2000.06.18入力
16、『梁塵秘抄』平安の流行歌[92頁]
古代⇒「
遊ぶ子どもの声」「マニアだった法皇」「焼失した原本」「
遊ぶ子どもの声」遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば
我が身さへこそ動
当世風にいえばマイホーム・パパが、子どもを団地の遊び場などに連れていって、その無心に遊ぶさまを見守っている図であろう。人間というものは、もともと遊び戯れるために生まれてきたのだなあ、と彼は一種の感動におそわれる。それは生活にあくせくして、童心を喪失した大人の悔恨であるかもしれない。
舞へ舞へ蝸牛
舞はぬものならば
馬の子や牛の子に蹴
(く)ゑさせてん踏み破
(わ)らせてん真に愛
(うつく)しく舞うたらば華の園まで遊ばせん
その頃の子どもたちの唄ったわらべ唄である。トンボを馬のしっぽの毛に結びつけて、飛びまわっている子ども。雀を罠にかけてとらえようとしている子ども。いつの時代でも、小さな生き物は子どもの良き遊び相手であった。いや“いつの時代”とはもはやいえなくなっているのかもしれない。現代には童心を育む自然というものが失われ、したがって抒情
(ジョジョウ)のうた、郷愁のうたも失われてしまった.。平安時代から盛んになった遊びとしては、そのほかに子をとろ子とろ、かくれんぼう、走りくらべ、何個何個いくつ、石蹴り、お手玉、竹馬などがある。遊びの世界が開けた時代だった。大人たちのあいだでも、貴族社会にはじまった双六
(すごろく)や囲碁がようやく庶民の普及し、一方では競馬や闘鶏なども盛んだった.。こうした遊びのたぐいは、人間の本性としてたちまち賭博化した。プロのばくち打ちが登場したのも平安時代で、当時の絵には烏帽子をつけた博徒の姿が描かれている。
我が子は二十
博打
(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ国々の博党に
さすがに子なれば憎か無し
負
(ま)かいたまふな王子の住吉西の宮
息子が博徒になったのは困りものだが、我が子となればやはり可愛いので、どうか負けませんようにと、住吉や西ノ宮の神様にお祈りした――という、これは老いた母の悲哀をうたったものだ。
「
マニアだった法皇」日本最古、というより、世界最古と言うべきか。平安後期の流行歌を集大成したのが『梁塵秘抄』である。当時は“今様
(いまよう)”といった。ヒットソング集と思えば良い。書名の由来は、むかし魯の國人に虞公(ぐこう)という美声の持ち主がいて、ひとたび歌をうたうやあたりの空気もゆるがんばかり、梁(うつばり)の塵(ちり)も落ちるほどだったという故事から出た。近頃の音程の外れた歌手では、こういう現象は期待できない。歌は世に連れというが、流行歌は時代の変動期に発展するものだ。平安時代の後期は貴族政治が崩れて武家が頭をもたげ、商業が起るなど、庶民の新時代の到来を肌で感じはじめていたころである。芸能も生まれた。そのころのタレントは遊女、傀儡子
(くぐつ)(人形使い)、巫女(みこ)などである。彼女等はそうした新しい時代に合った民衆のうたをつくり、各地に広めた。「遊びをせんとや生まれけむ」などというフレッシュな歌が、当時の人々の心に深い感動をあたえたであろうことは想像に難くない。上流の貴族たちも、たちまちこうした歌に魅了せられ、宴会の席などに遊女を招いて歌わせた。
なかでも後白河法皇は熱心だった。十余歳のとき今様に惹かれて以来、六十五歳の没年まで、文字通りこの種のうたに憑かれた生涯を送った。四季につけて折をきらわず、昼はひねもすにうたい暮し、夜はよもすがら歌い明かした。声が割れてしまったこと三度。のどが腫れて水も通らなかったという。
当時、法皇の身辺にいた貴族や僧侶のなかにも、信西入道をはじめ今様のファンが多かったところから、そのつてを求めて今様の巧みな遊女乙前(おとまえ)を宮中に招き、熱心に憶えようとした。
貴族のなかには、こうした遊女の一人を情人にしていた者もある。もっともすぐに鼻について、空寝をしているときも背中に女の睫毛がふれてゾっとするという始末になったが、今様が聞きたくて我慢したという。レコードかテープと寝ていたようなものだ。
それでは、法皇はなぜ今様に惹かれたのか。エネルギッシュな政治家で、平氏との抗争に一歩もひかない激しさを示した法皇は、半面、笛の名手で声楽にも秀でていた。『千載和歌集』や『年中行事絵巻』の編纂を命じたことから見ても、当代一流の文化人である。
法皇はさらに熱烈な仏教信者だった。おごれる平氏の滅亡に立ち合い、晩年には皇后や皇子を相次いで失ったこともあって、諸行無常を感じたのであろう。今様の一ジャンルである法文(ホウブン)の歌は,法皇にとっては信仰的な慰めだったのだ。
佛は常に在(いま)せども
現(うつゝ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に
仄かに夢に見えたまふ
信仰には無縁な私なども、この歌の美しい抒情性には、深い感動をおぼえずにはいられない。そして、このような歌を遊女がつくったということに、平安の文化というものを思う。
極楽浄土の宮殿(くでん)は
瑠璃(ルリ)の瓦(かはら)を青く葺(ふ)き
真珠の垂木(たるき)を造り竝(な)め
瑪瑙の扉(とぼそ)を押し開き
華麗な浄土ユートピアのイメージである。百の説法より一曲の今様、と法皇が感じていたか同かは知らぬが、五十余歳にしてすべてをなげうち、後生極楽をのぞんだという法皇にとって、このような仏教讃歌にひたることが唯一の慰めであり、法悦なのであった。
熊野詣(ゆやもう)でが三十四回におよんだという法皇である。そのあつい信仰心は否定しようがないが、日々の生活に追われている下層の民衆は供養もままならなかった。
儚(はかな)き此の世を過ぐすとて
海山稼ぐとせし程に
万(よろづ)の佛に疎(うと)まれて
後生我が身を如何(いか)にせん
まだ資源が豊かだった時代である。海で山で生計を立てるのにあくせくして、信仰にひたる暇もない。これでは後生安楽ができるかどうか、不安でしかたがないというのである。
「焼失した原本」 後白河法皇は承安四年(1174)御所で十五夜にもわたって今様合わせを行なった。歌謡コンクールである。このころを絶頂として、今様はだんだん衰えていく。晩年、法皇は自ら記憶したうたをすべて二十巻の書物に記録し、御所の文庫にのこした。
この御所はたびたび火災にあったと伝えられるから、惜しいことに原本も鎌倉時代には失われてしまったと思われる。江戸時代、塙保己一(はなわほきいち)は法皇がこれらの書物を編んだ趣旨を記した口傳集を見つけ出し、『群書類従』のなかにおさめたが、かんじんの本文は長いこと発見されなかった。それが明治四十四年(1911)になって、写本の一部(二巻分)が世に現れたのである。発見者は和田英松博士で、もと越後国頚城郡高田の室千寿という人の所蔵になり、大きさは縦二七×横十九、五センチ、現在は竹柏園文庫藏となっている。
当時、いち早くこの歌集に注目したのは齊藤茂吉と北原白秋であり、作品にも影響を受けている。芥川龍之介も愛読したという。しかし、一般に読まれるようになったのは、第二次世界大戦後からといってよい。いま私たちが読むことのできるのは、全部で五百八十曲足らず。かりに二十巻すべてがのこっていたら、第二の『万葉集』になっていたろうと惜しむ人も多い。
[補遺]1999年(平成11年)5月20日(木)毎日新聞朝刊の一面に、「後白河法皇の真筆 原本の一部と推定 「梁塵秘抄」新たな断簡。上野学園大学など研究」と断簡がカラ−写真で掲載された。
けれは
○
よるひるあけこしたまくらはあけてもひさしくなりにけり
なにとてよるひるむつれけむ
なからへさりけるものゆへに