2000.09.25〜2002.10.23入力&更新
30、 『徒然草』乱世の孤独。[166頁]。
中世⇒「久米仙人傳説」天平年間のことである。
大和国吉野郡に竜門寺という寺があり、その裏山に三人の隠者が住んでいた。もう何年ものあいだ、彼らは法力を得ようと必死に修行を積んでいた。
三人の住む洞窟(どうくつ)は、竜門岳の切り立ったような崖の中腹にあり、周囲は黒っぽい苔(こけ)で覆われていた。そのかみ何者が、いかなる目的をもってこのような岩穴をつくったのか、土地の古老のだれ一人として知らなかった。
岩穴の入り口に立つと、十里を隔てたところに葛木峰が青く霞んで見え、山裾に向かって久米川の細い流れが延びていた。ある朝、山のきこりたちは、岩穴から一塊の白雲が飛び立ち、川に沿うようにして瞬く間に峰の方へ翔り去るのを見た。鳥とすれば、このへんに見かけたこともないし、ましてや狐狸(こり)のしわざとも思われなかった。「もしや、あの仙人たちのしわざではあるまいか」と、里人たちは噂しあった。
その通り、仙人たちが空中飛行の術を獲得したのだった。彼らはそろって、日に何度となく竜門嶽と葛木峰のあいだを往復した。それまで彼らが物乞いにくるのをきらっていた里人たちも、ついには畏れて乾飯(ほしいい)などをはずむようになった。
あるとき、三人の仙者の一人毛竪は、例によって葛木峰への飛行を試みていた。暖かく晴れた日で、下界のさまが手に取るように見えた。山桜の季節も過ぎて、その葉むらが、あるかないかの微風にそよいでいた。久米川の水も済みきっていた。
いや、その久米川のほとりに、彼は一個の人影を見つけた。洗い物をしている女人であった。裾をめくりあげて、足を川の水に浸している。見る者なしと思ってか、両の股(もも)とくるぶしの白さが――。
おそらく毛竪仙の脳裏には、その白い肌のぬくみと脂の乗った感触だけが映じたにちがいない。岩屋と峰とを結ぶ念力のビーコンはぷっつり切れてしまった。つぎの瞬間、天地の境界がグラリと大きく傾き、彼は下界へ向かっていた。それは彼の獲得した法力によるものではなく、科学的法則――ニュートンの――に従っていた。
伝説によると、毛竪すなわち久米の仙人は、この女を妻として暮したが、のちに朝廷の人夫として駆り出されたさい、法力で材木を運んだ功によって田地を賜ったので、畝傍に寺を建立した。それが今も残る真言宗久米寺であるという。
「生臭坊主への転身」「世の人の心をまどはす事、色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな」と兼好法師はいう。「匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら(ちょっと衣裳に香をたきこめただけと知りながら)、えならぬ匂ひには必ずこころときめきするものなり。久米の仙人の、物あらふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、誠に、手足はだへなどの、きよらに肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねばさもあらんかし」
彼も人並みに女色に惹かれる心はある。きよらに肥え、あぶらの乗った女人の肌に心ときめくのは、愚かではあるが、男としてやむをえない。恋愛の情趣を解さぬような男は、どうにも殺風景で、立派な盃に底がないような物足りなさを感じる。というのが、彼の考えである。三十歳を境に、精神的自由を求めて出家したような人物である。生臭坊主でしかないのは承知のうえだ。
兼好は名家の出身である。代々神祇官をつとめた卜部家の末流に、元寇のあとまもなく、弘安初年(一二七八年ごろ)に生れた。成人して朝廷の事務官ともいうべき蔵人をつとめ、さらに諸門を警護する左兵衞佐に任じられる。「佐」というのは、課長級で、要するに中堅官吏のコースである。腕次第では出世も可能というところだが、彼は二十代のはじめごろに、宮仕えに嫌気が差して辞めてしまった。
それもそうだろう。世は乱世である。皇室は大覚寺統と持明院統の二派に分かれて紛争の絶え間がなく、鎌倉幕府との対立も激化する一方だ。木っ端役人などは無力そのもので、ただ明け暮れ右往左往するだけであったろう。
生きがいのない職場であるうえに、酒によるつきあいなどはおよそ大きらいときている。もともと彼は孤独を愛し、物を思う人間である。あるいは、時代と環境にそう強いられたといってよい。
「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」
日本の古典のなかで、最もポピューラなこの書き出しのなかに、私たちは何を見るだろうか。隠れ里の庵。絶対の静寂のなかで、一人の人間がわれとわが心に向かい合い、ものぐるわしい思いにかられて筆をとるという図――孤独地獄である。
孤独の愁い、不安、そしてあきらめ。だが、時代にさからって、おのれの心に忠実であったという誇りはある。兼好は“志”をもった人である。つまり、人間として真実で自由な生活を求めた“一念の人”である。
その手段が出家である。これは貴族についで高い位を占めていた僧侶に属するということではない。脱サラとはちがうのである。
「蟻のごとくにあつまりて、東西に急ぎ南北に走(わし)る。……夕いねて朝に起く。営むところ何事ぞや。生をむさぼり、利を求めて止む時なし。身を養ひて何事をか待つ。期するところ、ただ老と死とにあり」
「みごとな筆跡の写本」 長くもない一生をあくせくして、気がついてみたらポンコツ化している。それが人生なのか、と兼好はいうのだ。「今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。……一日のうちに飲食(おんじき)・便利・睡眠(すいめん)・言語(ごんご)・行歩(ぎやうぶ)止む事を得ずして多くの時を失ふ。そのあまりの暇いくばくならぬうちに、無益のことなし、無益のことをいひ、無益のことをなし、無益のことを思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、一生を送る、もっとも愚かなり」
高校時代、私にとって『徒然草』は世にも退屈な教材でしかなかったが、社会人になって数年目、疲れて一夜この箇所を読み返してみたところ、じっと考え込んでしまった。三十までの人生、四十までの人生というように、人生が日程化して見えたのである。
「命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なむこそめやすかるべけれ」。三島由紀夫も同じようなことを言ったが、人間は元来寿命がありすぎるのだという認識は鋭い。ただ生活人は、兼好もむろんそうだが、とにかく生きなければならぬ。そのことがわかったとき、はじめて『徒然草』の大きさがわかる。
兼好法師は、この随筆本を五十歳のころ書いた。鎌倉幕府が滅亡する前後である。原本はのこっていないが、昭和六年に発見された最古の写本は、兼好から約百年後の永享三年(一四三一)のもので、世田谷区岡本町の財団法人静嘉堂文庫が珍蔵している。縦二六・二p、横二二・三pの楮紙(ちよし)、袋とじの二冊本で、表紙には紺色の地に金泥で草花が描かれている。歌人正徹の自筆本で、筆跡そのものがみごとな美術品だ。ほかに烏丸光広の校訂本が慶長十八年(一六一三)ごろ刊行され、現在宮内庁書陵部や東大の付属図書館におさまっている。
『徒然草』は近世から広く読まれて、嫁入り道具として欠かせぬ書物ですらあった。明治に入ると、英文学者平田禿木が「わがひとりの心の友は、このつれづれぐさの法師にてありけり」とまで惚れ込み、樋口一葉に「毎日つれづれの草紙を読んでいると、学校に勤めるのが厭(いと)わしくなる」などと洩らしている。
大正頃から高校の教科書にも登場し、いまでは受験専用となっている。おかげで、この書物は日本古典最大のベストセラーとなっているが、若いうちにおもしろいのは、せいぜい久米の仙人のエピソ−ドぐらいのものであろう。書物というものは、それを読むにふさわしい年齢があるのだ。
[HP連関資料]
京都大学附属図書館蔵『徒然草』上・下二冊(写本)。寛文二年版本 版本 正保二年版本 『徒然草絵抄』 国会図書館蔵『徒然草』
翻刻:『徒然草』原文及現代語訳『徒然草』『徒然草』原文で見る『徒然草』