2003.01.14入力〜2006.12.08更新
   66、 鎖国の悲劇『北槎聞略』 《352頁》
《漂流の記録》《感動的な別離のシーン》《将軍家秘匿の原本》
 
漂流の記録
 
 人間は水だけで何日生きられるか。経験的には四十日前後といわれるが、これは寝たきりの状態にかぎっていえることで、海や山での遭難となると、あまり長くは生きられない。とくに海での遭難は苛酷(かこく)だ。昭和四十年、南太平洋のサモア付近で遭難したマグロ漁船「第十一日進丸」の乗組員十五人は、一日五十t(牛乳ビンの約三分の一)の水だけで荒波と十二日間もたたかい、かろうじて生還した。このへんが限界記録といえよう。
 だが、現代の海難事故は、付近を通りかかる船も多く、いざとなれば航空機による捜索も可能だが、江戸時代の船は一度外洋に吹き流されたら最後、十中八九は死を覚悟せねばならなかった。なにしろ幕府に大船の建造を禁じられているので、川舟に毛のはえたような帆船で黒潮を乗りきらねばならない。ひとたび台風や冬の季節風に襲われたら、もはやお手あげである。羅針盤(らしんばん)もなく、星の見方も知らない。ただ運を天にまかせるほかはなかった。
 波のまにまに漂う船は、八丈島、小笠原諸島くらいまでならいいが、南はルソン、ベトナム、北は千島、樺太(からふと)、カムチャツカ半島から、アリューシャン列島を経て、ついにはアラスカ、カナダ、北米にまで流されてしまった例もある。最高記録は十七ヵ月。途中で病死したり、南洋で先住民に殺されたり、あるいは現地に帰化したりして、そのほとんどは懐かしい祖国に生還できなかった。
 いったい江戸前期を通じ、どのくらいの海難事故があったのか、何人が死に、何人が生還したのか、正確なことはわからない。しかし、そのなかで最も劇的なのが、この『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』に描かれた大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)の場合である。
 光太夫は伊勢白子(しろこ)村(現在三重県鈴鹿市白子町)の生れで、裕福な商家の出身だったが、いつのころからか神昌丸(しんしょうまる)という船の船頭となり、天明二年(一七八二)十二月十三日、紀伊家の廻米五百石を積み、乗組員十六人とともに江戸に向かった。
 西風に帆をあげて、順調に走る船、船頭と水手(かこ)のいさましい掛声━━。だが、これが前後十年にわたる艱難(かんなん)辛苦の幕開きになろうとは、いったいだれが予想しえたであろうか。
 
感動的な別離のシーン
 
 駿河(するが)沖にさしかかったときである。東に低気圧が出現し、船は北西の風に大きくあおられて舵(かじ)を失ってしまった。「それより風浪(かざなみ)ますます烈敷(はげしく)、すでに覆溺(はせん)すべきありさまなれば、船中の者とも皆々髻(もとどり)を断(きり)、船魂(ふなたま)に備へ、おもひ/\に日頃念ずる神仏(かみほとけ)に祈誓(きせい)をかけ、命かきりに働(はたらけ)ども、風は次第に吹(ふき)しきり、曙方(あけがた)に至りては、狂瀾澎湃(きょうらんほうはい)その声雷(いかつち)の震ふが如(ごと)く、勢(いきほひ)山の崩るゝごとく・・・・・・」
 やがて嵐(あらし)はおさまったが、北へ北へと長い漂流がはじまった。二ヵ月目から水が不足し、五ヵ月目に最初の病死者がでた。ようやく八ヵ月後アッツ島に近いアムチトカにたどりつき、苦心して上陸すると原住民にまじって、緋(ひ)ラシャの服を着たロシア人に出会い、食物を恵まれた。
 当時極東進出を図っていたロシアにとって、光太夫らは鎖国日本の実情を知るに絶好の”情報源”であった。そのまま送還することなどは考えてもいなかった。光太夫らはこの島で生活すること満三年、その間に七名が壊血病で死んだ。やがてロシア船が迎えに来たが、港に入る直前で難破し、一同大いに落胆した。やむなくロシア人は光太夫らの助力を得て船をつくりあげ、天明七年(一七八七)カムチャツカに向った。
 カムチャツカでは政庁の長官の庇護(ひご)をうけたが、ここでも三人が病死した。絶望にうち沈む一同を励ましながら、光太夫はロシア人の生活にとけこもうとした。当時彼に会った探検家レセップス(スエズ運河をつくったレセップスの叔父)は、光太夫の敏捷(びんしょう)活溌(かっぱつ)な精神と指導力、鋭い洞察の力と抑制力に感歎している。
 のこった六人は、東部シベリア経営の拠点イルクーツクへ連れていかれた。馬とソリに乗って八ヵ月。行けども行けども白樺(しらかば)の林と無人の大荒野である。それも祖国への道とは逆方向なのだ。
 イルクーツクで光太夫は日本語の教師を頼まれ、そのかたわら何度も帰国願いを出すが却下され、とうとう彼に好意を寄せている役人キリル・ラクスマンと同道でペテルブルグに直訴に出発、女帝エカテリーナ二世に会い、ようやく帰国の許可をとることができた。
 寛政四年(一七九二)五月、光太夫と磯吉小市という二人の水手は、病気の仲間をのこしてイルクーツクを出発する。彼らが庄蔵という水手と別れるシーンは、近世に書かれた日本の書物のなかで、最も感動をよぶものの一つである。
 「かねて療病院より庄蔵を磯吉が旅宿へよびよせおきしが、わざと発足(ほっそく)の事をばかくしおき、立ぎはに俄(にはか)にいとまごひをなしければ、庄蔵は只呆(あきれ)て物をもいはず忘然(ぼうぜん)としたる躰也(ていなり)しが、光太夫立(たち)より手をとりて、今別れて再び会(あふ)べきともおぼえず、死して別るゝもおなじ道なれば、よく/\互の面(おもて)をも見おくべしと、ねんごろに離情をのべ、いつまでもおしむともつきせぬなごりなれば心よわくては叶(かな)はじと、彼邦(かのくに)のならひなれば、つとよりて口を吸ひ、思ひきりてかけ出(いだ)せば、庄蔵は叶はぬ足にて立(たち)あがりこけまろび、大声をあげ、小児の如くなきさけび悶(もだえ)こがれける」
 
将軍家秘匿の原本
 
 「つとよりて口を吸ひ」━━私はこの一節を読むと何もいえなくなる。『北槎聞略』は近世第一の奇書というだけではない。極限状況下の人間を描いた文学として、たぐい稀(まれ)なる感動を与える書物だ。
 明治四十二年、当時一高教授であった西洋史家・亀井高孝は、九段に近い神田の和書専門店で本書を発見した。江戸末期の書店達磨(だるま)屋の蔵印があり、珍本として売らずに保存していたものらしい。その後内閣文庫で正本を発見した。編者は蘭(らん)医桂川甫周(ほしゅう)で、幕命により光太夫から聞き書をとり、将軍に献本(一七九四)したもの。世に知られなかったのも当然である。
 内閣文庫にある原本は、本巻全十一冊、付録(魯西亜(ロシア)略記)一冊、および地図十鋪(ぽ)より成る。地図は光太夫が持帰ったものをもとに作成した地球全図、亜墨利加(アメリカ)全図、亜弗利加(アフリカ)全図、亜細亜(アジア)全図、魯西亜国都城図その他であり、まことに細密である。本文中には多数の色彩および単色の図版が含まれ、十九世紀ロシア図録といったおもむきがある。光太夫のすぐれた観察力と記憶力に加えて、それを引き出すことに成功した桂川甫周の洞察力が、この得がたい書物をつくったのである。ちなみに本書は、旧ソビエトと米国で訳されている。
 ところで、この本には記されていないが、光太夫らの”漂流”はなおもつづいた。すなわち、政治の波に翻弄(ほんろう)されたのである。寛政四年、彼らを根室に送還させたロシア側は、それを口実に日本との修交を開始しようとした。時の老中松平定信は、ロシア使節に長崎入港の信牌(しんぱい)を授けるという方法で一時を逃れ、漂流民を引きとることに成功したが、そのなかの一人、小市は交渉期間中に病死してしまった。
 最後にのこった光太夫と磯吉は江戸に護送され、将軍家斉(いえなり)に召されて訊問(じんもん)をうけた。このとき役人が「何故強(しひ)て願を立て、日本へ相戻り候哉(や)」と問い質(ただ)したところ、光太夫は「恐れ乍(なが)ら、日本国に老母・妻子・兄弟も御座候へば、恩愛の情忘(わすれ)がたく・・・・・・」と訴えている。
 だが、光太夫らの新知識が外部に洩(も)れることを恐れた幕府は、九ヵ月後、老中の決議により一時金三十両、月々の手当三両を与え、番町の薬園に住居を与えて飼い殺しという策に出た。光太夫はその後まもなく妻帯し、一男一女をあげているが、無惨にも文政十一年(一八二八)七十八歳で没するまでの三十五年間、一歩も娑婆(しゃば)へは出られなかったのである。
 わずかななぐさめは、長子亀二郎が、のちに大黒梅陰という漢学者に成長し、門弟数百人を養成したことだが、この人物も幕末に亡くなり、光太夫の血筋は絶えてしまった。
《補遺》北槎聞略(ほくさぶんりゃく) 桂川甫周撰 文政8年(1825)晩翠軒写 12巻(附巻1)5冊
 伊勢の漁師大黒屋光太夫の一行16名は、天明2年(1782)駿河沖で暴風雨のため遭難し、ロシア領カムチャッカに漂着し、以後ロシア政府に帰国を嘆願するためオホーツク、ヤクーツク、イルクーツク、ペテルブルグを移動して、寛政4年(1792)に日本への帰還を果たしたが、病死や帰化のため最終帰国者2名であった。本書の内容は、その数奇な旅行を幕府の奥医師で蘭学者の桂川甫周が聞き書きしたもの。奥書に「吹上秘書之付属也」とあることから、幕府の紅葉山文庫本の写しかと思われる。(東北大学附屬図書館狩野文庫)
 
《参考資料》
資  料:『北槎聞略環海異聞
概略説明:「大黒屋光太夫」(入門篇) 郷土資料館大黒屋光太夫大黒屋光太夫資料室  光太夫自筆の日本地図 北槎聞略付録図 光太夫なるほど展示室
漂流記録「北槎聞略」を読む会  シベリアの永久凍土
 
812119 市瀬 杏奈 記(萩原 改正)