社寺宗教
神社
奇趣谿壑、モトチ山道を視界に入れ、伝説の勝地桃岩頂上を南に仰いで小波に終わる入舟市街の炊煙を一牟の下に収むる閑雅な富士見が丘に、香深村八百五十戸五千百人の守護として鎮座まします厳島神社は、遠き文化元年の五月岡田半兵衛の市杵島姫を奉還し辨天社と崇め祠つたのに起因している。
當時拜殿は、字トンナイ現役場の裏山に設けられ明治九年開拓使の時代に於て村社に列し、同十九年には崇厳なる春日造の神殿を建立したのだが、恰も明治二十二年の豪雨による敷地崩壊の結果、位置の選定を新たにして現箇所に奉還したのである。
同三十九年神饌弊帛料供進は指定、大正五年には社殿を改築して神興購入其他神器を設備した。
明治二十三年秦岩悦神官に任命さるゝ迄は秋田の人見村其斎藤貞五郎等の別當として祭祀を掌り祭禮寄附のごときも昆布一束宛ーーー當時祭禮は九月であった。
とし、當日は世話方の計らいにて路傍(現在の役場下)に莚を敷き酒肴を整へ参詣者は勿論、通行人迄の足をとどめて御神酒を供し、神楽舞に餘念がなかつたといふ極めて悠長太平のものがあった。
大正六年八月十五日岩悦嫡男秦小市其の後を継ぎ現任常盤井武四郎の任官は昭和五年八月三日である。
花崗岩華丸柱(徑七寸)長サ二尺鏨字[天保三]
同上 長サ六尺徑七寸
(鏨字)
世話人 阿部喜左衛門
奉納 同 彌右衛門
柏屋小平
同 上笠木(完全)長さ九尺八寸角
阿部喜左衛門、同彌衛門は當時福山町船問屋小宿阿部喜兵衛の子息として柏屋小平は福山町の富商柏屋喜兵衛の嫡
孫である。
浄土宗天龍寺
明治二十一年七月本寺青森県東津軽郡今別村本覺寺住職工藤快導発起になり檀徒総代駒谷三蔵、柳谷吉太郎、柳谷文蔵、白幡兼吉等と謀つて字香深井に説教場を新築し、専心布教に盡力した結果、百餘名の信徒を得、同三十二年五月寺號公稱の許可となり以て今日に至った。
昭和二十二年末現在の檀家數は百十五となつてゐる。
曹洞宗吉祥寺
明治十五年大本山永平寺管首勅特賜絶覺天眞禅師久我大教正より北海道殖民地に曹洞宗新寺創立すべき内命を受けて永年本道を巡教せられた徳島県那賀郡豊田村圓福寺住職戸田瑞芳の来村となりて同二十年字ヘウケトンナイの丘地に開基した。
同二十六年本堂を建立して其師天眞惟山禅師を開山に仰ぎ天眞山と號し後吉祥寺と名附けて三十二年六月寺號公搆を許可せられ今日に至った。
眞宗大谷派禮香寺
明治二十年十一月石川県珠洲郡日置村覺寳寺住職松原法専の長男松原顕成来つて礼文郡説教所を開設したのにはじまる。
翌二十一年七月當時檀徒三十七戸の総代であつた松谷久治、山際久治郎、小竹長次と議を凝らして字トンナイ現位置に本堂を建立し同二十八年四月三十日を以て寺號公搆を許され、同三十三年樓大師及太子七高僧牌御下附同四十三年七月御門跡大谷光演上人(随員南篠文雄博士)御巡錫あらせらるる等、更にまた大正三年八月には田中伊三郎 寄進による梵鐘棲の建設より大正四年十月天牌の御下暘に興かり現在百六十五戸の檀家を擁して教基の向上に努めている。
日蓮宗妙香寺
明治二十六年徳田岩松の廢企となりて日蓮宗を唱導し説教所を開設したのに創まる。其後大正六年利尻郡鴛泊村本立寺住職小堀本立師の本村に来りて信徒北島佐市郎、
今野龜蔵、熊木藤太郎等と図り字カフカイに約四十坪の説教所を建て小堀氏よりは佛像佛具を、北島佐市郎よりは境内敷地八百五十坪及同地内建物六十四坪の寄進を得て信徒を一丸とした立正講を結び、同時に法類菅教俊の努力によって大正八年一月十二日北勝山妙香寺として寺號公称の許可となり同九年現在の本堂庫裡を建設して今日に至った。現在檀家九十五戸信徒三百七十八人となっている。
浄土真宗西本願寺派礼文教曾
明治三十七年来島好簡によつて佛道説教所として建立其後頭書名に改 目下寺號公 出願中。
天理教礼文宣教所
大正十五年二月二十四日片川三造の設立になり現在教徒数五百人、天理教日教中教曾那美岐分教曾礼文宜教所として字トンナイ澤に宜教所を設け鋭意傅導に従事しているが現位置に移動したのわ昭和十年である。