2001.06.19[国語史]

誇り高き才女『枕草子』

―宮廷女性の教養.“おかしな女性”の名文.孤独な死をとげる―

宮廷女性の教養

いまさらいうまでもないが、平安時代の貴族たちが、いかに庶民生活の実情にうとかったか。その好例が『枕草子』九九段にある不如帰(ほととぎす)の声をたずねに行くシーンである。

 梅雨のうっとうしい五月(長徳四年=九九八)、四方山(よもやま)話に飽いた清少納言が、「ほとゝぎすの声尋ねにいかばや」と女房たちに提案する。われもわれもと出()で立つのを、けっきょく宮司(みやづかさ)が牛車を一台しか都合してくれないので、やむなく四人だけで出かける。

 途中、明順(あきのぶ)の朝臣(あそん)〔高階成忠の三男、道隆の室貴子の父〕の邸に立ち寄ると、田舎家ながら時鳥(ほとゝぎす)の声だけは趣がある。庭に案内された彼女らは、このときはじめて農民たちの脱穀の作業を目にしたようだ。

「稲といふものをとり出でて、わかき下衆(げす)〔男衆〕どものきたなげならぬ〔あまり見苦しくないのが〕、そのわたりの家のむすめなど、ひきゐて来て、五六人してこかせ〔脱穀させ〕、また、見も知らぬくるべくもの〔くるくる廻るもの=臼(うす)か〕、二人して引かせて、歌うたはせなどするを、めづらしくてわらふ」〔大系150B〕

 当時、農民が人口の何割いたか。九割以上として、その日常的な光景をかくも珍奇なものと見たのは、ふつうではない。なにしろ、「ほとゝぎすの歌よまむとしつる、まぎれぬ〔忘れてしまった〕」というのだ。宮廷という閉鎖社会、というより密室のなかで、根無し草の教養を誇っていた女たち。当時の女性たちの地位は、その後の各時代に比して高いものではあったが、実質的な基盤となるとあやしいものがある。

 帰途も、たまに外出を許された女たちは大いにはしゃぎたて、卯の花を牛車の簾(すだれ)や棟などに競って挿()す。現代人から見れば長閑で、華やかな絵柄だが、彼女らにとっては、天候が悪くて人出が少ないためか、見てくれるものがないのが最大の不満らしい。「人もあはなんと思ふに〔行きあってくれればよいのに〕、さらに、あやしき法師〔賤(いや)しき坊主〕、下衆のいふかひなきのみ〔とるにたらぬ者のみ〕」〔大系151B〕と、おかんむりである。

 もっとも、こういう心理は派手なスポーツカーの助手席に乗っている、現代の女性にもありがちなことといわねばなるまい。清少納言には反面、荒廃の美を愛するような、ひねくれた感受性があって、これが私たちの心をひく。「女のひとりすむところは、いたくあばれて〔荒れ果てて〕築地(ついひぢ)などもまたからず、池などあるところも水草(みくさ)ゐ、庭なども蓬(よもぎ)にしげりなどこそせねども、ところどころすなごの中より青き草うち見え、さびしげなるこそあはれなれ。ものかしこげに、なだらかに修理して、門いたく固め、きはぎはしきは〔目立つのは〕、いとうたてこそおぼゆれ」(一七九段)というのだが、これが晩年に現実のものとなろうとは、さすがに予測できなかった。

“おかしな女性”の名文

 平安の貴族文化が、圧倒的多数の、庶民の貧困の上に成り立っていたからといって、その優れた感覚は否定しうべくもあるまい。しょせん、一つの世界〔文化〕は、他の世界のうえに乗っかることによって成り立っているのだ。

「春はあけぼの」――という書き出しは、日本の古典多しといえども、これだけ簡潔で含蓄に富んだものはない。七つの美しい調べの音節のなかに、『枕草子』という書物の雅趣が集約されている。

「春はあけぼの。やう/\しろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」これは歌枕の素材で、もともと彼女はそうしたものを女房たちに与えるつもりで、この随筆作品を書き出したらしい。

「夏はよる。月のころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもをかし。雨など降るもをかし」

 以下、秋・冬とつづくのだが、このような四季のありさまが「をかし」、つまり、たまらない情趣があるというのである。散文ながらうたのように響きのよい名文。連想の妙とともに味わうに足る。

「をかし」は現代語では「ばかばかしい」「変におもしろい」という意味で、くだらぬものを対象として用いるが、平安当時は「ウォカシ」というように発音し、見事なおもむきのあるものに対するほめことばだった。

 も一つ、平安人が得意としたのは、「あはれ」であるが、これなどは紫式部の専売特許で、国語学者(塚原鉄雄氏)の調査によると、『源氏物語』には「あはれ」系統のことばがじつに一千八十九箇所もあるという。

 逆に、「をかし」のほうは清少納言の“おはこ”で、『枕草子』には三百九十七箇所ある。本文献資料は分量からいえば『源氏物語』の六、七分の一だから、大体紫式部の「あはれ」の倍となる理屈だ。

 こまかい計算のようだが、国語学者というものは、こういうコンピュータも通用しない作業を、コツコツやらねばならないのだ。動機は、清少納言紫式部という、当代文化を代表する才女二人の性格的差異を見るためである。

 ちょっと考えればわかるように、ものを「あはれ」と見るのは感情移入型のウエットな性格であり、反対に「をかし」というのは冷静な観察型のタイプではないだろうか。こういう女性は、男にも厳しい。

「男こそ、なほいとありがたくあやしき〔何といっても実に不思議な〕心地したるものはあれ。いときよげなる人を捨てて、にくげなる人を持たる〔妻とする〕もあやしかし。……女の目にもわろし〔よくない女〕と思ふを思ふは〔慕うは〕、いかなる事にかあらん」――教養ある女性に対して、男は歌の返事こそよこすが、言い寄ろうとはしない。「見証(けんそ)の心地〔はたで見る目〕も心憂く見ゆべけれど、身のうへにては〔男自身は〕、つゆ心ぐるしさを思ひ知らぬよ」

孤独な死をとげる

 いかなる才女でも、男が女を“異性”としての眼でみるということは気がつかないと見える。いや、想像力が働かないのだろう。このような例を見るたびに、私は奇人として有名だった明治文化史研究家である宮武外骨の言を思い出す。彼は、何度目かの妻に姦通され、彼女を死へ追いやったとき、「余が彼女に執着した原因は、その容貌姿態に惚れたのではなく、その気質性格に惚れたのでもない。……余が彼女を愛撫して棄てなかった理由は、ここに公言を憚るべき一言のためであった。それを除外しての非難は、常識に囚われた平凡攻撃と見る」――と“正論”を述べている。

 清少納言は中流貴族のむすめで、教養ある父親から文学の手ほどきをうけた。十七歳頃、近衛府に勤める武士の妻となるが、現代風にいえばクラシックと浪花節で話しが合わず、まもなく別れて、十一年後に宮中に上がる。一条天皇の中宮定子の上臈女房としてである。

 とにかく、才媛ぶりを愛されたらしい。ある雪の日、部屋の格子をおろして女房たちが話し込んでいると、中宮さまが「少納言よ、香炉峯の雪はいかん」とナゾをかけた。少納言はさっそく格子をあげて雪景色を見せてあげたが、これは当時盛んに愛読されていた『白氏文集』のなかに、「香炉峯の雪は御簾を掲げて看る」とあるのを彼女がしっかと知っていたからだ。

             清少納言(土佐光起筆、江戸時代)  

 美人ではなかったが、知的な魅力に富んだ彼女には、なん人か言い寄る男性もいたらしいのだが、自我とプライドによってはねつけてしまった。したがって、保護者もなく、晩年は人にバカにされるほどの零落ぶりで、その没年すら明らかではない。

 『枕草子』は、古くは『清少納言枕草子』という書名で、長徳年間(九九五−九九九)に書かれ、のち補遺が執筆されていったという。異本も多いが、いま岩瀬文庫に蔵されているものは、約七〇〇年後の権大納言柳原紀光により書写されたもの。三冊本袋綴じの紙表紙で、表紙には「極秘」と記されている。上中の各冊は縦二七・五×横二〇・六p、下冊は、縦二七・一×横二〇pである。

 清少納言という女性は、男性側から見ても考究に値する。まじめ一方の平凡な幸福には興味がない、などと称しているが、自身の教養は思索の深みにいたらず、したがって物心両面の自立も果たしえなかった。男の場合、自立とは野垂れ死にを覚悟することだが、現代の才女たちは清少納言のように孤独な死をとげる覚悟があるかどうか。

補遺

ほとゝぎす【時鳥】勧農鳥。不如帰。夕影鳥。杜鵑、子規、郭公、死出(しで)の田長(たおさ)、田長鳥、沓手鳥、さぐめ鳥、魂迎鳥(たまむかえとり)などがある。また漢語では、蜀魂。杜字。霍公鳥など多様な表記がなされている。

 ほとゝぎす 鳴くや五月の 菖蒲草 あやめも知らぬ 恋もするかな

《きみが恋しくてぼくは道理も分別もなくなちゃいそうだ……》『古今和歌集』巻第十一・恋歌 読み人知らず

 こだまして 山ほとゝぎす ほしいまゝ  杉田久女

《英彦山(ひこさん)、六月だというのに肌寒く、霧が渦巻く石段を下り悩んでいると、突如、美しい鳴き声。キョッ、キョッ、キョキョキョ。……ほととぎす?》

 古典作品で、「ほとゝぎす」礼賛者の筆頭が清少納言である。

賀茂へ詣づる道に、女どもの、新しき折敷のやうなるものを笠にきて、いと多くたてりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、唯何すともなく、うしろざまに行くは、いかなるにかあらん、をかしと見る程に、郭公をいとなめくうたふ聲ぞ心憂き。「ほととぎすよ、おれよ、かやつよ、おれなきてぞ、われは田にたつ」とうたふに、聞きも果てずいかなりし人か いたくなきてぞといひけん。「なかだかわらはおひ、いかでおどす人」と。鶯に郭公は劣れるといふ人こそ、いとつらう憎くけれ。鶯は夜なかぬいとわろし。すべて夜なくものはめでたし。兒どもぞはめでたからぬ。〔『枕草子』二六一段〕

《ほととぎすのやつめ、あいつが鳴くおかげで、あたいらはえらい目をして田植えしなきゃならない》

田辺聖子ゆくも帰るも浪花の夕凪」―ほととぎす.朝日新聞2001.06.18夕刊・ひゅうまんより抜粋》

ほたる【蛍】「源氏蛍」と「平家蛍」の名はいつごろからいわれるようになったのだろうか?いずれも六月の夜の暗闇に幻想的なひかりを放って乱舞する。名古屋城のホタルとして、「姫蛍(ひめぼたる)」が知られ、こちらは五月に美しく舞う。この両者の「ホタル」の違いは、「源氏蛍」と「平家蛍」が幼虫のとき水生であるのに対し、「姫蛍」の幼虫は陸生、すなわち、陸地の叢のなかにいて、カタツムリのような陸生の貝を食して成虫となる。日本における四十五種の「ホタル」のうちで実際、幼虫のとき水生なのは「源氏蛍」と「平家蛍」の幼虫と沖縄の「ホタル」の三種だけである。また、ヨーロッパやアメリカの「ホタル」は、すべてが陸生。も一つ「飛ぶホタル」だが、これは雄(おす)だけである。雌(めす)は幼虫と変わらない姿態で羽もなく、ただ地上を歩いている。そして、夜になって腹の先端にある発光器に光を灯らせる。雄の成虫は種ごとに異なった発光パターンで光り、これに対応する雌の応答の光りを求めて飛び廻り、同調の光りを見つけ交尾がはじまるのだ。

 英語でホタルをfirefly(ファイアーフライ)という。ひかりをつけた飛ぶ虫=雄のホタルのことで、飛ばない地上の雌のホタルは、glowworm(グローワーム)と呼称する。《動物行動学者日高敏隆さん「動物たち、それぞれの世界」東京新聞200106.18文化・夕刊掲載記事より適宜抜粋》