2000.05.01入力〜2006.05.17更新

9、土左日記古代の船旅[57頁]

 

古代⇒瀬戸の海賊におびえて」「死児の齢をかぞえて」「かな文学の模範

 

    瀬戸の海賊におびえて

 

 尾道―今治(いまばり)間の定期船に乗って、瀬戸内海のいりくんだ島々を抜けていくと、役一時間ほどで大三島(おおみしま)に着く。人口約一万六千、蜜柑を栽培する静かな島だが、第二次世界大戦中は、水軍の神大山祇(おおやまつみ)神社の参拝者でにぎわった。

 伝説によれば、神武天皇の露払い役をつとめた小千命(おちのみこと)が四国に渡ったとき、この地方の安寧を祈って神社を建立したという。養老年間に神殿が造営されたという記録がある。八千坪の境内には、樹齢二千年と称する楠(くすのき)など、多くの巨木が繁り、社殿とならぶ国宝館には、頼朝、義経、清盛などの武具甲冑(かつちゅう)が奉納され、鎧(よろい)にいたっては、全国にあるものの八割がここに集まっているという。海賊どもも、この社を守護神と仰いでいた。年代的には彼らのほうが古いかもしれぬ。

 瀬戸内海を海賊が横行しはじめたのは、遠く奈良朝時代からだが、平安朝時代になると、周防(すおう)が銅の集散地となって、官船の往来が盛んとなり、海賊どものいい獲物となった。業を煮やした中央政府は、藤原純友らを国司(地方長官)として取り締まりにあたらせたが、ミイラとりがミイラになったといおうか、純友自身、地方民の貧窮に接して痛く同情し、ついに反逆の旗をひるがえすにいたった。豊予海峡の日振(ひぶり)島を根拠地とし、櫃石(ひついし)島と松島間の潮流をたくみに利用して、朝廷への貢物である米や布などを掠(かす)めた。長門の鋳錢司を焼いて、貨幣経済を混乱させるほどのことまでしでかした。

 彼の声望を慕って集まった海賊は十餘艘(そう)というが、誇張としても大掛かりな勢力で、官船の荷を掠奪するだけではなく、ときには僧侶の船さえも襲ったという。当時の内航路がどれほど海賊の襲来を怖れていたかということは、およそ想像の限りではない。現に純友の承平の乱(936年)からわずかに二年前に、紀貫之が高知の西南大津から、戦々兢々として瀬戸の海を渡っている。

 『古今和歌集』の撰者のひとりとしてあまりに名高い彼は、役人としては比較的低い地位に甘んじた。中央の二等官を歴任し、延長八年土佐守となって、最後は従五位上木工頭(こだくみのかみ)として終わった。宮殿の造営修理を担当した部署で、現在の宮内庁管理部にあたる。

 平安朝時代もこの時代になると、律令制の箍(たが)もだいぶゆるんできて、地方長官のなかには任期を終えても、その土地の豪族と結託して勢力を広げたり、群盗と気脈を通じるような輩まで現れてくる。

 

    死児の齢をかぞえて

 

紀貫之の赴任した土佐でも、そうした治安の乱れが絶えず伏在していたと思われるが、“歌を詠む役人”としての彼は、そのようなことには興味を示さなかった。第一、中央に反旗を翻すような才覚もなかったのだろう。むしろ、地方名士と、歌を通じて親睦を深め、任期が果てると、帰心矢のごとく、十二月も押し詰まった海路をはるばる都へ向かったのである。

 航路は大津から室戸岬を経て土佐へと北上し、阿波の水門(みと)〔鳴門〕から紀淡海峡を経て大坂湾に入り、淀川沿いに京へ入る。律令の法典『延喜式(えんぎしき)』によれば、京から土佐まで二十五日とあるが、当時の舟は、川舟に毛の生えた程度のものであるからして、四国の沿岸にしがみつくようにして航海し、海が少しでも荒れたり、風雨が強いときは欠航する。貫之の場合も、じつに五十日間を要した。悪天候も航路の邪魔となるが、それよりもまして、怖かったのが海賊である。

「くにより〔土佐を出たときより〕はじめて、かいぞくむくいせん〔返報せん〕といふなることをおもうふうへに、うみのまたおそろしければ、かしら〔頭髪〕もみなしら〔白〕けぬ。ななそぢやそぢはうみにあるものあんりけり〔海上生活をしていると、すぐ七十、八十の老翁になってしまう〕。 わがかみの ゆきといそべ〔磯辺〕の しらなみと いづれまされり おきつしまもり〔沖つ島守り〕」《私の雪のような白髪と、磯辺の白浪とどちらが白いだろうか?沖の島守よ、教えてくれたまえ》――というのである。徳島の日和佐(ひわさ)あたりで詠んだ歌だが、このあたりが海賊横行する場所として噂が絶えず、帰国のものたちにしてみれば、無事都に到着できるかとみな恐れ戦いている状態である。

「三十日(みそか)〔一月〕。あめかぜふかず。かいぞくはよるあるきせざなりときゝて、よなかばかりにふねをいだして、あはのみと〔阿波の水門〕をわたる。よなかなれば、にしひんがしもみえず。をとこをんな、からく〔必死に〕かみほとけをいのりて、このみとをわたりぬ」

 だいぶ気を持たせたが、けっきょく海賊に遭遇することなく海峡を過ぎた。しかし、貫之とその妻には、この帰路の旅にもう一つの屈託があった。土佐の國へ赴任中、最愛の娘児を喪ったことである。大津より浦戸への途中で、「京にてうまれたりしをんなご、くににてにはかにうせにしかば、このごろのいでたちいそぎ〔遽しい出発の準備〕をみれど、なにごともいはず……。

  みやこへと おもふをものの かなしきは かへらぬひとの あればなりけり」

 箱の浦〔現在の箱作〕の渚に色美しい小貝や小石がうちあげられているのを見て、

  よするなみ うちもよせなむ わがこふる〔恋ふる〕 ひとわすれがひ〔忘れ貝〕 おりてひろはん

 海賊に怯え、死ぬる愛娘の齢を数えたり、考えてみれば索然とした旅路である。しかも走行日数は五十日のうちわずか十二日間だったようだ。あとはひたすら凪(なぎ)を待つばかり。古代の船旅の実態は、歌物語から印象を受けるような雅なものではなかったのである。

  とくとおもふ ふねなやますは わがために みづのこゝろの あさきなりけり

 早くと焦るのに、水は浅くて薄情だというのである。まさに、八つ当たりの心境だ。

 

    かな文学の模範

 

 つれづれをなぐさめる唯一の手段は、やはり歌であった。舟が二進も三進も動かなくなると、「つねにせぬひと」〔ふだん歌を詠まない者〕までが、苦心惨憺しても一首をひねりだす。船頭までが、

「三船よりおふせたぶなり。あさきたのいでこぬさきに、つなではやひけ」

 つまり、雇い主〔貫之〕からのご命令だ。朝の北風の出ぬ前に帆の綱手を引け、というのである。

 もっとも、このあたりの趣向には、虚構も交じり合っているのかもしれない。

土左日記(とさのにき)』そのものが、冒頭に「をとこもすなる(書く)日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」とあるように、従来男性が漢文体で書くものと相場がきまっていた公用日記を、女性の優しく雅なひらがな文に仮託して、私的な内容を綴(つづ)る。――つまり、当時としては、まことに斬新(ざんしん)な虚構(フィクション)作品なのであった。

 これが主として女性読者にきわめて清新な印象をもたらしたことは、已後『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』など、王朝女流日記をその後輩出せしめ、ひいては紫式部の『源氏物語』を生み出す契機にもなったことが見て取れよう。

 とにかく“ひらがな”が多い。一万二千五百字のうち、漢字はたったの六十字ほどしかない。昨今のカナ文字論者や、企業のカナタイプが範とすべきものといえるが、貫之の意図はそんなところにはなかった。国風(くにぶり)の振興ということだ。彼は「やまとうた」すなわち、和歌をもって、「あめつち〔天地の神々〕をうごかし、目に見えない鬼神をも、あはれとおもはせ、おとこ女のなかをもやはらげ、たけきものゝこゝろをも、なぐさむる」という効用説を唱えた〔『古今和歌集』序〕。

 要するに、鬼神があわれと思ったのか、貫之は無事京へ戻り、旅の体験を虚構まじりに書き上げた。原本はすでに失われてしまい、写本として数系統あって、そのなかでも藤原定家が貫之の自筆本を忠実に模写した江戸期以前の写本が青谿書屋にある。縦十七×横十六センチの胡蝶装(こちょうそう)で、本文は楮紙(ちょし)五一丁。日本大学図書館には慶長五年(1600)の写本が伝存する。

 明治になって『万葉集』が称揚され、『古今和歌集』の評価が下落したとき、正岡子規は、貫之を評価して「下手な歌詠み」と罵倒した。しかし、このようなことは貫之にとってどうでよいことであった。

  歌詠みは へたこそよけれ あめつちの うごきだしては たまるものかは <江戸狂歌>

参考本文資料定家本『土左日記』本文の基礎的研究

        文字・表記・音韻研究とコンピュータ 〜たとえば『土左日記』研究〜

 

参考作品研究大湊を追う 紀貫之の憂鬱