水鏡

 〜鎌倉時代の歴史物語〜概要 『水鏡』は歴史物語に属し、「四鏡」の1つである。作者は内大臣中山忠親といわれるが、彼の残した日記『』には執筆を示すような記事は見えない。したがって、成立年代は不明だが、平安時代末期から鎌倉時代初期ごろに書かれたらしい。書名は巻末に「これももし大鏡に思ひよそへば、そのかたち正しく見えずとも、などか水鏡のほどは侍らざらんとてなん」とあるのによる。内容 作品の舞台はある年の2月の初午の日、奈良・初瀬の長谷寺に参詣した73歳の尼が、345歳の修行者に出逢い、その修行者が一昨年の910日の夜、修験道の霊場として名高い葛城で、年老いた仙人から聞かされた話を物語る、という体裁をとっている。『大鏡』で語られなかった文徳天皇以前の歴史について、神代のことは憚りがあるので、神武天皇から第54代仁明天皇まで編年体で明らかにする、という内容である。

解釈・鑑賞  すでによく知られていることだが、『水鏡』は平安時代末期にによって漢文で書かれた史書『』を直接の材料としており、『水鏡』独自の記事はあまり見当たらない。しかし、その歴史観は「序」において語られるように、「この目の前の世の有様は、折に従ひてともかくなりまかるなり。いにしへを褒め、今を謗るべきにあらず」というもので、過去のさまざまな愚行・非行が明らかにされる。兄の天皇がまだ東宮のとき、妻にしようとしていた黒媛のもとへ兄のふりをして訪れて親密になり、ことが露見するや「我が身たひらかならんこと難かるべさし」と反乱を起こす。寵愛していた女御が密通したことを怒り、女御と男を木に縛りつけて焼き殺すなど、多くの人を殺して「世の人、大悪天皇と申し」た雄略天皇。妊娠している女性の腹を裂いて胎児を見たり、人を木に登らせて突き落としたり、水に入れて矛で刺し殺したり、人を殺すことを朝夕のしわざ」としていた武烈天皇。中でも奇怪なのは、「われ負けなば、盛ならむ男を奉らむ。后負けなば、色かたち並びなからむ女を得させ給へ」と皇后内親王と博打をして負け、息子の山部親王を与えた光仁天皇と、その背後で暗躍していた藤原である。結局、井上皇后は天皇を呪詛したという罪で息子の東宮親王もろとも廃され、代わりに東宮に立てられたのは、身分低い母を持つ山部親王、後の天皇だった。女帝称徳天皇の死後、天智天皇の孫であった白壁王を担ぎ出して光仁天皇としたり、他の皇子たちをさしおいて山部親王を強力に東宮に推挙したり、百川はある種のキング・メーカーとして描かれており、「私の心なく世のためとてこそは行へり」と評されるが、藤原氏の繁栄をんで天皇家に影響力をふるった百川の姿には、後の摂関政治家の原型が見られよう。『水鏡』には『扶桑略記』という直接の材料があり、『大鏡』以前の歴史を明らかにする、という意図ははっきりしているものの、記事における『水鏡』の独自性は である。むしろ、修行者が2年前に仙人から聞かされた話を、改めて夜話として、尼に物語る、という今までにない新たな設定に、『水鏡』の特色も認めることができよう。