2003.01.22
ふるさとへの執念『おらが春』
−生活のうた・義理の弟と財産争い・幕末の信州から初版−
生活のうた
我と来て遊べや親のない雀
やれ打つな蠅が手を摺り足をする
目出度さもうち位也おらが春
心からしなのの雪に降られけり
たまたまの故郷の月も泪哉
一茶の生涯と人間性は、これらの句一つ一つに凝縮されている。生き物を愛した農民詩人、庶民の心をうたった生活詩人、天衣無縫の野人……。
だが、生活というものは、きれいごとばかりではない。平凡な庶民なら、なおさらのこと、生きるための才覚としぶとさが必要だ。六十五年の一茶の生涯が、ひとすじに脱俗と純粋な小児の心で一貫していたと考えるほうが非現実なのだ。むしろ平凡な庶民にふさわしい俗念に支配されながら、その喜怒哀楽を普遍的な生活の詩に高めたいというところに、俳人一茶の真価をみとめるべきだろう。
彼は宝暦十三年(一七六三)信濃国柏原村(現在の長野県信濃町柏原)に生まれた。「下の下国の信濃もしなのおくしなのの片すみ、黒姫山の梺なるおのれ住る里は、木の葉はらはらと峰のあらしの音ばかりして淋しく、人目も草もかれはてて、霜降月の始より白いものがちらちらすれば、悪いもの降る、寒いものが降ると口々にののしりて、
初雪をいまいましいといふべ哉 旅人」
と、彼は門人あての書簡に記している。
とにかく日本有数の豪雪地帯だが、一茶の生家は中農で、比較的富裕な身分だったことは注意すべきである。ただし、このままでは百姓で終わるところを、三歳のときに母いに死に別れ、ついで入り込んできた継母との折り合いが悪かったことから、彼の運命は大きく変る。継母に虐待される。“親のない雀”――。父は困ったあげく、一茶を江戸へ奉公に出した。十五歳のときである。
多感なしょうねんにとって丁稚奉公がどのようなものであったか、およそ察しはつこうが、彼が俳諧の道へ入ったプロセスはよくわからない。とにかく二十五歳のときに葛飾派という有力な一派に属し、三十歳ころから数年にわたる西国遍歴で腕をみがき、その後江戸で十五年間俳諧師として生活するが、
もたいなや昼寝して聞く田植歌
初夢に故郷を見て涙かな
などという句があるように、自分が農民であることをつねに意識し、年とともに故郷回想への願望が強まるのだった。
義理の弟と財産争い
『おらが春』を書いたのは、文政二年(一八一九)、一茶が五十七歳のときである。故郷へ帰って二年目の春であった。
「おのれら(自分たち)は俗塵に埋れて世渡る境界ながら、鶴亀にたぐへて祝い尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかけへる。
目出度さもうち位也おらが春 一茶
屈折した感情のこもった句であるが、これは当時の一茶の境遇に関係がある。ようやく憧れの故郷に帰ることはできたが、単に帰るというだけでは農民としての生活基盤も、認識も生まれようがない。このためかれは江戸にいるころから、じつに十年以上にわたって仙六という義理の弟を相手取り、財産分譲をめぐる争いをくりかえしてきたのである。一茶には言い分があった。少年時代、家庭の事情で江戸に厄介払いされたということである。父親はそれを気に病んでいたと見え、享和元年(一八〇一)病没するとき看病にあたった一茶に対し、家および土地の半分を譲ると遺言した。
しかし仙六はこれを素直に聞けなかった。義兄が江戸へ出ていらい、自分と母が辛苦のすえ、田畑を二倍に以上にふやした。それに対して義兄は何の貢献もせず、気ままな遊民暮らしのすえ、さて足腰が弱くなるや、
散る花やすでにおのれも下り坂
などといまさららしくノコノコと舞い戻ってきて、財産をよこせという。そりゃきけません、というわけだ。
当時、江戸―柏原間は徒歩で一週間。一茶はそれを何度も往復し、義弟との折衝にあたった。農民としての存在証明である田畑への執念。
文化十年(一八一三)、父親の十三回忌に彼と義弟は調停者の手をわずらわして和解し、一茶はほとんど希望通りの土地を入手し、翌年二十八歳の嫁を迎えて生涯の絶頂を味わった。しかし、生まれた長男はすぐ死んでしまい、義弟との感情的しこりもなくなったわけではない。めでさも中ぐらいなり。ただ一つの救いは、ついで生まれた長女の「さと」はかわいい盛り。
這へ笑へ二つになるぞけさからは
五十七歳にしてはじめて知った家庭の幸せであるが、マイホーム・パパとしては、いささかとうがたちすぎていた。やはり晩年の子というものは虚弱なのだろうか。この子も翌年には痘瘡で死んでしまう。かんじんの嫁も九年後に死んで、そのあと半分ももうろくした身体で二度ほど妻帯するが、幸福ではなかったようである。結局五人生まれた子供のうち、四人までが最高二年の寿命しかなく、最後に一茶の死後に誕生した女児だけが育った。
春立や愚の上に又愚にかへる
我上へ今に咲くらん苔の花
文政十年(一八二七)没。辞世として、
盥から盥にうつるちんぷんかんぷん
なる句があるというが、後人の偽作らしい。
幕末の信州から初版
前述のように『おらが春』は文政二年、一茶五十七歳のおりの日記である。長野県中野市の一所蔵者のもとに真蹟が残っているが、嘉永五年(一八五二)に同地の白井一之という人が版本を出した。灰色表紙に松葉様のカラ押しがあり、中央に題簽。大きさは一六×二二・七センチ。本文四十一丁に自筆の挿絵八葉。付録として当時のの俳人による連句発句を集めたものが十八丁ある。本文から代表的な句を―。
桜へと見へてじんじん端折哉
花見に行くとみえて、尻からげで歩いて行く人の姿。
かくれ家や猫にもすへる二日灸
陰暦二月二日に灸をすえるとよく効く。退屈まぎれに猫にまですえてやろうとしている風景。
雀の子そこのけそこけ御馬が通る
ゆうぜんとして山を見る蛙 哉
蚤の迹かぞへながらに添乳哉
蚤に刺されたあとをかぞえながら、子供に乳房をふくませている母親の満ちたりたようす。
子供の名「さと」は、「おろかにしてものにさとかれ」(生まれつきは愚かでも、長じてりこうになるように)という願いからつけた。この子供のあどけないしぐさを描写した個所は、篇中の圧巻である。
「ことし誕生日祝ふころほひより、てうちてうちあはは、天窓てんてん、かぶりかぶりふりながら、おなじ子どもの風車といふものをもてつるを、しきりのほしがりてむづかれば、とみに(すぐに)とらせけるを、むしやむしやしやぶつて捨て、露程の執念なく直に外のものに心うつりて、そこらにsる茶碗を打破りつつ、それもただちに倦みて、障子のうす紙をめりめりむしるに、よくしたしたとほむれば誠と思ひ、きやらきやらと笑ひて、ひたむしりにむしりぬ。心のうち、一点の塵もなく、名月のきらきらしく清く見ゆれば、迹なき俳優見るやうに、なかなか心の皺を伸しぬ」
したがって、この子が病死したとき、一茶は声も出ない。
露の世は露の世ながらさりながら
これは句ではない。呻である。
『おらが春』は、この多事な年の歳末の所感をもって終わっている。
ともかくもあなた任せのとしの暮
他力本願だが、彼の注釈によると自力も他力も超越した境地になれば、欲にかられて他人のものに手をだしたがり、人の目をかすめるようなこともあるまいという。一茶流の楽天主義だが、義弟の仙六はそうはうけとらなかったにちがいない。
《補遺》
痘瘡 痘瘡(天然痘)の病原体のウイルスに感染してから症状が出現するまでの潜伏期は約12-14日(7-17日のこともあります)です。最初の症状は、典型的には,高い発熱、悪寒,疲労感、頭痛、背部痛などです。腹痛や譫妄を伴うこともあります。2-3日のうちに、特徴的な発疹が、顔や手足を中心に出現してきます。口やのどの粘膜にも発疹は出現します。発疹は最初は平たく赤いのですが、一斉に盛り上がってきます。すべての発疹が同じ段階にあって進行していくのが特徴です。最初は水を持つようになっていたのが膿を持つようになり、二週目のはじめころにはかさぶたになり始めます。かさぶたで被われるようになり3-4週間後にはかさぶたが剥がれ落ちます。大部分の患者は回復しますが、致死率は30%にも及ぶことがあります。
痘瘡(天然痘)は、患者の唾液の飛沫あるいは唾液との直接の接触を介して、患者の身近な人へと広がって行きます。発病した最初の週には、大量のウイルスが唾液の中に出てきますので、この間に感染が広がることが多いです。最も感染力があるのは,発疹が出現してから,7-10日目までです。かさぶたが形成されるようになると感染力は急激に落ちてきます。しかし、患者からすべてのかさぶたが剥げ落ちるまで、周囲の人たちの感染の可能性はあります。かさぶたにはウイルスが含まれているので扱いに注意が必要です。痘瘡(天然痘)の病原体のウイルスに汚染された衣服や寝具を介して感染することもあります。
今のところ痘瘡(天然痘)にたいする特効薬はありません。点滴による栄養・鎮痛剤・解熱剤や二次的な細菌による感染を抑える抗生物質などが治療で使われます。
麻疹や水痘の感染の広がり方と比べると痘瘡(天然痘)の感染の広がり方は遅いです。まず,家族や友人の間に感染が広がりやすいです。学校で大流行を起こすというようなことは少ないです。このことは,発疹が出現するまでは,患者から他のヒトへの感染が起こらないことによるようです。発疹に先行する高熱と悪寒とで多くの患者はベッドで安静にします。ベッドで安静にしているうちに発疹が出現して周囲のヒトに感染します。ですから家族や病院スタッフが感染してしまうことが多くなります。
☆
一茶の生涯
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
||||||
1763年(宝暦13年) |
1歳 |
|
||||||
1765年(明和2年) |
3歳 |
|
||||||
1770年(明和7年) |
8歳 |
|
||||||
1772年(安永元年) |
10歳 |
|
||||||
1776年(安永5年) |
14歳 |
|
||||||
|
||||||||
|
||||||||
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
||||||
1777年(安永6年) |
15歳 |
|
||||||
1783年(天明3年) |
21歳 |
|
||||||
1787年(天明7年) |
25歳 |
|
||||||
1788年(天明8年) |
26歳 |
|
||||||
1790年(寛政2年) |
28歳 |
|
||||||
1791年(寛政3年) |
29歳 |
|
||||||
|
||||||||
|
||||||||
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
||||||
1792年(寛政4年) |
30歳 |
|
||||||
1795年(寛政7年) |
33歳 |
|
||||||
|
||||||||
|
||||||||
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
||||||
1800年(寛政12年) |
38歳 |
|
||||||
1801年(享和元年) |
39歳 |
|
||||||
1804年(文化元年) |
42歳 |
|
||||||
1807年(文化4年) |
45歳 |
|
||||||
1808年(文化5年) |
46歳 |
|
||||||
1809年(文化6年) |
47歳 |
|
||||||
1810年(文化7年) |
48歳 |
|
||||||
1811年(文化8年) |
49歳 |
|
||||||
1812年(文化9年) |
50歳 |
|
||||||
|
||||||||
|
||||||||
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
||||||
1813年(文化10年) |
51歳 |
|
||||||
1814年(文化11年) |
52歳 |
|
||||||
1816年(文化13年) |
54歳 |
|
||||||
1817年(文化14年) |
55歳 |
|
||||||
1818年(文政元年) |
56歳 |
|
||||||
1820年(文政3年) |
58歳 |
|
||||||
1821年(文政4年) |
59歳 |
|
||||||
1822年(文政5年) |
60歳 |
|
||||||
1823年(文政6年) |
61歳 |
|
||||||
|
||||||||
|
||||||||
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
||||||
1824年(文政7年) |
62歳 |
|
||||||
1825年(文政8年) |
63歳 |
|
||||||
1826年(文政9年) |
64歳 |
|
||||||
1827年(文政10年) |
65歳 |
|
||||||
1828年(文政11年) |
没後 |
|
☆
黒姫山
これは、黒姫山(1,221m)です。黒姫山は長野県にもありますが、「黒姫」は奴奈川姫のお母さんです。黒姫の絶大なる勢力範囲を感じます。
ちなみに、黒姫山は私が石灰石採掘をしている職場でもあります。
☆一茶の家
一茶旧宅(土蔵) 一茶旧宅と同敷地内・異母弟専六(弥兵衛)の屋敷
短期大学国文科二年 811054 若尾 貴子さん記