2002.01.09更新

恋多き女『和泉式部日記』

―噂の女流歌人ふれなば落ちん。三系統ある写本

 噂の女流歌人

和泉式部は、その美貌と歌才と、奔放な男性関係によって、貴族社会のみならず庶民からも注目の的とされていたようである。

大鏡には、彼女が敦道親王の側室として車に同乗し、賀茂祭の斎院帰還(賀茂神社に奉仕した皇女の帰還)を見物する場面が語られている。親王は車の前の簾を真ん中から縦に割り、自分の側は高く巻き上げ、式部のほうの簾はおろして、その下から彼女の衣の袖口を長々と引き出させ、紅の袴に赤い色紙でつくった「物忌」の札をくっつけ、地面に垂れんばかりに下げさせていたので、人々は斎院の行列などよりもこのほうにばかり目を奪われていたという。

もっとも平安朝の女性が、簾や几帳というベールの蔭に隠れて容易に姿を見せず、ただ衣の先だけを覗かせるというチラリズムによっておのれの美的感覚を誇示するというのは、ごく一般的な風習であった。したがって、ここでは敦道親王の、人を食った振舞いこそ問題にされるべきだが、やはりその相手が噂の女というわけで、効果が増幅されてしまっている。

同様な増幅効果は、彼女の死後の伝説にも現れる。奔放な女、歌の巧みな女としての名声ないし悪名は、むしろ生前よりも高く、彼女の生誕地と称するところだけでも、南は佐賀県の杵島郡から北は岩手県の和賀郡に至るまで、各地に散在している。宮崎県には和泉式部が瘡を病んだとき、薬師如来に平癒を祈って歌を詠んだところ、たちどころに霊験があらわれたという伝説があるし、滋賀県には彼女が隠棲中の猿丸太夫(百人一首「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の……」の作者)を歌競べの目的で訪問したが、途中で小童の秀句を聞いて引返した、という説話がのこっている。

セックスに関する伝説では、彼女がある男との間に生まれた子を捨てたところ、長じて道命阿砂梨という名僧となる。これを知らずに彼女は契りをこめるが、僧の素性を知って世をはかなみ、尼となって歌を残す。これはお伽草子にまでなっているが、徳島県の清少納言伝説(清少納言が鳴門で漁師に犯されそうになり、拒んで殺害されたうえ局部をくりぬかれたが、いらいこの地方の海には「貽貝」を産するようになった)に似て、いささか無責任かつ興味本位の伝説といえそうだ。

 ふれなば落ちん

「夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮すほどに、四月十余日にもなりぬれば、木のした暗がりもてゆく(木下闇の濃い季節となった)」

長保五年(1003)のことである。式部は前年の六月に亡くなった情人である、冷泉院の皇子為尊親王への追慕に明け暮れていた。土塀の上に生いでた草の青やかなるのを見ても、余人は知らず、わが身には懐かしい思い出のよすがである。

と、そのとき透坦ごしに人の気配がしたので、だれかと思ってみると、亡き親王が召し使っていた童であった。呼びいれて尋ねてみると、いまは親王の弟帥の宮、すなわち敦道親王に仕えているという。さらに童は橘の花をさし出し、主人が「これもて参りて、いかが見給ふとて奉まつらせよ」と言ったと伝える。

敦道親王は、兄の艶麗な愛人を見て、日ごろひそかに羨んでいたのであろう。喪があけ、十月経過するのを待って、モーションをかけてきたのだ。

  さつき待つ花橘の香をかげばむかしの人の袖の香りぞする(『古今集』読み人知らず)

亡き兄の思いにばかり浸っていらっしゃるのですが、という遠まわしなナゾである。当時はこのような時に、女としての資性が試されるのだから、彼女とても思案のしどころである。口伝えに返事をするのも失礼だし、相手は直接色めいたことを言ってよこしたのではない。そこで、歌を一首与える。

 かほる香りによそふるよりはほととぎす聞かばやおなじ声やしたると

橘の香りなどで亡き人を偲ぶよりも、ほととぎすの鳴き声のように、あなたの声に接したい……。さりげない儀礼の歌だが、その底には生身の女の主張、ふれなば落ちんという息づかいが秘められている。

しかし、これは運命の歌となった。恋多き女が、その生涯に最も激しい思いを抱いた男との交渉のきっかけとなったのである。「もとも心ふかからぬ人にて、慣らはぬつれづれのわりなくぼゆるに(自分は分別のない人間で、慣れぬ退屈をもて余していたところなので)」と動機を語っているが、敦道親王が美男の誉れ高く、貴い身分であることも彼女の心を動かしたに相違ない。

歌のやりとりが始まり、彼女は一夜訪れた親王に肌を許すが、その後の二人の仲は一進一退。親王は周囲から制止されるし、あらぬ噂も耳に入り、足が遠のくこともあった。女は必死に弁明の歌を贈り、そのあいだに真実の愛情を自覚していく。

月の明るい夜、男の車に迎えられ、人気のない家で夜明けまで逢瀬を楽しむ場面は、いかにも平安朝の恋物語らしい情緒に溢れている。曙の中で見た男の姿が懐かしく、彼女は後朝の歌を詠む。

 よひごとに帰はすともいかでなをあかつきおきを君にせさせじ 

けさの別れの苦しさ。もう宵のうちにお帰しすることはあっても、あけがたにお帰しすることはしまいと決心しました、というのである。

 三系統ある写本

 ときに親王は二十三歳。あらゆる障害を乗りこえて式部を側室とし、正室のいる北の御殿へ移してしまう。その妃の宮の嫉妬を描いて、この日記はぷっつりと終わっている。

 和泉式部は、冷泉院皇后に仕えた大江雅致という役人の女であり、のちに陸奥守となった橘道貞と結婚して一子をもうけるが、為尊・敦道両親王との情事を機に夫とは離別してしまう。日記には、敦道親王との交渉があったころ、すでに独居の身であったらしいことが窺われる。 

 ほかにも男があったというが、美貌で当代屈指の女流歌人ともなれば、世間なみの物差しをあてはめることはむりであろう。日記にはそうした世間の評価とは異なる、孤独で内省癖の強い、つねに愛情に飢えている女性の姿が浮きぼりにされている。家庭的な女性でなかったのはたしかだが、妖婦とか娼婦とかいった表現はあたらない。

 『大鏡』にあらわれた賀茂祭のいきさつは、親王と出会って二年目、側室となってからであり、生涯の絶頂期であったろう。だが、それは必ずしも恋愛の絶頂期というのではあるまい。世事と関わる結婚生活の中では、純粋な情熱は維持しがたい。幸か不幸か敦道親王は四年後の寛弘四年(1007)、二十七歳で亡くなり、彼女は“曙の君”のイメージ・ダウンを見ずしてすんだ。敦道親王の死を契機に執筆されたと思われる日記は、彼との“忍ぶ恋”の時期のみを描いて、結婚生活の部分は切り捨てている。欠本ではないかと疑う向きもあるが、それは式部のような女性の性格を理解しえない者であろう。

和泉式部日記は『和泉式部物語』ともいい、主語が「我」ではなく「女」という三人称になっているところから、式部自身の作でないという説もあるが、これも木を見て森を見ない論議というべきだ。写本には三つの系統がある。宮内庁陵部に伝わる三条西家本、天理図書館ほかに所蔵されている寛元本、京大研究室ほかに伝わる応永本である。応永本系統の一書(吉田幸一所蔵)は、書写年代が寛永・寛文ごろ、大きさ27?20センチ、表紙は薄緑色の厚紙、題せんは左上に小さく『和泉式部物語』とあり、本文用紙は雁皮紙と楮紙の交漉きで、全五十三丁である。

式部の作品は、ほかに歌集(千五百首弱)がある。敦道親王の死後、彼女は藤原道長に召されて中宮彰子に仕え、道長の家司藤原保昌に再婚し、丹波、大和など夫の任地をめぐり、十数年後離縁している。その後の消息はだれも知らない。

補遺注釈

敦道親王=思いがけない宮の使いに和泉式部と宮の恋愛が始まる。石山寺に篭った和泉式部に宮からの使いで一気に接近、宮は、身分が低い女への外出を咎められながら、和泉式部は宮屋敷に入る。自然描写と二人の心理が呼応した、きめ細やかな筆致。お兄さんとの恋愛そして、彼の死の直ぐ後に、こんなに恋愛が進むなんて、ちょっとライトすぎるかな?和歌はうまいですね。

和泉式部 大江雅致女。母は平保衡女で、昌子内親王の乳母である介内侍と言われるが疑問。
 貞元元(976)年ころの出生と考えられている。父母ともに昌子内親王に仕えていたことから、童女のころから昌子内親王の女房として内親王邸にて成長したものと思われる。
 はじめ橘道貞と結婚して一女小式部内侍を生んだが破綻、冷泉天皇皇子為尊親王、次いで弟の敦道親王と熱烈な恋愛をしたことは有名。両親王とも死別した後、道長女藤原彰子に仕え、紫式部や赤染衛門の同僚となる。30歳を過ぎて藤原保昌と再婚したが結局離婚したらしく、小式部内侍にも先立たれた。晩年の足跡は明らかでない。

和泉式部日記

和泉式部の小部屋

和泉式部 

和泉式部を中心に見た当時の年表

まとめ:810131佐藤 直子