礼文島の屋号について
僕らは、船泊の屋号と香深の屋号それぞれ二手に別れ島の人たちに話を聞いて廻ってみた。しかし、島の大半の人
たちは二代目、三代目の人たちで、しかももとから礼文島に住んでいる人は極く稀で、石川県*青森県*秋田県などの出身の人や、中には樺太から帰って来た人もいた。「すみません。礼文島のことについて聞かせてください。」と内島じゅうを原動機付自転車を走らせて廻った。
一
調査方法僕たちが今回島民の人に質問した内容は
1、どんなことでもいいから礼文島の昔話を聞く。
2、特に、屋号のことについて
3、見つけたら見せてもらい読み方を確認、
4、屋号のいわれ、語源、変化
どこがさまがわりしたか。現在も使っているか?5、先代から礼文島に住んでいたのか、それとも他から来たのか?
6、昔の仕事、何代目、
最後に住所、名前、家族構成、年齢を聞く。
また屋号のほかに昭和三十年頃に起きたエキノコックスのことと礼文島の俗語などについても聞いた。
聞く人の対象は年輩の人
二 見聞概況
七月二七日月曜日 晴れ
調査一日目の朝、天気は快晴でしたが、気持ちは憂鬱で調査よりも観光をしたかった。まず香深のフェリー乗場へ
行きレンタルバイクを借り礼文島を北上した。
知らない人に声をかけるのは勇気がいり緊張した。
まず一件目は起登臼の佐藤新一郎さんに話を聞いた。向うの方もはじめは何だろうと思っただろうけど親切に家の
なかに入れてくれた。
01
佐藤新一郎さん 七七歳 樺太出身秋田県の農家 三代目質問してかえてきた答えとして、明治/大正時代 名前の代わりに屋号で呼んでいた事以外は屋号についてわからなかった。
礼文島には、秋田/青森/石川県の能登出身の人が多く調査していて実際そうだった。
また昭和三〇年に大きな影響を受けたエキノコックスについてわかったことは、内路川でマスを釣りに行った時、
狐が死んでいたことがあるし犬や猫も川の水を飲んで死んでいるし、人の命も奪うほどすごいものだったらしい。
佐藤さんからはこういった話を聞くことができたが、まだまだ調査ははじまったばかりなのでどの人に礼文島のこ
とについて聞いたらいいか詳しい人を紹介してもらった。
石山 石さん 二代目 まるまん
柿崎 てつおさん 民宿一力
真宮 轍雄さん 二代目 礼文島出身
このなかの真宮さんを訪ねることにして、起登臼から香深井までもどった。
02
真宮轍雄さん 二代目 礼文島出身礼文町香深井起登臼三二七
屋号のことについてたずねたが、詳しいことはわからなかったが、名前のかわりに屋号で呼んでいたらしい。
またエキノコックスのことについては妹さん三人がエキノコックスにかかり札幌の病院で亡くなられたそうだが、
すぐに症状が出るのではなく、一〇年くらいあとから影響を受け真宮さんの妹の場合は、肝臓がとけてしまったそ
うだ。あとは佐藤さんとほぼ同じことだったが、この日は真宮さんの子供が帰ってくるということで普段は自分のぶんしか魚をとらないそうなのだが、この日は大きなタコと魚を捕って帰ってくるのを楽しみにまっているようだった。またこの日バイク初心者の谷口君がバイクで転んで腕をけがしたので、バンドエイドをもらった。
真宮さん宅をあとにしたあと二、三人にたずねたが、仕事の方が忙しかったりということで、詳しいことはわから
なかったので船泊へいった。
まず船泊についてから昼飯を食べることにしたらちょうどバイオセンターから帰ってきた小山君とちょっとしゃれたレストランでらーめんを食べた。 食べた後小山君はスコトン岬へ、僕らは、船泊の端から屋号について聞いて歩いたところ、荒関さんという方が礼文島については詳しいと教えてくれたので、訪ねてみることにした。03
荒関石蔵さん 三代目 礼文町船泊大備 八三歳荒関さんの家を見つけると庭にちょうどいらっしゃって話を聞かせてくださいと訪ねたところ何のためらいもな
く気持ち良く中にいれてくれた。荒関さんからは、屋号のことと自分の礼文島での体験を話てくれた。荒関さんは西沢清太郎さんにお世話になったらしく、詳しく西沢さんの事について話してくれた。
西沢清太郎さん
は、青森で漁業をしていて、後に留萌の軍役所で命令を受け、礼文島で会所を開いた。春に礼文島ににしんを捕りに来て、また時期が過ぎれば青森で仕事をする。また、最初に礼文島に来たのは、アイヌ人だけだったそうだ。荒関さんは、大正六年に礼文島にやってきたそうで漁業関係に従事していたそうだ。その荒関さんがお世話になったという西沢清太郎さんが会所を開いた場所は、今の礼香寺だったらしい。当時西沢さんの家は郵便局と役場をもかねていたというくらい大きいものだったそうだ。しかし礼文島の屋号に関する唯一の資料には確かに西沢家はあるのだが、今は礼文島には数少ないガソリンスタンド又は新築の民家になっていた。また礼文島に上陸した理由としては、山が美しく、平地だったからだそうで上陸できるような場所は少なかったそうである。
荒関さんにはいろいろ話してもらったのだが、本人もいっていたのだが話が断片的だったのでところどころわから
ないところがあり困ってしまった。
ぜんぜんつながっていないのでわかったことを断片的に書くと、
子炉場とは、にしんの子供を焚く所をいうそうだ。またベンサイドマリの辺りは漁業の基地のようになっていたそうで当時その近くに滝があり、にしん捕りをする若者が住んでいたそうだ。
☆さんぱ鯡八石、船がつけられない。一〇〇メ〜トル位のところへ船がつくように漁業をした。
その他いろいろ話をしてくれたのですが、昭和六年に軍隊に入隊したことや、東京の駒澤大に入隊する人を捜しに
いったことや、戦争のこと、戦後の事なども聞くことが出来た。
+○ ハイヤ〜になっている。
○キ 免田旅館(山形屋)
◇サ 坂商店
○千 田中さん 八三歳
○丁 竹田さんの屋号、また、持って行った資料を見てもらい聞いてみたが詳しいことはわからなかった。その他
@ベンサイドマリに二番目の番屋をたてた。昆布捕りのときは番屋をかしてくれた。
@深沼をたて、石を埋めた。(にしんと同じ八石の石を埋めた。)
@女のひとは当初いなかった。女のひとがもっこで魚を運び、夏ぼに置いた。
@もぐり(水中)が四人石田、村上、上村 荒関さんは親方の合図を伝える仕事をしていた。
@西沢さんの使っていたガス灯を荒関さんが稚内の博物館に寄付したと話してくれたので、稚内公園の博物館をの
ぞいて見たが、見つけることができなかった。
前の方にも書いたが、西沢さん宅は事前に配付されたプリントにも載っているくらい大きいものだった。荒関さん
の話によれば、昭和三年西沢さんの家は稚内の事務所になっており、またその以前は郵便局と役場になっていたそう
だ。
どんな感じの家だったのか荒関さんに書いてもらうことができた。
それからこっちの方は余り詳しいことがわからないのだが、荒関さんが番屋の方の見取図も書いてくれたので書く
と、
番屋の略図
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大 |
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将
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西沢さんの家の見取図
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入り口 |
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旅 |
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館 |
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便所 |
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物 |
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おかって
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置
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寝
室
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茶
室
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役 場
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郵 便 局
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井
戸
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いろいろ話を聞かせてくれた荒関さんの家を出たあと、船泊の商店街を地図を見て屋号のありそうな家をたずね歩
いたのだけれども、確かに店の看板には屋号が書いてあるが、店の人に話を聞いても若い人が多く、忙しいそうで分らないからと結局屋号のことについては詳しいことは聞けずにおわった。
免田旅館を何度もたずねたが返事がなく、居たと思ったらぜんぜん相手にしてくれなかった。その次に訪ねた洋服屋さんから中村さん宅を訪ねたら、いろいろ話を聞けるときいて訪ねてみた。中村さんに地図を見てもらい屋号について聞いたが、詳しいことはわからなかった。僕等が持って行った地図は中村さんの祖父が作られたものだった。
しかし話してくれたこととして、屋号は印鑑代りにも使ったそうで、全員に屋号があった。また柳谷のように同じ名前の人が多かったので、区別するのに便利だったそうだ。また、時には屋号で選挙の投票をしたりもしたそうだ。中村さんの家のように旅館をやっていたりすると屋号は必要なのかもしれない。
一時間位して、中村さん宅を出たあと西上泊の漁村にいった。そして、地図に載っている家にいき、屋号について訪ねてみたが詳しいことがわからず、結局何の成果も上げられず時間も遅くなりこの日の調査を終えた。
七月二八日火曜日晴れ
この日は船泊のあたりの民家に屋号について訊ねたが、この辺りは若い教員の方が多く、元は礼文島以外のところに住んでいた人が多かった。
また中学校で礼文島に関する資料を借りようとしたがなかった。そのあと船泊の町役場で資料を借りようとしたが
、既に先生から渡されたものと同じだった。しかし役場の人がわざわざ利尻まで電話までしてくれて屋号の資料を探してくれた。またこの日は、船泊で誰方かがお亡くなりになったようで、ある商店を訪ねたところ忙しいから帰ってくれといわれしかたなく香深にかえって調査することにした。
帰る途中、見内神社に一人の老人の方がいて話を聞いた。
@田中さんの屋号は○千だそうだ。屋号で呼んでいたそうだが、特に漁業の人が使っていた。一般の人は使わなかったそうだ。
@昔、船泊からアイヌ人が攻めてきた。
@村長が二匹のキツネを離したところ、船泊からエキノコックスがおきてしまった。
@香深井の山おくに金山があるという言伝えがあるが、話の出処は分らない。しかし、田中さんは、金山はあると
断言した。
@一七五九年東部ノシャップのアイヌが宗谷アイヌを襲い、宗谷アイヌの応援に船出する礼文香深井のアイヌの悲劇的な話もある。
あと香深の警察の横にある糸などを売っている石川さん宅を訪ねたが、屋号の由来などはわからなかった。
おもしろかった話としては、
@昔、礼文島の海辺には松の木がいっぱい並んでいてたくさんのトドがいたというが、今の香深からは、想像もできないし、また、アイヌ人が滝の辺りで何かを唱えていたと云う話は礼文島がアイヌ文化圏にはいっていることを感じさせる。礼文島のような弧島の唯一の通信手段として、今の港の辺りに利尻との通信のため
土場巻を置くところがあった。他に屋号に関することで聞いた話として
@木の板に屋号をつけて、ウキワにした。
@箱にポンポン印をつけるところからポンポンという屋号もあった。
三 まとめ
今回調べたものを項目別に分けてまとめると、
屋号について
屋号は商店や漁師の人たちが主に持っていて、名前のかわりに屋号で呼びあったり、印鑑がわりであったり、時には選挙のときにも使ったりもした。屋号は自分で好きなように型を決めるそうで、名前から一つ選んで作られたものを゛やま〜〜 ゛かね〜〜゛などの記号とくっけているように見える。いずれにしても、屋号がかなり便利なものだということがわかった。
エキノコックス
昭和三十年頃に村長がネズミ駆除のために二匹のキツネを離したことからエキノコックスが起きた。今回聞いた人にエキノコックスのことを聞いて知らない人は誰も居ませんでした。
エキノコックスは、猫や犬だけでなく、人にも感染する。礼文島がこの病気の発生地だが、まさか実際話を聞いた人のなかで身内の方が影響を受け、すぐに症状がでるわけでないので、エキノコックスにかかったかどうか分からずに十年位経ってから肝臓のあたりに症状が現われ、どうする事も出来ずに亡くなられた方もいた。
その他
今回聞いてみたが、以外に知っている人が少なく田中さんが話てくれた金山の話とアイヌが攻めてきた話くらいで、あと礼文島の名所と言われるところに立て看板があり、いろいろな話が書いてあった。
その中でも不思議だと思ったのに
銭屋五兵衛の話だ。彼は享和〜文化のころ約百六十年前礼文島で露国と密貿易の傍ら、キンツバ焼を始めたが江戸仕込みであったので屋号を「江戸屋」としたことから字名を江戸屋としたと伝えられるが、一説には「
遠藤屋」という暖簾を懸けたのでそのまま「エンドヤ」となったものだと云われている。実際礼文島に江戸屋いうところがあったが、わざわざここで密貿易をする必要があったのか。調査二日目に礼文町役場にいった時、たまたまそこに町長さんがいらっしゃり、
銭屋五兵衛のことを調べているとおっしゃられた。しかし、彼の出身地加賀国(石川県)に問い合せても彼の存在を記した資料がないそうだ。
他にもこういう話がたくさんあるかもしれない。
四 感想
今回は屋号のことについて調べにいったのに全然成果がなくおわってしまった。事前の屋号に関する知識が少なかったし、また質問のしかたがうまくいかなかったのでいい答えが返ってこなかったのだと反省している。(文責:石井一徳)
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