2001.05.07〜2005.09.29入力
05、古譚の宝庫『日本霊異記』[37頁]。
古代⇒「応報即決主義」「描ける女に欲を生ず」「手すさびが国宝に」
応報即決主義
「親の因果が子に報い……」といえば、むかし場末の小屋で不具者を見世物にしていた大道香具師(やし)のセリフである。この種のあやしげなショ―は大正末期で姿を消したというが、私の少年時代である昭和戦前には、そのバリエーションともいうべきものがまだ残っていた。小頭児や白子など称するものを、ビン詰めにして観覧させるのである。「何の因果か、不幸な星のもとに生れた子供、云々(うんぬん)」というラベルが貼(は)ってあった。いかにもグロテスクなのだが、グロですんでしまうところを“因果”などというものだから、いっそう暗く湿っぽい恐怖感を煽(あお)られたものである。
因果というのは仏教のことばだが、何とも陰湿な感じがつきまとっている。というのも、人がもしその因果を背負っているとして何とか脱出しようと思っても、前生(ぜんしょう)における悪行の報いだと突っぱなされてしまえばどうしようもないからだ。本人は責任のとりようがない。貧乏に生れ、業病に苦しんでも、あるいは女にモテない顔に生れても、「何の因果か」とあきらめるほかはない。醜男(ぶおとこ)の嘆きなどはお愛嬌(きょう)ですむが、民衆の無気力や忍従の心を育んだとなれば問題で、このことは封建時代における仏教信仰の果たしたマイナス面として否定できないと思う。
ところが、同じ仏語でも“現報”という思想がある。このほうはさっぱりしている。現世に業をつくれば、この世で報いを受ける。つまり、自業自得というわけで、伝票がまわってくればさっさと決算をすませてしまうやり方だ。
こんな例がある。
――和泉(いずみ)の国の山寺に、吉祥天女の像があった。聖武天皇の御世に一人の優婆塞(うばそく=半僧半俗の行者)がやってきて、この寺に住み、天女の像を一目見て恋に陥り、朝晩「天女の如き容好き女を我に賜へ」と祈った。するとある夜、天女の像と婚(くなか)う夢を見たので、翌朝になって像をよく見ると、その腰衣に不浄のものが染みついて汚れていた。行者はつくづく恥じて「似たる女を願ひたるに、何ぞ忝ク天女専(もはら)自(みづか)ら交(まじは)りたまふ」とつぶやいたが、それを弟子に盗み聞きされてしまった。
のちにその弟子は、師の行者に無礼を働いたかどで寺を追われたが、腹いせに一件を村人にしゃべってしまった。村人がやってきて像を見ると、まさしく淫精が染みついているではないか。行者はついに隠しきれなくなり、すべてを告白してしまった。まことに、深く信心すれば、なにごとも神仏に通じぬことはない。たいへん珍しいことだが、涅槃経(ねはんぎょう)にいう「多淫の人は、畫(ゑが)ける女に欲を生ず」とはまさにこれをいうのだ(『日本霊異記』中巻)。《『古本説話集』類話譚》
描ける女に欲を生ず
吉祥天女は、行者の要求どおり自分によく似た人界の女を与えればよかったのである。それをみずから交わった。衆生に福徳を与える女神として、熱烈な信者の願いをむげに斥(しりぞ)けるわけにはいかない。それどころか、信ずる者が救われぬでは、仏の沽券(こけん)にかかわる。ここは「一番、わが身を提供するほかはない……。
いやはたしてそうだろうか。吉祥天女は行者の、男としての口説に迷い、よろめいたのではあるまいか。すくなくとも民衆はそのように解釈したにちがいない。信仰が性的な陶酔とわかちがたくなってしまう忘我の一瞬、仏も生身の女のように迷うて悩んで、ついに誘いに乗ってしまった。腰衣に淫精が染みついたのは、その罰である。現報である。人とともに悩み、奈落(ならく)に落ちた仏を見て、民衆は救われた思いをするのである。
仏の像がいまだあたらしい平安初期の民衆にとって、吉祥天女という理想化された女性像は、今日でいうピンナップの役割を果していたと思えなくもない。美しい、魅力のある女性像だからこそ信仰の対象となること、マリアの像に同じである。それが草深いなかの男たちに何を思わせたか、想像するまでもないような気がする。「畫(ゑが)ける女に欲を生ず」であろう。男たちはそのことによって悩み、恥じ、しかもそれが信心によって救われると聞き、ホッと安堵(あんど)の胸をなでおろしたのだろう。
このように人情の機微をついた世間話を百十余話集めたのが、『日本霊異記』(正しくは『日本国現報善悪霊異記』)である。九世紀前半の書物で、編者は景戒(きょうかい)という坊さんである。
日本の仏教が、そもそも官の保護と統制を受けて発展したことはよく知られているが、坊さんになるにも官許を要した。官許をはみ出した坊さん志願者は、勝手に頭をまるめて「私度僧」となった。景戒はこの私度僧であり、しかも妻子持ちであった。当然、生活はきびしい。肩書きのつく役人と個人営業者のちがいである。ぬくぬくと袈裟(けさ)にくるまり、貴族などを相手に念仏だけ唱えていれば食っていける人種ではない。善男善女のささやかなお布施だけが頼りである。それには同じ説教するにも民衆の現実感覚に密着せねばならない。
死んで極楽に行けるだの、来世は金持ちなれるだのといった説教は、平均寿命が五十歳以下で、四十過ぎればみな老人といった当時にあっては、それなりの効果があったろう。しかし、若者や働き盛りの信者はそうはいかない。来世ではなく、この現世で善悪の報いが得られる。それについてはこんな例があるんだよ――といった、切れば血の出るような具体性と話術をそなえることにより、はじめて「うん、なるほど」と納得させることができる。
手すさびが国宝に
景戒という僧の出身はよくわかっていない。たぶん紀州あたりの豪族の出だろうという。中年以後、なにを感じてか熱心な布教者となり、各地を遍歴するうちに自然と伝承や世間話が耳に入ってきた。こうしたネタを説教の折などに一つ一つ頭のなかからとりだして、聞き手を感心させていたのであろう。話題の広さ、語り口のうまさで、人気のあるタレントだったのかもしれない。聴衆が乗ってくると、脱線してこんな話もした。
<そなたたち、飛鳥の里に雷(いかずち)の岡(おか)というのがあるのを知っとるかの。あそこの由来はこういうことじゃ。泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に二十三年天の下を治めたまいし雄略天皇の随身に、小子部栖軽(ちいさこべのすがる)という者がおっての。ある日のことじゃった。大極殿へまいると、うっかりして天皇と后が寝て、婚(くなかい)したまえるところへ行きあわせてしもうた。天皇はてれて行為をやめられたのじゃが、ちょうどそのおり、うまいぐあいに雷が鳴りおったので、天皇は『あの雷を呼んでこい』と申されたのじゃ。栖軽は馬に乗って、どこまでも雷を追いかけ、とうとう落ちたやつを竹かごに押し込めて戻ったが、天皇がこわがりなされたので、もとのところへもどした。これを雷の岡というのじゃ>(『日本霊異記』上巻「雷を捉へし縁」「雷を捕まえた話」)
風流譚めかしたマクラで聴衆をひきつける。まことにたくらんだ語り口だ。景戒は晩年、奈良薬師寺の伝灯住位という地位を獲得した。当時の坊さんの五階級からいえば、ビリから数えて二番目という格だ。位は低いが、官許にはちがいない。生活も安定したであろう。しかし、二年後には息子に先立たれ、寂しい晩年を送った。そのつれづれの手すさびが『日本霊異記』である。
九世紀前半の書物であるから、もう原本(漢文)はのこっていない。最古の写本は、いま国宝として興福寺にのこっているもので、原本から約一世紀を経た平安初期、延喜四年(九〇四)の日付がある。ただし、上巻の十七枚分だけだ。巻子本で縦二八・八p、全長八九三・九p。巻末に「延喜四年五月十九日午時許書写已畢」と奥書があり、本文には豊富な訓釈がほどこされているのが特徴である。国宝指定は、昭和二十八年である。
日本では最も古い説話集だが、当時の坊さんたちには勤行の合間に娯しむ“話しの宝庫”だったのだろう。のちの『今昔物語集』の編者なども、この本を大いにタネ本として利用している。
景戒は、この本の序文に「後世の賢者よ、幸いにも笑うことなかれ。ねがわくば諸悪なすことなく、善を行なわんことを」と記した。後世よいったとき、彼はどのくらいの長さを見ていたのであろうか。現実感覚に富んだこの坊さんである。まさか、自分の書いた本が、一千年を生きて国宝になろうとは夢にも思わなかったにちがいない。
[補遺]仁寿年間(851?854)に慈覚大師円仁が中国の天台山を模して堂塔を建立し、天台声明の道場としたと伝える来迎院(天台宗)にも、『日本霊異記』中・下2帖(ともに国宝・平安)がある。《京都の寺社より》
翻刻『日本霊異記』 こども『日本霊異記』 『日本霊異記』より三話 論文 甦りか転生か 日本霊異記と紀伊国 奈良の昔話
『日本感霊録』(坂本龍門文庫蔵) 金剛般若集験記(こんごうはんにゃしゅうげんき) 金剛般若経開題残巻
[梗概]
日本霊異記 にほんりょういき 9世紀初めに成立した、わが国最古の仏教説話集。奈良薬師寺の僧景戒があらわした。正しくは「日本国現報善悪霊異記」。「霊異記」ともいう。3巻からなり5世紀後半の雄略天皇から9世紀初めの嵯峨天皇までの時期の説話116話を収録する。地域は上総(かずさ)、信濃など37カ国にわたるが、その3分の2は畿内に集中している。登場人物は200人以上にのぼり、貴族・僧から庶民にいたるまで幅広い階層にわたっている。
話材の多くは奈良末期から平安初期のもので、今昔の奇異をテーマに民衆教化の実例集となっている。法華経の功徳(くどく)や観音信仰による善報などをはじめ、善悪の因果応報の理(ことわり)を説く。収録作品の中には「冥報(みょうほう)記」や「金剛般若経集験記」などの中国の仏教説話の影響をうけたものも少なくない。平安末期に成立した「今昔物語集」には「日本霊異記」の変種と考えられる作品もあり、後世の仏教説話(→ 説話文学)に大きな影響をあたえた。