2001.07.10入力

王朝のワイルド今昔物語集68頁

―目をそらさぬ神経 紫式部も卒倒か 完揃いのない写本―

目をそらさぬ神経

 私はスナックが好きだ。目の前で調理してくれるからだ。むかし、父親から「食い物屋の楽屋裏は見るものではない」といわれたので、清潔に調理されているところを確認したいのである。

“クソもミソもいっしょ”という表現を、私は父親から習った。こういう私が、『今昔物語集』の一つのエピソードを、どれほど実感をもって読んだか、よろしくお察しねがいたい。

「今(ハ)昔、京ニ有(アリ)ケル人、知(シリ)タル人ノ許(モト)ニ行(ユキ)ケルニ、馬ヨリ下(オリ)テ其ノ門ニ入(イリ)ケル時ニ、其ノ門ノ向也(ムカヒナリ)ケル舊(フル)キ門ノ閇(トヂ)テ人モ不通(カヨハ)ヌニ、其ノ門ノ下(モト)ニ、販婦(ヒサキメ)ノ女傍ニ賣ル物共(ドモ)入レタル平ナル桶(ヲケ)ヲ置(オキ)テ臥セリ」

 どうしたのだろうと、近くに寄って見ると、その女は酒に酔いつぶれているのだった。男はそれを見てから知人の家に入り、しばらくして出て来て馬に乗ろうとしたときである。物音におどろいた女が目を覚ました。

「見レバ、驚クマ丶ニ物ヲ突クニ、其ノ物共(ドモ)入レタル桶(ヲケ)ニ突(ツキ)入レテケリ。「穴(アナ)(キタ)ナ」ト思(オモヒ)テ見ル程ニ、其ノ桶(ヲケ)鮨鮎(スシアユ)ノ有(アリ)ケルニ突懸(ツキカケ)ケリ。販婦(ヒサキメ)、「(アヤマチ)シツ」ト思(オモヒ)テ、?(イソギ)テ手ヲ以テ其ノ突懸(ツキカケ)タル物ヲ、鮨鮎(スシアユ)ニコソ韲(アヘ)タリケレ」※「物を吐いたところ」※「鮎の塩漬け」※「しまった」

 汚いのなんのという段ではない。男は「肝(キモ)モ違(タガ)ヒ心(ムネ)モ迷(マド)フ許(バカリ)(オボ)エケレバ、馬ニ?(イソ)ギ乗(ノリ)テ、其ノ所ヲ迯去(ニゲサリ)ニケリ」

 作者は次のように結論している。鮨鮎は元来吐いた物のように見えるのだから、それを買った人は知らずに食べてしまったことであろう。「彼(カ)ノ見ケル人、其ノ後(ノチ)永ク鮨鮎(スシアユ)ヲ不食(クハ)ザリケリ」。自分の家で、目の前で作ったものさえ口にせず、知人にも「鮨鮎ナ不食(クヒ)ソ」と言い、食事の場所などでそれを目にしようものなら、狂ったように唾(つば)を吐いて逃げた。

「然レバ、市町ニ賣ル物モ販婦(ヒサキメ)ノ賣ル物モ極(キハメ)テ穢(キタナ)キ也。此レニ依(ヨリ)テ少(スコシ)モ叶(カナヒ)タラム人ハ万(ヨロヅ)ノ物ヲバ目ノ前ニシテ〓〔立心+遺〕(タシカ)ニ調(トトノヘサ)セタラムヲ可食(クフベ)キ也トナム語リ傳ヘタルトヤ」〔卷第三十一、人、見酔酒販婦所行語第三十二・新大系506頁〕

 作者は神経質なのではない。むしろタフである。日常だれもがふと感じる怖(おそ)れを、正確に見つめて描く。汚いものは汚いものとして目をそらさない。古代末期、つぎの時代への動揺をはらんだ時代に生きた人間の、ふてぶてしい感覚がそこにある。

紫式部も卒倒か

 平安中期の高僧寂照(じやくしよう)は、愛妾(しよう)に死なれたことが動機で出家したというが、そこに一つのスキャンダルがまつわっていたことを『今昔物語集』の編者は容赦なく暴く。

「而(シカ)ルニ、女遂ニ病重ク成(ナリ)テ死(シニ)ヌ。其後(ソノノチ)、定基悲ビ心ニ不堪(タヘズ)シテ、久ク葬送(サウソウ)スル事无クシテ、抱(イダキ)テ臥(フシ)タリケルニ、日来(ヒゴロ)ヲ経(ヘタ)ルニ、口ヲ吸(スヒ)ケルニ、女ノ口ヨリ奇異(アサマシ)キ臭(クサ)キ香(カ)ノ出来(イデキ)タリケルニ、踈(ウト)ム心出来(イデキ)テ、泣々(ナクナ)ク葬(サウ)シテケリ。」〔巻第十九参河(ノ)守大江(ノ)定基出家(セル)(コト)第二・新大系四106頁〕

 簡にして要を得るという。文章道の理想である。江戸川乱歩は『』という短編で、愛する女を殺害して添い寝した男が、死体がだんだん腐敗していくのに恐怖を覚える過程を描いているが、『今昔物語集』の編者には敵(かな)わない。無駄な形容や感傷をいっさい排しながら、ここには生々しい人間の真実が実現されている。ゴツゴツしてはいるが、雄勁(ゆうけい)なリズムがある。それに、この編者の文章には主語がある。『源氏物語』のように優美と華奢(きやしや)を売り物にした、主語不在の読みにくい文章を見ると、同じ平安朝の作品とは思えない。

 それはともかく、寂照が出家した動機は、もう一つある。秋祭りのとき、人々が鳥や獣を生きたまま料理する凄惨(せいさん)な場面を目撃したからだ。

「而(シカ)ルニ、雉子(キジ)ヲ生乍(イケナガ)ラ持来(モテキタリ)テ揃(ムシ)ラスルニ、暫クハフタ/\ト為(ス)ルヲ引(ヒ)カヘテ、只揃(ムシリ)ニ揃(ムシ)レバ、鳥、目ヨリ血ノ涙ヲ垂(タレ)テ、目ヲシバ叩キテ彼レ此レガ皃ヲ(カ(ホ))見ルヲ見テ、不堪(タヘズ)シテ立去(タチノ)ク者モ有(アリ)ケリ、「鳥此(カ)ク泣(ナク)ヨ」トテ咲(ワラヒ)テ情无氣(ゲ)ニ揃(ムシ)ル者モ有リケリ。揃(ムシ)リ畢(ハ)テツレバ下(オロサ)セケルニ、刀ニ随(シタガヒ)テ血ツラ/\ト出来(イデキ)ケルヲ、刀ヲ打巾(ウチノゴ)ヒ打巾(ウチノゴ)(オロ)シケレバ、奇異(アサマシ)ク難堪氣(タヘガタゲ)ナル音(コヱ)ヲ出(イダ)シテ死(シ)ニ畢(ハテ)ニケレバ、下(オロ)シ畢(ハ)テヽ煎(イ)リ焼(ヤキ)ナドシテ試(ココロミサ)セケレバ、「事ノ外ニ侍レリケリ。死(シニ)タルヲ下(オロ)シテ煎(イ)リ焼(ヤキ)タルニハ、事ノ外ニ増(マサリ)タリ」ト云ヒケルヲ、守(カミ)ツク/゛\ト見聞居(ミキキヰ)テ、目ヨリ大(オホキ)ナル涙ヲ落シテ、音(コヱ)ヲ放(ハナチ)テ泣(ナキ)ケルニ、「味(アヂハ)ヒ甘(ウマ)シ」ト云(イヒ)ツル者ハ恐レテゾ有(アリ)ケル。守(カミ)、其ノ日ノ内ニ國府ヲ出(イデ)テ京ニ上(ノボリ)ニケリ。」〔巻第十九参河(ノ)守大江(ノ)定基出家(セル)(コト)第二・新大系四107頁〕※「きじ」の漢字「矢+鳥」※「ばたばたするのをおさえて」※「切り裂くに」※「拭き拭き」

 紫式部などが見たら、卒倒しかねない情景といえようが、このような粗野で荒削りの感覚が、つぎの時代である中世を支配していくのである。

 男女間のことも、情緒的な歌のやりとりなどありえない。あからさまな性欲が支配する。

「今(ハ)昔、京ヨリ東(アヅマ)ノ方(カタ)ニ下(クダ)ル者有(アリ)ケリ。何(イヅ)レノ國・郡トハ不知ラ((シラデ))、一ノ郷(サト)ヲ通(トホリ)ケル程ニ、俄ニ婬欲(インヨク)(サカリ)ニ発(オコリ)テ、女ノ事ノ物ニ狂(クルフ)ガ如(ゴトク)ニ思(オボエ)ケレバ、心ヲ難静メ((シヅメガタ))クテ思ヒ繚(アツカヒ)ケル程ニ、大路辺(オホヂホトリ)ニ有(アリ)ケル垣ノ内ニ、青菜ト云(イフ)物、糸(イト)高ク盛(サカリ)ニ生滋(オヒシゲリ)タリ。十月許(バカリ)ノ事ナレバ、蕪(カブラ)ノ根大キニシテ有(アリ)ケリ。此ノ男忽ニ馬ヨリ下(オリ)テ、其ノ垣(ノ)内ニ入(イリ)テ、蕪(カブラ)ノ根ノ大(オホキ)ナルヲ一ツ引(ヒキ)テ取(トリ)テ其ヲ彫(ヱリ)テ、其ノ穴ヲ娶(トツギ)テ、婬(イン)ヲ成シテケリ」〔卷第二十六、東(ノ)(ニ)(キシ)者、娶蕪生子語(カブラヲトツギテコヲシヤウゼルコト)第二・新大系五6頁〕

 竹(ちく)夫人ということばはあるが、これは蕪夫人であろう。しかも、この蕪を十四、五の少女が食べて妊娠してしまうというのである。お上品な宮廷サロンなどでは、とうてい口にできぬ話しだ。

 もっとも、その宮廷でさえ内憂外患の状態であった。治安も悪く、たびたび賊の侵入に悩まされたという記録がのこっている。花山院の女王(によおう)〔皇族の女子〕が一夜、賊に拉致(らち)され、寒中を素裸で放り出され、野犬に食い殺されてしまったという話しもある。「朝(ツトメテ)見ケレバ、糸(イト)長キ髪ト赤キ頭(カシラ)ト紅(クレナヰ)ノ袴(ハカマ)ト、切々(キレギレ)ニテゾ凍(コホリ)ノ中ニ有(アリ)ケル」〔卷第二十九、下野(ノ)守為元(ノ)(ニ)(リタル)強盗(ノ)(コト)第八・新大系313頁〕※出典未詳譚。これは万寿元年

 こんなありさまだから、一歩都の外へ出れば常に生命の危険があった。ある夫婦が大江山越えの途中で盗賊に遭い、夫は武器を欺(だま)しとられて木に縛られ、妻は手籠(てご)めにされてしまう。これについて『今昔物語集』の編者は、<女の着物を奪わなかった盗賊は感心である。それに反して武器を奪われた男はだらしない>と、意表をついた、しかし厳しい判定をくだす。

完揃いのない写本

 この挿話は、芥川龍之介が『藪の中』の素材に用い、さらに故黒沢明監督が映画化して世界的に有名になった。芥川龍之介はほかにも『』『芋粥』『羅生門』『青年と死と』『六の宮の姫君』『』『偸盗』『往生絵巻』『好色』『尼提』などの多くの作品のヒントを「『今昔物語集』から得たが、『今昔物語集』の美しさは、生々しい野性の美しさである」と喝破している。

 成立は院政期(十二世紀初頭)というのが大方の説である。全三十一巻〔うち三巻が欠けている〕、計一千六十五話〔題名だけのものも少数ある〕という規模は、『アラビアン・ナイト』の二百八十余話とはケタちがいで、世界最大の説話集といえる。しかもその題材は、天竺(てんじく)〔インド〕、震旦(しんたん)〔中国〕、本朝〔日本〕というぐあいに分類され、西欧の存在が知られなかった当時としては、全世界を認識圏におさめているのだ。

 正直なところ、天竺や震旦は先行の仏教書を書き直した部分が多く、現代人にはさほどおもしろくないが、本朝部は「世俗」「宿報」「霊鬼」「悪行」などの細目に分かれ、武士の争闘や霊魂譚、芸術譚、犯罪スリラーにいたるまで多彩そのもの。作者自身の見聞も多いようだ。

 それでは、当時これだけ視野の広い、エネルギッシュな書物を書いたのは誰かということになるが、残念ながら確定した説はない。宇治大納言の源隆国という伝説は傍証がなく、どうやら南都北嶺(れい)あたりの僧侶であろうという。一人では量的にも多すぎるし、第一、紙や筆墨をどうするかという問題も起こる。こういうところから、集団執筆説も生まれてくるわけだが、全体的にはやはり一人の強力な個性の持ち主が“監修”をしているのではあるまいか。

 大作なので、写本も三十一冊揃っているものはない。大正頃まで、東京大学に二十八冊分があったが、震災で焼失。現在は鈴鹿三七氏所蔵〔現在京都大附属図書館に寄贈され国宝に指定されている。通称、鈴鹿本今昔物語集』〕の九巻分が、最古の鎌倉中期写本〔現在、詳細な科学研究分析に基づき、院政時代の写本すなわち原本と確認〕として重視される。ほかに幕末の国文学者黒川真頼の旧蔵本が実践女子大学に伝存する。二十六巻分で、大きさ縦三〇・七p×横二二cmである。東大国語研究室蔵の二十三巻本も貴重だ。

今昔物語集』は外国人にも人気がある。簡潔でおもしろいからだ。ある外国人は本書を読み、日本人は悪鬼のようだという印象を享けたが、いや、それにしても昨今の“ワイルド”のほうがよほど怖ろしい、と思い直したトナン語リ伝エタルトヤ。

 

参考文献資料

今昔物語集』岩波新日本古典文学大系の四・五〔本朝部〕。

HP参考資料

 京都大学附属図書館藏、鈴鹿本『今昔物語集』 上記、引用の説話は、含まれていない。