2002.04.18更新

桜の板木は残った『群書類従』

遺産を守る執念。ヘレン・ケラーも感激。見えぬ眼に富士を思う

遺産を守る執念

 東京の渋谷区東二丁目、青山学院や国学院大学など八校が集中している学園街の一角に、古めかしい二階建て千三百平方メートルほどのがっしりしたビルがある。社団法人・温故学会という。

昭和二年七月、清水建設により工費六万円で建てられたこのビルは、当時としては珍しい耐震耐火構造であった。現に戦時中、付近一帯が焼夷弾の雨に見舞われ、丸焼けになったときも、このビルだけは無事であった。窓に施された頑丈な鉄扉が、すべてハネ返してしまい、みごとに百数十年前の文化遺産を守りおおせたのである。

 いまその遺産は重要文化財に指定され、百三十坪余りの倉庫に保存されている。最新式の火災受信機がとりつけられ、いかなる猛火も十二本のガスボンベから噴射される炭酸ガスにより、たちどころに消されてしまう。この費用、三百万円。ほかに虫害を防ぐため、年に一回メチブロン・ガスによる薫蒸も行われている。これほどまでにして守らねばならぬ文化遺産とは、いったい何か話は明治四十二年(一九〇九)に遡る。

国文学者で医者としても知られた井上通泰は、この年の夏、麹町区竹平町の文部省に通っていたが、ある日建物の裏手に古い土蔵があるのに気づいた。人力車夫が酷暑を避けて、軒下に寝ころんでいたが、なにしろその土蔵たるや、いまにも倒壊しそうなしろものである。こんな危ないものを、と思った彼は、傍らの役人に「いったい何が入っているのか」と訊ねてみた。役人はこともなげに答えた。

「ああ、あれは『群書類従』の板木が入っているんですよ」

井上は仰天した。『群書類従』といえば、盲目の学者塙保己一が、安永八年(一七七九)に刊行を企画していらい、じつに四十余年間にわたって六百数十冊を刊行した、日本最大の古典籍叢書である。その板木が明治初年のどさくさで行方不明となり、ながらく探しあぐねていたのだが、こんなところに放置され、いまや朽ち果てようとしているとは・・・・・・。

彼は早速、このことを保己一の曽孫忠雄に知らせた。父祖の遺業顕彰に志を抱いていた忠雄は、すでに渋沢栄一ほか名士を賛助会員とした温故会(のちに温故学会)を組織していたが、板木発見の報に雀躍し、所有者である帝国大学に“下付”を申請した。

ヘレン・ケラーも感激

 このときの帝大の回答は、「下付はならぬが、堅牢なる倉庫をつくれば保管を嘱託する」というのであった。いかにもお役所式ではあるが、忠雄は二つ返事で四谷愛染院の境内に煉瓦造りの倉庫を建て、大正十二年(一九二三)に東大から板木を下げ渡してもらった。

 一口に板木というが、その数は一万七千二百四十四枚。吉野から切り出して来たという極上質の桜材で、大きさ四二.五×二一.六センチ、厚さ二.二センチ。大部分が表裏両面に掘られている。いまこの字を彫刻すると、一字あたり千円以上につくという。

 それはともかく、煉瓦建ての倉庫の中には刷立所が設けられ、復刊作業が開始された。全六百六十六冊、総丁数三万三千八百三十一丁。大正元年の頒布価は二百六十円だった。

 忠雄は関東大震災後まもなく、板木をもっと安全なところに移すよう遺言して亡くなった。その意を体した門人の斉藤茂三郎は、不眠不休の努力をつづけ、現在位置に鉄筋のビルを建てた。いらい約半世紀、四谷の元倉庫は戦災で消失したが、渋谷の“群書類従ビル”は微動だにもせず、先人の遺産を守りつづけている。黒々とした板木が並ぶ倉庫内は、薄暗くひんやりしているが、学問に生命を賭した盲人学者の情念と、それを支持した多くの人々の熱気が伝わってくるような気がする。昭和十五年、ここを訪れたヘレン・ケラーは、板木の一枚一枚をいとしそうに撫でながら、「私は塙保己一の生き方に、どれほど励まされたか知れない」と語ったという。保己一という人は超人である。じっさい私はふしぎでならないのだが、全盲の人がどのようにして何万冊という書物を咀嚼消化し、体系づけ、学問的な校訂作業まで行うことができたのだろうか。このことは、多くの史家にもよくわからないようである。

 武蔵国児玉郡(現在埼玉県児玉郡児玉町)の旧家に生れた保己一は、七歳のとき“肝の病”で失明し、十五歳のとき江戸へ出て雨富検校須賀一の門に入り、按摩や鍼術を習ったがこの方面には全く才能が無く、一時は自殺を決意したほどである。このとき検校は保己一の学問好きを見抜いて、学者に紹介したり、検校を気遣って保養の旅に出したり、盲人の官位を得るための式援助を行ったりした。保己一の生涯最大の恩人は、この雨富検校である。かくて盲人の一つの位である勾当に進んだ保己一は、安永八年、三十四歳のとき、諸所に散在する典籍をまとめて板木の叢書があるが、わが国では初めてであるし、千二百種以上の書目を収めるいうのは前例がない。

 当時の彼は、すでに学者としての名も高く、友人や門人も集まっていた。好学者の蔵書にふれる機会も多くなった。四年後のには検校の地位に進み、水戸藩の『大日本史』の校正を依頼されるなど、学問的事業をおこすに有利な条件が整ってきた。

見えぬ眼に富士を思う

 寛政五年(一七九三)には和学講談所と言う、一種の教育機関を設け、叢書刊行の拠点とした。幕府も文教政策の上から、保己一の事業に援助を与えた。人脈ができれば金脈もつくられる。しかし、保己一の場合はその金をすべて学問のためにつぎこんだ。

 彼の協力者としては、大田南畝や屋代弘賢らが知られているが、ほかに板木師や刷立師まで加えれば膨大な数になろう。板木彫刻代だけで五千六百両を費やしたという。このため、鴻池その他の商人からも多額の借金をするなど、“経営者”としての苦労も並大抵のものではなかった。

 文政二年(一八一九)、ついに全冊刊行を成しとげた彼は、息つくひまもなく『続群書類従』の計画を打ちだしたが、病を得て二年後に逝去した。享年七十六歳。ちなみにこの続篇は、明治年間に活字本として公刊が企てられ、いったん中絶ののち昭和五年に完成した。

 『群書類従』は、全体が二十五の部門に分かれている。神祗、帝王、補任、系譜、伝、官職、律令、公事、装束、文筆、消息、和歌、連歌、物語、日記、紀行、管絃、蹴鞠、鷹、遊戯、飲食、合戦、武家、釈歌、雑の各部で、なかには『神皇正統記』『懐風藻』『伊勢物語』『和泉式部日記』『将門記』などの一般的な名著も含まれているが、それより散佚しやすい小冊文献を多数収録している点が貴重であり、今日なお学者、研究者を裨益している。

 各冊共通の造本で、薄茶の布目表紙、本文は美濃大判で、二六.四×一七.五センチ。温故学会ではこの初版本と同じものを今なお作成している。用紙は埼玉県比企郡小川町で漉いたものを用い、造本は宮内庁書陵部技師に依頼している。問題は刷立だ。一人の刷立師が、三万余丁をコツコツ刷っていくのだから、全部を終えるのに三年もかかるという。むろん、常時在庫を置いているが、全巻六百六十六冊(うち目録一冊)揃いで百八十万九千四百円にもなるので、部門別ないしは一冊ごとの注文が多いようだ。保己一の生存当時から現在までの刷立部数は、三十三万六千冊を超える。近世の書物が、原板木を用いて復刊されている例はほかにない。

 塙保己一という人は、その業績を知れば知るほどに大きさがわかるのだが、次のような歌を読むとホロリとさせられる。

 言の葉のおよばぬ身にには目に見ぬもなかなかよしや雪のふじの根

 何事も見えぬになれてなげかねどふじとし聞けば涙こぼるゝ

 

★塙保己一の偉業伝える温故学会★

 昭和十二年四月、横浜港に着いたヘレン・ケラー女史が日本で最初に訪問したのが東京・渋谷の温故学会(渋谷区東二の九の一)だった。

 盲・聾・唖の三重苦を克服して身体障害者の福祉事業に専念したケラーさんが敬愛していたのが、日本の塙保己一だった。その保己一が江戸時代後期に精魂傾けて完成した『群書類從』六百六十五冊の版木をそっくり保存しているのが温故学会である。ケラーさんが版木や保己一の像を自らの手で確かめながら、念願の"対面"をしている写真が同学会に残っている。

 保己一は延享三年(一七四六)五月五日、武蔵国の保木野村(現・埼玉県児玉町)の由緒ある農家の長男に生まれた。七歳のとき、病気で失明したが、一度読み聞かされた書物の内容をすべて覚えてしまうという抜群の記憶力を持ち、十五歳の夏、父の許しを得て江戸へ出て、学問で身を立てようと考えた。

 保己一には謙虚な人柄と無類の記憶力があったが、盲人が社会的に能力を認められるのは容易なことではなく、十六歳のとき九段の牛が淵に身投げしようとしたともいう。しかし、師の雨富検校の理解があって次第に学問で頭角を現し、老中松平定信など幕閣、諸大名や有識者のあいだに多くの後援者を得た。

 寛政五年(一七九三)、番町(千代田区)に日本の古典を研究教育する和学講談所を開設する。同時に、古典の散逸を防ぐため文献の蒐集と校訂に努め『群書類從』としてつぎつぎに出版した。この施設が現在の東京大学史料編纂所の源流になっている。

 その版木は実に一万七千二百四十四枚(重要文化財)。子孫や門人たちの努力で維新や震災のなかを無事くぐり抜け、昭和二年現在地に建設されたコンクリート造の温故学会に収められた。

         →参考HP〈http://www.taisei.co.jp/cmtime/column/tower/2000/1012.html

★井上通泰★

 松岡操の子、12才の時に医師井上家の養子。柳田国男・松岡映丘(10-1-13-19)の兄。号を南天荘。東大卒業後、岡山医専教授となったが、1902(M35)辞職して東京で開業。また早くから和歌を学び、香川景樹に私淑した。07宮内省御歌所寄人。20(T9)宮内顧問官。晩年は爾来国文・国史、とくに「万葉集」「風土記」の研究に没頭した。

       →参考HP 〈http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/inoue_mi.html

★塙保己一★

 1746年(延享3)、現在の埼玉県に生まれる。7歳のとき失明するが、並みはずれた記憶力をもち、日本最大の文献資料集『群書類従』を編纂。のちに盲人の最高位である総検校(けんぎょう)になった。1821年(文政4)没。

       →参考HP〈http://www.honco.net/japanese/01/caption/caption-4-07-j.html

★大田南畝★

 江戸時代後期の狂歌・狂詩・洒落本作家。狂歌師として四方赤良・寝惚先生・蜀山人などの戯号あり。洒落本・黄表紙の作者でもある。著書に「万載狂歌集」「千紫万紅」「四方のあか」「戯言八百万八伝」などがある。

       →参考HP〈http://www.246.ne.jp/~hiro-1/nihon/kinsei/008.htm

まとめ:入澤 由梨子