2001.10.09

22 『金塊和歌集』無垢の歌[125頁]

中世⇒「非情な政治環境」「心の心を詠める」「山は裂け海はあせなむ」

非情な政治環境

 鎌倉三代将軍源実朝が、甥の公曉(くぎょう)に暗殺されたのは、建保七年(一二一九)正月二十七日の夜である。前年の十二月、右大臣に任命された彼は、その就任拝賀の式を鶴岡八幡宮で執り行ったのだが、これを千載一遇の好機としたのが、同宮の別当(僧官)阿闍梨(あじゃり)公曉であった。実朝の兄、源頼家(みなもとよりいえ)の子にあたる。

 当夜のもようを、翌年成立したとされる史書、慈円の『愚管抄』は、つぎのように即物的に伝えている。

「夜ニ入(いり)テ奉幣終(をはり)テ、寶前(ほうぜん)ノ石橋ヲクダリテ、扈從(こしよう)ノ公卿(くぎよう)列立シタル前ヲ揖()シテ、下襲(したがさねの)尻引(しりひき)テ笏(しやく)モチテユキケルヲ、法師ノケウサウ(行装=修行姿)・トキン(兜巾=頭巾)ト云物シタル、馳(はせ)カヽリテ下ガサネノ尻ノ上ニノボリテ、カシラヲ一(いち)ノカタナニハ切(きり)テ、タフレケレバ、頚(くび)ヲウチヲトシテ取(とり)テケリ。」

 一の太刀をあびせるとき、公曉は「ヲヤノ敵ハカクウツゾ」と叫んだという。彼につづいて三、四人、同じ扮装(ふんそう)の法師らが飛び出し、実朝の前駆をつとめていた側近の源仲章(なかあき)を殺した。主犯の公曉は討ち取った首を抱えて、幕府配下の武將三浦義村(よしむら)の屋敷へ走ったが、塀(へい)を乗り越えようとしたところで、義村の家来に討ち取られた。

 慈円はこの一件について、「ヲロカニ用心ナクテ、文(ぶん)ノ方アリケル實朝ハ、又大臣ノ大將ケガシテケリ。又(源氏正統の)跡モナクウセヌルナリケル」と、冷たく論評しているが、二十八歳の実朝は一連の権力争いの必然的な犠牲にすぎず、彼自身このような運命を予知していたと思われるふしもないではない。わずか十二歳で母親の政子および北条時政に擁立され、兄頼家にかわって将軍の地位についた彼は、それが北条一族の覇権(はけん)確立の一布石であることを知り得たわけもなく、ましてやその結果としての頼家の死(殺害といわれる)など、まったく関知しないところであったろう。しかし、やがて庇護(ひご)者であるはずの時政からも生命を狙われるという、非情な政治環境のなかで、彼は傀儡(かいらい)将軍としての命運を悟った。

 むろん、彼なりのあがきを示さなかったわけではない。大船を建造して渡宋(とそう)を企てたり、「貴種」としての血の確認のためか、栄達への異常な執念を見せたりした。

 そして、歌に寄せる執念は、操り人形にも生命があるということの証(あか)しだった。

心の心を詠める

箱根路をわれこえくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ

 高名な歌で、十国峠に歌碑が建っているほどだが、単に風景を詠んだものではない。生涯にたびたび行なった二所詣(もう)で〔箱根権現と伊豆権現〕のさいに詠じられたものだが、そもそも彼がこのように信仰にうちこんだ動機が、先に述べたような事情から発しているとすれば、神詣での途上で接した風景は、一つの心象風景でなければなるまい。小林秀雄氏は、そのエッセイ「実朝」(一九四三)のなかで、この歌を「大変悲しい歌」であるといい、さらに、「大きく開けた伊豆の海があり、そのなかに遙(はる)かに小さな島が見え、またそのなかに更に小さく白い波が寄せ、またその先きに自分の心の形が見えてくるといふ風に歌は動いてゐる。かういふ心に一物も貯へぬ秀抜な叙景が、自ら示す物の見え方といふものは、この作者の資質の内省と分析との動かし難い傾向を暗示してゐる様に思はれてならぬ」と鑑賞している。これ以上付け加えることはなさそうだ。

世の中は常にもがもな渚(なぎさ)こぎあまの小舟(をぶね)の綱手かなしも

「常にもがもな」は常住不変であって欲しいという意味。貧しい漁民の営みを見て、それにつけてもこの世は常住不変であって欲しいという感慨を抱いたのであろう。人によって受け取り方が、かなり異なる歌だが、解釈の根本は「かなし」にある。「愛(かな)しで、心に沁()むという意がある」という斉藤茂吉説をとろう。

世の中は鏡にうつる影にあれやあるにもあらず無きにもあらず

大乗の教義の中道観、すなわち有にも偏せず空にも偏せずという心を詠んだものである。ただし、このような歌をつくる作者が、どの程度成熟していたか、とらえにくいものがあるのは否めない。抹香臭ささがないのは、やはり、若さのせいであろう。昭和四年、佐々木信綱が発見した定家所伝本の奥書によって、この歌集は実朝が二十二歳までの習作を集めたものと判明した。これによって、歌の解釈が微妙に変更されたが、もともと時空を隔てた特殊な境涯の人の心に分け入るのは、容易なことではない。二十二歳という枠組(わくぐ)みは、かえってそうした困難性を増すばかりのように感じられる。

神といひ仏といひ世の中の人の心のほかのものかは

 この歌には「心の心をよめる」との題詞がある。とりようによっては、いくらでも深刻にとれる歌だが、それによって実朝の実像にどれだけ接近しうるだろうか。結局、歌というものは作者から独立して、鑑賞する側のさまざまな主観によって受けとめられざるをえない。

(おも)罪業(ザイゴウ)(うた)

  ほのほのみ虚空(こくう)にみてる阿鼻地獄(あびじごく)行方(ゆくへ)もなしといふもはかなし

建暦元年七月洪水漫(ヒタス)(テン)土民愁歎せむことを思ひて、一人奉(タテマツリ)(ムカ)本尊(ホンゾン)(イササカ)(イタ)祈念(キネン)ヲ|と(いふ)

  時によりすぐれば民(たみ)のなげきなり八代竜王(はちだいりゅうおう)雨やめ給へ

山は裂け海はあせなむ

 実朝に対するテロの背景については、二つの説がある。まず、時政亡きあとの実力者義時が、源氏の血統を断つために公曉をそそのかしたという説で、事件当日、義時が急病を理由に拝賀の式から脱け出しているため、たしかに疑わしい。だが、この義時にかわって前駆けをつとめた仲章が殺害されているのは、犯人が交代の事情を知らず、義時のつもりで殺したということも考えられる。『愚管抄』にも「義時ゾト思テ」と記してある。

 もう一つは、三浦義村が黒幕と言う説で、小林秀雄氏がいち早く前記のエッセイのなかで指摘したが最近になって史家の間でも、義村が実朝と義時を同時に除く計画を立てたが、事前に察知した義時に逃げられてしまったという説が立てられている。このほうが、公曉がなぜ三浦邸へ走ったかという理由を明らかにしている。

 いずれにせよ、すさまじい権謀術数の世界であり、“無垢の人”の棲息(せいそく)しうる環境ではない。

慈悲の心を

  ものいはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ

吾妻鏡』には、彼が拝賀の日の朝、運命を予感してつぎの歌を詠んだとある。

  出でていなば主なき宿となりぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな

 これは『新古今和歌集』の「詠(なが)めつる今日はむかしになりぬ共軒ばの梅ハ()我を忘るな」の本歌取りで、偽作の可能性もあるというが、かりにそうだとしても人々の実朝に寄せる愛惜が作り出した、“実朝の歌”にはちがいない。

 『金槐和歌集』。単に『金槐集』とも『鎌倉右大臣家集』ともいう。金は鎌の偏、槐は大臣を意味する。書物の系統としては、前述の定家所伝本(建暦三年〔一二一三〕の奥書あり)、貞享四年(一六八七)の板本および『群書類従』所収のものがある。貞享本は上中下三冊、大きさ縦二十二p×横十五・五p、計五十六丁。表紙は藍色(あいいろ)で、左上に『鎌倉右大臣家集』の題簽(だいせん)、本文冒頭には『金槐和歌集』の文字がある(国会図書館藏)

 この貞享本所収の歌は七百十六首であるが、実朝の歌は諸書から全部で七百四十七首を拾うことができる。十四歳ごろから作歌の道に入ったというから、その大部分は八年間に詠んだものである。数多い秀歌のなかから、純度の高いものを一首選ぶとすれば、後鳥羽上皇に対しての、

  山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心(ふたごころ)わがあらめやも

という忠誠の歌であろう。しかし、歴史はこれが悲劇的な片思いの歌でしかなかったことを示している。

連関資料

クイズ百人一首 大隅和雄教授最終講義「西行と慈円」 源実朝人物論

慈円(ジエン)僧侶1155.4.15(久寿 2)〜1225(嘉禄元)

平安末期・鎌倉前期の天台宗の高僧・歌人・史論家。諡は慈鎮。関白藤原忠通(タダミチ)の末子、関白九条兼実(カネザネ)・道円・兼房は同母兄、関白基実・基房は異母兄。11歳のとき比叡山延暦寺の青蓮院門跡に入り、覚快法親王について修学。13歳で剃髪(テイハツ)して道快といい、16歳で法眼(ホウゲン)27歳のとき覚快法親王が他界し、法印に叙されて慈円と改名。1192(建久 338歳で兄関白兼実の力で天台座主(ザス)の職につき、1196(建久 7)兼実が失脚し慈円も座主を辞任。後鳥羽上皇が院政を始めると九条家も復権して、1201年再度天台座主に再任、60歳までに四度座主となる。1203(建仁 3)大僧正。1208(承元 2)摂津の四天王寺別当。墓所は滋賀県大津市比叡山。家集『拾玉集』・史論『愚管抄』を著す。

・実朝(小林秀雄)「CD-ROM 新潮文庫の100冊」(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』)