2003.01.15
 
近世⇒芸道一代『風姿花伝』
奥州の木賊狩り 美童としての寵愛 六百年目に全公開
 
「奥州の木賊刈り」
                           
 徳川時代の初期だろうか。次郎太夫という役者がいて、「木賊」(とくさ)という曲を得意としていた。
 
 これは世阿弥元清の作で、都の僧が父をたずねるみなし子をつれて木曾の山奥へ行くと、木賊を刈っている老人に出会う。いわくあり気な人物なので、僧は請われるままに一夜の宿を借りる。さて、老人は問わず語りに、「わしには子が一人あったが、かどわかされて行方知れずになってしもうた。舞が好きだった子じゃった。それを思い出すたびに、いまもときおり舞うことにしておるのじゃ」といいながら盃をすすめ、やがて物狂わしく舞いはじめる。じっとそのさまを見ていた子どもは、うたがいなく父親と知り、ついに名乗り合う??という筋だ。
 
この曲の見せ場は、木賊を刈る翁の手つきである。ちなみに木賊は茎のせんいが粗く、珪酸(けいさん)を含んでいるので、物を磨くのに重宝がられたという。庭園用ともなるので、むかしは木賊刈りというものが、なりわいとして成立した。
 
 どういうわけか、次郎太夫はそのまねが巧みで、観衆は嘆息してやまず、みずからも「天下の妙」を誇っていたという。ある年の暮、桜田というところで催しを行なったときも、京都中の見物が押しよせた。鎌の手さばきがピタリときまって、観客は大喝采。しかし、楽屋にもどった次郎太夫は、なぜかさっぱりしない顔つきで、かたわらの弟子にいった。
 
「見物はみな感心しっておった。だが、隅のほうで、笑っている者がいる。わけを聞きたいから、探してきなさい」
 
弟子はその男を見つけて、楽屋につれてきた。まずいことをしたと思ったのか、男はしきりにペコペコしている。それを制して、太夫は相手の商売を問うた。
 
「あっしが奥州の木賊刈りでさ」
 
「やはりそうか。で、私の芸はどこがおかしい」
 
「へえ、木賊というものは、なにしろみっしり生えるもんで、鎌の動かし方がむずかしいんで。一つ刈り進んだら一つあと戻りして刈るというぐあいにせんと。太夫さんのは後戻りだけだ。あれじゃあ木賊は刈れねえ」
 
 次郎太夫は膝を打って感じ入り、さっそくその男について日夜講習をうけ、カンどころを学びとった。はたして木賊次郎太夫の名はいよいよ高まり、彼はその木賊刈りの男に千金をもって報いたという。
 
「美童として寵愛」
 
 だが、この話にはもう一つ足りないものがあるようだ。能のような抽象的な演劇に、そんなこまかい物まねが必要なのだろうか。すくなくとも、物まねだけではすまないだろう。手つきだけなら本職にかなうはずがなく、役者としては観衆を酔わせる魅力がなければなるまい。能の大成者である世阿弥は、これを“幽玄”ということばであらわした。
 
 いくら物まねが第一といっても、「物まねを極めて、そのものにまことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし」。まねの極致は、似せようとする意識がなくなることだ。そのうえで、幽玄ということが出てくる。
「遊女美男などの物まねをよく似せたらば、おのづから幽玄なるべし」。これに反して、「田夫野人(でんぶやじん)、乞食非人(こじきひじん)」のような役柄は、「美しき見ゆる一かかり」をくふうしなれば、芸とはならない。
 
 美しく柔和で、花やかで、静かで、やさしいものを、彼は「幽玄」と称した。そうなると、ほんらい幽玄でない役柄はきわめてむずかしい。彼の作品として有名な『高砂』も、主人公は木守りの老人と姥(じつは松の神)だから、一かかりが必要である。
 
「西の海、檍が原の波間より、現はれ出でし住吉の春なれや、残んの雪の浅香潟」。住吉の浦で、年ふりた松の化神が舞う。このような個所は、世阿弥によれば太鼓や歌のリズムよりも一拍遅らせて舞うほかは、とくに老人らしさを強調する必要はないのだ。なぜかといえば、年寄りというものは何事も若く見せたがるものだが、身体が重く、耳も遠く、心ばかりせいても追いついていけない。「この宛てがひ(配慮)ばかりを心中に持ちて、そのほかをば、ただ世の常に、いかにもいかにも花やかにすべし」。要するに枯木に花の呼吸というわけだが、シェイクスピアより百年もまえの役者が、これだけのことを考えたのだからたいしたものだ。
 
――さて、ここに“花”ということばが出てきた。世阿弥は、この“花”によって芸能の乱世を生き抜いたのである。いまの概念でいえば、効果ということだろう。よく演技はしっかりしていても、どうもパっとしない役者がいる。サワリや色気がつかめていないからだ。花がないのである。
 
 役者としての修練や実質もさることながら、なによりもショーなのだから見せる方法を考えなければならない。花ある役者だけが生き残れるということを、世阿弥は骨身にしみて知っていた。彼は十二歳のとき、六歳年長の将軍利義満に寵愛された。芸達者で教養も豊かなうえに、水もしたたる美少年だったからだ。表芸は愛されたのか、それとも裏芸のおかげか、あらためて穿鑿するまでもなかろう。当時の公家の一人は、「河原乞食に万金を蕩尽し、あまつさえ義満の顔色を窺う武将たちが、争って世阿弥の機嫌をとるとは‥‥‥」と憤慨している。
 
 父親の観阿弥が没したとき、彼は二十一歳。いつまでも“美童”では通用しないうえに、近江の犬王というライバルが出現していた。同じ舞台で優劣を競わされたりして、緊張の毎日だったろう。
 
「六百年目に全公開」
 
 義満のあとを襲った義持は、能楽よりも田楽を好み、つぎの義教は世阿弥の甥である元重をひいきして、世阿弥父子を圧迫した。権力者に寄食する者は、つねにその気まぐれによる浮き沈みを覚悟せねばならない。
 
 世阿弥は、彼らの好みにかなう曲を必死に考案しなければならなかった。役者の根性といおうか、ショーマンシップといおうか、身をもって体得した武器が幽玄と花である。むろん、そこには観客本位ということを忘れてはならない。「亡夫(観阿弥)は、いかなる田舎山里の片ほとりにても、その心をうけて、所の風儀を一大事にかけて芸をせしなり」。田舎の見物相手なら、地元の風俗習慣や好みを考え、それに合わせた演技をせよ、というのである。さらには、ざわついた席では身ぶりを大きめに、声も高くせよとか、湿っぽい席では明るく舞うべしという指示もある。お客さまは神さまです??の精神だ。ドサ廻りでに人気が失せなければ、万一落ち目になっても道の絶えることはない。「又天下の時に合ふことあるべし」。落ち目のタレント必読の書といえよう。
 
 晩年の世阿弥は、文字どおり落ち目だった。おそらく後継者の問題をめぐって義教の怒りにふれ、佐渡に流されている。享年八十一歳というが、どこで没したのかも明らかでない。こうした波乱万丈の生涯に、彼は推定百種近くの台本をのこした。現在行われている能の数は約二百四十種というから、世阿弥の大きさがわかる。能楽論は『風姿花伝』(一名『花伝書』)ほか二十一種がある。それは秘伝の書として一族に伝わり、徳川時代には幕府の保護を受けていた関係で、上級武士の間で一部分が写本として流布したが、全貌はかくされていた。ようやく明治末年になって十六種が公開され、のこりもつぎつぎと発掘紹介されたが、二十一種がすべて出そろったのは昭和三十八年になってからである。この年は世阿弥が誕生してから、ちょうど六百年目だった。
 
『風姿花伝』が七篇から成るが、そのうち第六、七篇は世阿弥の自筆本がのこっていて、観世宗家に伝わっている。周囲に焼け損じた個所があるのは、火事にでもあったのか、誤って焼却されかけたのか。いずれにしても、当時の書物で自筆本が残っている例はきわめて稀だ。
 
 残したといえば、世阿弥の名言をあげておこう。
 
「初心忘るべからず」
 
812057 加藤むつみ
 
《補遺》 歴代足利将軍