2001.04.25
古代人の哀歓『風土記』
(20頁)歌垣に芽生えた愛 語らいに時を忘れ 万葉歌人も執筆?
歌垣に芽生えた愛
むかしの農村では、春秋の祭礼にかこつけて、若い男女に性的な解放の機会が与えられていた。各地に伝わる「雑魚寝祭り」や「帯解(おびとけ)祭り」といったぐあいのものだが、今はほとんどすたれた。自由恋愛のチャンスがいくらでも得られる、けっこうな時代となったからだ。
このような性的行事の起源が、古代の歌垣にあることは明らかである。日ごろ地域的に孤立しがちな村落の若者たちが、収穫の祝いに便乗して、他の村から求婚の相手を見つけた。日本以外の民族にも、似たような風習があったようだ。生殖の行為には、作物の豊饒と結びつく宗教的な意味がこもっていた。
けれども、古代の歌垣には、現代の私たちの理解をこえる要素も含まれている。即物的な男女の結びつきだけでなく、そこには歌のかけ合いという雅(みやび)な手続きがあった。片歌形式で男が挑み、歌い負かされた女がその男の一夜の恋人となる。この種の歌が『万葉集』『日本書紀』などにも多数収録され、古代文学の一つの源泉となっているということは、のちの世の恋愛感覚と本質的に異なったものがあるのを感じさせられる。
『常陸國風土記』にも、歌垣にちなむ伝説が収録されている。これは香島郡(現在の茨城県鹿島)の安是(あぜ)という、いまは名を残していない地に生育した夫婦(めおと)松に由来する話しである。
むかし、この地に神に仕える少年少女がいた。二人は海を隔てて住んでいたが、たがいに相手が美しいという噂(うわさ)を耳にし、慕い合っていた。ついに歌垣の場で二人が相会したとき、少年は次のように歌った。
いやぜるの 安是の小松に
木綿(ゆふ)垂(し)でて 吾(わ)を振り見ゆも
安是小島はも
松の小枝に目じるしの木綿布を垂らして、少女が少年を招いた情景である。これに対して少女は、こう答えた。
潮(うしお)には 立たむと言へど
汝夫(なせ)の子が 八十島(やそしま)隠り
吾を見さ走り
あなたは浜辺に立っていると約束したが、多勢の間に隠れている私を見つけて、走り寄ってこられた――。
かくて『風土記』の作者は、二人の愛の高揚を語るべく、華麗な筆致を躍動させる。「便(すなわ)ち、相語らまく欲(おも)ひ、人の知らむことを恐りて、遊(うたがき)の場(には)より避け、松の下に蔭(かく)りて、手携はり、膝をつらね、懐(おも)ひを陳(の)べ、憤を吐く。既に故(ふる)き恋の積れる疹(やまひ)を釈(と)き、還(また)、新しき歓(よろこ)びの頻(しきり)なる咲(ゑまひ)を起こす」
語らいに時を忘れ
もと漢文で書かれた、いわゆる美文調だが、作者が陶酔しているさまが手にとるようにわかって興味深い。「時に,玉の露杪(こぬれ)にやどる候(とき)、金(あき)の風丁(きをふきな)す節(をり)なり。皎々(あきら)けき桂月(つき)の照らす処(ところ)は、唳(な)く鶴(たづ)が西洲(かへるす)なり。颯々(さや)げる松?(かぜ)の吟(うた)ふ処は、度(わた)る雁(かり)が東?(ゆくやま)なり。山は寂寞(しづ)かにして巌(いはほ)の泉旧(しみづふ)り、夜は蕭条(さび)しくして烟(けぶ)れる霜新(あらた)なり」――間接描写の妙である。二人は甘い語らいに時を忘れ、気がついたときには夜明けとなっていた。そして人に見られるのを恥じて、松の木と化した。少年のほうを奈美(なみ)松(見るなの松)といい、少女のほうを古津(こつ)松(木屑松)という……。
『出雲國風土記』などは文学的な修飾よりも、この地方で口伝えにされた形を写そうと努めたあとが見える.よく知られた国引き伝説はその好見本だ。
出雲地方の祖神と思われる八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が、あるとき「八雲(やくも)立つ出雲の國は、狭布(さの)の稚国(わかくに)(狭い未熟な国)なるかも。初国(はつくに)小(ち)さく作らせり。故(かれ)、作り縫(ぬ)はな(ほかの土地をくっつけて拡(ひろ)げよう)」と思い立つ。そこで、まず新羅(しらぎ)を見ると土地が余っているようなので、「童女(をとめ)の胸?(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ(鰓(えら)衝(つ)き別(わ)けて、はたすすき穂振り別けて、三身(みつみ)の綱(三本綱)うち挂(か)けて、霜黒葛(つづら)くるやくるやに(綱を繰るや。しもつづらは黒い実で、下の「くる」に掛ける)、河船のもそろもそろに(そろそろと)、国来(くにこ)々々と引き来縫へる国は、去豆(こづ)の折絶(をりたえ)(現在の平田市小津の辺)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)の御崎(みさき)(大社町日ノ御崎)なり」――というぐあいに領土を拡張する。
さらに三たび国引きを行うが、固有名詞がちがうだけで、文体は同じである。これは祭事のときなどで唱えられているうちに、パターン化したものと推測されるのである。
国引き説話は、戦時中は海外膨脹主義にこじつけられたが、元来は農作業から生れた素朴な伝承であろう。耕作に適した土壌を遠方から苦労して運んでくる。そうした体験が、郷土を守る神への感謝と混合して、ホラ話しめいた伝説へと発展していったのではあるまいか。「国来々々」などという表現は、当時の人々の笑いを誘ったかもしれない。現代の、資源弱小国にとっては苦笑ものだが――。
ちなみに「童女の胸?」というのは、若い女の胸のような形をした鋤(すき)なのだそうだ。丸くふくらんだ形態を想像するが、“幅広い”という意味が採用されている。当否はともかく、このような奇想天外な喩(たと)え一つからも、古代人の情緒がしのばれる。
万葉歌人も執筆?
『風土記』は日本最古の地誌とされるが、その本質は大和朝廷のための地方行政資料である。和銅六年(七一三)、各国の国司に対し、編纂が命じられた。記載すべき事項として、各地の郡郷の名を好字(嘉字)に改めること、物産目録をつくること、土地の良否を示すこと、地名の起源を明らかにすること、古老の伝誦を集録することなどが指示された。
執筆にあたったのは、中央から派遣された貴族や官吏、あるいは地元の豪族である。名文の『常陸國風土記』などは、当時国府に在官していた万葉歌人、高橋虫麻呂や藤原宇合(うまかい)が筆をとった可能性が強い。内容から見て養老二年(七一八)以前に成立していたと思われるから、五年以内に完成したことになる。
最も年数を要したのは『出雲國風土記』のようで、官命が下ってから二十年後の天平五年(七三三)に完成した。このことから、一時は偽書説も出たほどで、現在でもこの書物が和銅の官命に従って作成されたものではない、という見解がある。
それはともかく、和銅六年の時点で日本は六十二か国三島となっているが、現在残っている『風土記』は、播磨・常陸・肥前・豊後・出雲の五冊にすぎず、しかも完本は『出雲國風土記』だけである。ほかに鎌倉時代の書物などに引用されたものをかき集めると、ようやく四十九か国分が得られるが、同時代に成立した中央勢力の修史(『古事記』『日本書紀』)が尊重され,たのとくらべれば、大変な相違といえよう。最近の説では、当時の地方行政の能力では編纂が不可能で、未提出の国もかなりあったのではないかといわれる。
『風土記』が地方行政にどれだけ役に立ったかは明らかではない。当時としては唯一の地誌でもあり、重宝がられたことは想像されるが、体系立てて保存するということをしなかったため、平安時代には中央の役人の手元にも無くなっていたと見える。延長三年(九二五)には太政官の命令として、「聞くところによると、諸国風土記の文があるというが、各地の行政責任者に命じて勧進させよ。もし失われていれば、古老に尋ねて早急に言上せよ」という意味の官符が出ている。ということは、現在伝わる各『風土記』のいずれかは、この時代になってから“勧進”された可能性もあることになる。
現在伝わる最古の写本は、平安後期のものとされる『播磨風土記』(天理図書館蔵)で、幕末に公卿(三条西家)の書庫から掘り出され、明治二十年にはじめて内容が公にされた。現在は国宝に指定されている。巻初の総説と明石・赤穂の章が欠けているが、ほかは保存良好である。紙高(幅)二八cm、全長八メートル六センチの巻子本となっている。ほかに、天理図書館には『豊後風土記』の永仁奥書本があり、これも近世以前の伝本とされている。
大らかで素朴な古代人の心を伝えた『風土記』は、長かりし歳月の間に多くの巻が散迭したが、失われたものはそれだけであったろうか。書物の運命とともに、人の心の移り変わりにも思いをはせるのである。
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参考資料]風土記撰進の命が諸国の国司に命ぜられたのは、奈良時代初期、和銅六年(713年)である。「續日本紀」によれば元明天皇和銅六年五月の条に、
「畿内七道諸国ノ郡郷ハ好キ字ヲ着ケヨ。其ノ郡内ニ生スル所ノ。銀銅彩色草木禽獣魚虫等ノ物ハ。具ニ色目ヲ録セシム。及ヒ土地・・・(中略)・・・山川原野ノ名号所由。又古老ノ相傳旧聞異事ハ。史籍ニ載セテ。言上云々。」
即ち元明天皇の制として、以下の事を指示している。
畿内七道諸国の郡名、郷名に好字をつけること。
郡内に生ずる銀、銅、彩色、草木、禽獣、魚虫等の色目を記すこと。
土地の肥沃の程度を記すこと。
山川、原野の名前の由来を記すこと。
古老が伝える旧聞異事を記すこと。
この命により、諸国は風土記編纂の作業に着手する事となる。
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現存する風土記は、和銅に次ぐ養老の撰進とされる常陸、播磨。天平五年の出雲。天平にやや遅れて豊後の五国の風土記がまとまった形で伝えられている。
しかし、完本に近いものは「出雲國風土記」のみで、他の四国については略本、或は多くの欠落が見られる。他の諸国については、諸書に引用された数十国の断片的な逸文を残すのみである。
また、撰進の時期も国によって約二十年もの開きがみられる。
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風土記撰進の命は、朝廷が地方支配の参考とする事を意図したものと考えて差し支えないと思われるが、加えて諸国の土着勢力に伝わる古伝にも注目しようとしていた事が窺える。
この当時、諸国では朝廷から派遣された国司が、その地方において強大な権限を持つに至っており、又、国司のもとでその地で大きな影響力を持ち、中央とのつながりを求める土着豪族も多く存在していた。
このような中で、朝廷は地方政治を確実に把握する為、太政官を中心として、国司の順行制や中央による郡稲の統制等、諸国を監督する機能の強化を狙った政策を行っていた。それは国司にとっては、自身の持つ権限の制限を意味するもので、あまり歓迎できるものではなかったであろう。
風土記撰進の命は、このような複雑な政治背景と密接に関係しているといってもよい。従って国司の元で編纂され提出された風土記は、その形式と共に、内容も政治的な意図を非常に色濃く含んだ「公文書」であったと考えられるのである。
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資料収攬
http://www.netlaputa.ne.jp/~house/shiryou/kod/sisho/ko-sisho.htm古語検索
http://www2u.biglobe.ne.jp/~koiduka/linksiry.html地図検索
http://www.nifty.ne.jp/forum/fzenf/kantou/ibaraki/ibarak01_06.htmlhttp://www.bokuden.or.jp/~kashimaj/basoibar.htm
国語資料研究
http://www2.justnet.ne.jp/~syasunari/setuwa1.htm〔古代説話研究〕http://infoshako.sk.tsukuba.ac.jp/information/Students/WWW97/5/gogen.html
http://www.os.xaxon.ne.jp/~sinkodai/jfuruta/section/sec023.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~roy/iniha.htm
肥前國風土記
http://www3.alpha-net.ne.jp/users/gens/HIZEN.HTM出雲國風土記
http://www.kusa.ac.jp/~kenji-y/history/izumofudoki.htmlhttp://www.pref.shimane.jp/section/fudoki/index.html
http://www3.alpha-net.ne.jp/users/gens/IZMNAME1.HTM
http://www3.alpha-net.ne.jp/users/gens/izmname2.htm
播磨國風土記
http://www.bepro.co.jp/f_site/ken-gai/rekisi/30-35.htm