2001.10.16
25、
『十六夜日記』老母の執念。[140頁]。中世⇒
「尼僧の長旅」「正室と側室の暗闘」「旅の歌日記を集成」「
尼僧の長旅」東海道が、重要な交通路としてクローズアップされたのは鎌倉時代である。理由はいうまでもない。京都と鎌倉に分かれて公武二つの勢力が並立したからで、両者を結ぶ東海道はたちまち人の往来が繁(しげ)くなった。宿駅の数も四十七ヶ所に増え、飛脚の制も整えられた。
京から東海道を下るには、まず近江(おうみ)廻り、伊勢廻りのいずれかを選ぶ。東入りには、嶮(けわ)しいが近道の箱根を越えるか、比較的楽な足柄山へ迂回するかの選択にせまられる。当時書かれた紀行のうち、『海道記』(鎌倉前期)は、伊勢路と足柄山を経由して、行程百三十里(約五百十q)に十五日間を費やしている。やや下って『東関紀行』(一二四〇年代)と『十六夜日記』(一二七九年頃)は、近江路と箱根を通る百二十五里を、十四、五日で踏破している。これが標準的な速度であったようで、昼夜兼行の早馬で三日間というのは、きわめて極端な例外でしかない。
宿駅は増えたといっても設備は貧しく、戦乱の際には兵舎に一変する。雨が降れば陸路は泥濘と化し、川は増水して渡し舟も出ない。山中には盗賊が出没するというわけで、一般人はよほどの用事でもないかぎり東海道を全行程歩くということはなかった。しかし、『海道記』の作者は、出家遁世の目的で人生観照的な旅を試み、『東関紀行』の作者にいたっては、一個の風流人として旅情を楽しんでいる。旅に対するこのような意識は、少なくとも中世にあってはきわめて珍しい.。
『十六夜日記』の作者となると、さし迫った用件を持っていたのは確かだが、女人であるという点、それも五十歳代の半ばをこえているところが変わっている。駕籠(かご)はまだないころだから、馬または徒歩である。当時の絵巻物で女人の旅装を見ると、長い衣をはしょりにして中結びにし、足には金剛草履を履いているが、全体の印象は、いかにも非活動的で、とても長旅には耐えられそうもない。深い市女笠(いちめがさ)で顔を隠したり、あるいは、衣(きぬ)を頭から被(かず)いたり〔衣かずき〕、からげた裾(すそ)から長い髪のはしを覗かせたり――これらはファッション的要素が強く、あまり機能的でない。
さいわいなことに、作者はこのように煩わしい旅装束とは無縁であった。
阿仏尼(あぶつに)という名のとおり、尼さんだった彼女は、簡素な僧衣姿で鎌倉への道をたどったのである。「
正室と側室の暗闘」いまどきの若者は、孝行ということを知らない――と、現代の作者ならズバリ書き始める。王朝文学を教養として育った阿仏尼のような女人になると、もう少し、遠まわしな物言いになる。「むかし、かべのなかより、もとめいでたりけんふみの名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身のうへのこととは、しらざりけりな」
壁のなかから出た文というのは『孝経』のことで、武帝のとき孔子旧宅の壁のなかから発見されたという言い伝えがある。要するに、孝の道ということを、いまの若者は知らぬものと見えるという意味だが、のっけからの批難が何者を対象にしているのか、阿仏尼の経歴から見ていくのが筋道だろう。
彼女の本名および生年は不詳。養父は下級官吏だった。すこぶる気の強い、情熱的な性格だったと見え、若いときに高貴な公卿との恋に破れて髪を切り、大雨のなかを西山のある尼の家にころげこんだという話しもある。通称、
安嘉門院四条というのは、守貞親王の王女安嘉門院の御所に出仕していたからである。ともあれ、失恋が原因なのか仏門に入った彼女は、およそそのような抹香臭い世界とは無縁の存在だった。歌才を発揮して、
為家に接近したのは三十歳前後と推定される。為家は一代の歌人定家の子で、『続古今和歌集』を撰進した人物だが、当時五十五歳ほどになっていた。熱烈な歌の応酬のすえ、彼女は為家の側室となり、三人の子をなす。同時に歌界への発言力を獲得した彼女は、子どもたちに家の正統を継がせるよう画策した。
歌だけでは生活できない。貴族の生活源は荘園にあった。定家・為家一族の場合は、播磨国の細川荘である。最初為家は、この地を正妻の嫡男為氏(ためうじ)に譲ったが、「不孝あり」という口実で取り戻し、阿仏との間に生まれた子の一人
為相(ためすけ)に与えた。それが原因で、正妻側と側室側のたがいに面子(メンツ)と生活を賭した暗闘がはじまった。京での裁判はいっこう決着がつかない。業をにやした彼女は、直接鎌倉幕府に直訴すべく、実子の一人を伴って鎌倉に下った。冒頭に彼女がいう「不孝者」とは為氏のことであり、本書はその鎌倉下向の旅を歌日記風に綴(つづ)ったものである。
出立つの日は、おそらく弘安二年(一二七九)で、十月十六日というのは文中に明記されている。陰暦の十六日は「
いさよい」であり、その頃は「いさよひ」と称した。ためらいという意味で、月がためらいがちに遅れて出る状態をいう。めぐりあふ末をぞ頼むゆくりなく空にうかれし十六夜の月
旅も不安だが、訴訟の成否も不安である。空に浮かれ出た十六夜の月のように、そそくさと旅に出る私は、ただ子どもたちに再会できる日のみをあてにしている、というのである。さらに、子どもたちに与えたうたとして、
つく\〃/と空なながめそ戀しくは道遠くともはや歸りこむ
ぼんやりと空ばかり眺(なが)めているのではないのですよ、母のことを恋しいと思ってくれるというのは、道がどんな遠くともすぐに帰りましょうというものです――。教訓めいているが、母親の心情がこもる。
「
旅の歌日記を集成」旅の第一日から雨に降られる。どうも幸先のよいスタートではない。
うちしぐれ古郷思ふ袖ぬれて行先遠き野路の篠原
野路は近江国栗太(くりた)郡である。このような陰鬱な旅の情緒に支配されながらも、彼女はひたすら我が子の栄達を思って心を励ます。
我ことも君につかへんためならで渡らましやはせきの藤川
美濃の不破関の藤川である。我が子の出世のためでもなけりゃ、こんな川は渡ることもない……。
京、鎌倉二週間の旅といえば、女人の脚では早朝出立を心がけなければならない。十月二十二日の早朝は、まだありあけの月が出ていたので、それに託して、
すみわびて月の都を出しかどうき身はなれぬ有明の影
箱根路も夜越えた。前途への思いで、足がだるっこくてならない心境。
玉くしげ箱根の山をいそげども猶明がたき横雲の空
「玉くしげ」は、箱の枕ことば、「明け」は、箱根の縁語なのだそうだ。このようなさいにも技巧的な歌をつくってしまうところが、阿仏尼の限界といえる。
『十六夜日記』は、後半鎌倉滞在中の手記と、訴訟の成功を祈る長歌
長歌
しき嶋や やまとの國は あめつちの ひらけ初し
むかしより 岩戸を明て おもしろき かぐらのことば
うたひてし さればかしこき ためしとて ひじりの御世の
みちしるく 人のこゝろを たねとして 萬のわざを
ことのはに おに神までも あはれとて 八嶋の外の
よつのうみ 波もしづかに をさまりて 空ふく風も
やはらかに 枝もならさず ふるあめも 時さだまれば
きみ\〃/の みことのまゝに したがひて わかの浦路の
もしほぐさ かきあつめたる あとおほく それが中にも
名をとめて 三代までつぎし 人のこの 親のとりわき
ゆづりてし そのまことをば もちながら 思へばいやし
しなのなる そのはゝきゞの そのはらに たねをまきたる
とがとてや 世にもつかへよ いけるよの 身をたすけよと
契りおく すまとあかしの つゞきなる ほそ川山の
山川の わづかにいのち かけひとて つたひし水の
みなかみも せきとめられて いまはたゞ くがにあがれる
いをのごと かぢをたえたる ふねのごと よるかたもなく
わびはつる こを思ふとて よるのつる なく\/宮こ
いでしかど 身はかずならず かまくらの 世のまつりごと
しげければ きこえあげてし ことの葉も 枝にこもりて
むめの花 よとせの春に なりにけり 行衞もしらぬ
なかぞらの 風にまかする ふるさとは 軒端もあれて
さゝがにの いかさまにかは なりぬらん 世々の跡ある
玉づさも さて朽はてば あしはらの 道もすたれて
いかならん 是をおもへば わたくしの なげきのみかは
世のためも つらきためしと なりぬべし 行さきかけて
さま\〃/に かきのこされし ふでの跡 かへす\〃/も
いつはりと おもはましかば ことわりを たゞすの森も
ゆふしでに やよやいさゝか かけてとへ みだりがはしき
すゑの世に あさはあとなく なりぬとか いさめおきしを
わすれずは ゆがめることも またたれか 引なほすべき
とばかりに 身をかへりみず たのむぞよ その世をきけば
さてもさは のこるよもぎと かこちてし 人のなさけも
かゝりけり おなじはりまの さかひとて 一つながれを
くみしかば 野中の清水 よどむとも もとの心に
まかせつゝ とゞこほりなき 水ぐきの 跡さへあらば
いとゞまた つるが岡べの 朝日かげ 八千代の光
さしそへて あきらけき世の なほもさかへん
ながかれと朝夕いのる君が代をやまとこと葉にけふそのべつる
で終わっている。もとから一冊の本として成ったのではなく、旅先から折にふれて書き送ったものが、一族の手で集成された。書名も後人の作であろう。写本は多く現存しており、
内閣文庫、天理図書館その他があるが、国会図書館にも一本が知られている。手ずれのした白表紙、左上に「『いさよひ乃日記』、上下合綴」とあり、縦二四,〇p×横一七,〇p、三十八丁である。同館には、万治二年の刊本もあり、上下二分冊、青表紙、縦二二,二p×横一五,五p、計二十九丁、挿絵(さしえ)四葉である。研究上重要なのは九条家旧蔵本で、標題を『阿仏記』といい、いま天理図書館にある。『十六夜日記』の奥書には、後人の手で、為氏も陳情のため、鎌倉へ赴いたが阿仏とともにその地で死去したとある。これは誤りで、阿仏は四年間待ちぼうけを食わされたうえ、失意を抱いて京に戻り、間もなく没したというのが真相のようだ。幕府が裁断を下さなかったのは、弘安の役で多忙だったためとか、評議所に為氏側の縁者がいたためとか言われている。係争は、その後も長く続き、けっきょく阿仏の子孫に有利な判決が下ったが、それはなんと三十年の後であった。
《
連関資料》テキストデータ『
十六夜日記』細川家永青文庫藏本を底本に翻字入力。阿仏
の著作には、他に『夜の鶴』『うたたねの記』が知られている。『十六夜日記』の写本一覧
所蔵 |
題簽 |
冊数 |
墨付 |
閲覧 |
細川家永青文庫藏本 |
いさよひの日記 |
一冊 |
三十九丁 |
笠間索引叢刊7 |
細川家永青文庫藏本 |
不知夜記 |
一冊 |
四十三丁 |
|
十六夜日記残月鈔本 |
三冊 |
|||
群書類従所収本 |
いさよひの日記 |
|||
内閣文庫藏本 |
十六夜日記 |
一冊 |
三十丁 |
|
島原侯松平文庫藏本 |
十六夜記 |
一冊 |
三十丁 |
|
天理図書館藏九条家旧藏本 |
阿仏記 |
一冊 |
五十九丁 |
岩波文庫 |
広島大学藏(甲)本 寛永十八年写本 |
一冊 |
三十五丁 |
||
万治二年板本 |
いさよひの日記 |
二冊 |
四十九丁 |
|
学習院大学藏本 |
不知夜日記 |
一冊 |
四十九丁 |
|
天理図書館藏 竹柏園藏本 |
いさよひの日記 |
一冊 |
三十一丁 |
|
静嘉堂文庫藏 古活字本 |
いさよひの日記 |
一冊 |
三十四丁 |
|
静嘉堂文庫藏 松井簡治旧藏本 |
伊佐霄記 |
一冊 |
三十九丁 |
|
東京大学藏 伝池田光政筆本 |
阿仏十六夜日記 |
一冊 |
二十二丁 |
|
慶応義塾藏本 |
以佐霄能記 |
一冊 |
三十四丁 |
|
宮内庁書陵部藏 伏見宮本 |
かへのうち |
一冊 |
三十三丁 |
|
内閣文庫藏本 |
不知夜記 |
一冊 |
三十七丁 |
|
静嘉堂文庫藏 松井簡治旧藏本・鈴木弘恭自筆書入本 |
阿仏房紀行 |
一冊 |
四十丁 |
|
扶桑拾葉集十二所収本 |
いさよひの日記 |
三十三丁 |
||
宮内庁書陵部藏本 |
いさよひ日記 |
一冊 |
四十二丁 |
|
宮内庁書陵部藏本 鷹司(甲)本 |
不知霄之記 |
|||
宮内庁書陵部藏本 鷹司(乙)本 |
いさよひの記 |
三十丁 |
||
尊経閣文庫藏 中院通勝筆本 |
一卷 |
|||
広島大学藏(乙)本 |
いさよひの記 |
一冊 |
||
長崎県立図書館藏 三宅文庫本 |
十六夜日記 |
一冊 |
二十八丁 |
|
宮内庁書陵部藏本 黒川本 |
異本十六夜日記 |
一冊 |
三十四丁 |
|
岡山大学藏 池田文庫本 |
いさよひのにつき |
一冊 |
四十六丁 |
|
天理図書館藏 竹柏園旧藏本 |
道の記 |
一冊 |
三十九丁 |
|
天理図書館藏 平瀬本 |
十六夜日記 |
一冊 |
三十七丁 |