2001.05.08入力

06天女幻想『竹取物語』《32頁》

―《重労働としての夜這い》《モデルとなった貴族》《竹取の翁の正体》―

重労働としての夜這い

 大番の主人公ギューちゃんこと赤羽丑之助は、十六歳のとき村の後家のところへ夜這いに行き、“天上の美果”を味わったという。

 彼の生れた四国の山村ではヨバアイといったそうで、それは獅子文六説では愛の呼びかけを意味する古い日本語であるというが、近代以前には“愛”をこのような場合に用いた例がないので、語源としてはあやしい。

 夜這いは、呼ばいである。これと目ぼしをつけた女の家の門に立って、相手の名を呼び、自分の姓を名乗る。古代では女の名を知ることからして、容易なことではなかった。紫式部にせよ清少納言にせよ本名が不明なのは、名を生命の一部とみて、両親や兄弟以外には知られまいとしたからである。

 名を知られて女は動揺する。そこを男は一押しする。首尾よく交渉が成立すると、男はせっせと女のもとへ通う。現在ポリネシアあたりの未開民族にも、この通婚という形が残っていて、真夜中に遠方からやってきては、女の身内に悟られぬように用心して床に忍び込む。そのあとセックスという段取りだから、かなりの重労働で、弱い男は淘汰されてしまう。

 この遠路を通うということは日本にもあったとみえ、『万葉集』に、

他国(ひとくに)に結婚(よばひ)に行きて太刀(たち)が緒もいまだ解かねばさ夜そ明けにける

 という歌がある。遠い部落まで女に逢(あ)いに行ったので、太刀の緒も解かぬうちに夜が明けてしまった、というのである。

 中世以降になると上流社会では嫁入婚がふつうになるから、夜這いは農村特有の習俗となる。能登地方では、男が女の両親の許可を得て、公然と通っていた。入口をヨバイグチと称した。飛騨(ひだ)地方では、夜這い帰りの若者に道で出会うと、「ゴクロウサン」とあいさつしたという。やはり重労働だったのである。もっとも、丹波地方のように女のほうから夜這いに出かけるというところもあって、「丹波ヨイトコ女のヨバイ」なる唄がのこっている。

 江戸時代の川柳には、亭主が女房の目を盗んで女中部屋へ忍び込むという光景が描かれている。

「いやならばいいが嬶(かか)にさういふな」

 これは天明ごろの川柳だが、拒絶する女中ばかりではなかった。地方によっては、戸閉りをやかましくいう家には、女中が居つかなかったという。

モデルとなった貴族

 かぐや姫をねらう夜這い連中は、「夜はやすき寝(い)もねず、闇(やみ)の夜に出(い)でて穴をくじり、かひばみまどひあへり。さる時よりなむ、よばひとは言ひける」

 夜陰に乗じて、垣根に穴をあけてのぞきこんだ。これが夜這いの語源だという作者の冗談だが、後世の感覚を先取りしている。

 なかでもしつこい求婚者は、石作(いしづくり)の御子(みこ)、車持(くらもち)の皇子など五人の貴族だった。雨の日も風の日も通いつめ、竹取の翁(おきな)に「み娘をくれ給へ」と伏しおがむ。翁のほうでも、いいかげんなあしらいはできない。一室をもうけて接待する。日が暮れると男たちは集まって、笛を吹き歌をうたい、扇で拍子をとったりしている。

 このように夜這いをグループで接待するという風習は、愛知県や和歌山県などにもあったそうで、親たちはなるべく多勢の若者が長居をしてくれるよう気を配ったという。一種の若者宿であり、欧米のサロンのように年ごろの男女を結びつける機能を果していた。

 それはともかく、天女であるかぐや姫にとって、人間の男どもの執念は、おぞましいものとしかうつらない。そこで思いついたのは、難題を与えて追っぱらうという手だ。石作の御子には天竺(てんじく)にあるという仏の石鉢(ばち)を、車持皇子には蓬莱(ほうらい)にある黄金の枝を、あとの三人にはそれぞれ唐の火鼠(ひねずみ)の皮、竜(たつ)の首についている五色の玉、燕(つばめ)の持っている子安貝を手に入れ、見せてくれと要求する。

 難題というよりも、これは拒絶である。男たちは、そのことを承知で、なおもトリックを用いて姫を欺こうとする。じつは、そうした厚かましさと、ぶざまな失敗を描くことが、作者の大きなねらいとなっているのだ。

 石作の御子は、山中の寺から古ぼけた鉢をとってくるが、たちまち露見してはじ(鉢)をかく。燕の巣から子安貝をとろうとした人物は、足場から落ちて気絶する。手には燕の古糞(くそ)をしっかりにぎっていた。――かい(貝)なし。

 ほかの三人もみな手痛いしっぺ返しを食う。『竹取物語』は原稿用紙にして約五十五枚の長さだが、この部分だけに三十枚近く、つまり半ば以上を費やしている。作者は一人一人の末路を描いては溜(りゅう)飲をさげているようだ。現在の研究によれば、この五人は奈良時代初期の実在の人物をモデルにしたもので、たとえば車持の皇子は藤原不比等(ふひと)をさしているという。他の四人も天武天皇の臣で壬申(じんしん)の乱の功労者である。つまり、作者は反天武側の人物――壬申の乱で敗れた大友皇子の系列をひき、藤原氏にも好意をもっていない、という性格がうかびあがってくる。

 もっとも、この物語が書かれたのは壬申の乱(六七二)から二百二〜三十年は経過しているから、直接的な怨(うら)みや中傷というのではない。むしろ、そのころから専横が目立つようになった藤原一族に対し、お伽ばなしの体裁をかりて、ちょっとからかってやろうとした程度なのかもしれない。当時の読者もこのことには気づいていたと見え、書写する段階で皇子の登場する部分に敬語を補ったりしている。自己検閲だ。

竹取の翁の正体

 一見無邪気なお伽話にもウラがあるということなのだが、物語の後半は有名な昇天場面で、作者も羽衣伝説をヒントに思うさま幻想の世界に遊んでいる。月の都から天人の降(くだ)るところなどは、作者が最も苦心したところだろう。「かゝるほどに、宵うち過ぎて子(ね)の時ばかりに、家のあたり昼の明(あか)さにも過ぎて光りわたり、望月(もちづき)の明さを十合はせたるばかりにて、ある人の毛の孔(あな)さへ見ゆるほどなり。大空より、人、雲に乗りて下り来て、地(つち)より五尺ばかりあがりたるほどに立ち連(つら)ねたり」

 満月の十倍の明るさとか、毛孔が見えるとかの描写が、幻想にリアリティを与えている。

 このとき、竹取の翁の家を警戒したのは、六衛府の武官二千人とある。彼らは「家に罷(まか)りて築地(土塀(どべい))の上に千人、家の人々(家中の者)いと多かりに合はせて、あける隙(ひま=立錐(りつすい)の余地)もなく守らす」というが、それにしても二千人を入れることができたとは宏壮(こうそう)な邸(やしき)である。野山に分けいって竹を取り、箕(み)や籠(かご)など竹製品をつくって売るような貧しい翁が、どうしてこれほどの大金持ちになったのか。

 作者はそのことをはっきり書いていない。古来、そういう伝説が各地にあって、だれもが承知しているわけだ。野山を渡り歩いて竹細工で生計を立てている者といえば、まず山窩(さんか)の一種であったので、このようなものでも~人の加護によって金持ちになれるというところに、話しとしてのおもしろさもあり、また庶民の願望もこめられていたといえよう。

 もっとも、古いむかしには竹取という職業は、貧しいながらも畏怖(いふ)の念で見られていたらしい。年に一度、とりいれ時などに箕や笊(ざる)を背負った竹取の翁が、山からおりてきては、村人と物々交換をして、再び飄然と帰っていく。そうした竹細工には穀物の霊が宿るとされていた。神秘伝説の主人公にふさわしいのである。

 作者は、この種の伝説によく通じていたようだが、前記の推測のほかは何者とも知れない。平安朝の歌人源順(みなもとのしたごう)とか、僧遍照(へんじょう)ともいうが、確証はない。写本は天理図書館にあるものが、室町時代末期のもので、最も古い。そのほか写本によって内容にかなり異同がある。慶長年間に刊行された古活字本も少数ながら伝わっている。縦二八・一p×横二〇・六p、茶表紙で、本文は美濃紙五十二丁である。

[補遺] 『竹取物語』 『竹取物語』 竹取物語現代語訳 『竹取物語』について

 竹取物語データベース Ver. 1.0