2000.05.02〜2005.06.29更新
7、『古今和歌集』天地を動かす歌
[紀田順一郎著作集所収]
古代⇒「“君が代”の起源」「生きとし生けるもの」「三百年後の後継者」
「“君が代”の起源」 国電(現在のJR東日本)山手駅(横浜市中区)より徒歩十分、本牧(ほんもく)山妙香寺の境内に、一つの目立たぬ石碑がある。
「君が代発祥之地」
じつはここの宇都宮住職は、私の学生時代の友人なので、“発祥”の意味について尋ねてみた。「由緒の地といってもいい」と彼は答えた。「明治初年には国歌が制定されていなかったので、外国の軍楽隊が日本の行事に参加する際、演奏曲目に困るということがあったのだ。そこで英国軍楽隊の隊長フェントンが、天皇護衛の薩摩(さつま)兵を通じて、政府に国歌制定を進言したところ、明治二年九月、政府は鎌田真平を隊長とする“鼓笛隊”三十名を横浜に派遣して、西洋音楽を習わせることにした。その際、宿舎を提供したのが当寺というわけだが、鼓笛隊のなかからは、後に海軍軍楽長として国歌制定に尽力した中村祐庸(すけつね)もいた、というわけだ」
なるほど、「君が代」が誕生する機縁となった場所といえる。しかし、現在の「君が代」に決まるまでには、なお紆余曲折(うよきょくせつ)があった。国歌制定の進言を受けた薩摩出身の大山巌(いわお)は、自分が愛好する薩摩琵琶(びわ)曲のなかに「君が代は……」の歌詞があるのを思い出し(もしかしたら、「いはほとなりて」という一節が気にいったのかもしれない)、これに洋風の曲をつけるようフェントンに依頼した。
ところが、できあがった曲はどうも日本人の音感に合わないものであったため、前述の中村の「国歌改作」の建議により、政府に改めて宮内省雅楽部に作曲を依頼した。三、四人の若い楽人が競作の形で各人の草案をつくりあげるのに、約三年を要したという。そのなかから奥好義の案が採用され、大伶人(れいじん)〔楽人の長〕林広守の補正を得て、今日に伝わる曲〔雅楽壱越(いちこつ)調という〕が完成した。
その後、お雇い教師エッケルトが洋風音階に再編しなおしたが、問題は原詞の作者である。
わがきみは 千代に八千代に さゞれいしの いはほとなりて こけのむすまで
『古今和歌集』巻七の賀哥(がのうた)にある、題知らず、読み人知らずの和歌で、民間に広く伝わる長寿を祝う歌だが、後の『和漢朗詠集』などの歌集類、御伽草子(『さゞれいし』)、小唄、長唄、琵琶曲などにも伝わっている。その過程で「君が代は……」というヴァリエーションもできたのである。
「生きとし生けるもの」
年の内に 春は来にけり ひととせを こぞといはん ことしとやいはん 在原元方(ありはらのもとかた)
『古今和歌集』の巻頭を飾るこの歌には、古来さまざまな評価がなされているが、意味は、暦の上で年内に立春が来てしまったので、残りの日数を去年といおうか、今年といおうか――という、軽い戸惑いを表現したものであろう。それでは、年内立春が珍しいことであったのかというと、最近の研究では、当時の暦法〔宣明暦〕からみると、平安朝時代の百二十年間のうち、年内立春が七十一回もあり、決して珍奇な事象ではないという〔神尾暢子『歳内立春と古今巻頭』〕。いわば、あたりまえのことを詠んだ歌なのだが、天行と暦の矛盾に人々が馴れてしまっているところへ、ひょいと既成概念をひっくり返してみせた面白味が感じられる。
昔の人は、立春を暦の上の習慣ではなく、生活実感としてもっていた。正月がまだ真冬なのに、新春などと表現するのは、古代人が衰えた太陽の活力を回復させようと、祭祀(さいし)を行ったり、春が立つといって、縁起をかついだ風習の名残りである。
春哥のうち、よく知られている名歌をあげると、
きみがため 春の野にいでて わかなつむ わがころもでに 雪は降りつゝ 光孝天皇
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞむかしの かににほひける 紀 貫之
ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 紀 友則
『万葉集』の歌風が丈夫(ますらお)ぶりとすれば、『古今和歌集』のそれは、手弱女(たおやめ)ぶりだと評したのは、江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)だが、たしかに万葉後一世紀半に生まれた歌人たちは、あらわな情感や志を吐露するよりも、静かな孤独の境地と、ひそやかな生の息吹きを重んじているかに見える。
そうした境地は、恋歌にもっとも顕著に表現されている。
うたゝねに こひしき人を みてしより ゆめてふ物は たのみそめてき 小野小町
まどろみの夢を信じているのではない。「たのみそめてき」という微妙な、ためらいのニュアンス。むしろ、彼女はこの歌の発想と調べに、みずから酔うているだけなのだ。和歌という形式と内容のめざましい一致による陶酔境。手弱女の心境と嘲(あざけ)ってはいけない。これは一つの完成美であり、完成した美は力ではあるまいか。
紀貫之は、歌の力というものを信じていた。「花に鳴くうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、目に見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、おとこ女のなかをやはらげ、たけきものゝふのこゝろをも、なぐさむるは哥なり」
この自信にあふれた文章は、しかし、一朝一夕になったものではない。『万葉集』がすでに難解なものとなっていた延喜五年(905)、醍醐(だいご)天皇から貫之ら四人に勅撰和歌集編纂の詔が下ったというわけだが、漢詩全盛時代のさなか、それに対抗する国風の和歌を集めるのには、想像以上の苦労があった。編者の一人友則は、過労が原因で世を去っている。
収めるところの千百余首、伝本はいくつかの系統があるが、藤原定家自筆本が今、安藤柳司氏の所蔵となっている。表紙は、鳥と唐草模様の古代刺繍(ししゅう)、綴葉装(てつようそう)で縦22.7×横14.8センチである。
「三百年後の後継者」
昔の文化の息の長い連続性は、今日では想像もつかない。『古今和歌集』から三百年も経た建仁元年(1201)、後鳥羽院は天才歌人藤原定家を中心とする和歌のルネッサンスをめざし、『古今和歌集』の発展的継承版としての『新古今和歌集』勅撰を意図した。完成は、いちおうその四年後とされるが、院が隠岐へ配流されてからの改修本を含めると、前後二十年の大事業である。この場合も、寂蓮(じゃくれん)や宮内卿(くないきょう)など過労による犠牲者を出しているほどだ。
時代はすでに中世である。動揺した貴族の公家社会は、無常観に支配され、多くの歌人がある種の“翳り”をもっている。
暮れて行く 春の湊(みなと)は しらね共 霞(かすみ)におつる 宇治の柴舟(しばふね) 寂蓮法師
山里の 春の夕暮 きてみれば 入相(いりあひ)の鐘に 花ぞ散りける 能因法師
未来を切り拓く精神ではない。ひたぶるに古きものを恋い、ほろびゆくものに思いを寄せる。隠者指向の嫋々(じょうじょう)たる七五調のロマン。むろん、現実を写さないのだから、これは技巧の歌だ。それが今日からみると、日本画の主題のごとく陳腐な枠組みにはまっているように見えてしまう。だが、さすがに中心人物定家の歌は、日本語の表現能力をフルに用いて自由に言語空間を遊弋(ゆうよく)し、一つの境地をつくりだしている。
み渡せば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
駒とめて 袖打ちはらふ かげもなし さののわたりの 雪の夕暮れ
春の夜の 夢の浮橋 とだえして 嶺にわかるゝ よこ雲のそら
最後の一首は、春の暁方の寝覚めを、具体的な心象として定着させたもので、新古今調の代表とされる歌だ。幽艶(ゆうえん)ともいえる抒情と、醒めた意識の交錯。だが、私は「よこ雲」〔暁方の横にたなびく雲〕という語感が好きではない。
『新古今和歌集』の伝本は、大別して五種類あるが、そのうちの一本が越後高田の渋谷家に伝わり、現在新発田市の歌人小宮堅次郎氏が所蔵している。文明七年(1475)の書写で、上下二冊に千九百七十八首を収める。黒地金襴の表紙で、大きさ縦23.4×横16センチである。