2001.12.27更新
『雨月物語』江戸のエクソシスト
中世⇒ 亡霊との対決 怪異文学の極限 禅とオカルト
『亡霊との対決』
香川県は坂出市と高松市の境に、国分台とよばれる台地があり、紅ノ峯、青峯、黄ノ峯、白峯、黒峯など五峯があるので、別名を五色台という。『雨月物語』の開巻の」は章「白峯」は、この一つを舞台としている。
標高三百三十七メートル。北の山腹に四国霊場八十一番の白峯寺と、保元の乱に敗れてこの地に流された崇徳上皇の陵がある。いまは予讃本線の坂出駅から容易にバスで行くことができるが、むかしは人外境で天狗の出没する場所とされていた。西行がこの地を訪れたのは、仁安三年(一一六八)の秋、つまり崇徳天皇が崩御して五年目であった。
「この里ちかき白峯といふ所にこそ、新院の陵(みささぎ)ありと聞(き)て、拝みたてまつらばやと、十月(かみなづき)はじめつかたかの山に登る。松柏は奥ふかく茂りあひて、青雲の軽靡(たなびく)日すら小雨そぼふるがごとし。児が嶽といふ嶮しき嶽(みね)背(うしろ)に聳(そば)だちて、千仭の谷底より雲霧おひのぼれば、咫尺(まのあたり)をも欝悒(おぼつかなき)ここちせらる」
崇徳院は配流されて九年目に崩じた。鳥羽天皇の第一皇子で、五歳のとき即位しながら、十八歳のとき鳥羽院の寵姫美福門院の子(近衛天皇)に譲位させられ、しかもその近衛天皇亡きあとも冷酷な処遇をうけ、ついに藤原頼長と図って後白河天皇を襲い、無念にも敗れたのである。
もともと気性の激しい人だったわけだ。配流の地で大乗経を血書し、「願はくば大魔王となりて天下を悩(のう)乱(らん)せん」と叫んだ。白峯寺の鳥も、院の望郷の歌に感じ、ケヤキの葉を喙(くちばし)に巻いて声を忍んだという。いまでも玉(たま)章(ずさ)といわれる大ケヤキは、巻かれた葉が落ちる。
西行は、荊に覆われた墓の前で、夜もすがら供養をしようと一首を詠む。
松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな
すると怪しいかな、背高く痩せ衰えた人影が近づき、「喜しくもまうでつるよ」という。西行は、畏れる色もなく仏縁につながるべきことを力説するが、すでに怨の一字に徹した新院の亡霊は受けつけず、あまつさえ「汝知らず、近来(ちかごろ)の世の乱(みだれ)は朕(わが)なす事(わざ)なり」と言いだす。
ここにいたって西行は涙をうかべながらも、「そも保元の御謀叛(むほん)は天(あめ)の神の教(おしへ)へ給ふことわりにも違(ちがい)はじとておぼし立たせ給ふか。又みづからの人(にん)欲より計(たば)策(かり)給ふか。詳(つばら)に告(のら)せ給へ」と挑む。
『怪異文学の極限』
魔道の業につながれた怨霊と、儒仏神道を総動員した”正義”の闘争 西行はここでは悪魔(エクソ)祓い師(シスト)の役割を演じているのであって、その気迫はすさまじい。
『天下は神器なり。人のわたくし(私心)をもて奪うふとも得べからぬことわりなるを。・・・・・道ならぬみわざをもて代を乱し給ふ則(とき)は、きのふまで君を慕ひしも、けふは忽ち怨敵(あた)となりて、本意をも遂(とげ)たまはで、いにしへより例なき刑(けい)を得給ひて、かかる鄙(ひな)の国の土とならせ給ふなり』
怨霊も一歩もあとへは退かない。「嗔(しく)火(わ)(怒りの情念)熾(さかん)にして尽きざるままに、終に大魔王となりて、三百余類(天狗の眷族)の巨魁(かみ)とな」った由縁を物語る。ときに峯谷ゆり動き、風は林を倒すがごとく、砂塵は中空に舞いあがり、みるみる一団の陰火が怨霊の足元から燃えあがり、山も谷も真昼のごとく明るくなる。その光に照らしだされた怨霊の顔は、朱を注いだように赤く、おどろにふり乱した髪は膝まで垂れ、白い眼はつりあがり、手足の爪は獣のようにのびていた。
「かの讐(あた)敵(ども)ことごとくこの前の海に尽くすべし(滅びつくしべし)」といったのは、平氏滅亡の大予言である。西行もいまや心情で勝負するほか手はないと見て、
と一首を詠む。高貴な身とて、人間一様の死に遭うたいま、焦慮したとて何になろう、というのである。こういう諦観に日本人は弱い。怨霊は面を和らげ、うすれ行く陰火とともに姿を没していく。
------ 広い意味での悪魔祓いを扱った作品は、『雨月物語』に多くあって、いずれも傑作である。その一つ「蛇性の婬(
いん)
」は、女怪に魅入られた男を救うために、祈?(
きとう)
僧が芥子(
けし)
の匂いのしみこんだ、つまり護摩壇の香りのする袈裟(
けさ)
衣を貸し与え、閨房(
けいぼう)
で女に覆いかぶせる。「あな苦し」ともがくところを必死に押さえつければ、ついに三尺余の白蛇が正体を現すという趣向である。
「牡丹燈記」の翻案である「吉備津(きびつ)の釜(かま)」も、陰陽師が魔除(まよ)けの朱符を門や窓に貼らせて、怨霊の侵入を防ぐが、わずかの油断に男は連れ去られ、軒の端には「男の髪の髻(もとどり)ばかりかかりて、外には露ばかりのものもなし」----- という話。この個所は怪異小説の描写の一極限といえる。
もう一つ、日本風怪談の逸品として、「青頭巾」をあげる。山寺のある僧が、鍾愛(
しょうあい)
した稚児が死んだとき、その肉の腐り爛(
ただ)
れるのをおそれて食ってしまい、ついに食人鬼として化して里人を襲うにいたる。ここに快庵禅師という高僧がいて、破壊僧を救おうと山にのぼり、紺染の頭巾を脱いで相手にかぶせ、
「江月(かうげつ)照(てらし)松風(しょうふう)吹(ふく ) 永(えい)夜(や)清(せい)宵(せう)何(なんの)所(しょ)為(ゐぞ )」という証道歌(禅の本義を説いた詩)の一節を与え、「汝ここを去ずして徐(しづか)に此句の意(こころ)をもとむべし」と論す。
その後一年、高僧が再びこの寺を訪れてみると、荒れた庭草の中で「江月照松風吹」と、蚊のなくような声が聞こえる。
「禅師見給ひて、やがて禅杖(ぜんじょう)を拿(とり)なほし、『作麼(そも)生(さん)何(なんの)所為(しょゐ)ぞ』と、一喝して他(かれ)が頭(こうべ)を撃(うち)給へば、 ち氷の朝日にあふがごとくきえうせて、かの青頭巾と骨のみぞ草葉にとどまりける」・・・・・。
『禅とオカルト』
皓々(こうこう)たる明月が入江を照らし、松吹く風は爽やかである。この清らかな自然の美と静寂は何のためにあるのか。いうまでもなく人が心を収(治)めるためにあるのだ。まわりくどいが、この達観のプロセスが禅なのであり、秋成の心境であった。
彼は明和五年(一七六八)、三十五歳のとき『雨月物語』を著わし、老境に入った六十四歳のとき第二短編集『春雨物語』を書いた。これも怪異談が多く、文章の格調も高い。とくに『血かたびら』という藤原一門の内紛を描いた作品において、自刃した薬子(くすこ)の血が「帳かたびらに飛び走りそそぎて、ぬれぬれと乾かず」という描写は、きわめて印象的だ。
秋成は摂津(せっつ)曽根崎(そねざき)の妓女で、四歳のとき紙・油商を営む上だけの養子となった。旅芸人の子であったポオ(エドガー・アラン・ポオ。怪奇小説家)が、南部のタバコ屋の養子となって知育のきっかけをつかんだ事情を連想させる。
少年時代、重い疱瘡を患い、指が不自由となるが、このとき養父が治癒祈願をしてくれてから神仏の恩寵を信じ、ひいては神秘現象への関心を抱くようになる。『雨月物語』は執筆後九年目に、京都と大阪の二書肆(しょし)から刊行された。判紙本(二二・六×十六・三センチ)五巻五冊、全八十八丁で、大簽は『雨月もの語』『雨月物がたり』などと不統一である。各冊に挿絵が二枚ずつある。
秋成は、自分にも他人にきびしい人であった。国学を学んだが、少しでも気に入らぬ草稿は惜しげもなく屑篭や井戸に投じ、同学の本居宣長や賀茂真淵に対しても、常に批判の目を向けていた。たとえば宣長が、例の「敷島のやまと心を日と問はば」という讃を門人に配ったとき、直ちに「敷島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と茶化し、「どこの国でも其国のたまいしひが国の臭気(欠点)なり」と喝破した。透徹した認識というべきだろう。
彼のことばで私が大好きなのは、「聖人もだんだん御しんだい(身代)がおおきゆうナラシャマシテ、悪人がたをかかへねば、芝居がうてぬやうになつたことぢゃ」というのである。正義を説くには悪を大きく見せる必要がある。キリスト教をはじめ、あらゆる宗教は悪魔を利用して成長したという点で、“対立依存”の関係にあることを、彼は江戸のはるか昔に道破していたのである。彼がエクソシストとしてまず清祓(せいふつ)せねばならなかったのは、そのようなエセ国学であり宗教であった。
※この内容は、紀田順一郎著『日本の書物』〔勉誠出版354頁・2006年10月公刊〕されている資料を講義支援資料として電子入力したものです。
中村 佳世子記