2002.12.26入力〜2003.01.14更新

天地を破る『五輪書』[240頁]

近世⇒「文壇の武蔵論争」 「とにかく“斬る”」 「我もなく敵もなく」

 

「文壇の武蔵論争」

 昭和七年、直木三十五菊池寛との間で“武蔵論争”が行われた。

 発端は直木がラジオ講演の中で、武蔵の人間性に対する疑義を提出したことにある。佐々木小次郎との試合を例にとると、武蔵は(かい)を削って相手より長い刀をつくり、切尖(きつさき)の長さで勝負を決した。しかも試合時刻に遅れて敵を(いら)()たせるなど、きたないやり方を用いた。生涯に六十三人の武芸者と真剣同様の勝負をして、敗れたことがないというが、関東の武芸者とはほとんど手合せしていない。晩年に書いた文章も、新陰(しんかげ)流の祖上泉信綱にくらべれば鋭さを欠き、常識の域を脱しない。全体として山気と衒気(げんき)の目立つ、自己宣伝の達人である――。

 

 これに対し菊池は『文藝春秋』誌上で、再三にわたり反論を試みた。武蔵ほど勝負の場数を踏んだ者はいないし、それが弱い相手ばかりということはありえない。人間としてもりっぱで,画技その他に秀でているのをはじめ、晩年のことば「神仏を尊んで、神仏を(たの)まず」(『独行道』)などは、英作家ゴールズワージの「われ夕暮の行きずりに神に逢わばかくは祈らむ、われに神を恃まざるが(ごと)き強き力を与えたまえ」に比肩すべき高い境地を示すもので、日本人としては格別である。哲人としても国宝級の人物だ――。

 

 両者の応酬が続き、吉川英治も武蔵擁護に加わった。やはり菊池同様、晩年の思想を評価し、武蔵若かりしころの問題の多い行動を、一つの人間形成のプロセスとしてとらえている。これを小説の形で示したのが『宮本武蔵』(一九三五−三九)だが、結果として精神主義的な色彩の濃いものになってしまった。

 

 なお、この時期に直木三十五や武者小路実篤も、武蔵を小説化しているが、このほうは当時の日本人好みでなく、つまりヒーローがチャンバラ芸術とモラリズムの結合として現われてこないという意味で、あまり普及しなかった。

 

 現在は武蔵の伝説的部分と実像が,かなりはっきりしている。成熟した読者なら、ロマンを愛する心と同時に、剣はあくまで凶器であり、剣法は殺人の技術であるという、即物的かつ本質的な認識をも併せ持っている筈だ。そうであってこそ、武蔵のような人物は透明なスッキリした形でとらえられるし、『五輪書』の特色も理解されるというものであろう。

 

 

「とにかく“斬る”」

 「兵法之道、二天一流と号し、数年鍛練之事、初而(はじめて)書物(かきもの)(あらは)さんと(おもひ)(ときに) 寛永二十年十月上旬の(ころ)、九州肥後の地岩戸山(霊巌洞)に上り、天を拝し、観音を(らい)し、仏前にむかひ、生国播磨(はりま)の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十・・・・・・」という書き出し。以下数行にわたり、若年の勝負歴や、三十過ぎて自らをふりかえり、兵法を「道」として究めようとしたいきさつが語られる。

 

 「朝鍛夕練」のすえ、おのずから道に到達したのが五十歳のころ。「今(この)書を作るといへども、仏法儒道の古語をもからず、軍記軍法の古きことをももちひず、比一流の見たて、(まこと)の心を顕す事、天道と観世音を鏡として、十月十日之夜(とら)の一てんに筆をとつて書初(かきそむ)るもの(なり)」。既成概念、知識にいっさい頼らぬとして、オリジナリティを誇示している。では、どのようなところが独創なのか。

 

 剣法の技術を詳細に説いた、(すい)の巻」には、「太刀の(もち)やうの事」という一節がある。「大指ひとさし(親指と人さし指)(うかぶ)る心にもち、たけ高指(中指)しめずゆるまず、くすしゆび小指をしむる心にして持也、・・・・・・敵をきるものなりとおもひて太刀をとるべし」。敵の太刀を受けたりおさえたりするときの状況に応じて、多少大指ひとさし指の力は変化するが、「とにも角にもきるとおもひて、太刀をとるべし」。

 

 この段の趣旨は、「太刀にても、手にても、いつく(居著く)とゆふ事をきらふ、いつくはしぬる手也、いつかざるはいきる手也」ということだが、要は剣法が人を斬る技術であり、主体と凶器との距離がはっきり認識されている点を注意すべきだろう。むろん、この技術は小手先のものではなく、「生死二ツの利をわけ」て獲得したものであることが、「火の巻」に説かれている。

 

 「一、場の次第と云事、場のくらい()を見わくる所、場におゐて日をおふ(負う)と云事有、日をうしろになしてかまゆる也」。巌流島の決闘にはこの経験が生かされ、後世のフィクションにも好んでとりあげられているが、直木流にいえばこういうところが常識的なのだろう。

 

 しかし、生死二つの利を分けた体験から生れたものも、ルールとして文字化してしまえば常識としか見えない。たとえ常識であっても、剣法は生死を賭けるものであるから、いかに

些細(ささい)な知識・体験たりとも、最大限に動員されねばならぬ。スポーツのルールなどとちがって、非日常の世界に属する事柄なのである。『五輪書』は常識の書である。しかし、それは非日常的な緊張感にみなぎっている。たとえば「(まくら)をおさゆる」という一節で彼はいう。「敵何ごとにてもおもふ気ざしを、敵のせぬ内に見知りて、敵のうつと(いふ)うつのうの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心、・・・・・・敵のかゝると(いふ)かの字をおさへ、とぶと云との字のかしらをおさへ、きると云きの字のかしらをおさゆる、みなもつておなじ心なり」

 

 相手の手の内を読んで機先を制せよということだが、彼はそのような概念的な表現を用いない。勝負に一命を賭けて打合った瞬間の思いが、鮮烈に文字化されているのである。

 

 

「我もなく敵もなく」

『五輪書』地・水・火・風・空の五巻から成り、一名『五輪の巻』とも呼ばれる。「地」は「(すぐ)なる道の地形(ぢぎやう)を引ならす」意味で、兵法の見取図。「水」はその清い性質から連想して、兵法「一流のこと」をあらわし、「火」はその烈しさと変化の態様から合戦について記し、「風」は世間の風、すなわち他流派の批判である。

 

 肝心の「空」は武蔵晩年の心境を描いたもので、「心意二つの心をみがき、観見二ツの眼をとぎ、(すこし)もくもりなく、まよひの雲の晴たる所こそ、実の空としるべき也」といい、「空有善無悪、()()也、利は有也、道は有也、(しん)は空也」という禅的な認識によって結びのことばとしている。

 

 武蔵の伝記には不明な部分が多いが、十三歳で新当流有馬喜兵衛を撲殺し、二十一歳で吉岡一門と一乗寺下り松で決闘を行い、二十九歳で佐々木小次郎を倒し、三十一歳で大坂夏の陣に加わり、敗れて一時行方をくらましたという。“実働期間”は十九年。六十一歳で没したのは確かだから、後半生が三十年間もあったことになる。時世が一変して、剣をふるう機会もなくなった。その中で兵法者としての自己認識を保とうとすれば、おのれを敵とするほかはない。つまりは求道の人生である。

 

 もともと兵法書というものは、生きるか死ぬかの修羅場(しゆらば)の中からは生れない。『五輪書』にしても、現役を退いて久しい武芸者が、かつての実地体験を整理しつつ書いた文法書という性格をもっている。むろん、それを超えた部分もあるが、道場武芸で育った門人に対して、どこまで有効だったろうか。あるいは武蔵のことだから、そんなことは百も承知で、ただ自己の存在証明としてのみ、本書を記したのかもしれない。

 寛永二十年(一六四三)十月十日から筆をとり、没年の正保二年(一六四五)五月に門弟寺尾孫之丞と古橋惣左衛門に与えた。一見後に焼き捨てるよう命じたというが、その前に書写したのか、二系統の伝本がある。熊本の細川家に伝わるのは寺尾系のもので、寛文七年(一六六七)の写本、幅一八センチ弱の巻子本で、五巻に分れている。字数は四百字詰に換算して約七十枚。

 

 本書にはないが、いかにも武蔵らしいことばを引いておこう。「そも/\我兵術は太刀おつとりて立出る時は、我もなく敵も無く天地を破る見地なれば、恐るゝ(ところ)なし」(『近世名家書画談』)

 

 

《五輪書》                 《五輪書 地の巻》書き出し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《補遺》『五輪書』のテキスト 

宮 本 武 蔵 岡 山 で の 足 跡  巌流島の歴史

武蔵の足跡をたどる

 

812134 飯田 美幸 記