2002.1.27入力

元禄の英雄『好色一代男』

近世⇒「一人笑いの効用」 「一瀉千里の文章」 「古書価値七十五万円

一人笑いの効用

好色一代男』のある章に、大名の奥方に仕えて男と接触する機会のない上臈(じょうろう)端女(はしため)が、枕絵に眺め入ってみずからを慰める場面がある。

 「『こりやどうもならぬ。ああ/\気がへ()る』と、顔は赤くなり、目の玉のすわり、鼻息おのづとあらく、歯ぎしりして細腰もだえて」‥‥。

 西鶴の春本的サービスだが、これで思い出だしたことがある。数年前、なにかの会合で講演者が“文化的退廃の一例”などというもっともらしき口実をかまえて、何気なさそうにポルノを回覧したところ、女性の出席者がいきり立った。「こういうものはすこしも美しくありません。のぞいて見る気もしません」。講演者はあわてて「いや、ほんとにそうですね。そこには人間的な感情がありませんね」などと弁解にこれつとめたが、座は白けてしまった。

 枕絵は「一人笑い」ともいう。一人で見てこそ“効用”を発揮するものであって、公開されればそのもとに“公認”されていた。セックスはなによりも家系の存続のための手段であり、ひいては封建制維持のためにつながる。享楽としての性も、この一点に大義名分づけられる。(めかけ)をもつのも、正妻に子ができぬ場合の用意というわけだ。

 ただ、そこにはおのづから程度がある。元禄という時代は、新興階級である町民が、その膨大なエネルギーと富の吐け口を奢侈(しゃし)とセックスに求めた時代であり、徳川二百数十年の間では最も淫靡(いんぴ)な風俗が支配的であった。女性もかなり能動的であったことは、西鶴の描いた挿話(そうわ)からも(うかが)われる。

 男に不自由しているが、束縛の多い女性を対象に、たとえば「四条の切貫(きりぬき)雪隠(せつちん)」というのがある。往来で、ちょっと(かわや)をかりるふりをして中に入ると、秘密の部屋へ行く通路がある。「湯殿の畳梯子(はしご)」といって、女が裸になって入ると、上から縄梯子がスルスルと降りてくる方式もある。なかでも傑作なのは、座敷の片隅に漆塗りの床板が敷いてあり、そこに小穴があいていて、女が横たわる。むろん、床下には男が仰向きに寝ているので、「隔ての契り板」と称する。

 西鶴は受け売りが上手なので、どこまで本当か疑わしいが、「女さへ合点(がてん)なれば、()はせぬといふことなし」という風潮が存在したことはたしかだろう。

(しゃ)千里の文章

 性行為が、身体(からだ)を張ったスポーツとなれば、めんどうな理屈はいらない。『好色一代男』の主人公之介は、六十歳なでにたわむれた女三千七百四二人、若衆七百二五人、「腎水(じんすい)をかえほして、さても命はあるものか」。七歳の夏の夜、厠についてきてくれた腰元に初恋を覚えていらい、従弟や人妻、遊女などに無分別な恋をしかけ、ついに十九歳で勘当の身となる。その後各地を好色行脚するが、三十四歳のとき父親が死んで二万五千貫の家督を相続した。当時、町人は収入や相続に対して税金をとられることもなかったので、まさに使い放題。吉野太夫を見うけしたり、京・大阪・江戸の遊里で極道のかぎりをつくし、六十歳の秋に一つの心境に到達する。

 「あさましき身の行末、これから何になりともなるべしと、ありつる宝を投げ捨て……一つ心の友を七人誘引き合はせ、難波(なにわ)江の小嶋にて新しき舟(つく)らせて好色丸(よしいろまる)と名を記し」、吉野太夫の腰布を旗じるしに、女の髪をよりあわせて大綱とし、ごぼう、山芋、卵などの強精剤に、りんの玉三百五十、水牛の張形二千五百などの責め道具、えのこずちや水銀などの堕胎剤その他を満載、「これより女護の島にわたりて、(つか)みどりの女をみせんといへば、いづれも歓び」、天和二年神無月の末に行方知れづとなった――。

 元禄の読者は、この場面で感動まじりの溜息(ためいき)をついたにちがいない。鎖国下で御法度の大船を建造し、真紅の(ふき)(ぬき)をひるがえしながら、あらたな地平を求めて船出するヒーロー。しょせん、それは新しい価値の追求とは無関係にしても、自分たちのもやもやした気分を代弁でてくれているにはちがいない。小さな(にじ)につつまれた当世の英雄……。

 世之介は、性的人間というよりも、とてつもない浪費と逸脱のシンボルであり、社会的には低いランクに置かれた町人の屈折した心情を、みごとに表現していた。作者の西鶴が町人だったからである。その経歴には不明な点が少なくないが、俳諧(はいかい)師として出発し、三十四歳で妻と死別したのを機に、自由な享楽生活を送ったというのはたしかなようだ。浪費家にはちがいないが、金銭や性的本能よりも精神の浪費家だった。

 その一例が矢数俳諧である。三十三間堂の通し矢になぞらえ、一定の時間にできるだけたくさんの俳諧を詠む。西鶴は最初千句からスタートして、ついに一昼夜に二万三千五百句をつくるという離れ業をやってのけた。三・六秒に一句。その間、食事や排泄(はいせつ)はどうしていたのだろうか。テープレコーダーや速記もない時代のこととて、立会人は棒の数でかぞえた。

 いずれ駄句ばかりであろう。それ以前の作品を見ても、「化物の声聞け梅を誰折ると」「春の花皆春の風春の雨」というようなしろものばかり。早いのが取り柄でしかない。俳句の形式による浪費と逸脱だが、ことばが一瀉千里にとび出してくるのは、やはり才能というしかない。

古書価七十五万円

 「桜もちるに(なげき)き、月はかぎりありて(いる)()山、(ここ)但馬の国かねほる里の(ほとり)に、浮世の事を(ほか)になして、色道二つに()ても覚めても夢介とかえ名呼ばれて、……身は酒にひたし、一条(とをり)夜更けて戻り橋。ある時は若衆出立(でたち)、姿をかえて墨染の長袖、又は立髪かつら、化物が通るとは誠に是ぞかし」

 明治二十年代、西鶴復活に一役買った幸田露伴は、このような文章を「軽快霊妙、(ごう)も冗漫重複の所なく、(あたか)片舟(へんしゅう)(のつ)て急流を下る」に似ていると評した。さらに、西鶴を読み終えたとき、常に茫然(ぼうぜん)とした感慨に襲われるが、その中にかすかに「世間は面白きものにて、足るもの必ずしも足らず、悲しめば悲しみの中に喜びわきあがる」といった感覚が生じる、という。西鶴文学の魅力は、まさにこの一言に要約されている。

 『好色一代男』は、天和二年(一六八二)十月の奥付があるが、じっさいは翌年の正月刊と推定されている。全八巻、初刷に近い版は(あい)表紙に『絵入好色一代男』の題簽があり、西鶴自筆の挿絵が五十四図入っている。大きさは二十七×一〇.八センチ。上方板と江戸板が格三種ずつあって、表紙や大きさが異なっている。

 彼の著作は、当時風俗書ないしは遊里のガイドブックといった関心から読まれたらしく、時世の変化につれて間もなく忘れられてしまった。復活したのは前期のように明治二十年代の初頭である。

 ちなみに、西鶴本は元禄当時、二匁八分から五匁ぐらいの値段であったが、幕末にはおそらく二束三文だったにちがいない。維新前後には、和本類はみな紙屑(かみくず)同然に扱われたものである。復活直後の明治二十四、五年には『日本永代蔵』が一円三十銭、『西鶴織留』と『好色一代男』が一円五十銭となり、その十年後には『好色五人女』が四円にハネあがっている。劇的な復活ぶりが窺われるではないか。

 対象末年になると、『世間胸算用』が百円、『好色一代男』『好色五人女』などは、じつに千円を突破している。当時、平社員の月給が二十五円だった。古い話はともかく、近年の相場は『好色一代男』のやや不完全な(そろい)いで七十五円もする。

 西鶴にとって、これらの作品は転合書(てんごうがき)(戯作)にすぎず、自分の本領は俳諧にあると信じていた。処女作の『一代男』を執筆したのは四十一歳。死ぬ、わずか十年前だった。その辞世――。

 「人間五十年の(きはま)り、それさへ我には余りたるに、ましてや、浮世の月見過しにけり末二年」

810155 吉野さやか 記