2001.11.072006.10.22更新

28 蒙古襲来絵詞神風と恩賞[156頁]

中世⇒「恩賞の基準」「早いのが取り柄」「皇室の御物となる」

「恩賞の基準」

 サラリーマン社会は、抜けがけの功名を立てるよりも、目立たず遅れず働き、そのうち控えめに能力を示していけば、上役の覚えめでたく、昇進も早いというしくみのなっている。

 昔の武士は、戦場での働き以外に賞罰の基準はなかった。とにかく目立つ働きをして、大将に取り入るほかなかった。論功行賞の基準も、じつはこまかく定められていた。山鹿流の『武教全書』にあげられているのは、江戸時代における論功の一例である。

まず「一番槍」。勝負は問わず、とにかく集団戦で一番に槍を合わせた者は、“忠義勇将”の備わる者として評価された。ついで「二番槍」だが、それは読んで字のごとし。さすがに三番槍というのはない。双方の陣がまだ離れているとき、名乗りをあげて一騎打ちを行うのを「場中の勝負」といい、これも論功の対象となった。

ほかに、槍で突き伏せる「槍下」、一番槍の脇を詰める「槍脇」、一番槍ののち敵に崩れが見えたときに槍を入れる「崩し際」、撤退のときにしんがりを受待つ「後駆」などがあった。敵の首をとるのを「印」といったが、これは戦場を逃げ廻らずに、ちゃんと戦っていた印という意味だという。

鎌倉時代になるともう少し単純で、まず「先懸」(一番駈け)、「手負」(負傷)、「分捕」(首をとること)、「討死」といったとことが対象となった。首をとるといっても、一騎うちをしてとらねばならず、そのへんにころがっている死骸から首をとるのは拾い首といって、当時の武士の恥とするところだった。

ともあれ、こうした戦功は「引付」といって、大将の勤務評定簿に記録される。むろん申告制だ。討死の場合は当人には申告しようがないから、あらかじめ証人をきめておいた。それは先懸も同じで、一門または他家の武士と申しあわせ、たがいに証人となった。「見継」という。

ここまで抜かりなくやって、ようやく大将の帖面に記録されても、まだ安心できない。最終的に幕府へ注進されなければ、恩賞とは結びつかないのである。大将から守護人へ、守護人から幕府へというルートのなかで、忘れられてしまう可能性だって考えられる。ちょうど平社員の働きが、課長はみとめても社長まで伝わらないのと同じである。肥後の御家人、竹崎季長の場合もまさにそれであった。

 

「早いのが取り柄」

 文永十一年(一二七四)十月二十日、二万三千の蒙古軍が博多湾に大挙上陸したとき、個人戦レベルの恩賞しか念頭になかった武士たちは、緒戦から勝手がちだった。戦いをはじめる合図に鏑矢を射たところ、蒙古軍はドッと笑うだけ。ついて日本側の一人が進み出て一騎打ちを挑むや、待っていましたとばかり生け捕られてしまった。あとはめちゃくちゃである。蒙古軍の鳴らすバカでかいドラの音に、静かな戦いにしか慣れていない日本の馬は棹立ちになる。せいぜい百メートルしか飛ばぬ日本の弓にくらべ、敵はその倍以上も射程距離のある毒矢をしかけてくる。それでも日本軍は、なんとか夕刻までもちこたえたが、日没とともに四散し、すっかりあなどった蒙古軍は船に引き上げてしまった。

 さて、この日の朝にもどる。竹崎季長は一門とたがいに兜を交換し、これを目印に「見継ぐ」こととし、さらに幕府の出先機関である鎮西奉行武藤景資の陣屋へ赴き、これから先懸をするから、幕府に上申をしてくれ、と言いのこす。

 あとにつづく手勢は、わずかに五騎。当時彼は一門での本領争いに敗れ、従者にもこと欠くありさまだったらしい。蒙古襲来は、恩賞の土地にありつくチャンスだったが、五騎ではまともないくわはできないというので、早いのが取り柄の一発勝負に賭けたのである。

 蒙古軍の勢いを見ておそれをなした従者は、「御方(見方)は続き候らん。御待ち候て、証人を立てて御合戦候へ」といさめるが、ひたすら焦る季長は、「弓箭の道、先をもて賞とす。ただ懸けよ」とばかり突撃する。たちまち従者が倒れ、季長も馬を射られて進退きわまるところへ、味方が駈けつけて命びろいする。

 その夜、神風が吹いて蒙古軍は全滅したが、季長にとってはそんなことどうでもよかった。一にも二にも恩賞だった。さいわい彼の先懸は、大将武藤景資によって記帖されたが、その上級指揮官(守護人)の武藤経資は、鎌倉へ上申するのをすっかり忘れてしまった。

 そうとは知らず季長は、一年近くを不安のうちに過ごした。待てど暮らせど恩賞の沙汰はない。このまま貧乏武士として朽ち果てるのは我慢ならぬ。ついに意を決した彼は、周囲の反対を押しきって鎌倉に訴訟に出かける。馬を売って旅費をつくり、中間一人だけを伴い、トボトボ二ヶ月以上もかかって鎌倉につくが、尾羽うち枯らした田舎侍など、だれも相手にしてくれない。

 さらに二ヶ月近く必死に運動したおかげで、ようやく恩賞の安藤泰盛に目通りをゆるされた彼は、「君の見参に入らず候事、弓箭の面目を失い候」(将軍に功名がみとめられないのは、武士として面目が立たない)と訴える。泰盛としては恩賞を増やしたくなかったが、この素朴な武士の気魄にうたれて肥後国海東郡の土地を与えたうえ、自分の馬と具足まで贈ることになってしまった。

   猛々しい風は伊万里湾沖の蒙古船団を襲い、 帆柱をなぎ倒して裸船とし、さらに押し寄 波が船を粉砕し、海へ沈めた。

 

《切り絵:芹田騎郎》

 

皇室の御物となる

 七年後の弘安四年(一二八一)、蒙古軍が再び来襲してきたときも、前回ですっかり味をしめた秀長は、またまた、先懸けをねらった。今回は海賊だから、敵の船にとびこめばいいのだが、どうたわけか自分用の小舟が来ない。

 通りかかった守護代の船に乗ろうとして、引きおろされかかり、「君のお役に立つんだ。小舟をよこせば降りてやる」と高姿勢に出る。ところが、もらった小舟は足が遅く、とうてい先懸はおぼつかないと見るや、再び傍らを通りかかった武士の船に「こちらは守護の手の者だ」と偽って接近し、拝みたおして乗せてもらう。

 

とみん/「リーダー史塾」Vol.8 “蒙古襲来 〜一勝一負の日本人〜”より

 こんなありさまなので、従者もいないし、兜の用意もない。やむなく脛当をはずして兜のかわりにしようとすると、このようすを見て感動した船の持主が、部下の兜を脱がして貸してくれようとするが、季長は「喜び候へども、兜をきられ候はで、討たれ給候なば、季長ゆへに候と妻子の歎かれ候はむこと、身のいたみに候」と、ついに受け取らない。強引なだけの人物ではなかったことがわかる。

 結局、この戦いでも彼は一番駈けの高名を得る。――そして、十余年後、自分の名を永遠に記録すべく、画工に命じて、已上のいきさつを写実的な絵巻物に描かせたとされている。もうしそうならば、そのすこし前に幕府の内紛で死んだ恩人の泰盛や景資への追悼の意味もあったと思われる。

 この『蒙古襲来絵詞』は、『竹崎季長絵詞』ともいい、最初肥後の甲佐大明神に寄進されたが、季長の子孫が衰えてのちは転々と人手に渡った。まず、肥後宇土城の伯耆顕孝から、天草大矢野城主種基に譲られ、江戸時代に入って、文政年間に肥後藩主細川家の手に入り、明治二年に再び大矢野家に返されたが、同二十三年、皇室に献上された。

 六百年間、しかもこれだけ持ち主が変われば損傷が激しいのは当然で、一度海中に落ちて大魚の腹から出てきたという伝説さえある。江戸中期にはすでにバラバラになっていたと見え、本居宣長の門人たちによって再編されたが、江や詞の前後関係が狂ってしまった。絵は二十一枚で、二人ないし、四人の画家を季長みずから監督して描かせたものらしい。詞の部分は十六枚だが、破損していて読めない箇所もある。全体にサイズが統一されていないので、現在は補紙をあてがって一定の幅(三十九・七p)に仕立て直している。

 本来ならば、歴史に残らぬような平凡な人物。だが、彼は、なにしろ早いのと、粘り強さと、自己PRによって、その名を永久に日本史上に残したのだった。

 

《連関資料HP》

蒙古襲来絵詞と竹崎季長 九州大学附属図書館所蔵「蒙古襲来絵詞」(九大本)

九州中世史・蒙古襲来絵詞 蒙古襲来絵詞〜詞書・上  蒙古襲来絵詞〜詞書・下
宋・元と博多 蒙古襲来 蒙古襲来 蒙古襲来〜日本を襲った歴史上最大の危機〜
 
埼玉県立博物館の主な収蔵資料蒙古襲来絵詞』(模本)上卷中卷下卷
 
『蒙古襲来絵詞』を授業する〜鎌倉武士の願い〜  元寇失敗の背景
 
《参考資料》
『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』佐藤鉄太郎著 錦正社史学叢書
『北条時宗と蒙古襲来』村井章介
『荘園公領制の成立と内乱』工藤敬一 思文閣出版
『蒙古襲来絵詞』日本の絵巻13 中央公論社
 情報化の時代と書籍・文庫 五味 文彦
『蒙古襲来絵詞詞書本文並びに総索引』 田島毓堂編 〔B1 H613.1/77 禁帯出〕