[9月1日~9月30日迄]
ことばの溜め池
ふだん何氣なく思っている「ことば」を、池の中にポチャンと投げ込んでいきます。ふと立ち寄ってお氣づきのことがございましたらご連絡ください。
2000年9月30日(土)晴れ。東京(八王子)
とをみくし かみすきすみか しくみをと
遠御櫛 髪梳き澄み香 仕組み音
「下司(ゲシ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「氣」部に、
下司(―シ)。〔元亀本213④〕
下司(――)。〔静嘉堂本242④〕
下司(―シ)。〔天正十七年本中50ウ④〕
とある。標記語「下司」の語注記は、未記載にある。『庭訓徃來』十一月日の条に見え、『下學集』はこれを、
下司(ゲシ)。〔人倫門39①〕
と、やはり語注記を未記載にする。『庭訓徃來註』には、
催促廻文下司 下司ハ字面也。式目ニハ奉行ノ被官ト有也。〔謙堂文庫蔵64左②〕
とある。この語注記は、「下司は字面なり。『御成敗式目』には奉行の被官とあるなり」という。これを『御成敗式目抄』(岩崎本)でみるに、
下司ハ、奉行ノ内ノ者也。〔『中世法制史料集』岩波書店刊287⑩〕
とすることからも、この「式目には」という表現は、「式目」の注釈書を想定できるのだが、『庭訓徃來註』が用いた注釈書を見出すに至っていないのが現状である。『節用集』類の広本『節用集』は、
下司(ゲシ、クダル/シモ、ツカサ)。或云下手人。又下死人。解死人(ゲ――)。〔人倫門590⑥〕
とあって、別名異表記の語をここに注記する。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
下司(ゲシ)公文。〔弘・人倫172⑧〕
下司(ゲシ)――。公文。〔永・人倫142①〕〔尭・人倫131⑧〕
とあり、注記語を「公文」とする。そして、広本『節用集』が示した語注記の「ゲシニン」については、別語として新たに立項し、
解死人(ゲシニン)下死人。下手人。〔弘・人倫173①、永・人倫142④〕
解死人(ゲシニン)下死-。遣死―。下手-。〔尭・人倫132①〕
としている。このように、当代の古辞書を見るに、この語において『下學集』と『運歩色葉集』とは語注記を未記載にしていて、『節用集』類は、語注記を記載するが、独自の語注釈をここに示すにすぎない。いわば、『庭訓徃來註』とは没交渉の語という立場を示しているのである。
当代の『日葡辞書』には、
Guexi.ゲシ(下司)。中間の上役,すなわち,他の人〔上役〕の下にある役人.〔邦訳297r〕
とある。
2000年9月29日(金)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
をくにくき ゑみはなみえ きくにくを
奥に茎 笑み花見え 菊に句を
「烏兎(ウト)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇」部に、
烏兎(ウド)ーハ日。ート月。〔元亀本179⑨〕
烏兎(ウト)ーハ日。ートハ月。〔静嘉堂本201②〕
烏兎(ウト)ーハ日。ートハ月。〔天正十七年本中30オ①〕
とある。標記語「烏兎」の語注記は、「烏は日。兎とは月」という。『庭訓徃來』十一月十二日の条に見え、『下學集』はこれを
金烏(キンウ)日也。玉兎(ギョクト)月也。〔天地17④〕
とあり、標記語「金烏」と「玉兎」とで示している。『庭訓徃來註』は、
御任国之後烏兎推移不∨遂∥面拝候間 烏ハ日也。兎ハ月也。尭ノ時卞ノ日並出命シテ∨廻ヲ使ルニ∨射∨之。即射落ニ九ノ烏也。又昔シ釈迦菩薩ノ行ノ砌、鳥類草木ニ至マテ仰心アリ。中ニモ猿ハ奉ル∥菓子ヲ|。狐ハ献∥川魚ヲ|。兎ハ无調法ニシテ不∨能ハ∨献ルコト∥一物ヲ|。其時集∥草木ヲ|焼∨身ヲ欲∨成∥佛ノ食ニ|。帝尺ハ感シテ∨之ヲ、天ニ上テ被∨載∨月出也。故ニ云∨尓也云々。〔謙堂文庫蔵60左②〕
とあって、『運歩色葉集』はこの注記の冠頭部分をここに採録したことが知られる。『節用集』類の広本『節用集』は、
烏兎(ウト/カラス、ウサギ)烏ハ日。兎ハ月。〔時節門469①〕
とあって、『運歩色葉集』に同致し共通する。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
烏兎(ウト)烏ハ日也。兎ハ月也。〔時節147⑧〕
烏兎(ウト/カラス、ウサギ)烏ハ日也。兎ハ月也。〔時節119⑤〕
烏兎(ウト)烏ハ日也。兎ハ月也。〔時節109②〕
とあって、同じく『運歩色葉集』に同致し共通する。いわば、『下學集』における標記語「烏兎」が未收載であることが、『節用集』類及び『運歩色葉集』にとって、他の語注記に求めるものとなっていたのではなかろうか。
さらに、『庭訓徃來註』の「又昔シ」以下の語注記の譚だが、『運歩色葉集』には、標記語「月兎」の語注記として採録されている。これについては、1999年11月24日(水)「月兎(ゲツト)」のところで取り扱っている。
2000年9月28日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
きくにはに こがねのねがこ にはにくき
菊庭に 黄金(子が寝)の寝籃 庭に茎
「留守(ルス)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「留」部に、
留守(ルス) 。〔元亀本76②〕
留守(ルス) 。〔静嘉堂本92⑤〕
留守(ルス) 。〔天正十七年本上46オ⑥〕
留守(ルス) 。〔西來寺本137④〕
とある。標記語「留守」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十一月日の条に見え、『下學集』はこれを継承し、
留守(ルス) 。〔態藝門74⑤〕
とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』には、
留守所ノ結構(ケツコウ) 留守ハ旧国歟。師之説ニ曰∥簾中ト|也。〔謙堂文庫蔵64右⑦〕
とあって、「留守は旧国か。師の説に簾中と曰ふなり」という。『節用集』類の広本『節用集』は、
留守(ルス/リウ・トヾム、シユウ・マホル)或守作∨主 。〔態藝門206⑦〕
とあって、語注記は「或いは守を主と作る」といった別表記の説明となっている。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
留守(-ス) 。〔弘・言語進退60⑧〕
留連(ルレン) -難(ナン)。-守(ス)。〔永・言語62⑤〕〔尭・言語56⑦〕〔両・言語65⑥〕
とあって、弘治二年本は標記語として同じく取り扱うが、他三本は、「留連」の注記に頭冠収束熟語として収める形態をとっている。以上連関度の高い古辞書をもって「留守」の語を見たが、いずれも語注記は未記載にあった。『庭訓徃來註』の注記説明がどのようなものを意味しているのか今後考えねばなるまい。
当代の『日葡辞書』に、
Rusu.ルス(留守)Todomari mamoru.(留まり守る)家に居ないこと.あるいは,家以外の所に居ること. §Rusuo suru.(留守をする)他の人の不在中,家に残って番をする.§Rusu naru,l,dearu.(留守なる,または,である)よそへ出ている,あるいは,不在である.⇒Mori,u(守り,る).〔邦訳544l〕
とある。
2000年9月27日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
やくになる いつくしくつい るなにくや
薬に成る 美しく墜る 名に悔や
「胡桃(クルミ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の補遺部「草花名」部に、
胡桃(クルミ) 。〔元亀本374⑥〕
胡桃(クルミ) 。〔静嘉堂本455②〕
とある。標記語「胡桃」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月日の条に、「胡桃」と見え、『下學集』はこれを、
胡桃(クルミ) 。〔草木門132④〕
として、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』には、
隨∨体∨之可∨引∨之時以後之菓子者生栗(イケクリ)搗栗(カチ―)串柿熟柿(―クシ)干棗(―ナツメ)花梨子(ハナナシ)枝椎(ヱタシイ)胡桃(クルミ) 生北土。今陜洛間、多有∨之。大株厚葉多陰、實亦外有皮包之。胡桃乃核中桃為∥胡桃|。内秋冬熟時採之。外青皮染髪及帛黒、其樹皮可∨染∨褐也也云々。〔謙堂文庫蔵59右⑥〕
とあって、「胡桃」の語注記は、「北土に生す。今陜洛間、多くこれ有り。大株厚葉多陰、實また外にこれを包む皮有り。胡桃の核の中は桃にて胡桃となす。内、秋冬に熟する時これを採る。外の青き皮は染髪及び帛黒、其の樹の皮にて褐に染むべきなり云々」と実に詳しい。『節用集』類の広本『節用集』は、
胡桃(クルミ/ナンソ・ヱビス、タウ・モヽ) 。〔草木門499⑦〕
とあって、語注記は『下学集』同様未記載にある。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
胡桃(クルミ) 越桃。〔弘・草木156⑧〕
胡桃(クルミ) 。〔永・草木128②〕〔尭・草木117①〕〔両・草木142①〕
とあって、弘治二年本の語注記「越桃」は、「梔(クチナシ)」の注記語を誤ってここに収めたものである。これ以外は諸本未記載にある。まだ結論を出すのは早いが、室町時代における通俗百科性の古辞書『下學集』『節用集』『運歩色葉集』には、この果樹木「胡桃」に対して、一貫して注記を見せていないことを知るのである。これに対し、『庭訓徃來註』は、その特徴・利用方法について詳細な説明がなされている。この拠り所はまだ知れないが、この編纂姿勢の差異をどうとらえて見ていくのか、また受用面から見たとき、古辞書と徃来註とにおける国語辞書における意義説明資料から見た場合、一種の棲み分けがここに関わっていたのではないかと思わないでもない。
2000年9月26日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
くにろろき たまのなのまた きろろにく
郁ろろき 玉珠の名の復た キロロに来
「辣菜(ラツサイ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、
辣菜(ラツザイ) 漬(ケツリ)物之亊。〔元亀本172⑤〕
辣菜(ラツサイ) 漬物(モノ)之亊。〔静嘉堂本192①〕
辣菜(ラツサイ) 漬物之事。〔天正十七年本中26オ⑧〕
とある。標記語「辣菜」の語注記は、「漬(ケツリ)物(モノ)の亊」という。『庭訓徃來』十月日の条に、「辛辣羹」と見え、『下學集』はこれを、
辣菜(ラツサイ) 漬物(ツケ[モノ])。〔飲食門100⑤〕
とある。『庭訓徃來註』には、
辛辣羹 汁菜ニ辛ヲ加之味也。〔謙堂文庫蔵58左⑤〕
とある。語注記を「汁菜に辛しを加ゆるの味なり」という。すなわち「辛い漬物」をさしているのであろう。現代の国語辞典にはこの語は未採録にある。『節用集』類の広本『節用集』は、
辣菜(ラツサイ/カラシナ) 漬物(ツケ―)。〔飲食門452⑥〕
とあって、『下學集』を継承する。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
刺菜(セツサイ) 漬物。〔弘・財宝143⑧〕
辣菜(ラツサイ) 漬物(ツケモノ)。〔永・食物114③〕
棘菜(ラツサイ) 漬物(ツケモノ)。〔尭・食物104⑦〕
棘菜(ラツサイ) 漬物。〔両・食物127⑤〕
とあって、語注記は同じく共通する。標記語の「辣」の字を「刺」や「棘」と誤記する写本となっていることにも注意されたい。このなかで、永禄本のみが正しい表記である。『運歩色葉集』もこの継承の系統にあると見て良かろう。
2000年9月25日(月)晴れ。美方⇔村岡町⇒東京(世田谷)
くにごとに わとなりなとわ にとごにく
国毎に 輪と成りな永久 爾外語にく
「牛房・牛蒡(ゴバウ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「古部」に、
牛房(―バウ) 。牛蒡(―バウ) 。〔元亀本230⑩〕
牛房(ゴバウ) 。牛蒡(同) 。〔静嘉堂本265①〕
牛房(―ハウ) 。牛蒡(同) 。〔天正十七年本中61オ⑧〕
とある。標記語「牛房」と「牛蒡」とが並列していて、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月日条に、「煮染牛房」とあって、これを『下學集』は何故か継承しない。これを『庭訓徃來註』に、
煮染(ニシメ)ノ牛房 似ル∥牛之閉ニ|間云尓也。〔謙堂文庫蔵59左⑧〕
とあって、語注記に「牛の閉に似たる間尓云ふなり」という。『節用集』類の広本『節用集』は、
牛房(コバウ/キウ,ウシ、ネヤ,フサ) 或作牛蒡。〔草木門654⑤〕
とあって、その語注記は、「或いは牛蒡に作る」といった別表記を示すものである。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
牛房(ゴバウ) 。〔弘・草木185⑤〕
牛房(ゴハウ) 又蒡。〔永・草木152②〕〔尭・草木142②〕
とあって、広本『節用集』を継承するのは永禄二年本、尭空本とそして、『運歩色葉集』というところであろうか。ここでも、『庭訓徃來註』の語注記は、古辞書には採り入れられず仕舞いである。
2000年9月24日(日)小雨後霽。美方⇔村岡町
第三回 村岡ダブルフルランニング大会(兵庫県村岡町)
くによきは やまたにたまや はきよにく
国良きは 山谷玉や 葉木節に来
「繊蘿蔔(センロフ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「左部」にはなく、「勢部」に、
繊蘿蔔 (せンロフ)。〔静嘉堂本432④〕
とあって、語注記は未記載にある 。また、元亀本はこの語を欠落する。『庭訓徃來』十月日条に見え、『下學集』はこれを継承し、
繊蘿蔔 (センロフ)。〔飲食100⑥〕
とあって、語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』に、
菜者繊蘿蔔 (サンロフ) 用大根ヲ也。〔謙堂文庫蔵59左⑦〕
とあって、「大根を用いるなり」という。『節用集』類の広本『節用集』は、
繊蘿蔔 (センロフ/ホソシ、ツタ、―)。〔飲食1085①〕
とあって、これも語注記は未記載にある。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
繊蘿蔔 (センロフ)。〔弘・食物265①〕〔永・食物226③〕〔尭・食物213①〕
とあって、語注記は未記載にある。元亀本『運歩色葉集』がこの「繊蘿蔔」という飲食物を何故に欠語としたのかを今後考えねばなるまい。また、『伊京集』に、
繊蘿蔔 (センロフ)大根之細掻也。〔財宝①〕
とあって、「大根の細まかに掻くなり」といった語注記説明がなされているのが特逸するところであろうか。
当代の『日葡辞書』に、
Xenrofu.センロフ(纎蘿蔔)サラダ〔和物〕にするために,細く薄く刻んだ大根。〔邦訳752r〕
とある。
2000年9月23日(土)雨一時小止み。美方⇔村岡町
第三回 村岡ダブルフルランニング大会(兵庫県村岡町)前夜祭
くにみれば みとりくりとみ はれみにく
国見れば 緑繰り富み 晴れ見に来
「山葵(わさび)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「和部」に、
山葵(ワサビ) 。〔元亀本88③〕
山葵(ワサビ) 。山薑(同)。〔静嘉堂本108⑦〕
山葵(ワサビ) 。山薑(同)。〔天正十七年本上53ウ⑥〕
山葵(ワサビ) 。〔西来寺本〕
とある。標記語「山葵」の語注記は未記載にあり、『庭訓徃來』十月日条に見え、『下學集』にも、
山葵(ワサビ) 。〔草木門128②〕
とあって、語注記は未記載にする。これを『庭訓徃來註』に、
并暑蕷(/ヤマノイモ)野老笋蘿蔔(シユンロフ)山葵(ワサヒ)寒汁等也 山葵形ハ似∥大黄ニ|。色青白也。葉ハ如∥皈ノ寒汁ニ如∥大根ヲ砕ト|。々ニハ以∥石木ヲ|。如∥網ノ目|也。刻彫シテ以∨其ヲ砕也。即是ハ根之亊也。〔謙堂文庫蔵58左⑥〕
とあって、語注記は詳細である。『節用集』類の広本『節用集』は、
山葵(ワサビ/サンキ、ヤマアホイ) 或作褂(ワサビ)ト。〔草木門128②〕
とあって、別表記を注記している。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』は、
山葵(ワサビ/サンキ) 褂(同/カン)。〔草木70⑥〕
山葵(ワサビ/―キ) 予甲(ワレモコウ)。又山薑(同)。又褂。〔永・草木70⑤〕
山葵(ワサヒ) 又山姜。又褂。〔尭・草木64⑤〕
山葵(ワサビ) 。〔両・草木76②〕
とあって、広本『節用集』の注記を受けて、これを並列標記にしたり、または、語注記に留め置くといった形態をとっている。『運歩色葉集』は、『節用集』類、『庭訓徃來註』の注記に近いものの、これに同調して同形態にして従うものではない。「褂(ワサビ)」〔元亀本381⑥〕〔静嘉堂本464②〕の語は、補遺の「草花」部に別項しているのがそれである。
当代の『日葡辞書』には、
Vasabi.ワサビ(山葵)冷たい汁(Xiru)やその他の料理に使う,山林に生ずる或る種の果実。〔邦訳680r〕
とある。
2000年9月22日(金)雨一時小止み。美方⇔村岡町
くににみな せかいにいかせ なみににく
国に皆 世界に活かせ 名身に二供
「豆腐(タウフ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、
豆腐(タウフ) 。〔元亀本139⑤〕
豆腐(タウフ) 。〔静嘉堂本148⑤〕
豆腐(タウフ) 。〔天正十七年本中6オ③〕
とある。標記語「豆腐」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月日条に見え、『下學集』にも、
豆腐(タウフ) 。〔飲食99④〕
とあって、語注記は見えない。これを『庭訓徃來註』は、
豆腐羹(――カン) 慈覚之入唐之時始作也。〔謙堂文庫蔵59ウ④〕
として、語注記に「慈覚(大師)の入唐の時、始めて作るなり」という。『節用集』類の広本『節用集』は、
豆腐(タウフ/トウ―、マメ,クチル) 或作∥唐布(タウフ)ト|。又云∥白壁(ハクヘキ)|。〔飲食門340③〕
とあって、その語注記は別表記の「唐布」と、別名の「白壁」を記載するものである。印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、両足院本『節用集』は、
豆腐(タウフ/ヅフ) 或云白壁。又云唐布。〔弘・飲食102⑥〕
豆腐(タウフ) 或云白壁。又云唐布。〔永・飲食94⑥〕
豆腐(タウフ) 或云白壁。又云唐布。〔両・飲食104⑦〕
とあって、広本『節用集』の語注記を逆にして別名「白壁」を前出し、別表記「唐布」を後にする。ただ、尭空本は記載を見ない。『運歩色葉集』の語注記そのものは、この『節用集』類に従うものでもなく、また『庭訓徃來註』に従うものではないことが知られる。強いて言えば、『下學集』と同じ規範を継承するものである。
当代の『日葡辞書』に、
To<fu.タゥフ(豆腐)食物の一種.大豆を碾いて生チーズのような格好に作るもの.〔邦訳656l〕
とある。
2000年9月21日(木)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)→鳥取→美方⇔村岡町
ちにくつい ねさめかめさね いつくみち
血肉対 寝醒めか眼差ね 居着く道
「粥(かゆ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「加部」に、
粥(カユ) 。〔元亀本104②〕
粥(カユ) 。〔静嘉堂本130⑦〕
粥(カユ) 。〔天正十七年本上64オ④〕
とある。標記語「粥」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月日の条に見え、『下學集』には、
粥(カユ) 。〔飲食102②〕
とあって、語注記は見えていない。これを『庭訓徃來註』では、
粥(―) 四分律ニ曰、明相出始得食粥餘皆非時也云々。謙堂文庫蔵58右⑨〕
として、「四分律に曰く、明相出始得食粥餘皆非時なり云々」と説明する。『節用集』類の広本『節用集』には、
粥(カユ/シユク) 麋(カユ)。又(同)。碧(同)。異名玉乳。咄嗟。〔飲食門267①〕
とあって、語注記はあるものの、漢字表記と異名語の注記であり、『庭訓徃來註』とは異なっている。
印度本系統の、弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』は、
粥(カユ)。麋(カユ)。又(同)。〔食物81④〕
粥(カイ)。〔食物82①〕
粥(カユ)。〔食物74⑥〕
とあって、弘治二年本が広本『節用集』の注記語を標記語としているのに対し、永祿年本と尭空本とは、『運歩色葉集』同様、語注記を未記載としている。
当代の『日葡辞書』に、
Cayu.カユ(粥)。粥.〔邦訳115r〕
とある。
2000年9月20日(水)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
くつをとは すみきるきみす はとをつく
靴音は 澄み切る気身す 鳩を憑く
「瓜(うり)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「宇部」に、
瓜(ウリ) 慈覺大師被∨行∥如法經ヲ|三七日則無食也。結願ノ日自∥天竺|童子持チ∨瓜ヲ進(スヽム)∥大師ニ|。不∨食∨之ヲ。童子ノ云、非ス∥食中ニ|只可∨食ス。慈覺應シテ∥童子ノ言ニ|云々。江州甘露庄生瓜自∨天降也。故至∨今不入瓜ヲ食云々。〔元亀本349⑤〕
瓜(ウリ) 慈覺大師被行∥如法經三七日|即無食也。結願日自∥天童子|持進大師ニ|々々木食之童子ノ云号∥―非食中只可∨食。慈覺應∥童子ノ言ニ|云々。江州甘露庄生瓜自天降也。故至∨今ー不∨入∥食之内ニ|。〔静嘉堂本464④〕
とある。標記語「瓜」の語注記は、「慈覺大師、如法經を行ぜられ、三七日則ち無食なり。結願の日、天竺より童子瓜を持ち、大師に進む。これを食さず。童子の云く、食中にあらず。只食すべし。慈覺童子の言に應じて云々。江州甘露庄に生瓜天より降るなり。故に今に至り、瓜を食の内に入れず」という。『庭訓徃來』十月日に見え、『下學集』に、
瓜(ウリ) 或ハ作ス矣ニ也。蜜筒(ミツトウ) 廿瓜ノ異名ナリ也。青門(セイモン)。東門(トウモン) 共ニ瓜(ウリ)ノ異名ナリ也。秦(シン)ノ東陵侯([トウ]レウコウ)種(ウユ)∥瓜ヲ長安城ノ東ニ|。瓜有テ∥五色|甚タ美(ビ)ナリ。謂フ∥之ヲ青門ノ瓜リ東門ノ瓜ト|也。〔草木門129①〕
とあり、注記が異なっている。『庭訓徃來註』に、
熟瓜(シユクウリ/―クワ)唐ニ秦ノ東陵侯種∥瓜ヲ長安城ノ東門|。有∥五色|甚美也。是ヲ云∥青門瓜東門ノ瓜ト|而異名也。日本ニハ慈覚大師如法經被∨行∥三七日|即不∨食也。結願ノ日天童来リ持∨菓進∥慈覚ニ|。大師不∨食∨之。童重而曰是ハ号シテ∨瓜非∥食ノ中ニ|。只可∥食給|。恠ミ食∨之。即吐∨之也。江州南都甘露ノ庄ニ生ス。自∨天降物也。故至今ニ不∥食中|也。〔謙堂文庫蔵58右②〕
とあって、語注記の前半部は、『下學集』を継承していて、後半部を増補するという形態をとっている。そして、この部分が『運歩色葉集』の語注記がこれに近似ていて、『運歩色葉集』はここから引用したものと推察される。というのも、『庭訓徃來註』における譚の文脈の筋が明確であり、これを簡略化して記述したのであろう。ただし、譚の顛末が若干異なる点に留意されたい。『節用集』類の広本『節用集』には、
瓜クワ 或作∨矣。廣志ニ云凡ソ瓜之所∨出以違東廬江燉煌之種ヲ|為∨美ト。藥性論ニ帯味苦ク寒シテ有∨毒。主∥浮腫|。下水殺蠱毒飮癩逆上氣矣何傳邵平字没也。秦東陵侯也。奈破為∥布衣ト|。種∥瓜於長安城東ニ|世号∥東陵種ト|。又云∥邵平種|。又云∥東陵|。異名。獣掌。羊駁。大斑。小青。甘露。五色。龍蹄。黄團。蒲鴒。貍首。桂髄。青門。口香。虎蟠。女臂白瓜也。浮瓜。浮沈。亂氷。玉嚼。水晶。金釵。玄骭。素腕。黄水晶。水晶。蜜角。浮玉。七月食武陵瓜口黄。淡瓜。花瓜。蜜房。龍肝瓜。同帯瓜。神霊瓜。青登瓜。秋泉瓜。青治。冷氷月。籬瓜。階瓜。林瓜。蜜筒異名。智妙。〔草木門四七〇①〕
とあって、その語注記は全く別の資料によって構成編集していることがわかる。印度本系統の、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』は、
瓜(ウリ/クハ) 慈覺大師被行如法經。三七日即無食也。結願日自天。童子持進大師。――不食之童子云、是庭注号―非食ノ中。只可食。慈覺應童子言云々。江州甘露庄瓜生。自天降也。故至今瓜不入食之中也。〔永禄二年本・草木120①〕
瓜(ウリ) 慈覺大師被行∥如法經|三七即无食也。結願日自∨天童子持進大師不食之。童子云是号∨―非食中。只可∨食。慈覺應童子言云々。江州甘露庄生瓜自天降也。故至∨今瓜不入食中也。庭注。〔尭空・草木109⑥〕
瓜(―) 慈覺大師被∨行∥如法經|三七日。即無食也。結願日自∨天童子持―進大師。不∨食∨之。童子云是号∨瓜非食中。只可∨食。慈覺應童子言云々。江州甘露庄瓜生(ウリウ)自∨天降也。故至∨今。瓜ハ不入∥食之中也。庭注。〔両足院本・草木133③〕
とあって、『運歩色葉集』の注記と同一系にあることを確認できる。そして、注記の中ごろに永禄二年本は「是庭注」、尭空本と両足院本は末尾に「庭注」という典拠記載のことばを見るのである。このことは、『庭訓徃來註』の注記内容をもってここに引用し、語注記として記述したという正に手がかり(根拠)といえよう。弘治二年本『節用集』は、
瓜ウリ 或作∨矣。〔草木148④〕
とあって、広本『節用集』の前半部のみを注記するといった簡略化形態となっている。
当代の『日葡辞書』に、
Vri.ウリ(瓜)。瓜.〔邦訳732R〕
とある。
[参考記述]萩原義雄「作語攷―室町時代古辞書『下学集』を中心に―」〔駒澤大学北海道教養部研究紀要第三十四号・平成十一年三月〕の56にこの語の記載説明をしている。今回は、この内容をさらに研究発展させたものでもある。
2000年9月19日(火)晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
とをくいく ひときよきとひ くいくをと
遠く行く 人清き問ひ 煦育乙
「木綿(モメン)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「毛部」に、
木綿(モメン) 。〔元亀本349⑤〕
木綿(――) 。〔静嘉堂本420⑥〕
とある。『下學集』に、
木綿(モメン) 木ノ名也。宋ノ恩断江(ヲンタンコフ)カ詩ニ、木綿庵ノ下秉冥(キフリフ) ノ雨附子崗頭(カウ[タウ])躑躅(テキチヨク) ノ春亦ハ衣ノ類也。〔絹布97⑥〕
とあって、その語注記は実に詳細である。『庭訓徃來註』にあっては、十月日の条に、
木綿等 垂仁天王ノ御宇ニ自∥常ノ世ノ国|渡也。〔謙堂文庫蔵57右⑨〕
とあって、『下學集』とは異なる注記になっている。『節用集』類の広本『節用集』には、
木綿(モメン/ボク,キ、ワタ) 或綿ヲ作ハ∨棉木名也。宋ノ恩断江詩、木綿庵下秉冥 ノ雨附子崗頭躑躅春。又衣類也。〔絹布門1067④〕
とあって、注記の冒頭部分に「或綿ヲ作ハ∨棉」を増補し、『下學集』を継承する。印度本系統の永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』は、
木綿(モンメン) 木名也。宋恩断江詩、――菴下秉冥雨附子崗頭躑躅春。又衣類也。〔永・財宝221⑤〕
木綿(モンメン) 木名也。宋恩断江詩、――菴下秉冥雨附子崗頭躑躅春。〔尭・財宝207⑧〕
とあって、広本『節用集』同様、『下學集』をそのまま継承する。尭空本は、注記の末尾「又衣類也」を欠脱する。また、弘治二年本『節用集』は、
木綿(モメン) 布類也。或木名。〔財宝259⑤〕
とあって、広本『節用集』の注記冠頭部を引用し、後の箇所を削除し、その前に独自に「布類也」を付加した注記となっている。このように、『庭訓徃來註』は、『下學集』の注記に拠らず、また、『運歩色葉集』は、全く『下學集』そして『庭訓徃來註』のいずれの注記内容をも採らずに削除し、簡略化という編纂方針を固めていることがわかる。
当代の『日葡辞書』には、
†Qiuata.キワタ(木綿) 木棉。→Vata(綿).〔邦訳510r〕
Vata.ワタ(綿) または,Mauata(真綿)とも言うが,あまり正しい言い方ではない.絹綿.§Qiuata.l,Momen-uata.(木綿.または,木棉綿)木棉.→Muxiri,u;tcu-mi,u(摘み,む);Tcumugui,
Gu.〔邦訳680r〕
とある。
2000年9月18日(月)霽。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
くいはない かつをやをつか いなはいく
悔いは無い 鰹八尾束 否俳句
「?冬(やまぶき)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の補遺「草花名部」に、
山吹(-キ)。?冬(同) 。〔元亀本377④〕
山吹(-キ)。?冬(同) 。〔静嘉堂本460④〕
とある。『下學集』に、
?冬(クワンドウ/フキ) 枳莖(キキヤウ/フキ)菜(サイ)ナリ也。本草ニ云ク?冬十二月有リ∨花。其ノ色黄(キ)或ハ紫(ムラサキ)。其ノ味イ苦(ニカシ)也。三躰詩([サン]テイシ)ニ云ク、僧房([ソウ]バウ)ニ逢著(ブチヤク)ス∥?冬花([クワンドウ]クワ)|。出テテ∨寺ヲ吟行スレハ日已(ステ)ニ斜ナリ。十二街中(カイ[チユウ])春雪遍(アマネシ)∥馬蹄([バ]テイ)|。今ニ去テ入ラン∥誰(タレ)カ家ニカ|。按(アン)スルニ此ノ詩ヲ十二月ノ之花至ル∥暮春雪ノ時分ニ|也。然ルニ我カ朝ノ朗詠集ニ清愼公ノ詩ニ云ク、?冬誤(アヤマツ)テ綻(ホコロフ)∥暮春ノ風ニ|。何ンソヤ哉所詮([シヨ]セン)日本ノ之俗皆以テ∥山吹([ヤマ]フキ)ヲ|謂フ∥?冬ト|。山吹ハ即チ???(ドビ)ナリ也。其ノ色ロ黄(キ)ニシテ而如シ∥緑酒(リヨク[シユ])ノ|也。清愼公ノ之作モ亦タ誤テカ歟。???ヲ謂フ∥?冬ト|也。其ノ詩ノ意ニ云ク此レ花ノ名也。若(モシ)是レ?冬ナラハ何(ナン)ソ綻(ホコロビン)∥暮春ノ風ニ|ヤ乎。咎(トカメ)テ?冬ノ字ヲ而云フ∨尓(シカ)ノミ耳。詩ノ意ロ雖トモ∥工(タクミ)ニ用ユト|上ノ故事(コジ)ノ誤リ矣。可シ∨辨(ベン)ス∨之ヲ。〔草木123⑥〕
とあって、その語注記は実に詳細である。『庭訓徃來註』にあっては、十月三日の条「黄草布」の注記に、
并ニ黄草布(キハタ/ワウサフフ)一二端 冬ノ註ニ本草ニ曰、?冬ハ冬モ花開。春モ開。則未∨知∨名。只付∨色ニ。曰∥黄草ト|。故ニ?冬(ヤマフキ)色ノ布也。〔謙堂文庫蔵57右⑥〕
とあって、『下學集』の「?冬」の注記に拠ったものと推定できる語注記が見えている。『節用集』類の広本『節用集』には、
?冬(クワンドウ/タヽク、フユ) 進乾坤清氣集枳莖菜(フキナ)也。又影頭曉風集本草云、?冬在∥十二月ニ|花也。其色黄(キ)ニ或紫ナリ。其味苦(ニガキ)也。三体詩曰、僧房逢著ス∥?冬花|。出∨寺吟行日已斜ナリ。十二街中春雪遍馬蹄。今去入∥誰家ニカ|。按スルニ∥此詩ヲ|、十二月ノ花至ル∥春雪之時分ニ|也。然我朝朗詠集清愼公ノ詩ニ曰、?冬誤テ綻∥暮春ノ風ニ|。何ソヤ哉。所詮日本ノ俗皆以∥山吹(ヤマブキ)ヲ|謂(ヲモヘ)リ。山吹ハ ???(ドビ)也。其色黄(キ)ニシテ如∥緑酒ノ|。清愼公モ亦誤テ∥ ???(トヒ)ヲ|謂ル∥?冬ト|歟。其ノ詩ノ意ニ云。此花名已ニ?冬。何ソ綻フ∥暮春ノ風ニ|乎。咎(トカメ)テ∥?冬ノ字ヲ|而云∨尓耳。詩意雖∨工。用∥故字|誤也。可∨辨∨之哉。八重名也。〔草木門500②〕
とあって、概ね『下學集』の注記を継承し、「乾坤清氣集」や「影頭曉風集」といった具合に、ところどころ、増補加筆し、「暮春雪之時分」の「暮」の字を添削している。末尾の「八重名也」は増補である。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』は、これを「久部」に「?冬」の標記語を未採録にし、「不部」の「フキノタウ」に、
?冬(フキノタウ/クハンドウ) 倭俗云、山吹。〔弘・草木179④〕
?冬(フキノタウ/クハンドウ) 倭俗云、山吹。枳莖菜ナリ。本草云、――十二月有∨花。其色黄ナリ。或紫。其味苦也。然我朝朗詠集、清愼公詩ニ云、――誤綻フト∥暮春ノ風。何哉。所詮日本俗皆以∨山吹謂――。山吹ハ即???也。其色黄ニシテ而如∨緑酒也。清愼公亦誤∨???|謂∨――歟。其詩意云。此花名已――。何綻∥暮春風|乎(ヤ)ト。咎メテ∥――之字。而テ云尓耳(ノミ)。詩ノ意ハ維∨工用∨故亊誤ヌ乎。可∨弁∨之。〔永・草木門147②〕〔尭・屮木137③〕
と収載する。ここで、弘治二年本は、前半部のところで注記を簡略化し、異なりを見せているが、他の二本は概ね継承するが、『三体詩』の注記を欠脱する。また、『節用集』は全体に、「夜部」の「やまぶき」に、
???(ヤマブキ/ドビ)日本所謂山吹是也。暮春有花也。日本俗呼∥?冬|謂∥山吹ト|誤也。?冬ハ蕗(フキ)也。〔草木165④〕
と注記する。ここでも『運歩色葉集』がこの語を補遺部の「草花名」に収載するにあたり、『下學集』からの継承性を相容れなかったことがここにある。すなわち、この語について簡略化の編纂姿勢を見せている。
2000年9月17日(日)雷雨一時晴れ間のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(玉川→駒沢)
くいなさい とるもまもると いさないく
食いなさい 捕るも守ると 勇魚行く
「鼈羮(ベツカン)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「部」に、
鼈羮(ヘツカン) 。〔元亀本48④〕
鼈羮(ベツカン) 。〔静嘉堂本55⑧〕
鼈羮(へツカン) 。〔天正十七年本上28ウ⑧〕
鼈羮(ベツカン) 。〔西来寺本〕
とある。標記語「鼈羮」の語注記は、未記載にある。『庭訓徃來』十月三日の状に見え、『下學集』に、
鼈羮(ベツカン) 。〔飲食門100①〕
とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』に、
鼈羮(ベツカン) 僧ノ食。借∥魚鳥之名|亊ハ昔シ梁ノ武帝直ニ參∥達磨大師ニ|之時戒∥魚鳥之類ヲ|。雖∨然ト天子ハ用∨牲ヲ。故ニ借∥生類之名ヲ|也。〔謙堂文庫蔵57左⑦〕
とあって、その注記内容は「僧の食、魚鳥の名を借りる事は、昔、梁の武帝直に達磨大師に參るの時、魚鳥の類ひを戒しむ。然りといえども、天子は牲を用ふ。故に生類の名を借りるなり」という。『節用集』類は広本『節用集』に、
鼈羮(ベツカン/―カウ.カメ、アツモノ) 。〔飲食門114③〕
とあって、『下學集』同様に語注記を未記載にして継承する。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』も、
鼈羮(―カン) 。〔財宝38⑦〕
鼈羮(ベツカン) 。〔財宝38④〕
鼈羮(ヘツカン) 。〔食物35⑥〕
鼈羮(ベツカン) 。〔財寳42⑧〕
とあって、語注記は未記載であり、意義分類を尭空本以外は「財宝」に置いている。こうして見た時、古辞書にあっては、『下学集』を先駆として、『運歩色葉集』も『節用集』もこの語に対する語注記を載せない方針を確認することができる。
2000年9月16日(土)雷雨のち曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
きくいろか さきそむきさ かろいくき
菊色香 咲き初む象 軽い莖
「臈次(ラツシ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「羅部」に、
臈次(ラツシ) 。〔元亀本171⑨〕
臈次(ラツシ) 。〔静嘉堂本191④〕
臈次(-シ) 。〔天正十七年本中25ウ⑧〕
とある。標記語「臈次」は、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月三日の状に見え、『下學集』に、
臈次(ラツシ) 次第ノ義也。〔態藝門85②〕
とある。『庭訓徃來註』に、
聖道者從(シユ)僧駈使(クシ/ハシリツカイ)同朋(-ボウ)推参(スイ-)之道-俗臨時ノ客人任∥人数ニ|云∥点心|云∥布施|物|糺∥臈次(ラツ-)ヲ| 糺∥臈次|。有式目四ケ条ニ|。老之次第也。〔謙堂文庫蔵56左②〕
聖道者従-同宿也僧。駈使。同朋推参之道俗臨時客人。任∥人数|。云∥点心|。云∥布施物|。糺(タヽシ)∥臈次(ラツ-)ヲ| 糺∥臈次|。有∥式目四十ケ条|。老之次第也。〔左貫注右⑥〕
とあって、語注記の最後に「老の次第なり」という。『節用集』類の広本『節用集』には、
臘次(ラツシ/-、ツギ) 次第義也。〔態藝門四五七3〕
とあって、『下学集』の語注記を継承する。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』には、
臈次(ラツシ) 次第也。〔弘・言語進退144②〕
臈次(ラツシ) 次第。臘同。〔永・言語114⑤〕
臈次(ラツジ) 次第。臘同。〔尭・言語105①〕
臈次(ラツシ) 次第。臘同。〔両・言語127⑧〕
とあって、広本『節用集』以上に簡略化された注記となっている。永祿二年本以下が「次第」の後に、「臘同じ」という表記の注記を有するのは、広本『節用集』に関わっているからにほかあるまい。しかし、『運歩色葉集』は、この語注記すら未記載なのである。この点については、禅宗僧侶から別の宗派での古辞書編纂の移行処置が影響しているのかもしれない。
当代の『日葡辞書』に、
Raxxi.ラッシ(臈次) 順序.§Raxxiuo midasu.(臈次を乱す)順序を乱す.§Raxximono< cataru.(臈次も無う語る)順序次第もなく物事を話す.§Raxximo nai coto.(臈次も無い事)乱雑な事.〔邦訳526r〕
とある。意味は物事の次第、すなわち、順序を意味する。本来は、出家後の年数をいった。
[ことばの実際]
化制ノ行儀モワキマエス、ワツカニ臈次ヲカソヘ空ク供養ヲウクル僧寶ニナリハテヽ、持齋持律ノ人跡タエヌル事ヲナケキテ故笠置ノ解脱上人如法ノ律儀興隆ノ志深クシテ六人ノ器量ノ仁ヲエラヒテ持齋シ律學セシムトイヘトモ時イタラサリケルニヤ。《『沙石集』巻三127右⑨》
2000年9月15日(金)曇り一時小雨、時折晴れ間がのぞく。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢) 敬老の日
さくいごは いぎときとぎい はごいくさ
作意語は 意義解き研ぎい 葉語軍
ひじきのひ くろぐろぐろく ひのきじひ
鹿尾菜の日 黒々黒く 陽の氣慈悲
「邏齊(ロサイ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「路部」に、
邏齊(ロサイ)乞食也。天竺謂∥之――ト|。〔元亀本22⑥〕
?齋(ロサイ)乞食也。天竺謂之――ト|。〔静嘉堂本19⑦〕
?齋(ロサイ)乞食也。天竺謂之――。〔天正十七年本上10ウ⑦〕
?齋(ヒサイ)乞食也。天竺謂∨之――。〔西來寺本37⑥〕
とある。標記語「邏齊」の「ロサイ」の表記に揺れが見え、「ロ」をシンニョウに「羅」と表記する字とクチヘンに「羅」とする字が見えている。「サイ」も「齊」と「齋」が用いられている。語注記は、『下學集』『庭訓徃來註』の「乞食也」を継承し、その後に「天竺にこれを――(ロサイ)と謂ふ」という独自の注記文を増補する。『庭訓徃來』十月三日の状に見え、『下學集』に、
邏齊(ロサイ)乞食。〔態藝77③〕
とある。『庭訓徃來註』に、
僧徒等(ラ)猶以禅家方者相伴(ハン)邏齊(ロサイ)之僧 下学ニハ乞食云也。〔謙堂文庫蔵56右⑤〕
とあって、典拠を『下學集』と明示し、注記「乞食を云ふなり」と記載する。『節用集』類には、広本『節用集』に、
?齋(ロサイ/タヽク・スクナシ、―)[去・平]或作∥邏菜(ロサイ)|。乞食也。〔態藝門49③〕
とあって、語注記は「乞食なり」の前に「或いは邏菜と作る」という注記を増補する。表記もクチヘンに「羅」と「齋」の字を用いている。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永禄二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』には、
?齋(ロサイ)。邏菜(同)。〔言語進退16④〕
?齋(ロサイ)。邏菜(同)。〔言語進退14①〕
?齋(ロサイ)。邏菜(同)。〔言語進退12④〕
?齋(ロサイ)。邏菜(同)。〔言語進退14①〕
とあるにすぎない。ここでは、広本『節用集』の増補箇所の「邏菜」を次に立項して記載する形態にあり、『運歩色葉集』とは異なりを見せている。
2000年9月14日(木)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
こちこいよ むまうしうまむ よいこちこ
此方来いよ 馬牛産まむ 好い子稚児
「喝食(カツジキ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、
喝食(カツジキ)。〔元亀本94④〕
喝食(――)。〔静嘉堂本117③〕
喝食(カツシキ)。〔天正十七年本上57ウ⑤〕
喝食(カツシキ)。〔西來寺本167④〕
とある。標記語「喝食」の読み方は「カツジキ」と「カツシキ」といった清濁併用の読みが見え、語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月三日の状に見え、『下學集』に、
喝食(カツシキ)。〔人倫40⑥〕
とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』に、
喝食 自∥式叉广那|起也。西天七宗之其一也。此云学法女ト|似∥今尼|。長髪也。或時来リ亊∨佛ニ々為∨見∥彼等カ氣色ヲ|。三年ノ間不シテ∥剃髪|而供∥佛餉ヲ|也。故至∥于今ニ|。行∨鉢ヲ時喝食為∥唱ヘ物ヲ|也。又佛真弟子羅鎚羅者ハ切∥懸額髪ノ|故ニ至∨今ニ。如∨此云也。〔謙堂文庫蔵55右⑤〕
とある。『節用集』類の広本『節用集』には、
喝食(カツシキ/イバウ、シヨク)[去入・去]毛頭又云∥尊丈|。〔加部人倫門二六〇2〕
尊丈(ソンヂヤウ/タトシ、ハカル)[上・上]云∥喝食(カツシキ)ヲ|也。〔態藝門三八八8〕
とあって、語注記は「毛頭または尊丈という」といいた別名を収載する。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永祿二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』に、
喝食(カツシキ)。〔弘人倫77③〕〔永・人倫76⑨〕〔尭・人倫69⑦〕〔両・人倫83①〕
とあり、『下學集』『運歩色葉集』と同様に注記は未記載にある。
2000年9月13日(水)曇り夜雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
へこいさむ よるあさあるよ むさいこへ
兵児諌む 夜朝在るよ 穢い児へ
「旦過(タンクワ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「多部」に、
旦過(タングワ)。〔元亀本139⑨〕
旦過(タンクワ)。〔静嘉堂本149①〕
旦過(タンクワ)。〔天正十七年本中6オ⑧〕
とある。標記語「旦過」の読み方は「タングワ」と第三拍目を濁る読みと、「タンクワ」と清む読みとが併用されている。語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月三日の状に見え、『下學集』に、
旦過(タンクワ) 往来ノ之沙門僧呂([ソウ]ロ)一宿ノ之処也。〔態藝93⑤〕
とあり、この語注記は「往来の沙門僧呂、一宿の処なり」という。『庭訓徃來註』に、
旦過(タンクワ)ノ之僧 平等ハ供養之地、名旦過ト|。下学徃来僧一宿也。〔謙堂文庫蔵55右②〕
旦過ノ之僧 平等供養之地、名∥旦過|。下学徃来僧一宿ソ。〔左貫注左⑨〕
とあって、「平等は供養の地、旦過と名づく」の注記説明に次いで「『下学(集)』に徃来の僧、一宿なり」として、典拠である『下學集』の名を示し、その注記を引用する。『節用集』類には、広本『節用集』に、
旦過(タンクワ/シヤ・シバラク、スギル)[上・去] 徃来之僧一宿ノ処也。〔態藝門三六六1〕
とあって、『下學集』の語注記を継承するが、「徃来の沙門僧呂」の「沙門」と「僧呂」の「呂」を削除している。ただし、古写本『下學集』にあっては、「徃来僧ノ一宿処ヲ」とあり、その簡略形態からみて『庭訓徃來註』に近似ていることがわかる。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』、永祿二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』に、
旦過(タングワ) 旅僧一宿処也。〔弘・天地97②〕
旦過(タングワ) 旅僧一宿所。〔永・天地90②〕
旦過(タングワ) 旅僧一宿処。〔尭・天地82③〕
旦過(タングワ) 旅僧一宿ノ処。〔両・天地98⑤〕
とあって、分類を天地門とし、語注記を「旅僧、一宿の処なり」としていて、簡略化の改編がさらに進んだ形態を示している。ここで、このいずれかの語注記を『運歩色葉集』が未記載にしている点が最も大きな問題となろう。まずは『下學集』(1444)⇒『庭訓徃來註』(1525)⇔『節用集』(1475~1559)類の改編簡略化しながらも継承してきた注記内容をなぜ、記載しないのかというその編集意図についてである。次に、その系統順序、とりわけ『節用集』と『運歩色葉集』との改編共時性のなかでのそのずれがここに問われるものと思われる。
[ことばの実際]
暁をつぐる野寺の鐘(かね)、松吹く風に響(ひびい)て、一聲幽(ほのか)に聞ヘければ、地獄の鐵城(テツジヤウ)も忽(たちまち)にかきけす樣にうせ、彼山伏も見へず成(なつ)て、旦過(タングワ)に坐せる僧ばかり、野原の草の露の上に惘然(バウゼン)として居たりけり。〔『太平記』巻第二十「結城入道地獄に落つる事」大系二333⑨〕《旦過寮の略。行脚僧の宿泊所。夕に宿り早朝に去る意》
2000年9月12日(火)雨後晴れ。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
いくにきき どろのちのろ-ど ききにくい
行くにきき 泥の地のロード 効き難い
「看経(カンキン)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、
看経(カンキン)。〔元亀本92②〕
看経(カンキン)。〔静嘉堂本113⑦〕
看経(カンキン)。〔天正十七年本上56オ②〕
看経(カンキン)。〔西来寺本162⑥〕
とある。標記語「看経」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』十月三日の状に見え、『下學集』に、
看経(カンキン)。〔態藝84①〕
とあって、語注記は未記載にある。『庭訓徃來註』に、
久不∨申∥相看(シヤウカン)|候間近日可∥招請申|候次且ハ爲∥看経ノ| 無シテ∨音心中ニ誦ルヲ云∥看経ト|。〔謙堂文庫蔵53左⑨〕
とあって、語注記は、「音無くして、心中に看経と誦するを云ふ」という。これは禅家で行なわれた経文を黙読することを表現した説明である。『節用集』類には、広本『節用集』に、
看経(カンキン/ミル、タテ,フル)[去・平]。〔加部態藝門二八五6〕
とある。印度本系統の弘治二年本『節用集』、永祿二年本『節用集』、尭空本『節用集』、両足院本『節用集』にも、
看経(カンキン)。〔弘・言語進退85③〕〔永・言語82④〕〔尭・言語74⑧〕〔両・言語89⑨〕
とあって、『下學集』『運歩色葉集』『節用集』類には、語注記を記載していないことがわかる。『庭訓徃來註』の語注記が独自のものであり、ここからは古辞書へは何も派生をしていないのである。偏に『下學集』編者のこの標記語に語注記を必要としない姿勢がそのまま引き継がれているといってもよかろう。
当代の『日葡辞書』に、
Canqin.カンキン(看経) Qio<uo yomu,l,miru.(経をよむ,または,看る)経文を見ながら,または,見ないでそらで読経すること.〔邦訳91r〕
とある。
[ことばの実際]
雲堂裡看經のとき、揚聲してよまず、低聲によむ。あるいは經巻をひらきて文字をみるのみなり。句読におよばず、看經するのみなり。〔『正法眼蔵』看経〕《解釈》経文を黙読すること。
看テ∥經ヲ聊カ爾耳(シカルノミ)遮テ∨眼ニ初ヨリ不∨巻 [次公]傳燈録ニ藥山看經ス曰ク圖∨遮コトヲ∨眼ヲ。〔和刻本漢詩集成『東坡詩集』巻二十一禪語411下③〕
2000年9月11日(月)雨。東京(八王子)
よくいいて たくもきもくた ていいくよ
善く云いて 卓も机も具だ 態幾世
「卓机(シヨクつくえ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」と「津部」に、
卓(シヨク)。〔元亀本333⑦〕 案(ツクヘ)。机(同)。卓(同)。〔元亀本160⑨〕
卓(シヨク)。〔静嘉堂本397⑥〕案(ツクヱ)。机(同)。卓(同)。〔静嘉堂本176⑧〕
案(ツクヘ)。机(同)。卓(同)。〔天正十七年本中19ウ⑥〕
とある。標記語「卓」は唐宋音「シヨク」の読みと和訓「つくへ」の読みの両方に収載が見え、「案」と「机」は「つくへ」だけに収載する。『庭訓徃來』九月十五日の状に、「焼香、造花、卓机」と見え、『下學集』には、
机(ツクエ)。几(ヲシマツキ)。卓(シヨク) 案(ツクエ)ノ之類。三字ノ義同シ也。〔器財118⑦〕
とあって、排列順序が異なり、さらに「をしまづき【几】」の語が見えている。また「案」の字は注記語として示されている。次に『庭訓徃來註』を見るに、
焼香造リ花卓(シヨク)机エ 卓ハ貫差シ結構スルヲ云也。机ハ四足斗有也。〔謙堂文庫蔵53左①〕
とあって、「卓机」の語それぞれに注記説明がなされている。これは、『下學集』の「案の類。三字の義同じなり」といった大づかみの捉え方から、その形態に応じた詳細な注記内容へと変貌している。だが、『運歩色葉集』の編者はこれを採録しない。『節用集』類は、広本『節用集』に、
机(ツキヱ/キ)。几(同/キ、ヲシマヅキ)[上]。案(同/アン、カンガウ、ヲシマツキ)[去]。卓子(同/タクシ)[入・上] 異名。鳥皮。青玉案。〔津部器財門四一四7〕
几(ヲシマヅキ/キ)。案(同/アン、カンガウ)[去]。〔器財門二一五1〕
とあって、『下學集』に見えるそれぞれの標記語は収載されているが、その読み方に異なりが見えている。増補部分として「異名語」二語がある。また、「遠部」に「をしまづき【几・案】」の語を立項する。だが、「多部」に「タクシ【卓子】」の語は立項をみない。「之部」の「シヨク」も同じである。印度本系統の弘治二年本『節用集』や永禄二年本『節用集』そして尭空本『節用集』は、
卓(シヨク)。〔弘・財宝241⑤〕 案(ツクヘ)。机(同)。卓子(同)。〔弘・財宝127④〕
卓(シヨク)。〔永・財宝207⑤〕 案(ツクヘ/アン)。机(同/キ)。〔永・財宝104⑨〕卓子(ツクヘ/タクス)シヨク。〔永・財宝105⑤〕
卓(シヨク)。〔尭・財宝191⑦〕 案(ツクエ)。机(同)。〔尭・財宝95⑤〕卓子(ツクヘ)。〔尭・財宝95⑨〕
とあって、広本『節用集』より、この印度本系統のとりわけ弘治二年本が『運歩色葉集』に最も近似た採録であると考えられる。また、ここでは、「遠部」における「をしまづき【几・案】」の語も『運歩色葉集』同様に立項を見ない。
『節用集』からは『下学集』との継承を若干保ちながらも改編が見られ、『運歩色葉集』を含め、『庭訓徃來註』からの継承はここでは皆無といえよう。
当代の『日葡辞書』に、
†Xocu.ショク(卓) 書物を載せたり,花をさした花瓶を載せたりする,ある型の机.〔邦訳789l〕
Tcucuye. ツクエ(机) 物書き台.〔邦訳625r〕
とある。
[ことばの実際] 異名語「鳥皮」「青玉案」
感ス君カ生-日遥ニ少稱(-)スルコトヲ∨壽ヲ祝シテ∥我餘-年ヲ|老テ不ラシム∨枯レ未∨辧∥報スル∨君ニ青玉案ヲ|。[苑〓〔糸+寅〕]張衡四-愁ノ詩ニ美人贈∥我ニ錦-綉-段ヲ|何ヲ以カ報ン之青玉案ヲ〔『蘇東坡全集』巻十八「和刻本漢詩集成」汲古書院刊372上左①〕
2000年9月10日(日)晴れ。東京(八王子) ⇒鶴見(総持寺)⇒世田谷(駒沢)
いかせくと とほきさきほと とくせかい
生かせ吼と 遠き先程 徳世界
「周章(シユシヤウ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、
愁傷(-ヂヤウ)非也。周章(同) 。〔元亀本310⑩〕
愁傷(-―)非也。周章(シユシヤウ) 。〔静嘉堂本363⑥〕
とある。標記語は「愁傷」と「周章」の二語で、語注記は前の語に「非なり」という。これを『下學集』に見ると、
周章(シユウシヤウ) 周章ハ驚怖([キヤウ]フ)ノ意也。日本ノ書状ニ愁傷(シユウシヤウ)ト云者不ス∨知ラ∥本説ヲ|。一説ニ作∨嫦(シヤウ)ニ。〔態藝88②〕
とあって、「周章は驚怖の意なり。日本の書状に愁傷と云ふ者、本説を知らず。一説に嫦に作る」といった内容説明がなされている。これを『庭訓徃來註』九月十五日の状に見ると、
臨時ノ纏頭者左道之儀也。無∥周章|樣ニ 驚怖ノ意也。日本俗書状作秋膓ニ|者不∨知∥本記|者也。章一ニハ作∨嫦ニ也云々。〔謙堂文庫蔵53左②〕
臨時ノ纏頭者左道之儀候。無∥周章(アワテルコト也)|樣 敬イ怖ノ意也。日本俗書状作∥秋膓ニ|者不∨知∥本記|者也。章一ニハ作∨嫦ニ也云々。〔左貫注〕
とあって、よく見れば『下學集』の注記を引用していることに気づく。若干文字表記に異なりはあるが同文の注記内容である。『節用集』類は広本『節用集』に、
周章(シウシヤウ/アワテサワク,アマネシ、アキラカ)[平・平] ――ハ驚怖(キヤウフ)ノ意也。日本ノ書状ニ作∥愁傷|者不∨知∥本説ヲ|也。章一ヲハ作∨障。〔態藝九四七1〕
愁傷(シウシヤウ/ウレイイタム)。[平・平]〔態藝門九五三7〕
とあって、二種の標記語を別にして収載する。このなかで、「周章」の語注記は、『下學集』そして『庭訓徃來注』に同じであることが知られ、とりわけ、「章一ヲハ作∨障」の箇所は『庭訓徃來注』に近い記述である。印度本弘治二年本『節用集』や永祿二年本『節用集』、尭空本『節用集』に、
周章(シウシヤウ) 驚怖(キヤウフ)意。愁傷(シウシヤウ)此字非也。〔弘言語進退246⑧〕
周章(シウシヤウ) 驚怖之意。愁傷(同)此字非也。〔永言語進退211⑥〕
周章(シウシヤウ/アワタヽシ) 驚怖之意。愁傷(同)此字非也。〔尭言語195⑦〕
とあって、この系統に『運歩色葉集』の「愁傷」における短い「非也」の注記はこの「此の字は非なり」を簡略化し、近似ている。この点は、広本『節用集』には未記載であるため、その連関性は薄い。そして、「周章」の「驚怖之意」すなわち、「あわてふためく」の意味は『運歩色葉集』では未記載すなわち削除の対象となっている。
当代の『日葡辞書』に、
Xu<xo<.シュウショウ(周章)。Auatataxi.(あわたたし)驚いてあわて騒ぐこと.〔邦訳804r〕
とあり、「うれいいたむ(歎き悲しむ)」の意である「愁傷」の語は未收載にある。
[補遺]
この前に、古写本『庭訓徃來』五月五{九}日の状に、
「率尓經營周章之至忙然也」〔至徳三年本〕〔建部傳内本〕
「卒-尓ノ經-營周-章ノ之至忙-然也」〔山田俊雄藏本〕
「卒爾(ソツジ)ノ経営(ケイエイ)周章之至忙然タル也」〔経覺筆本〕
「卒{率}-尓(ソツジ)ノ經-營(ケイヱイ)周-章(シユシウ)之至リ忙-然(ハウせン)タリ也」〔文明四年本〕
と見え、『庭訓往来註』五月九日の状に、
285卒尓ノ經營周障(―シヤウノ)タル之至忙-然也。雖∥无心ノ所望ニ候ト|、縵幕 内幕之亊也。竪ノ長サ五尺也。上ニ横布ヲ一ツ可∨通。竪ノ鶴[野カ]数十二也。乳ノ数ス十二也。横鶴ニ家ノ文ヲ五ケ所ニ出ス也。手縄ハ如∥已前ノ|本ノ幕ノ亊。十二廣ノ時ハ奉∨表∥十二光佛ヲ|。串モ十二本也。九廣ノ時ハ九山九字ニ表シテ九本也。七廣ハ表∥七星七佛|七本也。八廣ハ表∥八海八葉|八本也。長三丈六尺。地ノ表∥三十六義|。乳数上ハ五十六。中ハ地ノ表∥三十六義。下ハ天ノ表∥廿八宿|物見七ハ表∥七星|下ノ野ヲ云∥芝打ト|也。〔謙堂文庫藏三一右②〕
とあって、標記語を「周障」とし、その語注記は未記載にある。古版『庭訓徃来註』では、
周章(シウシヤウ)ノ之至(イタリ)ハ周章(シウシヤウ)ト畫テ。アハテフタメクトヨメリ。〔下五ウ三〕
とあって、この標記語「周章」の語注記は、「周章と畫きて、あはてふためくとよめり」とその和語訓を示している。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
卒尓(そつじ)の經営(けいえい)周章(しうしやう)の至(いた)り忙然(バうぜん)也(なり)/周章之至忙然也周章ハ。あわてふためく事也。忙然ハあきれ果(はて)たる躰なり。〔三十二オ六〕
とし、標記語「周章」の語注記は「周章は、あわてふためく事なり」とする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
卒爾(そつじ)の經營(けいゑい)周章(しうしやう)之(の)至(いた)り忙然(バうぜん)也(なり)/周章之至。〔二十六ウ三〕
周章(しうしやう)之(の)至(いたり)。〔四十七オ四〕
とあって、標記語「周章」の語注記は未記載にある。
[ことばの実際]
掃部允者、早世者也者景親聞之以降、意潜周章與貴客有年來芳約之故也〔読み下し〕掃部ノ允ハ、早世スル者ナリテイレバ、景親之ヲ聞キシヨリ以降、意潜ニ周章(シウシヤウ)ス。貴客ト、年来ノ芳約有ルガ故ナリ。《『吾妻鏡』治承四年八月九日条》
搦手の大将にて、下河辺へ被∨向たりし金沢ハ武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆、周章(シウシヤウ)しける處に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂、五十余箇所に火を懸けて、敵三方より寄懸たりしかば、武士、東西に馳替、貴賎山野に逃迷ふ。〔『太平記』巻第十「鎌倉合戦の事」大系一332④〕
両日の早馬天聴を驚しければ、「こは如何すべき」と周章(シウシヤウ)ありける處に、又翌日の午剋に、丹波ノ国より碓井丹波ノ守盛景、早馬を立て申けるは、「去十二月十九日の夜、当国の住人久下弥三郎時重、波々伯部次郎左衛門ノ尉・中沢三郎入道等を相語て守護の館へ押寄る間、防戦と雖も、劫戦不慮に起に依て、御方戦破れて、遂に摂州へ引退く。〔『太平記』巻第第十四「諸国朝敵蜂起の事」大系二70⑧〕
武家の愁傷(シウシヤウ)ありときいて、弔ひにつかはす口上に、「御親父逝去の事、是非なし。しかし生老病死の習ひ、いたつて歎きあるまじく候といへ」。《訳》歎き悲しみ。〔咄本『醒睡笑』巻八岩波文庫下224頁〕
2000年9月9日(土)晴れ。東京(八王子) ⇒世田谷(駒沢)
くくのびか やそうじうそや かびのくく
九九延びか 屋掃除嘘や 華美退くゝ
「聽叫(チンケウ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「知部」に、
聽叫(チンキウ) 禅家童子之名。〔元亀本65②〕
聽叫(チンケウ) 禅家童子之名。〔静嘉堂本76②〕
聽叫(チンケウ) 禅家童子之名。〔天正十七年本上38オ⑥〕
聽叫(チケウ) 禅家童子之名。〔西来寺本〕
とある。標記語「聽叫」の語注記は、「禅家童子の名」という。『庭訓徃來』九月九日の状に見え、『下學集』に、
喝食(カツシキ)。行堂(アンダウ)。行者(アンジヤ)。聽叫(チンケウ) 禅以上ノ四種ハ禪律(センリツ)ノ之使令(シレイ)ナリ也。
とあって、「喝食・行堂・行者」の語と一まとめにして「禅、以上の四種は禪律(センリツ)の使令(シレイ)なり」と注記する。『庭訓徃來註』に、
聽叫(チン-/チンキヤウ) 香合ヲ持而従也。〔謙堂文庫蔵49左⑦〕
聽叫(チンキフ/クチモラウ) 香合ヲ持而従也。〔左貫注47右⑧〕
とあって、この語注記は、「香合を持って従ふなり」とまったく異なった内容になっている。『節用集』類は、広本『節用集』に、
聴叫(チンキヨ/テイケウ、キク・サケブ)[平・去] 禪律ノ使令。〔人倫門一五九5〕
とあって、この注記内容は『下學集』の語注記をより簡略化して収載したものとなっている。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』や永祿二年本『節用集』そして尭空本『節用集』両足院本『節用集』では、
聽叫(チンキヨ)。〔弘・人倫49①〕〔永・人倫50②〕
聽叫(チンケフ)。〔尭・人倫45⑧〕
聽叫(チンキヨウ)。〔両・人倫54②〕
と、語注記そのものが未記載にある。また、その読み方も「チンキヨ」「チンキョウ」「チンケフ」とかなり区々な読み方が確認できる。因みに「聽」を「チン」と読むのは唐宋音であり、普通は「チョウ」と発音する字である。『運歩色葉集』そして、『庭訓徃來註』、『下學集』と広本『節用集』それぞれが注記内容を異にしていて、各編纂者が独自の注記をもって説明している語とも言える。なぜ、こうした状況が派生するのか、所収の禪語全体を通して再度検討せねばなるまい。
[ことばの実際]
聽叫(チンケウ)忠曰、侍∥住持左右|聽∥其叫呼|、受∥使令|者。〔『禅林象器箋』職位〕
2000年9月8日(金)晴れ。⇒東京(八王子)
くはのはに とひのみのひと にわのはく
桑の葉に 問ひの身の人 庭の掃く
「礼奠(レイテン)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「禮部」に、
礼奠(-テン) 以テ∥幤帛ヲ|祭之。礼 。〔元亀本149⑧〕
礼奠(レイテン) 以テ∥幤帛ヲ|祭∨之。礼。〔静嘉堂本163②〕
礼奠(-テン) 以∥幤帛|祭之。礼。〔天正十七年本中13ウ②〕
とある。標記語「礼奠」の語注記は、「幤帛を以って、これを祭る。礼(奠)」という。末字の「礼」は、典拠であり、『礼記』の語をと典拠を表示したものである。『庭訓徃來』八月十三日の状にこの語が見え、『下學集』に、
禮奠(レイテン) 。〔神祇36④〕
とあって、語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』に、
調ヘ∥拍子ノ本末|賽(カヘリモウシ)ス∥礼奠ニ| 賽ハ奉∨拝義也。神申亊御聞有也ト云テ礼奠スル也。奠ハ神供也。七夕ニ乞巧奠ト云モ供具ヲ祭ヲ云也。又備星疋(ヒコホシ)ノ祭ヲ云。礼記ニ曰、釈奠学∥鄭氏註曰、釈∨藥ヲ奠∨幤云々。又幤帛ヲ以祭ヲ曰∥礼奠(テン)ト|。是質素ノ祭也。文集曰、悟真寺ノ詩ニ戯奠无∥葷〓〔羊+星〕|。言ハ葷ハ精進之腥物也。〔謙堂文庫蔵四九右④〕
とある。その「礼奠」注記内容は、「幤帛を以って、祭るを礼奠と曰ふ」ということで、『運歩色葉集』の注記語はここの箇所を引くものである。『節用集』類は、広本『節用集』に、
礼奠(レイテン/ヲガム,マツル)[上・去] 。〔禮部態藝門三七六4〕
とあって、『下學集』同様、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本『節用集』には未収載にあり、永禄二年本『節用集』や尭空本『節用集』には、本文部とは別にして「神祇」の語集部に、
礼奠(レイテン) 。〔永二・神祇237⑦〕〔尭・神祇245⑦〕
とあり、語注記は未記載にある。ここでも『下學集』『運歩色葉集』『節用集』の編者は、この語注記を神祇に関わる説明注記と判断したことで、採択を見合わせている。永禄二年本のように別補遺部にして収載するのは極めて特殊であったのかもしれない。
当代の『日葡辞書』に、
‡Reiten.レイテン(礼奠) ある小さな木に細かく切った紙を刷毛のように結び付けたものをもって,神(Cami)の前で行なうある儀式.〔邦訳528l〕
とある。
[ことばの実際]
天子將出征。類乎上帝。宜乎社。造乎禰。於所征之地。受命於祖。受成學。出征。執有罪。反釋奠于學。以訊馘告。〔『礼記』王制第五〕
2000年9月7日(木)晴れ。奈良(学園前:大和文華館) ⇒東京(八王子)
ひくなかし なるこにこるな しかなくひ
引くなかし 鳴子に凝るな 鹿啼く日
「神楽(かぐら)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、
神樂(カグラ) 。〔元亀本43①〕
神樂(-グラ) 。〔静嘉堂本121③〕
神樂(カクラ) 。〔天正十七年本上59ウ④〕
神樂(カグラ) 。〔西來寺本172⑥〕
とある。標記語「神樂(カグラ)」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』八月十三日の状にこの語が見え、『下學集』に、
神樂(カグラ)。〔神祇門35⑤〕
と語注記は未記載にしてある。これを『庭訓徃來註』に、
八乙女者曳イテ∥裙帯ヲ|舞∥-遊フ透廊(トウ-/スキ-)ニ|。職(シキ)ノ掌ノ神樂男ハ 職掌ハ黄色之直垂着也。神樂ハ天照大神天ノ岩戸ニ引篭ノ時神達始樂ナリ。〔謙堂文庫蔵四九右①〕
とあって、その「神樂」の注記内容は、「神樂は、天照大神、天の岩戸に引篭りの時、神達樂を始むるなり」という。『節用集』類は、広本『節用集』に、
神樂(カグラ/シン・カミ、―)[平・入] 又作∥神遊(カグラ)|。〔加部神祇門二六〇1〕
とあって、語注記は「又、神遊と作る」といった別表記を示した異なったものとなっている。印度本系統の永禄二年本『節用集』や尭空本『節用集』には、本文部とは別にして「神祇」の語集部に、
神樂(カクラ) 。〔永二・神祇237⑦〕〔尭・245⑥〕
とあり、語注記は未記載にある。ここでも『運歩色葉集』の編者は、この語注記を世俗から見たとき、神祇というある意味では非常に特殊な行事に関わる発祥についての説明注記と判断したことで、採択を見合わせている。
当代の『日葡辞書』には、
Cagura.カグラ(神樂) 神(Cami)の前で行われるある種の舞楽.⇒So>xi,suru.〔邦訳79l〕
とある。
2000年9月6日(水)曇りから晴れへ。東京(八王子)⇒奈良(天理)
くろくもは にしむきむしに はもくろく
黒雲は 西向き虫に 葉目録
「狩衣(かりぎぬ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、
狩衣(カリギヌ) 。〔元亀本93②〕
狩衣(カリキヌ) 。〔静嘉堂本115④〕
狩衣(カリキヌ) 。〔天正十七年本上56ウ⑤〕
狩衣(カリギヌ) 。〔西來寺本164⑥〕
とある。標記語「狩衣」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』八月十三日の状にこの語が見え、『下學集』に、
狩衣 (カリギヌ) 。〔絹布97③〕
とあって、やはり語注記は未記載にある。これを『庭訓徃來註』に、
狩衣 天子四季之狩ハ国ノ祭(/マツリコト)ナリ。故ニ云。〔謙堂文庫蔵四四左⑦〕
とある。その注記内容は、「天子、四季の狩は国の祭 (-/マツリコト) なり。故に云ふ」という。『節用集』類は、広本『節用集』に、
狩衣(カリギヌ/シユウイ)[去・去] 。〔加部絹布二六七6〕
とあって、これも『下學集』『運歩色葉集』同様に、語注記は未記載にある。印度本系統の弘治二年本『節用集』未収載にあり、永禄二年本『節用集』には、
狩衣(カリキヌ) 。〔財宝80⑤〕
とあって、語注記は未記載にある。こうして見たとき、『運歩色葉集』の編者がこの『庭訓徃來註』の注記内容をなぜ採択しなかったのかを考えるに、この内容が「狩衣」という語と世俗とが深く関わっていないこの衣類に対する発祥についての説明注記と判断したからと見ておきたい。何でもかんでも注記語であれば収載するのではなく、編者の採択意識がここに垣間見ることができるのである。
当代の『日葡辞書』には、
Cariguinu.カリギヌ(狩衣) 公家(Cugue)が狩に行く時に着るある種の着物.〔邦訳102r〕
とあって、公家が着用する衣類で、狩という特殊な行事に関わるものであることが理会できよう。
2000年9月5日(火)雨。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
めあどとし なつあきあつな しとどあめ
メアドとし 夏秋暑な しとど雨
「北面(ホクメン)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「保部」に、
北面(-メン) 。〔元亀本43①〕
北面(-メン) 。〔静嘉堂本47⑤〕
北面(-メン) 。〔天正十七年本上24ウ⑤〕
北面(――) 。〔西来寺本78③〕
とある。標記語「北面」の語注記は未記載にある。『庭訓徃來』八月十三日の状に見え、『下學集』に、
北面(-メン) 。伺候スルノ∥仙洞(セントウ)ニ|之武士ナリ也。〔態藝門75④〕
とあって、語注記に「仙洞(セントウ)に伺候するの武士なり」という。『庭訓徃來註』に、
或前驅(センク)北面等 北面ハ蔵人也。又伺候仙洞ニ之武士也。〔謙堂文庫藏47左⑥〕
とあって、語注記の「北面は蔵人なり。又」の後は、『下學集』からの継承である。『節用集』類は、広本『節用集』に、
北面(ホクメン/キタ、ヲモテ) [入・去]。伺∥-候仙洞ニ|之武士也。〔保部態藝門一〇三3〕
とあって、同じく『下學集』を継承している。印度本系統の弘治二年本『節用集』や永祿二年本『節用集』や尭空本『節用集』、両足院本『節用集』にも、
北面(ホクメン) 伺候仙洞武士。〔弘・人倫32⑧〕
北面(ホクメン) 仙洞ニ伺候(シコウ)ノ武士。〔永・人倫33③〕
北面(ホクメン) 仙洞伺候武士。〔尭・人倫29⑦〕〔両・人倫35①〕
とあって、永祿二年本・尭空本・両足院本は、返読から訓読式に注記を改めているが、同様の注記内容を継承している。これを考える時、『運歩色葉集』の編者はこの注記を何故未記載にしたのか問われるところでもある。単なる簡略化では考えられない不自然さが残っている。
当代の『日葡辞書』に、
Focumen.ホクメン(北面) 国王は南の方を向いて坐っている,すなわち,南面(Nanmen)しているので,その前に居る人々は,北向きに坐る習わしであるが,そのように北に向いて坐ること.§Focumenno saburai.(北面の侍)上述のように国王の前で北向きに坐っている貴族〔武官〕⇒Nanmen.〔邦訳256l〕
とあって、具体的な説明になっている。
[ことばの実際]
これも今は昔、白河法皇、鳥羽殿におはしましける時、北面の者どもに、受領の国へ下るまねさせて、御覧あるべしとて、玄審頭久孝(げんばのかみひさたか)といふ者をなして、衣冠(いくわん)に衣出(きぬいだ)して、その外(ほか)の五位どもをば前駆せさせ、衛府(ゑふ)どもをば、胡録(やなぐひ)負ひにして御覧あるべしとして、おのおの錦、唐綾(からあや)を着て、劣らじとしけるに、左衛門尉字(さゑもんのじょう)源行遠、心殊に出で立ちて、「人にかねて見えなば、めなれぬべし」とて、御前近かりける人の家に入り居て、従者を呼びて、「やうれ、御前の辺にて見て来」と、見て参らせてけり。〔『宇治拾遺物語』一二九 白河法皇北面受領(ずりやう)の下りのまねの事[巻十一・五]〕
2000年9月4日(月)曇り。東京(八王子)⇒世田谷(駒沢)
みやがみせ むしなきなしむ せみがやみ
宮が見世 虫鳴き馴染む 蝉が止み
「所司代(シヨシダイ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、
神司代(-シダイ) 。〔元亀本322①〕
所司代(シヨシダイ) 。〔静嘉堂本379⑧〕
とある。標記語「所司代」の語注記は未記載にある。元亀本は、前の「神」三字熟語に惹かれ、「所」の字を「神」と誤る。『庭訓徃來』八月七日の状に見え、『下學集』には、
所司代(シヨシダイ) 。〔態藝90⑤〕
とあって、語注記はやはり未記載にある。『庭訓徃來註』には、
闘諍(トウシヤウ)喧嘩等ト也官領執筆奉行人検∥-断ス之|所司代 畠山ノ官領ノ初也。所司代モ始京極殿ノ自∨家始也。有∥近年マテ|。又京極殿ノ代ニ終ル。其故ニ京極殿ノ内ノ多香[賀イ]豊後守ハ所司代也。細川道永ニ无。〔謙堂文庫藏46右⑥〕
とあって詳しい。『節用集』類の広本『節用集』は、
所司代(シヨシダイ/トコロ、ツカサ、ヨ・カワル)[上・○・○]。〔態藝門九三二8〕
とあって、やはり語注記が未記載にある。ここで『運歩色葉集』が先行する『下學集』に注記されない語にあえて、『庭訓徃來註』から引用するといった積極的な取り込みを見せていないことを知る。この『庭訓徃來註』の語注記「細川道永」については、中田千代子さんの「庭訓往来真名抄の成長について」(『実践國文學』第二九号、昭和六一年三月)に詳しい。また、印度本系統の弘治二年本『節用集』などにおける「細川殿御代々之次第」に、
三友院殿 法名常桓。道号松岳。防州息。源高國。任官領職。享禄四年辛卯六月四日卒於攝州尼崎。生害四十八歳。〔315⑤〕
とある。ここでの法名は、「常桓」とあり、これは享禄元年(一五二八)十二月に「道永」を「常桓」に改めている指摘が上記論稿でなされている。
2000年9月3日(日)晴れ。東京(八王子)⇒新橋・鶯谷・駒沢
ひとくみか てしなとなして かみくとひ
一組みか 手品と成して 神来問ひ
「指南(シナン)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「志部」に、
指南(シナン) 周ノ箕南越欲∨皈ント∥其国ニ|忘ル∥旧路ヲ|。周公旦造ル∨車与之車上ニ置ク∥木人ヲ|。以テ∥――ヲ|使遂ニ得∨帰也。越ハ即南国也。〔元亀本310①〕
指南(シナン) 周ノ時南越ノ使欲∨歸∥其国ニ|忘∥旧路ヲ|。周公旦造車|支∨之車ノ上ニ置∥木人ヲ|。以テ∥―∨―ヲ使遂ニ得∨帰也。越ハ即南国也。〔静嘉堂本362③〕
とある。標記語「指南」の語注記は、「周の時、南越の使ひ其の国に歸らんと欲するに旧路を忘る。周公旦車を造り、之とともに車の上に木人を置く。以って南を指し、使ひ遂に帰り得たるなり。越は即ち南国なり」という。ここで、末尾の「越は即ち南国なり」の箇所が改編部分となっている。『下學集』には
指南(シナン) 指南ハ者教訓ノ之義車ノ故事(コジ)也。周(シユウ)ノ時ニ南越([ナン]エツ)ノ使者欲スルニ∨皈(カヘラ)ント。其ノ國ニ忘ル∥旧路(キウロ)ヲ|。周公旦(タン)造(ツクツ)テ∨車ヲ与ヘリ∨之ニ。車上ニ置ク∥木人ヲ|。以テ∨指ヲ教ユ∨南ヲ使者遂(ツイ)ニ得∨帰ルコトヲ∥南越ニ|。由テ∨是ニ謂テ∥教訓ヲ|爲(スル)∥指南ト|也。〔態藝88⑦〕
とあって、これに基づくものであることが解る。これを『庭訓徃來註』六月十一日の状に、
非∥今之指南ニ| 不∨用也。大将辞計ヲ用也。是近九二一ノ拵也。指南ハ教訓ノ義車ノ古亊也。周ノ時南越ノ使者欲∨皈∥其国忘∥皈路|。周公旦造∨車与∨之車ノ上ニ置∥木人|。以∨指教∨南使者遂ニ得∨皈∥南越ニ|。自∨是而謂∥教訓|。為∥指南|也。指南(シルヘ)ト讀ム也云々。〔謙堂文庫藏36右⑤〕
非∥今之指南シルベトヨム| 不用也。又大将辞計(ハカリ)ヲ用也。是近ヘ九重二条一条ノ拵也。指南ハ教訓ノ義車ノ古事也。周ノ箕南越ノ使者欲∨皈∥其国-我国アツカイ也|忘∥皈路|。周公旦造∨車与∨之車上ニ置∥木人|。以∨指教∨南使者遂ニ得∨皈∥南越|。自∨是而謂テ∥教訓ヲ|。為∥指南|也。指南(シルベ)ト讀也云々。《頭注別加筆》指南(シルベ)トハ黄帝与蚩尤沢鹿野テ戦箕蚩尤ヲ切掛ヲ指シテ行其ニ方角ヲ失箕磁石ヲ以テ方ヲ知タル度モ南ヲ指テ針ヲ持人ヲモ取リアツカウ也。〔左貫注本33左⑩〕
と冠頭部「用いざるなり。大将辞計を用いるなり。是れ近九二一の拵へなり」と磁石の作様を示し、履尾部「指南と為すなり。指南(シルヘ)と讀むなり云々」と和語での読み方を示し、それぞれの箇所を増補するものの、この注記内容の箇所を忠実に継承したことが知られる。ただし、一箇所「旧路」を「皈路」としている点が異なる。古版『庭訓徃来註』には、
指南(シナン)ニ|ト云事曽(カツ)テ知ヌ事ヲ教ル事ヲ云也。唐舩(モロコシフネ)ナントニ人ノ形(カタチ)ヲ作リテ舩ノサキニ立テ置(ヲク)也。又指(ユヒ)サシヲサスル也。指ノサキニ針金(ハリカネ)ヲサシテ置ナリ。耆差崛(ギシヤク)ト云生キ物ヲ乗(ノス)ル也石也。彼(カノ)生(イ)キ物ハ鉄(クロカ)ネヲ飲食(ノミクラ)フナリ。彼指ノ金ヲ吸(スウ)ハ人形ギシヤクツノ方ヘ向(ムカウ)ナリ。去ルホトニ北ヲ知リ南ヲサスト也。〔十オ八〕
とあって、車ではなく舩とし注記内容を異にする。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
非∥今之指南ニ| 指南とは目當とし手本とする義なり。今の指南にあらすとハ、昔ハ知らす今の時勢(じせい)にてハさのミ併用して手本とすへき事にあらすとなり○指南乃故事ハ昔唐土の黄帝(くわうてい)蚩尤(しゆう)といえる者を討んとて軍勢を引率して行玉ひしか、蚩尤忽ち幻術(けんじゆつ)を行ひ雲霧(くもきり)を起しけれは、味方前後を失ひ敗軍(はいぐん)せり。黄帝はかり事を思らし。指南車を造(つく)り再ひ戦ひ玉ひしに雲霧起るといへとも味方前後を失す。遂(つゐ)に勝(かち)玉へり。其後又周の成王(せいわう)の御時(とき)蕃夷(ばんゐ)乃使ひ来朝(らいてう)して貢(みつき)を奉る。其本国ハ周の都(みやこ)を去る事夥(おひたゝ)しく一年間を経(へ)て本国に至るよしを成王聞し召て周公旦(しうこうたん)に蕃使(ばんし)の労(らう)を救(すくハ)んはかり事あるへしやとの給ひけれハ、周公則ち黄帝の制する所の指南車を作りて蕃使に玉ふ。蕃使此車を先に立て、指(ゆびさ)す方にしたがひ行しに唯半年にして本国に帰る事を成たり。此指南車ハ今の磁石(じしやく)を用ひ何れに向ひても南を指振に作りたるものなり。この故事によりて手本となり目當となる事を指南と云。又一転して人に事を教へ差圖する事をも指南と云也。〔下43オ六~ウ六〕
とあって、その謂れがさらに詳細なものと成っている。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
▲指南ハ人に物を教(をし)うる義とす。もと器(うつハ)の名。則(すなハち)今(いま)の磁針(じしやくのはり)是なり。唐土(もろこし)黄帝(くわうてい)方位を辨(べん)ぜんため始(はじ)めて造(つく)らるゝ。其(その)制(せい)車(くるま)に浮足(うきあし)の人形(にんぎやう)を立つ。車四方(しはう)に運轉(うんてん/めくりたる)すといへども人形常(つね)に南(ミなミ)を指(ゆびざ)すなり。〔33ウ四〕〔59ウ三〕
とある。室町時代から江戸時代にかけての「指南」の注釈内容が増補され、周以前の黄帝と蚩尤の故事をもって最初とし、次いで周の成王の時周公旦が製作するという話の筋立てを示している。そして、『節用集』類も、広本『節用集』に、
指南(シナン/ユビ・サス、ミナミ)[上・平]――ハ者教訓ノ之義也。車ノ故亊也。周時南越使者欲∨帰∥其國ニ|。忘∥舊路(キウロ)ヲ|。周公旦造(ツクツ)テ∨車(クルマ)ヲ與∨之。車ノ上ニ置(ヲイ)テ∥本人ヲ|教∥南ヲ使者ニ|。遂ニ得∨帰ルコトヲ∥南越ニ|。由∨是ニ呼∥教訓ヲ|爲∥指南ト|也。〔態藝九四六4〕
とあって、これも同じく『下學集』を継承する。ここでも「木人」を「本人」と誤写していること。また、「謂」を「呼」としていることから、広本『節用集』の祖系本からの転写が想起されてくる。印度本系統の永祿二年本『節用集』や尭空本『節用集』は、
指南(シナン) ――ハ教訓義。車故亊也。周ノ箕南越ノ使者欲∨皈∨其国。忘∨旧路。周公旦造∨車与∨之。車上ニ置∨木人。以∨指教∨南。使者遂ニ得∨皈∨南越。由∨是謂∨教訓。爲∨――也。〔永・言語進退210⑧〕〔尭・言語195①〕
とあって、表記字些かの異なりが見えるが、広本『節用集』よりきしっと『下學集』の語注記を継承する内容にある。これに対し、同じ系統種にある弘治二年本『節用集』は、
指南(シナン) 教化義。〔言語進退245④〕
と語注記継承の痕跡もないくらい簡略化が進んでいる。
このようにして見るとき、『下學集』を頂点とした「指南」の注記内容が広く受用されていて、この語の取り扱いのなかで『運歩色葉集』は、なぜ『下学集』の冠頭部「指南は、教訓の義。車の故事なり」と履尾部「是れよりして教訓に謂ふ。指南と為すなり」といった前後の教化教訓の箇所を大きく改編したのかが問われるところである。『庭訓徃來註』や広本『節用集』、永祿二年本『節用集』や尭空本『節用集』にしても、この箇所は棄てていない。だが、『節用集』にも弘治二年本『節用集』のようにかなり簡略化された注記になって編まれるのもある。しかし、「教化」の意は留めている。
古辞書には、他に三卷本『色葉字類抄』(黒川本)や五十音順の『温故知新書』にも標記語「指南(シナム/シルベ)」の語が収載されている。
当代の『日葡辞書』には、
Xinan.シナン(指南)教義,あるいは,教訓.▼Qeo>cun.〔邦訳768r〕
とある。
[ことばの実際]
指南(シナン) 王元感撰書糾繆等數十篇魏知古曰。此五經――也(本)。又――車周公所制以錫越裳氏使者車爲先導得歸國(周紀)。〔『韻府群玉』二覃韻504左⑤〕
《コメント》『下學集』の語注記は、「指南車」に及んでいたことが解る。
指南車 鬼谷子注云周成王時肅慎氏献自{白歟}雉還恐或周公作指南車以送之。《十卷本『倭名類聚抄』(934年頃)卷八・国立歴博藏(高松宮旧蔵本)第二冊17オ七》
[補遺&ことばの実際]
佛教語としても『三教指帰』に「指南」の語が見え、方角を意味した。鎌倉時代まではこの「指南」の用例が見えていて、兼好法師『徒然草』(1333年)に、
寒(カン)・暑(シヨ)に随(シタガ)ひて上(アガ)り・下(サガ)りあるべき故に、二月涅槃会(ニグワツネハンヱ)より聖霊会(シヤウリヤウヱ)までの中間(チユウゲン)を指南(シナン)とす。〔第二二二段〕
とある。江戸時代の『世話重寳記』(元禄八年刊)卷第五の七「指南(しなん)」には、
指南(しなん)といふ事もろこし交趾(かうち)といふ所の南(ミなミ)に越裳(ゑつしやう)氏といふ國(くに)あり。白雉(はくち/しろききし)を周(しう)の成王(せいわう)に献(けん)す。その使者(ししや)帰路(きろ)にまよふて本国(ほんこく)にかへる事あたわず。周公旦(しうこうたん)といふ人車(くるま)のうへに人形(にんぎやう)をつくりのせ、その車いづかたへむきてもかの人形(にんきやう)南(ミなミ)をゆびさすやうにからくりたる車(くるま)をつくり、使者(ししや)をのせて本国(ほんこく)へかへらしめ給へり。これを指南車(しなんしや)といふと書言(しよけん)故事(こし)にミへたり。これより物をおしゆる事を指南(しなん)といふなり。又十八史畧(しりやく)にハ黄帝(くハうてい)蚩尤(しゆふ)とたゝかひの時指南車(しなんしや)をつくれりと有。〔卷之五189頁〕
と記載する。
[連関HP参照] SHINANSHA - 指南車
2000年9月2日(土)晴れ。東京(八王子)
くつのひは どんてんてんど はひのつく
履靴の日は 曇天転度 葉陽の衝く
「巫女、巫、覡(かんなぎ)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「賀部」に、
巫女(カンナギ)。〔元亀本97③〕 巫(カンナキ) 男-。覡(同) 女-。畧。〔元亀本105③④〕
巫女(カンナギ)。〔静嘉堂本121⑤〕 巫(カンナギ) 男-。覡(同) 女-。畧。〔静嘉堂本132②〕
巫女(カンナキ)。〔天正十七年本上59ウ⑦〕 巫(カンナキ) 男-。覡(カンナキ) 女-。畧。〔天正十七年本上64ウ⑧〕
巫女(カンナギ)。〔西來寺本173③〕 巫(カンナギ) 男。覡(同) 女。畧。〔西來寺本185④〕
とある。標記語「巫女」は、語注記は未記載であり、『下學集』に、
巫女(カンナキ)。〔神祇門35⑥〕
とあって共通する。次に標記語「巫」と「覡」だが、『庭訓徃來註』に、
巫(カンナキ) 降∨神者也。男ヲ為∨巫ト、女ヲ者為∨覡者也云々。〔謙堂文庫藏48⑨〕
とあって、これに基づく注記であり、「神降る者なり。男を巫と為し、女をば覡と為すものなり。云々」という注記の大半を簡略化している。末尾の「畧」だが、その典拠として『三畧』をあげたものであろう。『節用集』類は、広本『節用集』に、
覡(カンナキ/ゲキ)[入]男。巫(同)[平軽]女。莊子曰、女曰巫。男曰覡。〔加部神祇門二六〇1〕
とあって、まず「かんなぎ」の標記語は、『下學集』の標記語「巫女」の字を継承しない。次に、男と女で表記を使い分ける「巫」と「覡」だが、『庭訓徃來註』そして、『運歩色葉集』とは逆の指示がなされている。そのうえで、疑義を避ける意味から、典拠として『莊子』を引用して示すという形態をとっている。ここで、『運歩色葉集』の簡略注記が『節用集』類とどう関わっているのかを考えておきたい。印度本系統の弘治二年本『節用集』は、
巫(カンナキ)覡(同)イ。〔人倫77①〕
とし、永禄二年本『節用集』は、
巫(カンナキ)。〔人倫76⑥〕 覡(カンナキ)。〔人倫77①〕 覡(カンナキ)。〔神祇237⑦〕
とし、尭空本『節用集』、兩足院本『節用集』は、
巫(カンナキ)覡(同)。〔人倫69④〕 覡(カンナキ)。〔神祇245⑥〕
巫(カンナキ)覡。〔人倫82⑥〕
とあって、標記語「巫」と「覡」とは収載するが、その標記語の使い分けということすら注記されない傾向にある。この「かんなぎ」という語を以って当代の古辞書を眺めるに、
1、『下學集』の「巫女」は、『節用集』に継承されなかったこと。
2、『節用集』が採録した「巫」と「覡」とは、多くは文字使いに留まっていること。
3、これを一歩踏み込んで『庭訓徃來註』⇒『運歩色葉集』そして広本『節用集』のように「男かんなぎ」と「女かんなぎ」といった文字使い分けのことを示した注記記載もあること。
この三つのことがらから編纂過程の流れが見えてくる。ここで、文字使い分けという点を意識するか否かは、このことばの受用度合いとも関係している。多くの『節用集』はこれを必要としなかったのであろう。この観点から『運歩色葉集』をさらに見るとき、『下學集』の「巫女」をそのまま採録し、さらに『庭訓徃來註』から「巫」と「覡」の語を深入りせずに簡略化して採録する懐の広さ、豊富なというまでの語の拡大化が見て取れるのである。また、これと類似する広本『節用集』は、逆に強く意識して「巫女」の語を未收載にし、「巫」と「覡」の語でその文字使い分けに執心している。その執心は、まったく逆の定説を示すことになった。その定説を検証しておくと、『莊子』内篇第七「応帝王篇」に「鄭に神巫有り」がある。とすれば、晋の郭象(カクショウ)『莊子注』か、唐の成玄英(セイゲンエイ)『莊子疏』に拠るものと思われるが、いま未見なため、ここまでとしておきたい。
当代の『日葡辞書』に、
Cannagui.カンナギ(巫) 神(Camis)に仕える人.〔邦訳90r〕
とある。
[ことばの実際]
かんなき 男かんなき女かんなき也。〔『匠材集』巻一、日本古典全集43下①〕
巫ハ男(ヲトコ)ミコソ。女ミコト云字モアリ。巫ハコヽラニハ神ノコトヲタヽシウ告ルヤウナレトモ、人ニ悪鬼ヲイノリツケナドハゲ者ノワサヲスルソ。巫ハワルイコトソ。〔『玉塵抄』第四十、16五七四⑦〕
2000年9月1日(金)曇り後晴れ。東京(八王子)
やどらむを むらさきさらむ をむらとや
宿らむを 紫去らむ 「おむら」とや
「伶人(レイジン)」
今回、室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「禮部」に、
伶人(レイシン) 。〔元亀本149⑩〕
伶人(レイジン) 。〔静嘉堂本163④〕
伶人(レイニン) 。〔天正十七年本中13ウ④〕
とある。標記語「伶人」の読みは元亀本と静嘉堂本が「レイジン」、天正十七年本が「レイニン」と読む。語注記は未記載にある。「伶人」は、『庭訓徃來』八月十三日の状に見え、『下學集』には、
伶人(レイ―) 樂人(ガク―)。〔人倫門40③〕
とあって、読みの判別はむつかしい。語注記に「樂人」という。『庭訓徃來註』は、
御迎ノ伶人者 樂人也。琴伶人ハ晋時ハ克康字ハ叔夜向∥北山|。従∥道士孫登|学∨琴經∥三年|孫不∨教∨之。曰汝ハ有∥逸群ノ才|。必當戮云々。于市克遂ニ別レ去。孫及乗∨雲昇∨天ニ。康向南至∥會克ノ王伯通カ家ニ|。造∥-得一舘|。未ルニ∨得∥三年ヲ|毎夜有ルニ∥人ノ宿|伯者不∨至∥天明ニ|便死ス。伯見∥此凶ヲ|遂ニ常ニ閉却ス。不∨放∥人宿ニ|。克康暫借∥舘門前|宿ス。至∥一更之後|康取∨琴。至∥弾シテ二更ニ|。時ニ見∩有∥八ケノ鬼|従∥後舘ノ中|出ルコト∪拍∨之。微(ヒソカ)ニ咒シテ曰、乾元亨利貞祝コト三反。問∨鬼曰、王伯通造∥-得此舘ヲ|。成テ未ルニ∥三年ナラ|毎夜有ハ∥人ノ宿ル|者死ス。惣シテ是株チ八ケノ鬼殺∨他ヲ。鬼ノ曰、我ハ是不∨殺∨人。鬼我ハ是舜時掌ル∥樂官|。兄弟八人号シテ曰∥伶倫|者也。舜ニ有テ∥侫臣|殺∥我兄弟ヲ|。在∥此ノ所ニ|∨埋ム。王伯造∨舘不∨知∥其故|。向∥我上ニ|築∨垣ヲ厭∨我ヲ。此故云。為ニ顕ル也。今賞∥先生ヲ|授∥一ノ廣陵ノ曲ノ天下ニ妙絶ヲ|。康聞∨之大ニ悦テ遂ニ把∨琴与∨鬼。々教∨康ニ也。自∨是司∨樂者ヲ云∥伶人ト|。〔謙堂文庫藏48右⑧〕
とあって、出だしの箇所「樂人」を『下學集』と一にする。これに纏わる逸話引用が続く。『節用集』類は、広本『節用集』に、
伶人(レイジン/マイビト、ヒト)[平・平軽]樂人。千字文注曰、伶倫伐(キツ)テ∨竹ヲ造∨管。吹∨之。因テ号シテ∥樂人ヲ|曰∥伶人ト|也。〔禮部人倫門三七四8〕
とある。やはり出だしの「樂人」は、『下學集』と一にするが、ここでは辞書としての立場で、『千字文注』をもって注記説明する。
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