2002.09.25更新

小倉百人一首について

私の家では、毎年お正月になると、皆で百人一首をする。祖父が読んで残りの人たちでカードの取り合いをする。少し年上の従姉妹たちは、たくさんカードを取っているのに私は、小・中・高とごく一部しか習っておらず、知る機会が少なかったせいか、多くて十枚程度で終わってしまう。そこで、お正月のシーズンでもあるし、百人一首を少しでも多く知ろうということで、小倉百人一首を取り上げて、百首打ち込んでみた。

 小倉百人一首は、天智天皇の「秋の田の 刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」から順徳院の「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」までの百首で成り立っている。ここで、百人一首の成立について考えてみようと思う。

 「うたがるた」として、親しまれてきた「小倉百人一首」は、今を去ること七百四十年、文暦二年(1235)五月二十七日、新古今時代の巨匠藤原定家(1162〜1241)によって撰ばれたものである。古くは「小椋(倉)山荘色紙和歌」と呼ばれていたが、それはこの百首がそもそも、洛西嵯峨の山荘の障子色紙として誕生した事情による。藤原定家(法名は明静)とは、鎌倉時代初期の新古今時代を代表する歌人で、藤原俊成の次男として生まれ、若くより歌に才覚を示して父の『千載集』撰進を助け、九条家のサロンで活躍。やがて、後鳥羽院に見出されて『新古今集』の撰者の一人となった。二条・京極・冷泉家などの歌の家の祖として、中世にその権威を長く誇った人である。百人一首がカルタの形と結びついて流行したのは、藤原定家がこれを作った鎌倉時代初期から約四百年もたった江戸時代以降のことだった。もともとは、奈良時代から十三世紀初頭の新古今時代までに活動した著名な歌人百人のそれぞれ代表歌一首を撰んでなった秀歌撰を指して言ったのであって、本来は歌書の一種であったのだ。百人一首という呼び名は十四世紀半ばの南北朝時代頃からの通称らしく「嵯峨山荘色紙和歌」とか「小倉山荘色紙」といったような名称が本来だったようだ。単に、「色紙和歌」という形で済ましていた可能性が大いにあるのだ。私は、ずっと撰んだ人が小倉百人一首という素敵な名前をつけたのだとばかり思っていた。しかし、それが室町期の名も知らぬ人たちが流行らせたものだったとは驚いた。したがって厳密には正式な名前などないと言わなければならないのだが、特に問題がない限り、伝統的な「百人一首」という言い方をされる。私が、数少ない百人一首の知識の中で一番印象に残っているのは、持統天皇の「春すぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」である。春が過ぎて、いつのまにかもう夏がやってきたらしい。白妙の衣をほすという天の香具山には。明るい日射を受けて、緑したたる山裾には、白い夏衣が点々と干してあることだ。という夏の日射がさんさんと降り注ぎ、空は飽くまでも澄んで、緑したたる香具山をバックに白い衣が干されているという色彩のコントラストがとても素敵だと思った。衣を干すという動作がいかにも女性らしいと思う。いい天気の自然にあふれた香具山の風景が頭に浮かんでくる。新しく学んだものとしては、素性法師の「いま来むといひしばかりに長月の有明けのつきを待ちいでつるかな」・・・「やがてすぐうかがいましょう」と言って寄こしたばかりに、この九月の長い夜を待ちつくして、あなたはお見えにならず、むなしく(待ちもしない)有明の月との逢う瀬になってしまったことですよ。や権中納言定家(藤原定家)の「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎにやくや藻塩の身もこがれつつ」・・・いくら待っていても来ない恋人を待つ私は、夕なぎのころ、松帆の浦に焼く藻塩草のように、熱い恋の思いに身も焦れつつ、夕べともなれば、むなしく待ち続けていることだ。のような切ない恋の歌が印象に残っている。男性を待つ女心を繊細に映し出しているからだ。とても男性が書いたとは思えない。と同時にこの時代の恋愛に対する女性の置かれている立場がわかる。

 百人一首の歴史を振り返ると、携わった作者は670年の天智天皇から1120年の入道前太政大臣公経までの作品と幅広い。百人一首の撰者とその成立に触れた最も古い資料は、頓阿法師(1372年没)の「水蛙眼目」(すいあがんもく)である。冊子となった色紙和歌は、しばらくは門外不出の聖典として歌道家に襲蔵されていたらしい。「小倉」の意を冠したのは、「秀歌集」が有名になってから、「新百人一首」「後撰百人一首」「武家百人一首」など、続々と類書が現れたので、それらと区別するため、嵯峨の小倉山麓にあった定家の山荘にちなんで付けられたものである。次に内容の面から考えてみる。百人一首の歌人は八人の天皇を始め、公卿・殿上人・地下と各層にわたり、十五人の僧侶、二十一人の女性を含んで多彩である。個々の歌の出典はすべて、「古今集」より「続後撰集」までの勅撰集に求められる。その内訳は、古今集24首・後撰集7首・拾遺集11首・後拾遺集14首・金葉集5首・詞花集5首・千載集14首・新古今集14首・新勅撰集4首・続後撰集2首となっている。千載・新古今の28首に対して、古今・後撰・拾遺の作が42首であるのは、晩年の定家三代集を尊重し、典雅にして格調の高い歌を理想としたからだ。百首の歌を部類別に見ると、春6首・夏4首・秋16首・冬6首・恋43首・離別1首・羇旅4首・雑20首である。恋歌が全体の半ば近くを占め、圧倒的に多いのは、時代性というより、余情妖艶を重んじた定家の好みを反映したものだと思う。また、作者の血縁関係は、兄弟は行平・業平のみであるが、親子関係はきわめて多く、18組35人に及んでいる。百人一首は精撰された秀歌集であり、中世末期の歌人たちが聖典視し、契沖・真淵・宣長ら国学者が、作歌・古典の入門書として重んじた。近世以降、「うたがるた」と結びついて急速に普及、殿中より遊里・巷間に至るまで、日常生活に幅広く浸透し、愛玩されてきた事実も見逃せない。

 百人一首の成立を考える際には次の三つのものが基礎資料として重要となる。一つは、百人一首そのものの本文形態を伝えるテキスト。百人の歌仙の顔ぶれやその持ち歌をみたり、語句の異同などを考える際には、当然このテキストが必要となる。二つ目は、定家が百人一首に関して残した証言。そして三つ目は現行の百人一首とは歌人の顔ぶれが何人か入れ替わり、配列上に異同がある「百人秀歌」の存在。これは、戦後になって発見されたもので百人一首の研究を新たな展開に導く契機となった。 日本全国に現存している百人一首の写本の数は各地の文庫や図書館に蔵されている未調査のものも含めると、四百を超える。注釈や色紙、絵入り形式のものは別として、百人一首単独で伝わる伝本のほか、『詠歌大概・秀歌之躰大略』という定家の他の著作と併せ写された本、これに定家に仮託した中世の偽書『未来記・雨中吟』を加えた三種にわたって相当数が残っている。国文学研究資料館収集したマイクロフィルムには、現在この三つの形態の写本を併せ、二百数十あるが、そのうち三分の二近くは、『詠歌大概』などとの合載のものだ。百人一首本文を伝えるものとしては、応永十三年の『百人一首抄』という注釈書の注見出しに書かれている歌本文が最も古いものだ。

 百人一首という古典は、日本の数ある古典作品の中でも比較的人気の高かった、現在でも人気の高いほうの作品だろうと思う。正月が近づくと本屋さんの店頭に百人一首関係の類書や小倉カルタが積まれ、相変わらず人々の購買力をあおっている。また、中学や高校の古典の授業では、文法の手頃な入門書として使われているし、書道の世界でも百人一首の歌は草仮名の練習課題として使われる。全日本カルタ協会主催の協議会では、〇.何秒という早業でカルタを取る妙技に、感心させられる。この協会には現在、150団体・5万人が加入しているそうだ。百人一首は色々種類が出ていて、「列女百人一首」「祇園名妓百人一首」「遊女百人一首」「吉原百人一首」「花街(くるわ)百人一首」「名所百人一首」「倭百人一首」「江戸名所百人一首」などさまざまだ。こうしたことからも私は日本の古典の中で百人一首ほど人気の高い作品はないと思う。811004 高田祐子さん入力》