礼文島の屋号聞き取り譚
01
十○ 渡辺勇夫さんシズエさん渡辺回漕部の渡辺茂兵衛さんの子孫であり、勇夫さんは、三代目である。
二代目までは回漕部であったが三代目は体が弱く役場につとめた。
現在は、民宿かもめ荘を営んでいる。
先祖は寛永年間頃から夏になると礼文島に来て漁をし、冬になると函館に帰るということを繰返していた。その頃は、干しなまこを中国(シナ)との間で貿易をしていた。
明治十六年頃に礼文に定住し始め、回漕部の仕事をしていた。昭和十五年頃、戦争が激しくなり、人手が足りなくなった。その後、政府によって(ヤマジョウ)の香深運送株式会社と合併させられ、礼文運送株式会社と名をかえた。
昭和三十年頃の火事で家を焼失。その時家の前の狭い道を広げた。
香深の地域ではニシンでお金を稼いだ人が水道を引いたのでエキノコックスが流行した時にも、実際にエキノコックスにかかった人は、ほとんどいなかった。
礼文島は、遥か昔は森林で覆われていたが、山火事によって木がなくなり、現在のような状態になった。
十○(ジュウマル)という屋号は、全く使用していない。
02
一△ 柏木宗雄さんハナさん漁業を営んでいた柏木巳之吉さんの子孫であり、宗雄さんは、礼文島に定住した三代目にあたる。しかしながら、お寺(吉祥寺)の古文書によると文久の頃から先祖がいたらしい。
漁業は二代目までで現在は旅館業をしている。
旅館は、観光客が一人も来ない時から始めている。そのときは、出張で礼文島にやって来る人や祭りの時に見せ物をする人などを泊めて営業を成り立てていた。
ニシンがよくとれた時香深村だけで人口が一万二千人位いた。そのほかにも春になると青森から漁夫がたくさん来て栄えていた。昭和二十三年頃になり、ニシンが取れなくなり、人口が減少し、現在は礼文島全体で六千人を切っている。
現在礼文島にいる人は、青森、秋田、越後、松前出身の人が多い。そのほかにもアイヌ系の人もいる。
昆布(利尻昆布)は、利尻より礼文のほうがいい昆布が取れる。昔はこの昆布を天皇に捧げる『献上昆布』と呼び、白裝束を着た神主が昆布の砂利を洗い、その昆布に紅白のしめなわをしめて、警察官が天皇に護送して届けた。
屋号はイチウロコと呼ぶ。
03
○昌 中村昌司さん 礼文町大字香深村在住香深にはずっと住んでいたが、昭和五十九年に雑貨商を始めてからは一代目である。屋号は親の経営している中村鉄工所(屋号は持っていない)との違いを出すために屋号をつけた。
屋号はマルショウと呼び、全てがまるく収るようにという願いを込めてつけた。
04
○数 小池数雄さん屋号は先祖の名前(数馬さん)からつけた。
明治三十三年前後に山梨県の甲府から礼文島にわたってきた。その頃から商売(雑貨商)をしていた。
屋号はマルカズと呼び六十年位前から使っている。現在は、看板にしか使われていない。
05
一 中島雍さん 船泊村大字浜中在住孫じいさんの中島義一さんが九十年前に山梨県から礼文島に来た。義一さんは山梨県では警察官をしていた。
礼文島に来たばかりの頃は、漁師をやっていた。現在の商店を始めたのは約七十年前からである。
屋号はカネイチと呼ぶ。
現在、香深にある中島商店は、別家筋にあたる。元気君が昨年(1964年)生まれ、孫さん4人と仲睦まじく暮らしている。
06
○ヤ 丸谷妙子さん礼文島には九十年位前から来ている。その頃から商店を営んでいる。
屋号は二代前の人が新潟で大工をしており、その人が○ヤという屋号を使っていたのでそのまま続けて使っている。また、群馬県では、旦那さんのお兄さんも○ヤの屋号で店をやっている。
屋号はマルヤと呼ぶ。(文責:吉村英子)
BACK(礼文の情報へ) BACK(北海道の情報へ) MAIN MENU(情報言語学研究室へ)