2002.01.30
生への執念『東海道四谷怪談』
「お岩狂死の真相」田宮お岩の墓は、東京都豊島区西巣鴨四丁目の妙行寺にある。法名、徳性院妙念日照大姉。
この墓の由来はなかなか複雑で、まず文政八年、
三代目菊五郎の『東海道四谷怪談』
が大当たりをとったのを機会に建立されたが、そのさい田宮の縁者から抗議が出て取除
かれた。現在残っているのは、慶応末年、四谷怪談を売り物にした講釈師春錦亭柳桜が発起人となって、新たに建立したものという。寺は当時四谷の鮫河橋にあったが、のち
現在地に移転した。
一方、田宮家の旧跡である四谷左門町には
お岩稲荷が建てられ、明治十三年に京橋の越前堀に引越して
田宮神社となったとする文献があるが、稲荷は今でも左門町にあるので、神社のほうが株をわけてもらったというのが正しい。
そもそも、お岩の怨霊事件が、いつごろ起こったのかもはっきりしない。一説に寛文
(一六六一―七三)ごろの話というが、それから三、四十年くだった元禄末年のことだともいう。いずれにしても、そのころ夫の不実が原因で狂死した女性がいて、これに尾ひれがつけられ、一場の怪談噺が成立したのであろう。
一世紀以上も経過した文政末年、四谷辺の名主がまとめた“伝説”は、つぎのように
整理されている。―四谷左門町の御手先同心田宮伊織が、一人娘お岩のために婿養子を
とる。貧乏侍のうえ、娘は醜婦というのだから、まともな口ではない。摂州浪人の伊左衛門というのが、一時の糊口をしのぐために婿入りする。
彼は、まもなく養父が死んだのをいいことに、妻を虐待するようになる。たまたま同
役の伊藤喜兵衛というのが、美人の妾を妊ませ、厄介払いしたがっているのを知り、彼女を譲りうけて、お岩を下女奉公に追いやる。何も知らぬお岩は、亭主とグルになった仲人の秋山長左衛門に言いくるめられ、じつに十数年間も旗本の下女奉公に甘んじていたのである。
やがて、行商人の口から真相を知った彼女は、夜叉のごとく怒り、四谷辺を狂い廻ったあげく、姿を消してしまう。一年後、例の妾と四人の子どもは変死し、仲人の秋山夫婦も怨霊にとり殺され、伊藤喜兵衛は新しく迎えた養子に不行跡があり、処刑された。
張本人の伊左衛門も、十余年後、業病にかかって死んだ。つごう三家が、絶えてしまったことになる。
「水の流れと人の身は」
「髪もおどろの此のすがた。せめて女の身だしなみ、かね(鉄漿)なと付けて髪もすき上、喜兵衛親子に詞の礼を○(「ト思い入れ」の略)」
お岩は按摩の宅悦から、夫の民谷(田宮のもじり)伊右衛門(伊左衛門のもじり)の変心を聞かされ、隣家の伊藤喜兵衛親子に恨みのことばを述べに行こうとする。この喜兵衛
は、実伝(?)の人物よりも奇怪な存在で、自分の娘お梅が妻子ある民谷伊右衛門に横恋慕しているのに力を貸し、産後の肥立ちのわるいお岩に、良薬と称して面相の変る毒薬を与えたのである。
伊右衛門とお岩は、いわば世間なみの夫婦である。新婚時代は仲がよいが、子どもが生まれて女房がやつれ、おまけに生活苦となれば、夫が家庭をうとましく思うこともありうるだろう。そこへ常軌を逸した隣人が割りこんできて、夫婦の仲を暴力的に破壊することから、不条理のドラマがはじまる。
有名な゙髪すきの場゙がつづく。
「母のかたみの此くしも、わしが死んだらどふぞ妹へ○。アヽ、さわさりながらおかたみの、せめて櫛のはをとふし(通し)、もつれしかみを。ヲ、そふじや」
歌が入り、お岩が髪をすく間、赤子が泣く。宅悦が抱いてあやす。歌が切れる。お岩はは毛が山のように脱け落ちるのを見て、
「今をも知れぬ此岩が、死なばまさしく其娘、祝言さするは是眼前。たゞうらめしきは伊右衛門殿。喜兵衛一家の物共も、何あんをん(安穏)に有べきや。思えば思えば、エヽ、
うらめしい」
と、櫛もろとも髪をギュッとねじ切る。血がタラタラと落ちて、前に倒れた白地の衝立にかかる。
「一念とふ(通)さでおくべきか」
息もたえだえに立ち上がる。宅悦が思わずその肩に手をかけてゆすると、お岩はバッタリ倒れ、そのはずみに鴨居に立てかけた白刃が彼女のノドをつらぬく。血だらけの顔でお岩は屏風の間をよろめき出るが、すぐに倒れ、一声うめいて息絶える。
― 善良な貞女が怨霊と化すには、これだけの凄惨な趣向が必要なのである。そして、お岩が無垢の一念をもつ女であるだけに、ひとたびそれが犯されると、俄然ヴェクトル転じて、復讐の一念に凝ってしまう。
文化文政時代、社会のどん底にうごめく怪しげな人間像を描いたこの芝居の中で、お岩はほとんど唯一のまともな存在である。ひたすら夫を愛し、裏切られてひたすら怨む。しかし、相手に対する思いの深さは、一貫して変わらないということがいえる。これに反して、伊右衛門をはじめとする他の登場人物は、義理人情だの金銭だの、みみっちい社会の
きずなに束縛され、状況につれて浮草のように漂う存在であり、「思い」が定まらない。
「水の流れと人の身は、移替と世のたとへ。思えば因果なわしが身の上」
と、お岩の妹お袖のせりふにあるとおりなのである。いわばお岩の存在は、このような
卑小な人間の生きざまを映しだす鏡であるといえよう。
「幽霊笑いの秘伝 」
鶴屋南北は、宝暦五年(一七五五)日本橋新乗物町に生れ、二十一歳のとき役者の世界にとびこみ、五十歳近くなって台本作家となった。長い下積み生活で
あった。赤貧時代に蚊屋を質に入れた経験は、『四谷怪談』の髪すきの場の直前、伊右衛門がお岩から蚊屋を奪って質入れにいく場面に応用されている。
市井の事件を筋にとり入れる手腕もあって、ワキ役の直助や小仏小平なども実在の人物からヒントを得ているし、隠亡堀の戸板がえしの場面も、当時実際にあった事件をたくみに潤色したものである。さらに裏筋として『
忠臣蔵』をもってきて、伊右衛門を塩冶浪人
に仕立て、劇の進行に仇討の筋書きをからませていることも、作品を立体的なものにしている。
伊右衛門は、義士とは対極的な存在である。主家の金を盗むような男だから、仇討に加わる気などさらさらなく、それどころか敵方の高家に仕官しようと躍起になっている。これだけでも、当時のモラルからいえば度しがたい人物であるが、作者は小ざかしい批判を
加えず、その生き方を冷厳に、ほとんど臨床的な眼で見つめている。ほかの人物像にしても同様であり、要するに社会の底辺と、その中に生きる弱者の、生への執念を浮きぼりに
しようというのが南北の第一の意図だったと思われる。
しかし、この作品は当時の風潮を反映して、いわばエログロ・ナンセンス味が強調されることになってしまった。グロといえば、初演のさいお岩を演じた三代目菊五郎(梅寿)の扮装は、伊右衛門役の
七代目団十郎が面をそむけたものだった。これは、菊五郎が地方興行のさいに見かけた狂女をモデルにしたものというが、大詰の場(提灯ぬけ)で伊右衛門にニヤリと笑いかける不気味さは、当時の観客に強烈な印象を与え、尾上家代々に゛幽霊笑い゙の秘伝として継承された。
それはいいとしても、『四谷怪談』は亡霊劇としての側面ばかり強調され、俳優がお岩稲荷に詣でないと変事が起こるなどという妙な話まで伝えられるようになり、人間劇、社会劇としてのスケールは伝わらなくなってしまったのは遺憾である。
台本は筆写されたものが伝わっている。
早大演劇博物館の井原青々園旧蔵本が、原典に最も近いものとされるが、
国会図書館にも参考とすべき台本がある。判型二三×一六・三センチ、表紙には
勘亭流の題名、全五冊、計二百八十七丁である。なお、この作品を改訂した『いろは仮名四谷怪談』には、伊右衛門の有名なセリフがある。「首が飛んでも動いて見せるワ」―。
811051 新井 麻里子さん入力