剥離(はく―)するような感覚を抱くにちがいない。
要するに、道元の探求する「究竟(くきやう)の境界(きやうがい)」では、あらゆる相対主義が排除される。たとえば水というものも、人間の心のあり方によりさまざまな見方(相対的な見方)ができるが、それは「人見(にんけん)の一端」にすぎない。「随類の諸水、それ心(しん)によらず身によらず、業(ごふ)より生ぜず、依自(えじ)にあらず依他にあらず、依水の透脱(てうとつ)あり」〔六19ウ@〕――究極の世界の水は、自他のあり方に左右されることなく、水それじたいにより超越解脱している。
宇宙のすべての存在は、「解脱にして繋縛(けばく)なしといへども、諸法住位せり」〔六20ウ@〕――何者からも解放されていて束縛はないが、しかもおのれの位置に解脱している。ここから「而今(しきん)の山水は、古仏の道現成なり」〔六15オB〕――いま眼前にある山水には、永遠の古佛の道が実現しているという認識が生じてくる。
私たちはこのような思考プロセスを頭の中でたどるほかはないが、「山水經」一卷を熟読するだけでも、木一本、草一本を見る見方が変わってくる。自然に対する“距離感”に変化が生じてくるのが感じられるのである。
「水に月のやどる……」
日本曹洞宗の開祖道元(一二〇〇―一二五三)は、内大臣久我通親の子。幼時に父母を喪(うしな)い、無常を感じて出家した。あたかも鎌倉仏教の興隆期であり、親鸞、栄西、法然、日蓮などが輩出しているが、彼らは一様に、支配階級に寄生して俗化した仏教を排し、新しい生命力を回復させようと努めた。道元が一度は叡山に学びながら、そこに安住せず、栄西やその弟子明全(みょうぜん)について学んだり、渡宋を実行しているのも、純正な仏教を興したいという熱意のあらわれである。
宋から帰った道元は、山城國で僧団を結成しようとして叡山の妨害を受け、越前國の一地頭の招きを受けたのをさいわい、同國に永平寺を開いた。その後入滅まで十年足らずの間、五十人の門弟とともにひたすら坐禅三昧の境地に浸った。
本書の総論ともいうべき「辯道話(ベンドウワ)」のなかで、道元は端座参禅によって、“自受用三昧(じじゆよう――)”の境に入ることを説いている。
これは身心一如となって悟りの境地に自在に遊ぶ境地をさすもののごとくであり、「自受用」とは自ら自然に受け継いでいるものを純一に生かし用いることと解してよかろう。「山水經」の発想でも知られるように、それは日常的な生活体験からは隔絶している。只管打坐による以外はこの境地に達することは不可能であるというのが道元の考え方である。
道元の人となりを示すものは、その自筆である。透徹した確信に充ちた、しかも明晰な文字である。あいまいさが微塵(みじん)もない。前述の「山水經」のほか四卷分(一部断簡)が残っている。全貌は写本によるほかはないが、現存十数種。卷数は異同があるが、基本は七十五卷で、これに晩年書き足した十二卷本を合わせたものが道元の意図に最も忠実に即した形態と見る。しかし、従来、道元の仮名法語をも編入した九十五卷本というのも広く行われており、永平寺の開版本がそれである。寛政七年(一七九五)、道元の大遠忌に企画され、二十年の歳月をかけて刊行が実現した。全二十一冊(うち卷目一冊)、総丁数一千百四十二丁、大いさ縦二十六・〇×横十八・五cm、茶表紙で左上に題簽(せん)がある。版木は現在も永平寺に藏されており、最近も百部が手刷りで復刊された。とにかく溜息の出るような大著だが、どこを開いても心をひかれることばにぶつかる。たとえば――、「人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを□(日寸ケイ)礙せざること、滴露の天月を□(日寸ケイ)礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を□(ケン)点し、天月の広狭を辨取すべし」〔一3ウD〕。