2005.06.16更新
情報言語学 電脳『大慈恩寺三蔵法師伝』
大慈恩寺三蔵法師傳
(だいじおんじさんぞうほうしでん)卷三
 
 
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《資料》 「大慈恩寺三蔵法師伝(だいじおんじさんぞうほうしでん)」 巻3 (唐)慧立編、彦【ソウ】続編 大治元(1126)覚印写 1軸 縦24.7cm 
《解題》  三蔵法師として有名な唐の玄奘(602−664)の伝記で全10巻よりなる。法隆寺伝来本巻1,3,7,9のうち、巻3が展示本である。巻1,7,9は、現在法隆寺が所蔵(重要文化財)する。延久3年(1071)書写の興福寺本(重要文化財)を、大治元年(1126)法隆寺の僧覚印が転写したもので、興福寺本に次ぐ古写本として貴重である。朱筆の仮名とヲコト点は、国語学上の重要な研究資料となっている。根岸武香旧蔵本。 
《請求記号》 WA15-12 
 
※本文内容とその利用
咽び泣く(むせびなく) 1.喉(のど)をつまらせて泣く。しゃくりあげながら泣く。声を殺して泣く。 用例:大慈恩寺三蔵法師伝承徳三年点−七「侍臣及び僧、〓(ムセ)ひ泣(ナ)か不といふこと無し」 2.楽器や風が、そのような声や音を立てる。 例:「咽び泣くバイオリンの音」 用例の出典:大慈恩寺三蔵法師伝(だいじおんじさんぞうほっしでん) 伝記。玄奘の弟子の慧立〓彦ソウ。平安時代。10巻。玄奘三蔵の伝記。・・・調査中。
 
★玄奘三蔵が長安を出発してから、いかなる行程をへて西域にたどり着いたか、そしてどんな修行をして帰国したかが詳しく書かれていた。
 長安から秦州を経て蘭州に行き、涼州から爪州にいたる様は、井上靖氏の『敦煌』の主人公趙行徳の行程を彷佛とさせたし、当時西域との境であった玉門関を越えるくだりを読んでいる時にはまるで冒険小説を読んでいるかのような興奮を覚えた。
 印象的だったのは、当時、国を出ることが犯罪だったにもかかわらず、玄奘三蔵が敢えて法を犯して西域に赴いたという事実だった。玄奘三蔵は、度重なる手配書や追手にもめげずに、ある時は州吏を説得し、またある時は秘密にその都市を出発して事なきを得たという事だった。〔「ガンダーラ新西遊記」より抜粋〕
 
大谷大学博物館 2005年度夏季企画展 仏教の歴史とアジアの文化 III
 
2 『大慈恩寺三蔵法師伝』巻8 (福州東禅寺版大蔵経) 中国 北宋時代(崇寧2年=1103) 
3 『大慈恩寺三蔵法師伝』巻9 (福州開元寺版大蔵経) 中国 北宋時代(紹興18年=1148)
 
 
 
 
2005年5月24日(火)〜8月2日(火)
 
旅紀行ジャパン
                             奈良西の京(藥師寺)
玄奘三蔵 602-664 西遊記で知られる中国・唐代初期の僧。一般には三蔵法師(さんぞうほうし)として知られる。13才のときに僧侶となり玄奘(げんじょう)と名乗り、629年の秋、26才で西安市(昔の長安)からインドへ無許可で出国。約16年間費やしてインド各地をまわり、645年に馬20数頭分の経典や仏具などを中国に持ち帰った。 
 
 主なものは仏舎利150粒、仏像8体、経典657部で、これらは弘福寺に安置された。インドから経典を運んだ僧侶は多いが、玄奘は質・量ともに記録的なものであった。 
 帰国時には皇帝・太宗が出迎えたといわれる。太宗は勅を下してただちに訳経に従事させ、玄奘は弘福寺や大慈恩寺などで翻訳作業を行った。彼の翻訳は、あまり意訳しないところに特徴があったという。 
 彼が20年間に訳出した大乗小乗の経論は、大般若波羅蜜多経600巻をはじめ、1235巻に達した。 
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 664年2月遷化(せんげ 高僧の死亡)。日本でも遺骨の一部が薬師寺と慈恩寺(岩槻市)に祀られている。  
 西安市の大慈恩寺には大雁塔(だいがんとう 7層の楼閣式、方形の塔で、全高64m。)が建てられ、ここに完成した翻訳本が納められたが、唐が滅びてからは、戦乱等で散逸した。 
 弟子の弁機に編述させた旅行記・大唐西域記12巻は、彼の伝記である大唐大慈恩寺三蔵法師伝10巻とともに、正確無比な記述によって7世紀の西域・インドを知る貴重な文献であり、小説・西遊記の素材となったことでも有名である。
 
『今昔物語集』に恋する 山口仲美
 坊さんは、寺院内にある身近な図書室によく出入りした。たくさんの書物に目を通しているうちに、彼は一大野望を抱いた。インド・中国・日本という三国の説話を集めて書き記してやろうと。彼は、構想を立て、それに従って説話を集めては、一人コツコツと書き記して行った。一日一話ずつ書いていっても、四年あれば、一〇四〇話の説話を書き記すことができる。
 何人か複数の人で執筆しなければ書き切れないほどの説話の分量だと考える人もいるけれど、わたしはそうは思わない。
 全くの創作説話を一〇四〇も書くのは、大変である。けれども、『今昔物語集』には数多くのタネ本がある。たとえば、漢文や変体漢文で書き記された『三宝感応要略録』『冥報記』『大慈恩寺三蔵法師伝』『弘賛法華伝』『孝子伝』『日本霊異記』『法華験記』『日本往生極楽記』『注好選』、和文で記された『俊頼髄脳』『伊勢物語』『古今集』『後拾遺集』『道信集』『元輔集』など。これらのタネ本を座右において、独自の筆を加え、独特の魅力を放つ一〇四〇の説話を書いていったのである。偏執狂的で、粘り強く、根気のある人なら、一人で十分に成し遂げられる作業量である。
 
 
★過去の文献の学問的に厳密な翻刻では、原本の字体の微細な差を表現する為に、多くの字体区分が必要だという主張かある。しかし、少なくとも日本語の分野て、厳密を以て鳴る高度に学問的な翻刻である「校本万葉集」、「大慈恩寺三蔵法師伝」(築島裕〕、「室町時代物語集」(横山重)、等、廣・広、爲・為、辭・辞、從・従等をいずれも包摂し、] 0208:1997の包摂規準より遥かに大胆な包摂を行っているのは明らかで、勿論、草冠の三画・四画、しんにょうの一点・二点、高・*高*、吉・吉を区別する等は、絶えて無い。これらは包摂する事こそが伝統的なのであり、見掛けの差をそのまま引き写すのを「厳密な翻刻」と呼ぶ習慣はない“(一九九七年五月十六日、印刷技術協会でのセミナー用レジュメより)〔「要求する側の責任ということについて」(1996年1月 電脳文化と漢字のゆくえ(平凡社刊))より抜粋〕
 
『玄奘取経図研究』1990 敦煌研究院院長 段文傑 2001.6翻訳 荒木雪葉
 最後に、以下のようにまとめることができる。『大唐三蔵取経詩話』は、玄奘の『大唐西域記』を依拠として書かれた彦〓(心+宗)の『大慈恩寺三蔵法師伝』や、西域取経伝説を書き上げた変文が、芸術的想像力を発揮して神魔小説の方向に大きく一歩を踏み出したものである。