2000.05.03〜2006.11.05入力
40、 『狂言記』南北朝の庶民像[218頁]
中世⇒「三代目は没落」「亭主を悩ます猛妻」「テンポの早い名作」
「三代目は没落」土地成金などが幅を利かせる長者番付を見るたびに、「三代目見たこともなし鬼瓦」という川柳を思い出す。私の子どもの頃、昭和の戦前にはまだ、お屋敷町などに典型的な鬼瓦を見かけることがあった。いまはない。農村の土地成金も洋風の家を建てたがる。
鬼瓦は、中国や朝鮮あたりから渡来したものらしい。むろん、魔除(まよ)けである。山西(さんせい)省の大同付近から、五世紀ごろの北魏(ほくぎ)の鬼瓦が出土している。縦17センチ、横12センチほどの平たい粘土板に、稚拙な獣面が彫ってある。宮殿など高級な建物には、棟の両端に鴟尾(しび)を用いたらしい。日本に渡来して、鎌倉時代あたりからツノの生えた鬼の面をかたどるようになった。したがって、中世の人々にはまだ鬼瓦がもの珍しく映ったということが考えられる。
そこで、狂言の名作「鬼瓦」――。
田舎大名が、京都に長期滞在している。当時としてはおきまりの、所領安堵(あんど)のための訴訟にやってきたのだ。ようやくのことで將軍の免許状を入手し、帰国できることになるが、これも日ごろ信心している因幡(いなば)の薬師如来のおかげと、太郎冠者(かじゃ)を連れてお礼参りに出かける。
「国許では、かようなことは知らいで、きょうかあすかと待ちかねているであろうぞ」
「仰せらるるとおり、今か今かとお待ちかねでござりましょう」
うきうきした大名は、国許へもこの薬師如来を勧請(かんじょう)しようと思いつき、建物の様式を見覚えておこうとする。そのうちに、ふと屋根を見上げて、「あれはなんじゃ」と問う。「鬼瓦でござる」との答(いら)えに、大名はなおもしげしげと見入っていたが、どうしたわけか泣き出してしまう。
「これはいあかなこと。イヤ申し、こなたは何をそのように嘆かせらるるぞ」
「さればそのことじゃ。あの鬼瓦が、だれやらによう似たと思うたれば、国許へ残いておいた、女どもの顔にそのままじゃわい」
目のくりくりしたところ、鼻のいかったところ、口が耳の後ろまで「クワッ」と引き裂けたところなど、まるで生き写しだというのである。すっかりシュンとしてしまった大名を、太郎冠者は早く帰ってご対面をと励まし、二人で大笑いとなって幕となる。ちなみに、因幡薬師は、いまも京都市下京区にあるが、鬼瓦は現存していない。
「亭主を悩ます猛妻」
後世には二股大根を見て里心がつくという笑い話があるが、狂言の笑いは下卑たところがない。それよりもペーソスがある。
「このところで、某(それがし)が女どもを誰見た者もあるまいに、あのようによう似るというは、ふしぎなことじゃなあ」
「まことにふしぎなことでござる」
中世は、平安時代とは違った意味で、女人上位の時代だ。絶え間ない争乱で、男どもは戦場に駆り出され、家は女人の才覚一つに任された。この大名のように、面倒な訴訟で長期不在となることも多かったろう。男勝りの、生活力が旺盛(おうせい)な女人でなければ、家政はつとまらなかった。戦場まで、女人が出張ることもあった。足利末期の備中は、三村高徳の女房も、すわ落城という際に、鎧兜(よろいかぶと)に身を固めて出陣し、敵の大将に「われ女人の身といえども、一勝負仕(つかまつ)らん」と挑んでいる。これを見た大将は、「いやいや、御辺は鬼にてもあれ、女なり。武士の相手にはなりがたし」と逃げてしまった(『備中兵乱記』)。鬼のようでも、女は女。手を下すのは恥ずべきこと、というのが武将の感覚であった。いや、それ以前の、男の感覚といってよい。このほとけ心に、女はぐんぐんつけこんでくる。
当時のことばに、「わわしい」というのがある。小うるさくて、始末に終えないという意味で、狂言にもそうしたわわしい女人が登場する。
「川上地蔵」という、狂言に珍しい悲劇がある。眼病を患って盲目となった男が、川上の地蔵に願をかければなおると聞き、女房に留守を任せて出かけていく。この川上というのは、吉野にある村のことだろう。いまは、国道169号線が通る林業地帯だが、中世の頃は深い山奥だったと思われる。
さて、断食して地蔵に参籠(さんろう)した男は、夢のお告げを得て眼が開き、喜んで帰る途中で、心配してやってきた女房と出会う。ところが、この女房は悋気(りんき)の名人で、亭主が断食にもかかわらず、顔の艶がよいのを見て、
「おのれ、知らぬと思うか、和男(わおとこ)め。内々聞き及うだ。誰(た)そ、酒や肴(さかな)いろいろの物を持って行(い)て馳走してがあろう」と、亭主の弁明にいっさい耳をかそうとはしない。途方にくれる亭主。
「さてもさても、むりなこという女房じゃ。弓矢八幡、わき心(異心)はないぞ」と、争っているうちに、
「はあはあ、また目がつぶるる。かなしや、かなしや」
女房は信用しない。
「腹の立つことや、腹の立つことや。何がつぶりょうぞ」
「いやいや、どこがどことも見えぬぞ、ゆるせ、ゆるせ」
「どこへ、やるまいぞ、やるまいぞ」
で、女房に追われて退場となる。中世女人の悋気のすさまじさは、一例として夫の浮気の相手である女の家を、家来に命じて叩きつぶした北条政子がいる。
「テンポの早い名作」
ところが、この「川上地蔵」にはもう一つ別の筋書きがある。主人公は生まれながらの盲目であり、夢のお告げにも、「おまえの妻は悪縁だから、別れなければまた目がつぶれる」という条件がついている。このことを打ち明けられた妻はこのことで恨み、嘆き、ついには「地蔵を掴(つか)み裂いている」とまでいきり立つ。夫してみれば、永年連れ添った妻が憎いわけではなく、元の盲目の暮らしでよいかと思い直す。「是非に及ばぬ。示現にそむこう」と決心したとたん、彼の両眼はふたたびつぶれてしまう。――二人むつまじく、竹の杖をたよりにわが家をさして帰っていく。
狂言の枠(わく)を超えてしまったこの運命悲劇のなかには、さまざまな感動の要素がある。不条理に屈しない女人の烈しさ、自分の両眼にかえて悔いない男の愛情。その前提として、それだけ女房がよかったからだという説も成り立つが、要するに、ここには運命にめげない夫婦愛というものが謳歌されているのだ。
狂言の成立は、南北朝時代ごろという。同時代の外国には、このような珠玉の人間ドラマはないが、惜しいことにその後新しい台本は生まれず、能と同じく芸の伝承だけが行われた。流派は大蔵流・鷺流・和泉流の三つがあったが、鷺流だけは、明治年間に廃絶している。
狂言の台本といっても、正確には近世初期から筆録された一種の演出ノートであり、「川上地蔵」の例で判るように細部に違いがある。最も古いのは、寛永十九年(1642)に書写された大蔵流の祖本『狂言元書』八冊だが、万治三年(1660)からおよそ七十年間に『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』さらには、『狂言記外五十番』などという絵入りの読本形式のものが刊行されている。これは明治時代から大正時代にかけて、一般向きの活字本として普及したが、どの流派にも属さぬ筋書きだけのものとわかり、現在では比較的軽視されている。「鬼瓦」を見ても約五百五十字で、とにかくテンポが早い。さきに引用したのは明治の大蔵流能楽師、山本東(あずま)の筆録本で、その四倍の長さがある。
私がはじめて、狂言を知ったのは、終戦直後の『中等国語』に出ていた「末広がり」で、「罷りいでたるは隠れもない大名。太郎冠者あるか」「御前(おまえ)に」というキビキビした調子で、本文は『狂言記』から採ったものだった。だから、現在の大蔵流の本文で「太郎冠者あるかやい」「ハァー」「おるかおるか」「ハァー」などというのは、どうも間延びがしていけない。『狂言記』が、読む狂言としてよくできていると思う。